黄金の華の秘密

スワミ・アナンド・モンジュ訳 めるくまーる出版
 

第十三話 霊的な仙薬

呂祖師は言った。
沈黙が訪れると、一片の思考すら湧き起こらない。 内側を見ている者は、突然、見ていることを忘れてしまう。 このとき、身心は完全に解き放たれてしまうであろう。 いっさいのしがらみは跡形もなく消滅する。 自分の精神の宮と坩堝るつぼがどこにあるのか、もはやわからない。 肉体を確かめたいと思っても、つきとめることができない。 これは「天が大地に浸透する」という状態であり、 すべての霊妙なものが根元に帰るときだ。
長足の進歩を遂げると、影もこだまもすべて消え去り、 学人は深い静けさのなかで悠然としている。 これは不可思議なものすべてが根源に帰り、 気(エネルギー)の洞穴に納められたということだ。
場所を変えずとも、場所はおのずと変わってゆく。 そこは形なき空間であり、そこでは千の場所も万の場所も ひとつの場所に他ならないからだ。 時間を変えずとも、時間はおのずと変わってゆく。 これは測ることのできない時間であり、 そこでは無限の劫こうも一瞬に他ならないからだ。
こころというものは、静けさの極点にまで 達しないかぎり、動くことのできないものだ。 人が動きを起こしてその動きを忘れるようなら、それは本来の動きではない。 それゆえに外界の事物の刺激を受けて動くのは本性の欲望であり、 外界の事物の刺激を受けずに動くのは天の動きであると言われる。
だが、思念が起こらないときには、正しい思念が湧いてくる。 それが真の思念だ。ものごとが静まり、悠然としていると、 天の活動のあらわれが突然動きだす。 これこそ何の意図もない動きではないだろうか? 無為にして為すとは、まさにこれを意味する。
最も深い秘密は、いついかなるときも、 欠かすことのできないものである。これは こころを洗い、思念を清めることであり、沐浴である。
それは無極にはじまり、再び無極へと帰る。 仏陀は意識を創出する無常なるものを宗教の根本的な真理として語る。 生命と人間の本性を完成させる仕事のすべてが 「虚空を生み出す」という言葉に含まれている。
すべての宗教は、死から出て生に入るための 霊的な仙薬を見いだすという点では目的を同じくする。
この霊的な仙薬はどこに帰するのか? それはいつも無念無想の境地にあるということだ。 道教で説かれる沐浴、洗い清めるという最も深遠な奥義は、 こころをからっぽにする修行につきる。 これですべてのことに片がつく。
ある満月の夜のことだ。
大地は初々しい花嫁のように見えた。
月の光は雨のように降り注ぎ、空も海も
大いなる喜びに包まれていた。

樹々は酔っぱらい、酔いしれ、
陶酔しているかのように風に揺られ、
山頂に雪を抱いた遠くの山々は
深い瞑想のなかにあるブッダのように見えた。

松の老木を吹き抜ける風は清らかな調べをかなで、
舞い踊る天地万物には、もう少しで触れられそう
なほどのしっかりとした手応えがあった。

そして、このような歓喜と祝福に満ちた夜に、
彼方なるものが地上に降りてきた。

希有な女性である千代能が光明を得た。
彼女は再び楽園にもどった。
彼女はわが家に帰り着いた。

時が消え、時の感覚がなくなり、永遠のなかで、
永遠なるものとして生まれるとは
なんという瞬間だろう!

完全に消滅しながら、
しかもはじめて存在するとは
なんという瞬間だろう。

尼僧の千代能は何年にもわたり修行してきたが、
光明を得ることができなかった。

ある夜のこと、彼女は水をなみなみと張った古い手桶を運んでいた。
彼女は歩きながら、桶の水面に映る満月を眺めていた。
と、突然、桶をたばねていた竹のたががはずれ、
桶はばらばらになってしまった。

水はこぼれ、月影は消え去り、
そして千代能は光明を得た。

	千代能がいただく桶の底抜けて
	水もたまらず月も宿らず

光明は起こるときに起こる。
起こるように命じることはできないし、
それを引き起こすこともできない。

それでも、それを引き起こすために
多くのことを為すことはできるが、
どんな行為も光明を引き起こす原因にはならない。

どんな行為も光明をもたらしはしないが、
光明を受け取れるようみずからを準備することにはなる。

それは訪れるときに訪れる。

あなたの行為はすべて、光明を受け取れるよう、
それが訪れたことを知り、その到来を認識できるよう
準備をすることに他ならない。

それは起こる……
だが、自分に用意ができていなければ
見逃しつつ゛けることになる。

それは刻一刻と起こりつつある。
吐く息、吸う息のひとつひとつが光明をもたらす。

なぜなら、光明とは
<存在>を成り立たせている素材
そのものに他ならないからだ。

だが、それを認識するのはむずかしい。
それがそこにあることに気つ゛くのはむずかしい。

神は存在する。
神の存在は疑いようがない。

問題は、私たちには神が見えない、
見る目がそなわっていないということだ。

瞑想や祈りや浄化はすべて、あなたに
見る力をそなえさせてくれる助けになるにすぎない。

ひとたび見ることができたら、
あなたは驚くだろう――
それはつねにそこにあった。

昼も夜も、年がら年中、
それはあなたの上に降り注いでいたのに、
あなたはそれをとらえることができるほど敏感では
なかったし、それに満たされるほどからっぽではなかった。

あなたはあまりにも自我エゴで一杯になっていた。

元をたどるなら、これが
最も基本的なことがらだ――
あなたがいなくなると、
ただちに光明が起こる。

虚空が現れると、
ことはすべて片つ゛いてしまう。

あなたがいつつ゛けるなら、あなたは
無知のままであり、闇に満たされている。

 あ な た が闇だ。

そこに あ な た が い る ことが"魂の闇夜"だ。

あなたがいるとき、
あなたは<存在>から分離している。

それが闇をつくりだしているものだ――
私と<全体>とのあいだには
溝がある、隔たりがあるという
思い。

そうなったら私は独りぼっちになる。
そうなったら恐怖に包まれて、苦しみが生まれる。

私はひどく孤独な、ちっぽけな存在であり、
いずれ死がやって来たら、跡形もなく消されてしまう。
死にあらがって身を守るすべはない。

こうして人は震え、おののきながら生きている。

だが、私たちが
震えや恐怖を引き起こしている。

<存在>から切り離されているというその
思いがそれをつくりだしている。

この分離感を落としたとたん――
自分は切り離されていない、
けっして切り離されることもないし、
分離など起こりようがない、
自分は全体の一部であり、
元から全体に組み込まれている、
自分は全体のなかにあるし、
全体は自分のなかにある
ということを見た瞬間――
問題は解消し、永遠に溶け去ってしまう。

死が消え失せ、恐怖が消え失せ、苦悶が消え失せる。

そして恐怖、不安、苦悩に巻き込まれていた
エネルギーが一挙に解き放たれる。

その同じエネルギーが魂の祝祭と化す。

光明とは何だろう?
それは本当のあるがままの自分
を見る度量のことだ。

私たちに自我エゴなどというものはない。

自我というのはたんなる思い込みにすぎない。

私たちがそれをつくりだし、それを投影している。

それは私たちの幻想であり、私たちの夢だ。

それは実在せず、現実にはないものだ。

気つ゛きを深め、内側を見つめれば
見つめるほど、自分というものは消えてゆく。

気つ゛けば気つ゛くほど、あなたはいなくなる。

そして覚醒がすみずみにまで
行きわたる瞬間、あなたは消え失せる。

もはや水はなく、
水面に映る月影もなく、
あなたの手はからっぽだ。

それはからっぽであり……
ことはすべて片つ゛いている。

それが千代能に起こった。

彼女は長いあいだ修行してきた。
彼女はありとあらゆる瞑想を行ない、
ありとあらゆる技法を修得してきたが、
それでも悟ることができなかった。

それを引き起こすことはできない。

それはあなたを超えている。

あなたに引き起こすことができるなら、それはあなた以下のものだ。
あなたに引き起こせるなら、それはまたもや
自我エゴの新しい飾りにすぎないものになる。

それを引き起こすことはできない。
それが起こるよう仕向けることはできない。
それが起こるためには、あなたが消えなければならない。

だから世界中の経典を学びつくすこともできる。
あなたは豊かな学識をそなえた知識人にはなるだろうが、
それでも光明を得ないままでいる。

実のところ、知識を蓄えれば蓄えるほど
自我が膨らんでゆくために、あなたは
前よりもっと光明から離れてゆく。

苦行を積めば積むほど、あなたの自我は膨らんでゆく。

「私はこれをやっているし、あれもやっている。
私はずいぶんたくさんのことをやってきた――
断食をくり返し、数しれぬほど礼拝をしてきた」

やればやるほど自分に価値
があると思い、光明に値すると思うようになる。

光明を要求することはできない。

光明が訪れるためには、人は
完全に消えなければならない。

神が訪れるためには、思考
マインドがやまなければならない。

それを「神」と呼ぼうが、「光明」と呼ぼうが――
それは同じものだ。

千代能は長いあいだ修行をしてきたが、
光明を得ることができなかった。

光明は探し求めることによって
見いだせるようなものではなく、
探求がすべて無益であることが
明らかになったときに訪れてくる。

そして、いいかね、私は
「探し求めてはいけない」
と言っているのではない。

探し求めないかぎり、
探求が無益であることは
けっしてわからないからだ。

私は「瞑想をしてはいけない」
と言っているのではない。

瞑想をしなければ、
するのではなく
向こうから訪れてくる
瞑想がある
という理解にはけっして到らない。

瞑想は、たんにあなたの目を洗い清め、
もっと見えるようにしてくれるだけだ。

あなたのこころハートは、
もっと敏感に冴え、とぎ澄まされ、
愛に満ち、感じやすくなる。

あなたの実存は今まで見た
ことがないものをとらえはじめる。

あなたはみずからの実存の内にある
新しい空間を探求しはじめる。

新しいことが毎日、刻一刻と起こるようになる。

あなたの瞑想は風呂のようなものだ――
風呂に入るとすっきりするが、
そのさわやかさは悟りではない。

それはたんに道を整えるだけだ。

あなたが光明に到ることはけっしてない。

それはつねに向こうからやって来る
――光明があなたのもとに到る。

神があなたのもとにやって来れるよう、
神のための道を整えなさい。

神を見いだすことはできない。

できるのは、
神があなたを見つけだしてくれるように、
深く信頼して、待つことだけだ。

千代能もそのようにして取り逃がしていた。
彼女は探求し、探求し、その探求にあまりにも
巻き込まれすぎていた。

だが、この探求もまた
「私は求道者だ」「私は凡人ではない」「私は精神的だ」「私は宗教的だ」
「私は高潔だ」と言って、あなたのエゴを膨らませる。

もしこの"おまえよりも私のほうが高潔だ"
といった態度が生まれてきたら、
あなたは道に迷ってしまう。

それは人生で犯しうる
最大の罪であり、最大のあやまちだ。

他人よりも自分のほうが高潔であり、自分は聖者だが他人は罪人であり、
「見ろ、私の徳の高い人生を」といった思いが浮かんできたら、
有徳の人になってしまったら、あなたは道に迷ってしまう。

なぜなら、この
自分は徳が高いというエゴは
もっとも微妙なエゴであり、
落とすのがひじょうにむずかしいからだ。

鉄の鎖を捨てるほうがやさしい。
ダイヤモンドを散りばめた金の鎖を身にまとうことができたら、
それを捨てることはいっそうむずかしくなる。

なぜなら、それは鎖のようには見えず、高価な装飾品のように見えるからだ。

汚い牢屋から脱け出すことはやさしいが、
もしそれが宮殿だったら、誰が脱け出したいと思うだろう?
脱け出すどころか、なかに入りたいと思うだろう。

罪人のほうが聖人よりも神に近い。
なぜなら、罪人はその境遇から脱け出したいと思っているが、
聖人は得意になって自分の幻想にひたっているからだ。

千代能は尼僧だった。彼女は微妙な、自分は正しい
――ものをよく知っている、高潔な人間だ
――という態度を楽しんでいたにちがいない。

彼女は偉大な出家者だった。彼女はすばらしい美貌に恵まれていたと言う。
あまりに美しいので、ある僧院を訪ねたときには断られてしまった。
こんなに美しい女性を僧院に入れると、僧侶たちが動揺するかもしれないからだ。

その後、彼女は顔を傷つけてやっと別の僧院に入ることができた。
彼女はすばらしい美人だったにちがいないが、ちょっと考えてごらん……
彼女は自分の顔を傷つけて、それを醜くしておきながら、
深いところではこう考えていたにちがいない。

「私のみごとな捨て方を見なさい。私はとても美しい女性だった。なのに私はその顔
を傷つけた……こんなことをした者はかつていなかったし、これからもいないだろう。
私の捨て方を見なさい。肉体への執着のなさを見なさい。私は美貌のことなど少しも
気にしていない。私はどんな犠牲を払っても光明を得ようと決意している」

こうして彼女は見逃しつつ゛けていた。

だが、ある満月の夜に
それは起こった。
それは意表をついて、突然、起こった。
それはいつも不意に起こる。
それはつねに突発的に起こる。

だが私は、
それは他の誰にでも起こりえたと言っているのではない。
それは千代能に起こった。

彼女が為したことはどれもその原因ではないが、
彼女が為したことのすべてが
彼女の内側にあるものを――
何をやっても失敗に終わる、
人が成功することはありえない
という理解を生じさせた。

彼女はまったく望みのない
状態に到ったにちがいない。

その絶望は為しうることをすべてやりつくした
ときにはじめて感じられるものだ。

そしてその絶望が訪れたときに、
はじめて希望が生まれてくる――
その救いようのなさのなかで、
自我エゴは大地に叩きつけられ粉々になる。

人はもはや何ものも要求しない。

自我はその絶頂に達して
はじめて、その頂点で消えてゆく。

中途半端な自我を落とすことはできない。
それはできない相談だ。

なぜなら、まだ先に望みがあるからだ。

「わからないぞ、もう少し努力すれば、
もう少し修行すれば、もう少し執着を捨てれば……わかるものか。
まだすべての方角を調べたわけじゃない、まだ望みはある」
とそれはつぶやく。自我というのはしぶとい。

だが、可能なあらゆる方角をすべて探しつくし、
究めつくしたのに、いつもしくじってばかりいれば、
失敗につぐ失敗を重ねていれば、いつまで探求し、
探索することをつつ゛けていられるだろう?

いつの日か探求や探索は落ちてしまう。

だからこのパラドックスを覚えておきなさい――
光明は探求を落とした者たちにしか起こらない。

だが、探求を落とすことができるのは誰なのか?
それは充分に深く究めつくした者たちだけだ。

これはパラドックスだ。
これは理解しなければならない大いなる秘密のひとつだ。
それを胸の奥に沈潜させなさい。

片方だけを選ぶ可能性は高い。

「探し求めよ、そうすれば汝は見いだすだろう」と言う者たちがいる。

それは真理の半面にすぎない。
ただ求めるだけで見いだした者はひとりもいない。

また「求めても神が見つからないのなら、そもそもなぜ求めるのか?
待てばよい。やがて神の恵みとして起こるだろう」と言う者たちもいる。

そのようなやり方でもけっして起こらない。

あなたがたは何世紀にもわたり、何生にもわたって
待ちつつ゛けてきたが、いまだにそれは起こっていない――
そのような仕方では起こらないことは
それだけで充分に明らかだ。

では、
それはどのようにして起こるのだろう?
それは探し求めることをやめた探求者に起こる。
それはもてる力をすべてふり絞って探求したが、
しくじった者、完璧にしくじった者に起こる。

その失敗のなかで、
最初の光線が、不意にあなたに射してくる!

救いようのない絶望感にひたっているとき、
光明のことはすべて忘れようと諦めているとき、
探求がやんで、光明を得たいという欲望さえも
なくなってしまったとき、突然、それが訪れる
……そしてそれで何もかも片ずいてしまう。

それはそのようにして千代能に起こった。
それはそのようにして仏陀に起こった。
それはいつもそのようにして起こる。

仏陀は六年間にわたって働きかけてきた――
懸命に働きかけてきた。

思うに、これだけ激しく
働きかけた者は他にはいないだろう。

彼は命じられたことはすべて、
できると耳にしたことはすべて、
どこかで拾い集めることができたものはすべて
やりつくしてしまった。

彼はあらゆるタイプの師のもとを訪ね、
実に厳しい修行を重ね、誠実に、真面目に取り組んだ。

だが、六年が虚しく過ぎていったある日のこと、仏陀は、
このようにしていてもそれは起こらない、
働きかければ働きかけるほど、
私というものが強くなってゆく、
という事実に気つ゛いた。

その日、彼はくつろいで、
探し求めることを完全に落とした。

すると、まさにその夜のこと……
その夜もやはり満月だった。満月と光明には
どこかつながりがあるにちがいない。

満月は海に与えるのと同じくらい
深い影響をあなたのこころハートに与える。

満月はあなたを揺り動かし、美や至福へと向かわせる。

それはあなたのなかに何かを……仙薬をつくりだす。

それは人の感受性をひじょうに高めるので、
あなたは今まだかつて見たことがないものを
見ることができる。

それは満月の夜のことだった。
仏陀はゆったりとして、完全にくつろぎ、
はじめてぐっすりと眠った――何かを探し求めて
いるとき、どうして眠ることができるだろう?

眠りのなかでも探求はつつ゛き、欲望は夢を紡ぎだしつつ゛けている。

今や、何もかもが失敗に終わってしまった。

彼はこの世間を、王国を、恋愛や人々との関係
の喜びや苦しみを、肉体と心の苦悩や歓喜を見てきた。

続いて彼は禁欲の修行者、僧侶となり、
たくさんの道に従い、それもまた見てしまった。

彼はいわゆる世間を味わい、
いわゆる出世間をも味わったが、
いずれも失敗に終わった。

もはやどこにも行くところはない、
これ以上は一寸たりとも動けない。

欲望はみな消え失せてしまった。

そこまで絶望しきっているとき、
どうして欲望を抱くことができるだろう?

欲望とは希望のことだ。
欲望とは、まだ何かする
ことができるということだ。

その夜、仏陀は
"為しうることは何もない、いっさい何もない"
ということを知るに到った。

その要点を見るがいい。
そこにはとほうもない美しさがある……
為しうることは何もない、いっさい何もない。

彼はくつろいだ。
彼の身体はゆったりとくつろいでいたにちがいない。
彼のこころハートはゆったりとくつろぎ、
願望も、未来もなかったにちがいない。

この瞬間がすべてだった。

空には満月がかかり、
彼は深い眠りについていた。

そして、朝が来て、目覚めたとき、
彼は通常の眠りから覚めただけではなく、
私たちみなが生きている形而上的な眠りからも
覚めていた。

彼は覚醒をとげた。

彼は弟子たちによくこう言った。
「私は懸命に働きかけたが、成長することができなかった。
そして働きかけるという考えそのものを落としたとき、私は成就した」

私が自分の仕事ワークを「遊び」と呼んでいるのはそのためだ。

あなたがたは矛盾した立場に立たざるをえない。
それが「遊び」という言葉の本当の意味だ。

あなたがたは働きかければ何かが起こる
かのように妙に深刻な姿勢で取り組んでいるが、
それは働きかけることを通しては絶対に起こらない。

それは働きかけることがやみ、
遊び心に満ちた気分が生まれ、
くつろいだ気分になったときにはじめて起こる……

しかもそれは努力して身につけたくつろぎではなく、
こう理解することで生まれるくつろぎだ――
「何をやっても、"私"をますます強めるだけだ。
何をやっても、自我エゴをますます膨らませるだけだ。
自我は障壁なのだから、何をやっても元のもくあみだ」

これを見抜くと、行為はかき消えてしまう。

そして行為なくして、どうして
行為の主体が存在できるだろう?

行為が消えれば、その影である
行為の主体も消えてゆく。

そしてあとにはあなたが残される――
<全体>のなかに、この宇宙的な遊戯の
一部として、丸ごと、完全な状態で。

それが光明だ。



これらの経文にはとほうもない価値がある。
それらに瞑想するがいい。
呂祖師は言った。
沈黙が訪れると、一片の思考すら湧き起こらない。 内側を見ている者は、突然、見ていることを忘れてしまう。
沈黙には二つの種類がある。

ひとつは修養して身につけるものであり、
もうひとつは訪れてくるものだ。

修養して身につけた沈黙は抑圧された騒音にすぎない。
黙って坐ることはできるし、長期にわたって坐りつつ゛け、
何か月も何年も訓練をつつ゛けてゆけば、次第に
騒音を抑圧できるようになってゆく。

だが、あなたは依然として火山の上に坐っている
――それはいつ噴火するともかぎらない、
ちょっとしたきっかけがあれば充分だ。

それはほんとうの沈黙ではなく、強いられた沈黙にすぎない。
これが世界中で起こっていることだ。

瞑想しようとしている人々、静かになろうとしている人々は、
ただ自分に静けさを強いているだけだ。強いることはできる。
自分の周囲に何層もの静けさを張りめぐらせることはできるが、
それは自分自身をだますことに他ならない。

そんな皮相なものでは役に立たない。

沈黙があなたの実存そのもの
から湧き起こってこないかぎり、
外から内側に強いられたものではなく、
逆に内からやって来たものでないかぎり
――それはやって来る、
内から外に向かって湧きあがってくる、
中心から周辺に向かって湧きあがってくる
……それはまったく異なる現象だ。

呂祖は言っている。
沈黙が訪れると――
いいかね、それはもたらされたものではなく、
強いられたものではなく、訪れるものだ――
一片の思考すら湧き起こらない。

そうなったら、あなたは火山の上に坐っているのではない。

私の方法論全体が沈黙を
修養して身につけるのではなく、
内なる騒音を発散浄化カタルシスして、
それを投げ捨てることにあるのはそのためだ。

私のもとにはじめてやって来た人々はひじょうに困惑する。

仏教の師のもとにいたことがあるなら、
彼らはヴィパッサナをやり、坐を組み、自分自身に
ある決まった姿勢を強いていただろう。

なぜ姿勢をくずさないのか?
それは身体をある一定の姿勢に強いてとどめておくことで、
心マインドもひとつの形に押し込めておくことができるからだ。

肉体ボディと心マインドは連動している。
心は肉体の内なる局面であり、
それは物質的な現象だ。

それはあなたの実存とは何の関係もない。
それは肉体と同じように物質的なので、肉体に何かをすれば、
それは自動的に心にも反映する。

だからいつの時代にも人々は姿勢を整える訓練を行なってきた――
蓮華坐の姿勢で坐り、仏像のように、石仏のようになるよう肉体に強いる。

身体を微動もさせないでいることができれば、
心がある種の静けさのなかに入ってゆくのに気つ゛くだろう。

だが、それはまやかしであって、本物ではない。
身体の姿勢によって力つ゛くで静かにさせているだけだ。

試してみるといい――こぶしを握り、顔をしかめ、
歯を噛みしめて、憤怒の姿勢をとってみるがいい。

そうして憤怒の姿勢をとってみると、
驚いたことに、本当に怒りを覚えはじめる。

俳優はそれをやっている――
身体を動かして一定の姿勢をとり、
そこに入りこんでゆくと、やがてその気になってくる。

二人の偉大な心理学者ジェームズとランゲは、今世紀の初頭に実に奇妙な
理論を編み出した。それはジェームズ&ランゲの理論として知られている。
彼らは昔から常識とされてきたことにそぐわない、ひじょうに奇妙なことを言った。

ふつう私たちは、人は怖くなって逃げだす、恐怖に駆られて走りだすと考えている。
ジェームズとランゲは、それは真実ではないと言った――走るから、恐怖を覚えるのだと。

馬鹿げて見えるが、そこにはいくらかの真実が含まれている――半面の真理が。
常識にも半面の真理はあったが、これもまた同じ全体のもうひとつの半面を言って
い。笑いはじめたら、悲しみが前よりも少し軽くなった感じがする。冗談を言って
笑っている友人たちのそばに行って坐るだけで、自分の悲しみや惨めさを忘れてしまう
。あなたは笑いはじめる。すると笑いはじめたとたんに、気分がよくなってゆく。

身体からはじめることもできる。試してみるといい!
悲しみを感じていたら、駆けだしてみるといい。

家の近くを七回ほどまわって、
深呼吸をし、陽光を浴びて、風に吹かれなさい。
七回まわったら、立ち止まって、心境の変化がないかどうか
見てみるといい。いいや、同じであるはずがない。

肉体の変化が心を変えてしまった。
肉体の生化学が心を変えてしまう。
ヨーガの姿勢はそのためにある。
それらはすべて心を一定のパターン
に押し込むための姿勢だ。

それは本当の沈黙ではない。

本当の沈黙はひとりでに現れて
くる沈黙でなければならない。

私が勧めるのは、肉体に無理強い
してはいけないということだ。

それよりも、踊ったり、歌ったり、身体を動かしたり、
走ったり、ジョギングしたり、泳いだりするがいい。

肉体をありとあらゆる仕方で動かしなさい。そうすれば
心マインドもまたありとあらゆる仕方で動き、そのようにして
内側をかきまぜることで、発散浄化カタルシスがはじまり、
心は毒を放り出してゆく。

大声で怒鳴り、怒り、枕を叩きなさい。
すると驚くようなことが起こる――
枕を叩いたあとは、気分がすっきりする。
心のなかにあったものが解き放たれたのだ。

妻や夫を殴るのも、枕を殴るのも大差はない。
枕は、妻や夫を殴るのと同じくらい完璧に役に立つ。

肉体にとっては殴る相手が誰であろうと同じことだからだ。
殴るポーズを取るだけで心は怒りを放出しはじめる。
心と肉体は協調して働いている。

カタルシスからはじめなさい。
そうすれば子ども時代から内側にため込んできた
がらくたを一掃することができる。

怒っていたのにそれを外に表すことができなかったのは、
怒れば母親が取り乱してしまうからだ。

あなたはそれを抑え込んでしまった。
あなたは腹が立ち、怒鳴りたかったが、
そうすることができず、逆に微笑みを浮かべた。

内側にため込んできた す べ て の も の 
――あなたはそれを投げ捨てなければならない。

そうして待っていると……
沈黙があなたのなかに降りてくる。
その沈黙には他にはない美しさがある。

それはまったく別のものだ。
そこには異なる質がある。
そこには異なる深みがある。

 沈黙が訪れると、一片の思考すら湧き起こらない
――思考が起こってこないように抑え込んだわけではない。
見張っていたわけではないし、こちこちに身を固め、
一片の思考がよぎるのも許さなかったわけではない。

あなたは闘っているのではなく、
手放しの状態になっているのだが、
何ひとつ湧いてこない。

一片の思考も起こらず、
思考がひとりでに消えてゆくとき
――それは美しい。

そうなったらあなたは完璧に静かであり、
その沈黙はよいものだ。

強いられた沈黙はよいものではない。
内側を見ている者は、突然、見ていることを忘れてしまう。
その体験のなかで、こんなことが起こる――
内側を見ている者は、突然、見ていることを忘れてしまう

これが本当に内側を見るということだ――
内側を見ていることさえ忘れてしまうということが。

内側を見ていることを覚えていたら、
それはまたしてもひとつの思考にすぎない。

最初は外界を見ていたし、
今度は内界を見ているが、
そこには自我エゴがある。

最初は外向的で、
今度は内向的だが、
そこには自我がある。

最初は樹々を見ていたが、今度は思考を見ている。
最初に見ていたのは客観的なものであり、
今見ているのは主観的なものだが、
ことのすべては少しも変わっていない。

あなたは依然として二つに――
見る者と見られるものに、
観察者と観察されるものに、
主観と客観に分割されている。

二元性がしぶとく残っている。

これは本当の沈黙ではない。

二つのものがあれば葛藤が起こらざるをえないからだ。
二つのものは静かではありえない。

ひとつになると、
どんな葛藤も起りえないので、
あなたは静かになる。

沈黙を強いるのではなく、それが
自然に降りてくるのを許しなさい。

強いられた沈黙は作為的であり、
一方的に押しつけたものだ。

これこそ私がここであなたがたとともに、
私の人々とともに起こそうとしている
大いなる変革のひとつだ。

古い技法はすべて基本的に何かを強いている。

私が理解するところでは、
けっして何も強いてはいけない。
むしろ、もち歩いてきたがらくたを
すべて放り出すがいい。

もっともっとからっぽになり、
もっと広々とした空間をもちなさい。
内側にもう少し空間をつくりだせば、
その空間に沈黙が訪れてくる。

自然は真空を嫌うから、
がらくたをすべて放り出して、
からっぽになることができたら、
彼方なるものが内側に降りてくるのを
目の当たりにするだろう。

舞い踊るエネルギーが
あなたのなかに、
あなたのすべての細胞のなかに
入ってくる。

あなたは言葉もなく、
音もない歌、聖なる音楽に
満たされる。

この音楽のなかには見ている者がいない。
この音楽のなかには見られている者がいない。

観察する者が観察されるものになっている。

踊り手は踊りそのものになり、
あらゆる二元性が消え失せている。

この非二元性こそ真の沈黙に他ならない。
このとき、身心は完全に解き放たれてしまうであろう。
このような瞬間には、
手放し状態のままでいなければならない。

姿勢のことなどいっさい忘れてしまいなさい。
やろうとすることはすべて忘れて、何も
しようとしてはいけない。

無為の状態にありなさい。

ただゆったりとして、
完全にくつろぎ、何もせずにいる。

くつろげばくつろぐほど、
あなたの実存にさらに深い沈黙が
浸透してゆけるからだ――ただ開いて、
感じやすくなり、くつろいでゆくがいい。
いっさいのしがらみは跡形もなく消滅する。
すると驚いたことに、
落とそうとしていたのに
落とせなかったすべての欲望が、
いつの間にか消え去っている。

世間のしがらみ、頭をわずらわす仕事、そういった
あらゆる雑念や行き交う思考の流れは、もはや跡形もない。

あなたは驚くだろう――
あの連中はみなどこへ行ってしまったのだろう?
と不思議に思うだろう。

あなたは奮闘していたが、努力しているときには、
一片の思考ですら追い出すことはできない。
やってみるといい。

思考をひとつでも放り出したい
と思ったら、あなたは完全に失敗する。

それは放り出せない。
放り出そうとすればするほど、なおいっそう
大きな音を立てて自分に跳ねもどってくる。

静かに坐って、猿のことを考えないようにしてみるといい。
それは単純な実験だ。一匹だけではなく、猿が次から次へと
ぞろぞろやって来て、あなたに百面相を見せてくれる。

追い払おうとすればするほど、猿たちはますます扉を叩いて、「なかに入れてくれ」
と言うだろう。猿たちはあまり行儀がよくないから、ことわりもせずに、なかに
飛び込んでくるかもしれない。あなたは猿また猿に取り囲まれる。
忘れようとすればするほど猿はますますたくさん現れる。

何かを忘れようとしたら、それを
ますます思い出すことになるからだ。
それは思い出そうとするのと同じだ。
努力をすることで忘れることはできない。

沈黙が降りてくると、突然、
いっさいのしがらみが消えてしまう
――跡形もなく消え去る!
後には痕跡すら残らない。

あなたは信じられない、
あのすべての騒音は……どこへ行ってしまったのだろう?
それがかつて自分のなかにあったことすら信じられない。
それが今なお他人のなかにあることが信じられない。

これは目覚めた人々がみな
直面しなければならない基本的な問題のひとつだ。

あなたがたはあらゆる問題を抱えて
私のもとにやって来るが、
私の苦境がわかっていない。

私にはまずこのことがわからない――
あなたがたはどうしてそんなにたくさん
の問題を抱え込むことができるのだろう?
どうやってそれを抱えつつ゛けているのだろう?

あなたがたは本当に信じられない
ようなこと、不可能なことをやっている!

なぜなら、私が思考をつかもうとしても、
それはすり抜けていってしまうからだ。
それはつかめない、それは逃れ去ろうとする。

ところがあなたがたは「思考を止めたいのですが止められません、
その努力にすっかり疲れ果て、退屈し、うんざりしています」と言う。

あなたがたは本当にみごとな芸当をやっている!

いつの日か沈黙があなたの上に降りてくれば
わかるだろう……それは痕跡すら残さない。

内側に思考が存在していたことすら信じられない。
思考はすっかり消え失せている。
それは影にすぎなかった。

思考は本質的なものではなく、
影にすぎない。
影は消えても跡を残さない。そもそも
影には実体がないから、その足跡を見いだすことはできない――

あなたがたの思考もそうであり、
あなたがたの想念マインドもそうだ。



自分の精神の宮と坩堝るつぼがどこにあるのか、もはやわからない。
この状態が起こり、
内に沈黙が降りてきて、それにおおいつくされると、
内を見ているのか外を見ているのかわからなくなる。

誰が見ている者で、
誰が見られている者なのかわからなくなる。
自分の精神の宮と坩堝がどこにあるのか、もはやわからない。
そうなったら自分が誰であるかを言うことはできない。

あなたはそこにいる――
実際、はじめてあなたは存在しているのだが、
ではそれはいったい何者なのか、それは何なのか?

答えはやって来ない。

中国の武帝がボーディダルマに尋ねた……

ボーディダルマは武帝をひどくいらだたせていた。
ボーディダルマは大胆不敵で、歯に衣を着せず、ずばりとものを言う男だった。

武帝は尋ねた。「私はたくさんの善行を
積んできたが、天国でどのような報酬を得られるだろう?」

ボーディダルマは深い軽蔑のまなざしを武帝に向けながら言った。
「報酬だって?あなたは地獄に堕ちるだろう!天国なんてとんでもない」

武帝は言った。「良い行いをしたのに、地獄へ堕ちると言うのかね?
私はたくさん寺を建て、無数の仏像をつくり、無数の仏教僧を養い、寺院を国費
で維持し、仏陀の法ダルマ、その教えを広めるために大いにつくしてきた。国中
の者たちが仏教徒になろうとしている。人々は瞑想をし、祈りを捧げている。
経典の翻訳も進められ、何千人もの学者が翻訳に取り組んでいる。なのにあなたは
何の報酬も得られないと言うのかね?私の行為は神聖なものではないと言うのかね?」

するとボーディダルマは言った。
「神聖なものだって?この世には聖なるものなど何もない。
聖もなければ、俗もない。だが、いいかね」と彼はつつ゛けた。
「この自分は徳を積んだ人間だという思いを落とすがいい。
この偉業を成し遂げたという思いを落とすがいい。
そうしなければ、無間地獄に堕ちてしまうぞ」

当然、武帝は気分を害し、いらだった……きっと豊かな教養を身につけた文化人だった
にちがいない。そうでなければボーディダルマに乱暴な振る舞いをしていただろう。
だが、その彼ですら誘惑には逆らえず、気分を害し、腹を立てながら尋ねた。
「では、私の前に立っているあなたは誰なのか?聖もなく、俗もなく、
徳もないならば、私の前に立っているのは誰なのか?」

ボーディダルマは笑いながら言った。「私は知らない」

だが、武帝は理解することができなかった。
あなたがたも取り逃がしたかもしれない。

ふつう私たちは、到達した人は自分がだれであるのかを知っていると考える。
だから彼は「自己知識を達成した人」と呼ばれる。

ところがボーディダルマは
「私は知らない」と言う。
これは自己知識の最高峰だ。
これこそが 本 当 の 自己知識だ。

人は消えてしまった。
知る者がそこにいるだろうか?

知るということは、
知る者と
知られるものがあるということだ。

そこにはもはや二元性はない。

知る者がそこにいるだろうか?

そこには沈黙だけが、
とほうもない沈黙だけがあり、
分割はなく、分かつことのできないものがある。

「私は知っている」などとボーディダルマが口にするはずがない。

もし彼が「そうだ、私は自分が永遠の魂であることを知っている」
と言っていたら、この出会いはごくありきたりのものになっていただろう。

おそらくそのほうが武帝は納得しただろうが、
ボーディダルマは面目を失っていただろう。

彼は正直だった。
彼は「私は知らない」と言った。

「私は自分が誰なのか知らない」
と言う者に誰がついて行くだろう?

武帝はこの男について行くことを諦めた。
武帝に理解できないことがわかると、ボーディダルマは言った。
「皇帝ですら私を理解できないとしたら、他の者たちなど当てにはならない」

そこで彼は山に入り、
壁に向かって九年間坐りつつ゛けた。

人々がやって来て、「なぜ壁の方ばかりを向いているのですか?」
と尋ねると、彼はこう言ったものだ。

「人々の方を向いても、みんな壁と似たようなものだ。
壁の方を向いているほうがましだ。壁ではない者、
感応力と理解力をそなえた者が来たら、そこではじめて
その人に顔を向けるとしよう」

「私は知らない」
という彼の言明には
計り知れない美しさと気高さがある。
(p473)



自分の精神の宮と坩堝るつぼがどこにあるのか、もはやわからない。 肉体を確かめたいと思っても、つきとめることができない。
こうして沈黙が
あなたを覆いつくし、
あなたを包み込む瞬間、
自分の肉体を確かめたいと思っても、
つきとめることができない。

もう肉体はないとも言えるし、
もはやあなたは分離していないので、
全存在があなたの肉体になっている
とも言える。

この状況はときとして人を狂気に追い込みかねない。
注意するがいい。

目を開けても肉体が見つからず、
目ではとらえられないといったことが起こっても、
心配してはいけない。

先日の夜、あるサニヤシンが私に尋ねた。
「鏡の前に立っていると、何だかわけがわからなくなってしまいます。
というのも、鏡に映る姿が自分だとは思えないからです」

それは途方に暮れさせる。
鏡をのぞき込むたびにこの問い――
「これは誰だろう?」という問い
が湧き起こってくるので、彼は最近では鏡を避けている。

「これは私だ」と感じることができない。
さあ、これでは頭がおかしくなっても無理はない。
このために彼はひじょうにかき乱されていた。

だがこれは役に立つしるし、確認のしるしだ。

現によいことが起こっている。
彼は肉体との同一化を解きはじめている。

それはよいことだ。
彼は正しい道の上にいる。

私は彼にできるかぎり鏡をのぞき込むよう、
そして暇を見つけたらいつも鏡の前に坐って、
鏡に映った肉体を見つめ、「これは私ではない」
と感じつつ゛けなさいと言った。

「これは私ではない」とくりかえす必要はない。それはまやかしになる。

ただ感じるだけでいい!

それは彼にひとりでに起こっているから、問題はない。
これは彼の自然な瞑想になるだろう。
それで充分だ。

ゆっくりゆっくり、やがていつか鏡に映る影を
見ることができなくなる瞬間がやって来る。

そのほうがもっと通常の感覚をかき乱す。

スワパーヴァにそれが起こった。
私は彼にこの瞑想を与えた。

何か月もそれを行なったあと、ある日、
鏡の前に立っていると影が消えてしまった。

「何が起こっているのだろう?」
と彼は目をこすった。狂ってしまったのだろうか?

鏡がそこにあり、その鏡の前に
立っているのに、影が消えてしまっている。

そして、その日、彼の存在はすばらしい変容をとげた。

スワパーヴァは今ではすっかり人が変わり、
まったくの別人になっている。

はじめて私のもとにやって来たとき、
彼はエゴの固まり以外の何ものでもなかった――
しかもインドでいちばん危険なパンジャビ風のエゴだ。
実際、彼はこのパンジャビ風のエゴのために罠にかかっていた。

彼が真理について知りたがっていたので、私は
「君には賭ける用意ができているかね?」と尋ねた。
「君にはすべてを賭ける勇気があるかね?」――
さあ、それは彼のエゴへの挑戦だった。

彼は「できない」と言うことができなかった、身を引くことができなかった。
彼は「ええ」と言ったが、「何をやれと言われるかわかったものじゃないぞ」
と少し怯えているようだった。だが、彼はジャンプした。

そしてそれが鏡のなかで起こった日
――彼の影が消えた日――
彼の奥底深くにある何かが変化し、動いた。

今や見違えるように変わったスワパーヴァを見ることができる。
彼はひじょうに素直シンプルになり、謙虚になり、
ヴィパッサナ倉庫でもくもくと働いている。

彼は百万長者の大金持ちだ。
彼は自分が所有している大きな会社の社長であり、
彼のもとで何百人もの人々が働いていた。

今や彼は一介の労働者のようにアシュラムで働いているが、
これほど幸せだったことは一度もなかったし、
これほど至福に満ちていたことも一度もなかった。

この瞬間があなたにもいつか訪れるかもしれない。

瞑想していると、沈黙が降りてきて、
自分の肉体を見いだすことができなくなる。
鏡のなかをのぞいても、そこに顔は映っていない。

心配せずに、紛れもない確認のしるしとしてとらえなさい。

何かすばらしいことが起ころうとしている――
あなたの古い自己証明アイデンティティが崩れつつある、
あなたの古い自己像が消えつつある。

神があなたをわがものとするまえに、
あなたは完全に消えなければならない。
肉体を確かめたいと思っても、つきとめることができない。
これは「天が大地に浸透する」という状態であり……
自分の肉体を見ることができず、
自分の肉体を感じたり、
自分の肉体に触れることができないとき――
これが「天が大地に浸透する」と言う状態だ。

楽園が降りてきつつある。
神があなたのもとへやって来つつある。
神はすでに到達している。
神のこころはあなたのハートとともにあり、
神の手はあなたの手に握られている。

あなたが消え失せたのはそのためだ。
部分が全体になったからだ。

すべての霊妙なものが根源に帰るときだ。
今やあなたの生はすみずみまで
霊妙な輝きをおびるようになる。
一瞬一瞬が比類のない瞬間となる。

ひとつひとつの体験がすばらしく、
えも言われぬものになる。

それからはあなたの生は純粋な詩となる。
それからはあなたはけっして退屈することがない。

生は刻一刻と新たに移り変わってゆくのに、
どうして退屈していられるだろう?

人々が退屈しているのは、古びて、生気を失った、
鈍重な自我エゴをもち歩いているからだ。
彼らが退屈しているのはそのためだ。

自我がなければ、退屈もない。

そうなったら生は喜びだ!
そうなったら起こるひとつひとつのことが
神からの贈り物になる。

人は絶えず額つ゛きたい思いにかられ、
感謝の念を抱きつつ゛ける……

すべての霊妙なものが根源に帰るときだ。
長足の進歩を遂げると、影もこだまもすべて消え去り……

「神々が谷間にいる」瞬間がやって来る
という、呂祖の最初の言葉を覚えているだろう。

あなたは丘の上に坐っており、
全世界が谷間のなかにあるという感じをもつ。

音が、ひじょうにはっきりと、実にありありと
聞こえてくるが、それは遥か遠くにあって、
谷に響くこだまのようだ。

今やそのこだまさえも消えてゆく。
すべての影が去ってゆく。

千代能を覚えているだろうか?
彼女はみずからの光明を祝ってこの詩を詠んだ。

  千代能がいただく桶の底抜けて
  水もたまらず月も宿らず

水面の鏡像、影、こだまはすべて消え去った。
あるがままのものだけが残っている。
そして、そのこのうえもない美しさが。

学人は深い静けさのなかで悠然としている。
これは不可思議なものすべてが根源に帰り、 気(エネルギー)の洞穴に納められたということだ。
外側の生はすみずみまで絶えることのない霊妙な輝きに包まれる。

あなたは浜辺で再び子どもにもどり、
風のなかを走り、陽光を浴び、あたかも
ダイヤモンドの鉱脈を見つけたかのように
貝殻やきれいな色石を集めている。

外界の森羅万象のすべてが霊妙な輝きの質をおびる。

では内側では何が起こっているのだろう?
不可思議なものすべてが根源に帰り……
深い洞察のなかでは、
外界の霊妙な輝きに合わせて、
不可思議なものすべてがその源に帰る。

不可思議なものとは何だろう?
在ることそれ自体が最大の奇蹟だ――ただ在ることが。

それを感じるのに金持ちである必要はない。
それを感じるのに教育を受ける必要はない。
それを感じるのに有名になる必要はない。

ただ在ること……。

あなたが在ること
そのものが最大の奇蹟、最大の神秘だ。

なぜあなたは存在しているのだろう?

理由はない。

あなたはそれを稼ぎ取った
わけではないし、それを求めたことすらない。

それはただ起こっている。

だから外界には霊妙な輝きがあり、
内側には不可思議な世界がある。

光明を得ている人はそのようにして生きている。



そして、今やこういったことが起こりはじめる。
場所を変えずとも、場所はおのずと変わってゆく。
もうヒマラヤに行く必要はない、
街の雑踏マーケットプレイスを捨て去る必要はない。

あなたは人で賑わう街にとどまることができるが、
もはやその場所は前と同じではない――
場所そのものが変容してしまう。

街の雑踏さえもがとても美しく、
それと比べればヒマラヤなど取るに足りない。

ありふれた現実がこの世のもの
とは思えない美でみなぎるようになる。

毎日そばを通りながら一度も目にとめたことがなく、
気にもとめなかった樹が、突然、弾けたように花を咲かせ、
あなたの意識に花とかぐわしい香りを浴びせかける。

生はありとあらゆる色にあふれ、極彩色になり、
ものごとはひとりでに変わりはじめる……
それはひとえにあなたがこの内なる静けさ、
この無我の状態に到ったからだ。

場所を変えずとも、場所はおのずと変わってゆく。
私が「私のサニヤシンは世間を離れてはいけない」
といつもくり返し強調するのはそのためだ。

これを光明を得たかどうか
を判別する基準にするがいい――
あなたが光明を得たら、
世界はおのずと姿を変える、
それは変わらざるをえない。

それに世間から逃げたとしても、どこにも行くあてはない。
どこへ行っても、あなたは再び同じ世界をつくりあげる。

それをつくりだす青写真があなたの内側にあるからだ。

この女のせいで厄介なこと――子どもや、家や、責任――が生じてくるのだと考えて、
その女性と別れることもできる。その女性やかわいそうな子どもを置いて、
逃げだすこともできる――これまで多くの男たちがそれをやってきた。

だが、あなたはかつてこの女性に恋をしたのだ。
あなたの内側にはまたしても恋に落ちる可能性がある。
遅かれ早かれ――おそらくは早いうちに――もうひとつの家庭をもち、
別の男や別の女ができ、子どもが生まれ、責任が生じてくる。

生をそうたやすく、そう手軽に変えることはできない。
あなたはたんにまわりの環境を変えるだけで、
奥深くでは青写真をもち歩いている。

まわりの環境は青写真によってつくられる。
青写真が再びそれをつくりだす。

それは種子に似ている。
あなたは樹を倒したが、種子をもち歩いている。
種子が再び地面に落ちると、樹がまた必ず生えてくる。
種子を焼いてしまわなければならない。

そうなったら、どこにいても
この奇蹟が感じられるようになる。
場所を変えずとも、場所はおのずと変わってゆく。
この世界そのものが楽園になり、
この世界そのものがにゃはんニルヴァーナになり、
この肉体そのものが仏陀の身体になる。

そこは形なき空間であり、そこでは 千の場所も万の場所も ひとつの場所に他ならないからだ。 時間を変えずとも、時間はおのずと変わってゆく。 これは測ることのできない時間であり、そこでは 無限の劫こうも一瞬に他ならないからだ。
何にも手を加える必要はない。

そしてこの二つが世界を構成している要素だ。

見るがいい、呂祖が言っていることは、
今や現代の物理学によって完全に裏つ゛けられている。

アルバート・アインシュタインは、世界は
たった二つのもの、時間と空間から成り立っていると言う。

実のところ、それらは二つではなく
ひとつのものであるから、新しい言葉をつくりださねばならない。

彼はそれを「時間と空間」と呼ばずに「時空」と呼ぶ。
時間と言うのは空間の第四の次元であり、二つの
言葉のあいだにはハイフンさえいらない。

空間を変えなくてもいいし、時間を変えなくてもいい。
それらはひとりでに変化してゆく。

 た だ 自 分 自 身 を 変 え さ え す れ ば い い 。

ハートに変化が起これば、全存在が変化する。

天国はどこか別の場所にあるわけではないし、
地獄もどこか別の場所にあるわけではない。

それはあなたの内側にある、
どちらもあなたの内側にある。

 あなたがそれらをつくりだす。

だが、人々は愚かなことをやりつつ゛けている。

先日ある人が手紙を寄こした――「どうしたことでしょう?……」彼は妻を四度
変えていた。これが四度目の結婚であり、その女性は彼にとって一緒に暮らす
四人目の女性だった。そして今、彼は「いつもどうしてこうなるんでしょう?
最初はすべてがすばらしく見えるのですが、半年も経たないうちにまた
同じようにだめになってしまうんです」と言っている。

いつもまったく同じことがくり返されるのは、
あなたが前と少しも変わっていないからだ。

そしてことは入り組んでいる。
例えば、あなたは妻にうんざりしている――
心マインドはつねに新しいものを、感情を煽る
、何か新しいものをしきりに欲しがっている。

あなたはその女性を知ってしまった。
彼女の地形をすみずみまで知りつくしてしまった。今や
彼女の地理に精通してしまい、もうこれ以上探検の余地は残されていない。

あなたは別の女性に関心を寄せるようになる。別の女性に関心を寄せはじめる
と、妻はますますもめごとをつくりだすようになる。あなたが彼女にではなく
別の誰かに関心を寄せているのに気つ゛くと、嫉妬が生まれてくる。

彼女はたくさんのもめごとを引き起こす。小言を言うようになり、意地悪になって
ゆく。彼女ががみがみ言えば言うほど、あなたはますます彼女がいやになってゆく。

さあ、この悪循環を見るがいい。

彼女はあなたがそばにいて欲しいのだが、やることなすことすべてがあなたを遠ざけて
しまう。彼女はますます所有欲をつのらせ、いちだんと嫉妬深くなってゆき、家庭生活
を営むことは不可能になってゆく。それは地獄になってしまう。

あなたはできるかぎり彼女を避けるようになる。夜遅くまで会社で働き、仕事が
なくても会社に居座りつつ゛けるようになる。家に帰ればいやでも妻と顔を合わせる
ことになり、また同じ苦しみを味わうことになるからだ。

そして彼女が本当に求めているものは何だろう?
あなたにそばにいて欲しいのだ。ところが彼女はその逆の
ことばかりやって、あなたを追い払おうとしている。

そして邪魔者扱いにされればされるほど、別の女性がさらに美しく魅力的に見えてくる
。別の女性が魅力的で美しく見えるようになればなるほど、ますますその女性と一緒に
いたくなるし、その女性もあなたともっと一緒にいたくなる。そしてやがて彼女は
「私と一緒にいたいのなら、あの女ひとと別れてね」と言いはじめる。

妻と別れたとたん、その男が自分のなかに見いだしていた
美しさが消え失せてしまうことに、その女性は気つ゛いていない。

男がその女性のなかに見ている美しさの
九割はもうひとりの女性に負うている。

その女性は男の妻を敵と見なしているが、そうではない。
実は彼は、あの妻のおかげで恋に落ちてくれたのだ。
こういったことは無意識のうちに行なわれる。

それを見るがいい!
見なければ、それはいつまでも作用しつつ゛ける。

相手の女性はとても幸福になる。彼女が幸福になればなるほど、あなたはもっと彼女の
そばにいたくなるし、それにつれて、いままでの女のほうはますます醜く見えてくる。
じきにあなたはこの女性と永遠に暮らしたいと思うようになる。あなたはいままでの
女と別れて、この女性と暮らしはじめる。

それまでの女と別れたその日、まわりの状況はすっかり変わってしまう。今やこの新
しい女性と一緒にいても、それほど美しく見えないし、それほど魅力的にはみえない。
あなたを不愉快にさせる者がいないので、催眠状態がだんだん解けてゆく。

半年も経たないうちに催眠は解けてしまう――この女性も前の女性と変わらない。もう
地理の調査は終わり、ことは片つ゛いてしまった。だが、女性には何が起こったのか
わからない――「この人はとっても愛してくれていたのに、どうなったのかしら?」

彼女は自分でそれを壊してしまった。

そしてこの男も何が起こったのかわからない――
「この女性はあんなにすばらしく見えたのに、ごく平凡な女だった」
またしても動きが、同じ動きが、無意識の奥に潜む同じ種子による
悪循環がはじまり、彼は別の誰かに恋をしはじめる。

人々は無意識のうちに恋に落ちて、無意識のうちに恋から覚める。
彼らは次から次へと相手を変えてゆくが、自分自身を変えることはない。
彼らは外側を変えつつ゛けるが、自分は同じままだ。

あなたは変えてゆくこともできる――幾多の生涯にわたって、
あなたはそれをやり、同じことをくり返してきた。
それはとめどない悪循環になっている。

それは車輪だ。
同じスポークが
上がって来ては下がり、
また上がって来ては下がる。
それはまわりつつ゛ける車輪であり、
あなたはその車輪のなかにとらえられている。

醒めなさい。

場所を変える必要はないし、
時間を変える必要はない。
外側のものは何ひとつ変える必要がない。

外界はこれ以上は望めないほど完璧だ。

やらなければならないことはただひとつ――
もっと意識的になり、
もっと油断なく目を見張り、
もっと注意深く気つ゛き、
もっとからっぽになること。

そうすれば外界に投影するものは何もなくなる。

内側にある種子をすべて焼きつくさなければならない。
内側にある青写真をすべて焼きつくさなければならない。

その青写真を焼き、種子を焼き、
内側にあるものをすべて放り出して、
ただからっぽになっていると、彼方から
何かがあなたのなかに入ってくる。
楽園が地上に浸透してくる。

それが変容の瞬間だ。

この変化とともに、全存在が一変してしまう。

女性も、子どもも、人々も、会社も、騒々しい街中も、
すべては元のままだが、もはや前と同じではない。

それはあなたがすっかり変わってしまったからだ。

これが正しい変容の道だ――
けっして外側からはじめてはいけない。
内側からはじめなさい。



こころというものは、静けさの極点にまで達しないかぎり、動くことのできないものだ。人が動きを起こしてその動きを忘れるようなら、それは本来の動きではない。 それゆえに外界の事物の刺激を受けて動くのは本性の欲望であり、 外界の事物の刺激を受けずに動くのは天の動きであると言われる。

いいかね、天の動きに身をゆだね、
神があなたを動かすままにさせることだ。

<全一なるもの>に明け渡しなさい。

そうでないと、あなたは状況に反応しつつ゛け、
状況はあなたとその意識に作用しつつ゛けるだけで、
あなた自身には何の変化も起こらない。

相手の男や女を変えることはできるし、
仕事を変えることはできるし、家を変えることはできる。

ものをどんどん変えつつ゛けることはできるが、
本当には何ひとつ変わっていない。

<全体>があなたをわしつ゛かみにし、
あなたのハートがもはや外界の事物に動かされなくなり、
実存の内奥の中核――それを「神」「天」「タオ」と呼んでもいい――
によって動かされるようにならないかぎり……。

あなたがそれを動かすのではなく、
あなたが<全一なるもの>の手にするただの道具となっているとき、
それこそまさに「汝の王国は来たり、汝のわざはなされた」
という言葉でイエスが言わんとしていることだ。

イエスはそのような言い方をした。
同じ真理をユダヤ流の表現で言い表した。
天の動きに身をゆだねよ――これは中国の言い表し方だ。
だが、思念が起こらないときには、正しい思念が湧いてくる。
これは奇蹟だ――
思いが微塵みじんも湧いてこないときには、
何をやっても正しい行ないになる。

何が正しく何が間違っているか
を判別するということではない。

思考マインドが静まり、
こころハートが神によって動かされるとき、
起こることはすべて的を射ている。

正しいことをすれば聖人になるというのではない。

あなたが聖人であれば、
あなたが為すことはすべて正しいものになる。

正しい行為をすることで聖人になろうとしている
のであれば、それはひたすら自分を抑圧してゆくことに他ならない。
間違ったことを抑圧しつつ゛け、正しいふりをしつつ゛けている。

あなたは偽善者になる。

聖人になろうとしてはいけない。
神にその座をゆずってしまいなさい。
ただからっぽになり、明け渡して、
手放しの状態になりなさい。

神にハートの動きをゆだねれば、
あらゆるものが美しくなる。

そうなったら、起こることはすべて正しく、
間違いが起こることはない。

つまり、自我エゴから生まれるものは
すべて間違っているということだ。

ボーディダルマが「あなたは地獄に堕ちる。
あなたが行なってきたことはうわべは崇高で、宗教的に
見えるが、奥深くでは自我が得意そうに笑みを浮かべている」
と言ったのはそのためだ。

自我から生じるものはすべて
あなたを地獄へ、苦しみのなかへと連れてゆく。

自我を落とし、
ものごとが起こるにまかせなさい
――風が吹くと樹が揺れ動き、
太陽が昇ると鳥たちが歌いだすように。

<全体>に身をまかせきってしまいなさい。

あなたはこの生を独りだけで生きているわけではない。

神があなたを通して生きるがままにさせなさい。

そうすればすべてがよきものとなる。

神から生まれるものはすべてよい。
それが真の思念だ。 ものごとが静まり、悠然としていると、 天の活動のあらわれが突然動きだす。 これこそ何の意図もない動きではないだろうか?
今や個人的な目標がないのだから、
あなたの人生には何の目的もない。
無為にして為すとは、まさにこれを意味する。
人が生きているのは、
神が人を通して生きることを望んでいるからだ。

人が行為するのは、
神が人を通して何かをしようと望むからだ。

だが、こちらへ行こうがあちらへ行こうが、
それは人のあずかり知るところではない。

どんな役割が与えられても、
あなたはそれを演じつつ゛ける。

それは神の演劇であり、脚本も監督も神がつとめている――
あなたは自分の役を可能なかぎり完璧に演じる。
どんな役が与えられても、あなたはそれを演じ切る。

所帯を切り盛りしているなら、所帯を切り盛りするがいい。
商売をやっているなら、商売をつつ゛けるがいい。

そういったものを変える必要はない。

ひとえに必要なのは、
自分がやり手であるという考えを落とし、
ある目標に到達しなければならないという考えを落とし、
どこかにたどり着かねばならないという考えを落とすことだ。

どこであれ
神が望むところ
へ運ばれてゆきなさい。

風に舞う枯れ葉になりなさい――
そうすればすべてがよきものとなる。
そうすれば生は至福に満ちてくる。

もはや緊張などありえないし、不安も起こらない。

失敗のしようがない。

欲求不満を覚えることはけっしてない。

なぜなら、そもそも最初からあなたは
何も期待してはいないからだ。

これが目的のない生を生きることだ。
無為にして為すとは、まさにこれを意味する。
最も深い秘密は、いついかなるときも、欠かすことのできないものである。
これはこころを洗い、思念を清めることであり、沐浴である。
呂祖は、これを「沐浴」と呼ぶと言っている――
神があなたの上に振り注ぎ、あなたは
清められ、きれいに浄化される。

神が一面にあふれかえり、
あなたは跡形もなく消え失せ、
無意識の片隅にすら痕跡は残っていない。

神は至るところにみなぎり、
あなたをくまなく満たしている。

神は光であり、
神があなたをくまなく満たすとき、
それは「光明」と呼ばれる。
あなたは光に満ちあふれる。
それは無極に始まり、再び無極へと帰る。
今やあなたはわが家に帰り着いている。
今やあなたは生まれる前と同じように、
天地がはじまる前と同じように、
再びひとつになっている。

禅の人々はそれを「本来の面目」と呼んでいる。

本来の顔はひとつであり、無二であり、
男でもなければ女でもなく、
<陽>でもなければ<陰>でもない。

誕生するやいなや、
この形ある世界に生まれ落ちるやいなや、
あなたは二つになる。

瞑想に入ってゆくと、
再び深い沈黙が降りてくる。

突然、<二>が消え失せる。
あなたは再び<ひとつ>になる。

始めにあなたは両極を超えていた。
終わりにあなたは再び両極を越える。

ただその二つのあいだでのみ、
あなたは分断されている。
そのはざまに世界がある。

始めに神があり、
終わりに神がある。

源が目的地だ。
源に舞いもどってもいいし、
目的地に消え去ってもいい。
言い方は違うが、それらは
同じことを指している。
仏陀は意識を創出する無常なるものを宗教の根本的な真理として語る。 生命と人間の本性を完成させる仕事のすべてが 「虚空を生み出す」という言葉に含まれている。
そもそも宗教というものは"虚空を生み出す"
という単純な現象に帰することができる。

からっぽになれば、あなたは満たされる。

いっぱいなら、あなたはうつろなままだ。

あなたが完全にいなくなれば、
彼方なるものの存在が浸透してくる。

自分自身を押しとどめ、
自分にこだわりつつ゛けるなら、あなたは
うつろなままであり、ただの影、鏡像にすぎず、現実のものではない。
すべての宗教は、死から出て生に入るための 霊的な仙薬を見いだすという点では目的を同じくする。
完全にからっぽになる
という秘法――これこそあらゆる
宗教が探し求めてきた仙薬だ。

それを飲めば不死になる。

なぜなら、死ぬ者は存在せず、あなたは
すでに消え去っているからだ。

もはや死は起こりえない。

あなたはすでに死んでしまった!

自我エゴとして死んだ者
は永遠の生命を得ている。
この霊的な仙薬はどこに帰するのか? それはいつも無念無想の境地にあるということだ。
自我がもはやなくなり、
あなたがからっぽになり、
沈黙が内側に降りてくるとき、
あなたはどのように生きるだろう?

あなたは永遠に目的をもたずに生きてゆく。

薔薇のしげみが花を咲かせるとき、そこにどんな目的があるだろう?
朝になって鳥が歌いはじめるとき、そこにどんな目的があるだろう?

太陽が昇るとき、そこにどんな目的があるだろう?
いったいこの<存在>にはどんな目的があると言うのだろう?

この<存在>はビジネスではないから目的はない。

それはまったき喜びであり、遊び心に満ち、
ヒンドゥー教徒はそれを「リーラ」と呼んでいる。

それはまさに
エネルギーの喜びだ。そこに
エネルギーがあって、
エネルギーが舞い踊り、歓喜している。

エネルギーがあるとき、あなたはその
エネルギーを楽しむ。あなたは
走り、歌い、踊り、泳ぎ、遊ぶ。

エネルギーは表現に喜びを見いだす。
あなたは創造的になる――純粋な
エネルギーに駆られて、絵を描き、詩を書き、音楽をつくる。

<存在>は
エネルギーであり、
エネルギーは何の理由もなく
舞い踊ることを欲する。

踊りのための踊り、
絵のための絵、
恋のための恋……
在るために在ることを。
それはいつも無念無想の境地にあるということだ。 道教で説かれる沐浴という最も深遠な奥義は、 こころをからっぽにする修行につきる。 これですべてのことに片がつく。
やらなければならないことはただひとつ――
こころハートの内にもち歩いているものを
すべて吐き出し、それを投げ捨てることだ。

そうすれば為されるべき唯一の
基本的なことがらをやり終えたことになる。
これですべてのことに片がつく。
とてつもなく美しい言辞だ。これですべてのことに片がつく。

他には何もいらない。
経典はいらないし、
僧侶はいらない――
これですべてのことに片がつく。

必要なのはただひとつ――
神があなたのなかを流れられるように
からっぽになりなさい。

神にその座をゆずりなさい。

神があなたを笛にできるように、
中空の竹になりなさい。

神が歌うときには美がある。
神が歌うときには歓喜がある。
神が歌うときには笑いがある。

あなたが歌うときには惨めさと涙と苦悶しかない。なぜなら、
自我エゴというのは実にちっぽけなものだからだ。
自我は歓喜を内に含むことができない、
そのなかにおさまるのは苦悶だけだ。

歓喜は無限のものだから、その
歓喜を包み込むために、あなたは
無限にならなければならない。

大海を包み込みたければ、人は
広大無辺にならなければならない。

からっぽになることで、人は広大無辺になる。
からっぽになることで、人は広々とした空間になる。
からっぽになることで、あなたの下地は整えられる。

あなたは主人になることができる。
主人に準備ができれば、神は
客として訪れることができる。

からっぽになる
ことで、あなたは主人になる。

主人になりなさい。

神はあなたの扉を叩きながら
戸口でずっと待っているのに、
あなたの耳には届かない。

あなたの内側には大へんな騒音がある
――どうして扉を叩く音が聞こえるだろう?

愚かな私事わたくしごとにすっかり夢中になっていて、
どうして無念無想の純粋な美しさを見ることができるだろう?

あなたは銀行預金をいかに増やすかで悩み、
政治の世界でいかに成功しようかと悩み、
どうやってもう少し有名になろうかと悩んでいるが、
神はあなたの扉を叩きつつ゛けている。

神はいつでもみずからを注ぎこもうとしているが、あなたのほうに
神を受け容れる準備ができていない。

その通り、呂祖は正しい。
あらゆる宗教において最も基本的なことがらは、
虚空をあらしめることだ。

あらゆるヨーガやタントラ、あらゆる錬金術の体系――
タオ、スーフィ―、ハシディズム――の行法は、すべて
こころをからっぽ
にするという、ただこの一事につきる。

これですべてのことに片がつく。

この美しい物語をもう一度くり返そう。

尼僧の千代能は何年にもわたり修行を
してきたが、光明を得ることができなかった。

ある夜のこと、水を張った古い手桶を手にした彼女は、
歩きながら桶の水に映る満月を眺めていた。

突然、桶を束ねていた竹の
たががはずれ、桶はばらばらになってしまった。

水はこぼれ、
月影は消え去り、そして千代能は
光明を得た。

彼女は詩を詠んだ。

 千代能がいただく桶の底抜けて
 水もたまらず月も宿らず

これですべてのことに片がつく。

(p490)





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