黄金の華の秘密

スワミ・アナンド・モンジュ訳 めるくまーる出版
 

第十五話 かわず飛び込む水の音

タオ、分かたれていないもの、大いなる一者は、 相反する二つの存在原理――闇と光、陰と陽を生みだす。 陰からは受容的な女性原理が現れ、陽からは創造的な男性原理が現れる。 陰からは生命が現れ、陽からは受容的な本性が現れる。
ひとりひとりの人間のなかには胚胞があるが、それは 受胎の瞬間に命と性、生命と本性に分かれる。
個々の人間の肉体のなかで、それらは二つの極 ――アニマとアニムスによって表される。 この二つは生涯にわたって争い、主導権を求めて闘いをくり広げる。

生命エネルギーが下方に向かって流れれば、すなわち、何の障害もなく 外界に向かって流れ出せば、アニマがアニムスに打ち勝ち、黄金の華は開かない。 生命エネルギーが逆流のプロセスによって導かれたら、すなわち 蓄えられ、散らされずに上昇させられたなら、アニムスが勝利をおさめている。

生涯を通じて生命エネルギーを蓄える道を守る者は、 黄金の華の境地に到達するだろう。 そこで自己は対立物の葛藤から解き放たれ、再び タオ、分かたれていないもの、大いなる一者とひとつになる。


 古池やかわず飛び込む水の音

これは松尾芭蕉の最も有名な俳句のひとつだ。
この俳句には、目覚めた人々だけが気つ゛く
ことのできる格別の味わいがある。

その美はたんに審美的なものではなく実存的なものだ。
そのかぐわしい香りは悟りの境地から放たれる。

タオとはひとえに
何の但し書きもない、形容もつかない、
ありのままの姿を指している。

タオとはただ"そのようにある"ということだ。

 古池やかわず飛び込む水の音

俳句はふつうの詩ではない。

ふつうの詩は空想から生まれる。
ふつうの詩は想いマインドの産物だ。

俳句はただありのままの姿を映しだす。

意識は鏡になって、
目の前にあるものを映しだす。

鏡は映るものに影響されない。

その前を醜い人が通りすぎても、
鏡が醜くなることはない、
鏡には何の変化も起こらない。

美しい人が通りすぎても、
鏡が美しくなることはない。

映す相手が誰もいなくても、
鏡は前と同じで変わらない。

映しても映さなくても、
善いものを映しても悪いものを映しても、
鏡は清らかなままだ。

目覚めた人の意識もそうだ。

芭蕉は仏頂禅師の弟子だった。
このとてつもなく美しい俳句が生まれたとき、
芭蕉は古池のほとりにある小さな庵で暮らしていた。

ある日のこと、にわか雨があがると、仏頂禅師は芭蕉のもとを訪れ、
「近頃のおまえの見解けんげはどうかな?」と尋ねた。

いいかね、師は「どんな知識を身につけたかな?」
と尋ねるのではなく、「見解はどうかな?」と尋ねている。

見解けんげというのは知識とはまったく別のものだ。
知識は借り物だが、見解は自分自身のものだ。
知識は外からくるが、見解は内側から生まれてくる。

知識は手垢にまみれているので醜い。そして
知識はけっしてあなたの実存の一部にはなりえない。
それはいつまでたっても異質なもの、よそよそしいものであり、
あなたのなかに根をおろせない。

見解はあなたのなかから育ってくる。
それはあなた自身の開花だ。
それはまぎれもなくあなたのものであり、
それゆえに美をそなえ、解き放つ力を宿している。

真理はけっして誰からも
借りることができない。そして
借りてきた真理はもはや真理ではない。
借りてきた真理はすでに虚偽だ。語られるやいなや、その
真理はたちまち嘘になる。

真理とは体験されるべきものであり、
聞いたり、読んだりするものではない。

真理は
たんにあなたが蓄えてきたものの一部に、あなたの記憶の一部になるもの
ではない。

真理は実存的なものでなければならない。
あなたの実存の毛穴のひとつひとつが
それを感じなければならない。

そう、それはひとつの感性フィーリングでなければならない。

ひと息ひと息が真理で満たされていなければならない。

それはあなたのなかで脈動し、
あなたのなかを血のように巡らなければならない。

真理が体得されると、あなたはそれになる。

だから仏頂は弟子に向かって、
「芭蕉、近頃のおまえの見解けんげはどうかな?」と尋ねた。

そしてこの"近頃の"という美しい言葉を忘れてはいけない。

真理はつねに成長している。
真理は動いている。

それは静的ではなく、ピチピチと躍動している。
それは踊りだ。
それはそびえゆく樹々、流れゆく川、まわりつつ゛ける星々のようだ。

真理はけっしていかなる意味でも静的な
現象ではない。それは停滞したものではなく、
実にダイナミックに、勢いよく動きまわっている。
いきいきとしているためには動きつつ゛けていなければならない。

死だけが静止し、死だけがよどんでいる。だから
死んでいる人々もうわべは生きているようにみえるかもしれないが、
真理がもはや成長していなければ、彼らは死んでいる。
彼らの魂はもはや成長していない。

真理とは観念ではなく、
あなたの実存そのもの、
あなたの魂そのものだ。

それゆえに師は
「 近 頃 の おまえの見解けんげはどうかな?」と尋ねた。
彼は過去のことを尋ねているのではない。

知識はつねに過去に関わり、空想はつねに未来に関わっている。

彼は現在のことを尋ねている、
現に目の前にあるもののことを尋ねている。

芭蕉は答えた。

 雨過ぎて青苔を流す

つい先程まで雨が降っていた。
雨はあがり、青い苔がみずみずしく輝いている。

悪くはないが、まだ充分ではない。
それはすでに過ぎ去ったことであり、
現に目の前にあるもののことではない。

それはすでに記憶になっていて、
今まさに体験していることではない。

仏頂は満足しなかった――悪い答えではなかったが、まだまだだった。

そして絶妙な答えが出るまで、
意にピタリとかなった答えが出るまで、
師はけっして満足しない――
芭蕉のように大きな力量を秘めた
人物を前にしてはなおさらだ。

もはや芭蕉の師、仏頂のことを知る者はいない。
彼はただ芭蕉のおかげで知られている。

この弟子には無限の力が秘められていた。
師はそうたやすく満足することはできない。

それを覚えておきなさい!

器が大きければ大きいほど、
あなたには困難な課題ワークが課せられる。

師はあなたにきびしい態度を取るだろう。
彼はあなたを少しも容赦しないだろう。

芭蕉ほどの器をそなえていない者の答えならばそれでもいい。
師はうなずいて同意したかもしれない――が、芭蕉はだめだ。

数分の間があいても、ずれていることに変わりはない。
すでに雨はあがり、空は晴れ、太陽が顔をのぞかせ、その光を
古池や、庵いおりや、あたり一面に投げかけている。

師は「まだ言葉が足りない!」と言った。

師が「まだ言葉が足りない!」と言うのは、
もっと言葉を加えなさいという意味ではない。
彼は言葉の数が足りないと言っているのではない。

彼はこう言っている――
もっと深みのあることを言いなさい、
もっと力強いことを言いなさい、
もっと実存的なことを言いなさい、
もっと内実のあることを言いなさい!

(p533)


まさにそのとき、
蛙が池にポチャンと飛び込む音が聞こえた。
彼はこう詠んだ。

 かわず飛び込む水の音

さあ、これがタオだ――
現に目の前で、あるがままに、息つ゛き、脈動している、
まさにこの瞬間。

タオは過去を知らず、未来を知らない。
タオはただひとつの時制しか知らない――それは現在だ。
タオは 今 こ こ しか知らない。

みずからの思考マインドを消えてゆかせれば、
過去もないし、未来もない。過去と未来は思考の産物だ。

実際に存在するのは現在だけだ。

そして過去もなく、未来もないとしたら、
どうしてそれを「現在」と呼べるだろう?
現在は過去や未来と照らし合わせてはじめて意味をもつ。

現在は過去と未来のあいだにはさまれている。
過去と未来を取り去れば、現在もまた消え失せる。

それがタオの瞬間だ――
時間が消え、人はありありと
その場にいて、完全に今ここにいて、
過去の亡霊のあいだをさまようこともなく、
まだ生まれていない未来の心像のなかをさまようこともない。

これが<光明エンライトメント>の瞬間だ――
時間が消え、人はただただここにあって、
他のどこにもいない。

そして時間が存在しないときには、
思考マインドも存在しない。

思考と時間は同義語だ。
思考の量が増せば増すほど、人は
時間を意識するようになる。

だから西洋の国々では時間をひじょうに意識するようになった。
それは思考を発達させてきたからだ。

山や密林のなかに住んでいる原始的な人々のところへ行ってみるといい。
原住民のところへ行くと、そこには時間の観念がない。それは
考える力マインドがまだ発達していないからだ。

だが、それが再び起こる――理解によって、
過去への郷愁と未来への
夢想をすべて落とすと、
時間は再び消える。

そして時間が消えるとともに、
突然、思考はどこにも見当たらなくなる。
そして思考が消えると、静けさが訪れる。

その静けさのなかで、彼方なるものが地上に浸透してくる。
その静けさのなかで、未知なるものがあなたのなかへ降りてくる。
その静けさのなかで、神との出会いが起こり、
その静けさのなかで、感謝の祈り、祝福が湧き起こる。
その静けさのなかに、神の王国が出現する。

 かわず飛び込む水の音

これがタオの言辞だ。
これがタオだ――素朴で、純粋で、まさにあらわだ。

この答えを聞いて、師はこのうえもなく喜んだ。

弟子がわが家に帰り着くと、
師はいつでも歓喜する。
師の喜びには限りがなく、まるで
自分が再び光明を得たかのようだ!

すでに欠けるところのない師の実存に、
さらに満ち足りたものが加えられる。

師につけ加えねばならないものは何もないが、
弟子が覚醒へと燃えあがり、炎と化すたびに、
師はまるで自分が光明を得たかのように感じる。

師はこのうえもなく喜んだが、
まさにその師の喜びが機縁となって、
芭蕉は光明を得た。

師の嬉しそうな顔を、
師が放つ喜びのオーラを、
師がうなずいて認めるさまを――あるいは
何も言わずに、その静けさを天の恵みのように
弟子の上に注いでくれるのを見て、
芭蕉は光明を得た!

なんとすばらしい光明の瞬間だろう!

これまで無数の人々が光明を得てきたが、
芭蕉のような仕方で光明を得た人は
これまでになかった。

師が喜んでいたので、まさにその
師の喜びが芭蕉の胸を剣のように貫いた。

花々が彼の上に降り注いだ。

師は微笑んでいたにちがいないからだ……
師は喜びと祝福に満ちた目で芭蕉を見つめていただろう、
きっとこれまで聴いたこともないような
音楽が聴こえていたにちがいない。

もしかすると、仏頂は踊りだすか、
それに類する気違いじみたことをやったにちがいない。

弟子が光明を得る
というのは些細なことではないからだ。

のちに、芭蕉はこの俳句を
ダイヤモンドのように磨きあげていった。

彼は生涯をかけてそれを磨きあげていった
――なぜなら、これは希有な現象だからだ。

この小さな俳句……

 古池やかわず飛び込む水の音

芭蕉自身の光明のプロセス
を誘発したのはこれだった。

彼はそれをダイヤモンドのように磨きあげていった。
彼はそれをカットして、さらにもっと深みを加えていった。
彼は"古池"を加えた。

最初の句はこれだけだった……

 かわず飛び込む水の音

のちに彼は"古池"をつけ加えた。

私の感じでは、古池が自分も加えて
くれるようにと主張したにちがいない。

古池も加えられてしかるべきだった――
古池がなければ蛙もいなかっただろうし、その蛙が
飛び込むことも、水の音がすることもなかっただろう。

芭蕉は古池に多くのものを負っている。
彼はそれを加えた。

そこで俳句はこうなった……

 古池やかわず飛び込む水の音

さらにそののち、彼は「水の」という言葉を落とした。
そうなると俳句は前のように完全な形ではなくなるが、
前よりももっと完成度の高いものになった。

それはこうだ……

 古池やかわず飛び込む、音

それは前ほど完全な形ではなくなった
が、より完成度の高いものになった。

より完成度の高いものになったということで、
私は何を言おうとしているのだろう?

今やそれは成長しつつある現象になり、
ピリオドが打たれることはないということだ。

前のものには終止符が打たれ、仕上げがすんでいた。
それには何も加えることができなかった。

瞑想の機縁となるものは何も残されていなかった。

だが、"音"だけになると、扉が開かれてくる。
もはや終止符は打たれていない。
それはひとつの探求になる。

だから、それは完全な形は失った
が、より完成度の高いものになった。

今やそれはまったく非の打ちどころがない。
成長しつつあるという意味において非の打ちどころがない。

今やそれは成長しつつある樹であり、予測することができない。
今やひとりひとりがそれに瞑想しなければならない。

そしてこれは芭蕉に従おうとする探求者
にとってすばらしい瞑想のひとつになった。

それは前よりもいちだんと美しいものになった。

いつも覚えておきなさい、
完全なもの、完全無欠なものは、何かを失ってしまう
――それは死んだものになる。

優れた画家たちはみなこのことを知っている。

そして最も優れた絵というのは
少し未完のままで残されていて、
最後の一筆は加えられていない。

最も優れた詩というのは
未完のままで残されている。

だから扉が開いたままになっており、
あなたはそのなかに入ってゆくことができる。

あなたの
実存は未完の詩と親しく交流することができ、
実存がそれを仕上げることになる。それはあなたの
実存のなかで完結する。

だから、それはこのようになった……

 古池やかわず飛び込む、音

さらにそののちに、彼はまた言葉
を落とし、とうとうこうなった……

 古池やかわず飛び込む、ポチャン!

さあ、今や絶頂に近つ゛きつつある。ただの"ポチャン!"。

このほうが真実に近い……
カエルにとって、
池にとって、
実在にとって
より真実だ。

実在は"ポチャン!"しか知らない。

あなたはただその場に立ちつくし、
そして驚異の念に打たれ、
探求し、瞑想をはじめる。

誰かが芭蕉に尋ねた。
「あなたはどうして『水の』という語句を落とし、
最後には『音』という言葉まで落としてしまったのですか?」

芭蕉は言った。
「どんな音がするのか耳を澄ましてほしいのだ。私は言いたくない。
 どんな音がするのかあなたの耳で聴いてほしい」

 古池やかわず飛び込む、ポチャン!

あなたはまったく新しい瞑想的な空間に放り出される。

突然、古池の姿がくっきりと目に浮かんでくる。
それは目の前にあるかのようにありありと感じられる。

そしてカエルが飛び込む。

それは過去にいるカエルではない……ポチャン!

あなたはその音を再び聴くことができる。

それは現実そのものになる。

これは偉大な芸術であり、芸術家が体験したものを、
受容的であり、みずからを開き、いつでも冒険に出かける
用意ができている人のなかに再び再現させることができる。

ブッダたちはみなこの方法を取る。
彼らの言明は「瞑想」と呼ばれるプロセスを
あなたのなかに引き起こすための機縁にすぎない。

これがタオのやり方だ――
あなたをありのままの現実に連れもどすこと。

これは私のやり方でもある――
あなたが瞬間とぴったりひとつになる
のを助けること。

まさに こ の 瞬間! こ れ がそれだ!


タオは教義ではない。

それは気つ゛きに到るための独自な道だ。
それは目覚めの道、光明の道、わが家へ帰るための道だ。

タオとは単に道を意味する。そしていいかね、
それはふつうの意味での道を指しているのではない。

「道」という言葉を耳にするたびに、
人はどこか遠くにある目的地のことを、
その道が到り着く先を考えはじめる。

いいや、タオとは道のことだが、目的地とは関係がない。

では、それは何を意味しているのだろう?

それは"ものごとのありよう"を意味している。
それはたんにものごとのありよう、すでにあるもの、
そうであるところのものを意味している。

達成しなければならないものなど何もない。

すべてはあなたの上に降り注いでいる。

ただ今ここにあって、祝うがいい。

私にとって宗教とは祝祭だ。

だが、タオのような単純シンプルな現象を好まない人々がいる。

彼らの自我エゴは手ごたえがないので物足りなく思う。
彼らはいつもけわしい道に興味をもつ。
彼らはいつも困難なものに興味をもつ。困難なことがなかったら、
彼らはそれをつくりだす。
彼らはものごとをあっさり行なうことができない。

彼らは
単純であることが苦手だが、
単純であることが、神のなかにある唯一の道だ。

神とは単純さ、天真爛漫さだ。
神はバラの茂みやマンゴーの林から聞えてくるカッコウの鳴き声と同じくらい単純だ。
神は少女たちのくすくす笑いと同じくらい単純だ。
神は樹から舞い落ちる木の葉と同じくらい単純だ。
神は松の老木を吹き抜けてゆく風と同じくらい単純だ。

だが、神がそのように単純であることを好まない人々がいる。
そういった人々が神学をつくりだす。
そういった人々が神にまつわる難解で、抽象的な空論をつくりだし、
ものごと全体をほとんど理解できないようなむずかしいものにしてしまう。

だが、神はひじょうに単純だ。

 古池やかわず飛び込む、ポチャン!

そう、神はそれに似ている……
それをしっかりこころに刻んでおきなさい。

あなたの自我が策を弄しはじめるからだ。
人々はそのようにしてタオの単純な道を取り逃がしている。

キリスト教には実に多くの信者がいる。
仏教には数多くの信者がいる。イスラム教には数多くの信者がいる。

だが、タオは今だに教団ではない。
タオが教団だったことはないし、組織になったことは一度もない。

個人が存在し、
個人がそれに従い、
個人がそれを通して成就して
きたがそれはけっして大衆の道にはならなかった。

なぜか?

それはタオが
自我の流儀を落とす用意ができている者たち、
子どものように単純で、天真爛漫になることができる者たち
だけに開かれているからだ。

問題のむずかしい面だけを見ようとする者たちがいる。
彼らの目には単純な解決方法は映らないし、いつも
最も複雑なやり方を考えなければならない。

それで思い出したが、ある若者がニューポートにある高級な会員制のカントリー
クラブに入会を申し込んでいた。ごく控えめで風采のあがらないこの若者は、
入会を許可されるためにはクラブの審査員とゴルフを一ラウンドやらなければ
ならないと告げられた。

約束の日の午後、彼は最初のティーグラウンドでホッケーの棒や、クリケットの
つちや、ビリヤードのキューをもって審査員たちと出会った。審査員たちは胡散
臭そうな目でじろじろと眺めたが、それでも球を打ちはじめた。驚いたことに、
若者はホッケーの棒を手に取ると平然と二百七十五ヤードをかっ飛ばし、続いて
クリケットのつちで打ったセコンドショットはみごとな弧を描いてグリーンに
オンした。そして彼はビリヤードのキューで二十フィートのパットを沈めた。

途方に暮れる審査員をアンダーパー六十八で散々にやっつけたあと、若者は彼ら
とともにクラブ・バーに向かった。彼はスコッチとソーダを注文したが、注文の
品がくると、ショットグラスの中身を自分の肩ごしにカウンターの上に置いて
あるソーダのなかへひょいと投げ込んで、それらを混ぜた。この若者のしなやか
な身のこなしの芸当を見せつけられて、クラブの審査員は再び唖然とした。

「実にあざやかなお手並みだねぇ!」と彼らは叫んだ。「あなたのすばらしい
才能はどこから降って湧いたのですか?」「生まれてこのかた」と若者は説明
した。「どんな運動も僕にとっては子どもの遊びのようなものだったんだ。何
でもすぐにできてしまい退屈で仕方ないから、何をするにつけても、一番むずか
しいやり方でやるようにしてるんだ。ピンポンのラケットでテニスをしたり、
テニスのラケットでピンポンをしたりしてね……」

「ちょっと待ってくださいよ」とクラブの審査員のひとりが口をはさんだ。
「もしあなたの言うことが本当で、どんな運動でも一番むずかしいやり方で
やるというのなら、ひとつ質問があるんですよ……」「わかってますよ」と
若者は微笑みながら言った。「みんな同じことを尋ねるんです。いいですよ、
教えてあげましょう――ハンモックの上で立ちあがることについてでしょう?」

これが自我エゴのやり方だ。

タオは単純シンプルだ、単純そのものだ。

ハンモックの上で立ちあがらなくてもいい。

タオに関する最も基本的なことがらは、
それは子どもの遊びのようなものだということだ。

だが、子どものようになることは人々には不可能に近いことのようだ。
誰が子どものようになりたがるだろう?

イエスは「幼子のようにならないかぎり、私の神の王国には入れない」と言う。

だが、誰も子どものようにはなりたがらないようだ。
私たちの悲劇はそこにある。

私たちは何日間もタオの世界の奥深くに分け入ってきた。
今日で経文は終わり、呂祖師の言葉もこれが最後だ。

これらは単純だ。

それらを理解するには単純でなければならない。

そこには大した知識は含まれていないが、
紛れもなく多くの洞察が含まれている。

それらはあなたを物知りにさせたりはしない。
むしろ逆にすべての知識を取り去って、
あなたを無知にする。

だが、もし無知になれたなら、
勇気を奮い起こして知識をすべて落とすことができたなら、
無知な状態のまま生きてゆくことができたなら、
人と神のあいだの障壁がなくなり、
人と<存在>のあいだの障壁がなくなる。

知識は障壁をつくりだす。

アダムがエデンの園から追放されたのは、
知識の樹の実を食べてしまったからだ。

その実を吐きださなければならない。
ひとたび知識が吐きだされたら、
あなたは清浄になる。

そしてその清らかさのなかで、
すべてのものが手に入るようになる。

あらゆるものがすでに待ち受けている。

ただあなたが汚れ、知識でいっぱいになっているために、
それを見ることができないだけだ。

さて、経文だ――

タオ、分かたれていないもの、大いなる一者は、 相反する二つの存在原理――闇と光、陰と陽を生みだす。 陰からは受容的な女性原理が現れ、 陽からは創造的な男性原理が現れる。 陰からは生命が現れ、 陽からは本性が現れる。
これが『黄金の華の秘密』の最後の章句だ。

あなたが覚えておけるように、
論書のすべてがここに要約されている。
タオ、分かたれていないもの、大いなる一者は、 相反する二つの存在原理――闇と光、陰と陽を生みだす。
まず、タオとは何か?

あるがままのもの、名もなく、制約もない、ただ
あるがままのもののことだ。

それはいっさいのものを包含している。
それは樹や星を包み込み、あなたや私や動物や鳥たちを包み込んでいる。
それは森羅万象のすべてを包み込んでいる。

そしてあるがままのものは
これから存在するいっさいのものを含んでいる。

タオを言葉にすることができないのは、それが
いっさいのものを包含しているからだ――
あらゆるものを包み込める言葉はない。

言葉の目的そのものが区分を示すことにある。
言葉の目的そのものが類別することにある。

テーブルはテーブルであって椅子ではない。
椅子は椅子であって犬ではない。
犬は犬であって人間ではない。

言葉はそのまわりに明確な境界があってはじめて意味をもつ。

それは他のあらゆるものを締め出してしまう。
それはちっぽけなものだけを内包して、
存在全体を締め出してしまう。

タオは万物を内包して、何も締め出すことがない。
タオを言葉にすることができないのはそのためだ。
タオは、示すことはできるが言い表すことはできない。

タオの人のなかに入ってゆくことができ、
タオの人を自分のなかに入ってこさせる
用意ができているなら、彼はその味を
あなたに味あわせることができる。

タオの人は一瞥いちべつを与えることが
――包み隠さぬ<存在>の全容を
閃光のように垣間見させることができる。

だが、あなたは怯えてしまうかもしれない。

大いなる歌『バガヴァッド・ギータ』のなかで起こったことはそれだ。

弟子のアルジュナは師であり、友であり、導き手であるクリシュナに尋ねた。
「あなたは深遠なことを語られます。
 あなたは実に巧みに論じられます。
 あなたの言葉には強い説得力がありますが、
私の胸の奥深くにはまだ疑いが残っています。
それはあなたがおっしゃることを私自身がまだ体験していないからです。
なぜその一瞥を与えてくださらないのですか?
ほんのちょっと味わうだけでいいのです。
いつまでも議論を続けてもしかたありません。
どんなに論をつくしてもしかたありません。
ほんのすこしでも味わえば、私は納得し、疑いは消え去るでしょう」

クリシュナは「いいだろう」と言った。

そして師と弟子のあいだに起こった
最も美しい物語のひとつが生まれた。

クリシュナの身体はみるみる大きくなり、
無限大に広がると、世界が彼のなかで巡りはじめた。

アルジュナは恐れおののいた。

クリシュナには無数の手があり、
全ての星とすべての惑星が彼のなかにあった。

生と死が彼のなかにあり、彼のなかで
すべての両極が出会い溶け合っていた。

それは混沌カオスだった。

アルジュナは自分の気がふれてしまったのではないかと思った。
彼はおののきのあまり目をつぶり、悲鳴をあげ、「元にもどってください!
二本の腕をもったふだんのあなたの姿にもどってください。もう一度私の
懐かしい友にもどってください。これはあんまりです!」と叫んだ。

クリシュナは元にもどると、こう言った。
「こうなることはわかっていた。おまえには
全体の姿を味わう用意がまだできていない」

全体の姿はあなたを震撼させる。

その広大無辺な姿はあなたを震撼させ、
あなたの正気を奪ってしまう。

それは奈落であり、
あなたはシャボン玉のように
その奈落のなかに消えてゆく。

それはあまりに広大なので、
あなたは自分が誰なのか
まったく識別できなくなってしまう。

アルジュナに起こったことはそれだ。彼は言った。
「おっしゃる通りです。私は死んでゆくような感じがしました。
あるいは自分が狂ってゆくような感じが、
またはすでにおかしくなっているような気がしました。
本来の姿にもどってくださって感謝します」

するとクリシュナは言った。
「これは私の本来の姿ではない、あれが私の本来の姿なのだ」

タオは無限だ。
タオは全体なるものだ。
タオとは森羅万象のすべてであり、
それゆえに言葉で表すことはできない。

だが、師と弟子が親密に触れ合うなかで、
その何かが脈動をはじめる。

あなたが<全体>に呼応できるようになり、
分離したものとしては働かなくなり、
しばらくのあいだ分離の観念が消えて、
ひとつにまとまる瞬間がある。

しずくが海のなかに消え去ると――
一瞬かもしれないが――あなたは
タオとは何かを知る。


だから、タオは言い表すことはできないが示すことはできる。
私がここでやっていることはそれだ。

ここは哲学を学ぶ場所ではない。
私はあなたがたにどんな哲学も教えてはいない。

これは実存的な道場スクールだ。

私はあるがままの<存在>を教えている。

そして<存在>はすでにここにある。

もう少し勇気を出してみずからを開き、
それが入ってくるのを許せばいいだけだ。

それはあなたの扉を叩いている!

イエスは言う。
「叩きなさい、そうすれば扉は開かれる。
 求めなさい、そうすればそれは与えられる。
 探しなさい、そうすればそれは見つかる」

私はまったく逆のことをあなたがたに言いたい。

神はあなたの扉を叩いている。
何千年ものあいだ叩いてきた。

聴きなさい!

神が扉を叩いている……
扉を開けなさい。

耳を澄ましなさい!

神はあなたに
「みずからに課した牢獄から出てきなさい」
と言っている。

神はあなたを探している!

邪魔をしてはいけない!

神があなたを探すのを手伝いなさい!

神が探しているのにあなたは
逃げている、何生にもわたって
逃げつつ゛けている。惨めなくせに、それでもあなたは
逃げつつ゛けている。

そして神の手が近つ゛いてくると、
いつもあなたは身震いする。

だが、私にはわかっている。
その恐怖が起こるのも無理はない。

何が怖いのだろう?

それは神が存在するなら、
自分は存在しえないという恐怖だ。

フリードリッヒ・ニーチェは言っている。
「神が存在するなら、どうして私が存在しえるだろう?
だから私は"神は存在しない"と
 決 め る 。そうしてはじめて
 私 があることができる」

何百万もの人々がそのように決めてしまっている。
彼らは自分が残るために神を否定してしまっている。

神が存在しなければ、
自我エゴにも存在する余地がある。

神が存在するなら、どのようにして
自我を支えればよいのだろう?
何によって?

あなたはもはやそこにいなくなる
――それが恐れだ。

神は自我の死だ。

タオを味わうことはできるし、
タオを体験することはできる。

だが、ある条件を満たさなければならない。

あなたはいかなる自我ももたないほど
素朴シンプルにならなければいけない。

"私"という思いが消えるほど
静かにならなければいけない。


タオ、分かたれていないもの、大いなる一者は、相反する二つの存在原理 ――闇と光、陰と陽を生みだす。
一なるものが二になる――これは
道家タオイストがものに取り組む姿勢の
まさに基盤をなしている。

なぜなら、そこではじめて遊びが生まれるからだ。

ひとつのものは二つにならなければいけない。
そして二つのものは互いに対立しなければならない。
そうしてゲームがはじまる。

古代のヒンドゥー教の聖典は
「神は独りだったので、深い孤独感を味わっていた」と言う。

神は他者をつくることにした。

ヒンドゥー教徒が<存在>は
リーラだ、遊戯だと言うのはそのためだ。

神はちょっとした楽しみのために他者をつくりだした。

タオはひとつだが、
顕れるやいなや、それは
二つにならなければいけない。
形あるものは二元的にならなければいけない。

それはけっしてひとつではなく、二つに
――分裂して二つにならなければいけない。
それは物質と意識に、男と女に、昼と夜に、
生と死にならなければいけない。

この二つの原理は
至るところで目にすることができる。

生は何から何までこの二つの原理で成り立っているが、
その二つの原理の背後には一なるものが隠されている。

この二元性、両極のあいだに
巻き込まれたままでいるなら、
あなたは世間にとどまっている。

聡明になって、
もう少し意識をとぎ澄まし、
もっと深く事物の奥底をのぞき込むようになったら、
あなたは驚くだろう――これらの両極は実は対立する極ではなく、
互いに補い合っている。

そしてこの両者の背後には
たったひとつのエネルギーがある
――それがタオだ。
タオ、分かたれていないもの、大いなる一者は、 相反する二つの存在原理――闇と光、陰と陽を生みだす。 陰からは受容的な女性原理が現れ、陽からは創造的な男性原理が現れる。 陰からは生命が現れ、陽からは本性が現れる。

基本的に、極性は男と女
――男性的なものと女性的なもの
――と名つ゛けることができる。

そのように理解するほうが
私たち人間の現実感覚に近い。

それは「肯定と否定」とよんでもいいが、
それでは少し距離ができてしまう。

「陰と陽」「シヴァとシャクティ」
「男と女」と呼ぶことで、それは
私たちのハートにとても近しいものとなる。
私たちはこういった二元性を知っているからだ。

男は女に惹きつけられ、女は男に惹きつけられる。
ところが一緒になると二人のあいだには喧嘩が絶えなくなる。

別れては暮らせないが、一緒になっても暮らせない。
とてつもない魅力があるが、反発も強烈だ。

恋人と一緒にいると、あなたは
どうやって独りになろうかと考えはじめる。あなたは
自由のことを、独りになることを、美や静けさや、
そういったすべてのことを考えはじめる。

ところがいざ独りになると淋しくなって、相手が恋しくなり、
愛に満ちた空間や温もりやあれやこれやを思い浮かべるようになる。
独りになるとそばにいたくなり、一緒にいると独りになりたくなる。

見守ってみるといい。

それはあなたへのすばらしいメッセージだ。

それはただあなたは半分であり、
女性も半分であることを告げている。

一緒になると、あなたがたはひとつになる。

だが、そうなると問題が生じてくる。

そのひとつになった瞬間、
あなたがたは歓びにあふれ、祝い喜ぶが、
そうなると問題が生じてくる。

このひとつになった状態、これは
男のものだろうか女のものだろうか?
どちらが優先的な要素になるのだろう?
それが葛藤だ。

男と女はひとつになりたいのだが、
男はそのひとつの状態のなかで主導権をとり、
女を屈服させ、服従させておきたい。

そして同じ欲望が女の側からも起こる。
男のほうが屈服し、服従すべきだと。

どちらもひとつになりたいのだ
が、そのひとつの状態は 私 の も の でなければならない。

私が男であれば、そのひとつの状態は男のものであり、
女は男のなかに消え去らなければならない。

私が女であれば、そのひとつの状態は女のものであり、
男は女のなかに消え去らなければならない。

葛藤、魅惑と反発、人生の悲喜劇のすべてはそこから起こってくる。

女性的な原理は受容的であり、男性的な原理は創造的だ。

そしてどちらも手を携えて進むしかない。

ばらばらでは、どちらもが苦しむことになる。

そうなったら女性には
受け取るものが何もなく、虚しい気持ちになる。

受け取ってくれる相手がいないと、
男性の創造性は失われてしまう。

その価値を認め、励ましてくれる人がいないからだ。

女性は受け取り、励まし、
男性が創造性を発揮するのを助けてくれる。

男性の創造性は
女性が受容性を深めるのを助けてくれる。

この女性の受容性はたんに生物的なものではなく、
霊的スピリチュアルなものでもある。

優れた詩人の背後にはいつも
霊感を与えてくれる女性の影が見え隠れする。

女性たちみずからが偉大な詩人だったことはない
――彼女たちにはその必要がない――だが、
女性なくしては優れた詩はけっして生まれない。

女性は灯台の役目を果たす。

男たちは偉大な詩人ではあったが、女性が
いなければ詩はたちまち精彩を失いしぼんでしまう。

受容性と創造性は鳥の二つの翼だ。

未知なるものへと向かうこの飛翔は、
二つの翼があってはじめてなし遂げられる。

翼ひとつでは、鳥はどこにも行けない。

そしていいかね、創造性のほうが
受容性より価値があるというわけではない
――それらは等しい、完全に対等だ。

右の翼のほうが優れているとか、
左の翼のほうが優れているなど
といったことはけっしてありえない。

それらは対等だ。同じではないが、対等だ。

今や女性のハートには創造的になりたい
という大きな欲求があるが、それにはある理由がある。

それは創造性が賛美されているからだ。

ノーベル賞は創造的な人にのみ与えられるものであり、
ごく奥ゆかしい受容性を示す者たちには与えられない。

さあ、これは醜い状況であり、
創造的になりたいという強迫的な願望をつくりだす。

なぜなら、受容的な人々はまったく称賛されず、
話題に取りあげられないからだ。

だから世界中の女性たちが創造的になりたがっている
が、創造的になりたいと思ったとたんに、女性たちは
女らしさ、優美さを失いはじめる。

女性はどんどん男っぽくなってゆく。
創造性というのは男性的な原理だからだ。

女性はどんどんきつくなってゆく。
彼女はやわらかさ、まろやかさを失い、
ごつごつとしたかどをもち、
闘いはじめるようになる。

ウーマンリブの活動家が怒鳴っているさまを見てみるといい。
その声を張りあげている様は醜い。

彼女たちの闘いが正しいことはわかるが、
闘うというのは女性にふさわしい道ではない!
闘いそのものが女らしさを破壊してしまう。

それは違う形で行なわれなければならない。
実のところ、男が女性の平等のために闘うべきだ。

理解力をそなえた人、思慮深い人、知性をそなえた人が、
女性の解放を目指した男性の運動をつくりだすべきなのだ。
彼らが闘うべきだ!

それは男が女に押しつけてきた隷属だ――
男たちはやましさを感じるべきであり、
自分たちがやったことをすべて元にもどすべきだ。

だが、女性が闘いはじめたら――
そして、そうなれば当然、彼女たちは創造的になって、
絵を描いたり、踊ったり、歌ったり、彫刻をしたり、
作曲をしたりすることを考えはじめる――
彼女は無意識のうちに男のまねをしている。

だが、覚えておきなさい――
男のまねをする女はつねに二流の男になってしまう。

それは醜いことだ。
対等であろうとする努力そのものが無駄になってしまう。

女性は一流の女性にしかなれない。
男になろうとすれば、二流の男になる他にない。

男が受容的になろうとしても同じことが起こる。
男は女性がそなえている自然な受容性をもつことができない。
彼は二流の女性になってしまう。

一流であるためには、
みずからの本性に従わなければならない。

けっしてまねをしてはいけない。


みずからの内にある本性に従いなさい。
みずからの内に備わっている本性に従いなさい。

その本性が実現されてはじめて、人は
至福、成就、充足の境地に到り着くからだ。

女性は生命、いわゆる生命、
普遍的な現象としての生命を生みだす。

男、すなわち男性的な要素は、人間性を生みだす。

男は部分的であり、女は普遍的だ。

男はものごとの細部にこだわる。
男は専門家になる。だから
男性が主導権を握っている分野はみな、
遅かれ早かれ細分化してゆくことになる。

科学ではまさにそれが起こっている。
あらゆるものが徐々に細分化されて新しい枝を生じ、
その枝がまた分岐して、今やことのすべてが
収拾のつかないものになっている。

男はたくさんの知識をつくりだし、
細部にこだわってきたが、今やその知識から
全体像を組み立てる者はひとりもいない。

どうやって全体をまとめたらいいのか誰にもわからない。

その統合は男性ではなく、
女性を通してはじめて起こりうる。

なぜなら、女性は
ものごとを普遍化する原理だからだ。

男性は切り分け、女性はまとめあげる。

それゆえに、女性のほうが男性よりも
宗教を身近なものに感じるし、つねに男性よりも
宗教に親しみを覚えてきた。

あなたはその事実を観察したことがないかもしれない。

根本的なことは、宗教は
一なるもの、全体性、全一性
という見地でものをとらえるということだ。

まさにそれがタオだ。

「神」と呼んでもいいし、好きな名前で呼べばいい。

科学は解剖し、分割しつつ゛け、電子、最小の粒子に逢着した。

両者はまったく正反対の方法だ。

宗教はどんどんものをつなぎ合わせていって、
すべてを包含する究極のタオに到る。
それは究極の統合ユニティだ。

科学はとめどなく分割を続け、ますます専門化してゆく。
彼らによれば、専門化とはより狭い対象に関して、
より多くのことを知ることだと言う。

聞いた話だが……

二十五世紀のことだ…ある男が医者を尋ねた。彼は高齢で、目の調子がおかしかった。
医者は「どちらの目が悪いんですか?」と尋ねた。すると彼は言った。「右目じゃよ」
医者は言った。「すみませんが、別の医者のところへ行ってください。
私は左目が専門なものですから」

いずれこういったことが起こるだろう。
それはすでに起こっている。

人間はもはやひとつの統合体ユニティとは見なされていない。

おびただしい数の専門家がいる。誰も人間を
全体として、全一なるものとしてとらえていない。

それは医学が直面しつつある、医学が目を背けず直視して、
解決策を見いださなければならない最大の課題のひとつだ。

なぜなら、患者はひとつの統合体とは見なされていないからだ。

頭の調子が悪ければ、全体から切り離して頭だけが取りあげられる。
アスピリンか何か、ただ薬をちょっと与えるだけでいい。

誰も身体全体のことなど気にかけない。

アスピリンはまず胃にゆき、じかに頭に向かうわけではない。
胃はどうなるのだろう?そんなことは誰も気にとめない。

人間は統合体ユニティだ。
人間を機械のように扱うことはできない。

車の具合がおかしければ、修理工場に行って、部品を交換する。
機械には魂がなく、部品を寄せ集めたものにすぎないからだ。

では、魂とは、何だろう?

魂とは部品の寄せ集め以上のものが
そこにあるということだ。

その背後には統合体がある。

現代の医学の前にはこの事実が大きく立ちはだかっている。
なぜなら、これらの科学はどれも男たちが発展させてきたものだからだ。
女性からの影響が欠けている。

女性はつねに普遍化する。
彼女は統合的な見地でものをとらえ、
部分的な見地ではけっしてものをとらえない。

女性はけっして緻密な計算をしたりしない。それはありえない。
女性は、つねに包括的ホーリスティックな
姿勢でものごとに取り組む。

二十五世紀前に記されたこの言辞
が意味するものはそれだ。
それは現代にも響き合う。
タオ、分かたれていないもの、大いなる一者は、 相反する二つの存在原理――闇と光、陰と陽を生みだす。 陰からは受容的な女性原理が現れ、陽からは創造的な男性原理が現れる。 陰からは生命が現れ、陽からは本性が現れる。
ひとりひとりの人間のなかには胚胞があるが、 それは受胎の瞬間に命と本性に分かれる。
人はみな単一の存在、一なるもの
としてやってきて、そののちに分裂する。

それはプリズムを通過した光線
が七色に分かれるのに似ている。

受胎がプリズムのような働きをして、
ひとつの白い光線が七色に分かれる。

一なるタオは分裂して
二つの相反する極――男と女になる。

いいかね、どの男もたんに男というのではなく、
その背後には、彼のなかには女が隠れている。
女の場合も同じだ。

どちらも両方の性を備えている。

顕在意識が男であれば、無意識は女だ。
顕在意識が女であれば、無意識は男だ。
それはそのようになっている。

そして外側の女性や男性と出会いたい
という欲望はかなえられることがない――
内なる男性と内なる女性を出会わせる
すべを知らないかぎりは。

外側の女性はいくつかの出会いの
一瞥いちべつを与えることしかできない。

それは美しい瞬間ではあるが、
大きな代価を払わねばならない。

恋人たちはみな知っている――
確かに忘我の瞬間がときにはあるが、それを得るためには
大きな代価を払わねばならない。

みずからの自由を失わなければならないし、
みずからの実存を失わなければならないし、
依存するようにならなければいけない。

人はありとあらゆる妥協をしなければならなくなり、
それが傷となって、うずく。

外側の女性や男性との出会いは
つかの間のものでしかありえない。


だが、別の出会いがある。

それはタオの秘められたメッセージのひとつだ。

あなたは内なる女性を見いだすことができる――
あなたの意識と無意識が出会い、
あなたの光と闇が出会い、
あなたの大地と空が出会い、
あなたの肯定と否定が出会う場所で。

あなたの内側でその出会いが起こったら、
あなたは全体になっている。

「タオの人」と呼ばれているのはこのことだ。

タオの人は男でもなければ女でもない。
彼はみずからの一なる状態に帰り着いている。
彼は独り(alone)であり、完全にひとつ(all alone)だ。

老子は男とも呼べないし女とも呼べない。
仏陀は男とも呼べないし女とも呼べない。
イエスは男とも呼べないし女とも呼べない。

生物学的には男だが、
霊的な観点から見るとそうではない。
霊性のうえでは、彼らは両者を超えている。

仏陀の内側には無意識がなく、
分割がない。彼は
分割されていない。
分割がなくなると、内なる葛藤はすべてやんでしまう。

分割があると、人は 絶 え ざ る 内乱状態にあり、
外側の女性と争うだけでなく、内なる女性とも
絶えず闘いつつ゛けることになる。

あなたも身に覚えがあるだろう。

泣き出したくなる瞬間がやってきても、
内なる女性は涙を流すことをためらわないが、
男のほうがそれを止めてしまう。

内なる男が言う。「おい、何をやってんだ?気は確かかい?他人に女々しくなった
と思われるぞ。泣いてはいけない!君のような男にはふさわしくないぞ。女が泣くのは
かまわない、好きなだけ泣きわめかせておけばいい。でも、君は表情を変えず、厳しく
、いかめしい態度を取り、弱みを見せてはいけない。涙を押さえるんだ!」
こうして闘いがはじまる。

同じことが女性にも起こる。
あなたは樹に登りたい。その樹はとても美しく、
雲と戯れんばかりに高くそびえている。
誰だって登りたくなる。

ところが、あなたの内なる女性が言う。「待って!登ってもいいのは男の人だけよ、
あなたはだめ。あなたは女でしょう。女にとって何がふさわしく、何がふさわしくない
か考えなきゃだめよ。一定の行儀作法、エチケットに従わなきゃいけないわ」
――そこであなたは我慢する。

これが絶え間なくつつ゛いてゆく。

男は女の側面を抑え、女は男の側面を抑えてゆくが、
やがて抑圧された部分が微妙な仕方で復讐をはじめる。
それは裏口から入ってきて、あなたを毒するようになる。

女性が非常にかたくなで、冷酷になり、小言を言って、くってかかり
、醜くなる瞬間があるが、それは男が復讐しているということだ。

樹に登ることはきっとすばらしいことだったのに、
あなたはそれを抑え込んだ。

今度は男が裏口から入ってきて、あなたは
夫や子どもに向かって金切り声を張りあげたり
、ものを投げつけたりしはじめる。

さあ、これは醜いことであり、病的な振る舞いだ。

泣けばよかったのだ。

涙は生の一部だから美しい。

泣けばよかったのだ。

その涙を隠す必要などなかった。

涙を隠せば、笑うこともできなくなる。

あなたはいつも恐れるようになる――
笑い過ぎたら、笑いによって緊張がすっかり解けて、
抑圧された涙がこみあげてくるかもしれない。

ニーチェは「私が笑うのは涙を隠しておくためだ。笑わなければ
泣きだしてしまうかもしれない。私はそれを恐れる」と言った。

さあ、これはひとつの面にすぎない。
人は微笑みを絶やさずにいることができる。
それは本当の笑いではない。

人は微笑みを絶やさずにいることができる――それは社交上の駆け引きだ。

そうすれば目から涙があふれそう
になっているのを誰にも気つ゛かれないですむ。
人々はあなたの微笑みに気を取られてしまい、あなたの目には気つ゛かない。
これはひとつの方法だ。

もうひとつは笑うどころか、微笑さえ浮かべず、岩のように固い表情をするという
やり方だ。他人には鋼鉄の男だと思わせておけばよい。これが「スターリン」という
言葉の意味だ――鋼鉄の男。スターリンは一度も笑わなかったと伝えられている。
鋼鉄の男――その彼がどうして笑えるだろう?鋼鉄の男は笑えない。

だが、これは醜いことであり、機械のようになることだ。

それでは人間らしさを失ってしまう。

人は偽物、まがいものになるか、岩のようにかたくなり、
堅い殻をつくりあげて、絶えず自分を抑制していなければならない。

タオは、みずからの実存の両極を否定する必要はないと言う。

それを受け容れなさい。

それはあなただ!

そのどちらの光線もあなただ。

それらを出会わせ、融け合わさせなさい!

それらをともに踊らせなさい!

再び一なるもの――
タオ、分割されざるもの、大いなる一者――
の洞察を得ることができるように、
それらを深く融合させなさい。

個々の人間のなかで、それらは二つの極――アニマとアニムスによって表される。 この二つは生涯にわたって争い、主導権を求めて闘いをくり広げる。
主導権を求めて闘うのを止めなさい!

それはあなたの内なる政争だ。

どちらもけっして主導権をとることはできない。
どちらも必要であり、対等に求められる。

それらは正反対なので、
両者を受け容れるのはひじょうにむずかしい――論理の上では
両者を受け容れるのはひじょうにむずかしい
が、それでも両方を受け容れなさい。

論理は生には当てはまらない。

生にもっと当てはまるのは、
弁証法として知られるものだ。

論理は生には当てはまらない。論理は直線的だ。それは両極を含んでいない。

タオは
「両極はつねにそこにあり、並んで走っている」
と言う。

そのプロセスは論理的ではなく弁証法的だ。

正の命題テーゼには、
反の命題アンチテーゼが立ちはだかる。

男には女が立ちはだかり、
この対立、
この葛藤、
この挑戦
から、エネルギーが解き放たれる。

そして、そのエネルギーは、
あなたが愚か者なら浪費されるし、
あなたが賢ければ蓄えられる。

浪費されれば、あなたは
絶え間のない葛藤、内乱を味わい続けることになる。
あなたの生は分裂症になってしまう。

あるいは、あなたが知性をそなえ、
親しみを込めた深い抱擁のなかで
相反するものを包含するすべを知っていたなら、
反の命題に対立した正の命題は、
あなたの実存のなかに新しい現象
――"合の命題ジンテーゼ(統合)"を生みだす。

あなたはより高い次元に上昇する。
あなたはより深い形で統合される。

そして再びその合の命題が
正の命題として働いて、
反の命題を生み出し、
再びより高い次元で合の命題(統合)が生まれる。

それがどこまでも続いてゆき、
波の上に波が重なり、
どんどん高まってゆく。

続々と新たな次元が開かれ、
人は進み続けることができる。

究極の次元は、あなたの生の全面的な統合だ。

いっさいの葛藤が消え失せる――
落とそうとしなくても、
ひとりでに消え失せる。

これがタオ、<道>、
分割されざるもの、
大いなる一者だ。


生命エネルギーが下方に向かって流れれば、すなわち、何の障害もなく外界に向かって 流れ出せば、アニマがアニムスに打ち勝ち、黄金の華は開かない。
エネルギーが下へ、すなわち外に向かって流れると、
再び同じものを生みだす力、生殖力になる。

それは大いなる現象だ!

あなたはそのようにして生まれた。
誰もが――仏陀やイエスやクリシュナ
のような人たちもみなそのようにして生まれた。

エネルギーが下に向かって
流れると、それは新しい人間を、
神が宿る新しい形をつくりだす。

だが、黄金の華は開かない。

あなたは別の人間――子ども、
すばらしい子どもをつくりだす。

生は続き、生は流転を続け
、どこまでも流れ続けるが、
それでは黄金の華は開花することができない。

黄金の華はどのようにして花開くのだろう?

生命エネルギーが逆流のプロセスによって導かれたら、 すなわち蓄えられ、散らされずに上昇させられたなら、 アニムスが勝利をおさめている。
可能性は二つある。

下に向かって流れるエネルギーは性欲になり、
上に向かって流れるエネルギーは霊性になる。

下に向かって流れるエネルギーは生殖力になり、
上に向かって流れるエネルギーは創造力になる。

下に向かって流れるエネルギーは新しい生命を生みだし、
上に向かって流れるエネルギーは あ な た を再誕生させる。

イエスが「再び生まれ変わらないかぎり」――父や母からではなく、
みずから上昇する働きによって生まれないかぎり、
ドウィジャ、"二度生まれし者"とならないかぎり
――「私の神の王国に入ることはできない」と言うとき、
彼が言おうとしているのはそのことだ。

黄金の華は、あなたの実存の最高の頂で待ち受けている。

ヨーガの見取り図では、それは「サハスラーラ」
―― 一千枚の花弁をもつ蓮華 ――と呼ばれている。
それは第七番目のチャクラであり、頭のなかにある。

最も低いのは性のチャクラ、ムラダーラであり、
最も高いのは第七のチャクラ、サハスラーラだ。

エネルギーがいちばん低いチャクラ
から下降すると、新しい生命が生まれる。

エネルギーが蓄えられ、上昇させられると、
いつかそれはサハスラーラに達し、
そして黄金の華が花開く。

もちろん、それにはエネルギーが必要だ。

それはひとつの可能性として、潜在力として、
そこに潜んでいるにすぎない。

エネルギーが供給されないかぎり、
それは開花することができない。

それは樹に水をやらないのと同じだ。
樹は待ち望んでいるのに、水をもらえない。
樹液は上に向かって流れてゆかない。

どうして数限りない花を咲かせることができるだろう?
できるはずがない。

樹は苦しみ続け、ほとんど枯れそうになっている。
樹はゆっくりと死んでゆくだろう。

葉も一枚ずつしおれてゆき、
やがて枝が枯れてゆき、
最後には根が死んでゆく。

樹には絶えず上に向かって流れてゆくエネルギーが必要だ。

樹液は樹のなかを巡るが、
人間もまた樹になぞらえることができる。そして
人間を樹になぞらえる私の比喩は新しいものではない。

それは最古の象徴のひとつだ。
それはユダヤ教の神秘的な流派スクールのなかで用いられてきた。
それは「生命の樹」と呼ばれる。

仏教が禅においてその頂点を極め、
イスラム教がスーフィ―においてその絶頂に達したように、
ユダヤ教はカバラにおいてその究極の頂に到達した。

カバラは
「人間は樹であり、花を咲かせるためには膨大なエネルギーが必要だ」
と言う。


だが、エネルギーを蓄えるということは、
エネルギーを抑えることではない
ということを覚えておきなさい。

多くの人々がここで道を誤ってしまう。

エネルギーを蓄えることは、
エネルギーを抑えることではない。
そのプロセスはまったく違う。

抑圧するということは、
最も低いセンターを絶えず
抑えつけているということだ。

最も低いセンターを抑圧し過ぎると、性の
倒錯が起こる。

それが自然に解放されるのを許さず、
いちばん低いセンターにエネルギーが溜まり過ぎると、
それはなんらかのはけ口を見いだして性的な
倒錯を引き起こす恐れがある。それは必ず
倒錯を引き起こす!

それは病気をつくりだす。

精神科医、心理学者、精神分析家に尋ねてみるといい。
彼らは「心理的な病が百例あるなら、そのうちの九十五パーセントは
セックスに起因している。どこかでセックスが関連している」と言うだろう。

九十五パーセントというのはかなりの数だ。そして
精神科医や精神分析家のもとを一度も尋ねたことがない
人たちもけっしてましな立場にいるわけではない。

誰もが抑圧されている。

抑圧は変容ではない。

このことをはっきりと理解しておきなさい!

抑圧が変容に通じることは絶対にありえない。

では、変容とは何だろう?

そしてエネルギーの蓄積とは何だろう?

エネルギーを蓄えるというのが
瞑想的なプロセスだ。

それは道徳家になることではない。

私はこのうえもない助けとなる
ささやかな技法をやってみることを勧める。

それは昔からずっと道家の人々によって用いられてきた。
それは師から弟子にのみ伝えられてきたものであり、
それゆえに書物に記されたことはなかった。

だが、今や公開されるべき時がきた。

なぜなら、今や何百万もの人々が
書物を通して霊的な探求に取り組んでいるからだ。

師はいつも得られるものではない。

これはあなたのエネルギーを変容させ、
上に導いてゆくための単純な技法だ。

そしていつも覚えておきなさい――道家の技法はごく単純だが、
「こんなに単純なことが、どうしてそんなに大切なのだろう?」
などと思わないように。

それを実際に行ない、
試してみれば、あなたにもわかるだろう。


これがそのやり方だ……

少なくとも一日に二度は――
最良の時間は早朝、ベッドから出る直前だ。

頭がはっきりし、目が覚めてきた
と感じたら、二十分間それをやりなさい。

朝、何よりもまず最初にそれをやりなさい!

ベッドから出てはいけない。
そこでそれをやりなさい。
その場でただちにやりなさい!

なぜなら、眠りから出てこようとしているとき、
あなたはひじょうに繊細で、受容的になっているからだ。

眠りから出てこようとしているとき、あなたは
すがすがしく、いきいきとしているから、
影響はひじょうに深く浸透してゆく。

眠りから覚めたばかりのとき、あなたは
あまり頭マインドのなかにいない。

だからすきまギャップがそこにあり、そこから
この技法があなたの内奥の核まで
浸透してゆくことができる。

そして早朝、あなたが目覚めようとし、
大地全体が目覚めつつあるときには、
大いなる覚醒のエネルギーの潮流うしおが
至るところを取り巻いている。

その潮流を使いなさい。

その機会を逃がしてはいけない。

古代の宗教はみな、早朝、
日が昇るときに祈りを捧げたものだ。

なぜなら、日の出とともに、大自然の
すべてのエネルギーが上昇してゆくからだ。

その瞬間、あなたは上昇してゆく
エネルギーの波に楽々と乗ることができる。

そのほうがやさしい。

夕方になると、それはむずかしくなる。
エネルギーが後退してゆくので、流れに
逆らって闘わなければならなくなる。

朝のうちは流れとともに進んでゆくことができる。

だから、早朝、半睡状態でまどろんでいるとき、
ただちにその場ではじめるのがいちばんいい。

そして手順はとても簡単だ。
姿勢を変える必要はないし、ヨーガアーサナもいらない。
沐浴しなくてもいいし、何もいらない。

あなたは仰向けになったまま、
ただベッドに横たわっていればいい。
目は閉じたままにしておく。

息を吸うときには、大いなる光が頭から
入って来るようにまざまざと思い浮かべる――
まるで太陽が頭のすぐそばに昇ってきたかのように。

黄金の光があなたの頭のなかに差し込んでくる。

あなたは中空であり、
黄金の光はあなたの頭のなかに差し込んできて、
どんどん深く深く浸透し、芯までうるおすと、
あなたの爪先から出てゆく。

息を吸うときには、このような
視覚化をしながら吸いなさい。

息を吐くときには、別のことを思い浮かべなさい――
闇が爪先から入って来る、暗黒の大河が爪先から
入ってきて、上に昇り、頭から出てゆく。

まざまざと思い浮かべることができるよう
に、ゆっくりと、深く息をするがいい。
ごくゆっくりとやりなさい。

眠りから覚めたばかりのときは、
ひじょうに深い、ゆったりとした
呼吸をすることができる。

身体が休息を取り、くつろいでいるからだ。

もう一度くり返そう――
息を吸うときには、黄金の光を
頭から入ってこさせるようにする。

黄金の華はそこで待ち受けているからだ。

この黄金の光は助けになる。
それは全身を洗い清め、創造力を
すみずみにまでゆき渡らせる。

これは男性的なエネルギーだ。

そして息を吐くときには、想像しうる最も
暗い闇を、闇夜のような、川のような
暗闇を爪先から昇らせ――

これは女性的なエネルギーであり、
あなたをなだめ、
あなたを受容的にさせ、
あなたを落ち着かせ、
あなたを休ませる――
そして頭から出てゆかせなさい。

そして再び息を吸い、黄金の光を入ってこさせる。

朝早く、これを二十分間やりなさい。

次によい時間は、夜、再び眠りにつくときだ。

ベッドに横になり、しばらく力を脱いてくつろぐ。
今や眠りと目覚めのあいだを行ったり来たりしている。

ちょうどその只なかにいると感じはじめたら、
プロセスを再び開始して、二十分間続けなさい。

それをやりながら眠ってしまうのがいちばんいい。
なぜなら、その影響は潜在意識のなかに
とどまり、作用しつつ゛けるからだ。

三ヶ月経つと、あなたは驚くことだろう。

ムラダーラ、最も低い性の中枢に絶えず集まってきていた
エネルギーは、もはやそこにとどまってはいない。
それは上に向かってゆく。

先日、ある人が質問をよこした。彼はこう言っている。
「私はここで、他のどこでも見かけたことがないほどの
飛びっきりの美人に会いましたが、性的な匂いは少しも感じません」

どうしてそうなるのだろう?

確かに彼の観察は正しい。

深く瞑想すれば、あなたは
性的な香りをふりまかなくなる。

そこには違う種類の美がそなわる
ようになり、性を刺激するものではなくなる。

それは霊性の香りを放つようになる。

それは情欲の粗雑さではなく、
繊細な優美さをそなえるようになる。

セックスはあなたの梯子の最下段であり、粗雑だ。

エネルギーが上昇すると、まったく異なる種類の
美と優しさがあなたのなかに湧き起こってくる。

それは聖なるものだ。

肉体性は希薄になり、
霊性の密度が増してゆく。

三ヶ月間、この単純な技法をやれば、驚くだろう。

抑圧する必要はない。

変容が起こりはじめている。

生涯を通じて生命エネルギーを蓄える道を守る者は、 黄金の華の境地に到達するだろう。
生涯にわたってこれをやり続ける
ことができたら、いつの日かそれが起こる。

呂祖師は、あなたが忍耐強くあり続けるように、
生涯を通じて……と言っている。

それはいつでも起こりうる。
それは今日起こるかもしれないし、
明日起こるかもしれないし、明後日に起こるかもしれない。

それはあなたが
どれだけ強烈に、誠意を込めて働きかけるかに、
どれだけ強い憧れをもち、
どれだけ全一に入ってゆくかに
かかっている。

あなたのなかで黄金の華が咲くその日、
覚者の境地ブッダフッドが開かれる。

あなたはありうる最も偉大な宝を獲得した。

生涯を通じて生命エネルギーを蓄える道を守る者は、 黄金の華の境地に到達するだろう。 そこで自己は対立物の葛藤から解き放たれ、 再びタオ、分かたれていないもの、大いなる一者と ひとつになる。
タオからタオへ、一なる者から一なる者へ――
プロティノスはそれを"一者から一者への飛翔"と言う。




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