黄金の華の秘密

スワミ・アナンド・モンジュ訳 めるくまーる出版
 

第五話 解放の機縁

 より抜粋
呂祖師は言った。

解放の機縁は目のなかにある……人間の身体の華の種子は 上方のからっぽの空間に集中されねばならない。 不死はこのなかにあり、また世間の超克もこのなかにある。

光は肉体のなかだけにあるのではなく、 肉体の外だけにあるのでもない。 山河大地は太陽と月に照らされるが、それはすべてこの光である。 それゆえに光はたんに肉体のなかにだけあるのではない。 理解と明晰さ、知覚と光明、そして(精神の)すべての働きは この光に他ならない。それゆえに光はたんに肉体の外にだけ あるのではない。天地の光の華は数限りない空間を満たしている。 だが、個々の身体の光の華も天にみなぎり、地を覆っている。 それゆえに、光が巡ると、たちまちにして天地山河いっさい のものがそれと同時に循環する。

人間の身体の華の種子を上方の両目のあいだに集中させること、 それが人間の身体の大いなる鍵である。弟子たちよ注意せよ! 瞑想を一日怠れば、この光は流出してゆき、どこへ消えてゆく のか誰にもわからない。もし一刻でも瞑想するなら、一万の 劫こうも一千の生涯も取り除くことができる。あらゆる技法は 静けさのなかに帰す。この不可思議な力は計り知れない。

だが、実修をはじめるにあたり、人は浅いものから深いものへ、 粗雑なものから微細なものへと進んでゆかなければならない。 すべては間断なく持続するかどうかにかかっている。 実修は始めから終わりまで一貫していなければならない。 この間に、冷暖をおのずから知るのである。 だが、目指すべきは空の広大さと海の深遠さに到ることであり、 そうすればあらゆる技法をいともたやすく身につけることができる 。そこではじめてそれを体得したと言える。
いにしえの寓話によると、世界を創造していた神の
もとに四人の天使が近つ゛いてきて、こう質問した。
「どのようなやり方で創造なさっているのですか?」
と最初の天使が尋ねた。二番目の天使は
「なぜそんなことをなさっているのですか?」
と尋ねた。三番目の天使は
「仕事が終わったら、私にいただけますでしょうか?」
と尋ねた。四番目の天使は「お手伝いいたしましょうか?」
と言った。

最初の問いは科学者のものだ。
二番目の問いは哲学者のものであり、
三番目の問いは政治家のもの、
四番目の問いは宗教的な人物のものだ。

科学的な探求は、万物を偏りのない目で観察する。科学者は客観的
でなければならない。客観的であるために科学者は身を引いたまま
でいる。科学者は参加することができない。身を乗り出すと、
ただちに巻き込まれてしまうからだ。それゆえに科学者は生命や
<存在>の表層を知ることしかできない。内奥の中核は科学には
明かされずに残る。科学的な手法そのものが妨げになる。

哲学者は憶測するだけであり、けっして実験をしない。哲学者は
「なぜか?」と際限なく問い続ける。しかもその問いにどんな答え
が与えられても、再び「なぜか?」と問うことができる。哲学を
通してはいかなる結論に到る見込みもない。哲学は結論を下せない
ままでいる。それは不毛な行為であり、どこにも行き着くことがない。

政治家はひたすら世界を手に入れ、それをわがものにしたがる
。政治家ほど危険なものはない。なぜなら、彼は最も暴力的だ
からだ。政治家が生に示す関心は、生そのものに向けられ
ているのではなく、みずからが握る権力に向けられている。彼
は権力に飢え、権力に狂っている。彼は狂人であり、破壊的だ。

生きているものを所有したとたん
、あなたはそれを殺してしまう。
なぜなら、何かが財産になったとたん
、それは生命を失ってしまうからだ。

樹を所有すれば、その樹はもはや生きてはいない。
女や男を所有すれば、あなたは相手を殺してしまって
いる。何かを所有すれば、その結果は死でしかない。
というのも、所有できるのは死だけだからだ。

生は自由だ。
生は基本的に自由であり続ける。
生を所有することはできない。
生を銀行に預けることはできない。
生を線で囲い込むことはできない。

「これは私のものだ」などとは言えない。
そんなことを言うのは敬意を欠いている。
そんなことを言うのは自己中心的だ。
そんなことを言うのは狂っている。

生こそが私たちを所有している。
どうして私たちが生を所有しえるだろう?

私たちはもっともっと生の手中に落ちて
いかなければならない。構図ゲシュタルト
がそっくり変わらなければならない。
所有欲を抱くことから、人は全体に身を
ゆだねられるようにならなければいけない。
(p158)
政治家が生の真実を知るということはけっしてない。

宗教的な人は参加する。
彼は生とともに踊る。
彼は<存在>とともに歌う。
彼は生に手を貸す。

彼は<存在>に明け渡しており、身を
引いていないし、超然としてはいない。
彼は実際にはどんな質問もしない。
彼は知識を追い求めていない。
彼の努力はすべて、<存在>といかに
ひとつになりきるかに向けられている。
それゆえに東洋には究極の体験を表すのに
「サマーディsamadhi」という言葉がある。

それは二つの言葉からきている。まず sam ― 
sam は一緒になることを意味する。同じ sam という語根
が英語にも入って、sympathy(共感)symphony(交響曲)
という言葉のなかに見られる。少し変化して 
synthesis(統合)synchronicity(共時性)
という言葉のなかにもある。
sam は一緒になることを意味する。

adhi は主、神を意味する。「サマーディ」とは
神との合一、神とひとつになることを意味する。
そして宗教を表す英語の religion という言葉の
意味はまさにそれだ。それは<存在>とひとつに
なること、分断されることなく、分離したままでいずに
ひとつになることを意味している。この合一状態のなか
ではじめて、人は知り、気つ゛き、体験し、在るようになる。

宗教は大いなる実験でもある―実のところ、最大
の実験だ―が、違いがある。科学は客観的な事物を
対象に実験するが、宗教は主体そのものに働きかける。
宗教の関心は「私は誰か?」ということにつきる。

人は最初からはじめなければならない。
自分自身を知らないかぎり、私は他の
ことを何ひとつ知ることができない。
奥深くで無知のままであったなら、
私の知識はすべてがらくたにすぎない。
それは無知に基つ゛いている。
それは無知に根ざしている。

まず私の内側に光が生まれなければならない。
そうなれば、その光は広がってゆくことができる。
そうすれば、その光は<存在>のまさに果てまで到達する
ことができる―<存在>に果てがあるとしたらの話だが。
だが、まずそれは私の内側で生まれなければならない。
最初の炎は私の主体から発しなければならない。

私の中心が光で満たされて、そこではじめて
空疎な知識にすぎなかったことがすべて真に体験
される。自分自身を知らず、知 る 者 がそこにいない
のに、どうして他のものを知ることができるだろう?
あなた自身が深い闇のなかにいるなら、あなたが外に
つくりだした光はすべてまやかしであり、幻想だ。
(p159)

宗教的な探索クエストは、ありうるなかで
最も深遠な探索だ。この探索に関して理解
しておかなければならないことが二、三ある。

まず第一に、宗教は地を這うものであっては
ならない―それは踊るものでなければならない
、踊りを忘れたら宗教は死んでしまう。

世間に欠けているのはまさにそれだ―
踊りを忘れたがゆえに、宗教は死んでいる。
宗教は身を伏せて地を這いまわっており、
飛び方を忘れてしまっている。
宗教は教義ドグマと化してしまった。
教義は死であり、屍しかばねだ。

流れ、躍動し、飛び続けるためには、宗教は体験
として―理論としてではなく、神学としてではなく―
瞑想として存在しなければならない。
神についての哲学ではなく、
個的な神の体験として存在しなければならない。

そして、よくわきまえておきなさい―
神 に つ い て 知ることは
神 を 知ることではない。

神にまつわる知識をいくら蓄え続けても、けっして
神を知ることはない。間接的に知ることは、
その中核そのものを貫かずに堂々巡りを続けることだ。

宗教は地を這うものであってはならないのに、そうなって
しまっている。キリスト教、ヒンドゥー教、イスラム教―
それらはみな地を這いまわっている。
それらはみな護教的な立場をとっている。
それらはみな世界に科学が発達することを恐れている。

彼らは科学と闘ってきた。彼らは科学の発達を妨げる
ためにできることはすべて試みてきたが、失敗した。
今や彼らは科学の裏付けを得ようと必死になり、
やれることなら何でもやろうとしている。だが、彼ら
は自分たちが二義的なものになってしまったことを熟知
している。彼らは科学の裏付けなくしては存在しえない。
彼らは科学的な論証を支えとせずには存在しえない。

これは卑屈な振る舞いだ。宗教はもはやみずからの
基盤の上にみずからの足で立ってはいない。それは科学
の裏付けを必要としている。それは借り物の存在、借り物
の生命として生き長らえている。その時代は終わった。

なぜこのような事態が起こったのだろう?
宗教がひとたび教義ドグマと化し、もはや体験で
なくなってしまうと、それはひとりでに死に絶える。
そして死体は自分の足で立てず、支えを必要とする。
教会や寺院はすべて支えを借り、みずからの足で立っていない。

仏陀のような人がいるとき、
彼はみずからの足で立っている。
キリストのような人がいるとき、
彼はみずからの足で立っている。

そのときには宗教は踊り、歌を歌っている。
そのときには宗教は息つ゛き、花を咲かせ、
千とひとつの花が開き、かぐわしい香りが解き放たれる。

私はここで宗教を再び踊らせようとしている。
いかなる裏付けをも求める必要はない。なぜなら、
宗教そのものがこのうえもなく真正な体験だからだ
。裏付けを求めて科学に目をやるのは宗教ではない!

宗教が踊りだし、息吹に満ちるようになれば、
科学がその裏付けを必要とするようになるだろう。
なぜなら、科学そのものが基盤を失いつつあるからだ。
科学は日毎にますます醜悪なものになりつつある。
科学は日毎にますます生を否定するものになりつつある。
科学は日毎にますます政治的なものになりつつある。

科学が発見したものはすべて政治家たちの手に落ちている。
科学が発見したものはすべて死に奉仕し、もはや生に
奉仕するものではない。科学者の努力の
九十パーセントは戦争に捧げられている。
科学は面子メンツを失いつつある。

宗教が踊りはじめないかぎり、
もはや科学にすら未来は残されていない。科学はみずからを
支えるために宗教から放たれるエネルギーを必要としている。
宗教が息吹を取りもどすことができれば、科学は宗教の一部、
影になり、そこではじめて政治家とその狂気から自由になる
ことができる。さもなければ、それは不可能だろう。

人間は地球上の生命を絶滅させてしまう地点に
どんどん近つ゛きつつある。人間を救い、人類を救う
ことができるのは、宗教的なエネルギーの解放だけだ。
(p161)

私たちがここでやっているのはごく小さな実験に
見えるかもしれない。だが、そこに潜む力は無限だ。
人類の未来はひとえにこの一事にかかっている。
宗教が再び人間を導くことができるかどうか、
宗教が再び人間に根源的な影響を与えることができるかどうか、
宗教が再び人類の夢となることができるかどうかに。

そして、それはひじょうにむずかしい夢であること
を―不可能に近い夢であることを覚えておきなさい。
神とともにあるという夢、神のなかにあるという夢
は、実現しえない夢のようなものであって当然だ。

人間は勇気を失ってしまった。

今や人間の夢はちっぽけなものに、
ごく世俗的なものになってしまっている。
もはや人間が超越的なものを夢見ることはない。
そして、いいかね、超越的なものを夢見ることを止めて
しまったら、人は無意味な生を生きることになる。

意味というものは超越的なもの
に触れてはじめて生まれてくるものだ。
意味というのは人が大いなる全体の一部、
自分よりも高次なものの一部、自分よりも
大きなものの一部となってはじめて生まれるものだ。

人が自分自身を超えようとするとき、そこに宗教が生まれる
。そして私が「宗教のダンス」と呼んでいるものはそれだ
―自分自身を超越しようとすること。それができる動物は
他にいない。他の動物にはそれはできない。人間だけが
自分自身を超越する潜在能力と、その可能性を有している。
そして自分自身を超越した者が何人かいる。
彼岸に到達した者が何人かいる。

あなたがたに語っているとき、
私は彼岸から語りかけている。それゆえ、私は
それを借り物の知識から語っているのではない。
私は自分自身の体験から語っている。
私は不可能なことが可能になりうることを知っている。
私のなかで実現したのだから、それはあなたのなかでも
実現しうる。ひとたびあなたの内なる実存が光で満たされれば
、ひとたびあなたの内側に闇がないことを知れば、
あなたは宗教的になる。

不可能な夢を見なさい。

最初はほとんど馬鹿げているように見える
かも知れない。確かにそう見える。

だが、その夢が充分に強ければ、
あなたの現実リアリティは変容を遂げる。

聞いた話だが……

丘の中腹に三本の樹が生えていた。樹々はそよ風に
揺られ、自分たちがなりたいものを夢に見ていた。
「いつか切り倒されて、ゆりかごになりたいなあ」と最初の樹
が言った。「いつか切り倒されて、海を渡る大きな船になり、
宝物や宝石を運びたいなあ」と二番目の樹が言った。すると三番目
の樹が言った。「丘の上に立って、人々に天国を指し示したいなあ」

ある日のこと、樵きこりたちがやって来て、最初の樹を切り倒し
、「これで馬小屋をつくろう」と言った。樹は
「僕は馬小屋なんかになりたくない。ゆりかごになりたいんだ」
と言って泣き叫んだが、樵たちは馬小屋にしてしまった。
やがてイエスが生まれ、他に場所がなかったので、彼らは
赤ん坊をその馬小屋にそっと寝かせた。すると樹は言った。
「おやおや、僕が夢に見ていたものよりずっとすばらしいじゃないか」

樵たちは二番目の樹を見て「この樹で漁船をつくろう」と言った。
樹は「いやだ!漁船なんかになりたくない。僕は宝物や宝石を運ぶ
大きな船になりたいんだ」と言ったが、樵たちは漁船をつくり、それ
を島の湖に浮かべた。するとシモン・ペテロという名の漁師がその船
を買い、イエスがその船に乗って人々に説教した。すると樹は言った。
「おやおや、僕が夢に見ていたものよりずっとすばらしいじゃないか」

樵たちは三番目の樹を見て、「これで十字架をつくろう」と言った。
樹は「十字架なんかになりたくない。人がその上で死ぬなんて耐え
られない。僕は丘の上に立って人々に天国を指し示したいんだ」と
言った。だが樵たちはその樹で十字架をつくり、やがてイエスが
磔はりつけにされた。そして、いつの時代にも人々は
十字架に目を向けてきたが、それは神を指し示している。

樹でさえ、夢を見、それを実現
できるとしたら、人間は言うに及ばない。

人間はこの世で最もすばらしい潜在能力
をもっている。欠けているものがある
としたら、それは自分自身を超えたい
という大きな夢が欠けているということだ。

あなたは世俗的なもので満足してしまっている。
あなたは身を伏せて、大地を這いずりまわり
はじめている。あなたは上を見あげていない。

遥か彼方から呼びかけてくるものがある!
遥か彼方から挑みかけてくるものがある。
彼方からの挑戦を受け入れる者のみが人間だ。

そうでない者たちは「人間」と呼ばれていても
、人間の姿はしていても、真の人間ではない。

人間でありなさい!

未知なるもの、彼方なるものの挑戦を受け入れなさい
。それをあなたの実存の大いなる夢にするがいい。
(p164)

今見えているあなたは種子にすぎない。
種子は土中に落ち、死ななければならない。
そして樹となり、花を咲かせなければならない。

種子を割っても、そこには花は見つからない。科学が大切
なことをそっくり見逃しているのはそこだ―科学は種子を
割り続けてゆく。科学は言う。「この種子からみごとな花
が咲くだって?だったら種子を割って、分析して見てみよう」
そして、彼らは種子を割って分析する。彼らは種子を分析
する方法を手にしているが、花は見つからない。そこで彼ら
は花などないと言う。彼らはそのようにして神は存在しない
、彼方なるものは存在しない、生命は偶然の産物にすぎず、
天命などというものはない、という結論に到った。

一休禅師の有名な道歌がある。

桜木をくだきて見れば花もなし
花をば春の空ぞ持ち来る

春が来るのを待ちなさい。見たければ、
春が来るのを待ちなさい。
あなたはそこで人ではなく、
ひとりの仏陀を見いだすだろう。
人ではなくひとりのイエスを見いだすだろう。
人ではなくひとりのクリシュナを見いだすだろう。

そのときあなたが見いだすのは
花であり、種子はもうどこにもない。
種子は消え失せた。種子の役割は終わった。
それはこのうえもなく価値のあるものを守っていた。
それは青写真を運んでいた。もうそれは必要ではない。
土が見つかり、春がやって来て、
そして種子には死ぬ勇気があった。

人間の自我エゴは種子に他ならない。それは
あくまでも自分を守ろうとする。人々は私に尋ねる。
「自我エゴが神に対してこれほどの障壁となる
なら、そもそも自我はどうして存在するのですか?」
それはあなたを守るために存在している。ちょうど
固い殻が種子の潜在力を守るために存在しているように。

その潜在力はひじょうに柔らかい。まわりに固い殻が
なければ壊されてしまうかもしれない。固い殻は敵では
ない。固い殻が敵になるのは、春が来て、土壌が用意されて
いるのに、種子が死ぬことを拒むときだけだ。固い殻が
「さあ、春を敵にまわしても、おまえを守り続けるぞ。
この土から君を守ってやるぞ」と言えば、問題が生じてくる。

問題が生じるのはそこだ。自我エゴそのものが問題
なのではない。子供には自我がいる。さもなければ
子供はまったく無防備のままにさらされる。子供はこの
闘争の世界をどう生き延びてゆけばいいのかわからない。
子供はたび重なる危険から身を守る術を知らない。
子供はひじょうに柔らかく、もろい。
覚者ブッダになる前に死んでしまうだろう。
自我が彼を助ける。自我は一種の鎧よろいであり
、心マインドもそうだ―それは子供を守っている。

それはあなたの敵ではない。それが敵になる
のは次のような時だけだ。その瞬間がやってきて
、あなたには瞑想に入ってゆく用意ができている
のに、師マスターを見つけだし、技法を見つけだし
、用意ができているのに、心マインドは言う。

「いやだ、俺は死ねない。俺がおまえに注いできた
祝福のすべてを思い起こせ。俺がおまえに与えてきた
恩恵をすべて思い起こせ。俺がおまえにしてやった
ことをすべて思い起こすんだ!感謝してしかるべきだ
。俺を滅ぼそうとするんじゃない」

そうなったら問題が生じる。
そうなったら、守りであったものが破壊的になる。
そうなったら、あなたは自分自身の心と闘わなければ
ならない。自分自身の自我と闘わなければならない。
自分自身の鎧と闘わなければならない。
もはや鎧は必要ではないからだ。あなたは
内なる潜在力を解き放たなければならない
―春がやって来ている。

だから、春がやって来て、はじめてそれが問題になる
。さもなければ、それは問題にはならず、助けになる
。が、助けとなるものも障害になりかねない。
時が到れば、それは去らなければならない。

不可能な夢、自分自身を超えてゆく夢、
にゃはんニルヴァーナの夢、解脱モクシャ
の夢、神の王国の夢を見るがいい―
夢見ることで、はじめてあなたは
それに向かって働きかけ、進みはじめる。
その夢を抱くことで、はじめてあなたの足
に踊りの気配リズムが感じられるようになる。

夢がなければ、あなたは鈍感になってしまう。
人々がだらだらと生きているのはそのためだ。
どうして踊ることができるだろう?何のために?
毎日ただ会社に行って仕事をし、家に帰って妻と口論
したり、子供の不平に耳を傾けるためにかね?次の日に
はまた同じことがはじまり、それが年がら年中続いてゆく
。踊りたい気分にさせるものがあるだろうか?実のところ
、人が生き続けているのは、自殺してしまわない
のは奇蹟だ。彼は何のために生きているのだろう?

彼を待ちうけているものは何もない。
彼が見あげることのできるものは何もない。
夜空に星はなく、漆黒の闇が広がっている。
人が生き続けているのは、なんとか生き
ながらえているのは奇蹟だ。自殺する人々
のほうが、道理にかなっているように見える。
生き続けている人々は、まるで道理をわきまえて
いないように見える。惨めで、うんざりし、足
を引きずりながら、それでも生き続けている。

だが、そこには何かがある。
そこにはひとつのことが示されている。
それは、あなたの内奥の実存はどこかに
可能性があることを知っているということだ。
いつその潜在力、可能性に目を開くかもしれない。
いつその夢があなたをわしつ゛かみにするかもしれない。
そうなったら意味が生まれ、踊りが起こる。

「宗教は芸術アートだ」とウイリアム・ブレイクは
言った―「宗教は芸術であって、金ではない」と。
この言明にはひじょうに深遠な意味が含まれている。
そしてこんなことを言えるのは、ウイリアム・ブレイク
のような人だけだ。彼は神秘家の詩人だ。

芸術アートとは何か?「芸術とは、何かを為す道だ」
と彼は言う。絵画、詩、踊り、彫刻、音楽、陶芸、織物。
「芸術とは、何かを為す道だ」
彼は自分自身を創造することについては何も言っていない。
だが、宗教とはまさにそれだ。
それは絵画ではない。
それは詩ではない。
それは彫刻ではない。
それは音楽ではない。
だが、同一線上にある何か、彼方の何か
― 自分自身を創造することだ。

宗教もまた何かを為す道だ―
生きること、愛すること、見ること、在ること。
芸術アートとは"創作すること"に他ならない。
それは神の創造を助けることだ。
私が「お手伝いいたしましょうか?」と尋ねた
天使を「宗教的な人物」と呼ぶのはそのためだ。

創造主を知りたければ、あなたもいくらかは
自分の力で創造しなければならない。
詩は宗教そのものではないかもしれないが、
正しい方向を指し示している。
真に創造的な境地にあるなら、
詩人にも宗教のことが少しはわかる―
遥か彼方から音楽が聴こえてくる。
というのも、創造的な境地にあるとき、
人は自分自身でなくなるからだ。
彼は参加している―ごくわずかではあるが、
彼は神のもとに参じている。

神聖の一滴が彼のなかに入ってくる。優れた詩人たちが
「詩を書くとき、創造しているのは私たちではない。私たちは
乗っ取られる。ある未知のエネルギーが入ってきて、それが私
たちのなかで歌い、踊る。私たちはそれが何であるのか知らない」
と言うのはそのためだ。

我を忘れて絵を描くとき、画家は絵を描くことに
完全に没頭していて、彼の自我エゴは消えてしまう。
ほんの一瞬にすぎないかもしれないが、この
無我の瞬間に、神が彼を通して描いている。

あなたが神のもとに参じれば、
神もあなたのもとに参じてくる。

芸術は無意識な姿をした宗教だ。
宗教は意識された芸術だ。

芸術は夢のなかで宗教的であるようなもの
だが、それは正しい方向を指し示している。
芸術家は宗教的な人にもっとも近い。

だが、そのようには理解されていない。あなたがたは詩人を
宗教的だと見なしたり、画家を宗教的だと見なしたりしない。
むしろ逆に、誰かが断食して、肉体を痛めつけ、その実存を
醜いものにしたら、そういう人こそ宗教的だと見なすように
なる。彼はただ自分自身に暴力を振るっているだけだ。彼はただ
自滅的で、神経症を病んでいるだけなのに、宗教的だと見なされる。

神経症を病んでいる者が大聖マハトマになる。
彼らは聖者として敬われ、崇められる。彼らは少しも
宗教的ではない。いわゆる聖者と人殺しのあいだに大差
はない。人殺しは他人を殺し、いわゆる聖者は自分を殺す
。だが、どちらも同じことをやっている。
どちらも暴力的であり、どちらも破壊的だ。

そして破壊的になるときは必ず、人は神からもっとも
遠く離れている。なぜなら、神は創造性だからだ。
私にとっては、倫理を説く者ではなく、美を愛する
者こそが宗教性のもっとも近くに立っている。

レーニンは「倫理学が未来の美学になる」と言ったと
伝えられている。だが私は言う―それは違う、まったく
逆であり、美学こそが未来の倫理学になるだろう。
美が未来の真理になる。なぜなら、美は創造する
ことができるからだ。美を愛し、美を生き、美を創造
する美しい人は、努力せずとも道徳的だ。

彼の道徳は培われたものではない。彼を道徳的
にさせているのは美的感覚に他ならない。
彼が殺せないのは、生命を奪うこと
が美しいことだとは思えないからだ。
彼は美を基準にして判断する。
そして私は「宗教は芸術アートだ」
というウィリアム・ブレイクに同意する。

芸術アートとはものをつくることに他ならない。
創作には必ずある種の信頼が必要となる。
人がそこにないものを見て、見ることも
触ることも、聞くこともできなかったものに
時間と空間のなかでの形を与える。

絵であれ、詩であれ、庭園であれ、つくりだされた
作品は五感ではっきりとらえることができる。

だが、芸術と生み出された作品を混同してはならない。

これは心にとめておくべきすばらしい区別だ。それはあなた
が宗教を理解する上でこのうえもない助けになるだろう。

芸術は一枚の絵でもなければ、一体の彫刻でもない。
画商が売り買いするものは芸術作品ではあっても、
芸術そのものではない。芸術作品は一種の財産だ。

芸術と芸術作品が同じものではないように、宗教が
生み出す教義ドグマ、教説、『聖書』『コーラン』
『ギータ』、教会、寺院、大聖堂などといった事物
や作品と宗教そのものを混同してはならない。
それらはあくまで芸術作品だ。それを
「宗教的な芸術作品」と呼んでもいいが、
宗教とそれらを混同してはならない。

教会はあくまで教会だ。それは美しいかも
しれないが、それそのものが宗教ではない。
それは副産物であり、紡ぎだされたものだ。
『コーラン』は紡ぎだされた芸術品としては美しい詩だ。

モハメッドのこころハートに何かが起こった―それ
は宗教だったが、目に見えぬものとしてあり続ける。
何かが彼の魂のなかでかき立てられたので、
彼は歌い出し、狂ったように表現をはじめた。

彼がはじめて山の上で独りっきりになり、神の
臨在を感じはじめたとき、確かに彼が思った通り
のことが起こっていた。彼は驚愕し、恐怖に
駆られるあまり、自分は気が狂ってしまったか、
詩人になってしまったか、そのどちらかだと考えた。
彼は家に駆けもどった。彼は熱に浮かされ、がたがた
震えていた。突然、高熱に襲われたのだと考えた妻は
「どうなさったのですか?」と尋ねた。すると彼は言った。

「気が狂ったか、詩人になってしまったか、そのどちら
かだ。何かとてつもないことが起こっている。それが何
なのか、それがどこからやって来るのか、私にはわから
ない。私の身にはあり余るものが……私は自分の目が
信じられない。自分のこころが、自分が感じていること
が信じられない。それがあまりに美しく、すばらしく、
広大だから、しかととらえることができない」

それは宗教だった。

数日続いた熱も下がり、モハメッドはその
新しい状態に、法悦に、サマーディに落ち着いた。
そして何かが流れ出るようにして、美しい『コーラン』
が生まれた。だが『コーラン』は副産物だ。

『ギータ』もそうだし、『法華経ダンマパダ』もそうだ
。つねに覚えておきなさい。聖典のなかに宗教はないし、
ありえない。聖典はどれも宗教の副産物―時の浜辺に
残された影、足跡だ。だが、足跡は足跡にすぎない。

仏陀が浜辺を歩けば、言うまでもなく足跡
が残る。だが、この足跡は仏陀自身ではない
。この足跡は仏陀のものであるがゆえに美しい。
足跡に頭を垂れるがいい!

だが、それが副産物にすぎないことを忘れては
ならない。そして、足跡を崇めてばかりいないで、
あなたがひとりの覚者ブッダにならなければいけない。

芸術作品は一種の財産だ。それを売り買いできるのは
そのためだ。が、芸術そのものを売り買いすることは
できない。パブロ・ピカソに芸術を売ってくれと
頼んでも、それは不可能だ。あなたにはどんな大金
でも払う用意があるかもしれないが、彼は売ることが
できない。絵なら売れるが、彼の芸術を売ることは
できない。ものではないから売りようがない。
それはつねに不可視のままにとどまる。
目に見えるのはその結果だけだ。

神は目に見えないものであり、神は世界の
なかにあってはじめて目に見えるようになる。
あ な た は目に見えず、ただ肉体だけを
目にすることができる。

ブレイクが「宗教は金ではない」と言うのは
そのためだ。彼は正しい。彼は宗教は財産
ではないと言っている。宗教は財産のような
ものではなく、宗教は愛に似ている―それは
買うことも売ることもできないし、
銀行に預けることもできない。
それを所有することはできない。むしろ逆
に、あなたのほうがその手のなかに落ちてゆく。

芸術作品は所有することができる。それは財産だ。
それは死んでいる。『コーラン』や『ギータ』や『聖書』
を学ぶことはできるが、宗教を学ぶことはできない。

あなたはそれを生きなければならない―
それを学ぶすべはない。あなたは
神の手のなかに落ちてゆかねばならない。
あなたは神に身をゆだねなければならない。
あなたはみずからの実存を開かなければならない。

あなたは退かなければならない。
神が入ってきて、あなたのすみずみまで占めることが
できるよう、あなたはからっぽにならなければならない
。まさにそうして身をまかせることで、あなたは
人類を超越する。あなたはもはや人ではなく、ひとり
の神、ひとりのキリスト、ひとりの仏陀だ。
(p171)

これらの経文は人が青写真としてたずさえ、
種子の形で宿しているこの覚者ブッダの本質を、
あなたが解き放つよう助ける秘法を教えている
―その本質が開花し、大樹となって葉を繁らせ
、たくさんの花をつけるよう助ける秘法を。

さあ、経文だ―
呂祖師は言った。
解放の機縁は目のなかにある……
私があなたがたに語ってきたこの潜在能力、このブッダ
の本質、このキリスト意識、クリシュナ意識、あるいは
なんと呼んでもいいが、それは第三の目のなかにある。
二つの肉眼のちょうど真ん中に、からっぽの空間がある。
そして、そのからっぽの空間は、神としてのあなたが
潜んでいる種子だ。その第三の目が働きはじめないかぎり
、あなたの潜在能力は解き放たれない。
それゆえに―
呂祖師は言った。
解放の機縁は目のなかにある……
解放とはにゃはんニルヴァーナ、解脱モクシャ、
救済、自由を意味する。解放とは光明を得ることだ。
第三の目が働きはじめることができたら……それは
眠っていて、機能していない。あなたのエネルギー
はそこまで到達していない。その仕組みは完璧だが
、そこまでエネルギーが届いていない。

あなたのエネルギーは下降して性欲、欲望、怒り
に、世俗的なことがらに流れ込んでいる―あなた
のエネルギーは下方へ、外側へと流れている。
あなたには第三の目の中枢にまで届くだけの
エネルギーがない。あり余るほどのエネルギーを
もたないかぎり、それは第三の目には到達しない。

あなたはエネルギーの貯水池にならなければ
ならない。貯水池になり、エネルギーが浪費
されなければ、日毎にその水量は増してゆく。
やがてそれは第三の目に到達する。

そしてエネルギーが第三の目に触れたとたん
、間髪をいれず、ただちにそれは機能しはじめる
。そうなったら、あなたは生のヴィジョンを、
そのあるがままの姿を見る。第三の目を通して
はじめて、あなたは神、実在、あるがまま
のものを知ることができる。

肉目を通して、あなたはこの世界を知る。
そして目が二つあるために、世界は分割され、
二元的なものになっている。あなたの両目が
世界を分割させている。世界そのものはひとつ
だが、あなたの見方が世界を二つに分けてしまう。

それはプリズムを通過する光線に似ている。光線
はひとつだが、プリズムを通過するやいなや七つ
に分かれてしまう。それは分光して七色になる。
虹はそのようにしてつくられる。太陽光線が雲の
なかの水滴を通り抜けてゆく。この浮かぶ水滴が
プリズムの役割を果たす。その水滴を通った
太陽光線は、ただちに七色に分かれる。

あなたのエネルギーが両目を通して動くと、
世界全体が二分されてしまう。そうなると、
あなたは昼と夜を対立物として、性と死を
対立物として、愛と憎しみを対立物として、
物質と意識を対立物として見てしまう。

両目はあらゆるものを二元的にし、極性を
もたせる。そして、この両目のせいで、あなたは
<存在>がひとつであることを見ることができない。
二つの目がひとつにならないかぎり、あなたが
不可視のもの、宇宙的なものを知ることはけっしてない。

この書物、『黄金の華の秘密』は言う。外に向かう
エネルギーは二元的になるが、その流れを逆転させる
と、再びひとつになる―二元性を失い、不二になる。
エネルギーが両目からもどってくると、それは
本来の源へと落ちてゆきはじめる。

虹の七色を混ぜ合わせてひとつにすると、それ
は白色になり、ひとつの色になる。その技法は
同じだ。外に流れるエネルギーが両目を通り
抜けると、全存在は二つに分かれる。

逆転したエネルギーが両目を通過してひとつ
の目、眉間みけんの中央にある第三の目に流れ
込むと、突然すべてがひとつになる。これが
サマーディだ。あなたは神とひとつになっている。
解放の機縁は目のなかにある……人間の身体の華の種子は 上方のからっぽの空間に集中されねばならない。
今現在、その空間はからっぽだ。だが、ひとたびエネルギ
ーが内側に向かいはじめたら、それは光で満たされる。
不死はこのなかにあり、また世間の超克もこのなかにある。
あなたがみずからの実存のある一点に到達したとき
……イエスは「両目がひとつになるとき、あなたは
神の王国に入っている」と言っている。あなたは
不死なるものを知る。今やあなたは生と死は対立
し合うものではなく、鳥の二つの翼であることを
知っているからだ。

死は生を破壊するのではなく、生が新たに
よみがえるのを助けている。死は敵ではなく友人だ。
死はたんに生が古くなった衣装を変えるのを手伝う。
その衣装は使い古され、ぼろぼろになり、もう
着ることができなくなってしまっている。

死はあなたが家を替えるのを手伝うだけであり、あなた
を終わらせるわけではない。死はたんに新たな始まり、
新鮮なエネルギーをあなたに貸し与えるだけだ。

そうなったら光と闇は二つではない。
そうなったら対立物は消え失せ、互いに補い合うものになる。
そうなったら全存在が男性エネルギーと女性エネルギーの
あいだで交わされる踊りになる。

それは深い歓びオルガズムに満ちた踊りになる。
両者はひとつになり、出会い、互いのなかに溶け合って
いる。葛藤は消え失せる。そして、いかなる葛藤もなく
全存在を見るとき、そこには必ず大いなる歓びが
生まれてくる。そこに死というものはない。

人は死を外側からしか見ない。あなたは
他の誰かが死んでゆく姿は目にしても、
自分自身が死んでゆくのを見たことはない。
誰も自分自身が死ぬのを見た者はいない。

ソクラテスは毒を盛られたとき
、胸をときめかせていた。弟子たちが
涙を流して悲しんでいると、彼は言った。

「悲しんではいけない。
まもなく私は逝ってしまう。
そうしたら心ゆくまで悲しむがいい。
今は、私に起こっている
この大いなる実験を見るがいい。

私は死というものに
ひじょうに興味をそそられている
―私はほんとうに死ぬのかどうか。
この機会を逃してはならない。
私のまわりに坐って見守りなさい」

師マスターはみずからの生を通して教える
だけでなく、みずからの死を通しても教える
。師はあらゆる機会を使う―
弟子に教えるためにはみずからの死さえも使う。

彼が大きな声を出し、ひどく腹を立てながら
「涙を流したり、悲しむのはやめて、
近くに来るのだ!この機会を逃してはならない!」
と言ったので、弟子たちは目を向けた。
するとソクラテスは言った。

「待ちなさい、毒がまわってきつつある。さあ、
私の内側で何が起こっているか話してあげよう。
そうすれば、おまえたちも目に見えないものに
気つ゛くことができるだろう」さらに彼は続けた。
「膝から下は死んでしまった。だが、私自身は少し
も変わらず、前と同じように何も損なわれていない」

さらに彼は続けた。
「脚全体が死んでしまった。腰から下は何も感じない」
彼は弟子に足に触って、つねってみるように言ったが
、何も感じることができなかった。彼は言った。

「感覚がないのは、私の身体の半分が死んで
しまったということだ。だが、私は今まで通り
まったく損なわれていない。内なる感覚は、
半死半生といった感じではない。
私は今まで通り生きている!
身体の半分が死んでしまったが、
私の実存は影響を受けていない」

やがてゆっくりと手が死にはじめ
、呼吸が止まりはじめると、彼は
最後の言葉を語った。彼は言った。

「だんだん舌がまわらなくなってきた
ので、もうしゃべれない。だが、
最後に言っておきたいことがある。

身体のほとんど九割が死んでしまったが、
私は十全に生きている。これから察する
に、おそらく身体が死んでしまっても、
私は生きているだろう。

身体の九割が死んでしまっても、私は
今まで通り何も損なわれていないからだ。
だから最後の1割が死んでしまっても……。
おまえたちは私の内側で何が起こっているのか
見ることができないが、私は見ることができる」

ソクラテスは、ギリシャの他の哲学者のような
凡庸な哲学者ではない。彼の弟子のプラトンや
アリストテレスでさえ……アリストテレスは、
実のところ、弟子ではなく敵だ。彼はソクラテス
をまったく理解していない。彼が提唱したものは
完全にソクラテスに反している。

ソクラテスは神秘家だ。彼の哲学は探求
の方法にすぎない―それは実に鋭い探求だ。
彼は死でさえもはずさない。
彼は死のなかを探ってゆく。
最後の瞬間まで、彼はみずからの
探求の方法に忠実だった。
(p176)

死は外側からしか見ることができない。
あなたは他の人々が死んでゆくのを目にする。
だが、生きているというのは別のことだ。
生は内側から見ることができる。生きて
いれば苦痛や快楽を覚え、愛したり、
恐怖を抱いたりすることがある。生きて
いれば創造することができる―ないものを
考え出し、それに形を与えることができる。

創造的な人がもっぱら生の高次の姿を
知ってゆくのはそのためだ。なぜなら、
創造するとき、人はみずからのエネルギーを
最大限に発揮するからだ。創造するとき、
人は神の一部になっている。

どうして人がそれを為しうるのかは神秘だ。
どうして人が存在しうるのかは神秘だ。
結果にはすべて原因があるにちがいない。
私たちが「因果の法則」と呼んでいるのは
まさにそれだ―私たちはそう教えられてきた。
だが、私を今ここにあらしめている原因を
私は見つけることができない。

私は奇蹟に運ばれているのを自覚している。
私の理性は私によくつくしてくれるが、
私という存在ビーイングの神秘の前では色を失う。
理性そのものがこの神秘の道具なのだ。
理性が神秘を知りえないのはそのためだ。

あなたは内側を見なければならない。
生が何であるかを見るには、まず内側からそれを
感じ取らなければならない。そして生を感じ取る
ための最良の方法は創造的になることだ。
そうすれば最大限の力が発揮されるからだ。

通常、人々は最小限の生き方をしている。
人々がやり続けていることはみな最小限の力
で行なうことができる。それはただの習慣、
身についた日々の決まりきった仕事にすぎないからだ。
それらの仕事は意識から、身体の自動的に機能し
続けるロボットの部分に伝達されている。

言うなれば、車の運転の仕方を覚えてしまったようなものだ。
習いはじめは危ないので、あなたはひじょうに敏感で、すき
がない。何が起こるかわからないから、目が離せない。色々
なものに気を配り続けなければならない。ハンドル、道路、
クラッチ、ギア、アクセル、ブレーキなど、気を配らねば
ならないもの、目を離せないものがたくさんある。そして
行き交う車の流れ、傍らを通り過ぎてゆく人々、傍らを
通り過ぎてゆく車、だが、運転を覚えてしまうと、その
知識は身体のロボットの部分に伝達されてしまう。
そうなったら気を配る必要はない。友達と話したり、歌を
歌ったり、タバコを吸ったり、ラジオを聴いたりしてもいい。
身体が運転を続けてゆく。

まれな時を除けば、目を見張っている必要はない。事故
が起こりそうになると、あなたは一瞬のあいだ目覚める。
あまりに大きな危険が身に迫り、頭が真っ白になって
しまうので、ロボットの部分が対処できないからだ。そんな
ことは一度も起こったことがない、まったく新しいことだ。

普通の生活は機械的で型にはまったものに
なり、人は最小限の力で生きるようになる。
最大限に燃えあがることはけっしてない。
創造性を発揮することで人は燃えあがる。

これが私のサニヤシンに対するメッセージのひとつだ
―創造的でありなさい。
創造的であることが礼拝になるからだ。
創造的であることが祈りであり、
創造的であることが瞑想だ。
創造的であることは神の近くにあることだ。

カーバ(メッカにあるイスラム教の聖殿)へ
行く必要はない。神はカーバと同じようにここ
にもいるからだ。ヒマラヤに行く必要はない。
神はどこでも等しく手を差し延べているからだ。

だが、その手を取ることができるのは最大限に
生きている者たち、生命の炎がくすんでいない者たち
、すべてのエネルギーをそれに注いでいる者たちだけだ
。そしてそれは創造性を通してはじめて起こる。

だから私のサニヤシンの定義は、
感受性を失い、死んだように坐っている
古いタイプの聖者の定義とは異なっている。
サニヤシンの定義は創造的であることだ。
踊ったり、歌ったり、音楽や絵や彫刻を創作
したり、あるいは何でもやりたいことをやりなさい
。最も深い喜びとなるものを見つけだし、
それをやりなさい!

そして行為とは目に見えないもの
を見えるものにするということだ。
行為とは夢をこの世にもたらす
ということだ。夢を実現させなさい。

潜在能力を発揮させなさい。
それにまさる喜びはない。
未知なるものを知りうる世界へと
もたらすことができたとき、創作し、創造し、
夢を現実にすることができたとき、
神に手を貸したとき、
そのときはじめて真の至福が得られる。
何らかのやり方で、自分なりのやり方で
世界をもう少し美しくしたとき、
世界の喜びを増したとき、
そのときあなたはサニヤシンだ。

この道に、あなたの内なる生に気つ゛くこと
は、自分が不死であることを知る助けになる。
ひとたび潜在能力を完全に発揮
している自分の姿を知ったなら、
内なる松明たいまつが両側からめらめらと
燃えているときの自分の姿を知ったなら、
死など存在しないことがわかるだろう。

力が最大限に発揮されると、
第三の目が働きはじめる―
最大限に発揮されたときはじめて。

だから、だらだらとした生き方をしてはいけない。
生が重荷でもあるかのような、果たさねばならない
義務であるかのような生き方をしてはいけない。

生を踊りにしなさい。生を祝祭にしなさい。
(p179)
不死はこのなかにあり、また世間の超克もこのなかにある。
生の炎が第三の目に到達する
のをそのままにしておけたら
、死など存在しないことがわかる。
そしてふと気つ゛くと、もはや
あなたは世間に執着していない。

さあ、この違いを覚えておかなければならない。
古いサニヤス、昔のいわゆる宗教的な生き方は、
人々に世間との関係を絶つようにと教えてきた。
私は関係を絶つことは教えない。私はあなたの
生命エネルギーを最大限に発揮するよう教えている
。
ひとたびみずからの実存のなかにある真実のもの
を見れば、世間はもはや意味を失ってしまう。
高次のものが生まれれば、低次のものは意義を失う。
それを棄て去る必要はない。それはすでに落ちている。
どこにも逃げ出す必要はない。あなたは世間で生きる
ことができる。だが、あなたは世間を超越している。
そして、覚えておきなさい。
逃避するのと、超越するのはまったく違うことだ。

真のサニヤシンは、世間との関係を絶つのではなく
、それを超越しなければならない。
光は肉体のなかだけにあるのではなく、 肉体の外だけにあるのでもない。
ひとたび内なる光を見たら、あなたは
光は内側だけにあるのではなく、外側
にもあることに気つ゛くようになる。
光は、あ な た のなかだけに
封じられているものではない。いいかね、
暗闇は個的なものだが、光はあまねく存在している。
死は個的なものだが、生はあまねく存在している。
惨めさは個的なものだが、至福はあまねく存在している。

惨めさがあるためには、あ な た が存在して
いなければならない―孤立したあなたが存在して
いなければならない。

そして至福が訪れるためには、あなたは
全体の一部になり、全体と調和しなければならない。
光は肉体のなかだけにあるのではなく、肉体の外 だけにあるのでもない。山河大地は太陽と月に 照らされるが、それはすべてこの光である。
ひとたび内側に光を見たら、光が
至るところに―月のなかに、太陽のなか
に―あることに気つ゛くだろう……。
光はすべて同じだ―内なる光であろうが
、外側の光であろうが変わりはない。
それゆえに光はたんに肉体のなかにだけあるのではない。 理解と明晰さ、知覚と光明、そして(精神の)すべての働きは この光に他ならない。
あなたが月に見る光と、内側にある第三の目に
見る光は同じものだ。それが同じ光であること
に気つ゛けば、内界と外界の違いはもはや
なくなってしまう。内は外であり、外は内だ。

それゆえに、禅師は
「輪廻サンサーラこそがにゃはんニルヴァーナ」
―世間が、この世間そのものが悟りだ、と言う。
この身体がそのまま覚者ブッダであり、
この世がそのまま楽園である、と。

仏陀が光明を得たとき、
「不思議な、信じがたいようなことだが、
私が光明を得たとたんに、
全世界がともに光明を得た」
と言ったのはそのためだ。

何世紀にもわたり、仏教の
瞑想者たちはそれに瞑想してきた。
「仏陀は何を言おうとしているのだろう?
仏陀は何が言いたかったのだろう?
『私が光明を得たとたん、全世界が光明を得た』
とは?どうしてそんなことがありえるだろう?
まだ光明を得ていない人は無数にいるのだから。
仏陀は何を伝えようとしたのだろう?」
瞑想者自身、
「少なくともこの私は光明を得てはいないのだから
、全存在が光明を得ているはずがないではないか」
と考える。

仏陀にとっては全存在が光明を得ている。
彼は、内と外を分けているのが自我
エゴ―自我という薄いカーテン―
にすぎないことに気つ゛いたからだ。
そのカーテンが落ちてしまえば、
内なるものもなく、外なるものもない。

それゆえに、仏陀は「私は光明を得た」
と言うことができない。彼は
「生きとし生けるすべてのものが光明を得た」
と言う。あらゆる樹々、あらゆる川、あらゆる山々、
あらゆる人々、あらゆる動物たち、あらゆる星々
―いっさいのものが光明を得た。

もはや彼には分離した自己認識アイデンティティー
がないからだ。彼は、あなたは光明を得ている
と言おうとしているのではない。
彼はたんにこう言っているだけだ。

「『この私が光明を得た』とは言えない。
ただ『私は束縛されていた』と言うことしかできない。
ただ『私は無知だった』と言うことしかできない。
ただ『私は苦しんでいた』と言うことしかできない。
だが、今やその私がいないのだ」

<存在>は至福に満ちている。
<存在>は光に満ちている。
そして内なる光と外なる光は同じものだ―
内なるものもなければ、外なるものもない。
光が第三の目―ひとつの目、唯一の目に
入り込めば、あらゆる区別が消える。
区別という区別がみな消え失せる。
虹は再び白一色の光線になる。

つい先日、こういう質問があった。
「和尚、あなた自身は白を着ておられるのに、どうして
私たちにはオレンジ色の衣服を着ろとおっしゃるのですか?」

それはただの象徴であり、あなたがたは複数の色が消えて
、何の区別もない白い光線だけが残る地点に到達
しなければならないということを示しているにすぎない。
(p182)

理解と明晰さ、知覚と光明、そして(精神の)すべての働きは この光に他ならない。それゆえに光はたんに肉体の外にだけ あるのではない。
光は外界にだけあるのではない
し、内界にだけあるのでもない。
光は至るところにある―内側
にもあれば、外側にもある。
それは同じ光―草木や花の上で輝き、
蓮の花の上で踊っているのと同じ光だ。

そして、いいかね、師は「知識」
ではなく「理解」だと言っている。
師は「答え」ではなく
「明晰さ」だと言っている。

人がひじょうに明晰に
なると、問いは消えてしまう。
何かの答えを得る
というのではない。
あまりに明晰なので、
もはやそこに混乱がなく
なるというだけのことだ。
答えがあるのではなく、問い
そのものがなくなるということだ。
それが「知識」ではなく「理解」
と呼ばれるのはそのためだ。

つい先日、アニルッダも尋ねていた。
「私たちの知識とあなたの知識の違いはどこにある
のですか?違いがあるように思えるのですが」と。

違いは知識にあるのではない。
彼は私のほうがよりたくさんのことを
知っていると考えていたにちがいない。
実情はまったくその逆だ。
私はあなたがたほどものを知らない。
実のところ、あなたがたは知って
いるが、私には知識がない。

私はたんに明晰なだけだ―それは
明晰さ、理解力であって、知識ではない。
私より、ものをよく知っている者は
ここにも大勢いる。そしてそれが彼ら
のつまつ゛きになっている。彼らはその
知識を落とさなければならない。

私は何も知らない。明晰さがあるだけだ。

あなたが私に質問をしても、私はそれに
対する答えをもっているわけではない。
明晰さの焦点をその問いに合わせ、理解
しようとするだけだ。そしてその明晰さ
から生まれてくる感応が何であれ、
私はそれをあなたに与える。

それは知識ではなく、見抜く力にすぎない。

知識は人々を盲目にする。
彼らの目は知識で一杯になりすぎて
、観ることができない。
あなたが質問をする前から、
彼らは既成の答えをもっている。

彼らはいつでも答える用意がある。
彼らはあなたの質問など聞いていない。
彼らは質問者に耳を傾けていない。
彼らは質問者の実存になど耳を傾けない。
彼らは質問者のなかをのぞき込み、相手が何
を言おうとしているのかを見ようとはしない。
彼らは既成の答えをもっている。
彼らは鸚鵡オウム返しに答えを返し、そして
論拠となるものや経典を用いてその答えの正しさ
を証明しなければならない。そしてあらゆる
種類の裏付けを差し出さなければならない。

私はただ一種の理解力、洞察力、
見抜く力をもっているにすぎない。
それゆえに、呂祖師は言う―
理解と明晰さ、知覚と光明……と。
それは知識でない。

それは雲ひとつない内なる大空だ。
(p183)

天地の光の華は数限りない空間を満たしている。 だが、個々の身体の光の華も天にみなぎり、地を覆っている。
それは光の華、この森羅万象のすべてだ。
これは神秘家の体験だ。森羅万象をつくり
あげているのは光以外の何ものでもない。
それはすべて光だ。
光は森羅万象を構成する基本的な要素だ。

そして現代物理学はそれに同意する。かれらは
それを「電気」と呼んでいる。光は彼らにとって
はあまりに詩的すぎる。彼らはそれを大地に引き
降ろさなければならない。それは電気になる。だが
、彼らが語っているのはまったく同じものだ。

物質は現代物理学から姿を消した。物質はもはや存在しない。
物質のもっとも深い中核にあるのは、電気、電子、電気を
帯びて舞っている粒子、質量をもたない踊るエネルギーの
粒子に他ならない。これは何世紀にもわたり、神秘家たちが
例外なく体験してきたことだ。その神秘家の生まれた国が
インドであろうが、中国であろうが、チベットであろうが
違いはない。これはすべての神秘家が共有するもっとも
基本的な体験だった。森羅万象をつくりあげているのは
光以外の何ものでもない。

『黄金の華の秘密』は言う―この光、この光の華、この
光の花弁が内と外のあらゆる空間を満たしている、と。
それゆえに、光が巡ると、たちまちにして天地山河 いっさいのものがそれと同時に循環する。
仏陀が言っていたのと同じことが違う言葉で語られている。
自分の内側で光が巡っているのを見るやいなや、あたり一面
に光が輝きだすのを見ることができるようになる。
まわる星々、山や川―すべては光の流れ、光のエネルギー
のとほうもない踊りに他ならない。
(p184)
人間の身体の華の種子を上方の両目のあいだに集中させること、 それが人間の身体の大いなる鍵である。弟子たちよ注意せよ! 瞑想を一日怠れば、この光は流出してゆき、どこへ消えてゆく のか誰にもわからない。もし一刻でも瞑想するなら、一万の劫 こうも一千の生涯も取り除くことができる。あらゆる技法は 静けさのなかに帰す。この不可思議な力は計り知れない。
呂祖師は言う―二十四時間の内、たった十五分でいい
、と。十五分間静かに坐り、第三の目に集中すること
ができたら、あなたの未来全体を変えるにはそれで足りる
。再び肉体に生まれ変わってくる必要はなくなる。
再びこの世に投げ返される必要はなくなる。

あなたは学ぶべきものを学び終えた。
肉体や肉体の限界をもたずに活動するに
ふさわしい存在になった。あなたの魂は
、いっさいの束縛やしがらみを離れて自由
になる。そうなったら、死も誕生も存在しなくなる。
あなたはこの限りなき<存在>における永遠の華になる。

たった十五分で?そう、たった
十五分で奇蹟を起こすことができる。
だが、人々にはたった十五分ですら
沈黙し、静かにしている用意がない。

聞いた話だが……

イグナチウス・ロヨラは、彼に敵意を抱いている男が法王
に選ばれたという知らせを受けた。ロヨラが生涯をささげて
きたイエズス会の解散を、この新しい教会の首長に
命じられたらどうするかと尋ねられたとき、彼は答えた。
「十五分の祈りさえあれば、何も変わりはしない」

この答えにはこのうえもなく深い意義がある。

彼に敵意を抱いている法王が権力の座につけば、
ロヨラの仕事全体がつぶされてしまう恐れが高かった。
彼は小さな神秘家の共同体をつくっていた。
その働きは秘教的なものだった。

キリスト教は、つねに秘教的な働きに
反対し続け、つねに神秘家を恐れてきた。
なぜなら、神秘家たちは危険だからだ。
彼らはこの世に真理をもたらす。

そしてひとたび彼らがこの世に真理をもたらしたら、
人々はもはや儀式、無力な儀式には興味をもたなくなる。
そうなったら、誰が教会のことを気にかけるだろう?

それゆえにキリスト教は、教会から誰も離れられないように、
神に通じる別の扉が誰の手にも入らないように、誰もが聖職者
のもとへ行かざるをえないように、あらゆる神秘家たちの集団
を執拗に破壊し続けてきた。たとえ神を探求したいという願望
が生まれても、どこにも選択の余地は残されていない。

この馬鹿げた観念のせいで、キリスト教は世界中の宗教を
破壊してきた。というのも、世の中にはさまざまな人々
がいて、それぞれ自分に合ったタイプの集団を必要とし
、自分に合ったタイプの手法を必要としているからだ。

そして、本当に誠実な探求者たちは
秘教グループを見つけださざるをえない。
彼らは形式的な宗教の一部になることが
できない―物足りないからだ。それは
なまぬるく、きわめて表面的だ。

西洋では、教会のせいで真の宗教は地下に
もぐらなければならなかった。人々は真実の姿
を隠すために様々な偽装をこらさねばならない。
錬金術というのはその偽装のひとつだった。
本当にやろうとしていたのは別のことだった。

錬金術師は、卑金属を黄金に変える仕事をしている
のだという印象をまわりにかもしだそうと努めた。
それなら許されるからだ。教会は大いに満足していた。
卑金属を黄金に変えようとしているのなら、まったく問題
はない。やりたければそれをやればいい。成功すれば、
教会の黄金が増えるだけのことだ。恐れることは何もない。
だが、それは偽装にすぎなかった。それは真の錬金術では
なかった。それは見せかけにすぎなかった。

カーテンの裏で行なわれる
真の作業ワークはまったく別のものだった。
それは低次の実存を高次の実存に変容させることだった。
それこそまさに性欲、すなわち卑金属をいかにして
霊性、すなわち黄金へと変容させるかという
"黄金の華"の秘法に他ならなかった。

だが、不必要な手間をかけねばならなかった。彼らは黄金
を扱う仕事をしているのだと世間が納得するように見せかける
工夫をしなければならなかった。そして、誰もが黄金に興味を
もっている。教会は、神ではなく黄金に強い興味を寄せている。

ロヨラは言った。
「十五分の祈りさえあれば
、何も心配することはない。
十五分もあれば私は瞑想に深く
入ってゆける。それだけでいい。
そこにいるかぎり、何も問題はない、
まったく何の問題もないからだ」

呂祖師は言う十五分間だけで……
一万の劫こうも一千の生涯も取り除くことができる。 あらゆる技法は静けさのなかに帰す。
それを覚えておきなさい。どんな技法を選んでも、
ゴールは同じだ―静けさ、内なる完全な沈黙、無思考、
いかなる中身もない純粋な意識。


この不可思議な力は計り知れない。
その深さは計り知れない。
思考が消え、あなたが完全に沈黙する
と、その静寂は底知れぬ深淵となり、
測ることができない。

太平洋の深さは測ることができる―八千メートルの深さがある。
だが、あなたの内なる太平洋の深さは測ることができない
―それは底知れない。どこまでも掘り進み、どこまで
深く潜っていっても、その深さを測ることは
できない。その底にはけっして達しない。

測ることができるのは思考だけであり、
無念無想の状態を測ることはできない。
それゆえに、無念無想の状態は神の別名だ。

だが、いいかね。思考のない状態は一種の眠り
であってはならない。なぜなら、それはごく
ありふれたものだからだ。それは毎日起こって
いる。深い眠りのなかで、夢が消えたとき、
あなたはその深淵のなかへと落ちてゆく。

ぐっすり眠ると若返ったように、さわやかになる
のはそのためだ。朝になると再び活力がみなぎり、
あなたは新しく生まれ変わっている。
だが、それは無意識に起こることだ。

パタンジャリは、深い眠りとサマーディは
ひじょうによく似ているが、ひとつだけ違い
があると言っている。眠っている時には人は
無意識だが、サマーディの状態では意識している。

だが、あなたは同じ空間―内側にある、
同じ測ることのできない不可思議な空間に
おもむいている。そこには思考もなく、欲望
もなく、想念の波動もなく、まったく静かだ。

あらゆる技法はそこに到る。

ヨーガ、タントラ、タオ、ハシディズム、スーフィズム
―あらゆる技法は異なる角度からそこにたどり着く。それら
はさまざまなタイプの人々のために編み出されたものだ。
(p188)


だが、実修をはじめるにあたり、人は浅いものから深いものへ、 粗雑なものから微細なものへと進んでゆかなければならない。
最初は大いなる努力が必要とされる。
人は浅いものから深いものへと進んでゆくしかない。

浅いものとは何だろう?浅いものとは
絶え間のない思考のプロセスだ。
深いものとは何だろう?
思考のない状態のことだ。
粗雑なものとは何だろう?
心の中身はみな粗雑だ。
微細なものとは何だろう?
中身のない状態は微細だ。

人は進みつつ゛けなければならない。
最初のうちは大いなる努力が必要とされる。
最初のうちは行法ワークに完全に身を投じ
なければならない。そうしてはじめて瞑想は
無努力になり、至福の瞬間が生まれてくる。

まず瞑想は男性的エネルギーでなければならない。
それが尽きてはじめて女性的エネルギーになる
ことができる。私がまず最初に激しい動きを
ともなう技法を強調するのはそのためだ。

全力をふりしぼり、最大限の努力をするがいい。
しりごみせずに、もてるすべてを賭けるのだ。
そうすれば、やがていつか努力せずに
くつろぐことができるようになる。

目を閉じるだけで第三の目に到達する
ことができるようになる。
だが、実修をはじめるにあたり、人は浅いものから深いものへ、 粗雑なものから微細なものへと進んでゆかなければならない。 すべては間断なく持続するかどうかにかかっている。
それを規則正しく行ないなさい。
実修は始めから終わりまで一貫していなければならない。 この間に、冷暖をおのずから知るのである。だが、目指すべきは 空の広大さと海の深遠さに到ることであり、そうすればあらゆる 技法をいともたやすく身につけることができる。 そこではじめてそれを体得したと言える。
努力が不要になり、いっさいの努力が落ちた
とき、あなたはそれを真に体得している。
技法が不要になり、いっさいの技法が落ちた
とき、あなたはそれを真に体得している。

瞑想がもはやすることではなくなり、
みずからの境地になったとき、
あなたはそれを真に体得している。

あなたはそのなかに生き、
歩くときも、坐るときも、
そのなかにある―
「坐ることも禅であり、歩くことも禅だ」
食べるときも、眠るときも、あなたは
瞑想の内にあり、それになりきっている。

いずれはそのときが来る。
だが最初は全身全霊で
取り組まなければならない。
いいかね、水が百度の熱で蒸発する
ように―九九度や九九・九度ではなく百度で
蒸発するように、あなたがもてるすべての力を
振り絞って百度に達したときには、ただちに
卑金属が黄金に変わる。

性エネルギーは、ただちに霊的世界にまで到達する。
流出していたエネルギーはただちに百八十度の転換
を遂げ、二つの目はひとつになる。そうなったら
内界と外界はくまなく光明で満たされる。

イエスは言った。
「木を切りなさい、そうすれば私がみつかるだろう。
石を打ちなさい、そうすればそこに私がいる」
これは究極の境地だ。

木を切ると神を見いだし、
石を打つと神を見いだす。
あなたは神として、神のなか
、神の上を歩いている。
あなたは神を呼吸し、
神を食べ、神を飲んでいる。
なぜなら、すべてが神だからだ。

この究極の体験こそ、呂祖師の言う開放だ。
そしてそれは第三の目のなかにある。
(p190)




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