黄金の華の秘密

スワミ・アナンド・モンジュ訳 めるくまーる出版
 

第十話 結晶する黄金の華 

より抜粋
呂祖師は言った。
様々な種類の確証の体験がある。人は小さな要求に満足せず、 生命あるものをすべて救済せんとする高邁こうまいな決意をもたなければならない。 軽薄で無責任なこころに陥らず、みずからの言葉を行為によって 実証するよう努力しなければならない。

静けさのなかで、精神は途切れることなく大いなる喜びにあふれ、 酔ったような、湯を浴びたような感じがつつ゛く。 これは光の原理(陽)が全身を巡って調和しているしるしだ。 このとき黄金の華の蕾つぼみが芽生えはじめる。 さらにすべての窓が静まり、銀色に輝く月が中天にかかり、 この大地は明るい光に満ちた世界のように感じられてくる。 これはこころハートの本体が開き、澄んできたしるしである。 これは黄金の華が開いてゆくしるしである。

さらに、全身に力がみなぎり、嵐も霜も恐れなくなる。 人々が不快に感じるものごとに出会っても、 精神の種子の明るさが曇ることはない。 黄金で家を満たし、白い宝玉で階段をつくるようなものだ。 朽ち果て腐臭を放つこの世の事物も、 真のエネルギーの一息に触れると即座によみがえる。 赤い血はミルクに変わり、もろい肉体は純金やダイヤモンドに変わる。 これは黄金の華が結晶したしるしである。

光の輝きは次第に結晶化する。 こうして大いなる台座が出現し、やがてその上にブッダが現れてくる。 黄金の本性が現れるとき、それはブッダに他ならない。 ブッダとは大いなる悟りを得た黄金のように輝く聖者だからである。 これは大いなる確証の体験である。


寓話をひとつ……
ある日のこと、ヴィシュヌ神は遠い山の深い洞窟に座り、弟子と一緒に
瞑想していた。瞑想が完成したことにいたく感動した弟子は、ヴィシュヌ
の足もとにひれ伏し、感謝のしるしに何かの奉仕をさせて欲しいと言った。
ヴィシュヌは笑いながら首を振った。

「私が無償で与えたものに、行為で報いることほどむずかしいことはない」

弟子は「主よ、どうか何かのお役に立てさせてください」と言った。
「よかろう」とヴィシュヌは優しい声で言った。
「冷たくてうまい水が飲みたい」「すぐにもってまいります」
――弟子はそう言うと、嬉しそうに歌を歌いながら山を駆けおりていった。

やがて彼は美しい谷の端にある小さな家の前に来て、戸を叩き
「私たちはさすらいのサニヤシンで、この世に家をもたない者です」
すばらしい乙女が現れて、崇敬の念もあらわに彼を見つめた。
「まあ」と彼女はささやいた。「遠い山の頂きであの聖者にお仕えして
いらっしゃるのですね。どうぞ、なかにお入りになって、祝福を授けて
くださいな」「申し訳ありません」と彼は言った。「急いでいるのです。
水をもってただちに師のもとへ帰らなければならないのです」
「でも、祝福をしてくださっても、あのお方はお怒りになりませんわ。
あのお方は偉大な聖者なのですから、その弟子であるあなたは、私たち
のように幸運に恵まれない者たちを助けてくださらなければなりません
……どうかお願いです」と彼女はくり返した。「この貧しいわが家を
祝福してください。あなたをここにお迎えして、あなたを通して
主にお仕えできるなんて、本当に光栄ですわ」

さらに物語はつつ゛く。彼は態度をやわらげ、家のなかに入り、そのなか
にあったすべてのものを祝福した。やがて夕食の時間になったので、まだ帰らず
に、彼女が料理したものを食べて、それを祝福する(食べることが祝福になる)
ように勧められた。そして夜も更けてきたので、「山までの道は遠いし、暗闇で
足を滑らせ、水をこぼすかもしれません。今夜はここで寝て、朝早く旅立てば
いいではないですか」と勧められた。ところが朝になると、誰も乳搾りを手伝う
者がいなかったので雌牛が苦しみだし――雌牛はクリシュナ神の聖なる使いで
あり、苦しませてはならない――「一度でいいからあなたが手を貸して
くれるならとてもありがたいのですが」と頼まれた。

こうして日々が過ぎていったが、彼はまだとどまっていた。彼らは結婚し、
たくさんの子供をもうけた。彼は土地を耕して、すばらしい収穫をあげた。
さらに土地を買って穀物を栽培した。まもなく近隣の人々が助言や手助け
を求めて会いにくるようになった。彼は無償でそれを与えた。一家は繁栄した。
彼の努力で寺院が建てられ、学校や病院がジャングルを切り開いてつくられた。
谷はこの世の宝石になった。かつては荒野でしかなかった場所に調和が
みなぎっていた。その繁栄と平和の知らせが国中に広がるにつれ、人々は谷に
殺到した。そこには貧困も病気もなく、人々はみな働きながら神への讃歌を歌った。
彼は子供たちが大きくなり、孫たちができるのを見守っていた。
平穏無事な日々がつつ゛いていた。

ある日のこと、谷を見下ろす低い丘に立ちながら、老人はここにやって
来てから起こったすべてのことを思い起こした。見渡すかぎり農園が広がり、
村は豊かに繁栄していた。老人は満足した。

が、そのとき突然、山津波が押し寄せ、みるみるうちに村中を飲み込んでしまった。

あっという間に、すべてが消えてしまった。

妻も子供も農場も学校も近所の人々も――すべてが飲み込まれてしまった。

彼は茫然として、眼前でくり広げられる大災害を見つめていた。

見ると、師のヴィシュヌが激流の上に乗っていた。

ヴィシュヌは、彼を見ると悲しげな笑みを浮かべて言った。

「私の水はまだかね!」

これは人間の物語だ。
これは万人に起こっている。
私たちは完全に忘れ去っている――

なぜここにいるのか、
いったい何をしにやって来たのか、
何を学び、何を得、何を知るためなのか、
自分は誰であり、どこから来てどこへ行くのか、
私たちの源はどこにあるのか、生、肉体、現世
への旅を引き起こしたものは何なのか、そして今まで
に何を達成してきたのかを完全に忘れ去っている。

もし山津波がやって来れば――それは必ずやって来る。
それはつねにやって来ている、その名前は死だ――すべてが消えてしまう。

子供、家族、名前、名声、金、権力、地位……
一瞬のうちにすべてが消え去り、あなたは
たった独りで、完全に独りぼっちで取り残される。

あなたの業績はすべて山津波によってかき消されてしまう。
築きあげてきたものはすべて夢に他ならなかったことが明らかになる。
そしてあなたの手も、こころハートもからっぽだ。

が、あなたは神と顔を合わせなければならない、
<存在>と顔を合わせなければならない。

<存在>はあなたを待ちつつ゛けている。

最初に頼んだものをあなたがもち帰ってくる
ことを延々と待ちつつ゛けている。

だが、あなたは眠りこけていて、千とひとつの夢を見ている。
今まであなたがやってきたことはすべてみな夢に過ぎない。
なぜなら、死がやって来れば、すべて押し流されてしまうからだ。

実在するものは死によっても押し流されることがない。
実在リアリティは死を知らない。
実在は死ぬことがない。
実在は不死だ。
実在は永遠だ。

死にゆくものはすべて、死ぬこと
によって本物ではなかったことが、
幻想、マーヤ、夢――すてきな夢かも
しれないが夢でしかなかったことが判明する。

あなたは地獄の夢を見ているかもしれないし、天国の夢を見ているかもしれない。

どちらにしても大差はない。

目覚めた瞬間、あなたは自分が完全にからっぽ
であることに気つ゛くだろう――それは仏陀が知っている
肯定的な意味の空くうではなく、否定的な意味の空虚さだ。

自我エゴの消滅ではなく、
自我がなし遂げようと努めてきた
いっさいのものの消滅……
自我でいっぱいだけれど、
達成もなく、了解りょうげもなく、知識もない状態。

だが、
自我が知識を求めていないというわけではない。
自我は知識を求めている。
自我は膨大な知識をそなえ、情報を集めている。
自我は偉大な収集家だ。金を集め、情報を集め、ありとあらゆるものを集める。
自我は蓄えることを信奉している。
自我とは貪欲、まさに貪欲そのものに他ならない。
自我とは貪欲の別名だ。

それは所有したがる
が、あなたが手にしているものはすべて消えてゆく。

そしてあなたがやってきたことは、すべてみな夢のなかの仕業だった。

目覚めた瞬間、あなたは驚くだろう。

どれだけ多くの時間を無駄にしてきたことか、
どれだけ多くの生を夢見ながら過ごしてきたことか、
どれだけ多くの夢を生きてきたことか。

探求者であるというのは、
この夢から出てくること、
この夢見る状態の意識から出てくることをいう。

探求者であるということは、
目覚めようと努力することだ。
目覚めるとは覚者ブッダになることだ――
油断なく醒め、意識し、内なる光に満たされることで、
無意識がすべて消え、眠りがすべて消え、眠りの闇が内側から消え、
あなたは十全に目覚めている。
(p346)


こんなことがあった……

偉大な占星術師が仏陀の姿を目にした。彼はわが目を疑った。その身体、
身体を取り巻いているその黄金のオーラ、その美しい顔――湖のように静かで、
湖のように深く澄みきった、その水晶のような透明さ、その歩く優美な姿。
彼は仏陀の足もとにひれ伏して言った。

「私は占星術と手相を研究してきました。私は生涯をかけて人間のタイプを
研究してきました。ですが、あなたのような方にお会いするのははじめてです!
あなたはどのようなタイプに属しておられるのでしょう?あなたは地上に
降り立った神なのですか?ともてこの世に属する方のようには見えません。

あなたには重さが微塵みじんもありません。あなたは軽々としていて重さがない。
あなたはどのようにして地上を歩かれるのですか?
あなたは重力の作用を受けておられるようには見えません。
あなたは地上で何が起こっているかを見るために天国から降りて来られた神
なのですか?神の使者なのですか?預言者なのですか?あなたは誰なのです?」

すると仏陀は言った。「私は神ではない」占星術師は尋ねた。「では、インドの
神話に出てくるヤクシャなのですか?」――ヤクシャというのは神より一段低い
存在だ。仏陀は言った。「いいや、私はヤクシャでもない」「では、あなたは誰
なのです?あなたはどういう種類の人なのですか?あなたをどう分類すればいい
のでしょう?」仏陀は言った。「私は男でもなければ女でもない」

占星術師は途方に暮れてしまい、こう言った。「それはどういう意味ですか?
あなたは動物だとでも……動物の精、樹の精、山の精、川の精だとでも
おっしゃるのですか?」――インドの神話は汎神論的だから、それはあらゆる
種類の精霊を信じている。

「では、あなたは誰なのです?薔薇の精なのですか?あなたはとても美しく、
とても無垢に見えます」すると仏陀は言った。「いいや、私は動物でもなければ
、樹や山の精でもない」「では、あなたは誰なのですか?」占星術師は困り果てて
しまった。すると仏陀は言った。「私は醒めた意識に他ならない。あなたは私を
分類することができない。なぜなら、分類はどれも夢にしか当てはまらないからだ」

自分は男であるという夢を見ている者もいれば、
自分は女であるという夢を見ている者もいる。
そのようにして夢はどこまでもつつ゛いてゆく。
分類は夢の世界に属している。

目覚めると、人はその目覚め、
覚醒の本質そのものになっている。
人は目撃者、純粋な目撃者以外の
何ものでもない。雲はすっかり晴れている。
男や女、動物、神、樹といった"雲"――
どんな雲や形もひとつ残らず消え去っている。

人はまさに形のない醒めた意識、終わりもなく
果てもない広大無辺な澄んだ大空になっている。
この醒めた意識には雲がなく、ただ青空が広がっている。
これが肯定的な虚空であり、これがにゃはんニルヴァーナだ。

それから否定的な虚空がある。あなたは雲でいっぱいになっている――
すっかり雲に覆われて、かすかな青空ものぞめない。あなたは知識でいっぱいに
なっている――いっぱいになり過ぎて、瞑想のための空間が少しも残されていない。

何も知らないのに、知っているつもりでいる者――よく「パンディット」
とか「学者」と呼ばれている連中は愚か者だ。彼らを避けなさい。

何も知らず、自分が知らないということも知らない
のは、無垢な人であり、子供だ。彼を目覚めさせるがいい。

何も知らず、自分が知らないということを知っている
のは、覚者ブッダだ。彼に従いなさい。

「私は誰でもない」というこの自覚に到る
ことが、覚者ブッダになるということだ。
ブッダとはある人物の名前ではない。

ブッダとは 誰 で も な い 状 態 を表す名前だ。

ブッダは人物ではない。ブッダとはまさに空間、開け放たれた空間、
開放状態のことであり、その開放状態、開け放たれた大空を表す名前だ。

自分の想念マインドを見守りなさい。
どれほど多くの夢がつつ゛いていることか。
あなたは夜、夢を見るだけではなく、絶えず夢にひたっている。
昼間、目覚めているつもりでいるとき
ですら、夢が途切れることはない。

いつでも目を閉じてくつろぎさえすれば、
ただちにそこを漂っている夢が見えてくる。

夢はつねに底流のようにそこにある。
夢はけっしてあなたのもとを離れず、絶えずそこにあって、
あなたの実存に影響を与えつつ゛けている。

夢は意識にはのぼらない。

あなたはそれに気つ゛いていないかもしれない、
その存在さえ知らないかもしれない。
だが、夢は絶えずそこにある。

私に耳を傾けているときでさえ、
その映画、その夢のドラマはつつ゛いている。

私が言っていることが耳に入らないのはそのためだ。

それはまずあなたの夢を透過しなければならないために歪んでしまう。

あなたは語られてもいないことを聞く。

あなたの夢が歪ませ、操作し、投影を起こし、ものごとを変えてしまう。

私があることを言うと、あなたはまったく別のことを聞く。

そしてこれらの夢は内側で強い力を振るっているので、
あなたはその夢をどう扱えばいいのかわからない。

実のところ、夢にあまりにも深く同一化しているので、
自分がそれではないこと、見守ることができ、距離を保つこと
ができ、傍観者でいられることがわからなくなっている。
あなたは夢に同一化し過ぎている。

先日、私は気の毒なハビブのことを話した。彼はユング派の分析家であることに
こだわるあまり、何が起こっているのか見ることができずにいる、と。その話をした
のは、ほんの二日前のことだ。私は九時四十五分に話を切りあげたが、彼はわずか
十分後の九時五十五分に手紙を書いてきた。昨日はもっとひどかった。
私が話している最中に彼は手紙を書いていた!

私が彼のことを話しているあいだ、彼は十分も待つことができなかった。私が
「少し待ちなさい。そんなにあわてずもう少し我慢して、それに瞑想してごらん。
あなたはこういったことをこの場で理解することはできない。あなたは理解力、
明晰さ、識別力がある状態ではないからだ」と言っていたのはそのことだった。

だが、私の話の最中に、彼は手紙を書きはじめた。私が話しているさなかに
、彼は手紙を書いていた。さあ、そんな状態で何を書くことができるだろう?
私は語っていなかったのと、話してすらいなかったのと同じだ。

彼は自分自身の内なるつぶやきを聞いていたにちがいない。
そこから手掛かりを得ていたにちがいない。

彼は一言も理解することができなかった。
彼の夢はあまりにも強過ぎたのだろう。
彼は知識の重荷を背負っている。

私は「ユング派の自我エゴを落としなさい」と言っていたのに。

だが、何が起こったと思うかね?
ハビブは死んでしまった――彼はユング派の自我エゴを落とす
よりもサニヤスを捨ててしまった。彼の耳にはそう聞こえたのだ。

私が「ユング派の自我エゴを落としなさい!」と言ったとき、彼は別のことを聞いた。
彼の耳にはこのように聞こえた。「では、サニヤスは私には向いていない。私には
知識は落とせない。それは私がもっているすべてのものだ。それに、どうやって
落とせばいいのだろう?どうやって思考マインドを脇によければいいのだろう?
そんなことはできっこない!それなら、サニヤスを落とす方がましだ」と。

彼はサニヤスを落とした。もはやハビブは存在しない。
彼は夭逝してしまった。実のところ、彼は流産してしまった。

何が起こったのだろう?要点が見抜けなかったのだろうか?誰がその邪魔をした
というのだろう?彼の頭マインドは雑念だらけになっていたにちがいない。
本を読み、蓄積してきたいっさいのもの――彼はそれに執着し過ぎていた。

彼は探求し、探索するためにここにやって来た。
自我を手放す用意が微塵みじんもないのに、
それが探求と言えるだろうか?
それが探索と言えるだろうか?

人は往々にして、自我エゴに何かをつけ足すことができると、
自分は霊的な探求者であると思い込むことがある。
あなたがたの言う霊的な旅というのは、
巧妙な自我の幻想にすぎない。

人々は
自我をもっと満足させたい、
自我をもっと強くしたい、
自我にもっと活力を与えたい。

彼らは自我を聖なる霊光オーラで包みたい。が、聖なる霊光は
自我が消えてはじめて現れるのであり、この二つは共存できない。

人を覚醒させることのできる教えに巡り合うのはまれなことだ。
人を揺さぶり起こし、深々と根を下ろした長い長い夢から
引きずりだせる師マスターに巡り合うのはまれなことだ。

師との遭遇は希有な現象であり、
それを取り逃がしてしまうことはたやすい。

簡単に取り逃がすのは、
大鎚おおつ゛ちで叩きつぶしてもらえるよう
師の前に頭を差し出すことが、師とともにある
ための第一条件だからだ。

師とは大鎚だ。

人々は勘違いをして、師が「よし!君は偉大な霊的探求者だ」と言ってくれる状況
を探し求めている――彼らは師が自我エゴを支えてくれるものと思い込んでいる。

今は亡きハビブが望んでいたことはそれだ。彼は私にこう言って欲しかった――
「君は偉大な霊的探求者だ。君がしてきたことはまったく申し分なく、寺院の基礎は
完成している。君はほとんど用意ができており、ほんのわずかのものが加われば、
すべてが完成するだろう」と。彼が求めていたもはそれだ。

が、それはありえない。なぜなら、
まず最初に私はあなたを壊さなければならないからだ。
完全に壊れてはじめて、あなたは目覚めることができる。
が、壊れることは辛く、痛みに満ちている。

有名なユダヤ教神秘主義の諺ことわざがある――
神はやさしくない。神は叔父さんではない。神は地震だ!

師マスターもまたそうだ――
師は叔父さんではない。
師はやさしくない。
師は地震だ。

すべてを余すところなく賭ける覚悟のある者だけが、
自我エゴとして死ぬ用意のある者だけが、生まれることができる。

「あなたがたは肩にみずからの十字架を担がなければならない。
私について来たければ、肩にみずからの十字架を担がなければならない」
と言うとき、イエスが言おうとしているのはそのことだ。

カビールは言った。
「本当に私について来たければ、ただちに家を焼き払いなさい!」

彼の語る家とは何だろう?
人は再び広い大空のもと、星、太陽、月のもとに出られるように、
今まで暮らしてきた夢の家を焼き尽くさなければならない。

そうすれば
再び風や雨に打たれることができ、
再び大自然にハートを開くことができる――神とは
最も深く隠された大自然の中心に他ならないからだ。

神は知識というよりも、いわば無垢な状態に似ている。知識ではなく、
完全に無垢になることによってあなたは神を知る。

だが、それは自我エゴにはとてもむずかしい……
これらの言葉を聞くことでさえむずかしい。
自我はただちにそれを歪め、操作し、すり変え、色つ゛けし、
上塗りをし、みずからを壊すどころか、それを支えるものに仕立てあげる。

自分は死んだと思い込んでいた男の話があるが、これを見れば
自我がどのように働くかがよくわかる。

彼は精神科医に助けを求めに行った。精神科医は知っているテクニックをすべて
使ってみたが、役に立たなかった。最後に精神科医は患者の論理に訴えかけてみた。
「死人は血を流しますか?」と医者は尋ねた。「いいや、もちろん流さない」と
患者は答えた。「なるほどね」と医者は言った。「では、調べてみましょう」
医者が鋭い針を取り出して、患者の皮膚を刺すと、おびただしい血が流れはじめた。
「ごらんなさい!さあ、なんとおっしゃいますか?」と医者が尋ねた。
「おや、なんてことだ!」と患者は答えた。
「驚いたなあ!死人というのは血を流すものなんだ!」

自我エゴはこのように働く、頭マインドはこのように働く。
つまりものごとを証拠、裏つ゛け、餌に変えて使ってゆく。
自我は実に微細であり、実に巧妙な手段を取って、あなたに
「自分は正しい」と思い込ませることができる。

それはありとあらゆる策を弄して
「正しいのは私であり、私に逆らうものはすべて間違っている」
と思い込ませようとする。

覚えておきなさい。

自我が正しいことなど け っ し て ありえない!

そして、自我に逆らうものはすべて……そのチャンス
を逃さずに、自分の自我を壊すための機会に使いなさい。

自我を壊すことができるとき、それは
大いなる祝福の瞬間となる。

なぜなら、あなたがいないときに、神が存在し、
あ な た が い な い と き に、あ な た が 存 在 す る からだ。

これは生と<存在>における最大のパラドックスだ――
あなたがいないときに、はじめてあなたは存在する。

ヴィシュヌの気が進まなかったのはそのためだ。ヴィシュヌは弟子に言った。
「私が無償で与えたものに行為で報いることほどむずかしいことはない」

――なぜだろう?なぜそれが一番むずかしいのだろう?
師は弟子がまだ夢のなかにいることを、まだ自我
エゴのなかにいることを知っているからだ。

実のところ、「お返しをしなければいけない。これほどたくさんのことをして頂いた
のだから、あなたに何かをしてさしあげたい」という考えそのものが自我の思いだ。

弟子が自我を落としてしまったら、
誰が返礼するというのだろう?いったい誰が?
「ありがとう」と言う者さえいるだろうか?

誰もいない。完全な沈黙だけがある。

その完全な沈黙のなかで、師は顔をほころばせる。

弟子はこの完全な沈黙を通して感謝を表している。

ある男が仏陀のもとへ行った。彼は人類のために何かをしたかった。
彼は大金持ちだった。彼は仏陀に尋ねた。「人類のために私にできる
ことを教えてください。私にはたくさんの金があります。子供もなく、
妻は死に、独り身ですから、何でもすることができます」

仏陀はとても悲しげな目で男を見つめて沈黙していた。男は言った。
「なぜ黙っておられるのですか?なぜ話をしてくださらないのですか?
あなたはいつも慈悲について語っておられます。私には何でもする用意があります。
おっしゃってくだされば何でもします。大丈夫です――私には充分な金が
ありますから!どんな仕事でも与えてくださればやり遂げます」

仏陀は言った。
「あなたが言っていることはわかるが、私は悲しいのだ。
あなたはものごとを為すことができない。なぜなら、
あなたはまだ存在していないからだ。
何かを為すことができるようになる前に、人は
まず存在するようにならなければいけない。
問題はどれだけ金をもっているかではなく、
 あ な た 自身がいないことにある!」

慈悲心という質は実存の影なのだが、その実存が欠けている。

自我エゴはけっして慈悲心をもつことができない。

自我は非情だ。慈悲のゲームを演じているときでさえ、自我は非情だ。

自我が消えてしまうと……ときには
自我のない人がとても非情に見えることがある。
が、そうではない。彼は非情ではありえない。
彼のその非情さですら深い慈悲にちがいない。

禅師が弟子の頭を棒で打つのは非情ではない。
それはとほうもない慈悲だ。

禅師が弟子に飛びかかって殴るのは非情ではない。
なぜなら、ときおり師の一撃によって、一瞬のうちに、
稲妻が闇を切り裂くように弟子が光明を得ることがあるからだ。

仏陀は言った。「あなたには何もできない。
金があることは知っている。あなたのことは耳にしていた。だが、あなたを
のぞき込んだとき、私はひどく悲しくなった。あなたは何かをしたがっているが、
何かを為すことができる要素が欠けている。あなたは夢を見ることしかできない」

だからヴィシュヌは言う。
「私が無償で与えたものに行為で報いることほどむずかしいことはない」

ゲオルギー・グルジェフが弟子たちに言っていたのはそのことだ。
彼がP・D・ウスペンスキーに最初に言ったことはそれ、まさにそれだった。
ウスペンスキーは偉大な探求者、知識の探求者だった。はじめてグルジェフに
会いに行ったとき、彼はすでに世界的に有名な数学者、思想家だった。彼が書いた
最も優れた本『テルティウム・オルガヌム』はすでに出版されていた。

それは類まれな本だ――著者がまだ覚醒していなかったという意味でもまれだ。
こんなに美しい作品をどうして書くことができたのだろう?覚醒した人間にしか
わからないような誤りが二、三あるが、ふつうの人間ならまず気つ゛かない。
それはまるでブッダが書いたかのように、ほとんど完璧だ。

だが、ゲオルギー・グルジェフはその本に目を通すと、あちこちの
頁をぱらぱらとめくって、それを部屋の外へ投げ捨て、こう言った。

「まったくのたわごとだ!
君は何もわかっちゃいない!
そもそも君はいないのだ。
その君にどうして知ることができるだろう?
人はまず存在しなければならない。
そこではじめて人は知ることができるようになる」

ウスペンスキーは師マスターを探して東洋をくまなく旅した人物だった。
これは美しい物語であり、まるで寓話のようだ。

彼はインドを旅した。彼はセイロンやビルマへ行った。彼は僧院やヒマラヤの洞窟で
暮らしたことがある。ラマやスワミやたくさんのヒンドゥー教の神秘家に会ったが、
誰も彼を満足させることができなかった。なぜか?それは彼らが語ったことはみな
経典の焼き直しに過ぎず、ウスペンスキーがすでに学んでいたことだからだ。
彼ら自身の言葉はひとつもなかった。失意のうちに、彼は帰途についた。

彼はロシアに、かつて暮らしたペテルブルグにもどってきた。
ペテルブルグのある喫茶店で、彼はグルジェフに会った。その最初の
出会いのとき、師のまなざしを見て、ウスペンスキーは悟った。
「この男こそ私が捜していた人物だ。私はこの町にずっと暮らし、この喫茶店に
何年も通いつつ゛けてきたが、探し求めていた人がこの喫茶店に坐っている!
セイロン、ネパール、カシミールなど遥か遠くの場所で探しつつ゛けていたのに」

グルジェフは、まずウスペンスキーにこう言った。
「自分が存在しないかぎり、君はものごとを知ることができない。
自分が存在しないかぎり、君はものごとを為すことができない」

ところがパラドックスは、
自分が存在しなくなってはじめて、
「私」という言葉が通用しなくなってはじめて、
人は存在するようになるというところにある。
(p355)


これらの経文は、覚者ブッダの境地をつくりだすための鍵だ――
あなたは覚醒そのものであって、何者でもなく、
光に満ちてはいるが、完全にからっぽだ。

さあ、経文だ――
炉祖師は言った。
様々な種類の確証の体験がある。
確証の体験は、あなたが我が家に近つ゛きつつあるしるしだ。
人は確証の体験を理解し、それに気つ゛いていなければならない。
なぜなら、そこから勇気と希望が得られるからだ。

それは活力を与えてくれる。
あなたは探求が無駄ではないことを、
朝がすぐそこまで来ていることを感じるようになる。

まだ夜は暗いかもしれないが、最初の確証の
体験がこもれ日のように差し込みはじめている。
星が消えてゆき、東の空が赤く染まりつつある。
太陽はまだ昇っていないが、空はもう明るくなっている――

もうまもなく太陽が顔を出すにちがいない。
東の空が赤く染まれば、もうじき太陽が
地平線から顔をのぞかせる。

鳥たちは朝の到来を讃えている。
樹々はいきいきとし、眠りは消えてゆく。
人々が起きはじめた。これが確証の体験だ。

それとまったく同じように、霊的な道
においても、紛れもない確証の体験が起こる。
それはまだ目には見えない美しい庭園に向かって歩いてゆくと、
近つ゛けば近つ゛くほど、風が涼しくなってゆくのが感じられるようなものだ。

庭園から遠ざかってゆくと、涼しさも消えてゆく。
近つ゛いてゆくと、再び涼しくなってくる。
もっと近つ゛いてゆくと、風が涼しくなるだけでなく、
花の香りが、たくさんの花の香りが漂ってくる。
遠ざかってゆくと、香りも次第に消えてゆく。

近つ゛けば近つ゛くほど、梢で歌っている鳥たちの声が
聞こえてくる。樹は見えないけれど、鳥たちの声が聞こえてくる
・・・・・・遠くでカッコウが鳴いている・・・・・・
マンゴーの茂みがあるにちがいない。
あなたはどんどん近つ゛いてゆく。
これが確証の体験だ。

それとまったく同じことが内なる庭園――
内なる生命、喜び、沈黙、至福の源泉へと進んでゆくときに起こる。
中心に向かって進んでゆくと、いくつかのことが消え、
いくつかの新しいことが現れてくる。
人は小さな要求に満足せず、生命あるものをすべて救済せんとする 高邁こうまいな決意をもたなければならない。
そして、いいかね、確証の体験が現れ
はじめても、すぐに満足してしまってはいけない。
涼しい風が吹いてくると、あなたはそこに坐りこんで到着したと考える。

涼しさはすばらしい、涼しさは喜びに満ちている。
だが、あなたは先に進んでゆかなければならない。
小さなことで満足してはならない。

それらが起こりはじめたことを喜び、
それらを道標みちしるべと見なしなさい。
だが、そこはまだ目的地ではない。

それらを楽しみ、神に「ありがとう」と感謝して、
確証の体験がやって来る方向に進みつつ゛けるのだ。

小さな要求で満足してはならない。
例えば、安らぎは小さな要求だ。

それはたやすく達成することができる。
緊張のない心の状態はたやすく達成することができる。
それは大したことではない。

心安らかで心配や不安がない
というのは、それほど大したことではない。

では、偉大なこととは何だろう?
人は目標として何を胸に抱きつつ゛ければよいのだろう?
生命あるものをすべて救済せんとする 高邁こうまいな決意をもたなければならない。
これが判断の基準になっていることにあなたは
驚くだろうが、それはいつも判断の基準とされてきた。

仏教ではこれを「菩薩の誓願」と呼んでいる。
内なる中心に近つ゛けば近つ゛くほど、この世界に住む
生きとし生けるすべてのものの苦しみを感じるようになってゆく。

一方では深い穏やかさと静けさを感じ、
一方では苦悩するすべてのものたちへの
深い憐れみを感じはじめる。

苦しみに次ぐ苦しみ、そしてまた苦しみ。

どこもかしこも苦しみで満ちている。

一方では大いなる喜びが沸きあがってくるが、
一方では深い悲しみもまた湧いてくる。

何百万もの人々が苦しんでいるからだ――
それも何の理由もない馬鹿げた苦しみを味わっている。

あなたが味わっている至福を達成する
ことは、彼らの生得権でもある。

だから、もう自分は至福に満ちているから、
すべては終わったのだと満足してはならない。

あなたが至福に満ちるようになっても、
すべてが終わったわけではない。

今や旅は新たなる方向へと転じる。

覚者ブッダの境地を達成し、
わが家にたどり着いたら、いよいよ
真の仕事ワークがはじまる。

これまでは夢にすぎなかった。

今や、他の人々が夢から出てくる
のを助ける真の仕事がはじまる。

弟子が達成したら、彼は師にならなければならない。

キリスト教で「キリスト意識の誓い」と呼ばれているのはこれだ。
それを本当に理解しえたキリスト教徒はいない。彼らはそれを誤解してきた。
彼らはイエスだけがキリストであると考えている。

「キリスト」という言葉は「クリシュナ」から来ている。

それは誓いだ。
自分が救われたら、
あらゆるものを救わなければならない
というのがその誓いだ。

苦しみから救われることは無上の喜びだが、
他の者たちを苦しみから救ってゆくことと比較すれば何でもない。

自分が苦しみから救われることは、依然として
自己中心的であり、自己に焦点が合わせられている。
自己の何かが依然として残っている。

あなたは自分のことにしか関心がない。

自己が消え、あなたが救われたからといって、
どうしてその旅をやめることができるだろう?

さあ、今度は他の者たちを救わなければならない。

イエスが救済者と呼ばれるのはそのためだ。

だが、彼が唯一のキリストではない。
彼の前にもたくさんのキリストがいたし、
彼の後にもたくさんのキリストがいた。
これからもたくさんのキリストが現れるだろう。

覚者ブッダになる者はみな、必然的に
あらゆる者を救済しなければならなくなる。

人間の喜び、安らぎ、至福は小さなものだ。
そういうもので満足してはならない。

いつか分かち合わねばならないことを、
いつか他の人々が目覚める手助けをしなければ
ならなくなることを片時も忘れてはいけない。

この種子をあなたのこころハートの奥深くに植えつけなさい。

仏性が花開いたときも、あなたが世界から消えてしまわないように。

仏教には二つの言葉がある。

ひとつは「アルハト」だ。アルハトとは、光明は得たのだが、
すべてが終わり、為すべきことは完了したと考えている者をいう。
彼は消え失せてしまう。

もうひとつは「ボーディサットヴァ」と呼ばれる。
彼は光明を得たが、消えず去らずに、
懸命にこの世にとどまろうとする。

彼は滞在を引き延ばし、可能なかぎり
この世にとどまろうとする。

こんな話がある。仏陀がにゃはんニルヴァーナの扉に到達した。
すると扉が開き、天上の音楽が奏でられ、黄金の花が降り注ぎ、
花輪を手にした天人たちが彼を歓迎しようと待ち構えていた。

ところが、仏陀は入ることを拒み、扉に背を向けた。
天人たちは驚いて、目を疑った。彼らは何度も何度も彼に尋ねた。
「何をしておられるのです?あなたは今生だけではなく、何生
にもわたって こ の 扉 を探し求めてこられたのでしょう。
ようやくたどり着かれたのに、扉に背を向けられるとは?

私たちはあなたをお待ちしていました。
またひとり覚者ブッダが増えたと、天国は喜びで湧きかえっています。
どうかお入りください!一緒にあなたの
仏性の開花を祝おうではありませんか」

だが仏陀は言った。
「苦しんでいる者がひとり残らず救われないかぎり、
私はなかには入らない。私は待たなければならない。
私は最後に入るつもりだ。他の者たちを先に入れよう」

この美しい物語によると、仏陀は今も
なお扉の前で待ちつつ゛けているという。

扉は開いている。いつ仏陀が入りたいと言うか
わからないから、天人たちも扉を閉めるわけにはいかない。
彼にはなかにはいる権利があるので、扉は開いている。
仏陀のために扉は開け放しになっている。

こうして天上の音楽は流れつつ゛け、花は今も降り注ぎ、
天人たちは花輪を手にして待ちつつ゛け・・・・・・
そして仏陀は外に立っている。

彼は人々を勇気つ゛けている。
呼びかけ、挑み、奮い立たせている。
彼は人々に言っている。

「扉は開いている。
この機会を逃してはならない。なかに入りなさい!
私は最後に入ることになるだろう。もう扉は二度と閉まらない。
すべての人が救われ、光明を得ないかぎり、
扉が閉まることはない」

これは寓話にすぎないが、とほうもなく意義深い。
それを歴史的事実だと見なしてはならない。そんなことを
すれば要点を見逃してしまう。扉もなければ、天人もいないし
、花輪もなければ、天上の音楽もない。

そして仏陀は、光明を得た瞬間に消えてしまった。
その彼がどうして扉に背を向けたまま立っていられるだろう?
誰がそこに立っているというのだろう?
だが、その誓いは・・・・・・。

仏陀が<存在>のなかに解き放ったエネルギーは今もなお作用している。 真 に 
探し求めている者たちは、今でもそのエネルギーを手に入れることができる。
そのエネルギ−はどこまでも作用しつつ゛けてゆく、
永遠に作用しつつ゛けてゆく。

イエスはもはやいないが、そのキリスト意識は新しい位相に入っている。
マハーヴィーラはもはやいないが、その意識はこの生命の大海に入っている。

これらの人々は<存在>の一部となり、波動を放っている。
それがこの寓話の意味だ。

彼らは今もあなたを奮い立たせている。

そのメッセージを受け取る用意があるなら、彼らは今でも
あなたを向こうの岸辺に連れてゆこうとしている。

死を迎える瞬間、師マスターは無限のエネルギーの一部になる。

そのエネルギーには仏陀が加わっている。
マハーヴィーラが加わっている。
ツァラツストラが加わっている。
老子、イエス、マホメットが加わっている。

師が死を迎えるたびに、より多くのエネルギーが解放され、
それが大きな潮のうねりになってゆく。

じつに多くの人々が光明を得てきたので、
それはひとつらなりの潮流になってゆく。

あなたがたは幸運だ。

あなたの憧れが本物ならば、
あなたの願いが本物ならば、
この潮のうねりに運ばれて
向こうの岸辺に行くことができる。

それを胸の奥に刻んでおきなさい。

小さなものごとで満足してはいけない。

途上ではたくさんのことが起こるだろう。
 奇 蹟 の よ う な こ と が数多く起こるだろう。

だが、どれにも満足してはいけない。

いいかね、あなたは
キリスト意識、ボーディサットヴァ
にならなければいけない――それ以下の
ものではあなたを満足させることはできない。

これは聖なる不満足だ。
(p361)

軽薄で無責任なこころに陥らず、みずからの言葉を行為によって実証するよう 努力しなければならない。
探求者の生はつまらないことで占められてはならない。
些細なことをやりつつ゛けるたびに、時間、エネルギー、
生命いのちが無駄になってゆくからだ。

探求者は時を無駄にすることができない。
その生涯はひたすらある一点に向けられ、
捧げられねばならない。

彼はふらふらしてはいられない――
喫茶店に坐り込み、どうでもいいうわさ話に興じてなどいられない。
役にも立たないものを読んではいられない。

彼は旅の役に立たないことはいっさいしない。

あとで重荷になり、落とさなければ
ならなくなるようなものはいっさい集めない。

彼は質素シンプルなままでいる。

この質素さは禁欲主義とはいっさい関係がない。
この質素さはまったく科学的なものだ。

彼はもち歩かねばならないようながらくたを集めない。
彼は重荷を担がない。

そして知識以上のがらくたはない。
なぜなら、他のがらくたは外にあるが、知識は内側に入り込んでいるからだ。
知識のために、軽々としていなければならない頭が、ひどく重たくなる。

「だるま」と呼ばれる日本の人形を見たり、観察したことがあるだろうか?
ボーディダルマは日本では「だるま」と呼ばれている。その人形はみごとだ。
だるま人形――それは光明を得た人を表している。

みごとというのは、どんなに放り出されても、不思議なことに、
それは必ずもとの姿勢にもどってくる。立ち直ってくるからだ。
放り投げても、けっしてひっくり返らずに、再びもとの姿勢にもどってくる。
その人形は底が重くて頭が軽いので、けっして逆さにはならない。
それはつねに正しい姿勢で坐っている。

人間の場合はそれとまったく逆になっている。
人間は逆さになっている。頭がひじょうに重く、頭でっかちだ。
人間は逆立ちしている。知識でいっぱいになっている人は逆立ちをしている。
彼はいつもシルシュアーサナ、逆立ちのポーズを取りつつ゛けている。

頭のなかに知識がない人――
頭が空っぽで、静かな人は、正しい姿勢をしている。
彼は蓮華座で坐っている。彼は”だるま人形”だ。

彼をひっくり返すことはできない。
どんなに頑張ってみても、彼は必ずもどってくる。
彼をかき乱すことはできない。どんなに頑張っても、
彼の不動の境地は揺るがない。
軽薄で無責任なこころに陥らず……
責任とは何だろう?

ふつうこの言葉の意味は間違ったものと結びつけられている。

真の責任は神への責任に他ならない。

あるいは、真の責任は自分自身の本性への責任に他ならない。

あなたは社会や教会や国家に責任を負っているのではない。
あなたに家族や社会に対する責任はない。

あなたが責任を負わねばならないのはただひとつ、それは
あなたの本来の顔、あなたの本来の実存だ。

その責任を取ることで、他のすべての責任はおのずと果たされる。

自然になりなさい。
自然な人間は責任リスポンシビリティを取ることができる――
なぜなら、彼は感応リスポンスするからだ。

自然ではない人間はけっして感応しない。彼は単に反応リアクトするだけだ。

反応とは機械的であるという意味であり、
感応とは機械的ではなく、臨機応変に応答することをいう。

美しい花を見ると、あなたはふと「きれいだな」とつぶやく。
それが反応なのか感応なのか見守りなさい。
それを深くのぞき込み、詳しく調べてみなさい。

口にした「きれいな花だ」という言葉は、
この瞬間、今ここで、あなたの内側から
自然に湧き起こった感応だろうか?

それは生の体験なのか、それとも他人が「花はきれいだ」と言って
いるのを聞いたので、決まり文句をくり返しているだけなのだろうか?

それをよく調べ、観察してみるがいい。

誰があなたを通して話しているのだろう?

それは母親かもしれない……あなたは母親に連れられてはじめて庭に、
公園に行った日のことを思い出さないだろうか。彼女はあなたに
「この薔薇を御覧なさい。なんてきれいなんでしょう!」と言った。
そしてこれまで読んできた本、これまで見てきた映画、かつて話した人々
――それらすべてが「薔薇はきれいだ」と言っていた。

それがあなたのなかにプログラムして組み込まれてしまっている。

薔薇の花を見たとたんに「きれいだ」と言うのは、
あなたではなく、そのプログラムだ。
それはレコードにすぎない。
録音テープにすぎない。

外側の薔薇が引き金になって、ただテープが
くり返しているだけだ。それは反応だ。

感応とは何か?
感応とはその瞬間に起こる
プログラムされていない
生の体験だ。

あなたは花を見ている、
観念で目をふさがれることなく、
しっかり花を見ている。

あなたは こ の 花を、その現前げんぜんを見ている!

知識はすべて脇によけられている。

こころハートは感応し、頭マインドは反応する。

責任はこころハートから生まれる。

あなたは何も言わないかもしれない。
実際、「これはきれいだ」などと言う必要はない。

聞いた話だが……

老子はよく朝の散歩に出かけたものだった。
隣家の男がついて行きたいと言うと、老子は言った。
「だが、いいかね。ぺらぺらしゃべらないこと。
ついて来てもいいが、おしゃべりはごめんだ」

男は何度も口を開きたくなったが、老子の視線を感じて、なんとか言葉を押しとどめた
。だが、太陽が昇りはじめると、その日の出があまりにきれいなので、誘惑に逆らえ
なくなり、老子が言ったことをすっかり忘れてしまった。
彼は「なんて美しい朝だろう!」とつぶやいた。

すると老子は言った。「ほら、口数が多くなってきた。君はしゃべりすぎる!
君も私もここにいて、太陽があそこに昇ってきている――私に向かって
『きれいな朝日だ』などと言って何になる?
私には見えないというのかね?
私は盲目だとでもいうのかね?
そんなことを言って何になる?
私もここにいるんだから」

実のところ、「きれいな朝だ」とつぶやいた男はそこにはいなかった。
彼はくり返していたのであり、それは反応だった。

感応するときには、言葉が
まったく不用になることもあれば、ときには必要になることもある。
それは状況による。だが、必ずしも言葉がともなうとはかぎらない。
言葉がともなうこともあれば、ともなわないこともある。

感応はこころハートから生まれる。
感応は感情フィーリングであって、思考ではない。

あなたはわくわくする――薔薇の花を見ると、
何かがあなたの内側で踊りはじめ、あなたの実存の内奥の核で
何かがかき立てられる。
何かがあなたの内側で開きはじめる。

外側の花が内なる花に挑みかけ、
内なる花がそれに感応する。

これがこころハートの応答する力リスポンシビリティだ。

つまらないものにこころを奪われていなければ、
こころハートがこの内なるダンスを踊れるだけのエネルギー、
有り余るエネルギーを蓄えることができる。

エネルギーが
思考に消費されると、あなたの感情は飢えてしまう。
思考は寄生虫だ。
思考は、本来なら感情に用いられるはずのエネルギーを食べて生きている。
思考はエネルギーを搾取している。

思考はあなたの実存に起こる漏電のようなものだ。
思考はあなたのエネルギーを抜き取ってしまう。

そうなったら、あなたは穴だらけの壷のようになる――
何も溜めておけないので、あなたはいつまでたっても貧しいままだ。

思考がないと、
エネルギーが内部に蓄えられて、
そのレベルがどんどん高くなってゆく。
あなたは一種の飽和状態になる。その満たされた状態
において、こころハートが感応する。

そうなったら生は詩になる。
そうなったら生は音楽になる。

そこではじめて、そこでようやく、みずからの
言葉を行為によって実証するという奇蹟
を行なうことができるようになる。

そうなったら「君を愛しているよ」と言うだけでなく、
あなたの存在そのものが愛の証となる。

そうなったらあなたの言葉は無力なものではなく、
そのなかに魂を宿すようになる。

あなたの言葉と行動が一致するとき、
あなたの言葉と行動がちぐはぐにならないとき、
あなたの言葉が誠実さで満たされるとき、
あなたが自分の言った通りのものになるとき
――そのような生のみが生きるに値する。

それまでは、あなたは一種の分裂した状態で生きている。
口ではあることを言いながら、別のことをやってしまう。
あなたの精神は分裂したままだ。

言葉と行動がもはや分離せず、
同じ現象の二つの側面になる地点に到達しないかぎり、
人類はみな精神分裂症にかかっている。

あなたは感じる通りのことを言葉にし、
言葉通りのことを感じるようにならなければいけない。

言葉通りのことを行い、
行なう通りのことを言葉にするように。

そうなれば、あなたを観察するだけで、
あなたの実存がまがいものでないことが見えてくる。

静けさのなかで、精神は途切れることなく大いなる喜びにあふれ、 酔ったような、湯を浴びたような感じがつつ゛く。 これは光の原理(陽)が全身を巡って調和しているしるしだ。 このとき黄金の華の蕾つぼみが芽生えはじめる。
静けさのなかで
――すばらしい確認のしるしだ――
精神は途切れることなく大いなる喜びにあふれ……。
まったく何の理由もないのに、あなたは突然喜びに包まれる。

普段の生活では、喜びを感じるときには何らかの理由がある。美しい女性に会った
ので嬉しいとか、前から欲しかった金が手に入ったので嬉しいとか、きれいな庭の
ある家を買ったので嬉しいとか――だが、こういった喜びは長続きしない。
それはつかのまのものだ。それが途切れずつつ゛くということはない。

聞いた話だが……
ムラ・ナスルディンが、家の前で、ひどく悲しげな顔をして坐っていた。隣人が尋ねた
。「ムラ、どうしてそんなに悲しそうな顔をしているんだい?」するとムラは言った。
「というのもね、十五日前に叔父が死んで、五万ルピー残してくれたんだ」隣人は
言った。「それで悲しむなんておかしいよ。喜べばいいじゃないか」ムラは言った。
「とにかくまず話を最後まで聞けよ。七日前にまた別の叔父が死んで、七千ルピー
残してくれたんだ。でも、それっきりで、もう何も起こらないんだ……誰も死なないし
、何も起こらない。一週間が過ぎていって、僕は本当に悲しいよ」

何かによって引き起こされた喜びは消えてゆく。それはつかのま
のものであり、すぐにあなたは深い悲しみのなかに取り残される。
喜びはすべてあなたを深い悲しみのなかに残してゆく。

だが、確認のしるしとなる別の種類の喜びがある。
まったく何の理由もないのに、あなたは突然喜びに包まれる。
その理由をつきとめることはできない。誰かに「何を喜んでいるのです?」
と問われても、答えることができない。

私は自分がなぜ喜びに包まれている
のか答えることができない。理由はない。
ただ喜びに包まれているのだ。

さあ、こ の 種の喜びは乱されることがない。
何が起ころうと、それはつつ゛いてゆく。
それは昼も夜もそこにある。

あなたは若者かもしれない、年老いているかもしれない、
元気かもしれない、死を迎えつつあるかもしれない――
が、それはつねにそこにある。

周辺が変化しても持続する、不変の喜びを見いだしたら、
あなたは確実にブッダの境地に近つ゛いている。

これが確認のしるしだ。

来ては去るような喜びに大した価値はない。それは世俗的な現象だ。

喜びが持続するなら、途切れることなく持続するなら――
まるで陶酔したような、麻薬なしで酔いしれたような気分になるなら、
まるで風呂あがりのような、朝露のようにすがすがしく、春の若葉の
ようにさわやかで、池の蓮のようにみずみずしい気分になるなら、
まるで湯を浴びたばかりのような気分になるなら――

そのすがすがしい気分がどこまでも途切れずにつつ゛く
なら、あなたは紛れもなくわが家に近つ゛いている。
これは光の原理(陽)が全身を巡って調和しているしるしだ。
今や、
あなたの全身は調和のとれた統一体として働いている。
あなたの全身は調和がとれている。
あなたはもはや分裂していない。
あなたはもはや断片ではない。

これが個性化だ。

あなたはひとつの全体としてまとまり、
部分はすべて共振しながらともに働いている。
どの部分も実存というオーケストラの一員を演じている。
調和からはずれているものは何もない。

肉体、心、魂、最も低いものと最も高いもの、
セックスからサマーディまで……すべてがこのうえもない
調和のうちに、一糸乱れずまとまりながら働いている。
(p368)


このとき黄金の華の蕾つぼみが芽生えはじめる。 さらにすべての窓が静まり、銀色に輝く月が中天にかかり、 この大地は明るい光に満ちた世界のように感じられてくる。 これはこころハートの本体が開き、澄んできたしるしである。 これは黄金の華が開いてゆくしるしである。
さらに頭脳マインドだけではなく、すべての窓、
すべての感覚が静まると……
頭脳は内なる感覚器官だ。
まずそれを静めなければならない。
さらに頭脳に餌を与える五感、目や
耳や鼻などすべての感覚器官がある。

それらは外界から絶えず情報を送り込み、
それを内側に、頭脳に蓄えつつ゛けてゆく。
その感覚器官も静まり、何も持ち込まず、
物音ひとつ立てず、受動的になっているとき……

目は眺めているが、何も持ち込もうとしない。
耳は聞いているが、聞こえるものに執着しようとしない。
舌は味わっているが、味をむさぼろうとしない。
あなたの感覚はすべて静まり、銀色の月が中天にかかっている……

銀色の月とは女性原理の象徴だ。
銀色の月が中天にかかり、すべての感覚が鳴り
を潜め、頭脳が受動的になり、静まるとき、あなたは
受け身で待つという女性原理を達成している。
あなたは子宮になっている。

満月の夜だ。
すべてが涼しく、
静かで、ひそやかだ。
何も身動きしない。
その喜びは果てしない!
この大地は明るい光に満ちた世界のように感じられてくる。
それは内側だけで感じられるものではない。
それが内側にあるときには、ただちに外側にも感じられる
ようになる――全世界が明るい光に満ちている。
これはこころハートの本体が開き、澄んできたしるしである。
あなたは透きとおり、澄みわたり、
清らかになり、知覚力が冴えてゆく。
女性原理は受動的な原理なので清澄さをもたらす。
それは休息を、完全な休息をもたらす。

あなたは何もせずにただそこにいる。
すべてが冴えわたり、一片の雲もない。
あなたは実在をどこまでも見通すことができる。
内側にも静謐せいひつさと喜びがあり、
外側にも静謐さと喜びがある。
これは黄金の華が開いてゆくしるしである。
最初は蕾つぼみがふくらみかけただけだったが、
今や花が開きつつある。さらなる一歩が踏み出された。
さらに、全身に力がみなぎり、嵐も霜も恐れなくなる。
沈黙と喜びが深まってゆくにつれ、あなたは
みずからの死が存在しないことを感じはじめる。
死に際し、死んでゆくのはペルソナ、人格だけであり、
本質はけっして死ぬことがない。

みずからの内に宿るもの、けっして変わらぬもの――
どんな状況のもとにあってもつつ゛いてゆく喜び――
を知るとき、はじめてあなたはみずからの内に不死
なるものがあることを、永遠なるものがあることを知る。

その瞬間、力がみなぎり、底力が湧きあがり、恐怖が消える。

そうなったら人は恐れない。
そうなったら震えはとまる。

あなたははじめて恐怖をもたずに実在をのぞき込んでいる。

そうでないかぎり、世に言ういわゆる神々は恐怖の産物にすぎない。
人はみずからを慰めるために神々をつくりだした。
人は恐怖から身を守る後ろ盾として、防御として、
鎧よろいとして神々をつくりだした。

あなたは恐れている。
あなたには誰かすがりつく相手が必要だ。
それらは偽りの神々だ。
それらは本当の神々ではない。
恐怖に駆られながら、どうして真の神を見いだすことができるだろう?

いわゆる宗教家たちは神を恐れ敬う人々として知られている。
真の宗教家には恐怖がない――彼は世間も神も恐れない。
恐れのない境地のなかで、まったく異なる神のヴィジョンが生まれてくる。
(p370)

人々が不快に感じるものごとに出会っても、精神の種子の明るさが曇ることはない。
もう曇ることはない。あなたの精神を打ちひしいだり、
澄んだ意識を歪めることのできるものは何もない。
あなたの洞察力は損なわれない。

誰かに侮辱されても、傷にはならない。
誰かが腹を立てていても、彼の底の底まで見抜くことができる。
あなたは怒っている相手をこころから憐れむことができる。
彼はその必要がないのに燃えあがっているからだ。

あなたはみずからの至福、安らぎ、愛を彼に注ぎかける。
彼は愚か者であり、ありったけの慈愛を必要としている。



黄金で家を満たし、白い宝玉で階段をつくるようなものだ。 朽ち果て腐臭を放つこの世の事物も、 真のエネルギーの一息に触れると即座によみがえる。
白い宝玉の階段と、月光で満たされた空と、黄金で満たされた家――
これらを内に携えている人に出会うことができたら、このような人
に接することができたら、死人ですら、即座によみがえる。

ラザロの物語が意味するものはそれだ――
ラザロに墓から出てくるよう呼びかけるイエス。
ブッダたちはみな、人々に墓から出てくるよう呼びかけてきた。
私はあなたに墓から出てくるよう呼びかけている。

あなたが生きてきた道は真実の道ではないからだ。
あなたはつまらないことに興味を示し、本質的なことを忘れてしまっている。
浜辺で貝殻やきれいな石を集めているだけで、すぐそばにある
ダイヤモンドのことなどすっかり忘れてしまっている。
あなたは死が奪い去ってゆくがらくたを集めている。

私は死によっても奪われることのない
宝物を手に入れるよう呼びかけている。

ラザロよ!墓から出てきなさい!

そして、
聴く者は弟子になる。
聴く者はサニヤシンになる。
聴く者は内なる世界へと動きはじめる。

彼の旅は他の人々の旅とはまったく違うものになる。
彼は世間で暮らしているかもしれないが、もはやそこにはいない。
彼の関心はまったく別のところにある。
赤い血はミルクに変わり……
マハーヴィーラの有名な寓話が伝えようとしているのはこのことだ。
それによると、蛇が、とても危険な蛇がマハーヴィーラに襲いかかり、
彼の足を噛んだが、血の代わりにミルクが流れ出たという。

ところがジャイナ教徒たちはそれを文字通りに解釈し、
物笑いの種になっている。それは文字通りに解釈すべきものではない。
それは寓話だ。赤い血は暴力を表し、ミルクは愛を表している。

子供が生まれると、母親の乳房はすぐにミルクでいっぱい
になる――生まれたばかりの子供への愛と思いやりから。
突然、彼女の血はミルクに変わりはじめる。

みるみるうちに母親の生化学のなかで奇蹟が起こりはじめる。
今まで彼女は女にすぎなかったが、今では母親になっている。
子供の誕生とともに、二人の人間が生まれる――
一方には子供が、そしてもう一方には母親が。

母親の生化学はふつうの女性とは違っている。
奇蹟が起こっている。

愛ゆえに、血はミルクに変わりはじめる。
それは象徴的だ。血は暴力であり、ミルクは愛だ。

人がこの境地に達すると、暴力はすべて影を潜める。
彼は愛そのものであり、愛より他の何ものでもない。
もろい肉体は純金やダイヤモンドに変わる。
そして見える者たち、見る目をそなえた者たちは、
ブッダの身体のなかに、もろい肉体ではなく
純金やダイヤモンドを見ることができる。

弟子たちが話すことを他の人々が信じないのはそのためだ。
他の人々は、弟子たちは催眠術にかけられていると考える。

なぜなら、弟子たちは他人には見えないものを、
身近な弟子たちにしか感知できないものを見はじめるからだ。
彼らはふつうの肉体のなかに別のものを、他の身体、黄金や
ダイヤモンドでできた身体、永遠の身体を見はじめる。

この肉の身体は時間の身体だ。
その背後には永遠の身体が隠されている……
だが、それを見るには目をもたなければならない……
そして愛と明け渡しだけが、あなたに目を授けることができる。
これは黄金の華が結晶したしるしである。
だが、この内なる旅に入ってゆくと、人はみずからの身体を
黄金やダイヤモンドとして見ることができるようになる。
そうなったら、黄金の華が結晶したと確信してもいい。

最初、それはふくらんでゆく蕾つぼみにすぎなかったが、
しだいに花が開いてゆき、今や結晶している。
光の輝きは次第に結晶化する。 こうして大いなる台座が出現し、 やがてその上にブッダが現れてくる。
今やブッダはそれほど遠くないことを、
夜明けが近つ゛いてきていることを、
夜が明けつつあることを確信することができる。

光の輝きが結晶化するにつれ、台座が現れ……
この黄金やダイヤモンドのヴィジョン、永遠の身体の
ヴィジョンという台座の上に……やがてブッダが現れてくる。

この地点を過ぎれば、為しうることは何もない。
黄金の華が結晶化し、蓮華が結晶化してしまう
この地点を過ぎると、為しうることは何もない。

後はただ待たなければならない。
何もせず、静かに坐っていると、春が来て、
草はひとりでに生えてくる。

やがて
――春が訪れると――
その上にブッダが現れる。 黄金の本性が現れるとき、それはブッダに他ならない。
東洋人はそれを「ブッダ」と呼び、
西洋人はそれを「キリスト」と呼んできた
――それは同じ本質を指している。
ブッダとは大いなる悟りを得た黄金のように輝く聖者だからである。 これは大いなる確証の体験である。
みずからの内側に光輝く台座、結晶化した光が見え、
その台座の上にブッダが現れたら――黄金の華が開き、
花を咲かせ、その黄金の蓮の上にブッダが現れてきたら、
あなたはわが家に帰り着いている。

これが究極のゴールだ。
これを見いださなければならない。
これを見いだすことはできる。
これはあなたが生まれながらにしてもっている権利だ。

取り逃がすとしたら、誰のせいでもない、
その責任はひとえにあなたにある。

 す べ て を賭けなさい。

 だが、逃してはならない!

 す べ て を犠牲にするがいい。

 だが、逃してはならない!
(p374)




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