黄金の華の秘密

スワミ・アナンド・モンジュ訳 めるくまーる出版
 

第十二話 六月に白い雪が舞う

呂祖師は言った。
四つの詩句は、気(エネルギー)の空間に精神を結晶させる。
六月に、突然、白い雪が舞う。
三更(午前零時)に、日輪がまばゆい光を放つ。
水中にそよ風が吹く。
天上をさすらいながら、受容の精神の力を食べる。
そして、さらに深い秘法のなかの秘法がある――
どこにもない国こそ、真のわが家である。

これらの詩句は神秘に満ちている。 それが意味するのは、深遠なるタオにおいて最も重要なのは 「無為の為」という語句である、ということだ。 無 為 は人が形象(物質性)に巻き込まれるのを防いでくれる。 無 為 に して 為 す ことで、人は鈍くうつろな状態や 生気のない虚無に沈み込むことから逃れることができる。

これまで光を巡らすことについて語ってきたのは、 外側から内なるものに働きかける、 最初の悟りの手がかりを示すためだ。 これは師を得るのを助けるためのものであり、 初歩の境地にある学人たちに向けられたものだ。 彼らは上方の関門に達するために、下方の二つの関門を通り抜ける。 ものごとが次第に明らかになり、悟りの機縁がうかがわれると、 天は道を明らかにすることを惜しまず、究極の真理を明かしてくれる。 弟子たちよ、これを秘密にし、努力を怠らぬようにせよ。

光を巡らすとは一般的な用語である。 修行が進むごとに、黄金の華はよりいっそう大きく開いてゆく。 だが、それよりもまだすばらしい循環がある。 これまで我々は内側にあるものに外側から働きかけてきたが、 今や中心にとどまって永遠なるものを支配する。 これまでは師を助けるための奉仕だったが、 今や師の指令を広めるのである。 こうして関係はすっかり逆転する。

この技法によってさらに精妙な領域に入って行きたければ、 まず身心を完全に統御し、完全に自由で安らかな状態に入り、 いっさいのしがらみを放下し、どんな些細なことにも心をとめず、 天上のこころを正しく中心に置くよう心がけなければならない。 巡る光が内なるものを照らしだすと、ものに左右されなくなり、 暗いエネルギーの動きは封じられ、黄金の華が集中的に照らすようになる。 これが凝縮した極の光である。同類のものは互いに引き合う。 したがって、極性を帯びた深淵の光は上昇する。 それはもはや深淵の光であるだけではなく、 創造的な光が創造的な光に出会うことだ。

この二つの実体が出会うと、それらは固く結ばれて離れなくなり、 尽きることのない生命が発現する。それはおのずと根元の気(エネルギー)の宮の なかを去来し、浮き沈みをくり返す。人は光輝く無限なるものを目のあたりにする。 全身が軽やかになり、今にも飛びそうになる。 「雲が千の山々にかかる」と呼ばれる状態である。

それはあちこちを軽やかに去来し、覚知しえぬほど静かに浮沈する。 脈拍は穏やかになり、呼吸は止まる。これが真の創造的な交合の瞬間であり、 「月が無数の水面を吸引する」と呼ばれる状態である。

この暗黒の只なかに、突然、天上のこころが動きはじめる。 これが一陽来復であり、新しい生命が兆すときである。
ある王に三人の息子があった。息子たちのうち誰が将来王国を治めるにふさわしいか、
適正を調べたいと思った王は、風変わりなテストを思いついた。王は息子たちに弓と
矢をもってついてくるよう命じると、馬に乗って田舎に出かけていった。広々とした
畑のそばの道端で馬を止めた王は、すぐに射落とせるほど近くの樹の枝にとまっている
禿鷹を指さした。

「おまえにあの禿鷹を射落としてもらいたい」と王は長男に向かって
言った。「だがその前に、何がおまえの目にとまるか言ってごらん」
王子は怪訝な顔をして答えた。「えーっと、見えるのは草や雲や空や川や樹や……」
「もうよい!」と王は言い、次男に弓矢を構えるよう合図した。
まさに矢が放たれようとしたそのとき、王は再び言った。
「その前に、何がおまえの目にとまるか言ってごらん」

「私には馬、大地、麦畑、それに禿鷹がとまっている朽ち果てた老木が見えます」
と次男は答えた。「もういい、弓矢を納めなさい」と言って、三男の方を向き、
禿鷹を射るように命じたが、再び同じ質問をくり返した。
「まずおまえには何が見えるかね?」三男は矢をつがえ、弓をぴんと引きしぼると、
獲物から一瞬も目を離さずに、落ち着いた口調で答えた。
「見えるのは翼のつけ根だけです……」若者はそう言って矢を放った。
禿鷹は地面にころがり落ちた。この三番目の息子が王になった。

王国は集中力をもって働きかけることのできる者が治めるものだが、
内なる王国となればなおさらのことだ。

方向、目標、明晰なヴィジョンをもって生きて
ゆくことで、あなたのエネルギーは結晶化する。
目標というのはたんなる口実にすぎない。
方向というのはたんなる方便にすぎない。

ふつうあなたの注意力はばらばらに四散していて、ある部分はこちらへ行こう
とし、別の部分はあちらへ行こうとしている。ふつうあなたは複数であり、
群集であり、あなたの存在の断片が絶えず他の断片とせめぎ合っている。

そのあなたが
どうしてこの世で何かを達成しうるだろう?
どうして充実感を味わうことができるだろう?
あなたの生涯がとことん惨めなものになり、その一生が悲劇に
他ならないものになってしまったとしても、驚くべきことではない。

あなた以外の誰にも責任はない。

あなたには無尽蔵のエネルギーがあるが、
そのエネルギーでさえ無駄に費やされることがある。
あなたの断片のひとつひとつが一種の内戦状態にあれば、
価値あることは何ひとつ成し遂げられない――
神に関しては言うまでもないし、真理に関しては言うまでもない。

あなたは価値あることを 何 ひ と つ 成し遂げられないだろう。

なぜなら、内側のものであれ外側のものであれ、何かを
実現するためには必ずひとつのことが求められるからだ。

つまり、あなたはひとつになっていなければならない――
あなたのエネルギーが余さずワークに注ぎ込まれ、
あなたの全エネルギーがひとつの問いと化すことができるように。

あなたはたくさんの問いを抱えているが、そのすべての問いが一丸となり、
あなたの内にただひとつの問いを生み出さないかぎり、それは役に立たない。

あなたの生がひとつの問いと化し、ひとつの
方向をもてば、それは成就に向けて動きはじめる。

そうなればそれは結晶化する。結晶化とは、
あなたがゆっくりとひとつにまとまってゆくこと、
あなたの内側にすこしずつ<個>が現れてくることを意味している。

そして真理の究極の実現とは、あなたの
実存のなかに究極の統合が実現されることだ。

「神」という言葉はそれを指している。
天国のどこかであなたを待っている神などいない。
神はあなたの内側で待っているが、あなたがひとつ
であってはじめて彼を見いだすことができる。

一なるものだけが一なるものを見いだせるからだ。

偉大な神秘家プロティノスの有名な言葉を思い出しなさい
――"一者から一者への飛翔"

まずあなたは独りにならなければいけない。

昨日、私がアムリットに言っていたのはそのことだ。
独りになりなさい、と。独りアローンとは、
すべてがひとつオール・ワンになることだ。

散逸がいっさいなくなるので、
この独りあること、あるいはすべてがひとつの状態、
この内なる統合は無尽の力を解き放つ。
あなたは漏れなくなる。

凡人というのはあちこちに穴が開き、至るところから漏れている素焼きの瓶かめ
のようなものだ。いくら水を入れても入れても、どんどんからになってゆく。
いくら努力をしても か い がない。まず穴をふさがなければならない。

人生は ひ と つ になるための大いなる機会なのだととらえなさい。

いったんひとつの方向に進みはじめたら、
あなたは自分をひとつにまとめることができる。
あなたのなかで何かが落ち着きはじめる。
中心が生まれ、その中心が神への扉となる。

これらの経文にはこのうえもない価値がある。
それはまたひじょうに神秘的でもある。

というのも、真理を分かち合いはじめるときには、
詩や寓話や神秘の言語を用いなければならないからだ。
そうするより他にない。数学の言語は適切ではない。
人は譬たとえを多く用いなければならない。



経文に入ってゆくまえに、この小さな話に耳を傾けなさい。

偉大な禅師である南泉はひじょうに歳老いていたが、
法を継ぐ者が現れるのを待ちつつ゛けていた。実際、彼には
いつでも肉体を離れる用意ができていたが、彼が得たものをすべて伝え、
鍵をわたせるように、ただひたすら法を継ぐ者が現れるのを待ちつつ゛けていた。

彼にはたくさんの弟子たちがいたから、それはとても奇妙に思える。
彼には何千人もの弟子がいた。なぜ彼は何千人もの弟子たち
のひとりに鍵をわたすことができなかったのだろう?

彼のまわりにはすぐれた学者たちがいた――きわめて技量があり、
論理を巧みに使いこなし、弁舌に優れ、知識が豊かな学者たちが。

だが、彼は待たなければならなかった。

これらの人々は論理は理解できたが、
愛を理解することはできなかった。そして、
愛はまったく異なる言語を話す。

これらの人々は数学を理解することはできたが、
隠喩メタファーの言葉はまるで理解することができなかった。
これらの人々は散文を理解することにかけては申し分なかったが、
詩の神秘にこころを開くことができなかった。

だから彼は待たねばならなかった。

彼は病んだ老躯ろうくを私室のベッドに横たえ、
古びた肉体にかろうじてとどまっているという状態だった。

法を継ぐ趙州じょうしゅうが部屋に入ってくるのを
南泉がはじめて目にしたのはその日のことだった。

彼はさっそうと現れ……言葉はひとことも発せられなかった。
師もしゃべらなければ、のちに弟子となる趙州もしゃべらない。
彼はよそものだったが、その部屋に入るときの仕草だけで充分だった。

師は彼に尋ねた。「おまえはどこから来たのか?」

師はもう何日も口を開いていなかった。高齢の師の病は重かった。
彼はひたすら気力を蓄えておくために、話すことさえしなかった。
何日も過ぎて、彼が趙州に話しかけた最初の言葉が
「おまえはどこから来たのか?」だった。

趙州は言った。「瑞像ずいぞう院から参りました」。
瑞像とは"至福の姿"という意味だ。

南泉は笑いながら――彼はもう何か月も笑ったことがなかった――尋ねた。
「おまえは至福の姿を見たことがあるかね?」

趙州は言った。
「至福の姿は見たことがありませんが、
横たわる仏は拝見したことがあります」

ここで南泉は立ちあがった――彼はこの一年近く、
床から出たことがなかった。そこで南泉は立ちあがり、尋ねた。
「おまえにはすでに師があるかね?」

趙州は答えた「ええ、ございます」

南泉は尋ねた。「おまえの師匠は誰だ?」
病気がすっかり消え失せてしまい、再び若返ったかのようだった。
彼の声ははっきりとして、若々しく、溌剌として、生気に満ちていた。
「おまえの師匠は誰だね?」

趙州は笑いながら言った。
「冬の寒さも峠を越えましたが、まだ寒い日がつつ゛きます。
どうか師よ、お身体を大切になさってください」

まさに絶妙の表現だった。

南泉は言った。
「これで私も安らかに死んでゆける。
私の言葉が通じる者がやってきた。
表面ではなく深みで出会うことのできる者がやってきた」

趙州は言った。「師よ、お身体を大切になさってください」
ただそう言っただけで、師弟の絆が結ばれた。

そして趙州が
「冬の寒さも峠を越えましたが、まだ寒い日がつつ゛きます。
どうか師よ、お身体を大切になさってください」と言うとき、
彼はどのように譬たとえを使えばいいかを知っている。

彼は詩というものを知っている。そして
彼は愛というものを知っている。だから
彼は言った。「どうか師よ、お身体を大切になさってください。
どうか横になってください。床から飛び起きる必要はありません。
 あ な た が私の師です!
私はまだ至福に出会ったことはありませんが、仏を拝見しました」

師は弟子を認め、弟子は師を認めた
――ほんの一瞬のあいだに。
何が起こったのだろう?

起こったことは言葉を超えているが、
それでもそのことを、少なくともそのことを
言葉で語らなければならない。少なくともこの物語を
言葉で伝えなければならない。他に方法はない。



これらの呂祖師の言葉はひじょうに神秘的だ。
深い愛に満ち、共感できるこころハートをもって
理解しようとしてみなさい。

聴き方には二つある。

ひとつは内側で絶えずあら探しをして、とやかく口をはさみ、ものの善し悪しを決め、
それが自分に合致するかどうか、自分の知識に適合するかどうかを判定している
批評家の聞き方だ。批評家は絶えずものを比べて、品定めをしている。
それはこれらの美しい経文を理解するにふさわしい態度ではない。
これらの経文は批評の好きな人の手にはおえない。

これらは共鳴できる力をそなえている人、あるいは、さらに言うなら
感情を分かち合うことができる人、
波長を合わせることができる人、
こころを開き、全一に耳を傾けることができる人
にのみ開かれている。

そうすれば肉体の心臓ハート
だけでなく、深いところに隠されている
霊的なこころハートまでもが揺り動かされる。

呂祖師は言った。
四つの詩句は、気(エネルギー)の空間に精神を結晶させる。
あなたにはエネルギーがある、
あなたは必要とするすべてのものをもち合わせている。それなのに
あなたは貧しく、いまだに乞食のままだ。
あなたは自分のエネルギーを使ったことがない、自分の財宝をまだ開けてみたことがない。
あなたは神から授けられたものに目を向けたことすらない。
あなたは内側を見ずに外に駆けだしてゆくせいで惨めになる。

そして、その惨めさはつつ゛いてゆく。
というのも、あなたを満足させるものは
外界には何ひとつ見つからないからだ。
外の世界で何かを見つけた者などひとりもいない。

アレクサンダー大王でさえもだ。あなたはこの地球をそっくり手中に
おさめることもできる。あなたはこの七つの大陸、全世界を支配する
天輪聖王チャクラヴァルテインになることもできる。

以外に思うだろうが、現代の地理学によれば大陸は六つしかないのに、
古代インドの地理学では大陸は七つあることになっている。そこには
アトランティス大陸が含まれているにちがいない。そして七つの大陸
すべてを制覇した者は「天輪聖王」と呼ばれている。たとえ天輪聖王に
なったとしても、あなたは貧しいままであり、何ひとつ得てはいない。

それどころか、あなたは多くのものを失っているだろう。なぜなら、あなたは
一生をかけてつまらないもの、世俗的なもの、意味のないもの、無益なものを
求め格闘してきたからだ――そういったものはいつでも死によって取り去られて
しまう。内なる何かを得ないかぎり、あなたが豊かになることはない。

内なる王国だけが人を豊かにする。
死ですらその豊かさを取り去ることができないからだ。
それが奪い去られることはない。
それが破壊されることはない。
それが取りあげられることはない。

ひとたびそれを知れば、それは永遠にあなたのものになる。

あなたには内なる空間がある。
あなたには内なるエネルギーがある。
すべてのものを手に入れることができる。

あなたはまだそれをのぞき込んだことがないだけだ。
あなたはすばらしいヴィーナを手にしているのに、まだそれに触れたことさえない。
あなたはそのなかにどんな音楽が含まれているのかまだ見たこともない。
あなたはそれをほとんど忘れかけている。

呂祖は言う。四つの詩句は……
たった四つの詩句が
あなたの実存を結晶させ、
あなたの内側に帝王をつくり、
あなたをブッダやキリストやクリシュナ
のような人にすることができる。

この四つの詩句とは何か?
さあ、この四つの隠喩メタファーを理解しようとしてみなさい。
一、六月に、突然、白い雪が舞う。
二、三更(午前零時)に、日輪がまばゆい光を放つ。
三、水中にそよ風が吹く。
四、天上をさすらいながら、受容の精神の力を食べる。
そして、さらに深い秘法のなかの秘法がある――
どこにもない国こそ、真のわが家である。
さあ、この神秘的な詩句、この秘教的な言辞を解読しようとしてみなさい。
そこには隠された大いなる美と隠された大いなる意味がある。

深く共感するこころをもちなさい。

なぜなら、それが秘教的なものを理解する唯一の方法だからだ。



一、六月に、突然、白い雪が舞う。
六月は一年のちょうど真ん中だ。
それはあらゆるものの真ん中を意味している。
あらゆるものの真ん中にあることができて、けっして極端に
偏らなければ、最初に必要とされる条件を満たしている。

真ん中にありなさい――

これは探求者にとって、実存的な探求の
途上にある者にとって計り知れない価値がある。

いつも真ん中、「中庸」を覚えておきなさい。

食べ過ぎてはいけないし、
完全に食を断ってもいけない――これでもなくあれでもない。
ものに執着し過ぎてもいけないし、ものを捨ててもいけない。

人々とともに暮らしながら、馴れ合い過ぎないこと。
馴れ合い過ぎると、まったく少しも独りでいることができなくなる。
また独りぼっちで暮らしはじめてはいけない。
孤独に病みつきになり、人を避けるようではいけない。

世間にいながら、世間を自分のなかに入らせてはいけない。
世間から逃げだす必要はない。

けっして極端に走らないこと――
これは覚えておくべき最も基本的なことがらだ。

なぜなら、心マインドはつねに
一方の極端からもう一方の極端へと動くからだ。
心は極端を通して生きているものであり、
真ん中では死んでしまう――これが奥義だ。

食べすぎたあと、何日間か食事を制限する人々がいる。
そして数日間いわゆるダイエットに苦しんだあと、
彼らは再びがつがつとむさぼるように食べはじめる。
そしてまた……これは悪循環だ。

彼らはひとつの極端からもうひとつの極端へと動き、
もうひとつの極端から再び元にもどってくる。
行ったり来たり、行ったり来たり、古い時計の
振り子のようにどこまでも動きつつ゛ける。

彼らは振り子の動きによって時計が進んでゆくことを知らない。
時計――これはすばらしい譬たとえだ。
振り子が真ん中にとどまれば、時計は止まる。

心マインドもそうだ――
あなたが極端からもうひとつの極端へ動いていると、
心は存続し、時間は存続する。
心と時間は同義語だ。

あなたが真ん中で止まる瞬間、
時間は消え失せ、時計が止まる。
心は消え失せ、心が止まる。

心も時間も消えてしまったとき、突然、
あなたははじめて自分が誰であるかに気つ゛く。
雲はひとつ残らず消え、広々とした空に太陽が明るく輝いている。
六月に、突然、白い雪が舞う。
そして中国では、この経文が書き記された地方では、毎年六月に初雪が降る。

あなたの実存は冷やされて鎮まる――それが中道だ。

白い雪はいくつかのことを表している。
まず、純白さ、純粋さ、涼しさ、静謐せいひつさ、
すがすがしさ、美、恩寵。

真ん中にいるなら、あなたは
みずからの内なる実存がヒマラヤのように、
清らかな雪に覆われたヒマラヤの頂きのように
なってゆくのを見るだろう。

あらゆるものが冷やされて鎮まり、
完全な静寂に包まれ、すべてがじつにさわやかで、
いっさいの汚れが消えている。

汚れは心マインドのものだ。
心がなくなり、思考がなくなれば、不純なものもなくなる。
あなたの実存を汚すのは思考だ。
六月に、突然、白い雪が舞う。
それはにわかに起こる。
ただ真ん中にいるだけで、
どこからともなく、忽然と、白い雪が降りはじめる。

試してみるといい。これは実験だ。
これは理解しなければならない哲学ではなく、
試してみるべき実験だ。

何についてもその真ん中にあろうとしてみなさい。

そうすれば大いなる涼しさ、穏やかさ、落ち着きが
あなたの内に生まれてくるのに気つ゛くだろう。
(p423)


三更(午前零時)に、日輪がまばゆい光を放つ。
こして、これが二つめの譬たとえ――三更(午前零時)だ。

人間には三つの層がある。
ひとつめは肉体ボディ、二つめは心マインド、三つめは魂ソウルだ。
第一の条件を満たしたなら、第二の条件に取り組むことができる。
最初の条件を抜きにして、二番目に取り組むことはできないから、
順を追って進んでゆかねばならない。

途中からはじめるわけにはゆかない。
どこから手をつけてもいいというわけではない。
ものごとには順番というものがある。

まず、あらゆることがらの真ん中を達成しなさい。

そして、心が極端に向かおう
としているかどうか一日中見守りなさい。

極端を避けるようになれば、第二のことがらが可能になる。
極端を避けるようになると、あなたは内側にある三つのもの――
自分の粗雑な部分である肉体、精妙な部分である心、
そして彼方のものである魂に気つ゛くようになる。

肉体と心は物質の二つの側面だ。
肉体は目に見える物質であり、
心は目に見えない物質だ。

そして心と肉体の両方を同時に見るとき、
見ているあなたは第三のものだ。

それが三更ザ・サード・ウオッチ――
見張り、観察者、目撃している者だ。

三更(午前零時)に、日輪がまばゆい光を放つ。
見守ることに専念し、目撃者になりきっていると、
突然、まるで真夜中に太陽が昇り、まばゆい光を放っている
かのように、あなたは内も外も光で満たされる。
全存在が燃えあがる。
(p424)


そして三つめの詩句は――
水中にそよ風が吹く。
道家では、水は事物の究極の源を表している。
それはタオそのものを表している。

老子はみずからの道を「流水の道」
と呼んだが、それにはたくさんの理由がある。

まず、水は柔らかく、謙虚であり、最も低い場所を探し求める。

イエスが「この世で一番後になる者が私の王国では最初となり、
最初の者が一番最後になる」と言っているように、
水は最も低い場所、くぼみを探し求める。

雨はエベレストに降るかもしれないが、
そこにはとどまらず、谷に向かって流れはじめる。
そして谷のなかでも一番深いくぼみにたどり着く。

水はいつも最後にいて、野心をもたない。
水には一番になろうとする野心がない。

そして水になることがサニヤシンになることだ。

水のようになることは、何者でもないもの
であることに完全な幸せを感じることだ。

そして第二に、水とは流動に他ならない。
水はつねに流動している。動きが止まると、
水は汚れ、汚水となって、毒すら帯びるようになる。
水は死んでしまう。

水の生命は流動のなかに、
生き生きと躍動し、流れることにある。
生命はすべて流れであり、制止しているものはない。

科学者のエディントンはこう言ったと伝えられている――
「『静止』という言葉はまったく意味をなさない。なぜなら、
存在しているもので静止しているものなど何ひとつないからだ」と。

それは現実に、事実に合致していない。
あらゆるものが成長の、動きの途上にある。

生は巡礼の旅だ。

生においては、名詞は偽りであり、ただ動詞だけが真実だ。
私たちは言語のなかに名詞をつくりだした。これらの名詞は
生に関してひじょうに誤った印象を与える。それは正しくない。

いつか将来、言語がもっと実存的なものになるときがくれば、
名詞は消えて動詞に置き換えられるだろう―― あ ら ゆ る 名詞が。

川というものはなく、川 と し て 流 れ ゆ く であり、
樹というものはなく、樹 と し て そ び え ゆ く だ。

なぜなら、一瞬といえども樹は静止していないからだ。
それはけっして存在イズネスの状態にはない。
それはつねに生成ビカミングし、流れ、どこかへ向かっている。

<存在>は流動的であり、ゆえに
水、"水中"が隠語メタファーになる。

目撃者に気つ゛けば、第三のものが可能になる。

あなたは流れることの美しさに気つ゛くだろう。

安定を渇望したり、現状がいつまでもつつ゛くことを願ったりしなくなる。

あなたは川とともに流れはじめ、
<存在>という川の一部になる。
あなたは変化を楽しむようになる。

人々は変化を心底から恐れ、変化に対して大きな恐怖を抱いている。
ものごとがよい方向に変わってゆくときでさえ、恐れる。
彼らは新しいものを恐れる。

心マインドというものは古いものには実に賢く振る舞えても、
新しいものに出会うと必ず当惑するからだ。
心は新しいものを再びイロハから習わなければならない
――誰が習いたがるだろう?

心は世界をそのまま停止させておきたい。

社会が法を遵守し、古い型を守るのはまさにこの心があるためだ。
世界中で数限りない人々が因襲にとらわれている。なぜだろう?
そこにはかなりの資本が投下されているにちがいない。これは投資だ――
誰も学びたくはないし、誰も成長したくはないし、
誰も新しいものに慣れ親しみたくはない。

人々はどこまでも古い型を守りつつ゛けようとする。
が、そうなると当然、退屈してくる。そこで彼らは
「どうして退屈なんだろう?どうすれば退屈せずにすむだろう?」と言う。
彼らは自分たちで退屈をつくりだしておきながら、
退屈をつくりだしたそのからくりを見ていない。

大勢の人が私のもとにやって来て、自分は退屈していると言う。
「どうすれば退屈から抜け出せるでしょう?」と。

退屈が問題なのではない。退屈は副産物だ。問題の奥にあるのは、
新しいものを探求する用意ができているか?
冒険に出る用意ができているか?
ということだ。

冒険とは賭けることだ。
それはよくなるかもしれないし、
これまで知っていたよりもさらに悪くなるかもしれない
――それは誰にもわからない。

それに関してはひとつも確実なことは言えない。

生で唯一確かなのは、
それが不確かなものであるということだけだ。
人は不確かさより他には何も当てにすることができない。

新しいものは人をひどく不安にさせる。彼らは古いものにしがみつく。
世界に因襲にとらわれた人々がいるのはそのためだ――
彼らは無用な重荷になっている。彼らのおかげで世界はよどんでいる――
彼らは古い型を踏襲することにこだわりつつ゛けている。

例えば、インドの歴史はほぼ五千年に達するが、マヌがつくりあげた社会構造は
そのまま残っている。それは当時は良いものだったかもしれないし、何らかの意義が
あったにちがいないが、五千年が経ったというのにインドにはいまだに不可触賎民が
いる。触れることすら許されない人々がいる。彼らは人間ではない。

正統派を自認する者たちは彼らの影にさえ触れない。かつてはそうだった。今でも
いくつかの村では、不可触賎民、スードラが通りを歩くときには「どうかわきに
よけてください。そちらに行きますよ」と叫ばなければならない――というのも、
カーストの高い誰かに影が触れると罪になってしまうからだ。

彼は叩かれ、へたをすると打ち殺される!今でもこの罪を着せられ焼き殺される人々が
いるが、この愚劣な社会構造は五千年も生き延びてきた。これほど非人間的なのに!
これほど非民主主義的なのに!

インドでは民主主義が成功しそうにないのはこのためだ。ヒンドゥー教の精神そのもの
が民主的ではない。精神構造のすべて、心理的な条件つ゛けが民主主義に反している
のに、どうして民主的な国をうまくつくりあげることができるだろう。
民主主義において最も大切な基本は、万人が平等であるということだ。

誰かが誰かよりも価値においてまさるというわけではない――ところが
ヒンドゥー教徒はそれを受け容れることができない。事実、スードラ、
不可触賎民は人間として認められていない。彼は人間ではなく、家畜扱い
をされている。女を人間と見なすことはできない。女性もまた家畜扱いをされてきた。

さあ、この種の精神――それがどうして民主的になりえよう。だから民主主義の
名のもとにあるのは混沌以外の何ものでもない。なぜなら、民主主義の基盤が
存在していないからだ。だが、この国は五千年にわたりこの社会構造とともに
存続してきて、それを手放す用意ができていない。

この構造のどこに美点があるのだろう?美点などどこにもありはしない。
それはただただ醜く、おぞましく、忌まわしく、吐き気をもよおすほどだ!

人々はあまりにも長くそれと暮らしてきたので、もう他のことは何も学びたくない
――ただそれだけのことだ。彼らはそれとともに生きてゆきたい。彼らはそれが
あると安心することができる。彼らはどんな変化も毛嫌いしている。

いいかね、この傾向は多かれ少なかれどんな人間のなかにもある。
あなたは変わりたくはない。
あなたは変化を恐れている。

なぜなら、変化とともに新たな挑戦が生まれるからだ。

そしてあなたは新しい状況に対処できるかどうか不安に思っている。
古いものならうまく扱えるし、手際よくさばけるから、
古いものに寄り添っているほうがましだ。
古いものは意のままに操ることができる。

新しいものはどうなるかわからない。
思い通りになるかもしれないし、
思い通りにはならないかもしれない。

学ぶことができるのは子どもたちだけだ。
子どもたちには何も過去がないので、
しがみつくべき古いものがいっさいないので、
いつでも喜々として学ぶことができる。

大きくなればなるほど学ぶことができなくなる。
十三歳位で、人々は学ぶことをやめる。
それが彼らの精神年齢になる。

探求者であるなら、あなたは
絶えず学びつつ゛けなければならない。
生きることは学ぶことだ。
学ぶことはけっして終わらない。

死の瞬間においてすら、
探求者は学びつつ゛ける。
彼は死を学ぶ。

彼はいつでも変わる用意ができている。

水は変化する要素を、永遠の変化を、
流動的な現象を表している。



いつでも変化でき、過去を忘れ、
過去を許すことができ、瞬間とともに進んでゆく
用意のある者たちこそが真の人間だ。

なぜなら、彼らは冒険家だからだ。

彼らは生の美を、生の祝福を知っている。

そして生はその神秘をこのような人々に、
こ の よ う な 人 々 に だ け 
明かしてくれる――なぜなら、
彼らはそれに値するからだ、
みずからの手でそれを稼ぎ取ったからだ。

賭けることで、彼らはそれを稼ぎ取った。
彼らには勇気がある。

水中にそよ風が吹く。
もしあなたが水のような現象になり、
変化し、絶えず移り変わり、動き、流れ、
けっして過去や古いものにしがみつかず、
いつも新しいものを探し求め、
つねに新しいものを楽しんでいると……
"そよ風"が吹いてくる。

あなたは恩寵に包まれる。
あなたの実存は至福に包まれる。
そうなったら、あなたの内側で
はじめて聖なるものが踊りだす……
"そよ風が吹く"とはそのことだ。

神はとてもやさしい。
神はけっしてあなたの扉を叩かない。
神の足音はけっして聞こえない。訪れるときには、
神は音を立てずに、ひっそりとやって来る。

あなたが水のようになっていないかぎり、
神のそよ風があなたの上に吹いてくることはない。
まず流動的になりなさい。

流動的でありつつ゛けること――これは
サニヤシンに対する私のメッセージでもある。

そして、いいかね。未来は
絶えず変化してゆく用意がある者たちのものになる。
なぜなら、今や世界はめまぐるしい速度で変化しているので、
古いものにしがみついている者たちは大きな苦しみを味わうことになるからだ。

彼らはこれまで大きな苦しみを味わったことがなかった。むしろ逆に、
進んで変わろうとする者たちのほうがひどい苦しみをなめてきた。

これからは状況が逆さになるだろう。
これからの時代は変化を愛し、喜々として踊りながら
変わってゆこうとする者たち、変化を祝う者たちのものになる。
そして、いつなんどき変化の機会が訪れても、彼らはそれを逃がさない。

未来は彼らとともにあることになる。
歴史は大きな転換をとげ、別の地平を進もうとしている。

「何かが変化しつつあるときには、
けっしてそれを妨げてはいけない」
と私がいつも力説しているのはそのためだ。

恋人との関係が変化しつつあるなら、
それを妨げてはいけない。
それを受け入れ、なるようにならせなさい。

別れなければならなくなっても、くよくよしないこと。
執着心があると、いつまでも惨めなままでいなければならない。

変わってゆくものは変わってゆく!

その変化を楽しみ、その新しさを楽しみなさい。
新しいものを受け入れ、歓迎するがいい。

過去をあげつらわずに、
新しいものを受け容れることができるようになれば、
まもなくあなたはみずからの生が格調の高さ、優美さ、
穏やかな気品を帯びはじめたことに気つ゛くだろう。

あなたは柔らかな花のようになる。

まさにその瞬間に探求者は踊りはじめる。
まさにその瞬間に祝祭がはじまる。

そしていいかね、イルカやチンパンジーは
遊びを知っているかもしれないが、
祝うことができるのは人間だけだ。
祭り祝うことはまさに人間的だ。

色々な定義を耳にしたことがあるだろう――
「人間は理性的な動物である」と言う者もいれば、また別のことを言う者もいる。

私は「人間は祭り祝う動物である」と言う。
人間が他のすべての動物と袂をわかつのはそこだ。

だが、古いものにしがみついて
いたら、どうして祝うことができるだろう?
過去に生き、死んだもののなかで生き、
生があなたに触れるのを許さないなら、
あなたは墓のなかで暮らしている。

それは薔薇の茂みが咲き終わり、
しぼんでしまった花に執着し、散った花びらばかりを集め、
新しい蕾つぼみや新しい花を恐れたり、春を恐れたりしているようなものだ。

これが何百万もの人々、大多数の人々の状況だ――彼らは咲き終わり、
しぼんでしまった花びらにいつまでも執着し、それを集めつつ゛けている。
彼らは記憶のなかに生きている……彼らはそれを「郷愁ノスタルジア」
と呼んでいるが、愚かなことこのうえもない。

真の人間は郷愁などまったく抱かない。
過去はもうそこにないのだから、
けっしてあとを振り返ることがない。

彼は瞬間に生き、未来に対しては開いたままでいる。現在は
彼のものであり、その現在ゆえに、
彼は未来を受け容れることができるようになってゆく。
彼の窓は風に、雨に、太陽にいつも開かれている。
彼は広場だ。
水中にそよ風が吹く。
人はこの瞬間に到ってはじめて神に気つ゛く。

まず、あなたは中心においてバランスを取りはじめる。
次に、あなたは目撃者、魂に気つ゛くようになる。
そして第三に、あなたは臨在プレゼンスに、
ある未知の神秘の臨在に、"そよ風"に気つ゛きはじめる。
(p431)



そして第四に……
天上をさすらいながら、受容の精神を食べる。
第四の現象はこれだ――
神の臨在に気つ゛きはじめると、
あなたの二元性、あなたの根本的な極性は消えはじめる。

そうなったら、あなたは
男でもないし女でもない、
<陽>でもないし<陰>でもない。

すると突然、
あなたの男が女を食べ、
あなたの女が男を食べる。

この地点で、ヒンドゥー教の
アルダーナリシュバル(両性具有)
という概念が重要な意味をもってくる。

そうなったら、あなたは両方であると同時にいずれでもない。

あなたは肯定と否定の二元性を超越している。
天上をさすらいながら……
だがこれは、あなたがそよ風、霊妙な踊り、神の臨在を知り、
広々とした大空をさすらうようになってはじめて可能になる。

あなたはもはや何にも執着していない。
あなたはもはや地の上を卑屈に這いまわってはいない。
あなたは墓のなかにはいない。
あなたは翼を広げている。
あなたは大空を羽ばたいて、<存在>と<存在>がもたらす
すべての挑戦にいつでも応じることができる――

もはや正統派の考えにとらわれることもなく、
因襲にとらわれることもなく、
社会の規範にとらわれることもない。

あなたは反逆者だ。

そして反逆的な魂だけが
神の臨在を感じるようになる。
神の臨在――これこそが天国だ!

そうなったら、あなたを完全に結晶化させる
第四の奇蹟が起こり、あなたの二元性は消える。

これが起こるまでは、あなたは奥深くでは分裂している。
あなたが男であれば、あなたはみずからの女性性を抑圧
しつつ゛けているし、また抑圧せざるをえない。

社会はあなたに「自分が男であることを忘れるな」と教える。
もしあなたが声をあげて泣いたなら、誰かがきっとこう言うだろう。
「何をやっているんだ。女だったら声をあげて泣いてもかまわないが、
君は男だろう。だったら泣くんじゃない」

すると即座に涙は止まる。
あなたは涙を抑え、涙をぐっとのみこむ。
あなたは男であり、男らしくしなければならないから、泣いてはいけない。

泣くことができなければ、
どうして笑うことができるだろう?
あなたの笑いは中途半端で生ぬるい。

それは笑いすぎたら緊張がすっかりゆるみ、
抑えていた涙がこぼれはじめるかもしれない
という恐れがあるからだ。

この現象を観察したことはないだろうか?
人は笑いすぎると、泣きだしはじめる。なぜだろう?
笑いすぎると、どうして涙があふれてくるのだろう?

笑うということは、あなたが自分を
容認しているということだからだ。
容認すれば、あなたはあらゆるものを受け容れてゆく。
ひとつのことだけを認め、あとは認めない
などということはできない。

ひとつのことを抑圧すれば、あなたはありと
あらゆるものを抑圧せざるをえなくなる。

これは覚えておかねばならないとても基本的なことがらだ――
ひとつのことを抑圧すると、それと同じ分だけ
自分の全人格を抑圧しなければならなくなる。

泣くことができなければ、あなたは
笑うこともできない。
笑うことができなければ、あなたは
泣くこともできない。

怒ることができなければ、あなたは
慈悲心をもつこともできない。
慈悲深くなることができなければ、あなたは
怒ることもできない。

生はある一定の水準を保っている。
何であれひとつのことを受け容れれば、
生の他のことも同じ分だけ受け容れざるをえなくなる。

あなたにはできないことがひとつある――
「涙は抑えるけれども、腹の底から笑う」――それは無理な相談だ。

男はもっともっと男らしくなるように教え込まれる。
小さな男の子たち――私たちは彼らの土台を、基本的な
バランスを変えようとし、単極になるよう強要してゆく。
男の子たちを無理やり男に仕立てあげねばならないので、
いくつかのことを禁じなければならない。

喧嘩をしても、私たちは何もとやかく言いはしない――
男は命を懸けて闘うものだというわけだ。銃やピストルで殺し合い
ごっこをしたり、探偵小説を読んだりしても、私たちはとがめはしない。

だが、女の子には銃をもたせない。女の子にはこう言い聞かせる――
「人形で遊びなさい。お見合いをしたり、お母さんになったり、お家をつくったり、
ご飯をつくったりするのよ。そういうことをして遊びなさい。それがあなたの
人生なの、そうなることになっているの。だから、準備をするのよ」

女の子は樹に登り、枝から逆さにぶらさがったりしてはいけないと言われる。
私たちはそれをさせない。私たちはこう言う――「おまえは女の子なんだよ。
女の子はこういうことはしないものさ。おまえには似つかわしくないね」。

徐々に徐々に、私たちは極を、一方の極を強調し、他の極を完璧に抑圧してゆく。
これが精神分裂症のもとになる。社会はいまだに人の実存を丸ごと受け容れる
ことができないので、誰もが分裂症にかかっている。

実存するものリアリティに向かって進んでゆくにつれて、
あなたは自分の実存を丸ごと受け容れなければならなくなる。

あなたは男であると同時に女、
または女であると同時に男だ。
誰も男だけではないし、
誰も女だけではない。

そして、あなたがそのどちらでもある
というのはすばらしいことだ。

なぜなら、それによって
あなたの人生、あなたの実存は豊かになるからだ。それは
あなたに様々な彩りを加える。
あなたは七色のスペクトル、虹そのものになる。
あなたは単色ではなく、すべての色があなたのものになる。

四つめに、あなたが
神の臨在のなかに入ってゆくようになると、
分裂症は跡形もなく消え失せる――
分裂症が消えるにはそうするより他にない。

精神分析は大して役には立たない。
実のところ、それはあなたの極性を強調しつつ゛ける。
心理学はいつか男性優位ではない地点にまで到らなければならない。
さもなければ、心理学の名のもとにいつまでも愚行が演じつつ゛けられてゆく。

ジークムント・フロイトは、女性は男根への羨望を抱いていると言う。
まったくのたわごとだ!彼は男性は乳房への羨望を抱いているとはけっして言わない。
これは男性指向の考え方だ。実際、女性はどんな羨望にも苦しんでいない。

むしろ逆に、男が多くの羨望に苦しんでいる。それは男には子どもが産めないからだ、
子どもをつくることができないからだ。子どもをつくることができないので、男は
その代用として他のたくさんの創造行為を行なう。詩を書いたり、絵を描いたり、
彫刻をしたり、建築をしたりする。これらは代用の創造行為だ。奥深くで彼は
ひとつのことを――自分が生命を産みだせないことを知っているからだ。

そちらのほうがはるかに真実に見えるが、
フロイトはそのことについては一言も語っていない。
彼は女性はひとり残らず男根への羨望を抱いていると言う。
これはまったくのたわごとだ。心理学はいまだに男と女という
古びた区分けを手放せないでいる。

人間は男と女の両方だ。

だが、この究極の統合は第四のステージではじめて起こる。
天上をさすらいながら、受容の精神を食べる。
"受容"とは女性性を意味している。あなたはその対極を食べる。
そして、いいかね、食べるとは吸収するということだ。

「弟子たちはみな人の肉を食べなければならない」
といういにしえの格言があるのはそのためだ――
それは師を食べなければならないからだ。

それを文字通りに受け取ってはいけない。
それは譬たとえにすぎないが、ひじょうに
深い意味が込められている。

食べるとは吸収すること、消化すること
を意味しているからだ。

師はあなたの一部になり、もはや分離してはいない。

イエスが最後の晩餐で弟子たちに別れを告げるとき
言っていたのはそのことだ。彼はパンを裂いて弟子たちに配り、
「このパンは私だ。それを食べなさい。それは私の肉だ」
と言い、ワインを注いで弟子たちに配り、
「このワインは私だ。それを飲みなさい。これは私の血だ」と言う。

これもやはり譬えだ。彼は弟子たちに言っている。
「人食いになりなさい。師を食べ、師を消化しなさい。
そうすれば、あなたと師のあいだに分離はなくなる」

それはこの第四の言辞についても当てはまる。
あなたは自分のなかのもうひとつの極を食べなければならない。

呂祖は男性の弟子たちに語っていたにちがいない。なぜなら、
いつの時代でも、男たちのほうが冒険心や探究心が旺盛だからだ。
女性のほうがもっと落ち着き、くつろいでいるように見える。
だから、そこにいたのは男性の弟子たちだったにちがいない。
彼は男性の弟子たちに語っていたにちがいない。
だから彼は「みずからの女性を食べなさい」と言っている。

だが、それは女性の弟子たちにも当てはまる。
彼女たちはみずからの男性を食べなければならない。
二元性が消え失せるように、内側でもう
ひとつの極を吸収しなければならない。


ひとたびこの四つの詩句が成就されたなら、
すべてのなかで最も深遠な秘密が明かされるだろう。
そして、さらに深い秘法のなかの秘法がある―― どこにもない国こそ、真のわが家である。
さあ、ここではじめてあなたは
自分が存在していないことに気つ゛く。

だが、自分が存在しないといっても、それは
たんなる空虚な状態を意味するものではない。

あなたのなかの人格は姿を消すが、臨在が現れてくる。

内側にあった<存在>からの分離感は消え失せるが、
全体があなたのなかに宿るようになる。
あなたはもはや孤島ではない。

今や自分がどこにいるかをつきとめるすべはない。

それゆえに……
どこにもない国こそ、真のわが家である。
もう自分がどこにいるのか、
自分が誰であるのか言うことはできない
――それこそが真のわが家だ。

この"どこにもない"というのは、実にすばらしい言葉だ。

インドの偉大な神秘家スワミ・ラーマティルタは、
最高裁判所で検事をやっていた友人の話を何度も何度もくり返したものだった。

この友人は完璧な無心論者であり、絶えず神の存在を否定する説を唱えていた。彼は
筋金入りの無心論者だったので、みんなに注意をうながすために、居間の壁に誰の目
にもわかる大きな文字で「神はどこにもない GOD IS NOWHERE」と書きつけていた。

彼に会いにきたり訪ねてきた者たちはみな、まずこの「神はどこにもない」という
この文字をいやでも目にすることになる。あなたが「神はある」と言おうものなら、
手ぐすねを引いて待っていた彼がただちにとびかかってくる。

そうこうするうちに子どもが生まれて、子どもは言葉を覚えはじめたが、
まだまだたどたどしかった。ある日のこと、父親の膝に坐っていた子どもが
その文字を読みはじめた。「どこにもない NOWHERE」という単語は長すぎて
読めなかったので、子どもはそれを二つに分けてこう読んだ――

「神は今ここにいる GOD IS NOW HERE」

NOWHERE は NOW と HERE の二つに分けることができる。

父親は驚いてしまった。この言葉を書いたのは自分だが、
一度もそんな読み方をしたことはなかったからだ。
意味がまるで逆さになってしまう……神は今ここにいる。

彼は子どもの目を、その天真爛漫な目をのぞき込み、
はじめて何か神秘的なものを感じた。
はじめて子どもを通して神が話しかけたような気がした。

彼の無神論、生涯をかけた無神論は、
この子どもの言葉ゆえに消え失せてしまった。

そしてラーマティルタは、この友人は息を引き取るときには、
彼が知るかぎり最も敬虔な人物のひとりになっていたと言っている。
が、その変化は子どものちょっとした読み違いで起こった。
子どもは「どこにもない NOWHERE」を一息で読むことができなかった。

この「今ここ NOW-HERE」
と「どこにもない NOWHERE」という言葉はすばらしい。

神が今ここにいることがわかると、
神はどこにもいないことがわかる。
どちらも同じことだ。

神はどこか特定の場所にいるわけではなく、それは確かに真実なので、
神はどこそこにいるという言い方はできない。居場所をつきとめる
ことはできないし、それを確定することはできない。

ナナークは、
神の居場所を尋ねるのはまるで見当違いであり、
神がいない場所はどこかと尋ねるべきだと言っている。

神があまねく存在しているのであれば、
神は至るところにいると言っても、
神はどこにもいないと言っても大差はない。
神があまねく存在しているのであれば、
ど こ そこ に と言うことには意味がないからだ。

神はある。

どこにもない国とは今ここのことだ。

今が唯一の時間であり、ここが唯一の場所だ。

今ここで神を見いだすことができなければ、
どこへ行っても神を見つけることはできない。

この瞬間、ま さ に こ の 瞬 間 に ……

三つのステップが実現され、
第四のものが達成されたら、
これが起こる。

これは秘法のなかの秘法だ――
神はどこかに腰かけている人物ではない。
神が人物として知られることはけっしてないし、
人物として知られたことも一度もない。

神を人物として認知した人々はみずからの空想にだまされていただけだ。
キリストの姿を見るなら、それはあなたの空想だ。あなたがそれをつくりだしている。
クリシュナの姿を見るなら、それはあなたの空想だ。

空想力を培うことはできるし、空想の翼を広げることはできるが、
あなたは夢をつむぎだし、夢を投げかけている。それは
あなたの夢を見る心の働きだ。

真理は人物ではないし、
真理は ど こ か に、外にあるものではない。

それは客体として見つかるものではなく、
みずからの目撃しつつある主体だ。

そしてそれは、あなたの男と女が消えて
ひとつになってはじめて実現する。

フランス人が言うように、三つの性別がある――男、女、そして聖職者。
彼らは冗談で言っているのだが、そこにはなかなか深い意味が込められている。

まさに三つの性別がある――男、女、そしてブッダだ。

ブッダは男とも呼べないし女とも呼べない。
いずれかの肉体をもってはいるが――
男の肉体かもしれないし女の肉体かもしれない――
ブッダはもはや自分の肉体に同一化していない。

彼はただ純粋な目撃者だ。

彼は、あなたが彼の肉体から離れている
ように自分の肉体から離れている。

あなたと彼の肉体とのあいだには距離があるが、
彼とその肉体のあいだにも同じような距離がある。

あなたは外に立って彼の肉体を見ているが、
彼は内側の深いところに立って自分の肉体を見ている。

だが、
あなたと彼の肉体のあいだの距離
と、彼とその肉体のあいだの距離は同じだ。

彼はもはや自分の肉体に同一化していない。
彼は男とも呼べないし女とも呼べない。
彼はただ超越している。



そしてこの彼方なるものが開かれたとき……
どこにもない国こそ、真のわが家である。
あなたはわが家に帰り着いている。
この詩句は神秘に満ちている。 それが意味するのは、深遠なるタオにおいて 最も重要なのは「無為の為」という詩句である、ということだ。
わが家に帰り着いてはじめて「無為の為」
という言葉の究極の意味がわかるようになる。

だが、あなたはまさにその始めから、
その方角に向かって進んでゆかなければならない。

そうしてはじめて、いつの日か究極なるものが起こる。

無為の為とは何だろう?

活発に動きまわるのはとても簡単だし、
何もしないでいるのもとても簡単だ。

夜も昼も活動的で、絶えず動きまわり、落ち着きのない人々がいる。
西洋ではそれが起こっている。人々は過剰なほど活動的になってしまっている。
彼らはほんの一瞬も落ち着いて坐ることができない。坐り心地のいい、すてきな
椅子に坐っているときでさえ、そわそわしながら姿勢を変えてばかりいる。

彼らは落ち着くことができない。人生そのものが騒々しい。
彼らはいつも忙しくしているための何かを必要としている。
彼らは忙しく動きまわり、自分自身を狂気に駆り立ててゆく。

東洋の人々はひじょうに消極的で、怠惰になってしまった。
彼らは怠惰のあまり死に瀕している。
彼らは怠惰のせいで貧しい。
彼らは自分たちが貧しいのは世の中のせい、他人のせいだ
と言わんばかりに、世界全体を非難しつつ゛けている。

彼らが貧しいのは、彼らが怠け者、完璧な怠け者だからだ。
彼らが貧しいのは、行為が完全に消え失せてしまったからだ
――その彼らがどうして生産的になれるだろう?
どうして豊かになれるだろう?

彼らは搾取されてきたから貧しいのではない。

インドの裕福な人々の有り金をすべて分配
したとしても、貧困はなくならないだろう。
裕福な人々がみな貧乏になることは確かだが、
貧乏人が金持ちになることはない。

貧困はずっと奥深いところに、無為ゆえにある。

そして一方の極を選ぶのはとても簡単だ。
為すことは男性的であり、無為は女性的だ。

呂祖は「人は無為の為を学ばなければならない」と言う。

人はこの複雑なゲームを学ばなければならない。

人は行為しなければならないが、やり手になってはいけない。

人はあたかも神の道具として働いているかのように行為しなければならない。

人は行為しながら、しかも無我の状態にとどまらなければならない。

行動し、対応しながら、しかも落ち着きを失ってはいけない。

行為を為し終え、適切な対応をすませたら、休息を取ればいい。
働かなければならないときには働き、遊ぶときには遊べばいい。
働き、遊んだら、休息を取り、浜辺で寝ころべばいい。

浜辺で太陽の光を浴びながら寝そべっているときには、
仕事のことは考えないこと――
会社のことを考えてはいけないし、
書類のことを思い浮かべてはいけない。

世間のことはすっかり忘れてしまいなさい。
太陽の光を浴びて、そのなかに身を横たえなさい。
それを楽しむのだ。

これはあなたが無為の為を
身につけてはじめて可能になる。

そして会社では何であれやらなければいけないことをやりなさい。
工場でやらなければならないことをすべてやりつつも、
行為しているときでさえ、目撃者でありつつ゛けること。

奥深くでは、ゆったりとくつろいで、完全に
中心が定まり、周辺は車輪のように動いているが、
中心は台風の目のようになっている。
中心では何も動いていない。

これが完全な人間だ。

彼の魂はくつろいでいる。
彼の中心は完全に穏やかだ。
彼の周辺は活動し、世間の千とひとつのことを行なっている。

これが私のサニヤシンの概念だ。だから私は
「世間を捨ててはいけない、世間にとどまりなさい」と言う。
世間のなかで行為し、やらねばならないことはすべてやりながら、
しかも泰然とし、超然とし、触れられずに、
池のなかの蓮のようでありなさい。

無 為 は人が形象(物質性)に巻き込まれるのを防いでくれる。。
みずからの内奥の中核が無為のなかにある
ことを思い出せば、あなたはだまされることはないし、
形やイメージに巻き込まれることはない。

それは物質的なものだ。
あなたは世俗的にはならない。
無 為 に し て 為 す ことで、 人は鈍くうつろな状態や生気のない虚無に沈み込む ことから逃れることができる。
そしてもうひとつの危険は、
ある種の鈍さ、生気のなさ、鈍感さ、否定的な空虚さ、
虚無に退行することがあるということだ。
これもまた避けなければならない。
無為の為がこれを防いでくれる。

行為はあなたを積極的にさせ、
無為はあなたを消極的にさせておく。

行為はあなたを男性的にさせ、
無為はあなたを女性的にさせておく。

両方のバランスが取れたら、
それらは互いを打ち消し合って、
彼方なるものが開き、突然、あなたの内に
ブッダが生まれてくる。



これまで光を巡らすことについて語ってきたのは、 外側から内なるものに働きかける、 最初の悟りの手がかりを示すためだ。 これは師を得るのを助けるためのものであり……
最初の二つの詩句――六月に、突然、白い雪が舞う
と、次の三更(午前零時)に、日輪がまばゆい光を放つ
――これらは初歩の境地であり、あとの二つの詩句――
水中にそよ風が吹くと、次の
天上をさすらいながら、受容の精神の力を食べる
はより高い境地だ。

最初の二つは初歩の境地であり、
あなたが師を見いだす助けになる。

師と出会ったときには、
この二つの境地を体得していてはじめて
その人を師と認めることができる。

体得していなければ、仏陀のような人に出会ったときも、
自分が何を取り逃がしたのかも気つ゛かずに
彼の傍らを通り過ぎてしまうかもしれない。

いつかあとになってこの二つの境地を体得したなら、
あなたは声をあげて泣き、後悔するだろう。

ブッダと道ですれ違ったことを思い出すからだ。
そうなったら、「どうして取り逃がしてしまったのだろう」
とひどく悔やむことになる。

最初の二つはあなたが師を見いだす助けになる。
最初の二つの境地は、外側から内側へと
働きかけなければならない。

働きかけは外側からはじめなければならない
――今まさにあなたはそこにいるからだ。
そして内側に入ってゆきはじめなければならない。

次の二つの段階では、
あなたは師を見いだし、
師はあなたを見いだしている。
次の二つは師の指令を実行することにある。

プロセスは逆になる。
今や内なるものが外に働きかけるようになる。

最初の二つの段階では、
あなたは修養し、実践し、瞑想していた。
あなたは働きかけ、探し求め、闇のなかを手さぐりしていた。

次の二つの段階では、
あなたは師を見いだし、
彼の声を聴き、
彼の目を見つめ、
彼のハートを感じている。

師の臨在があなたの実存に満ちわたっている。
信頼が湧き起こっている。

今やただ従って、
師の指令をひたすら実行すればいい――
これらの指令を実行してゆくことが、
あなた自身を実現することになる。

これは……初歩の境地にある学人たちに向けられたものだ。 彼らは上方の関門に達するために、下方の二つの関門を通り抜ける。 ものごとが次第に明らかになり、悟りの機縁がうかがわれると、 天は道を明らかにすることを惜しまず、究極の真理を明かしてくれる。 弟子たちよ、これを秘密にし、努力を怠らぬようにせよ。
最初の二つにはあなたの側の
大きな集中的な努力が必要とされる。
あなたは意識的に働きかけ、腰を据えて
働きかけなければならない。
それは骨が折れる。

最初の二つの境地が容易でないのは、
あなたの目が閉じているから、
あなたのハートが鼓動していないからだ。

次の二つの境地が易しいのは、
今やあなたの目が開いているからだ。

あなたは師の存在を知り、
師のメッセージを聞いた。

今やものごとは明らかになった。
今やあなたは見ることができる。

ヒマラヤの頂は遥か遠くにあるかもしれないが、
あなたはそれを見ることができる。

まだ千マイルも旅をしなければならないかもしれないが、
あなたはそれを見ることができる。

遥か遠くからでも陽に照らされたヒマラヤの頂
を見ることができる。

あなたはそれがそこにあることを知っている。

今やそれはたんに時間の問題でしかない。

あなたはあの頂と麓を何度も何度も往復したことがある
案内人ガイドがそばにいることを知っている。

今やあなたは耳を傾け、従うことができる。

最初の二つの境地は大きな疑いに包まれている。

人は悪戦苦闘しなければならない。
そこでは道を誤る可能性がひじょうに高い。
些細なことで、実に些細なことで人は道をはずれてしまいかねない。

あとからふりかえってみれば、そのばかばかしさがわかるだろう。
ごく些細な、まったく取るに足りないことなのに、
それが妨げになってしまうことがある。

探求者は油断なく、しっかりと
目を見張っていなければならない。

最初の二つの境地では、
ごくごく注意深くあらねばならない。

そうしてはじめて初歩の境地を体得することができる。
初歩の境地を体得すると、高い境地に手が届くようになる。
天は道を明らかにすることを惜しまず……
師を通して、天は<道>を明らかにしはじめる。
天は……究極の真理を明かしてくれる。 弟子たちよ、これを秘密にし、努力を怠らぬようにせよ。 光を巡らすとは一般的な用語である。 修行が進むごとに、黄金の華はよりいっそう大きく開いてゆく。 だが、それよりもまだすばらしい循環がある。
ここまで私たちは自分が取り組み、自分が努力して行なう
光の循環について語ってきた。

だが、行なう必要がなくひとりでに起こる、
それよりもさらにすばらしい循環がある。

それは天からの贈り物、天の恵みだ。

最初の二つの境地を体得すると、あなたの前に師が現れる。

次の二つの境地を体得すると、あなたの前に神が現れる。

そして第五の秘密、秘法のなかの秘法とは、
ものごとがひとりでに起こりはじめるということだ。

あなたは何もする必要がない。

むしろ、あなたが何かをすればそれは邪魔になる。

今やあらゆるものがみずからの内なる力によって動いている。

タオが、あるいは神が
あなたに乗り移っている。
あなたは乗っ取られている!
あなたは完全に消え失せ、今や
あなたのなかには神しかいない。

神が花として咲き、樹として繁るように、
神はあなたのなかで黄金の華となって花を咲かせる。今や
神のなすがままであり、あなたの出る幕はない。今やそれは
神の意志であり、あなたの意志は仕事を終えてしまった。

最初の二つの段階では強い意志が求められ、
次の二つの段階では進んで明け渡すことが求められる。

そして四つの境地を体得し終えると、
意志は必要でなくなるし、
明け渡すことも必要でなくなる。

いいかね、明け渡しはまた
意志を落とすためのものでもある。

最初の二つの境地では意志の鍛練をしなければならない。
次の二つの境地ではその意志を落とさなければならない。
それが明渡しだ。

そして明け渡しによって意志が落とされたとき、
究極の秘法のなかの秘法とは
意志でもないし、明け渡しでもない。

やはりここでも意志は男であり、明け渡しは女だ。

第四を超えて行くことで、あなたは
男と女の両方を超えて行く。

意志が去り、明け渡しもまた去ってゆく……
もはやあなたはそこにはいない、
どこを探しても見つからない。

そこには何者でもないもの、
<無>、にゃはんニルヴァーナがある。

そこでタオはみずからの仕事を成就し――
春が訪れると樹に花が咲き、
雨が降ると雲が湧き、
朝になると太陽が昇り、
夜になると空に星が散りばめられるように――
いっさいのことがいかなる努力もなしに進行してゆく。

太陽は朝になると何の努力もなしに昇ってくるし、
星は夜になると何の苦労もせずにまたたき、
花は何の奮闘もせずに花を咲かせる。

あなたは究極の自然の一部になっている。

だが、それよりもまだすばらしい循環がある。 これまで我々は内側にあるものに外側から働きかけてきたが、 今や中心にとどまって永遠なるものを支配する。 これまでは師を助けるための奉仕だったが、 今や師の指令を広めるのである。 こうして関係はすっかり逆転する。
この技法によってさらに精妙な領域に入って行きたければ、 まず身心を完全に統御し、完全に自由で安らかな状態に入り、 いっさいのしがらみを放下し、どんな些細なことにも心をとめず、 天上のこころを正しく中心に置くよう心がけなければならない。 巡る光が内なるものを照らしだすと、ものに左右されなくなり、 暗いエネルギーの動きは封じられ、黄金の華が集中的に照らすようになる。 これが凝縮した極の光である。 同類のものは互いに引き合う。 したがって、極性を帯びた深淵の光は上昇する。
あなたが二つに分けられていたら――
男と女、否定と肯定、闇と光、頭とこころ、思考と感情
に分断されていたら、あなたのエネルギーは下降してゆく。
分断は下降への道だ。

分断されず、ひとつになっていれば、あなたは上昇しはじめる。

ひとつであることは上昇することであり、
二つであることは下降することだ。

二元性は地獄へと到る道であり、非二元性は天国へと到る道だ。
したがって、極性を帯びた深淵の光は上昇する。 それはもはや深淵の光であるだけではなく、 創造的な光が創造的な光に出会うことだ。
そしてこの統合があなたの内側で起こるとき、
大いなる創造性が爆発する。

人は自分にどんな可能性が秘められているか
けっしてうかがい知ることができない。

そこには詩人が待ちうけているかもしれないし、
画家が、歌手が、舞踏家が待ちうけているかもしれない。

自分の内側で何が待ちうけているのかけっしてわからない。

あなたの男性と女性が出会い、
潜在能力が解き放たれたとき、それは実現する。

ウパニシャッドはそのようにして生まれた。
『コーラン』『聖書』、カジュラホ、コナラック、
タジ・マハール、アジャンタ、エローラもそうだ。

このような創造性はどれも、現代人が
いわゆる創造性として知っているものとは完全に異なっている。
ピカソの創造性はタジ・マハールを設計した者とはタイプが異なっている。

タジ・マハールを設計した者――
彼の極性は消え去っていた。
彼はスーフィ―の神秘家だった。それは
彼のヴィジョンであり、深い瞑想から生まれたものだった。

今でも満月の夜にタジ・マハールに瞑想すれば、驚くような
ことが起こる――あなたの内側深くにある何かが上昇しはじめる。
上に向かって動きはじめる。

満月の夜に、一時間ほど、ただそこに坐って、
タジ・マハールを眺めながら深く瞑想するだけで、
あなたの内側の熱が鎮まってくる。

あなたのなかを雪が舞い、
涼しさが、すがすがしさが生まれてくる。

あるいは優れた仏教の神秘家によって
彫られた仏像を見つめていると――
ただ瞑想し、その仏像を眺めていると、
あなたのなかの何かが落ち着いてくる。

ピカソの絵を見つめていると、頭がおかしくなりそうになってくる。
一時間もその絵を見つつ゛けていたら、吐き気をもよおしそうになる。
それは創造性というよりも嘔吐と言ったほうがいい――まるでピカソは
自分の神経症を絵にぶちまけているかのようだ。

おそらく彼の神経症は軽くなっただろう。心理学者もまたそれと同じことを
言っている。狂人に絵の具とキャンパスを渡して、絵を描くように言う。
絵を描きはじめると、たちまち彼の狂気は軽くなってゆく。だから、今
では絵画を使った心理療法、絵画療法を唱える精神分析の流派がある。

そう、それは可能だ。
絵は重荷を解き放ってくれる。
内側で進行していることをキャンパスにぶちまけると、
あなたは楽になる。

胃の調子がおかしく、気分が悪いときには、吐いてしまうと楽になる――
絵を描くときに感じる解放感はそれとまったく同じ種類のものだ。

吐いてしまうと楽になるが、吐き出されたもの
を見る人たちはどうなるだろう?
だが、誰が彼らのことを気つ゛かうだろう。

それに愚かな人々というのはどこにもいるものだ。これは現代絵画だと言えば
――それはただの嘔吐かもしれないのに――彼らはそれを賞賛する。彼らは
「批評家がこれは現代アートだと言うのだから、きっとそうなのだろう」と言ってくれる。

聞いた話だが……

現代画家の展覧会があった。人々は絵の前にたたずんで、これはすばらしいとほめ
そやしていた。優れた批評家たちも顔をそろえていたが、彼らも絶賛していた。すると
そこに画家がやって来て、こう言った。「待ってください!絵がさかさまになってる」

絵が逆さになっていることに誰も気つ゛かなかった。
実際、逆さにかかっていたおかげで、よけい神秘的に見えたのだ。

人々はまったく愚かだ。何につけても彼らは流行を追い求める。そんなものは
創造性ではない。それは神経症、あるいは神経症にむしばまれた創造性だ。

別の種類の創造性があり、
グルジェフはそれを「客観芸術」と呼んでいた。

内なる極性がもはや極性を失い、
内なる分裂が消え、あなたがひとつになったとき、
そのとき創造性が解き放たれる。

そのときあなたは人類にとって
計り知れない助けとなることをやっている。

なぜなら、それはあなたの全体性、
あなたの健康な状態から生まれてきたものだからだ。
それは<全体>の歌だ。

それは旧約聖書の「雅歌」のようなものだ――
とほうもない美と、とほうもない輝きを放っている。
同類のものは互いに引き合う。。
あなたがひとつになっていると、
神はあなたに引き寄せられてくる。
一なるものは一なるものに引き寄せられるからだ……

"一者から一者への飛翔"。
あなたは神に向かって飛翔をはじめ、
神はあなたに向かって飛翔をはじめる。
それはもはや深淵の光であるだけではなく、 創造的な光が創造的な光に出会うことだ。 この二つの実体が出会うと、それらは固く結ばれて 離れなくなり、尽きることのない生命が発現する。 それはおのずと根元の気(エネルギー)の宮 のなかを去来し、浮き沈みをくり返す。
あなたの創造性が完全に解き放たれると、
神の創造性があなたのなかに降りてくる。
そしてこの二者の創造力の出会いが起こる。

創造者だけが創造者に出会うことができる。
創造者だけが創造者に出会う力量をそなえている。

そして、この二つの創造力、人間と神の創造力が出会うとき……。

いいかね、そこには二つの出会いがある。
最初の出会いはあなたの内側にいる男と女の出会いであり、
第二の、最終的な出会いは、全一で円満な人間としてのあなた
<全体>との出会い、人間と神との出会い、究極の出会いだ。

それは永遠のものだ。
ひとたびそれが起これば、あなたは死を超える。
それが元にもどることはありえない。
人は光輝く無限なるものを目のあたりにする。 全身が軽やかになり、今にも飛びそうになる。 「雲が千の山々にかかる」と呼ばれる状態である。
今やあなたは千の山々にかかる雲のように無限なるものだ。
それはあちこちを軽やかに去来し、 覚知しえぬほど静かに浮き沈みする。 脈拍は穏やかになり、呼吸は止まる。 これが真の創造的な交合の瞬間であり、 「月が無数の水面を吸引する」と呼ばれる状態である。 この暗黒の只なかに、突然、天上のこころが動きはじめる。 これが一陽来復であり、新しい生命が兆すときである。
そしてそれが起こると、
あなたの内なる創造者と
<全体>の創造者とのこの出会いが起こると、
あなたはこのうえもなく静かに、完全に静かになり、
気配がひそみ、脈拍は穏やかになり、呼吸が止まる。
これが真の創造的な交合の瞬間であり、「月が無数の水面を吸引する」 と呼ばれる状態である。
満月になればそれがわかる。
海水は月に向かって浮上をはじめ、月に行きたいと願う。
それとまったく同じように、人間は神に到達したいと願う。

だが、内側にこのうつろな空間を、
内側にこのまったき虚空を生みださないかぎり、
わずかに浮上しては、再び降下することになる。

だが、あなたがひとつの不在――否定的な不在ではなく、
完全に肯定的な不在になることができたら、
月は無数の水面を引き寄せる。

そうなったら、あなたは上昇し、
どこまでも昇りつつ゛け、そして
月との出会いが起こる!
この暗黒の只なかに、突然、天上のこころが動きはじめる。
ふつうの心臓が止まり、
ふつうの脈拍が停止するとき、
あなたははじめてまったく異なる
質が生まれてくるのを感じる。

あなたは再び息を吹き返すが、
その息はもはや前と同じものではない。

あなたの脈は再び打ちはじめるが、
それはもはや同じ脈ではない。

今や神があなたのなかに生きている。
今やあなたはそこになく、
ただ神だけが存在している。

私たちがブッダを「バグワン」と呼ぶのはそのためだ。
神が彼のなかで生きはじめる瞬間がやって来た。

人は姿を消してしまった。
人はたんなる中空の竹となり、
そこを神の歌が流れはじめた。

それが究極の目的地だ。

(p451)




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