黄金の華の秘密

スワミ・アナンド・モンジュ訳 めるくまーる出版
 

第九話 大地が明るい春を迎える 

より抜粋
呂祖師は言った。
汝らの修行は次第に集中し、成熟してゆくだろう。 だが、断崖に立つ枯れ木のように打坐する境地に到るまでには、 まだ多くの錯誤を犯す可能性がある。 これに関しては特に注意を促しておかねばならない。 このような境地は、身をもって体験することで はじめて認識できるものである。 まず錯誤について語り、それから確認の しるしとなる体験について話すことにしよう。

修行をはじめるときは、何よりもまずゆったりと くつろいだ気持ちでのぞむように配慮しなければならない。 あまり多くのことを求めてはならない。 気の動きとこころハートの動きがおのずから 調和するように配慮しなければならない。 そうしてはじめて静かな境地に入ってゆける。 この静かな境地に入っているときには、 正しい状況と正しい空間をつくらなければならない。 世事の只なかで坐ってはいけない。 すなわち精神は虚しい熱中から自由でなければならない。 世間のしがらみをすべて脇によけ、 泰然自若としていなければならない。 また正しい手順にこだわり過ぎてもいけない。 あれこれ工夫をしすぎるとこの危険が生じる。 私は工夫をしてはならないと言っているのではない。 正しい道は有と無のあいだに等しい距離を保つことにある。 目的を通して無目的を達成することができるなら、 要点を体得したことになる。 みずからを方下し、超然と乱れず、泰然自若としていればいいのである。

また人は誘惑に満ちた世界の餌食になってはいけない。 誘惑に満ちた世界とは、五つの暗い悪魔が遊び戯れる場所だ。 不動の境地と言うと、人はよく枯れ木や冷たい灰を思い浮かべるが、 大地が明るい春を迎えている姿を思い浮かべることはめったにない。 そのようにして人は暗黒の世界に沈んでゆくのである。 そこではエネルギーは冷え、息は荒くなり、寒さと衰亡のイメージが 頻繁に現れてくる。

そういう状態に長くとどまっていると、植物や石の世界に入ってゆく。

また人は数知れない誘惑に惑わされてはならない。 これが起こるのは、静かな境地がはじまった後、 突然あらゆる妄想のつながりが続々と現れてくるときである。 それを打ち破ろうとしても、どうにもならない。 その妄想を追うと、気分が軽くなったような感じがする。 これは主人が召使になってしまったことを意味する。 もしこのような状態に長くとどまっていると、 幻想に満ちた欲望の世界に入ってしまう。

最善の場合には、天国に生まれ、最悪の場合には、野狐の世界に生まれる。 確かに、こういった野狐の霊は有名な山に住み、風や月、花や果実を楽しみ、 珊瑚のような樹や宝石のような草を楽しんでいるが、果報が尽きれば、 再び混乱の世界に生まれ変わるのである。

あるとき、暗い森の奥深くにわけ入った狩人たちが小屋を見つけた。小屋
のなかでは隠者が木の十字架の前で祈っていた。彼の顔は喜びで輝いていた。
「こんにちわ、兄弟ブラザー。どうか素晴らしい午後になりますように。あなた
はとても幸せそうですね」「私はいつも幸せです」「あなたはこの人里離れた小屋
で苦行をしながら幸せに暮らしていらっしゃる。私たちは何もかも手にしているのに、
幸せじゃありません。どこで幸せを見つけたのですか?」「私はこの洞窟で見つけた
のです。あの穴をのぞいてごらんなさい。そうすれば私がなぜ幸せなのか少しは
わかるかもしれません」―そう言って彼は小さな窓を見せた。「かつぎましたね。
私たちには樹の枝しか見えませんよ」「もう一度見てごらん」「見えるのは樹の枝
と、それから、青空がほんの少し」「幸せの秘訣はそれですよ」と隠者は言った。
「天国がほんの少し……」

至福は人間に内在している本性だ。
それを獲得する必要はない。それは再発見すればいいだけだ。
私たちはすでにそれをもっている。私たちはそれだ。

それをどこか他の場所に探し求めたら、確実に取り逃がすことになる。
探すのをやめ、内側を見るがいい。そこではあなたの人生で最大の驚き
が待ち受けている。何世紀にも、何生にもわたって探し求めてきた
いっさいのものが、すでにそこにある。

乞食になる必要はない。
あなたは生まれながらの帝王だ。

だが、神の王国はあなたの内側にあるのに、
あなたの目は外を探しつつ゛けている。あなたが
取り逃がしつつ゛けているのはそのためだ。
それは目の前ではなく、目の後にある。

神の王国は対象ではない。それはあなたの主観だ。
それは探求者の本性そのものだから、探す必要はない。
それがわかれば、昼なお暗い森の洞窟に独りぼっちで暮らしていても、
人は幸せになることができる。さもなければ宮殿でさえ惨めさを引き起こすだけだ。

世界にはあらゆる種類の惨めさがある。
貧しい者には貧しい者の惨めさがあり、金持ちには金持ちの惨めさがある。
だが、惨めさに関するかぎり、違いはない。ときには金持ちの苦しみのほうが
大きいことがある。金持ちには余裕があるからだ。金持ちのほうが多くの可能性
、選択肢を手にしている。貧しい者は惨めさをいくつも買うことはできないが、
金持ちは買うことができる。だから、最も裕福な人々がこの世で最大の惨めさを
味わっている。この意味では、最も裕福な人々が最も貧しい人々になる。

実際、金持ちになったとき、人ははじめて人生の貧しさを感じ取る。
貧しいときには、いつか裕福になって、楽しみ祝えばいいと希望を託す
ことができる。だが、外側の豊かさを達成したら、不意に希望が消え失せ、
深い失望がそこに腰を据える。あなたは絶望に取り囲まれている。

今や希望もなく、未来もない。もはや最後の希望もついえてしまった。
あなたは「いつか金持ちになるぞ。そうすれば何もかもうまくゆく」
と考えながら生きてきた。ところが金持ちになっても、何ひとつ変わらない。

内面の惨めさは依然としてつつ゛いている。

実際、外側の豊かさゆえに、外側の豊かさとの対比ゆえに、
内なる貧しさをより鮮明に、より正確に、より鋭く見ることができる。
外側の豊かさは内なる貧しさを感じるための下地を提供するだけだ。

ものをもつことで、あなたは内なる空虚さに気つ゛く。

それゆえに、富める国が宗教的になるのは不思議なことではない。
仏陀やマハーヴィーラの時代のインドは富にあふれていたので、
宗教的だった。インドは裕福だった。その裕福さゆえに
インドの人々は内なる貧しさに気つ゛いていた。

そして内なる貧しさに気つ゛くとき、人は内界を探求しはじめる。
物質では内なる渇望を充たせないことに気つ゛くとき、物質は
どこまでもものであり、内側には取り込めないことに気つ゛く
とき、それが揺るぎない確信となったとき、人は新たな探求、
新たな冒険に乗り出す。その冒険が宗教だ。

今日のインドは宗教的ではありえない。インドは世界で最も貧しい国のひとつだ
―そのインドがどうして宗教的でありえよう?宗教的たりえるだけの余裕がない。

宗教は最も高い次元の贅沢、究極の贅沢だ。
それは究極の音楽、究極の詩、究極の踊りだ。
それは<存在>そのものに完全に酔いしれることだ。

腹を減らし、飢えていては、それを探求することはできない。
空腹なときに必要なのはパンであって、瞑想ではない。
病気のときに必要なのは薬であって、瞑想ではない。

健康な人だけが、瞑想でなければ充たせない何かが欠けていることを自覚できる。

人々は私に、ここで講和に参列しているインド人が少ないのはなぜかと尋ねる。
それは不思議なことではない。彼らは瞑想に関心がないのだ。彼らはもの
に興味をもっている。彼らはすっかりものに取り憑かれている。

もちろん霊性について語りはするが、それはたんなる口先であり、過去の遺物にすぎ
ない。彼らはそういったことを得々として語る―少なくとも自分たちは霊性をそなえて
いると。ものは足りないけれど、霊性なら自慢することができるというわけだ。

だが、私にとって精神主義は物質主義よりも高次の段階にある。
物質主義は踏み石の役目を果たす。富める国だけが精神の貧しさを感じる
ようになる。そして精神の貧しさを感じるようになったら、可能性は二つしかない。
自殺をするか、内なる変容を通り抜けるか、そのどちらかだ。

瞑想は内なる変容の技法だ。自殺と瞑想が残された唯一の
選択となれば―生全体が無意味だから自分自身を壊してしまう
か、存在の新しい次元へと自分自身を変容させるか―
人は自殺か瞑想のどちらかを選ばなければならない。

世界の富める国々は自殺を選ぶか、瞑想を選ぶかというこのジレンマをいつも抱えて
いる。富める国々のほうが貧しい国々よりも自殺や狂気の悩みを多く抱えている。

貧乏人は自殺のことなど考えているひまがない。生きることで精いっぱいだ。貧乏人
は自分のエネルギーを変容させることなど考えているひまがない。彼の頭は子供たち
を養い、雨露をしのぐにはどうすればいいかでいっぱいだ。彼は肉体より高次なもの、
肉体より深いものにはいっさい興味がない―それも無理のないことだ。

私はそれを非難しているのではない。それはまったく自然なことだ。
そうあってしかるべきだ。世界の貧しい国々がどんどん共産主義に傾いてゆき、
世界の資本主義国がどんどん精神主義に傾いてゆくのはそのためだ。

マルクスの予言は外れた。マルクスは富める国々が共産化するだろうと
言っていたが、それはたわごとであることが判明した。貧しい国々だけが
共産主義になった。ロシアは最も貧困に悩む国のひとつだった。中国もそうだし、
インドもそうだ。インドはいつなんどき共産主義の餌食になるかわからない。
それは途上にあって、待ち構えている。

アメリカは共産主義にならなかった。マルクスは富める国々が共産化するだろう
と予言した。私はこう予言する。富める国々は必ず宗教的になり、貧しい国々は
共産主義になる、と。そして、共産主義を通してひとたび国が豊かになると、
その国は宗教を探し求めるようになる。それが今ロシアの魂の深部で起こって
いることだ。今やロシアは、再び神や瞑想や祈りについて考えることができる
地点にやって来ている。あなたは驚くかもしれないが、ロシアの人々は密かに
集まって祈っている。祈りは政府から固く禁じられているからだ。
宗教的であることは、犯罪とみなされている。

この国では、寺院はあるが、訪れる者はいない。教会はあるが、せめて日曜日には
教会に通うよう、なんとか人々を説き伏せなければならない。人々を寺院や教会や
モスクやグルドワラに行かせるには、うまく丸めこまなければならない。人々が
密かに地下室に集まり、音が漏れないように黙って祈りを捧げている国を想像できる
かね?ロシアの魂の奥深くで、再び宗教が浮上しつつある。それは浮上してきて
しかるべきだ。今やロシアは高い次元のものごとについて考えられるほど豊かに
なっている。

私の生のヴィジョンでは、物質主義と精神主義は矛盾するものではない。
物質主義は宗教のための道を整える。私が完全に物質主義者であるとともに、
完全に精神主義者でもあるのはそのためだ。これは、私があなたがたに説いて
いる最も基本的な教えのひとつだ。けっして肉体と魂、世間と神を対立させては
いけない。けっして物質主義と精神主義を対立させてはいけない―肉体と魂の
ように、それらはともに手を携えてゆく。

物質主義の立場を取りながら、それを霊性への踏み石として使いなさい。
この姿勢は人々の心マインドに大きな混乱を引き起こすだろう。というのも、
人々はつねに貧しさを精神的なものだと見なしてきたからだ。それはまったく
馬鹿げている。貧しさはこの世で最も非精神的なものだ。

貧乏人は精神的にはなれない。いくら努力しても、その精神性は表面的なものに
とどまる。彼はまだ豊かさに幻滅したことがない。その彼がどうして精神的に
なりえよう?大いなる幻滅が必要だ。外の世界に対する大いなる幻滅が。
そうなったら人は内側を向く。外の世界に完全に幻滅する地点に到って
はじめて人は内を向く―あなたは世間を見てきた。あなたは世間を生きてきた。

あなたは経験を積み、そこには何もないことを、すべてはしゃぼん玉のような
はかない体験であることを知るに到った。世間は大きな約束をするが、何も
もたらしはしない。最後には虚しさだけがその手に残る。外の世界が人に与える
ことができるのは死だけだ。生命は内側に探求されなければならない。
生命の源はあなたの 内 部 に ある。

樹は種子のなかに潜んでいる。だが、種子を割って開いても、もちろん樹は
見つからない。そういうやり方では見つからない。あなたは種子を育てなければ
ならない。そうすれば種子のなかに隠されていた設計図がひもとかれる。

母親の子宮に宿った子供は種子にすぎないが、あらゆる設計図、あらゆる
可能性がそなわっている―どんな肉体をもつか、どんな顔になるか、目の色は
どうか、髪の毛、身長、年齢、どれだけ長く生きるか、健康かどうか、男か女か
、黒人か白人か―あらゆるものが種子に含まれている。生命はその種子から成長する。

瞑想とはそこからすべてのものが現れてきた―肉体が現れ、欲望が
現れ、精神作用マインドが現れてきた―内奥の中核に引き返すことだ。
あなたは源にもどらなければならない。宗教とは源への回帰だ―

そして源を知ることが神を知ることだ。
源を知ることが目的地を知ることだ。
それらはひとつだからだ。

あなたが最初に芽生えた内奥の中核にもどることは、
あなたが到達したいと願っている<究極なるもの>に到ることだ。
円は完結する。アルファがオメガになる瞬間がある。
そのときそこに成就がある。円が完結するとき、そこに成就がある。

それが呂祖師の『黄金の華の秘密』の教えのすべてだ。
彼は道をはっきりさせようとしている。

どうすれば円を完結させることができるか、
どうすれば光を巡らせることができるか、
どうすれば内側に動いてゆけるか、
どうすればほんの少しの青空を、
ほんの少しの天国を手に入れることができるか―
そうすれば、どこにいても幸せでいられる。
あなたは地獄にいても幸せだ。

今のままのあなたでは、どこにいても不幸になる。たとえ天国にいても不幸になる。
あなたはそこでも不幸になる手段や方法を見つけだす。なぜなら、
あなたは嫉妬や怒りや貪欲や所有欲をすべてもち歩いているからだ。
あなたは激怒、性欲、抑圧をすべてもちあるいている。
あなたはこの荷物をそっくりもち歩いている。天国に着いた瞬間、
あなたはそこでもまたまわりに地獄をつくりだす。なぜなら、
あなたは地獄の種子をもち歩いているからだ。

清らかであれば、静謐せいひつであれば、あなたは天国
にたどり着くと言われているが、真相はまったくその逆だ。
清らかであれば、静謐であれば、天国があなたのもとにやって来る。

人はけっしてどこへも行かない。人はつねにここにいる。
だが、ひとたび内側が光で満たされたなら、
外側の世界すべてが変容を遂げる。

仏陀はあなたがたと同じ世界で活動している。
仏陀はあなたがたが歩くのと同じ通りを歩いている。だが、
仏陀はまったく異なる世界に生きている。
仏陀は楽園で暮らし、あなたは地獄で暮らしている。

あなたは仏陀の隣に坐っているかもしれない。
彼の手を取ったり、彼の足に触れたりしているかもしれない。
それほど近くにいても、二つの世界は遥かに遠く離れ、分かれている。
天国にある、完全な祝福のなかにある、神という名のその光輝に包まれる
秘法は何か?これがその秘法だ―
呂祖師は言った。
汝らの修行は次第に集中し、成熟してゆくだろう。
タオの道は頓悟とんごの道ではない。それは禅のようではない。禅は頓悟だ。
タオはゆっくりと成長してゆく。タオは突然起こる、唐突な変化を信じない。
タオは<存在>と歩調を合わせることを信じ、けっして自分の流儀を押し付けたり
、川を押したりせず、ものごとをひとりでに起こらせてゆく。

そしてタオは言う。永遠の時間があるのだからあわてる必要はない。
適切な時に種子を蒔いて、待てばいい。そうすれば春がやって来る。
春はいつでもやって来る。そして春が来れば、花が咲く。
とにかく待ちなさい。急いではいけない。

樹の成長を速めようと引っぱったりしてはいけない。「すべてが
インスタント・コーヒーのようになればいい」とねだったりしてはいけない。

待つことを学びなさい。自然は実にゆうゆうと動いてゆくからだ。
このゆったりとした動きゆえに、自然には優美さがある。
自然はとても女性的であり、女性のように移ろってゆく。
自然は走らず、急がず、あわてることがない。
自然はひじょうにゆっくりと進む、静かな音楽のようだ。
自然は実に忍耐強い。

そしてタオは自然の流儀を信じている。
タオとはまさに"自然"を意味する。それゆえに、
タオはけっして急がない。これを理解しておかなければならない。

タオの基本的な教えはこれだ―
忍耐強くあることを学べ。無限に待つことができるなら、
それは即座に起こるかもしれない。

だが、即座に起こることを求めてはいけない。
求めれば、それはけっして起こらないだろう。
あなたが求めるそのことが障害になる。その欲望
そのものがあなたと自然のあいだに溝をつくる。

自然と調和を保ち、自然にみずからの道をとらせなさい―
それはいつ起こってもかまわない。
それはいつも時を逸することがない。

起こるのが い つ で あ っ て も だ。

たとえ長い年月がかかるとしても、
それで遅れたことにはならない。
それはけっして遅れない。
それはつねに正しい瞬間に起こる。

タオはあらゆることが必要な時に起こると信じている。
弟子に用意ができたとき、師が現れる。
弟子に究極の用意ができたとき、神が現れる。

それを可能にするのは、性急で、慌ただしい、攻撃的な姿勢ではなく、
あなたのふところの深さ、虚空、受容性、受け身の姿勢だ。

真理は征服できないことを覚えておきなさい。
人は真理に明け渡さなければならない。
人は真理に征服されねばならない。

だが、いつの時代にも、あらゆる国々で
攻撃的で野心に満ちた教育が行なわれてきた。

私たちは人々をせきたてる。
私たちは人々の恐怖を煽る。
私たちは彼らに言う。

「時は金であり、じつに貴重なものだ。過ぎ去った時間は
もどってこない。だからぐずぐずしてはいられない。急げ」と。

これが人々を狂気に駆り立ててきた。彼らはここからあそこへとあわてて
飛びまわり、どこにいても少しも楽しむことがない。彼らはこの国際ホテル
から別の国際ホテルへと世界中を駆け回る。どのホテルも似たりよったりだ。
東京であろうが、ボンベイであろうが、ニューヨークであろうが、パリであろうが
大差はない。これらの国際ホテルはみな似たりよったりだ。

ところが人々は、この国際ホテルからあの国際ホテルへと駆けまわりながら、
世界一周旅行をしているつもりになっている。どこもかしこも同じなのだから、
どこかの国際ホテルに腰を据えていればよかったし、他のところに出かけてゆく
必要などなかったのだ。だが人々はどこかに向かっていると考えている。
スピードは人々を神経症に追いやっている。

タオは自然の道だ。
樹が育ち、川が流れるように、
そして鳥や子供たちのように……
それとまったく同じように、人は
神のなかへ成長してゆかなければならない。
呂祖師は言った。
汝らの修行は次第に集中し、成熟してゆくだろう。
あわてないこと。死に物狂いにならないこと。
今日うまくゆかなくても、希望を失うことはない。
今日しくじったとしてもどこもおかしくない。
数日のあいだ失敗がつつ゛いてもどこもおかしくない。

人々は失敗することをひじょうに恐れている。
ただ失敗するのが怖いために、けっしてやってみようとはしない。
怖がるあまり恋をしない人々が大勢いる―誰にわかるだろう?
拒絶されるかもしれないではないか。

そこで彼らは愛情を表現しないでおこうと心に決めた。
そうすれば誰にも拒絶されることはない。
人々は失敗を恐れるあまり、けっして新しいことをやろうとしない
―わかるものか。失敗したら、どうするんだ?

そして言うまでもなく、内側に入ってゆくためには
何度も失敗せざるをえない。一度もそこに入ったことがないからだ。
あなたは外界での活動や外向的な仕事をこなす手腕や力はそなえているが、
どうやって内側に入ればよいのかわからない。人々は「内側に入りなさい、
なかに入りなさい」という言葉を耳にしても、何のことだかわからない。

彼らが知っているのは出てゆく方法だけだ。
彼らが知っているのは他人のところへ出かける方法だけだ。
彼らは自分自身に到る方法をまったく知らない。それも無理はない。
過去からの習慣ゆえに、あなたは何度も失敗するだろう。
希望をなくしてはいけない。

成熟はゆっくり起こる。
成熟は必ず起こるが、それには時間がかかる。

そして、いいかね。人が違えば、成熟する速さも違う。
だから比較しないこと。「あの人はとても静かで、楽しそうなのに、
私はまだなっていない。いったいどこがいけないのだろう?」と考えてはいけない。
他人と比較してはいけない。人はそれぞれ異なる過去生を生きてきたのだから。
今生ですら人々の生き方は様々だ。例えば、詩人は科学者よりも内側に
入ってゆきやすいかもしれない。受けた訓練が違うからだ。

科学的な訓練は、客観的であること、対象となる事物に注意を向け、対象となる
事物を観察し、主体を忘れることにある。科学者は、科学者であるためには、
実験から完全に距離を置かなければならない。科学者は実験に巻き込まれては
いけない。そこに感情をもち込んではいけない。科学者はコンピュータのように
まったく平然としていなければならない。科学者は人間であってはならない。
そうなってはじめて人は真の科学者となり、科学で成果をあげることができる。

さあ、詩人の技量はこれとはまったく違う。
詩人は巻き込まれる。
詩人は花を観察しながら、まわりで踊りはじめる。
詩人は身をもって参加する。
詩人はたんなる超然とした観察者ではない。

舞踏家のほうがもっと容易かもしれない。
舞踏家とその踊りは一体であり、踊りは内に深く根ざしているので、
舞踏家はたやすく内なるスペースに入ってゆける。

それゆえに、古代の世界各地の神秘的なミステリー・スクールにおいて
舞踏は秘められた技法のひとつだった。
舞踏はミステリー・スクールや寺院において進化した。
舞踏は最も宗教的な現象のひとつだ。

だが、それはその意味を完璧に失い、まったく正反対のものに成り果ててしまった。
それは性的な現象になってしまった。舞踏は霊的な次元を失ってしまった。

だが、いいかね、霊的なものはすべて堕落したら性的なものになってしまうし、
性的なものはすべて上昇すれば霊的なものになりうる。
霊性とセクシャリティは織り合わされている。

数学者よりも音楽家のほうが瞑想に入ってゆきやすい。人が違えば、
得意な分野も違い、精神構造も違い、条件つ゛けも異なっている。
例えば、キリスト教徒のほうが仏教徒よりも瞑想することがむずかしいかもしれない。

仏教徒たちは二十五世紀ものあいだ瞑想を絶やさ
なかったので、その門人たちはある特定の質をそなえている。
仏教徒が私のもとへ来ると、ひじょうに簡単に瞑想に入ってゆける。

キリスト教徒がやって来ても、瞑想にはまるで馴染みがない。
キリスト教徒は瞑想を完全に忘れてしまっているからだ。
キリスト教が知っているのは祈りだけだ。

祈りはまったく異なる現象だ。
祈りのなかでは他者が必要とされる。
祈りはけっして自立したものではありえない。
祈りはむしろ愛に似ている。
祈りは対話だ。

瞑想は対話ではない。
それは愛に似たものではなく、
愛とはまったく逆のものだ。

瞑想のなかで、あなたは独りっきりになってしまう。
行く場所もなく、関わる相手もなく、対話もない。他者がいないからだ。
あなたはどこまでも自分自身であり、自分自身以外の何ものでもない。
これはまったく異なる取り組み方だ。

だから、それはあなたが成長する途上で身につけた技能、精神構造、条件つ゛け、
教育、宗教に左右される。読んできた本、一緒に暮らしてきた人々、みずからの
内側にかもしだしてきた波動に左右される。それは千とひとつのものごとに、
あなたがどれだけ多くのものを吸収することができるかどうかに左右される―
が、それは必ず、確実にやって来る。

必要なのは忍耐、黙々と実践することであり、
辛抱強く働きかければ、集中が生まれ、成熟が起こる。
実のところ、成熟した人と集中力のある人は同じ現象の両側面にすぎない。

だからこそ子供たちは精神を集中できない。彼らは絶えず動きまわり、一か所に
じっとしていられない。あらゆるものが珍しい―車が通り過ぎてゆく、鳥が鳴き、誰
かが笑いはじめる、隣の人がラジオをつけている。蝶々が飛んでゆく―あらゆるもの
が、全世界が魅了する。彼らは次から次へと目移りしてゆく。彼らは集中できない。

他のことを忘れてしまうほど、世界が存在しなくなるほど、
しっかり腰を据えてひとつのことに取り組むことができない。

成熟するにつれ、集中力が生まれてくる。
成熟と集中力は言葉は違うが同じものを指している。
だが、まず覚えておかなければならないのは、
それは徐々にやって来るということだ。
比較してはいけない。あわててはいけない。
(p314)

だが、断崖に立つ枯れ木のように打坐する境地に到るまでには、 まだ多くの錯誤を犯す可能性がある。 これに関しては特に注意を促しておかねばならない。
呂祖師は言う―断崖に立つ枯れ木のように打坐する境地に到るまでには
・・・・・・これはとほうもなく美しく、意義深い道家タオイストの表現だ。
これは生きながら死に、
死にながら全一に生きる
ことを意味している。

喜びにあふれ、祝いながら世間のなかで暮らし、しかも
世間の一部にはならないこと、世間のなかにありながら、
世間が自分のなかに入ってこないようにさせる
ことを意味している。

断崖に立つ枯れ木のように
―それは死人のように生きることだ。

アレキサンダー大王は、サニヤシンをインドから母国へ連れて帰りたかった。
師である偉大な哲学者アリストテレスから「インドからもどるときには、
サニヤシンを連れてきてほしい」と頼まれていたからだ。インドが世界に
貢献したもので、サニヤシンの道、サニヤシンの生き方にまさるものはない。
アリストテレスは深い関心を寄せていた。彼はサニヤシンがどういう種類の
人間なのか見たかった。それはインドでしか見られないからだ。それは
インドが世界の文化と人類に対して捧げた特別な貢献だ。

世間で生きながら、世間の一部とならず、超然と離れた
ままでいるという、まったく異なる世間の生き方だ。

それは池に咲く蓮の花が水中にありながら、水に触れられないのに
似ている。蓮の花びらにたまった露に朝日が当たると、それは真珠
のように美しく見える。が、露は少しも花に触れていないし、花も
少しも露に触れてはいない。それほど近くにありながら、遠く離れている……。

「サニヤシンとはどういう種類の人間だろう?」―アリストテレスの関心は哲学的
なものだった。彼はサニヤシンになるような人間ではなかったが、アレキサンダー
にサニヤシンを連れてくるよう依頼した。「あなたはたくさんのものをもち返って
くるだろう。どうか私には、忘れずにサニヤシンを連れてきてほしい」

インドを発とうとしていたアレキサンダーは思い出した。
「そうだ、サニヤシンだ」彼はインドの最後の滞在地で人々にサニヤシン
のことを尋ねた。すると人々は言った。「ええ、この国にはすばらしいサニヤシン
がいますが、彼を連れてゆくのはまず無理です」

アレキサンダーは言った。「私にまかせればいい。心配することはない。おまえ
たちは私のことを知らないな。私がついて来るように命じたら、ヒマラヤの山々
でさえついて来ざるをえない。サニヤシンなどわけもない。彼はどこにいる?
居どころを教えてくれさえすればいい」そしてその居どころがわかった。

そのサニヤシンとは、川のほとりに住んでいる裸の行者ファキールだった。
そのサニヤシンをアレキサンダーのもとへ連れてくるために、抜き身の剣を
手にした四人の屈強な男がおくられた。

抜き身の剣を手にした四人の屈強な男たちを見て、サニヤシンは笑いはじめた。
男たちは言った。「わかっていないようだが、これはアレキサンダー大王の
命令だ。宮廷までついて来てもらおう。大王がお待ちだ」

するとサニヤシンは言った。「私はずいぶん昔に去来するのをやめた。
私に会いたければ、大王のほうから会いにくればいい。だが、私はもう
去来はしていない。去来することは私の心とともに消えた。
もはや来る者もいなければ、去る者もいない。
私はもう存在していない!」

もちろん、このギリシャ人たちは理解することができなかった。
ギリシャ人はインド人とは正反対だ。インド人は基本的に非論理的であり、
ギリシャ人は基本的に論理的だ。インド人は詩的、直感的であり、ギリシャ人
は理知的だ。この四人の兵士は彼に言った。「なんというたわけたことを
言っているのか。おまえを引きずってゆくことだってできるんだ!」

サニヤシンは言った。「
身体を引きずってゆくことはできても、
この私を引きずってゆくことはできない。
身体を牢屋に閉じ込めることはできても、
この私を閉じ込めることはできない。
私の自由は損なわれないままだ。
私は蓮の花であり、水は私に触れることができない」

さあ、この言葉はギリシャ人にはさっぱり通じなかった。彼らは言った。
「待っていろ。大王様にお伝えして、処置を仰ぐことにしよう」アレキサンダー
はこのサニヤシンの美しい言葉を耳にし、ことの顛末てんまつを聞いた。
「
彼はすばらしい人で、川岸で日の光を浴びながら裸で坐っています。
彼は大王のように見えますが、まわりには何ひとつものがありません。
彼は無一物であり、乞食こつじきに使う鉢さえもっていませんが、
どうどうとしていて、優美です!彼の目をのぞき込めば、全世界
を支配する皇帝のように見えます。彼は私たちの愚かさを、私たちが
抜き身の剣を携えていったことを笑い飛ばし、少しも動じませんでした。
そして『身体は殺せても、この私を殺すことはできない』と言ったのです」

アレキサンダーは興味をそそられた。彼はこの裸のサニヤシンに会いに行った彼は感動
し、深く心を打たれ、こう言った。「私と一緒に来ていただこう。これは命令だ!」

だが、サニヤシンは言った。「
サニヤシンになったその日から、
私は他人の命令に従うことをやめた。
私は自由な人間であり、奴隷ではない。
誰も私に命令することはできない。私を殺す
ことはできても、私に命令することはできない」

アレキサンダーは腹を立て、剣を抜いて言った。「この場で首をはねてしまうぞ!」

するとサニヤシンは再び笑いはじめた。彼は言った。「
首をはねるのはいいが、首などとっくの昔に
自分ではねてしまったよ。私は死人なのだ」

さあ、これが真のサニヤシンの意味だ――死人。

その男は言った。「死人を殺せるわけがない。それはまったく馬鹿げている。
どうして死人を殺せるだろう?死人はすでに死んでいて、もうこれ以上死ぬ
ことなどできはしない。何もかもすでに終わってしまった。あなたは来るのが
少し遅すぎた。私はもう存在していない。そう、首をはねることはできる。
あなたは私の首が砂の上に転がってゆくのを見るだろう。

私もまた自分の首が砂の上に転がってゆくのを見る。
私は見守る者、目撃者だ」

これが「断崖に立つ枯れ木」の意味だ。
アレキサンダーは断崖であり、
このサニヤシンは枯れ木だった。
断崖が枯れ木に何ができるだろう?
枯れ木はすでに死に、息絶えている。
断崖は枯れ木を殺すことができない。
枯れ木は断崖を恐れない。

だが、こうなるまでにはまだ多くのことが起こりうる――
(p318)
まだ多くの錯誤を犯す可能性がある。 これに関しては特に注意を促しておかねばならない。 このような境地は、身をもって体験することではじめて認識できるものである。
いいかね、このうえもなく価値のあるメッセージ
――これは探求者たちにとって最もすばらしい論書のひとつだ――
のなかで呂祖が言っていることはすべて、
彼自身がその旅の途上で体験したものだ。
だから彼はそれを言っている。

彼はこれらの錯誤を犯したことがある。
弟子たちがこれらの錯誤に足を取られないですむよう、
これらの錯誤に心を乱されずにすむよう、彼は弟子たちに教えたい。

一度も瞑想をしたことがない者たちには、これらの錯誤が何であるか
わからないだろう。身をもって体験してはじめて、彼らもそれをようやく
理解することができるようになる。だが、<道>の途上にある者たちには心の
用意をさせて、途上にどんな罠が待ち受けているかを言っておかねばならない。

<道>はそれほど単純ではない。色々な
場所からたくさんの道が枝分かれしている。
行き止まりの道を選んでしまうこともあるが、
それが行き止まりであることに気つ゛いたときには
すでに何年も、あるいは何生もが過ぎ去ってしまっている。

そして、費やしたすべての努力と旅は無駄になり、
本道を見失った地点まで、またもどってこなければならなくなる。

そして、道標みちしるべとなるものはない。
いつも使える地図は手に入らないし、そんな地図はつくれない。
なぜなら、神は変化しつつ゛けているからだ。

神の存在とは絶えざる変化のことだ。
変わらないのは変化だけであり、
あらゆるものが変化しつつ゛けてゆく。

だからいつも使える地図などつくれない。
ただヒントだけが与えられる。これらはヒントだ。

これらのヒントを理解したら、あなた
は正しい道をたどることができる。
そして過ちを犯しそうになるたび
に、あなたの理解が助けとなる。

まず錯誤について語り、それから確認のしるしとなる体験について話すことにしよう。
呂祖は言う――「まず起こりそうな錯誤について話し、それから
正しい道の上にいることをはっきりと確認できるしるしについて語ろう」
修行をはじめるときは、何よりもまずゆったりと くつろいだ気持ちでのぞむように配慮しなければならない。
これが最初に理解すべきことがらだ。
ひとたび内なる道を行こうと決意したら、
ひとたびサニヤシン、瞑想者になろうと決意したら、
ひとたび内なるものの呼びかけに応え、「私は誰か?」
という問いの探求、探索に乗り出したら、まず力んでは
いけないということを覚えておかねばならない。

ゆったりとした気持ちでのぞみ、
内なる旅が快適なものになる
よう心がけなければならない。
さあ、これはとても重要なことだ。

ふつう、この最初の錯誤は誰にでも起こる。
人々は内なる旅をいたずらに複雑で、不快なものにしてしまう。

それはある理由から起こる。
人々は日常の生活で他人に腹立ちを覚えている。
彼らは日常の生活で他人に暴力的になっている。

外に向かうふつうの旅では、人々はサディストになり、
他人を苦しめて楽しんでいる。
他人を打ち負かすことを楽しんでいる。
他人と張り合い、他人を征服するのを楽しんでいる。
他人に劣等感を抱かせることさえできれば嬉しいのだ。

外に向かう旅とはそういうものだ。
政治とはそういうものだ。

これは合法的に、あるいは非合法的に、絶えず
他人よりも秀でようとしている政治的な心理マインドだ。
とにかく、何がなんでも、他人を打ち負かそうと絶えず努力をしている。
相手を叩きつぶさなければならないとしても、臆することはない、叩きつぶせばいい。

とにかく人は勝利をおさめなければならない。
首相や大統領の座につかなければならない。
これやあれやにならなければならない――いかなる犠牲を払ってもだ!
全員が競争相手なのだから、まわりはみな敵だ。

これを覚えておきなさい――そもそも教育というものは、
人に闘いの準備をさせ、闘う覚悟を決めさせるものだ。
友情や愛の下地を準備させるのではなく、闘い、憎しみ、戦争にそなえさせるものだ。

競争があれば、必ず憎悪が生まれてくる。
張り合っている相手に、互いに油断できない相手に
どうして友好的な態度を取れるだろう?

彼らが勝ってあなたが負けるか、あなたが勝って彼らが負けるか、二つにひとつだ。
だから、あなたがたのいわゆる友情は見せかけ、形だけのものにすぎない。
それは人生を円滑に送るための潤滑油の一種だ。
が、奥深くでは友人はひとりもいない。

友人たちでさえ友人ではない。
なぜなら、彼らは互いに比較し合い、張り合っているからだ。
野心、政治的な駆け引きに満ちた教育のために、この世界は戦場になってしまった。

人が内側に方向を転じると、問題が起こってくる。
これらの怒り、憎しみ、攻撃性、暴力はどうなるのだろう?

今や彼はひとりだ。
彼は自分自身を痛めつけはじめる。
彼は自分自身に腹を立てる。

いわゆる大聖マハトマたちはまさにそれだ。彼らは
なぜ自分を痛めつけているのだろう?
なぜ断食しているのだろう?
なぜ針のベッドの上に横たわっているのだろう?美しい木陰があるのに、
なぜ焼けつく太陽の下に立っているのだろう?暑いのに、
なぜ火のそばに立っているのだろう?寒いのに、川や雪のなかに
なぜ裸のまま立っているのだろう?

これは姿を変えた政治家たちだ。彼らは最初は他人と闘って
いたが、まわりに誰もいないので、自分自身と闘っている。
彼らの精神は分裂している。彼らは自分自身を分裂させて
しまった。それは今や内戦だ。彼らは肉体と闘っている。

肉体はいわゆる大聖マハトマたちの犠牲になっている。
肉体に罪はない。肉体はあなたに何ひとつ悪いことはしていない。
だが、いわゆる宗教は「肉体は敵だ、肉体を痛めつけろ」と説きつつ゛けてきた。

外へ向かう旅はサディズムの旅だった。内へ向かう旅はマゾヒズムの旅になる――
人は自分自身を痛めつけはじめる。そして、自分自身を痛めつけることには、
ある種の歓び、倒錯した喜びがある。歴史を調べてみれば、驚くだろう。
人間が自分自身に対して何をしてきたか、とても信じられないだろう。

人々はみずからの身体を傷つけ、手当てもせずに放置してきた――身体は敵だからだ。
キリスト教、ヒンドゥー教、ジャイナ教、その他様々な宗派があるが、彼らは
実に抜け目のない、狡猾な、うまいやり方で身体を痛めつけるようになった。
彼らは身体を痛めつける大した技法を開発した。

断食を称賛するだけでなく、みずからの身体を叩き、鞭打つキリスト教の一派があった
。最もすぐれた聖者とは、みずからの手で最も自分の身体をひどく傷つけた者だった。
人々はやって来て、彼らの傷を数えたものだった。他人の傷を数えるとは、いったい
どういう連中だろう?彼らもまた倒錯した喜びに浸っていたにちがいない。

インドではジャイナ教の行者ムニたちが身体を傷つけている。ディガムパラ派に属する
ジャイナ教の僧侶は毎年髪の毛をむしり取る。そして彼らが髪の毛をむしるときには
大勢の人が集まってくる。それは苦痛に満ちているが、人々は「立派な苦行が行なわれ
ている」と楽しみにしている。その男はたんなる倒錯した精神病者にすぎない。彼には
電気ショックが必要だ。それ以外のものでは役に立たない。

髪の毛をむしりはじめる行為には、ある種の狂気が含まれている。そして、
あなたが夫であれば知っているように、怒り狂った妻は、ときどきそれをやる
ことがある。妻のほうがそれをよくやるのは、妻は夫を殴るべきではないと教え
られてきたからだ。ではどうすればいい?夫を殴りたいが、殴るわけにゆかない。

経典には夫は神であると述べられている。それがまったくのたわごとであることは
わかっているが、経典は経典だ。彼女は夫のことを知り尽くしている――夫が神だと
したら、いったい悪魔は誰だろう?だが、それは口にしてはならない。彼女は夫の
足に触れなければならない。妻が夫に愛の便りを送るときには「あなたの下僕」と
書かなければならない。どちらが下僕か彼女は知っているのだが!

誰もが実情を知っているが、うわべを取り繕わねばならない。妻が夫を殴れば、何か
罰当たりなことをしたような、罪を犯したようなやましさが湧いてくる。だから夫を
殴るわけにはゆかない。だが、彼女は 本 当 に 殴りたいのだ!だったらどうすれば
いい?皿を割るか――そんなことをしたら損をするだけで、自分が苦しむだけで、何の
役にも立たない――それとも最も手軽で、安価で、経済的な方法を取り、自分自身を
叩き、髪の毛をかきむしり、壁に身体を打ちすえ、壁に頭をぶつけるか。

これが一番安上がりな方法だ。彼女は夫の頭をぶちたいのだが、そうすることはでき
ない。それは許されておらず、倫理にもとる。誰がこの観念を彼女に吹き込んだのだ
ろう?夫や彼の仲間の僧侶や政治家たちだ。

精神病院に行けば、髪の毛をかきむしっている人が大勢いる。
人々が髪の毛をかきむしることには一種の狂気がある。

さて、髪の毛をむしり取っているジャイナ教の僧侶は、本当は病気だ。だが、人々は
集まってお祝いをする――「とても偉大なことが行なわれている!見ろ!なんと
すばらしい聖者だろう!」こういった人々は病気だ、と言ったばかりに、私は反感を
招いてしまった。ことは単純だ、ごく単純だ。彼らは私に反発せざるをえない。

キリスト教の宗派には……かつてロシアには性器を切り取る一派があって、盛大な
集会が開かれたものだった。ある定められた日に、人々はそれを行なった。それは
精神錯乱だった。ひとりが自分の性器を切り取り、それを投げ捨てると、あたり一面
に血がまき散らされる。するとその錯乱状態が、ただ見物にきていた人たちに乗り移る
。つつ゛いて誰かが飛び込んで、その行為に加わってゆく。祭りが終わる頃には、
性器の山ができている。こういう連中が偉大な聖者と見なされた。

女性たちはどうしていいかわからなくなり、乳房を切り落としはじめた。
負けてはいられないからだ。女性たちは乳房を切り落としはじめた。

単純な錯誤からあらゆる種類の愚かな行為が起こりかねない。
あなたが内側に向かいはじめると、それまで他人の人生に難癖を
つけてきた古い思考様式マインドが、あなた自身の生に難癖を
つけようとする――そういった錯誤が起こりかねない。

いいかね、内なる探求者はゆったりとした気分でいなければならない。
ゆったりとくつろいでいるときにのみ、何かが起こりうるからだ。
緊張し、不快な気分を味わっているときには、何も起こらない。
緊張し、不快な気分を味わっているときには、心が乱れ、
穏やかな気分ではいられない。

腹が減っているのに、どうして穏やかな気分でいられるだろう?
ところが人々は断食を説いてきた。彼らは断食は瞑想の助けになると言っている。

ときおり断食が体調をよくする助けになることはあるだろう。
不要な体重がいくらか減るかもしれない。だが、断食は瞑想の助け
にはならない。断食していると、食べ物のことばかりが頭に浮かぶ。
聞いた話だが……

結婚したカップルが地区の牧師に相談に来た。最初は深刻そうだった会話も
次第に打ち解けてきて、牧師はこの地区にかわいい娘が何人いるか数えあげた。
「牧師さん」と夫は言った。「驚きましたよ」「なぜですか?」と牧師は尋ねた。
「ダイエット中でも、メニューは見ていいんですね」

セックスを抑圧している人々はメニューばかりを見ている。
空腹を抑えている人々は食べ物のことばかり考えている。それは自然なことだ!
瞑想などできるはずがない。断食していれば、次から次へと料理の名前が心に浮かび、
美味しそうな料理が続々と湧いてくる。美味しい食べ物の香りや味覚に触れて、あなた
ははじめて鼻が生きているのを感じ、はじめて舌が生きているのを感じるようになる。

ときどき断食して食べ物に対する興味を取りもどすのはよいが、それは
瞑想の役には立たない。味覚を取りもどすために、身体をもう少し敏感に
させるのはよい。だが、断食は断食明けのごちそうに役立てるべきだ!
食欲を取りもどすためにときおり食べないのはよい。それは健康のためにはよい。

だが、瞑想は断食とはいっさい関係がない。満ち足りているときよりも、
腹を減らしているときのほうが瞑想はむずかしくなる。確かに、食べ過ぎも
また問題をつくりだす。食べ過ぎてしまうと眠くなるからだ。
まったく何も食べずにいると、空腹を感じる。

真ん中にいることが正しい道――中庸だ。

空腹を感じずにすむように食べなさい。だが、
胃がもたれ、眠気をもよおすほど食べ過ぎてはいけない。
そうすれば瞑想がやりやすくなる。

中庸は、あらゆる面で、あらゆる状況において実践されなければならない。

ゆったりとくつろぎなさい。
自分自身を痛めつける必要はない。
不要な問題をつくりださなくてもよい。
怒り、暴力、攻撃性に満ちた想念マインドを落としなさい。

そうしてはじめて内側に入ってゆくことができる
――くつろいだ意識のなかで、はじめて人は内側に
深く深く漂ってゆくことができるようになるからだ。
完全なくつろぎのなかで、人は内奥の中核にたどり着く。
(p325)

修行をはじめるときは、何よりもまずゆったりとくつろいだ気持ちでのぞむ ように配慮しなければならない。あまり多くのことを求めてはならない。
あまり多くのことを求めてはならない。
求め過ぎると、緊張が起こり、不安が生まれるからだ。
実のところ、何ひとつ求めてはならない。

ただ待つのだ。

こころハートに種子をまいて仕事をはじめ、春を待つがいい。
あまり多くのことを求めてはならない。
人々は多くのことを求めるようになる。彼らは即席の悟り、
サマーディを欲しがる。彼らは即席のニルヴァーナを欲しがる。

ときどき愚かな人々が私のもとに来てこう言う―−
「七日も瞑想したのですが、まだ何も起こっていません」
七日だって?七千万回も生まれ変わりながら、彼らは瞑想に
反することばかりやってきたというのに。たったの七日で……。

まるで神や私に貸しがあるかのようだ。彼らは不平を言いながらやって来る。
「何も起こりませんでした。七日が過ぎ、キャンプはあと三日しか
残っていないのに、私たちはまだ光明を得ていません!」

求め過ぎてはいけない。
あまり欲張ってはいけない。
もう少し分別をもちなさい。
ものにはすべて時間がかかる。
気の動きとこころハートの動きがおのずから調和するように配慮しなければならない。
いいかね、成果のことは気にかけなくていい。
成果はつねにあなたの必要と力量に応じて現れる。
何であれあなたに準備ができていることが起こる。

成果が現れなければ、それはたんに
あなたにはまだ準備ができていないということだ。
そのための準備をしなさい。成果を求めても役に立たない。

自分にまだ力量が足りないことを認め、こころハートを
もっと浄化し、
もっと意識を集中し、
もっと瞑想し、
もっと静かになり、くつろいで、内界と
もっと調和してゆくことだ。

そして待ちなさい。

こころハートと気エネルギーが調和
すると、成果はおのずと現れるからだ。

種子をまいてしまえば、土を掘り返し、毎日種子の様子を調べる必要はない。
そんなことをすれば種子は死んでしまって、けっして何も起こらなくなる。
何ヶ月も何も起こらないとしても、あなたはただ待つより他にない。
何ヶ月も何も起こらないとしても、あなたは水をやり、肥料をやり、
世話をしつつ゛けなければならない。

するとある日、朝早く、不意に奇蹟が起こり……
種子が芽を吹く。小さな双葉が顔を出し、奇蹟が起こっている。
見えなかったものが目に見えるようになっている。

この世にこれにまさる奇蹟はない。
種子が芽を出している。
さあ、踊りなさい!

だが、ものごとにはつねにふさわしい時というものがある。
(p326)

そうしてはじめて静かな境地に入ってゆける。 この静かな境地に入っているときには、 正しい状況と正しい空間をつくらなければならない。
言うまでもないことだ。薔薇の園をつくろうとしているなら、土をそっくり
入れ替えなければならない。石を取り除き、古い根を取り除き、雑草を取り
除かなければならない。あなたは外界から守られた、新しい状況と新しい空間
をつくりださなければならない。あなたは周囲に柵を設けなければならない。
薔薇を栽培するつもりなら、こうしたことをすべて整える必要がある。

瞑想は薔薇、最もすばらしい薔薇、人間意識の薔薇だ。
この書物が『黄金の華、黄金の薔薇の秘密』と呼ばれているのはそのためだ。
正しい状況とは何だろう?正しい空間とは何だろう?
世事の只なかで坐ってはいけない。
瞑想が深まる場所を見いださなければならない。例えば、
映画館に行って最前列に坐ったり、駅に行ってプラットホーム
に坐るよりも、樹の下に坐るほうが助けになる。

いまだにタオがあたり一面に流れ、その波動を放ち、
脈打ち、ほとばしっている大自然、山々のなか、
樹々のもと、川のそばへ出かけていったほうがいい。

樹は絶えざる瞑想のなかにある。
樹の瞑想は静かであり、無意識だ。私は
樹になりなさいと言っているのではない。
あなたはブッダにならなければいけない!

だが、ブッダと樹には共通点がひとつある。彼は
樹のように青々と繁り、
樹のように樹液に富み、
樹のように祝っている。

もちろん、違いもある――
ブッダには意識があるが、樹は無意識だ。
樹は無意識な状態でタオのなかにあり、
ブッダは意識とともにタオのなかにある。
だが、その違いは大きい。天と地ほどの差がある。

だが、樹のそばで坐っていると、まわりで美しい鳥たちが
歌い、孔雀が舞い踊り、流れる川のせせらぎが聞こえてくる。
あるいは滝のそばで坐っていると、そのすばらしい音楽が聞こえてくる。

自然がまだ乱されず、汚されていない場所を見つけなさい。
そういう場所が見つからなければ、戸を閉めて、部屋のなかで坐りなさい。
もしそれができるなら、瞑想だけをする部屋を用意するといい。
ほんの片隅でいいから、瞑想だけに使うようにする。

専用にするのは、どんな種類の行為も独自の波動を放つからだ。
そこで瞑想だけをすれば、その場所は瞑想的になる。毎日瞑想
をするたびに、その場所はあなたの瞑想の波動を吸収する。翌日
部屋に入ると、その波動があなたに返ってくるようになる。
それは助けになる。それはもどってくる。それが応えてくれる。

寺院、教会、モスクの背景にはそのような着想がある。その着想は
すばらしい。みんなが祈りや瞑想に使う部屋を個別にもつことは
できないかもしれないが、村で専用の部屋を設けることならできる
――人がたむろせず、俗事が行なわれることのない、川岸の樹々に
囲まれた寺院。瞑想がしたくなれば、その寺院にゆけばいい。そして
寺院にいる人の邪魔をしてはいけないことをみんなわきまえている。

聖地とは瞑想にふさわしい条件を満たした空間に他ならない。

激しい怒りを感じているなら、それは瞑想にふさわしい時ではない。
それでは流れに逆らうことになる。ひじょうに貪欲になっているなら、
それは瞑想にふさわしい時ではない。なかなか瞑想に入れないだろう。

だが、簡単に瞑想に入ってゆける瞬間がある。

太陽が昇ってゆく。日の出を見ていると、突然、内側が
ひっそりと静まり返り、まだあなたは騒がしい街の一部ではない
――これこそ瞑想にふさわしい時だ。

今日は気分がよく、健やかで、誰とも言い争いをしていない
――これこそ瞑想にふさわしい時だ。

友達がやってきて、あなたは愛に満たされている
――これこそ瞑想にふさわしい時だ。

あなたは恋人とともにいて、二人はこのうえもなく幸せだ
――一緒に坐って瞑想するがいい。恋人や友人と一緒に瞑想することが
できたら、あなたは人生で最大の喜びが生まれているのを見いだすだろう。

正しい状況を見いだせ
ない者などひとりもいない。
二十四時間のうちには、
たやすく瞑想に変容できる
瞬間が何度も訪れる。そういった
瞬間には、あなたは自然に内側に
入ってゆきつつあるからだ。

満天の星空の夜、大地に身を横たえ、
星を眺め、調和を感じ……そして瞑想するがいい。

ときどき山で休暇を過ごすのもいい――
だが、ラジオをもってゆかないこと。さもないと、
がらくたを丸ごともってゆくことになる。そして山に行くとき
には、自分の連絡先や電話番号を誰にも教えてはいけない。
教えるくらいなら、どこにも出かける必要はない。

山に行くのなら、数日のあいだ世間のことをすっかり忘れて
しまいなさい。それが休日(holiday)の意味だ。それは神聖(holy)
なものでなければならない。それではじめて休日の名に値する。

神聖なものでなければ、
神々しいものと調和していなければ、
それは休日ではない。

人々は自分たちの世界をもち歩いている。
私は数人の友人とともにヒマラヤに行ったことがあるが、
そこで独りにさせて欲しいと頼まなければならなかった。
というのも、彼らはトランジスター・ラジオや新聞や雑誌や読みかけの小説
をもってきていたからだ。そして彼らは絶えずおしゃべりをして、いつも
くり返している話題をまたもやもち出してきた。

だから、私は彼らに言った。「何のためにヒマラヤに来たのかね?
その話は家でたっぷりしてきたはずなのに、またここで同じ話を、
同じゴシップを、同じうわさ話をくり返すのかね」

私と一緒に美しい場所へ行くたびに、彼らはカメラを取り出して、写真を取った。
私は彼らに言った。「ここに来たのは目で見るためだろう。ヒマラヤを見るために
カメラをもってきたわけじゃないだろう!」だが彼らは言った「すてきなアルバム
をつくるんだよ。どんなにすばらしい場所を訪れたかあとで振り返るんだ」
ところが、彼らはその場にいなかった。彼らはひたすらカメラのシャッターを
押していた。こういった愚かな振る舞いをもち込んではいけない。

そして、ときどき山に行くのはいい。だが、私は山で暮らし
はじめなさいと言っているわけではない。それはよくない。なぜなら、
あなたは山に中毒し、世間にもどるのが怖くなってしまうからだ。

休日はあくまで休日だ。休日が終われば、世間にもどり、聖なるものの
安らぎ、静けさ、体験をすべてもち帰るのだ。それを一緒にもち帰るのだ。
それがにぎやかな街のなかでも自分のもとにとどまるように努力するがいい。

これらの示唆は初心者のためのものだ。
本当に瞑想が身につけば、映画館の席に坐っていても
瞑想できるし、駅のプラットホームでも瞑想できる。

十五年前、私は休む間もなくインドを旅していた。旅は途切れることなく、
年がら年中、来る日も来る日も、昼夜を問わず、いつも汽車や飛行機や
車に乗っていた。だが、どこにいても同じだった。みずからの実存に
本当に根つ゛いてしまえば、どこにいても変わらなくなる。
だが、それは初心者にはむずかしい。

樹が根つ゛いてしまえば、風が吹こうが、雨が降ろうが、雷が鳴ろうが、
まったくかまわない。かえってそのおかげで樹は完全なものになる。だが、
樹が小さくてひ弱なときには、子供でさえも危険だ。あるいは牛が通り
過ぎただけで、その聖なる動物に踏みつぶされてしまうかもしれない。

初心者には、いいかね、この呂祖の示唆はこのうえもなく重要だ。
すなわち精神は虚しい熱中から自由でなければならない。世間のしがらみ をすべて脇によけ、泰然自若としていなければならない。
瞑想しようとしているときには、電話をはずし、人との関わりを絶つ。
ドアに「瞑想中につき、一時間はノックをしないように」と書いた紙
を貼っておくといい。そして瞑想ルームに入ってゆくときには、靴を
脱ぎなさい。聖地の上を歩いているからだ。さらに靴だけでなく、頭
を占めていたものをすべて脱ぎ捨てる。意識しながら靴と一緒に
あらゆるものを置いて、からっぽの状態で内側に入ってゆく。

二十四時間のうち一時間くらいなら都合がつけられるだろう。
二十三時間は仕事、欲望、思考、野心、投影に当てればいい。こういった
ことすべてのなかから一時間だけ暇をつくりだしなさい。最後には、生涯
のうちその一時間だけが自分の人生の本当の時間だったことに気つ゛くだろう。
他の二十三時間はまったくの無駄だった。その一時間だけが手元に残り、
他の時間はすべて水泡に帰してしまったと。
また正しい手順にこだわり過ぎてもいけない。
覚えておかねばならない二番目のことがらは、正しい手順に気をとられ過ぎて
はならないということだ。さもなければ、特定の姿勢で坐るべきだといった
ような考えが頭にこびりついて離れなくなる。坐ることができるのはいいが、
もしそれが不要な脅迫観念になるようなら、落としてしまいなさい。

例えば、正式な蓮華座では坐ることができないかもしれない――それは
ずっと椅子の生活をつつ゛けてきた人にはむずかしい。筋肉が特定の仕方
で発達しているためにむずかしい――そうなると脚が気になって仕方なく
なってくる。だから、蓮華座を無理強いする必要はない。蓮華座を組むのが
やさしければ問題はない。組めなければ、どんな姿勢でも蓮華座になる。

床の上に坐れなければ、坐るのがむずかしければ、椅子に坐ればいい。
瞑想は椅子を怖がったりなどしない。それはどこでも起こりうる。
先日、レヌがこう尋ねた。「木馬の上でも悟りは起こりますか?」
起こるかもしれない。それどころか木馬ですら悟るかもしれない!
そのことは心配しなくてもよい。

だから、呂祖は言う……
また正しい手順にこだわり過ぎてもいけない。
わずかに注意を払うだけでいい。
背骨が本当にまっすぐ伸びているかどうか、
頭が背骨の上にちゃんと乗っているかどうか、
両目が呂祖の指示通りに向けられているかどうか……
それにあまりこだわり過ぎてはいけない。

あなたがたの目と呂祖が語っている目とは種類が違う。
中国人とその目のことは知っているだろう。実のところ、
中国人たちはいつも鼻の頭を見ているように見える。
彼らの目は半分つぶっているようだ。中国人にサニヤスを
授けるとき、私は彼らの目を見つめるのに大へん苦労する。

あなたがたは違う種類の目をもっている。人によって目の種類
も鼻の種類もそれぞれ違っている。だから、こういった小さな
ことにあまりこだわり過ぎないこと。それらはしるしにすぎない。

それらを理解し、吸収したら、自分の道を行くがいい。自分自身の
道を見いだしなさい。覚えておかねばならない基本的な注意は、
ゆったりとくつろいでいなければならないということだ。
あれこれ工夫をしすぎるとこの危険が生じる。 私は工夫をしてはならないと言っているのではない。 正しい道は有と無のあいだに等しい距離を保つことにある。
人はちょうど真ん中にいなければならない。

人々は活動的になり過ぎるか、怠惰になり過ぎるかする。活動的になり過ぎる
と、不安が――一種のあわただしさ、性急さ、速さ、落ち着きのなさが起こって
くる。怠惰になり過ぎると、眠気、一種の無気力さ、昏沈が生じてくる。

真ん中にとどまりなさい。
真ん中にとどまることをつねに判断の基準とするべきだ。

食べ過ぎてはいけない。腹をすかし過ぎてはいけない。
寝過ぎてはいけない。睡眠不足もいけない。

つねに真ん中にとどまることを忘れてはならない。

行き過ぎは禁物だ。あらゆる極端を落とさなければならない。

なぜなら、真ん中にのみ、くつろいだ心の状態があるからだ。
目的を通して無目的を達成することができるなら、ものごとを体得したことになる。
この種のバランスを、
努力と無努力、
目的と無目的、
存在と不在、
心と無心、
有為と無為
のあいだで達成することができるなら……
目的を通して無目的を
――努力を通して無努力を、有為を通して無為を――
達成することができるなら、要点を体得したことになる。 みずからを放下し、超然と乱れず、泰然自若としていればいいのである。
これが基本だ。そうなれば人は事物の流れとともに流れてゆける。
人は自分を解き放つことができる。
(p333)
また人は誘惑に満ちた世界の餌食になってはいけない。 誘惑に満ちた世界とは、五つの暗い悪魔が遊び戯れる場所だ。 不動の境地と言うと、人はよく枯れ木や冷たい灰を思い浮かべるが、 大地が明るい春を迎えている姿を思い浮かべることはめったにない。
いいかね、
宗教的な人間にとって最大の課題は深刻になり過ぎないことだ。
宗教的な人間にとって最大の課題は悲しまないことだ。
宗教的な人間にとって最大の課題は否定的にならないことだ。

なぜなら、ふつうはそうなってしまうからだ――
宗教的な人間は悲しみに沈み、ひどく深刻になり、生に対して否定的になる。
彼らは春のことをすっかり忘れてしまう。
彼らは枯れ木や冷たい灰のことばかり考える。
彼らはバランスを失っている。

ときには大地が明るい春を迎えている姿を想起しなければならない。

真に宗教的な人間はユーモアの感覚をもち合わせている。
真に宗教的な人間は誠実ではあるが、けっして深刻ではない。

為すべきことに完全に身を捧げているが、
けっして「俺のほうがおまえより高潔だ」
といった態度は取らない、絶 対 に 取らない。

けっして優越感にひたることはなく、謙虚だ。

真に宗教的な人間は雨や風とともに踊ることができる。
子供たちと一緒に微笑み、笑うことができる。

生のあらゆる状況にくつろぐことができる。

それが自由だ。
それは自我エゴからの自由だ。

自我は人を深刻にする。
そのようにして人は暗黒の世界に沈んでゆくのである。
深刻になり過ぎると、暗黒の世界に、否定的な世界に沈んでゆく。
そこではエネルギーは冷え、息は荒くなり、 寒さと衰亡のメッセージが頻繁に現れてくる。
いいかね。冷淡になってはいけない。
世のいわゆる聖者たちは冷えきっている。彼らは要点をすっかり取りちがえている。

冷静クールになるのはいいが、けっして冷淡コールドになってはいけない
――この二つには大きな違いがある。そこにはとても深いパラドックスがある。

私は「涼しいクール」と言う。それは熱を帯びた情熱と比べれば涼しいが、
死の冷たさと比べたら温かい。死の冷たさと比べれば温かいが、ぎらぎらした
生への欲望に比べれば涼しい。それは温かくもあり涼しくもある。
真に宗教的な人間は情欲をもたないがゆえに涼しい。
彼は悲しんだり深刻になることがないので温かい。
そういう状態に長くとどまっていると、植物や石の世界に入ってゆく。
あまりに冷え過ぎると、やがてあなたは岩のようになり、無意識になってしまう。
あなたは人間から転落する。私の観察によれば、巷の聖者の多くは
人間から転落してしまっている。彼らは超人になるのではなく、
人間以下に落ちてしまった。彼らは岩や石の世界に属している。
(p335)

また人は数知れない誘惑に惑わされてはならない。 これが起こるのは、静かな境地がはじまった後、突然 あらゆる妄想のつながりが続々と現れてくるときである。 それを打ち破ろうとしても、どうにもならない。 その妄想を追うと、気分が軽くなったような感じがする。
精神分析が道を誤ったのはここだ。精神分析は自由連想の技法
になってしまった。あなたはどこまでもつつ゛けてゆくことができる。
想念が次から次へと現れ、それが無限につつ゛いてゆく。

次から次へと現れる想念から身を引いたままでいなければいけない。

想念はやって来て、四方からあなたを取り囲む。想念は雲に似ている。
わずかに顔をのぞかせていた青空さえも消えてゆく。そして
想念ではち切れそうになると、人は本能的に闘いはじめる。
瞑想とは無念無想の状態であることを読んで知っているからだ。
だが、
闘ってもけっして無念無想にはなれない。
闘っても負けるだけだ。
闘うことそのものが敗北の原因になる。影と
闘うことはできない。
闘っても負けるだけだ。自分の影と
闘おうとしたら、あなたは負けるしかない――
影がとても強いからではなく、
影など 存 在 し な い からだ。

存在しないものと闘って、どうして勝つことができるだろう?
想念は影だ。闘ってはいけない。

闘わなければ、もうひとつの道が開かれる――精神分析が選んだのはそれだ。
その場合には、想念とともに動き、想念を自由に漂わせ、自由に連想を起こらせる。
ひとつの想念が別の想念に結びつき、またその想念が別の想念に結びついて次々と
連想が起こり、それが延々と果てしなく、うんざりするほどつつ゛いてゆく。

これには一種のくつろぎに似た感覚がともなう。精神分析が終わると、
人々が安堵し、救われた気持ちになるのはそのためだ。救われたわけ
でもないし、助かったわけでもない。たんに闘いが消えただけだ。

あなたが緊張するのは闘うからだ。
闘わなければ緊張は消える――そして緊張が消える
ことで、あたかも救われたような気分になる。

ムラ・ナスルディンは、二サイズも小さい、きちきちの靴をはいていた。
彼は一日中不平をこぼし、靴に腹を立てていた。ある日、私は彼に尋ねた。
「靴を変えればいいじゃないか。どうして文句ばかり言っているんだい?
誰もその靴をはけと無理強いしていないだろう。新しい靴を買えばいいじゃないか」
彼は言った。「だめだ!絶対にいやだ!」私は言った「なぜだい?」彼は言った。
「それが唯一の慰めだからだよ。一日中靴と格闘したあと、家に帰って靴を
放り出し、ベッドに横になると、とても気分がいいんだよ!」

それは気分がいい。想念と闘っても勝ち目がないので、闘うことをやめ、
想念を自由に漂わせ、想念とともに動いてゆくと、気分がよい。精神分析の
秘密はひとえにそこにある。精神分析はまったく助けにならない。
闘いをやめさせるから、気分がよくなるだけだ。

呂祖は言う。「どちらも正しくない。闘う必要はないし、
想念を野放しにして、その後を追う必要もない。
あなたは見守る人、目撃者のままでいればいい」
これは主人が召使になってしまったことを意味する。
想念の後を追えば、主人が奴隷になってしまう。
もしこのような状態に長くとどまっていると、 幻想に満ちた欲望の世界に入ってしまう。
主人の立場を取りもどさなければならない。
あなたは奴隷ではなく主人にならねばならない。
主人であるとはどういうことだろう?

目撃者でいることが主人であることだ。

そこにある想念を見守りなさい。
穏やかに、静かに、見守りなさい。
想念が来ては去るにまかせなさい。
想念が現れては消えるにまかせなさい。

あなたはただ気つ゛いている――
想念が現れ、とどまり、去ってゆく――

すると、まもなく想念が現れる
回数がどんどん減ってゆくポイントが来る。
そしていつの日か、すきまが現れ……
いっさいの想念が消えている。
そのすきまのなかで、最初
の神の体験が起こる。
最善の場合には、天国に生まれ、最悪の場合には、野狐の世界に生まれる。 確かに、こういった野狐の霊は有名な山々に住み、風や月、花や果実を楽しみ、 珊瑚のような樹や宝石のような草を楽しんでいるが、果報が尽きれば、 再び混乱の世界に生まれ変わるのである。
瞑想がうまく進むと、あなたは天国に、永遠の至福のなかに生まれる。
しくじり、道をはずれると……道家では、そうして道をはずれることを、
最悪の場合には、野狐の世界に生まれる、と表現している。

野狐とは詩人の精神スピリットだ。
野狐とは空想力に富んだ精神のことだ。
瞑想の途中でしくじっても、何かが得られる。
あなたは樹や花、世界やその美しさを前よりも
もっと楽しむことができるようになる。

だが、やがて瞑想によってつくりだされたエネルギーは尽き、
あなたは昔の混乱に舞いもどらざるをえなくなる。

いいかね、瞑想がうまく進むと、喜びは永遠にあなたのものになる。
だが、失敗してもすばらしい喜びや詩の瞬間がいくつかは訪れる。
瞑想をしくじった者は詩人になる。
瞑想を達成した者は見者になる。

見者は永遠の詩人であり、詩人はつかのまの詩人だ。

だから、ときどきこういうことが起こる。
あなたは瞑想を少しかじるが、気分が高揚するとやめてしまう。
あなたはすべてが達成されたと思い込む。

緑の樹も赤い薔薇も鮮やかさを増し、恋はすばらしく、
様々なことが起こりはじめている――もう面倒なことはやめよう。
だが、つくりだされたエネルギーはまもなく尽きる。あなたは野狐になる。

世界中で薬物ドラッグによって生み出されて
いるものはそれだ。薬物は野狐しか生みださない。
だが、瞑想も、完結しなければ、薬物と変わらないものになる。

ひとたび決意したら、全身全霊で関わらねばならない。
あなたは何があってもその 果 て ま で 行かねばならない。

それは挑戦だ。この挑戦を受け入れ、
内なる探求の最も美しい旅に出かけなさい。
そして到達するまで、台風の目に入るまで、
けっして途中で止まってはいけない。
(p339)




[an error occurred while processing this directive]