黄金の華の秘密

スワミ・アナンド・モンジュ訳 めるくまーる出版
 

第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん

まだはっきりつかめないなら、仏教徒の三つの観想―― 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん――を使って説き明かしてみよう。
まず空観が三つの観想の最初にくる、 いっさいの事物は空であると見なされる。
次に仮観が行なわれる。 すべてが空であることを知りながら、 事物を破棄せずに、空の只なかで自分の仕事を行なってゆく。
だが、事物を破棄しないとしても、それらに注意を注ぐこともない ――これが中観だ。
空観を実践しているときには、 万物を破棄しえないことを知りながら、 それらに気をとめないようにする。 このようにして三つの観想はひとつになる。
だが、とどのつまりは空を体験することで力が得られる。 それゆえに、空観を実践するときには、 空は紛れもなく空であるが、仮象も空であり、中心も空である。 仮観を実践するには大きな力が必要である。 このとき仮象は明らかに幻影であるが、 空も幻影であり、中心も幻影である。 中観の道にあるときには、やはり空の心象を生み出すのであるが、 空と呼ばずに、中心と呼び、また仮観を実践するときにも、 それを仮観と呼ばず、中心と呼ぶのである。 中心そのものについては、別に説明する必要はないだろう。
禅の逸話をひとつ……
禅師蜷川にながわが臨終の床についていると、
もうひとりの禅師一休が訪ねてきた。
「私が道案内をいたそうか?」と一休は尋ねた。蜷川は答えた。
「私はこの世に独り来て、独り去ってゆくのです。
どんな手引きをしてくださると言うのです?」
一休は答えた。
「もし君が本当に生まれ、本当に死んでゆく
と思っているなら、自分は来ては去ってゆく
と思っているなら、それはまぼろしだ。
来ることもなく去ることもない道を教えよう」
一休がその言葉でいともあざやかに道を示してみせたので、
蜷川は微笑を浮かべ、黙ってうなずくと、静かに息を引き取った。

これは美しい物語だ。この物語について
理解しなければならないことがいくつかある。
それは呂祖の経文に入ってゆく助けになるだろう。

まず第一に、真理を探し求めている者
にとっては、死でさえも機会になるということだ。

探し求めていない者にとっては、生ですら学ぶ機会にはならない。
人々は何ひとつ学ぶことなくその生を生きてゆく。
彼らは成熟というものを知らないままその日々を過ごしてゆく。

彼らはほとんど眠っている。
人々は夢遊病者のように生きている。
彼らは酔っぱらっている――
自分が何をしているのか気つ゛いていないし、
なぜそれをしているのか気つ゛いていないし、
自分はどこから来たのか、どこへ去ってゆくのかも気つ゛いていない。

彼らはまさに風のなすがままに運ばれてゆく流木のようだ。
彼らの生は偶発的なものだ。

この「偶発的」という言葉を覚えておきなさい。

何百万もの人々が、ただ偶発的な生を生きている。
自分の生のたずなを握り、それを偶発的なものから
実存的なものに変えてゆかないかぎり、変容は起こりはしない。

それがまさにサニヤスというものに他ならない――
偶発的なものを実存的なものに変えようとする努力、
無意識の生を意識的な生に変えようとする努力、
目覚めようとする努力。

そうなったら生は学びのプロセスになり、死もまたそうなる。
そうなったら人は学びつつ゛ける。
そうなったら、一瞬一瞬、ひとつひとつの状況が
贈り物としてやって来る。

そう、苦悩でさえも神からの贈り物になる。

だが、学び方を覚え、贈り物の受け取り方
を身につけた者たちにだけだ。

ふつうはどのようにして受け取ればいいかわからず、
どのようにして吸収すればいいかわからないために、
あなたにとっては祝福でさえ贈り物にならない。

あなたは生をロボットのように生きている。

こんな話がある……

ある男が夜更けに帰宅した。彼は妻に帰宅が遅れた言い訳をした……。
ちょっと飲み過ぎていたこの気の毒な男は、腹を立てている妻に、バスを
乗り間違えてしまったんだよと言った。妻は言った。「はいはい、よくわかったわ――
あなたの姿を見ればすぐにわかるわよ。でも、バスを乗り間違えたことにどうして
気つ゛いたの?」夫は言った。「ああ、隅っこのほうで二時間ほど立ってたら、
人が次々とやって来てハンバーガーやコーヒーを注文してゆくんだよ。
それでやっとおかしいってことに気つ゛いたのさ」

それはバスでさえなかった!

あなたが生きている生は生ですらない、生ではありえない。
あなたのなかに光がないのに、どうしてそれを「生」と呼べるだろう?
あなたのなかに愛がないのに、どうしてそれを「生」と呼べるだろう?
あなたは機械のように動いているのに、どうしてそれを「生」と呼べるだろう?

意識とともにはじめて生が訪れてくる――誕生によってではなく、
意識によって。瞑想者だけが生きはじめるようになる。

他の者たちは自分をだましているだけだ。

彼らは本当に生きてはいない。
彼らはありとあらゆることをやっているかもしれない。
彼らはやりつつ゛ける。まさに最後までやりつつ゛ける。

富を築き、権力を握り、あれこれの野心を達成する。
彼らはどこまでもつつ゛けてゆくが、それでもその
人生の合計、総計はゼロだ。

テキサス州のオースティンで行なわれたロデオ大会で優勝した六十歳の男に、
ニューヨークの新聞記者がインタヴューをしていた。「あなたのお歳でロデオの
チャンピオンになるなんて大したものですね」「いいや」とカウボーイは言った。
「親父には負けるよ。親父は八六歳だけど、いまでもフットボールの球を蹴ってるよ」
「へぇー」と記者は口をあんぐり開けて言った。「お父さんにお会いしたいな」
「今はだめだよ。エル・パソで、じいさんの介添えをしているからな。じいさんは
百十四歳なんだけど、明日結婚するのさ」「あなたの家族は本当にすごいんですねえ」
と記者は言った。「まず六十歳のロデオ・チャンピオンのあなた、八十六歳になる
フットボール選手のお父さん、そして百十四歳で結婚したがっているお祖父さん」
「とんでもない、だんな、そうじゃないよ」とテキサス男児は言った。
「じいさんは結婚したかないんだけど、せざるをえなくなったのさ」

このようにして人生はその最後まで過ぎてゆく。
これは本当の生ではない。あなたは犠牲者にすぎない――
無意識の本能の犠牲になり、生物的衝動の犠牲になり、
生理現象の犠牲になり、自然の犠牲になっている。

これは隷属だ。

この無意識のすべてから自由になることが解放だ。
体内の生化学の束縛から自由になること、
あなたの内にある無意識なものすべてから自由になること、
自分自身になること、意識の光となること――
それが本当の生のはじまりだ。

意識を保ち、しっかりと目を見張り、
瞑想的に生きはじめたとき、そこから
はじめて自分の歳を数えなさい。

ひとつひとつの行為が意識の香りを放つ
とき、あなたはわが家に近つ゛きつつある。

そうでなかったら、あなたはどんどん遠ざかりつつある。

生はあなたが目覚める機会をたくさん与えてくれる。

だが、あなたは目覚めるどころか、
この好機を活かすどころか、むしろ自分を
無意識に溺れさせるもっと効き目の強い麻薬ドラッグを探しはじめる。
苦しみがやって来たら、それは目覚めるための好機
なのに、あなたは麻薬を探しはじめる。

その麻薬はセックスかもしれないし、酒かもしれないし、LSDかもしれない。
その麻薬は金かもしれないし、政治権力かもしれない。

どんなものでも麻薬になる。

あなたを無意識にさせておくものはすべて麻薬だ。
あなたを非本質的なものごとに没頭させておくものはすべて麻薬だ。

薬を売っているのは薬局だけではない。
それはどこでも手に入れることができる。

学校や大学でも麻薬は売られている。
というのも、そこでは野心がつくりだされ、
野心は人々を無意識にさせておくからだ。
野心は人々に影、まぼろし、夢を追わせ、走りまわらせておく。

いわゆる政治家は最大の麻薬密売人だ。
彼らは絶えずあなたのなかに権力への渇き、権力への餓え、
貪欲をつくりだしつつ゛け、あなたはそのとりこになってしまう。

野心を抱き、競争心を燃やすことは、
酒に溺れることと同じだ。
そしてこちらの酒のほうがよく効く。
ふつうの酒は禁じることができる。

この酒はどんなところでも――両親から、聖職者から、
政治家から、教授からいともたやすく手に入れることができる。
社会はこの麻薬にどっぷりとつかっている。

何か追いかけるものがあると、あなたは気分がいい。
追いかけるものが何もなくなると、とたんにどうしたらよいのかわからなくなる。
あなたはただちに何か新しく没頭できるものをつくりだす。

いつの時代にも覚者たちが観察してきたのは、
苦しみがやって来たときには、
それは時がきたという、
「目覚めなさい」という
神からの示唆だということだ。

だが、あなたはその苦しみを麻薬で紛らわせてしまう。


あなたの妻が死ぬ――あなたは
深酒をあおりはじめたり、賭け事に手をだすようになる。

それはこの生が永遠につつ゛くものではない
ということに気つ゛く絶好の機会だった。

この家は砂上の楼閣であり、
この生は紙でできた船であり、いつ沈んでもおかしくない。
気まぐれな風がひと吹きすれば、生は終わりをつげる。

目覚めなさい!

妻は死んでしまった。あなたも
同じ列に並んでいるのだから、いずれは死を迎える。そして
その列は「死」と呼ばれる窓にどんどん近くなってゆく。

だが、
あなたは目を覚まさない。あなたは別の妻を探しはじめる。破産しても、
あなたは目を覚まさない。敗北を喫しても、
あなたは目を覚まさない。あなたは前よりも激しく、
なおさらやっきになって探しはじめる。

ある婦人が七人の医者を抱えた付属病院に行った。彼女はある医者の部屋に入り、
二十分後に悲鳴をあげながら待合室へ駆けおりてきた。彼女からことの顛末てんまつ
を聞いた別の医者が最初の医者を呼んでこう言った。「あの患者になぜ妊娠している
なんて言ったんだ?彼女は妊娠なんかしちゃいない。死にそうなほどおびえていたぞ」
「わかってるさ」と最初の医者が言った「でも、彼女のしゃっくりは治っただろう?」

耳を澄ませば、目を凝らせば、
人生に起きた苦しみはすべて
祝福が姿を変えたものだ
ということがわかるだろう。

それはあなたのしゃっくりを治してくれる。
それはショックかもしれない……が、
あなたにはショックが必要だ!

なぜなら、あなたは自分のまわりにたくさんの
緩衝器を張りめぐらせているからだ、自分のまわりにたくさんの
ショック吸収装置を育てあげてきているからだ。

それを壊さなければならない。
それが壊されないかぎり、あなたは
夢を見ながら生きてゆくことになる。

そしていいかね、
夢のなかでは
夢は現実のように見える。

あなたはそのことをよく知っている――あなたは毎晩
夢を見るが、夢のなかでは夢は実に生々しく見える。それにあなたは自分の
夢を支える理屈や論理をいつでも見いだすことができる。たとえ
夢が破れても、まったく何の実体もないその
夢を支えるための理屈を見いだすことができる。

聞いた話だが……

ある朝のこと、男はひどく驚いた様子で目を覚ました。彼は妻を起こしてこう言った。
「ねえおまえ、昨夜は、恐ろしい夢を見てしまったよ。十キロもあるマシュマロを
食べてる夢なんだけど、おまけに、自分の枕がどうしても見つからなくてさ」

目を覚ましているときでさえ、あなたは
何か理由つ゛けを見つけるだろう。
まわりを見渡せば、いつでも必ず
理由つ゛けを見いだすことができる。
あなたの頭マインドは実にずる賢い。

頭はたくさんのゲームを演じ、
たくさんのトリックを仕掛けてくるが、
それはひじょうに筋が通っているように見えるし、
大きな説得力があるようにも見える。

あるフランス人が帰宅すると、息子が祖母と一緒にベッドに入っているので
仰天した……。――こんなことはフランスでしか起こらない!――
「おい、おまえ」と彼は言った。「どうしてこんなまねができるんだ?」
「だって」と息子は言った。「父さんは僕の母さんと寝てるじゃない。
だから僕は父さんのママと寝てるのさ。ちっともおかしくないよ」

あなたは何でも理屈をつけることができる――馬鹿げたことでさえだ。

油断せずに目を覚ましていなさい。

あなたの頭マインドは必ず夢のほうの肩をもつ。
あなたの頭は夢見のプロセスの源泉だ。それゆえに、
あなたの頭にはそれらの夢を支えるつとめ、義務がある。

意識をしっかり
とぎ澄ましていなければ、あなたは
何度も何度も自分の頭にだまされ、弄ばれ、罠にかけれられて、これまで
何度も出くわした、何度も悔やみ、何度も決意し、そして
「もう二度とごめんだ!」と誓った同じ愚かさに陥ることになる。

だが、頭は巧妙な誘いの手口でやってくる。

頭マインドは最も優秀なセールスマンだ。
頭は誘い方がとてもうまい。
頭はいつもあなたの無意識の欲望を助けているために、肉体もまた
頭に協力する。

目覚めようとする努力は並大抵のものではない。

それは人が生において遭遇しうる最大の挑戦であり、
真の人間、勇敢な人間だけがそれに向き合うことができる。

目覚めるという挑戦を受け容れるには度量がいる。

それはありうる最大の冒険だ。

月へ行くほうがやさしい。
エベレストへ行くほうがやさしい。
太平洋の底へ行くほうがやさしい。

みずからの自己のなかへはいってゆくとき、本当の問題が生じてくる。
あなたが目覚めようとすると、本当の問題が生じてくる。

そうなると
過去全体がそれに抵抗する。
過去全体が山のようにあなたの上にのしかかり、あなたを押し戻し、
あなたが大空へ――無限なるもの、永遠なるもの、神、
にゃはんニルヴァーナへと翔け昇るのを許さない。


これはすばらしい寓話だ。
ひとりの師がこの世を去ろうとし、
もうひとりの師が別れを告げにやって来る。

だが、なんという別れの告げ方だろう!

死という機会が使われる。
そう、ごくごく意識的な人々だけが
死によって開かれる機会を使うことができる。

無意識に見られる死は敵であり、
意識的に見られる死は最大の友達だ。

無意識に見られる死は、
あなたのすべての夢を、
あなたのすべての生活様式を、
あなたが築きあげてきたすべての世界を、
あなたが元手をかけてきたあらゆるものをこなごなに打ち砕いてしまう
――すべてが崩れ落ちる。

だが、意識的に見られた死は
新たなる生の始まり、
神に到る扉になる。

蜷川にながわが息を引き取ろうとしていたとき、
一休は尋ねた。「私が道案内をいたそうか?」

彼は、死は始まりであって終わりではないと言っている。

「私の手引きはいらないかね?私の助けはいらないかね?あなたは
新しい存在のありようを学ぶことになる。
新しい光景が開かれてくる。あなたは
新しい次元、新しい地平に入ってゆこうとしている
――私の手引きはいらないかね?私の助けはいらないかね?」

蜷川は答えた。「私はこの世に
独り来て、独り去ってゆくのです。
どんな手引きができると言うのです?」

その通り、私たちは独りで来て、独りで去ってゆく。

そしてこの二つの独りあることのあいだに、私たちは
ともにあること、関係性、愛、家族、友人、仲間、国家、教会、組織など
すべての夢をつくりあげる。

私たちは独りで来て、独りで去ってゆく。
<独りあること>が私たちの究極の本性だ。

だが、その二つのはざまで、私たちは
どれだけ多くの夢を見ることだろう!

人は夫や妻に、父や母になる。
人は金、権力、威信、社会的地位をかき集めるが、
空手で生まれ、空手で死んでゆくことをよく知っている。

この世のものをもってゆくことはできない――
それでも人は集めつつ゛け、それでも人はしがみつき、執着心をますますつのらせ、
いずれ去らねばならないこの現世にもっともっと深く根をおろそうとする。

この世界を旅籠はたごとして使うのはいいが、
そこに家を建ててはいけない。

それを使うのはいい、だが、
それに使われてはいけない。

ものを所有してもしかたがない。
何かを所有しはじめたとたんに、人は
それに所有されてしまうからだ。
所有すればするほど、いっそう
所有されてしまう。

使うがいい!

だが、
死がやって来つつあることを、
死がいつも途上にあることを心にとめて、
それを忘れてはいけない。

いつなんどき死が扉を叩き、
何もかもそのままにして
立ち去らねばならないかもしれない。

いつもあなたは中途半端
のままで立ち去らねばならない。

人は生で何ごとも完結させることはできない。

蜷川は抜かりなく答えた。
「私はこの世に独り来て、独り去ってゆくのです。
どんな手引きができると言うのです?
死を前にしてどうやって私を助けることができるでしょう?
生きているあいだは助け合うという幻想を抱くこともできますが、
死を前にしてどうやって?」

彼は深遠な真理を語っているが、真理はまだまだ奥が深い。

一休はさらに高い真理をもって答えている。

これを覚えておきなさい――
真理と虚偽のあいだに葛藤があるのではない。真の葛藤は
より低い真実とより高い真実のあいだにある。

虚偽はどこまでも虚偽だ。
虚偽に何ができるだろう?
真理をどう損なうことができるだろう?
虚偽と真実を選び分けるという問題ではけっしてない。

問題はつねに
低い真実と
高い真実の
はざまにある。

蜷川が言ったことは確かにすばらしい真理だ――
私たちは独り来て、独り去ってゆく。

だが、それよりもまだ高い真理がある。

一休は答えた。「本当に来ては去ってゆく
のだと思っているなら、それは君のまぼろしだ」

誰が来て、
誰が去ってゆくのか?

すべてはあるがままにある。

来ては去ってゆくというのもまた夢だ。

例えば、夜になって、
眠りにつくと、夢がはじまる。
朝になると、夢は消える。

自分はどこかに行って、
そこから帰ってきた
と思うだろうか?

ふと気つ゛くと、いつもの部屋のいつものベッドの上にいる。

それはすべて夢だった!

あなたは遠くの場所まで旅をしていたかもしれない――
月や惑星や恒星を訪れていたかもしれない。
だが、朝になって目を覚ますとき、あなたは
星の上で目覚めるわけではない。

眠りについたその同じ場所で目を覚ます。

人生は夢だ!

私たちは今いる場所にいる。
私たちは今あるがままにある。
私たちは一瞬も動いていないし、
みずからの本性から微動だにしていない!

これこそ真理の究極の表現だ。

そう、蜷川は重要なことを、とても意義深いことを言っていた――
「私たちは独り来て、独り去ってゆく」――
だが一休は、それよりもさらに深遠なことを言っている。
彼は言う。
「何が去り、何がやって来ると言うのかね?
あなたはくだらぬことを言っている!
誰が生まれ、誰が死んでゆくと言うのかね?」

波が立ち、再び
海のなかに消えてゆく。
海の波は波立つ前と同じように
海であることに変わりはない。それはまた消えて
海にもどってゆく。

形は現れては消えてゆくが、
実在は今あるがままの姿でありつつ゛ける。

変化はすべて見せかけにすぎない。

深いところに、最も奥深いところにある
中核では、何もけっして変化しない。
そこではすべてまったく同じままだ。

時間は周辺で起こる現象だ。
中心には時間もなく、変化もなく、動きもない。

そこではすべてのものが永遠だ。


蜷川が息を引き取る寸前のこの対話の
要点を見てみなさい。

これは死を前にして論じるようなことがらではない。

人々は死が迫ると、相手を助け、慰めようとする。「まだ死にはしないよ。死ぬなんて誰が言ったんだい?君はもっと長生きするよ」容体を知っているときでさえ――医者が「できるかぎりの手はつくしましたが、もうこれ以上はどうすることもできません」と言っているのに――それでも家族の者たちは、あなたは死なないというふりをしつつ゛ける。家族の者たちは夢がもう少しつつ゛くように、手を貸そうとする。家族の者たちは奇蹟が起こって生命が救われることを願ってやまない。

この対話はこのうえもなく美しい。

誰かが死を迎えつつあるなら、
死がやって来たことを気つ゛かせてやったほうがいい。

実際、死が今日訪れようと訪れまいと、
すべての人に気つ゛きをうながす方がいい。

死が訪れるのが明日であろうと明後日であろうと違いはない。

それはいずれは訪れる。ひとつ確かなのは、
死は必ずやって来るということだ。
生において唯一確実なもの――それは死だ。

だから、最初から死について語るほうがいい。

いにしえの文化では、子どもたちはみな
死を自覚させられたものだ。

あなたのまさに基盤は
死の自覚の上に築かれるべきだ。

死を自覚している人間は必ず
生を自覚するようになるが、
死を自覚していない人間は生に対しても無自覚でありつつ゛ける
――なぜなら、生と死は同じコインの裏表だからだ。

一休は言った。「もしもそう思うなら……」

だが、いいかね。彼は
「もしも」という言葉を使っている。
なぜなら、一休は知っているからだ。
彼はこの男、蜷川を知っている。

一休はどこまでも見通すことができる。
この男には一点の曇りもない。

一休は蜷川が行き着いていることを知っている。

おそらく彼は一休を挑発して、何か
美しいことを、真理に触れるようなこと
を言わせようとしているだけなのだ。

おそらく彼の発言は仕掛けにすぎず、
ゲームをして遊んでいる。だから一休は言う――

「 も し も 君が、自分は本当に来ては去ってゆく
と思っているなら、それはまぼろしだ。
来ることもなく、去ることもない道を教えよう」

来ることもなく去ることもない道とは何だろう?

そう、あなたの内側にはある場所がある。

そこはあなたの永遠の故郷であり、
そこでは何ひとつ起こらず、
そこでは何ひとつ変わらない――
誕生もなく、
死もなく、
来ることもなく、
去ることもなく、
生じることもなく、
滅することもない。

すべてのものがいつも同じだ。

一休がその言葉で
あざやかに道を示してみせたので、
蜷川は微笑を浮かべてうなずくと、
静かに息を引き取った。

それにまさる表現はありえない――
蜷川がひと言も発しなかったのはそのためだ。
だが、彼は微笑んだ……。

語りえぬものを微笑みで表し、
語りえぬものをうなずくことで表し、
語りえぬものを指し示すことはできる。

彼はそれを表情で示した。
彼は認め、うなずくことで、一休に言った。
「よろしい、非の打ちどころがない。
あなたもまた故郷に帰り着いている」

二人の師が言葉を交わすことはきわめてまれだ。
というのも、二人の師が出会うとき、ふつうは
ともに言葉を発することがないからだ。
言うべきことは何もない。

だが、二人の師が言葉を交わすとき、
そこには必ず大いなる遊びがある。
そこには遊び心がある。

いいかね、それは議論ではなく、対話だ。

彼らはもっとうまい表現を引き出そうと互いを挑発している。

一休はそれを語った。
蜷川は満足した、
心から満足した。

一休は何を言ったのだろう?
――私たちが思い描く生は生ではない、
まだ私たちはそのありのままの姿を
一度も見たことがない、ということだ。

私たちはあまりにも幻想に心を奪われて、
最後の最後まで幻想のとりこになってゆく。


聞いた話だが……

夫を亡くした義理の母のことで心を痛めている男がいた。その八十二歳になる
未亡人は深い悲しみにくれていた。ある夜のこと、彼女を家から連れだすために、
彼は八十五歳の男性とのデートを仕組んだ。その夜更けに、デートを追えて帰宅した
彼女はすっかり頭にきていた。「どうしたんですか?」と男は尋ねた。
「私を何だと思ってるの?」と彼女は息巻いた。「あんな男、顔を三回
ひっぱたいてやったわよ」「てことは……」と男は言った。「迫られたんですか?」
「ちがうわよ!」と彼女は答えた。「あんな男、死んでるも同然だわ!」

だが、そんな歳になっても人々はデートをしつつ゛ける。
もし本当に幽霊というものがいるならば、
彼らはあなたがたがしているのと同じことを、
まったく同じことをしているにちがいない。
そして、それは死後の生までつつ゛いてゆく。

ある恋人たちの話を聞いたことがある……

この深く愛し合っている二人のカップルは心霊主義者だった。彼らは
クリスチャン・サイエンスを信じていた。ある日のこと、彼らは死やそれに
類する深遠なテーマについて話し合っていたが、どちらか先に死んだ方が死後
三十日経った時点で必ず相手に連絡を取るようにし、相手も心を開き受容的に
なって三十日後の特定の時間にそなえることにしようと約束した。

しばらくして男が交通事故で死亡した。女性は熱心に待っていた。三十日が過ぎ、
ちょうど約束の時間がやって来た。彼女はドアを締め、明かりを消すと、半信半疑
で尋ねた――「ジョン、あなたそこにいるの?」だが、信じられないことにジョン
の声が聞こえてきた。ジョンは言った。「やあ、君、僕はここにいるよ」彼女はいった
。「あなた元気にしてる?そこで幸せに暮らしてる?」すると彼は言った。
「僕はとっても幸せだよ。この雌牛をごらんよ――なんてすてきなんだろう?」
「雌牛ですって?」と彼女は言った。「頭が変になってしまったの!?私は天国のこと
をもっと聞きたくてたまらないのに、あなたったらばかな雌牛の話ばかりして!」
すると彼は言った。「天国だって?君は何を言ってるんだ。僕はプーナの
コレガオンパークの雄牛になっちまったんだよ!」

それがつつ゛いてゆく――
その同じ愚かさが来世まで持ち越される。
意識的にならないかぎり、あなたは
この輪のなかを堂々巡りしつつ゛け、
この輪はまわりつつ゛けてゆく。

それは実に退屈であり、
それをつつ゛けてゆくのはまったく馬鹿げている。

だが、
気つ゛くためには大いなる努力が必要になる。
気つ゛くためにはみずからの眠り、みずからの
無意識な状態との長い格闘に入ってゆかねばならない。
その闘いは困難で骨が折れるし、しかもその道は上り坂だ。

さあ、経文だ……これらの経文は、
目覚めるための計り知れない
助けとなってくれるだろう。

呂祖師は言った。
まだはっきりつかめないなら、仏教徒の三つの観想―― 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん―― を使って説き明かしてみよう。

師の慈しみは限りない。

彼はあなたがたの眠りが深い
ことをよく知っているので、
何度もくり返し要点を明確にする。

最初は聞き逃したかもしれないので、
師はもう一度くり返す。

二度目も聞き逃したかもしれないので、
師はもう一度くり返す。

仏陀は光明を得たあと四十二年間を生きたが、
朝も夕も、昼も夜も、四十二年間、同じことを言っていた。
絶えず同じことをくり返し言っていた。

なぜなら、あなたが
いつそれを理解するか誰にもわからないからだ。
いつあなたが受容的になるか誰にもわからない。
いつあなたのハートに小さな窓が開いて、
客が入って来ることができるようになり、
一条の光があなたを貫くか誰にもわからない。

二十四時間、あなたはいつも同じままでいるわけではない。

ときにはひじょうに頑なになって、入り込むのがとてもむずかしいこともある。
ときには耳がすっかり遠くなって、声が耳に届いていても、聞こえないかもしれない。
だが、
ときにはもう少しこころを開いて、
もっと感じやすくなり、
もっと愛情深くなり、
もっとしっかり聴くことができ、
あまり理屈っぽくなくなっているときもある。

柔和で、女性的になっているときもあれば、
強情で、男性的になっているときもある。

それは周期的に変わってゆく。

それを見守ったら、じきにあなたは
理解力が高まる瞬間や、
理解力が低下する瞬間が
あることに気つ゛くようになる。

あなたは二十四時間、同じままでいるわけではない。
あなたは絶えず変化し、流動している。

師が話しつつ゛けなければならないのはそのためだ。

いつがあなたにとってふさわしい
瞬間なのかは誰にもわからないから、
師はどこまでもくり返してゆく。

正しい瞬間がやって来れば、
必ず変容が起こる。

一瞬でもハートを射ることができれば、
あなたはそれからはまったくの別人になる。

もう二度と同じ人間にはもどらない。



 呂祖は話しつつ゛ける……
 私たちは、次第にこの美しい書物『黄金の華の秘密』の終わりに近つ゛いてきている
 彼はまたしてもくり返す――まだはっきりつかめないなら……
 彼はあらゆることがらをはっきりとさせたが……

まだはっきりつかめないなら、仏教徒の三つの観想―― 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん―― を使って説き明かしてみよう。

明晰さとは何だろう?
明晰さとは雑念がない心の状態をいう。

雑念は空に浮かぶ雲のようだ。
空が雲でいっぱいになっていたら、
太陽を見ることはできない。

あなたの空に、
あなたの内なる大空に、
あなたの意識に
雲がかかっていないとき、
明晰さが生まれる。

いいかね、
明晰さとは頭が切れることではない。頭が切れる者たちは、
明晰な人々ではない。

頭の回転を早くさせることは簡単だ。

頭が切れるというのは、
抜け目なく立ちまわるということに他ならず、
ずる賢さをましな言葉で言い換えただけのことだ。

頭が切れる者たちは
ずる賢い人々ではあっても、
明晰な人々ではない。

いいかね、
理知的であることは
聡明であるということではない。

理知的であることはやさしい。

情報を集めればいいし、知識を習得すればいい、そうすれば、
すばらしい知識人、学者、パンディットになることができる――

だが、そんなものは
明晰さではないし、そんなものは
聡明さではない。
聡明さというのはそれとはまったく逆のものだ。

頭のなかを知識がうごめいていないとき、
内なる空に一片の雲もよぎっていないとき、
何の計算もなく、
何の狡猾さもなく、
何のずる賢さもないとき、まったく
何も考えず、
ただあるものをすべて映しだす鏡のようになっているとき――
それが明晰さだ。

明晰さとは鏡のような質をいう。そして
明晰になることが神に直面することだ。

神を知識で知ることはできない、
神は明晰さによって知られる。

神は利口な頭や、小賢しい知恵によって知られるのではなく、
天真爛漫なこころによって知られる。

天真爛漫であることが明晰さだ。

イエスが
「幼子のようにならないかぎり、私の王国に入ることはできない」
と言うのはそのためだ。
彼は何を言おうとしているのだろう?
彼はただこう言おうとしている――

その内なる空がまだ雲に覆われていない、
その鏡がまだほこりで汚れていない、
その知覚が一点の曇りもなく澄みきっている幼い子どものように
清らかにならないかぎり……。

彼はものをあるがままに見ることができる。
彼はそれをゆがめないし、ゆがめることで利を得ようとはしない。
彼は投影せずに、どんな状況もすべてありのままに見る。
彼は受動的な鏡になっている
――それが明晰さだ。

(p509)


まだはっきりつかめないなら、仏教徒の三つの観想―― 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん―― を使って説き明かしてみよう。
この仏教徒の三つの観想は、
最も優れた瞑想の方便のひとつだ。
いいかね、それは方便であって、哲学ではない。
それを哲学ととらえてしまうと、
要点を丸ごと見逃すことになる。

それは起こった。何世紀にもわたって、仏教哲学に関する様々
な大論文が書かれてきたが、それは愚にもつかないたわごとだ。

なぜなら、仏陀は哲学者ではないからだ。
彼はいかなる哲学も教えなかった。
実際、彼は反哲学的な姿勢を強く取った。

仏陀が町を訪れるときは、必ず弟子たちが先に町に行って、
「哲学的な質問を仏陀にしないでください」
と触れてまわるのが慣例になっていた。

仏陀は十一の質問のリストを用意していた。
その十一の質問のなかにすべての哲学が含まれていた――
神について、天地創造について、輪廻転生について、死後の生について等々。
この十一の質問のなかには、ありうるすべての哲学が含まれていた。

その十一の質問のリストを見れば、どんな質問もできなくなる。
そのリストが町中に伝えられた。
「仏陀は哲学者ではありません。
形而上学者ではありません。
思想家ではありません!
だから、こういった質問は仏陀にしないでください。
彼は哲学者ではなく、医者としてここに来たのです。
目が見えなければ、薬を調合しますし、
耳が聞こえなければ、手術をします」

仏陀は「私は医者だ」
と何度もくり返し言っていたが、
彼の名のもとに壮大な哲学が生まれ、
彼が方便として用いた言葉が
哲学的な教義になってしまった。

例えば、空くう――"すべては空である"――
これが根本的な原理であると主張する仏教の教派がいくつかある。

それは方便にすぎない。

それは客観的事物については何も言っておらず、
人間の心マインドについてあることを言っているだけだ。

それはあなたが明晰になるのを助ける、
ただそれだけのことだ。

仏陀の関心は客観的な事物ではなく、
あなたの明晰さにある。

彼は「明晰であれば、存在の実相がわかる」と言う。

だとしたら、客観的な事物
について語ってみてもしかたがない。
まったく何の益にもならない。

それは光や色や虹や花のことを
盲人に語ってみるようなものだ。
それはまったく馬鹿げている。

盲人に昇る太陽のことは伝えられない。
盲人に銀色に輝く月の光のことは伝えられない。
盲人に樹々の緑のことは伝えられない。
盲人にとって「緑」は何の意味もなさないからだ。

言葉は聞こえてくる――
あなたが「神」という言葉を耳にするのと同じように、
盲人は「緑」という言葉を耳にする。

あなたは理解しないし、盲人も理解しない。

その言葉を何度も何度も何度も聞いているからといって、
自分は神が何であるかを理解している
などといった馬鹿な考えを抱いてはいけない。

神を理解するためには
神を目で見なければならない。
それ以外に方法はない。

緑を理解するためには目で
緑を見なければならない。
それ以外に方法はない。

ラーマクリシュナはよく語っていた……

ある盲目の男が友人に招かれた。彼らはキル――おいしい乳製品――
を用意した。盲人はキルが大好きだったので、「これはいったい
どんなものですか、どんな見てくれをしているのですか?」と尋ねた。

盲人の隣に哲学の大家が坐っていたが、哲学者のつねとして、
教えたり、理屈をこねたりする機会を逃すはずがない。彼はただちに
盲人に、キルが何でできていて、どんなふうに見えるか話しはじめた。

彼が「それは真っ白だ」と言うと、盲人は尋ねた。
「待ってください!私には何のことだかさっぱりわかりません。"真っ白"
というのはどういうものですか?すみませんが、それを説明してはくれませんか?」

哲学者にはありがちなことだが、彼は相手が盲人であることに気つ゛かないまま、
"真っ白"がどういうものであるか説明しはじめた。彼は言った。「白鳥や白鷺しらさぎ
を見たことがあるかね。そう、キルは真っ白な白鷺や、白鳥や、白い花にそっくりだ」

「鷺さぎですって?」と気の毒な盲人は言った。「ますますわけがわからなく
なってきましたよ。私には白が何なのかわからないのに、またややこしくなってきた。
その鷺というのは何ですか?私は一度も見たことがないのです」

まだ相手の目が見えないことに気つ゛いていないので、
哲学者の言うことはすべて的はずれなものになってしまった。
彼は白鷺がどういうものかを説明しはじめた。彼はここでひとつ工夫をこらし、
盲人に手を差しだして、それに触るように勧め、こう言った。
「いいかい、鷺の首は、この曲げた私の手のようになっているんだよ」

すると盲人は楽しそうに笑い、大喜びをした。彼は心の底から感謝して
哲学者に言った。「これでキルが何だかわかりましたよ――
曲げた手のようなものなんですね。わかりました。どうもありがとう」
哲学者はここで自分が何をしでかしたのかに気つ゛いた。

白さを盲人に説明することはできない。
そのすべはまったくない。

だが、彼を助けることはできるし、彼の目を治療することはできる。
彼を眼科医のモディ先生のもとに送ればいい――彼はときどきここへやって来る。
盲人には手術が必要だ。

目が見えるようになれば、説明はいらなくなる。
白がどういうものか、緑がどういうものか自分でわかるようになる
――神もそうだし、天地万物もそうだ。

だから、いいかね、まず第一に、これら
――空観、仮観、中観――は方便にすぎない。
彼はただ「これは方便のひとつだ」と言っているだけだ。

物語をもうひとつ……これではっきりしてくるだろう。

ある男が街から帰ってきたが、ふと見ると、家が火事になっていた。
子どもたち、幼い子どもたちは家のなかで遊んでいる。怖くてなかに入れない
ので、彼は外から大声でどなった。彼は大きな声で「みんな出ておいで!火事だぞ」
と叫ぶ。だが、子どもたちは遊びに夢中になっていて耳を貸そうとしない。

そこで男は方便を思いつき、大声で
「聞こえるかい?おまえたちに街でたくさんおもちゃを買ってきたぞ!」と叫ぶ。
すると子どもたちは全員駆けだしてきた。男はおもちゃを買ってきてはいなかったが、
子どもたちは「街へ行くのだったら、おもちゃを買ってきてね」と頼んだのだった。

外に出て、おもちゃがないのを知って、子どもたちは「おもちゃはどこにあるの?」と尋ねた。男は笑いだして言った。「おまえたちを火に包まれた家から連れだすために嘘をついたんだよ。おもちゃは明日、買ってきてあげるよ」

これが方便だ。いいかね、
方便は真実でもないし虚偽でもない。
方便は役に立つか役に立たないかであって、
真実か虚偽かというものではけっしてない。
「真偽」という言葉は方便には当てはまらない。

ここで行なわれている瞑想はすべて
方便であって、真実でもなければ、虚偽でもない。

それらは役に立つか役に立たないか、
必ずそのどちらかであり、真偽がとりざたされる余地はない。

火事になっている家から出てこられるように、
私はあなたがたにおもちゃを与えている。

外に出たら、あなたがたにもわかる。

あの子どもたちでさえ理解した。
家が燃えているのを見たとたんに、彼らは
おもちゃのことはすっかり忘れてしまい、
父親の愛情を理解した。

彼はこの子どもたちを
こころから愛していた
にちがいない。

だからこそ嘘をつくこともできた。
それは嘘だった。

あなたがたは驚くだろうが、
いつの時代にも禅師たちは言ってきた
――仏陀は大嘘つきだ、と。

だが、仏陀の慈悲は
嘘をつけるほどに
深いものだった。

彼は方便を編み出した。
観想の対象となる三つのもの
――空と仮象と中心――これは方便だ。



"空"とは、外界にあるこのいっさいの世界、
客観的な世界は完全にからっぽであるということだ。

それを空であると見なしなさい。

「それは空だ」と観想すれば、驚くようなことが起こる。
「世界はいっさい空である」と見なしはじめると、
即座に多くのことがひとりでに変わりはじめる。

あなたは貪欲でなくなる――
事物が空であるなら貪欲になってもしかたがない。

あなたは野心的でなくなる――
事物が空であるなら野心を抱いてもしかたがない。

大統領の椅子がまったくうつろなものである
ことがわかれば、誰も興味をもたなくなる。

あなたがそれに実体を与え過ぎ、必要以上に
現実に仕立てあげているために、
野心が芽生えてくる。

お金がうつろなものである
ことがわかれば、誰が気にかけるだろう?
それを使うのはいいが、金のことで
頭を悩ませる必要はない。

あなたを取り巻くこの世界はすべて空……
とめどなく姿かたちが移り変わってゆく夢のようなものだ
と見なすようにするがいい。

グルジェフはよく弟子たちに
「通りを歩くときには、自分は
夢を見ているのであり、傍らを通り過ぎてゆく人々は
夢の現れにすぎないし、店もすべて
夢なのだと思い起こすがいい」
と言っていた。

そしてこれに三ヶ月間瞑想を
つつ゛けると、それが起こりはじめる。

すさまじい爆発が起こる。
突然、あらゆるものがうつろになる。

店はそこにあり、人々は歩いているし、買物をしている。
確かにあなたの傍らを人々が通り過ぎてゆく。

表面的には何も変わらないが、突然、
見えるのはうつろな影だけになる。

映画館に行けば、スクリーンの上にあるのは
うつろな影にすぎないことはよくわかっている
のに、あなたはそのうつろな影にだまされてしまう。

映画館に坐っていると、実に様々な感情が通りすぎてゆく。
悲劇が起こると、あなたは泣きはじめる。

おそらく映画館が暗くしてあるのはそのためだ。
そうしなければ、あまりに愚かでばからしく見える。

もし誰かが――妻や友人がそばに坐っていて、あなたが
泣いているのに気つ゛いたら、彼らは笑いだすだろう。

彼らは「どうしたんだい?あるのはからっぽのスクリーン
だけで、他にはなにもないじゃないか。映画がそこに映り、
白と黒が――あるいはカラーの映像が――戯れているだけだよ。
みんな影さ」と言うだろう。

だが、あまりにも影に夢中になり過ぎて、
影に実体があるように見えはじめてくる。

仏陀の方便はちょうどこの反対だ。仏陀は言う
――これほど実体感があるように見える人々――
彼らを夢であり、空であると見なしなさい、と。

すると、いつの日か驚くようなことが起こる。

全世界が白いスクリーンになり、
影だけが通りすぎてゆく。

影だけが通りすぎてゆくとき、
あなたはみずからの内に大いなる
無執着が生まれてくるのに気つ゛く。

あなたは超然として、遠く離れている。

そうなったら問題は何もない。


二つめは"仮象"だ。

あなたが「全世界は空であり、夢にすぎない」
と見なし、瞑想し、絶えず観想していると、
第二の現象が起こりはじめる。

いいかね、それを夢と見なしても、
それだけで世界が消えてしまうわけではない。
そういう錯覚に陥ってはいけない。

「世界は夢だと思いつつ゛けていれば、やがて世界は消えてしまう」
などど思わないこと。世界は消えはしない。

スクリーンに映る映画が影にすぎない
ことはよくわかっていても、それでも
それはつつ゛いてゆく。

ただそう思うだけで、
それが消え去るわけではない。

映画館に坐って瞑想していると映画が消えてしまい、
他の者たちには見えても自分には見えず、
ただ白いスクリーンだけがある、
などどいうことはありえない。
そんなことはけっしてない。

瞑想者にも映画は見えるが、
ただ見方が違う。

彼はそれが夢であることを知っている。

世界が消えるわけではない。
世界はありつつ゛けるが、それは
重要性を失い、実体をもたなくなってゆく。

それはまっすぐな棒を水のなかに入れるときのようなものだ。
水中に入ったとたんに、棒は曲がって見える。
取り出すと、もちろんどこも曲がっていない。もう一度
水のなかに入れると、やはり曲がって見える。

そうなればそれが目の錯覚だったこと
がはっきりわかる――棒は曲がって
いるように見えるだけで、曲がってはいない。

だが、いくら目の錯覚だとわかったとしても、
それで棒が曲がらずに見えるわけではない。

だから、まず最初、あなたは
「この世界は空である」と瞑想する。
すると、つつ゛いて第二のことがらが生じてくる――
それでも世界はありつつ゛けるが、
もはやそれはまぼろしだ。

もはやそれには実体がなく、
夢と同じものからできている。

最初の無意識な知覚の仕方では、
世界には堅固な実体があるように見えた――
それはひじょうに客観的であり、
まざまざとそこにあった。

空に瞑想したあとも、
世界は依然としてそこにあるが、
もはや実体を失い、
ただの想念マインドのゲーム
にすぎないものになっている。

それは夢のようなものだ。

ヒンドゥー教徒たちが「世界は幻影マーヤだ」
と言うとき、彼らが言おうとしているのはそのことだ。

それは聖者の目から世界が消えてなくなるということではない。
それはたんにもうそこには価値がなくなったということだ。
それは無価値なものに、完全に無価値なものになってしまった。


そして三つめは"中心"だ。

世界がもはや実体感を失い、
客観的な世界が姿を消して、
主観的なまぼろしになるとき、
あなたの内側に新しい体験が生まれてくる。

ここではじめて あ な た が実体をもつようになる。

通常、人は客観的な世界に
みずからの実体を投影している。

それを外界から取りもどすと、
あなたが実体をもつようになる。

世界がありありとしていたら、
あなたの影はうすくなってゆく。

世界が現実感を失えば、
あなたの影が濃くなってゆく。

もう一度映画を使って説明してみよう。

スクリーンの上を影が飛びかっているだけだ
と気つ゛けば、突然、あなたは自分がいることに気つ゛く。

その影はまやかしだが、
あなたは実在している。

影のなかに自分を見失って
しまうと、あなたは現実感を失い、
自分があることをすっかり忘れてしまう。

夢のなかでは自分があることをすっかり忘れ、
夢が現実になっている。

あなたの現実は丸ごと
夢に食いつくされている。
夢は現実をすべて奪い去り、
うつろなあなただけが残される。

夢から現実を取りもどすと、
あなたがありありと存在するようになる。

あなたの内側に中心が生まれ、
あなたはひとつにまとまる。

これが「個性化」「結晶化」と呼ばれるものだ。

世界が現実のものになるか、
あなたが現実のものになるか、
そのどちらかだ――その両方が
同時に現実のものになることはありえない。

それを覚えておきなさい。

その両方が同時に現実のもの
になることはありえない。

それが風景の焦点ゲシュタルトを変えることだ。

世界から現実感を取りもどせば、
あなたがありありと存在しはじめる
――あなたは実存を達成する。

人々は二種類のタイプに大別することができる――
もつことに関心を寄せる人々と、
在ることに関心を寄せる人々に。

もつことに関心を寄せる人々は、
世界が実在することを――
もっと金をため、
もっと権力を手に入れ、
もっと名声を高め、信望を集めることを
信じている。

彼らは中身がからっぽの人々だ。
彼らは自分の中心を完全に失っている。
彼らは自分が誰であるのかを知らない。

真の自己は影になってしまっている。

そして別の種類の者たちは
――私は彼らを「宗教的な人々」と呼ぶ――
外界から現実を取りあげて、
それを元あった場所にもどす。

彼らは実体を獲得するようになる。
彼らは実存をもつようになる。
彼らはさらなる存在感をもつようになる。

より大きな存在感を発している人に出会うと、
人は必ずある種の磁力を感じる。

仏陀が無数の人々を引きつけたのは、
この実質をともなった存在のゆえだった。

それは目にすることができる。

政治権力を握っている者をのぞき込めば、
中身はからっぽであり、ただ藁わらだけが詰め込まれている。

金をたくさんためこみ、大したものをもっているつもりになっている者
――彼をのぞき込めば、そこにはただ黒い穴が開いている。
貧しい男、乞食がその背後に隠れている。

実存をそなえた者は、
帝王の身なりをしていることもあるし、
乞食の身なりをしていることもある
――だが、彼はつねに帝王だ。

彼は仏陀のように托鉢をしているかもしれないし、
ジャナク王のように帝王の座についているかもしれない
が、どちらにしても違いはない。

彼は ど こ に い て も つねに帝王だ。

彼の王国は内側にあり、
彼には風格がともなっている。
彼はどうどうとしている!

あなたは存在していない。
あなたはものはもっているが、
実存をもってはいない。

そしてあなたはものを代用品として使っている。

ものをもてばもつほど、ますます
自分の存在を信じることができる。

渇望し、貪り、野望を抱くのはそのためだ。

もっともっとものを所有しようとするのは、それが
「俺はひとかどの人間なんだ」と言って
自分をだます唯一の方法だからだ。

だが、実存をそなえている人は関心を抱かない。

もつことは彼のゲームではない。

それは彼が
世間を後にして、
世間を捨ててしまうという意味ではない。
世間を捨てるということは、その人がまだ
世間を生々しい現実であると考えていることに他ならない。

さもなければ、どうして捨てたりするだろう?

あなたは朝起きて、
「私は夢を捨てたんだ。王様になった夢を見ていたのに、私は王国を捨てたんだぞ」
と大きな声で近所に触れまわったりはしない。人々はあなたが狂ってしまったと思う
だろう。彼らは警察に通報するだろう。彼らはあなたに精神科医のところへ行って、
心の治療を受けるようにと言うだろう。「君はおかしくなってしまったのかい?
それが夢なら、いちいち捨てなくてもいいはずなのに」

仏陀が放棄したのは、
彼が夢のなかに生き、それには
堅固な実体があると考えていたからだ。

彼は森のなかで光明を得た。

いいかね、放棄したとき、彼は無知だった。

世間を捨てる前に光明を得ていたら、
彼はけっして放棄などしなかっただろう。
捨てる意味などない。

ジャナクは王として宮殿に暮らしているとき光明を得た。
だから彼はそれをけっして捨てなかった。
そんなことをしても意味がなかった。

クリシュナは一度も放棄しなかった。
そんなことをしても意味がなかった。

影にすぎないものを
どうやって捨てるというのだろう?

仏陀が放棄し、マハヴィーラが放棄したのは、
彼らがまだ光明を得ていなかったからだ。

私が言おうとするのは――
人々は無知だったからこそ
世間を放棄したのだということだ。

仏陀でさえ、無知だったときには世間を放棄した。
光明を得ると、彼は世間にもどってきた。
もどってこざるをえなかった。

深く眠りこけ、自分たちが見ている夢が現実である
と錯覚している者たちが大勢いる
ことを知っていたからだ。

彼はみんなを目覚めさせねばならなかった。

中心は、
外界から現実感を取りもどした
ときにはじめて現れてくる。

あなたは
みずからの現実を事物に与え、
みずからの現実を事物に注ぎ込んでいる。

それは観察することができる――
人々は事物との抜き差しならぬ情事にはまっている。
彼らはみずからの魂を事物に注ぎ込み、
自分の正体をすっかり見失っている。

彼らは事物のなかに埋没してしまっている。

わが家にもどってくるがいい。

現実を取りもどすのだ。

事物はあなたが
現実感を与えた分だけ
現実になるのであり、それはあなたの投影だ。

そうでなければ、それはからっぽの、
白いスクリーンにすぎないものになり、
重要性を失って、それに溺れることも、
それを捨てるということもなくなる。

どちらも的をはずれたものになる。


まず空観が三つの観想の最初にくる。 いっさいの事物は空であると見なされる。
次に仮観が行なわれる。すべてが空であることを知りながら、 事物を破棄せずに、空の只なかで自分の仕事を行なってゆく。

よく聴きなさい。

なぜなら、世間で苦しみをなめている人々は、
ほとんど必ず世間との交わりを絶とうとしたり、
絶ってしまったりじはじめるからだ――
まるで世間に問題があるかのように!

問題は世間にあるのではない。

問題は あ な た だ。

それにどこへ行こうと、
あなたは行く先々で問題を引き起こす。
あなたはみずからの影を投げかける。

世間を捨てることもできるが、
世間は白いスクリーンにすぎない。

が、映写機はあなたの内側にある。

どこに行っても、あなたはそこに、別の何かに
自分のフィルムを投影しはじめる。

それは宮殿ではなく、粗末な小屋かもしれない――
だが、その小屋があなたの王国になる。
それは小屋ですらないかもしれない。

ヒマラヤをさすらっているとき、私はたくさんの人々に出会った。
あるとき私は三十年以上も洞窟で暮らしている聖者に――いわゆる聖者に出会った。
私は二、三人の友人と一緒にいたが、その洞窟が気に入ったので、私たちは
その洞窟で一夜を過ごすことにした。彼はひじょうに腹を立ててこう言った。

「どういうつもりかね?これは 私 の 洞窟だぞ!」
私は言った。
「でも、あなたは世間を放棄なさったのではありませんか?
この洞窟があなたのものだとは不思議ですね?」
彼は言った。
「とにかくこれは私のものだ。三十年も私はここで暮らしてきたんだ」
「あなたは三十回も生まれ変わり、ずっとここで暮らしてこられたかもしれません。
でも、放棄することの意味は何ですか?なぜあなたは妻を捨てたのですか?
なぜあなたは家を捨てたのですか?何が問題だったのですか?

"私のものだ"という考えが問題だったはずです。

今やこの洞窟はあなたのものです。
となると、その洞窟とともに問題が生じてきます。
所有欲が洞窟に染みついてしまっています」

どこへ行くかは問題ではない。

自分の生を変えることはそれほど簡単ではない。

あなたはみずからの知覚を、
ものを見る視点ゲシュタルトを、
実存そのものを変えなければならない。

呂祖師は言った。
事物を破棄せずに、空の只なかで自分の仕事を行なってゆく。
すべては空であると知るが、
人はみずからの仕事を行ないつつ゛けてゆく。

どこにも行く必要はない。
どこに行けるというのだろう?

この世界はいっさい空だ!

ヒマラヤはMGロードの店と
同じくらいにからっぽだ。
そしてヒマラヤの樹々や動物はプーナの住民と
同じくらい実体がない。

そのあいだには何の違いもない。

違いは
あなたの中心、
あなたの内なる実存に起こらねばならない。
だが、事物を破棄しないとしても、それらに注意を注ぐこともない……
これがその変化だ――人は
打ち壊すこともなく
捨て去ることもなく、しかもそれらに
注意を注ぐこともない。

人は注意を注ぐのを控えるようになる。

注意は餌だ。

そのようにしてあなたは事物に執着するようになる。

ある女性に魅了されると、あなたは
何度でもその女性を見つめたくなる。

あなたは餌をやっている。
あなたは投影をしている。

あるものが気に入ると、あなたはそれに
注意を払うようになる。
注意を払うことで、あなたはそれに執着するようになる。
注意を払うことが橋になって執着が生まれる。

何も捨てる必要はない。

ただ橋を壊せばいいだけだ。

事物に注意を払うことなく
世間のなかで生きなさい。

虚空のなかを動いている
かのように進んでゆきなさい。
――これが中観だ。
これができたら、あなたの内側に中心が生まれる。

あたかも
世間のなかにいないかのように
世間で暮らすことができたら、
世間はただの夢にすぎないかのように
世間で暮らすことができたら、
突然、大いなるエネルギーが――
散逸していたエネルギーすべてが
あなたの内部で結晶化する。

あなたはありとあらゆるやり方でエネルギーを散逸させてきた。
あなたは四方八方に漏らしている。
注目することで漏らしている。

あなたがもはや漏らさなくなり、
注意力がもはや不動のものとなり、
注意が内側に集まり、
内側で蓄積され、
内側で結晶化するとき、
中心が生まれてくる。
空観を実践しているときには、 万物を破棄しえないことを知りながら、 それらに気をとめないようにする。
人はこの夢がつつ゛いてゆかねば
ならないものであることを知っている。

この夢はまた美しいものでもある。

そこで思い煩うことなど何ひとつない。

捨て去らなくてもいい、
打ち壊さなくてもいい、
それと闘わなくてもいい。

あなたは自分の影と闘ったりはしない。
あなたはそれが影であることを知っている。
それは影であると知っているから、
打ち壊したいとも思わない。

どこまでも後をついてくるから、
けっしてあなたのもとを去らないから、
それのことを心配しない。

あなたはそれが影であることを知っている。

この世間が影であることを知ると……
実在の影であって実在そのものではなく、
湖に映る月であって月そのものではない
と知ると、人は世間の只なかにあってさえ
くつろぐようになる。

世間をまったく気にもとめずに、人は
みずからの務めを果たし、
みずからの仕事をし、
飄々ひょうひょうとしながら
暮らしつつ゛けてゆく。

このようにして三つの観想はひとつになる。
そうなったら三つの観想はもはや三つではなく、
それはただひとつの観想になる。

あなたは
中心に収斂してゆき、
中心を自覚するようになる。

グルジェフが「自己想起」と呼び、
仏陀が「サマサティ」――留意――と呼び、
マハヴィーラが「ヴィヴェック」と呼んでいたのはこのことだ。

今やあなたは
リアルではないものを見抜き、
現実と非現実を識別している。

今やあなたは
何が影であり、
何が実物であるか
を見抜いている。

あなたは実物の月を見たし、
水に映る月影も見た……
だが影はつつ゛いてゆく!

影はそれが影である
と気つ゛いたからといって
消えてゆくものではない。
それはつつ゛いてゆく。

そして問題は何もない――それは美しい!

湖のほとりに坐って、月影を眺めていればいい――
それは美しいし、何の問題も生じてこない。

だが、あなたはそれが実在しないことを知っている。

だが、とどのつまりは空を体得することで力が得られる。
だが、覚えておきなさい――統合、結晶化は、
ひとえに空を体得することから生まれてくる。

それが瞑想の出発点になる。

それゆえに、空観を実践するときには、空は紛れもなく空であるが……
さあ、あなたがたはもう少し
深く入ってゆかねばならない。

いっさいが空であると知る
と、問題が生まれてくる。

あなたはその空を何か
しっかりとした実体があるものだ
と見なしはじめるかもしれない
――それが問題だ。

というのも、頭マインドはいつも
言葉にとらわれてしまうからだ。

『不思議の国のアリス』というすばらしい本のなかにこんな一節がある……

アリスが王様のもとへ到着すると、王様はラブレターが届くのを今か今かと待ちわびて
いた。彼は誰を見ても「使いの者に会わなかったかね?」と尋ねてまわる。王様は
アリスにも「こちらへ向かっている使いの者に会わなかったかね?」と尋ねる。

アリスが「誰もいませんわ」と言うと、王様は
彼女が"ダレモイナイ"という名前の誰かに会ったのだと思い込む。

王様は言う「おまえよりも足がのろいやつじゃ、"ダレモイナイ"は。でなけりゃ
とっくに着いておるはずじゃ。わしは何度も何度も同じ知らせを聞いておる。たくさん
の者がここに着いたが、みんな口をそろえて"ダレモイナイ"と言う。なのにまだ
ダレモイナイは到着していない!おまえよりも足がのろいやつじゃ、ダレモイナイは」

当然アリスは「王様は何を言ってらっしゃるのだろう?
私より足がのろい人は誰もいないですって?」と考えて、こう言い返した。
「誰もいないわ、私よりも足が速い人」アリスは気分を害していた。

すると王様は言った。
「ダレモイナイは、おまえより足が速いのか?ではなぜそいつはまだ着かんのじゃ?」

話がこんがらがったわけに気つ゛いたアリスは、
「王様、ダレモイナイなんて人は誰もいないんです」と言った。

すると王様は言った。「もちろんじゃ。ダレモイナイはダレモイナイに決まっておる。
だが、そいつはどこにおるのかね?」こうして話は延々とつつ゛いていった。

空でさえ
もの
になってしまいかねない。

仏教哲学で起こったのはそれだ。
哲学者はあたかも空が神であるかのように、
空が生の本質そのものであるかのように、
空について語りはじめる。

彼らはあたかも
無が何ものかであるかのように、
無のことを語りはじめる。

無は言葉にすぎない。

自然のなかには
ノーは存在していない。
ノーは人間が発明したものだ。

自然のなかでは、すべてがイエスだ。
自然のなかには、肯定的なものだけが存在している。

否定的なものは人間がこしらえたものだ。

例えば、この椅子はただの椅子だ。
自然のなかでは椅子は椅子でしかない
――それがありのままの姿だ――
だが、言葉では
「これはテーブルではない、これは馬ではない、これは人間ではない」
と言うことができる。これらの言明はすべて正しい。
椅子はテーブルではないし、馬ではないし、人間ではないからだ。
だが、これらは否定的な言語表現にすぎない。

自然のなかでは椅子はただの椅子でしかない。

自然のなかに否定的なものはなく、
ただ肯定的なものだけがある。

だが、言語のなかには否定形が存在し、
その否定形ゆえに大いなる哲学が生まれてきた。

無そのものがひとつの事物になってしまう。

不在がある種の存在であるかのように語られる。

だから、それに注意しなさい。

あなたに注意をうながすために、呂祖師は言う。

いいかね、空は紛れもなく空であるが、仮象も空であり……

幻影(仮象)は少なくとも
幻影としては実在する
と考えはじめてはいけない。

幻影もまた空であり、
そこには何もない。

例えば縄を蛇だと錯覚するとしよう。
見ると蛇がそこにいるが、明かりをもってくると消えてしまう。

そうなると「蛇はどこへ消えたのだろう?蛇はどこからやって来たのだろう?」
という疑問が湧いてくる。

蛇は一度も現れたこともなければ、消え去りもしなかった。

それは存在しなかったのだ。

実のところ、縄はいつも縄だった。

それはあなたの錯覚だった。

あなたが蛇をつくりだし、それを投影した。

それは妄想マインドの産物
にすぎなかった。

いいかね、空は空であり、
仮象も空であり、
中心も空である。
これが仏陀のなす最大の貢献だ。

ヒンドゥー教徒たちは「世界はまぼろしだ」と言う。
ジャイナ教徒たちは「世界はまぼろしであり、心マインドもまぼろしである」と言う。
仏陀は
「世界はまぼろしであり、心はまぼろしであり、中心もまぼろしである」
と言う。

彼の洞察力はとてつもない。
彼は言う――

見られるものが幻影だとしたら、
どうして見る者が実在しえるだろう?

これは最も深遠なにゃはんニルヴァーナの言明だ――

夢がまぼろし
だとしたら、その夢を
見る者も幻影であり、
踊りがまぼろし
だとしたら、その
踊り手もまた幻影だ。

彼は何を言おうとしているのだろう?
彼はこう言おうとしている――

まず世間を捨て、それから
心マインドが紡ぎだす幻想を捨て、さらに
中心という、自己という考えも捨てなさい、と。

そうしなければ自我エゴが生き残る。

新しい名前で、巧妙な仕方で、自我が生き残る。

それもまた去らせなさい。
あらゆるものを去らせなさい。

ただ虚空、無だけをあらしめなさい。

その無のなかにすべてがある。

その完全な不在のなかに臨在がある。

仏陀はその臨在のことはけっして語らない。

彼は、それは身をもって知るべきものだと言う。

そのことは語るべきではない。

なぜなら、心は実に狡猾であり、
臨在について語れば、
それを渇望するようになるからだ。

神について語れば、心は
その神を手中におさめることを考えはじめる。

仏陀は神については何も語らないが、
それは神が実在しないからではない――
覚者より他の誰が神の存在を知りうるというのだろう?

だが、彼がけっして語らないのには
ある深いわけがある。

神について語ると、
神を得たいという欲望を生みだしかねないからだ。

そして、もしそこに欲望があれば、あなたは
けっして神に到りつくことがない。

欲望はすべて消えなければならない。
無欲の境地にあってはじめて神は到来する。

仮観を実践するには大きな力が必要である。 このとき仮象はあきらかに幻影であるが、 空も幻影であり、中心も幻影である。 中観の道にあるときには、やはり 空の心像を生みだすのであるが……
これらの空の心像は助けにすぎない。

まず、世間からあなたを連れだすために、
仏陀は「世界は空である」と言う。

すると幻影が真実になってしまう。

そこで仏陀は「幻影もまた空である」と言う。

すると中心が真実ということになる。

そこで仏陀は「中心もまた空である」と言う。

まったき沈黙のなかで、
いっさいのものが跡形もなく消え失せる――
そのまったき沈黙のなかに
祝福があり、神がある。

また仮観を実践するときも、 それを仮象と呼ばず、中心と呼ぶのである。 中心そのものについては別に説明する必要はないだろう。
いっさいのもの――世界、想念マインド、自己――
が消え去ると、いったい何が起こるのだろう?

呂祖師の言うとおりだ。彼は、
別に説明する必要はないだろう、と言っている。

さらに何かを言うことは危険だからだ。
さらに何かを言うと、あなたに欲望の
対象を与えることになる。

そして欲望が生まれると、全世界がなだれ込んでくる。

これはすならしい方便だ。
それに瞑想することができたら、あなたは
無限なるもの、
永遠なるもの、
時を越えたもの、
真実の生
を得るだろう。

(p527)



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