黄金の華の秘密

スワミ・アナンド・モンジュ訳 めるくまーる出版
 

第四話 光を輪のように巡らせる

 より抜粋
 呂祖師は言った。
 光を輪のように巡らせると、天と地、光と闇のエネルギーはことごとく結晶化する 。この秘術を行ないはじめると、まるで生ける存在の只なかに無があるように 感じられる。やがて修行の成果が現れてくると、肉体の外に肉体があり、あたかも 無の只なかに生ける存在があるかのように感じられる。 百日のあいだ懸命に努力を続けると、ようやく火が発するようになる。 そうしてはじめてそれは精神の火となる。 さらに百日行ずれば、光の中に真の光の極がおのずと現れてきて、 突然、真珠の種が生まれる。 それはあたかも男女が交わって受胎が行なわれるようなものである。 このときには静かな状態で待たなければならない。
 根源的な変容の只なかにあっては、光の放射が決定的な働きをする。 それは物質界においては太陽であり、人間においては目である。 このエネルギーは外界に向けられる(下に流れる)。 それゆえに黄金の華の道はひとえに逆流の技法にかかっている。
 光が巡るのはたんなる空想ではない。
 思考を集中させることで、人は飛翔することができる。 欲望を集中させることで、人は堕ちる。 学人がみずからの思考に少しも注意を払わず、欲望にかまけるならば、 下方へ向かう道に沈み込む。 黙想と静けさによってのみ、真の直観が湧き起こってくる。 このために逆流の技法が必要となる。
ある偉大な師マスターが「仏ブッダとはどのようなものですか?」
と尋ねられた。
「心が仏だ」と師は答えた。
何年かが過ぎて、再び同じ弟子が同じ質問をした。
師は「仏もなく、心もない」と答えた。
「ではなぜ前には『心が仏だ』とおっしゃったのですか?」
「赤ん坊を泣き止ませるためだ!
赤ん坊が泣き止んでしまえば、『心もなく、仏もない』と言う」

哲学は玩具おもちゃ、赤ん坊を泣き止ませるための玩具だ。神学もまたそうだ。
宗教というのは、本当は体験、実地の体験から成り立っている。
それは憶測とはいっさい関係がない。宗教は本質的に内界の科学
であり、他のすべての科学と同じくらい科学的だ。
宗教と科学の違いは方法の違いではなく、たんなる対象の違いにすぎない。

科学は、私たちのエネルギーが流れ、
私たちの光が流れている客観的な世界を見つめる。
宗教は、光を流すことができるが、
今はまだ流れていない私たちの主観的な世界を探求する。

科学のほうが宗教よりやさしいのはそのためだ。
宗教のほうが科学よりも単純であるとけっして考えてはならない。
それはより高度な科学だ。どうして科学よりも単純でありえよう。
それはより優れた科学だ。

まず光が内側に向かって流れなければならない。
そうすれば光があなたの実存を照らし、あなたの実存が開示されて、
あなたはみずからの実存のなかへ入ってゆける。
そしてみずからの実存に入ってゆくことは、神の王国に入ってゆくことだ。

そこにはあなたは存在せず、神が存在している。
あなたは影としてしか存在しない。
光が外に向かって流れると、あなたが存在するが、影としてでしかない。
あなたが存在するのは、真の自己に気付かないままでいるからだ。

真の自己とは至高の自己だ。真の自己とは宇宙的な自己だ。

それはあなたとはいっさい関係がない。それはあらゆるものの自己だ。
だが、それを得るためには、大いなる変容が起こらなければならない。

自然は人間が外に向かって流れるように準備した。
自然の役割はそれで終わった。人間において、自然はその頂点に達した。
もはや人間が自然を超えてゆこうと決断しないかぎり、
そのままでは何ひとつ起こらない。
自然は人間がみずからの足で立てる地点まで人を運んできた。
人間はもはや子供ではない。人間は大人になった。
もはや自然は親の役割を終えた。もうその必要はない。

自然な進化は人間で止まった。これは事実だ。
科学者たちでさえこの事実にますます気付きつつある。
何千年ものあいだ、人間には何も起こらなかった。
人間は変わらなかった。まるで自然の仕事が終わってしまったかのようだ。
今や人間は、さらなる成長の道をみずからの手に引き受けなければならない。
宗教とはまさにそれだ。

宗教とは、人がみずからの足で立ち、みずからの存在に責任をもつようになり
、事態がどうなっているか、自分が誰であるかを見つめ、探求し、探索し
はじめることをいう。そして、それはたんなる好奇心であってはならない。

哲学は好奇心から生まれる。宗教はきわめて誠実で、真正な探求だ。
それは問いかけだ。そして好奇心と問いかけには大きな違いがある。
好奇心は幼稚なものであり、頭のささいな か ゆ み にすぎない。
かいてしまえば、満足して終わりになる。哲学とはかゆいところをかくことだ。
宗教は生死しょうじの問題だ。哲学では、人はけっして巻き込まれる
ことがなく、超然としている。おもちゃで遊んでいるだけで、
生死の問題ではない。知識をかき集めるが、けっしてそれを
実行には移さない。

聞いた話だが―

昔あるところに優れた儒学者が住んでいた。彼は八十歳に近い紳士であり、
その博学な知識と理解において、彼の右に出る者はないと言われていた。
ところが彼の有する知識よりももっと深い、新しい教義が遠くで生まれた
という噂が広まった。老齢の紳士はそれを黙認できなくなり
、この問題に黒か白か決着をつけなければならないと思った。
老齢にもかかわらず、彼は長旅に出かけた。数ヶ月もの厳しい
旅路を終えて目的地に着くと、彼は自己紹介をして来意を告げた。
主人は新しい禅の流派に属する師だったが、ただ次のような句
を引用した。「悪しき行いを避け、あたうるかぎりの善を行なう。
これがあらゆる覚者ブッダたちの教えだ」
これを聞いた儒学者の老紳士はかっとなった。「老齢の見に鞭を打ち、
生命の危険を冒してまで長く険しい旅をしてきたのに、三歳の子供でも
そらんじるようなささいな句を引用するだけとは!私を馬鹿にしているのか?」
だが禅師は応えた。
「貴方を馬鹿にしているわけではありません。
確かに三歳の子供ですらこの句を知っていますが、八十歳の老人でさえ
それを実行できないことに思いを致してください!」

宗教が問題にするのは知ることではなく、それを生きることだ。
宗教とは生であり、それを生きないかぎり、
それが何であるのか何ひとつ知ることはできない。

そして宗教を生きるためには、哲学をすべて落とし、
実際に試してみることをはじめなければならない。
人は実験室にならなければいけない。

科学者の実験室は外界にあるが、宗教的な人の実験室は
その人自身の存在―その人自身の肉体、その人の魂、その人の心だ。
科学者は実験の対象となる事物に精神を集中しなければならない。
科学者は目を開けて仕事をしなければならない。
宗教の仕事は目を閉じて行なわなければならない。
自分自身に精神を集中しなければならない。
(p121)
そしてそれは一筋縄ではゆかない。というのも、宗教の世界では
実験する者と実験の対象が同じだからだ。それゆえにそれは入り
組んでいて、風変わりで、解釈しがたく、非論理的なものになる。
宗教の世界では知る者と知られるものは同じだ。

科学の世界では知る者は分離している。
知られるものは分離している。
ものごとは明確に分けられており、境界が定められている。

だが、宗教ではあらゆるものが融合し、互いに溶け合っている
―知る者ですら分離したままではいられない。宗教は知る者から
遊離した知識など与えない、知る者から遊離した体験など与えない。
それが与えるのは知る者の本質エッセンスそのものだ。

宗教的な探求者であるためには、いっさいの哲学
を落とさなければならない。先験的アプリオリな
知識をすべて落とさなければならない。
なぜなら、先験的な知識はすべて障害になるからだ。
それは問うことを妨げる。
問いかけは不誠実なものになる―
その最初の一歩から問いかけは曇らされてしまう。

すでに結論を出していながら、
どうして問いかけることができるだろう?

キリスト教徒でありながら宗教的であることはできない。
あるいはヒンドゥー教徒でありながら宗教的であること
はできない。ヒンドゥー教徒でありながら、どうして
宗教的でいることができるだろう?ヒンドゥー教徒である
ということは、すでに結論を出していて、何が真理か
決めてしまっているということだ。

そうだとすれば問いかけてみても仕方がない。
何を問いかけるというのだろう?
あなたがやるのは、すでに結論付けていることがら
の裏付け、論証を探し出すことでしかない。
だが、その結論は間違っているかもしれない
―わかりはしない。その結論はあなたのものではなく
、社会から渡されたものだからだ。

社会はしきりにあなたに結論を与えようとする。
あなたが自分で結論に到れるよう意識を与えようとはしない
。あなたが意識的になる前に、少しでも問いかけがはじまる
前に、社会はありとあらゆる結論を詰め込んで、
何がなんでもその問いかけを阻もうとする。
なぜなら、その問いかけは社会にとって危険だからだ。

問いかけない人間は扱いやすい。問いかけない人間
は従順だ。すなおに命令や指令を受け取り、それに従う。
彼は法を尊重し、因習を守る。

ひとたび誰かの心にわずかでも信仰を吹き込めば、薬物を
飲ませたことになる。信仰は麻薬だ。彼はいったん信じ込む
と、どこまでもしゃにむに信じてゆく。やがて徐々に、彼は
その信仰が自分自身の体験であると思い込むようになってゆく。

信仰というのは催眠のシステムだ。あなたは子供に
「おまえはヒンドゥー教徒だ。おまえはヒンドゥー教徒だ」
とどんどん暗示をかけてゆく。子供を寺に連れてゆき、宗教的な、
いわゆる宗教的な儀礼、儀式を体験させる。やがて子供は条件付け
られ、自分はヒンドゥー教徒であり、ヒンドゥー教はすべて正しく、
それ以外の宗教はすべて間違っていると思い込むようになる。

そして、同じことがあらゆる社会で行なわれている。
あなたがたは子供たちに麻薬を与えてきた。
子供の意識のまさに源が毒されてきた。

そしてもし何かを信じたら、それは真実のように見えてくる。
もし何かを信じはじめたら、その裏付けとなるもの、それを
助ける証拠となるものが続々と見つかるようになる。

あなたの自我エゴがからんでくる。
真実かどうかだけでなく、奥深くで問題になっているのは
「どちらが正しいのだろう?私だろうか君だろうか?
私が間違っているはずがない―私が正しいにちがいない」
ということだ。

だからあなたは自分を支えてくれるものばかりを選び取る。
そして生はひじょうに複雑であり、そこではありとあらゆる
ものを見つけることができる―あなたが選び取り、決定した
ものは何でも見つかる。

あなたが悲観主義者であれば、その悲観主義
を裏付けるありとあらゆる論拠が生のなかに見つかる。
あなたが楽観主義者であれば、ありとあらゆる論拠
を手にすることができる。

生は二元的であり、生は逆説に満ちており、生は多次元的だ。
この世にこれほど多くの哲学、主義、神学が存在するのはそのためだ。
そしてどの神学も独自の結論の殻に閉じこもり、
自分が一番正しいと信じている。
(p123)
ようやく現代において信奉者たちは少しとまどうようになった。
これは大いなる祝福だ。なぜなら、彼らは他の信奉者たちの存在にも
気付きはじめたからだ。今やヒンドゥー教徒はそれほど得意になり、
自己満足してはいられない。キリスト教徒の存在を知っているからだ。
そしてキリスト教徒も、自分たちだけが真理の版権を手にしていると
信じ続けることはできない。イスラム教徒もいるし、道教徒もいるし、
仏教徒もいるということを知っているからだ。そして誰も当てにならない。
現代はひじょうに混乱している―かつてなかったほど混乱している。

だが、覚えておきなさい。
この混乱は大いなる祝福だ。何かが途上にある。

何かとほうもなく重要なことが起ころうとしている。
この精神の混沌カオスは新しい夜明けのはじまりだ。

将来には、人々はイスラム教徒にも、ヒンドゥー教徒にも、
仏教徒にもならないだろう。人々は問いかける者たちとなる。
信仰はなくなり、信仰の闇は姿を消しつつある。
これからは誰も信仰をもたなくなってゆく。
人々は問いかけ、見いだしたときに信頼するだろう。
信仰は借り物であり、信頼はその人自身の体験だ。

私がここであなたがたに教えているのは、この先、ますます興隆
してくる宗教だ。私は現在のあなたがたに未来をもち込んでいる。
私はあなたがたが純一な探求者になるようにしむけている―
いかなる信仰体系ももたず、何の結論も抱かずに、
みずから進んで実験を行なってゆき、それが何であろうと
真実に心を開いて、それを受け容れてゆく用意のある探索者、
ひたすら真実を受け容れてゆく用意のある者たちに。

信仰をもつ者は閉じている。彼の窓や扉は閉じている。彼は一種の
牢獄に住んでいる。彼は一種の牢獄のなかで暮らさなければならない。
窓や扉を開けたら、太陽が差し込み、雨風が吹き込んできて、
信仰体系がかき乱されてしまう恐れがあるからだ。あらゆる方角
から真実が入ってきたら、自分の信仰を守ることなどできなくなる。
彼は真実から身を隠さなければならない。何にもかき乱されないように
、かき乱されはしないのだと信じ込めるように、窓のない閉ざされた
世界で生きなければならない。これは社会にとっては好都合だが、
個人の健やかさのためにはきわめて危険だ。

社会はあなたに遊び道具を与え続けている。子供に玩具おもちゃ
を与えれば、子供は遊びに夢中になって、邪魔にならなくなる。
親はほっとする。父親は新聞を読むことができるし、母親は台所
で仕事をすることができる。子供は玩具に夢中になっている。

インドの村では、これがよく行なわれている。野良仕事に行く
貧しい女性は、一緒に小さな子供を連れてゆかなければならない。
充分大きくなっていれば、子供は独りで遊べるが、まだごく幼いうち
は独りでは遊べない。そういう子供に母親は始終気を取られてしまう。
子供は泣きだす―腹を減らしたり、おもらしをしたり、風邪を引いたりして
いるのかもしれない。母親は絶えず世話をしに来なければならなくなる。

それでは仕事の邪魔になるし、親方も許してくれない。そこで子供
に少量の阿片を与えることがよく行なわれてきた。そうすれば、
子供は阿片がもたらす心地よいまどろみのなかで美しい夢を
見ながらぐっすり眠り、母親は気を取られずに仕事を続けられる。
これは仕事にとっても、母親にとっても、地主にとっても好都合だ。
が、子供の健康にとっては有害かつ危険このうえない。子供の将来
まで損なわれてしまう。だが、そういうことがずっと行なわれてきた。

実験をしなくてもすむように、問いかけに気をそらされなくても
すむように、社会は信仰を与える。なぜなら、探索には多大な
エネルギーが費やされるため、有能な事務員、有能な駅長、
有能な車掌、有能な警察官になることはできないからだ。
人は探索に心を奪われ、内なるものへの関心が高まり、
外側の世界への興味は消え失せてゆく。

社会はあなたが外交的な生き方をすることを望んでいる―生産
されたものが善いものであるか悪いものであるかは問われない。
爆弾をつくっている会社で働いていても、有能であり、生産性を
あげなければならない。軍隊で働いていても、有能であり、
つねに従順でなければならない。

どこで働いていても、その仕事の善悪は取りざたされない。社会が
決定したことにはすべて従い、きちんと列に並ばなければならない。

問いかける人になれば、危険が生じてくる。
その人はどんどん内向的になってゆくからだ。
優先すべきものが変わり、価値観が違ってくる。
金のことはあまり気にしなくなるかもしれない。
権力のことはあまり気にしなくなるかもしれない。
野心がなくなるかもしれない。
もはや所有欲がなくなるかもしれない。
財産への関心が消えてしまうかもしれない。
内なる豊かさ、内なる神の王国を探し求めるようになるだろう。

だが、そうなるとますます社会にとっては効率が悪くなってゆく。
そして社会には、こつ゛きまわされながら他人の仕事をするより
も、自分の仕事をしている内向的な人々の数がまさる世界―
そのほうがよりよい社会になるだろうが―を認めるだけの余裕がない。

それは人々がもっと瞑想的なよりよい世界であるはずだ。
そうなれば政治家たちも過去にもたらしたほどの害悪を引き起こせ
なくなるだろう。人々がもっと内向的になれば、戦争はひとりでに
消え失せるだろう。そうなったら戦うことに誰が関心を払うだろう?
人を殺したり、人の生命を奪ったりすることに誰が関心を払うだろう?

だが、暴力は美しく見えるように粉飾されている―国家の名のもとに殺せ、
イスラム教の名のもとに殺せ、キリスト教の名のもとに殺せというわけだ。
そうなると殺人は美化される。キリスト教のためであろうが、教会
のためであろうが、国家のためであろうが、民族のためであろうが、
殺人に変わりはない。

それらは人を殺すための口実、破壊行為を行なうための口実、
狂気に走るための口実にすぎない。

十年ごとに世界規模の大戦が勃発している。それは十年ごとに人々の存在
のなかに大量の膿うみがたまり、それが噴き出さざるをえなくなるからだ。
人々はみずからの存在に大量の毒をため込んでいるため、
もう抑えておけなくなる。狂気が、地球規模の狂気が炸裂する。

人々がもっと内向的になれば、
戦争はなくなり、政治の争いは姿を消すだろう。
もっと内向的になれば、言うまでもなく、
人々はあまり効率よく働けなくなるだろう。
その必要はない。人々はもっと幸せになるだろう。
おそらく四六時中ものごとに忙殺され、狂ったように
振りまわされたりせずに、もっと幸せで、もっと喜びに満ち、
もっと祝うようになることだろう。
必要なものは充分に生み出すが、
不要なものには関心をもたなくなるだろう。

だが、私たちは不要なもの、まったく必要ではない
ものに過剰な関心を寄せている。
そんなものはなくてもやってゆける
のに、なしで済ますことができない。
私たちは突進し、走り続けるように訓練されてしまっているからだ。
私たちは他のありようを知らない。
(p127)
社会はあなたに信仰という毒を盛って、
最初の第一歩からあなたの探求の息の根を止めてしまう。
宗教とはあなたの探求をもう一度よみがえらせることだ。
宗教とはあなたを本来の源泉へと連れもどすことをいう。

そして、それは好奇心ではなく、
とても誠実な探求であることを覚えておきなさい。

自分を知らずに生きてゆくなど死んでいるのも同然だ。

自分が誰であるかを知らずして、どうして本当に生きてゆけるだろう?

自分自身を知らずして、生にどんな意味があるというのだろう?

自分が誰であるかを知らずして、自分をどう扱うというのだろう?

自分の天命が何であるかをどのようにして見極めるのか?

そう、騒音ばかりで、音楽というものがない。
計算ばかりで、祝祭というものがない。

あちこちへあわただしく駆けまわっているが、どこにも行き着きはしない。
生まれてから死ぬまで一種絶えざる緊張のなかを生きてゆくが、
生と<存在>の美、祝福を知ることはない。

もっとも身近にあって知るべきもの、最初に知るべきものである、
みずからの内なる実存の美と祝福にすら気付いていないのだから。

生に向かう最初の一歩は自己を知ることだ。
それはたんなる好奇心ではありえない。
好奇心から探求する人はたくさんいる。だが、
好奇心が生を変容させることはけっしてありえない。
それはやはり か ゆ み に過ぎず、
たやすく満足させることができるものだ。

昔あるところに宿屋の主人がいたが、おかしなことに、どうしても帳尻を
合わせることができなかった。どんなに努力してもうまくゆかなかった。
経営方針をすっかり改めようとしたが、それもうまくゆかなかった。
そこで気落ちした彼は、ある懸命な女性に相談した。
「とても簡単なことよ」と、謝礼を受け取りながら彼女は言った。
「宿の名前を変えるといいわ」
「でもずっと『黄金のライオン』でやってきたのですよ」と彼は応えた。
「名前を変えてごらんなさい」と彼女は言った。
「『八つの鈴』がいいわね。そして看板には鈴を七個並べておくの」
「それじゃ辻褄が合いませんよ。そんなことをして何になるんです?」
「家に帰って、やってごらんなさい」と賢い女性は言った。
そこで彼は家にもどり、言われた通りにやってみた。
すると、ただちに通りがかりの旅人たちがみな足を止め、鈴の数を数えると
、続々と宿屋に飛び込んできて、その誤りを指摘した。誰もがその誤りに
気付いたのは自分だけだぞといった顔つきで、そのことを肴さかなにして
一杯ひっかけたがっていた。宿屋はどんどん繁盛してゆき、主人は財を築いた。

これが人々のありようだ。
宿屋の名前は『八つの鈴』だが、看板には七つしかない。
人々に好奇心を起こさせ、彼らの心をつかんでしまうには充分だ。

だが、この種の好奇心はどこにも行き着かない。

人々は神について尋ね、真理について尋ねるが、
彼らの目を見れば、その尋ね方を見れば、本気でないことがわかる。
天気の話でもするように、人々は神についても話す。
それはうわべを取り繕うための会話だ。誰も本気で取り組んでいない
ようだし、誰も情熱的に探求してはいないようだ。

だが、探求に大いなる情熱をかけ、
全身全霊をあげて、完全にその身を投入しないかぎり、
みずからの実存の秘密を知ることはできない。
なぜなら、多くの仕事をしなければならないからだ。

好奇心にかられた人間は、それだけの仕事をこなすことができない。
好奇心にはあなたを遠くに連れてゆくだけの力がない。
そのエネルギーはひじょうに小さく、ちっぽけなものだ。
知りたいという心からの情熱があってはじめて、
必要とされる困難すべてを乗り越えてゆくことができる。
それは骨の折れる仕事だ。
(p129)
だから、『黄金の華の秘密』に関してまず第一に
理解すべきことはこれだ―哲学的にならないこと、
社会に毒を盛られないようにすること、
信じることもせず、不信感も抱かないこと。

いいかね、「信じるな」と言うとき、そのつど
私は不信感を抱けと言っているのではない。

不信感というのは別種の、否定的な形の信念だ。
「信じるな」というとき、私は信も不信も一緒に
落とさなければならないと言っている。

あなたは何の結論も抱かず、ただ
開いていなければならない。

あなたは知識で無知を隠さずに、ただ
自分が無知であることに
気付いていなければならない。

あなたは無垢に、純真な無知
にならなければいけない。

あなたは「私は知らない」
と言わなければならない。

正しい取り組み方は、すべて
この「私は知らない」からはじまる。

知りもしないのにすでに何かを知っている気でいるなら
、知識で一杯になっているなら、その信念そのものが妨げ
となり、その信念そのものが真実ではない体験を引き起こす。

信念に毒を盛られると―
信念はLSDやマリファナやハッシッシに似ている。
信念に毒を飲まされると、それを投影した世界が
つくられてゆき、あなたの空想力は歯止めが利かなくなる。

空想力が翼を広げはじめると、あなたは現実との接触
を失い、遊離した私的な世界をつくりあげてしまう。
あなたは愚か者になる。

これが「愚か者」という言葉の意味だ。
私的な世界に住み、自分だけの現実をもち、
本当に実在するものから完全にかけ離れ、
自分の空想がリアルになるあまり、
その視野から現実がすっかり消え失せてしまった者。

LSDやマリファナや他の薬物ドラッグを飲むときに起こることはそれだ。
薬物はあなたのなかに色彩豊かな小さな空想の世界をつくりだす―
少なくとも薬物に溺れているときには色彩にあふれている。そして薬物
の影響下にあるときには、体験するものすべてが究極の真理に見える。

毎日、誰かが私のところに来て言う。
「世界がこんなにも美しいことに気付いたのは薬物ドラッグのおかげです」
あなたが気付いたのは夢の世界にすぎない。
薬物はあなたの批判力を取り去るだけだ。
薬物はあなたの理性を麻痺させるだけだ。

そうなると夢の世界がそのすべての窓を開き、止めどなく
あらゆる方角に流れ出してゆく。批判力が働かなくなると
・・・理性が働きを停止し、空想力が全開になり、歯止めがまったく
きかなくなると、あたかもそれが究極の真理であるかのような感じ
がしてくる。が、そうではない。それは真理とは何の関係もない。

真理は化学的な薬物だけではなく、宗教的な薬物の影響すらまったく
受けていない者、微塵みじんも影響を受けていない者に対して
のみ開かれる。そういう者たちだけが真理を知る力を秘めている。

聞いた話だが・・・

笑気ガスを吸った偉大な心理学者ウイリアム・ジェームズは、究極の
”真理”に到達した。彼は薬物ドラッグの実験を最初に行なった人々
のひとりだった。当時は、薬物を常用している人々はいなかった。
彼は笑気ガスの影響を受けて、究極の真理に出くわしたと感じた。
彼は優れた心理学者であるとともに哲学者でもあったが、人がほとんど
やらないようなことをやった。ただちにその体験をノートに書き記したのだ。
彼には何かとほうもない価値のあることが自分の意識に起こったので、
ただちにそれを書き記さなければならないと気付くだけの分別がまだ
残されていた。薬物による体験が終わってしまえば、それを忘れてしまう
かもしれない。そこで彼はその体験を書き記し、出くわした究極の真理
が何であるのかを読むことができるように、薬物の影響が消える瞬間を
待った。彼は自分が仏陀やキリストのような人物になり神を見たとか、
あるいはウパニシャッドの賢者、老子、ツァラツストラ、マホメット
たちが見たものを、それほど重要なものを見たと考えた。だが、正気に
もどり、ノートを見て、彼はひじょうに戸惑い、驚いた。
ノートにはこのようなことが書かれていた。

ホガマス、ヒガマス、男は一夫多妻バリガマスである。
ヒガマス、ホガマス、女は一夫一婦モノガマスである。

これが彼の出くわした”究極の真理”とやらだった。どんなに
馬鹿げたことでも、正気を失い、理性が働かず、批判力
が完全に眠りこけているときには究極的なものに見える
―どんなに馬鹿げたことでもだ。
だが、その瞬間には、それは馬鹿げたものではない。
その瞬間には、それは究極の真理のように見える。

オルダス・ハックスレーは言っている。はじめてLSDを飲んだとき、
彼はごくふつうの部屋に座っていた。彼の前には何の変哲もない
ふつうの椅子があった。いったんLSDが体内で効きはじめ、化学組成に
影響を与えはじめると、椅子が目を疑うほど美しく見えはじめてきた。
彼の生涯でものがそれほど美しく見えたのははじめてだった。椅子
は輝いていた。椅子から極彩色で、サイケデリックな光があらゆる
方角に流れ出していた。椅子は同じままであり、そのゲーム全体を
つくりだしているのは空想力にすぎない。たんにLSDが狂気に駆り立て
ているだけだ。LSDが批判力の芽をすべて摘み取ってしまっている。
(p132)
信仰にとって疑いは敵となるが、信頼にとって疑いは敵ではない
、と私が言うのはそのためだ。

信頼は疑いを通して成長する。

信仰は疑いを抑圧することによって成長する。
信仰が一種の薬物ドラッグであるのはそのためだ。
薬物はまさにそのように働く。

それは、あなたが愚か者にならないように
ひたすらあなたの意識を醒めさせ、あなたが
空想の餌食とならないようにしている
疑う力を抑圧する。

宗教は昔からずっとそれをやり続けてきた。それらは
「疑うな。疑えば、地獄に落ちるぞ。信じろ。疑いが起こったら、
抑え込め、そんなものは投げ捨ててしまえ。ひたすら信じ続けるんだ」
と言う。「信じていれば、やがてわかる」と。

信頼というのは、まったく異なる現象だ。それは
薬物に冒されていない意識、開かれた意識から生まれてくる。
信じることもせず、不信感も抱かず、信と不信にとらわれた
結論を抱かない、完全に自由で純真無垢な意識から。

疑いは役に立つ。
真理に到達するまで、疑いは役に立つ。
疑いは信頼の友だ。
疑うというまさにそのプロセスが空想の餌食にならないように
助けてくれる。さもなければ、空想が好き放題に羽をのばす。

例えば、ヒンドゥー教徒に生まれ、クンダリーニについて読んだことが
あれば、あなたの空想がその体験をそっくりそのままつくりだしかねない
。いつでも蛇はとぐろを解いて背骨の底から昇りだし、シューと
大きな音を立て、第七のチャクラに向かって突進してゆくだろう。
そしてその体験があまりにリアルに見えるので、いったん
それを信じてしまったら疑うことなどできなくなる。

だがイエスはクンダリーニには遭遇しなかった。マホメットは
クンダリーニのことなど何も知らなかった。仏陀でさえ、彼は
ヒンドゥー教徒に生まれたが・・・仏陀は誠実な探求者であり、
あらゆる種類の信仰を落としたので、クンダリーニには一度も
遭遇しなかった。マハーヴィーラはクンダリーニのことなど何も
知らなかった。ツァラツストラはそれについて語らなかった。

どういうことだろう?彼らは取り逃がしたのだろうか?
クンダリーニは信仰だ。七つのチャクラを信じていれば、
生涯のうちにその七つのチャクラが働きはじめるだろう。
何かを信じていれば、人はそれを見はじめる。

現代にクンダリーニ・エネルギーを紹介したゴーピ・クリシュナ
は十三年間働きかけ、座ってクンダリーニが昇るのを待ち続けた
と言っている。十三年は長い時間だ。十三年間もクンダリーニを
信じて待ち、背骨の奥底深くをのぞき込み続けることができる
なら、クンダリーニが昇ったとしても不思議ではない。

やがてある日、それは起こった。蛇はとぐろを解き、猛烈なエネルギー
と音―滝が落ちるような轟音をともなって突進し、脳を貫いた。それ以来
、ゴーピ・クリシュナは、天与の才能が解き放たれたと思い込んだ。
クンダリーニが昇ると人は天才になるのだと彼は考えている。

だが、彼の天与の才能が何をなし遂げたのか私にはわからない。
確かに彼は馬鹿げた、何の変哲もない、四流の詩をいくつか書いた。
それが天与の才能だとしたら、クンダリーニなど奥深くに押し込めて
おく方がましだ。誰もが四流の詩人になるというのは良いことだとは
思えない。いったいどういう天分が解き放たれるというのだろう?

こういうやり方はよくない。こんなものは空想にすぎない。
あるものを信じれば、あなたはそれを見るようになる。
危ないのはそこだ。信じることからはじめてはいけない。
これがタオの視点だ―探求し、試みて、
結論がひとりでに生まれてくるのを待つのが。
(p134)
呂祖師は言った。
光を巡らせると、天と地、光と闇のエネルギーはことごとく結晶化する。
あなたの意識は外に向かって流れている―
これは事実であり、信じる必要のないことだ。
対象となるものを見るとき、あなたの意識
はその対象に向かって流れてゆく。

例えば、あなたは私を見ている。
あなたは自分を忘れ、私に焦点を合わせている。
あなたのエネルギーは私に向かって流れ、あなたの目
は真っ直ぐに私に向けられている。
これは外向的なエネルギーの流れだ。

花を眺めて、それに魅せられるときには、花に
焦点を合わせている。あなたは自分をすっかり
忘れ、花の美しさにひたすら注意を注いでいる。

私たちはこれを知っている―刻一刻とこれが
起こっている。美しい女性が通りかかると、
突然あなたのエネルギーは彼女の後を追い
はじめる。私たちはこの外へと向かう光の流れ
を知っている。これは物語の半分にすぎない。
だが、刻一刻と光は外へ流れ出し、
あなたは背景に退いてゆき、
自分自身をすっかり忘れてしまう。

あなたが同時に主体と対象の両方であること
ができるように、自分自身を見ることができる
ように、光を逆の方向に流さなければならない。

そうすれば、自己知が解き放たれる。

ふつう私たちは半身で生きている。
半死半生―それが実情だ。

そして、光は緩やかに外に流れ出してゆき、二度ともどって
こない。あなたの内側はどんどん空っぽになってゆき、うつろ
になってゆく。あなたはブラック・ホールになってしまう。

これとまったく同じことが宇宙ではより大きな規模で起こって
いる。物理学者たちは今やブラック・ホールを発見した。
道家の人々はずっと昔にブラック・ホールを発見していた
が、遥か彼方の宇宙空間にあるブラック・ホールに関心が
あったのではなかった。彼らが関心を寄せたのは人間の内側
にあるブラック・ホールだった。ブラック・ホールとは、
あなたのエネルギーがすべて使い尽くされ、消耗している状態
・・・自分が空っぽになりながら、このエネルギーの源泉に
滋養を与えてゆく方法をまったく忘れている状態をいう。

科学者たちは、遅かれ早かれ、太陽はブラック・ホールになると
言っている。なぜなら、エネルギーが絶えず放射されているのに何も
太陽にはもどってこないからだ。それはこのうえもないエネルギーの
源泉だ。何百万年ものあいだ、太陽は太陽系に光を与え続けてきた。

何百万年ものあいだ、太陽エネルギーのおかげで樹々が育ち、
花が咲き、人間が暮らし、動物が動きまわり、鳥たちが飛んで
きた。だが、太陽もだんだんと消耗してゆく。それがゆっくりと
進み、ある日、太陽は崩壊する。エネルギーが涸れ果ててしまう。
突然、すべての光が消え失せ、その最後の光線がかき消えてゆく。
そうなったら、太陽はブラック・ホールになる。

人々の多くはそのようにして生きている。
この絶え間ない外向性ゆえに、彼らはブラック・ホールに
なってしまう。あなたの目はきょろきょろと動きまわる。見 る 者 
に一度もエネルギーを返すことなく、ものを見続けている。
昼間は世間を見て、夜には夢を見る。
とにかく、あなたは対象となるものに絶えず執着
し続けている。これがエネルギーを消耗させる。

三十歳になる頃には、人はほとんどこと切れてしまい、
ブラック・ホールになっている。人々は三十歳前後で死んで
しまう。埋葬されるのは七十歳前後になるだろうが―それは
また別の話だ。とにかく人は三十歳前後で死んでしまう。思う
に、「三十歳を超えた人間を信じるな」というヒッピーの考え
には何らかの真実がそなわっている。そこには真理の種子がある。

三十歳を過ぎてもいきいきとしている人はなかなか見つからないからだ。
人々はブラックホールになり、疲れ果て、消耗し尽くしてしまう。
彼らはだらだらと身を引きずり続けてゆく。まるで過去からの惰性の
力で行きながらえているかのように、生気をなくしたままで生きている。

それはこういうことだ―自転車に乗りたければ、ペダルをこがなければ
ならない。だが、しばらくペダルをこぐのを止めても、それまで
走らせてきた惰性がついているので、自転車はしばらくのあいだは
進む。もしそれが下り坂であれば、遠くまでゆくことができる。

三十歳か三十五歳を過ぎると、人生の道は下り坂になる。三十五
歳がピークだ。平均年齢が七十歳だとすれば、三十五歳がピーク
だ。三十五歳を過ぎると、下り坂がはじまる。あなたはエネルギ
ーを使わずにどこまでも転げ落ちてゆくことができる。

道家の人々の体験では、あなたが外へ外へと使ってきた
このエネルギーは、それを逆転させる秘術を学ぶことで、
消耗させずにもっともっと結晶化させることができる。
それは可能だ。あらゆる集中の技法の科学はそれにつきる。

いつか鏡の前に立って、小さな実験をしてみるといい。
あなたは鏡を見ている。自分の顔が映っている。
そこには自分の目が映っている。これが外向性だ。
あなたは鏡に映った顔を見つめている―もちろん
自分の顔だが、それは外にある対象物だ。

次にしばらくのあいだプロセスをそっくり逆にしてみるといい。
鏡に映る自分の姿から見られているという感じになってゆく―
あなたが鏡像を見ているのではなく、鏡像があなたを見ている
―すると、とても奇妙な空間に入るだろう。

数分間それをやってみれば、あなたはひじょうに活気
に満ちてきて、何かとほうもない力が自分のなかに
入ってくるように感じる。一度も体験したことがない
ことだから、あなたは怖くなってしまうかもしれない。
あなたは完全に輪になったエネルギーを一度も見たことがない。

道家の経典には述べられていないが、これは誰にもたやすく
できる最も簡単な実験だろう。浴室の鏡の前に立って、まず
鏡像をのぞき込む。見ているのはあなたであり、鏡に映った姿
は対象だ。次に状況をそっくり変え、プロセスを逆にする。

自分は鏡像であり、向こうにいる人物に見られている
と感じはじめる。するとただちに変化が起こり、
大きなエネルギーがあなたに向かってくるのがわかる。

そんなことをするのははじめてであり、体験したことがない
ので、最初は怖くなるかもしれない。それは気違いじみて
見える。あなたは動揺して、震えだすかもしれない。あるいは
自分がどこにいるのかわからなくなってしまうかもしれない。

なぜなら、これまでの方向感覚は完全に外向的なものだった
からだ。内向性は徐々に身につけてゆかなければならない。
だが、輪は完結している。そして、数日間それをやれば、
一日中活気がみなぎっているように感じてあなたは驚くだろう
。数分間鏡の前に立って、輪が完結するようにエネルギー
をもどってこさせれば・・・。

そして輪が完結したときには、必ず深い静けさが感じられる。
輪が完結していないと落ち着きがなくなってくる。
輪が完結すると落ち着きが生まれ、あなたは中心に据わる。
そして中心に据わると力がみなぎる―その力はあなたのものだ。
そして、これは実験のひとつにすぎない。
色々なやり方でそれを試してみればいい。

薔薇の花を見るなら、最初は薔薇の花をしばらく、
数分間見つめ、それから逆のプロセスに入る。
薔薇の花があなたを見つめている。
薔薇の花からどれだけ多くのエネルギー
がもらえるか、あなたは驚くだろう。

同じことを樹々や星々や人々を相手にやってみればいい。
一番いいのは愛しているパートナーとそれをやることだ。
互いの目をのぞき込んでみるといい。
まず相手を見ることからはじめ、次は相手が
エネルギーを返してくれるように感じるようにする。

贈り物が返ってきている。
エネルギーが補給された感じがする。
シャワーを浴び、風呂に入り、新しい種類のエネルギーを浴びた
感じがする。あなたは若返り、活力に満ちてそこから出てくる。
(p138)
呂祖師は言った。
光を輪のように巡らせると・・・
光を巡らせるというのはまさにそのようなことだ。
あなたの光は弧を描いて動いている。
出てゆくばかりでもどってこない。
あなたはやがてブラックホールになる。
輪が完結すれば、あなたはホワイトホールになる。
今やブラックホールに次いで、物理学者たちはホワイトホール
も発見しつつある。ホワイトホールはエネルギーに
満ちあふれている―ブラックホールとはちょうど反対だ。
光を輪のように巡らせると、天と地のエネルギーはことごとく・・・
「天と地」は、内と外、上と下、神と世界、
目に見えないものと見えるもの、
知りえないものと知りうるものを意味する。
「天」は神を指し、「地」は顕れた世界を指している。

輪が完結すると、それらはひとつになる。
人はただの塵チリではなく、天空の何かがあなたを貫いている。
あなたはもはや地上のものであるばかりではない、
もはや人間であるばかりではない。
人は聖なるものになっている。

「ヒューマン」という言葉の語源を心にとめておきなさい
―それは土を意味する「ヒュマス」からきている。
人間は土でつくられている。人間が「ヒューマン」と
呼ばれるのはそのためだ。人間は塵であるがゆえに
「ヒューマン」と呼ばれる。塵が聖なるもので光を放ち
はじめると、生命の荘厳さが知られる。

エネルギーがもどってくれば、それは可能だ。
それは至るところから取りもどすことができる。それは
まったく問題ない。ただその秘法を実践すればいいだけだ。
ひとたびその こ つ をつかんだら、
あなたは至るところにそれを見いだすことだろう。

緑の樹を見つめているだけで、活気がみなぎってくる―
まるですべての樹液があなたに向かって流れてきたように。
樹の精髄ジュースがあなたの実存に入ってきたかのように。

月を見つめていると、あなたは驚くだろう―
酒やその他の麻薬ドラッグで酔っぱらう必要はない。
月で酔うことができるのだ。その方法を知っていれば
、月は大量のエネルギーを返すことができる。

古代インドの『リグ・ヴェーダ』には、ソーマのことが書かれている
。科学者たちは、ソーマはLSDに似たものだと考えている。科学者
たちは、ソーマというのは気候の変化か何かでヒマラヤから姿を
消した、ある種のキノコに違いないと考えている。あるいは絶滅した
のではなく、人々に忘れ去られてしまっているだけなのかもしれない。

今もヒマラヤの深い谷のどこかに生えているのだが、私たちはその
正体をすっかり忘れ去っているだけなのかもしれない。ひょっと
すると古代の賢者たちは、それが危険すぎることがわかったために
、意図的に人々の記憶からそれを消し去ろうとしたのかもしれない。

オルダス・ハックスレーは、ソーマは究極の麻薬ドラッグであり、将来
、究極のLSDが発見されれば、再びそれは「ソーマ」と呼ばれるように
なるだろうと言っている。だが、あなたはソーマというサンスクリット
語が月の別名であることを知って驚くだろう。だからヒンドゥ語では、
月曜日は「ソムワラ」―月の日―と呼ばれる。ソーマは月の別名だ。
それはキノコでも、LSDのようなものでも、麻薬でもない。

それは月と霊的交流に入るための秘術だ。ちょうど
海が月の影響を受けるように、月からエネルギー
を得ることができたなら、あなたは驚くだろう―
大いなる精髄ジュース、大いなる甘露が降り注いでくる。
あならはいかなる麻薬で酔っぱらうこともなく
、酔いしれることができる。

月はあなたの実存のまさに中核にまで影響を与える
ことができる。それはあなたをひそやかで、穏やかにする
。それは月が女性的なエネルギーだからだ。
愛する女性を抱擁すると、たちまちあなたは
深い静けさと穏やかさが湧き起こるのを感じる。
月からエネルギーが返ってくるときには、
それとまったく同じことがより大きな規模で起こる。

太陽が男性原理であるように、月は女性原理だ。
月は<陰>であり、太陽は<陽>だ。
月は母のようにあなたを慈しむ。

ヒマラヤの谷間にキノコを探しに出かけなくてもよい。
そのキノコはいつも天空にかかっている。それは月だ。
ただあなたはどうやって月からエネルギーをもどって
こさせるか、その秘法を習わなければならない。

月から、そして太陽からもエネルギーを得る秘密の技法
が伝えられてきた。太陽崇拝は、ある技法から生まれた
ものであり、巨大な太陽の神殿が建てられた。

コナラックの太陽の神殿は、まさに太陽への感謝を表す
ものだった。それはたんなる礼拝ではなく、いかに
<陽>のエネルギーを取り入れるかという科学だった。

特に女性は太陽のエネルギーを取り入れるとよい。
隠され、眠っている<陽>のエネルギーが活性化する
からだ。男性は月のエネルギーを取り入れるとよい。
眠っている女性原理が活性化し、再び動きはじめるからだ。
女性は太陽を礼拝するといいし、男性は月を礼拝するといい。

だが、その礼拝はただの儀式であってはならない。
それはこのような技法でなければならない。
光を輪のように巡らせると、天と地、光と闇のエネルギーはことごとく結晶化する。
「光と闇」は、男と女、軽さと重さ、
恩寵と重力、生と死、運動と休息を象徴している。
これらすべてが「光と闇」で表されている。

ひと言で言えば、エネルギーが輪のように巡れば、あなたは
だんだんと自分が男なのか女なのかわからないようになる。
外向性は<陽>の原理であり、内向性は<陰>の原理だ。
男には自然に外へ向かう傾向があり、
女には自然に内に向かう傾向がある。

愛を交わしているときでさえ、男は目を開けたままでいる。
彼は見たい。男は覗のぞくのが好きだ。ポルノが現れるのは
そのためだ。ポルノに興味をもつ女性はいない。
女性はそれに意味があるとは思えない。
恋人と愛を交わしているときでさえ、女性は目を閉じている。
女は内向的であり、彼女のエネルギーは内側へ向かう。

だが、そのエネルギーは輪にならなければいけない。
輪にならないかぎり、人は男か女であり続ける。
だが、どちらも半分であり、同じ全体なるものの半身だ。
互いに相手に惹かれ、相手を必要とするのはそのためだ。

いつかエネルギーを輪のように巡らせることができるように
なれば、あなたは相手の男性や女性を必要としなくなる。
なぜなら、みずからの内なる男性とみずからの内なる女性
が出会い、互いに溶け合っているからだ。

あなたは全体になる。そして全体ホール
であることが神聖ホーリーであることだ。
全体であることが神聖であること―これが
タオであり、そしてこれはタントラでもある。
光を輪のように巡らせると、天と地、光と闇のエネルギーはことごとく結晶化する。
カール・グスタフ・ユングが「個性化」
「結晶化」と言っていたのはこのことだ。
ゲオルギー・グルジェフが「自己の誕生」
あるいは「魂」と言っていたのはこのことだ。

あなたは通常は断片にすぎない。あなたはたくさんの
自己を持っている。単一の"私"はなく、たくさんの"私"
、小さな"私"をもっている。しかもそれらがみな支配権
を握ろうと、互いに闘い、競争し合っている。

人間は複数だということ―それが人間の惨めさだ。自分
がたくさんいたら、どうして安らぐことができるだろう?
ある部分が「これをやれ」と言い、別の部分が「いやだ」
と言い、また別の部分が「もっと他のことをやれ」と言う。

どれに従っても後悔することになる。

なぜなら、それに従いたくない他の部分が問題をつくりだす
からだ。「おまえは道を間違えている。別の選択をしていた
方がはるかにましだった」と他の部分がしきりに言い続ける。
「俺についてきたら、もうたどり着いていたのに。
見ろ、おまえが耳を貸さなかったせいだ」

だが、その部分に耳を傾けていたなら、
また別の部分が反撃に出ていただろう。

人間はけっして満足しない。満足すること
などありえない。それは人間が複数だからだ。

ひとつになれば、満足はおのずと湧いてくる。
あなたが複数いるなら、不満足はやむをえない。
あなたが複数いるなら、葛藤の絶えない人生になる。
ひとつであれば、葛藤は消え失せる。
あなたは我が家に帰り着いている。

道家の人々が「結晶化」と呼んでいるのはこのことだ。
それを達成する技法は、あなたの<陰>と<陽>がもはや
分離していないように光を輪のように巡らせることだ。

光はまさに呼吸のごとく動かなければならない。
息は出ては入り、入っては出てゆく。あなたは
息を吐き、息を吸う。息を吐いてばかりいる人
を思い浮かべてみるがいい。彼は生きてゆけなくなる。
彼の肉体は死んでしまう。あるいは息を吸ってばかり
いる人を思い浮かべてみるがいい。彼もまた死んでしまう。

だが、これこそまさにあなたの魂に起こっていることだ。
あなたの魂は死んでいる。光を吐き出すか、光を吸い込む
か、あなたはその片方しかしていないからだ。
まだあなたは吐くことと吸うことが輪に、ひとつの
プロセスにならねばならないことを学んでいない。
深く吐き出し、深く吸い込みなさい。

肉体の生命にとって呼吸が必要なように、魂には意識が
必要だ。だから意識を半分のままで放置してはならない。
輪を完結させなければならない。

女性はいかにして男でもあるかを学ばなければならない。
男性はいかにして女でもあるかを学ばなければならない。
そして男性と女性が等しいバランスを得るとき、
男女のバランスが完全に取れるとき、それが
結晶化、個性化であり、魂が生まれるときだ。
(p142)
この秘術を行ないはじめると…
そして、確かにそれは秘術だ。
本当に信じられないほどの効果があるからだ。
この秘術を行ないはじめると、まるで生ける存在の 只なかに無があるように感じられる。
私が「ブラック・ホール」という言葉で言おうとしたのはこのことだ。
この秘術を行ないはじめると、まるで生ける存在の 只なかに無があるように感じられる。
…生ける存在に囲まれているかのように感じられるが、
あなたは非存在、無の孤島―ブラック・ホールにすぎない。

樹々は生きている。
星々は生きている。
鳥たちは生きている。
大地は生きている。
太陽や月は生きている。
あらゆるものが生きている。

ところがあなたは……死せるブラック・ホールにすぎない。
生ける存在のこの広大な海原のなかで、あなただけが非存在だ。
これは修行をはじめたばかりのときに起こってくる状況だ。
やがて修行の成果が現れてくると、肉体の外に肉体があり、 あたかも無の只なかに生ける存在があるかのように感じられる。
あらゆるものが一変してしまう。
あなたは生ける存在、ホワイト・ホールになる。

あなたはすっかり統合され、結晶化しているので、
それと比べれば、太陽や月や樹や鳥や動物
はすべて非存在のように見える。

仏陀のような人を思い浮かべてみるといい。

彼には存在感がある。
彼と比べれば、全存在も青ざめているように感じられる。
彼には生命、永遠の生命、ありあまるほどの生命がある。
全存在は貧しく、彼は豊かだ。
彼は帝王であり、全存在は乞食のようにみすぼらしい。
やがて修行の成果が現れてくると、肉体の外に肉体があり……
この光の輪があなたのなかで定まり、結晶化すると、
あなたは肉体の中にある別の身体を感じるようになる。

この肉体は塵ちりでできているが、
その身体は神で、聖なるものでできている。
この肉体には形があるが、その身体には形がない。
この肉体は粗雑だが、その身体は微細だ。
この肉体は死なねばならないが、その身体は死を知らない。
この肉体は時間の一部だが、その身体は永遠の一部だ。

この第二の身体が生まれると―それを生み出すためには
、まず光を吸ったり吐いたりする方法を身につけなければ
ならない……ちょうど息を吸ったり吐いたりするように、
第二の身体、光の身体において光を吸ったり吐いたりする
方法を身につけたなら……。

この肉体は闇の肉体であり、この肉体は大地の一部、
重力の一部だ。それは重く、下方へと引っ張られる。
もうひとつの身体は上方へと引っ張られる。

それは恩寵の一部であり、軽いライト……
文字通り光ライトのように軽い。
それは光を放ち、重さをもっていない。
あなたは飛ぶことができる。

禅の人々が「翼なくして飛翔する」と言う
のはそのことだ。そうなったら大空とその限りのなさ
がそっくり手に入るようになる。
(p144)
あたかも無の只なかに生ける存在があるかのように感じられる。百日 のあいだ懸命に努力を続けると、ようやく火が発するようになる。
最初、光はほとんど空想されたもののように見えるだろう
……最初は空想から出発するしかない。時が経ち、百日が
過ぎると、百日のあいだ懸命に努力を続けると……
それはどれだけ集中して働きかけるかにかかっている。
百日と決められているわけではない。全身全霊をあげて
取り組めば百日だが、気を抜けば百年、あるいは百回
生まれ変わらなければならないかもしれない。

それはいかに熱心に取り組むかにかかっている。
心血を注ぎ、全身を投げ入れ、打ち込み、すべてを
賭ける用意ができているなら、百日間で「火」が
生じてくるだろう。最初のうちは空想であっていい。

空想は悪いものではない。空想によって現実から目を
そらしたり、空想が障壁とならないかぎり、それは
悪いものではない。現実と強調しているかぎり、空想は
悪いものではない。それは大きな祝福となるだろう。

最初はそれは空想の産物のように感じられるだろう。
鏡を見ながら、あなたは「鏡に映った自分がこちらを
見ているなんて、これはすべて空想だ」と感じるだろう。

最初は紛れもない空想だが、間もなく
それは空想でなかったことに気付くだろう。
あなたは現実の扉の錠を開けようとしていただけだ。
それは現実に起こりはじめる。

最初のうちは大いなる愛を込めて樹に触れても―
あなたは樹が応えてくれるはずがないと思っている
―樹が少しでも応えてくれるのを感じても、
あなたは空想だと思うだろう。

そうではない。樹は応えている。
だが、本当にそうだと気付くには少々時間がかかるだろう
。あなたが愛にあふれていれば、
樹は愛をもって応えてくれる―
愛にはいつも愛が返ってくる。
愛に愛が返ってこなければ、その愛は
愛ではなかったのだと知りなさい。
それが真相だ。別の何かが愛の
仮面をかぶっていたということだ。
(p146)
そうしてはじめてそれは精神の火となる。
百日間にわたる懸命な努力ののちに、それは精神の火となる。
さらに百日行ずれば、光の中に真の光の極がおのずと現れてきて……
はじめは光は散漫だ。
わずかにそこにあるのが感じられるだけだ。
そこにあるかと思えば、またなくなってしまう。
それはひじょうに微かで、とても壊れやすい。
だが、徐々に光の中心がしっかり定まってくる。
それは「光の極」になる。
突如、真珠の種が生まれる。
そうなったら、「光の極」のそのまさに中心
に、「真珠の種」が生まれる。
それはあたかも男女が交わって受胎が行なわれるようなものである。
まさにその通りのことが起こる。
内なる男と内なる女が抱擁し合っている。
それは一種の内なる性交だ。それが真のタントラだ。
あなたの女性的な部分と男性的な部分が
互いに愛を交わし、ひとつに結ばれている。
そうなったら、彼らは別れる必要がない。

外側の女性と結ばれたままではいられない。
さもなければひどく醜いことになる。
外側の女性と結ばれたままではいられない。
さもなければ嫌悪をもよおすことになる。

外側の男性と結ばれたままではいられない。それは
つかのまのものでしかありえない―ほんの一瞬だけ、
あなたがたは合一状態をかいま見ることができる。
だが、内なる結合は解く必要がない。

仏陀のような人は絶えることのない
オルガズムの状態を生きている。
内なる女性と内なる男性が愛を交わし続けている。

ヒンドゥー教の寺院でシバリンガを見たことがあるに
違いない。あれは象徴シンボルだ。あのリンガの下には
ヨーニ、女性の性器がある。それは内なる男と女の出会いの
象徴だ。フロイト派の学者が解釈するような、たんなる男根では
ない。それは象徴的なものであり、人の内なる極性を表している。

ひとたびこの出会いが起これば、あなたは新しく生まれ変わる
。イエスがニコデモに「もう一度生まれ変わらないかぎり……」
と言うとき、彼が伝えようとしているのはこのことだ。
私はキリスト教徒がなんと言うか知らないし、そんなことは
気にもかけないが、彼が言おうとしているのはこのことだ。

「もう一度生まれ変わらないかぎり……」
これが彼の言おうとしている誕生だ。そしてこれが
ヒンドゥー教徒が「ドウィジャ」―二度生まれ―
と呼んでいるものだ。あなたは自分自身を誕生させた。

外側の男が外側の女と出会えば子供が生まれ、赤ん坊
が産み落とされる。内なる男が内なる女と出会うときにも
子供が生まれるが、あなたは親であると同時に子供にもなる
。あなたの内側に新しい生命いのち、覚者ブッダの生命、
<光明エンライトンメント>の生命、不死の生命が芽生える。
このときには静かな状態で待たなければならない。
内側でこの受胎が感じられたら、
内なる男性が内なる女性を貫き、女性が受胎したのを
感じたら、あとはもうただ待てばよいだけだ―
女性が九ヶ月間、大いなる喜び、大いなる祈り、
大いなる希望を抱いて待つように。

しなければならないことは何もない。
まったく何もする必要はない。
為すべきことは終わっている。

男性の役割は行為にある。
光を巡らせることが男性の役割だ。
ひとたび受胎が起こり、内なる女性が妊娠
したら、男性的な部分は働く必要がない。
それは休まなければならない。
あとはものごとが自然に成長してゆく。

瞑想が最初の部分であり、
あとは祈りだけが残されている。
「瞑想なくして祈りが何であるかを知る
ことはけっしてできない」と私が言うのはそのためだ
。祈りは瞑想がとるもっとも高次な形態だ。
祈りはかぐわしい香りのようであり、瞑想は花のようだ。
人は瞑想を通ってゆかなければならない。

人々は私になぜかと尋ねる。もしもその人の道が
祈りの道だとすれば、このアシュラムでは、彼らに
どうしてこんなにたくさんの瞑想を勧めるのかと。
祈りはやって来る、あなたは祈りがやって来る
ための道を準備しなければならない。

あなたはあらゆる種類の瞑想を体験しなければ
ならない―それは浄化のプロセスだ。
満足させる必要があるのはあなたの男性的な部分
であり、そうすれば女性的な部分が後を引き継ぎ、
あなたは妊娠するだろう。

そして妊娠するというのは祈りに満ちることだ
。なぜなら、もう何もすることがないからだ。
努力は終わり、今やあなたは無努力になっている。
道家の人が「無為の為」と呼んでいるのはこのことだ。

あなたは光を輪のように巡らせる実験を重ねて
きた。長いあいだ懸命に努力して成果をあげた。
あなたの内側で何かが結晶化している。
男と女はもう分離していない。

それらはひとつになっている―子供がそこにいる。
今や待つこと以外、何ひとつ必要とされない。
希望に満ちて待ち、信頼に満ちて待てばいい。
そしてこれこそが祈りだ。
根源的な変容の只なかにあっては、光の放射が決定的な働きをする。
受胎が起こったことをあなたはどうして気付くのか?
あなたは内なる輝きを見るようになる。
目を閉じるたびに、闇ではなく光の放射が見えてくる。
それを見るのはあなただけでなく、あなたを愛している人々
―彼らもまたあなたのまわりに霊光オーラを見るようになる。
根源的な変容の只なかにあっては、光の放射が決定的な働きをする。
女性が妊娠しているとどうしてわかるのだろう?
子供を宿している女性のまわりにある種の霊光オーラ
を見たことがないだろうか?彼女の目、彼女の顔、
彼女の実存そのものから、ある光が放たれている
のを見たことがないだろうか?

あなたが内側に神を孕はらんでいるとき、それと
まったく同じことが、もっと高い次元で起こる。
あなたは光の放射を見る。目を閉じるたびに、
内側にはただ光が満ちあふれている。

光源のない光がどこからともなくやってくる。
それはひじょうに涼しい光、月光のようなものだが
、このうえもない魔法のような魅力をおびている。

そしてあなたを愛している他の人たち、あなたと
ひじょうに親しい者たちもそれを感じはじめる。
聖人の肖像のまわりに霊光が描かれるのはそのためだ
。それは誰の目にも見えるものではない。
あなたがキリストを見たとしても、彼の霊光オーラ
は見えなかっただろう。だが、弟子たちには見えた。

彼を十字架にかけた者たちの目にその霊光が見えなかったこと
は確かだ。彼らは見ることができなかった。彼らは盲目であり
、閉じていた。弟子たちには、仏陀のまわりに霊光が見えた。

この秘密は愛する者たちだけに明かされる。これは
ひじょうに近しい者たちだけに明かされる秘密であり
、相手かまわずどこの誰にも明かされるわけではない。
この秘密はごく親しい者たち、近くへ近くへ近くへと
近つ゛いてくる者たち、心を開いた、
感じやすい者たちだけに明かされる。
(p150)

●空想でなく事実●1/1
根源的な変容の只なかにあっては、光の放射が決定的な働きをする。 それは物質界においては太陽であり、人間においては目である。
あなたのなかで内なる放射が輝きを増しはじめると、
目は輝きを帯び、酔っぱらったようにみえる。その目は
踊っている―霊妙な光、まったく異なる質が現れる。もはや
その目はただものを見るだけでなく、分かち合ってもいる。

タオを分割することはできないが、それを分かち合うこと
はできる。そしてタオの分かち合いは目を通してなされる。

サニヤスを授けるとき、私は、私の目を見るように求める
。私は奥深くで触れるために、あなたの目をのぞき込み、
この目であなたの目を深く掘り下げようとする。なぜなら
、あなたの両目の後ろには第三の目が隠されているからだ。

第三の目に触れられれば―あなたが開いていれば、それは
またたく間に起こり、時間はかからない。第三の目に触れ
られれば、弟子がやって来たのがわかるからだ。感触が
なければ、その人はいつの日にか弟子になるだろうと望み
をかけるだけだ。望みをかけて、私はサニヤスを与える。

だが、それはあくまでも望みだ。かなえられるかも
しれないし、かなえられないかもしれない―それは
千とひとつのことに左右される。だが、弟子となるべき
者に出会ったとき、その第三の目がただちに私に感応し
はじめたら、あなたはずっと探しに探し求めてきた場所
にたどり着いているということだ。そうなったら、もう
どこにも行く必要はない。もう師マスターも、教えも
いっさいいらない。あなたはわが家に帰り着いている。
このエネルギーは外界に向けられる(下に流れる)。
通常、目から放たれるエネルギーは外に向かって
流れている。外向と下降は同じ意味だ。
それゆえに黄金の華の道はひとえに逆流の技法にかかっている。
通常、エネルギーは外に向かい、下降している。
あなたはそれを逆転させ、内に向けなければならない
―そして"内向"と"上昇"は同じ意味だ。

ひとたびエネルギーがあなたにもどりはじめ、
あなたがエネルギーの輪になれば、驚くような
ことが起こる―新しい次元が扉を開き、あなたは
上昇しはじめる。あなたの生はもはや水平なもので
はなくなる。それは新しい道筋を取り、垂直になる。

神は垂直の道筋の上にある。この世界で神に出会うこと
はない―神がこの世界にいないわけではないが、垂直に
動いていないかぎり、神にであうことはない。盲人に光が
見えないように、水平に動いている者には神が見えない。

たくさんの人が私のもとに来て、
「神を見せてくだされば、私は信じます」と言う。
だが、どうして神を見せることができるだろう?

私はあなたがたを水平な生き方から垂直な生き方
へと転換させなければならない。サニヤスとは
まさにそのこと―垂直な在り方を指している。
ひとたび光が上昇しはじめたら、黄金の華が開く。

これらはシンボルだ。あなたの内側に花があるわけでは
ない。「華」とはたんに花開くこと、「黄金」とはたんに
そのまばゆい光、その輝かしい放射を表しているだけだ。
光が巡るのはたんなる空想ではない。
覚えておきなさい。光が巡るのはたんなる空想ではない
。最初のうちは空想のように見えるが―あなたはたゆまず
努力しなければならない―すぐにそれは実際に起こる。
それは事実だ。それはそもそものはじめから事実だった。
ただあなたがそれに一度も触れたことがなかったために、
最初は空想のように見えるだけだ。
(p153)
思考を集中させることで、人は飛翔することができる。 欲望を集中させることで、人は落ちる。
道家タオイストは下方へ、外へと向かうエネルギーを
「欲望」と名つ゛けている。道家は内側に向かうエネルギー
の象徴として「思考」という言葉を使っている。だから
誤解しないように。道家の言う「思考」は、いわゆる思考
のことではない。「思考」という言葉で彼らが言おうと
しているのは、欲望を浄化した思考エネルギーのことだ。

思考から欲望を浄化し、いっさいの欲望が消えてしまえば
、外に向かう必要はなくなる。なぜなら、あなたが外に
向かうのは、ひとえに何かを欲しがっているからだ。
家が欲しい、金が欲しい、力が欲しい、男が、女が、
あれやこれやが欲しい。そうなると、あなたは外に向かう。

欲望がなければ、思考は外に向かう必要がない。それ
は内側に向きを変えはじめる―百八十度の転換が起こる
。欲望のない思考は内側に向かって動く。欲望に満ちた
思考は外側に向かって動く。覚者ブッダたちが
口をそろえて無欲さを強調するのはそのためだ。
学人がみずからの思考に少しも注意を払わず、欲望に かまけるならば、下方へ向かう道に沈み込む。
弟子がみずからの思考に少しも注意を払わず、欲望に
かまけるならば、彼は世間に呑み込まれてしまう。
黙想と静けさによってのみ、真の直観が湧き起こってくる。 このために逆流の技法が必要となる。
思考から欲望の流れを落とさなければならない。
欲望の汚れを落とした思考は無思考になる。
欲望をもたない心は無心になる。パタンジャリが
「サマーディ」と呼び、禅の人々が「悟り」と呼び
、道家の人々が「結晶化」―外向と内向のバランス
―と呼んでいるのはそれだ。

そうすればエネルギーが失われることはない。鳥が朝
になると空に飛んでゆき、日が暮れると巣にもどって
くるように、それは世間に出てゆきもどってくる。

みずからのエネルギーをくり返しくり返し巣に
もどってこさせなさい。エネルギーを自分に帰らせず
に、出てゆくままにしておいてはいけない。そうすれば
あなたは貯水池になり、内側でとほうもなく力強くなる。

その力のなかではじめて直観が働きはじめる。
その力のなかで精神の火が生まれる。
その力のなかで真の光の極が現れる。
その力のなかでみるみる真珠の種子が育ってゆく。
それはあたかも男女が交わって受胎が行なわれるようなもの である。このときには静かな状態で待たなければならない。
瞑想が完成すると、祈りがはじまる。
瞑想を祈りへと成長させること―タオの仕事はそれにつきる。
(p154)





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