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すべて原因は今にあり

今わたしが全ての原因を創っている

今わたし次第で次に起ることが決まる


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「募金箱を見てどんなふうに思ったか、もう一度よく見つめ直しなさい……。 もし私があなたのために腎臓移植手術を施し、その腎臓が良くなったら、あな たは50万ルピーを払わずに済みますね。そうなれば10万ルピーぐらい 惜しくないはずです。私のために募金箱に寄付できるのではないですか?」 と』 『“なぜ自由意志を明け渡してしまうのか?”…心の中のバガヴァンの答え    (現在、香港在住 カルナカラン氏の体験)  数日前、友人が私に訊ねた。 「なぜ、我々は自由意志を神に明け渡してしまう必要があるんだ? もし本当に神が我々に自由意志を神に返してしまうことを望んでいるのなら 、いったいどうして神は最初の時点で我々に自由意志なんかを授けたのか? 神は我々に自由意志を授けたことが間違いだったと判断したのだろうか?」  すぐさま私は彼に答えた。 「そうさ、神様は間違っていたんだよ」  しばらくそのことを思いめぐらした後、私は自由意志について何も 分かっていないのに気づいた。勝手に想像していただけだった (神様が間違いを犯したなんて、自分はなんていい加減に判断していた んだろう・・・)。すぐにその友人に、その質問について自分はよく 分からないと訂正し、私の答えは軽率だったと謝った。 私自身もこの質問、つまり「自由意志とは何なのか」という疑問の 本当の答えが知りたいという願いに駆り立てられ、心の中のバガヴァンに この疑問を投げかけた。   そして、ついさっきその答えが返ってきた。 「この世界はすべて神の計画です。私があなたに 身を委ねなさいというとき、それは決してあなたの 意志を放棄しなさいといっているのではありません。私はただあなたに その思考力(マインド)を放棄しなさいといっているのです。あなたの中に ”自由意志”なんてものはありません。あなたが持っているのは単なる ”意志”なのです。 その意志はあなたの心(ハート)の意志以外の何ものでもありません。 そして私があなたの心(ハート)なのですから、 その意志は神の意志そのものなのです。   あなたが今までの人生を細かく注意して振り返れば、思考力(マインド) によって作られた精神状態や精神的外傷によって、あなたの意志が 閉じこめられていたのに気づくことでしょう。 思考力(マインド)は、特別な精神状態や精神的外傷によって 発作的に行動してしまったときでさえ、 『どんな行動もあなた自身の意志によってなされたものだ』 と話しかけ、いつもあなたを巧妙にあやつってきたのです。 だから、この過程の中であなたは 自分自身の本当の意志を見失ってしまったのです。あなたに言いたいことは 、あなたの思考力(マインド)を放棄しなさいということなのです」 』 http://www.ammakalki.com/goldenage/experience_usa.html  神の愛(ナレンさん) *  ある朝のことだった。日の出を拝もうといつもより早く起きた。 陽光の輝きを浴びるにつけ、神の創造物の素晴らしさを堪能し、 しらずしらずその華麗な作品を創り賜うた神の偉大さを心より称えたて いたのだった。  私はその場にたたずみながら神への淡い思いに耽っていた。 バガヴァンが自らの存在を私の内で示し始めたのは、その時だった。 「あなたは私を愛していますか?」  突然のバガヴァンの言葉に唖然としながらも、答えを捜した。 「もちろんです、神様。あなたは私の主であり、私の救世主です」 「もしあなたが身体にハンディキャップを持つ障害者だとしても、 あなたは私を愛しますか?」 私は少し当惑しながら、自分の腕や足、そして身体全体に目をやった。 もし自分が障害者だったら、どれだけ多くの場面で不自由な思いをさせられる のだろう・・・と思いめぐらせた。当たり前のようにできると思っている ことでさえ、恐らく満足にできないだろうと想像したが、私は勇気を ふりしぼって、 「きっとそれは辛いことでしょうが、私はそれでも あなたを愛し続けるでしょう」 と答えたのだった。バガヴァンは問い続けた。 「あなたが視力を無くしてしまっても、それでも、私のことを愛しますか?」  見ることができないのに、それをどうやって愛せと言うのだろうか? でも待てよ・・・世の中には目の不自由な人はたくさんいる。 そういったハンディを負った人でさえ、神を愛し、その創造物を称えている ではないか・・・。私はそういった人々の心の豊かさを想像し、自分でも それは可能だと考えながら、バガヴァンに伝えた。 「想像するのは確かに難しいです。ですが、 それでも私はあなたを愛し続けるでしょう」 「それでは、もしあなたが耳が聞こえなければどうですか?  それでも私の言葉に耳を傾けますか?」 耳が聞こえないのに聞くと言うことはどういうことだろうか? しばし 思いめぐらせた。神の言葉を聞くということは、この耳で聞くのでなく、 心で聞くということに違いない・・・私は勝手ながら、そう解釈し、 「難しいかもしれませんが、それでも必ずあなたの言葉に耳を傾けます」 と答えたが、バガヴァンは、さらに質問を続けた。 「言葉が話せなくても、私を称え続けますか?」 声をなくして、どうやって神への賛美を謳歌するのか?  私は前の質問と同じように、もし私が声を無くしても、神はきっと、 私の心からの歌を、魂からの歌を望んでいるに違いないと考えた。 どんな音だとしても、そんなことは問題ではなかろうと解釈した。 それに神を称える方法は歌ばかりではない。感謝の言葉で神を賛美する こともできるはず・・・。 「たとえあなたへの賛美歌が歌えなくても、それでも私は、 心の底から魂の声でもって、あなたの御名を称えます」 バガヴァンは、さらに追い打ちをかけるように、 「あなたは本当に私を愛しているのですか?」  私は勇気と自信を堅めながら、大胆にも、 「バガヴァン、もちろんです。私はどんなことがあろうとあなたを 愛し続けます。なぜなら、あなたこそ創造主であり、私たちを生み賜うた 真の神だからです」 と、誇らしげに答えたのだった。 私は、事実、うまく答えることができたと、内心満足していた。 しかし、バガヴァンの言葉は執拗なぐらい、私の内を探り続けた。 「ではなぜ、あなたはそんなに罪深いのか、そして、 なぜそれほど罪の意識を守り続けるのか?」 「私はただの普通の人間です。決して完璧ではありません」 「それでは、心が平穏なときにあなたたちが道を大きく外れていく のはなぜなのか? 困難に直面したときだけ、心の底から真剣に祈る のはなぜなのか?」 答えることはできず、ただ、涙を流すだけだった。カルキは続けた。 「仲間と祈るとき、あるいはコースに参加したときだけしか、賛歌を 歌わないのはなぜなのか? 崇拝を捧げるときのみ私を求めるのは なぜなのか? それほど自分のためばかり願いを請うのはなぜなのか?  それほど自分勝手に願いを請うのはなぜなのか?」 自分の身勝手さに恥じ、涙が後から後からあふれ、頬を伝って流れ続けた。 「私のことをそれほど恥じるのはなぜなのか? 良い知らせを人に 伝えようとしないのはなぜなのか? 心を悩ますとき、他の人に泣きつく のはなぜなのか? そんなときはいつでもこの胸を使えばいいのに・・・。 私の名の下で、人々に仕える機会を与えたにもかかわらず、言い訳ばかり して、それを実行しなかったのはなぜなのか?」 私は何度も何度もそれに答えようと試みたが、 答える術はどこにも見つけられなかった。 「あなたは恵まれた生活を送ってきましたね。私はあなたがこのすばらしい 贈り物を捨てさせるようなことは一度もしていません。あなたには 私に仕えるための立派な才能を授けました。ところが、あなたはいつも それに背を向けてばかりでしたね。 私はあなたに精一杯の言葉を送り続けましたが、 あなたはそれを生きる糧にしようとはしませんでしたね。 私は幾度となくあなたに語りかけましたが、 あなたは私の言葉に耳をふさいでばかりでしたね。 私はあなたに私の恩寵を示してきましたが、 いつも目をそらしてばかりでしたね。 私はあなたに使いを何度も贈りましたが、 あなたはいつも怠け心をはべらせ、彼らを退けてばかりでしたね。 私はあなたの祈りを聞いてきました。 そして、それらすべてに応えてきました。  一体あなたは、私のことを本当に愛しているのですか?」 私にはもはや答える力は残ってはいなかった。どうしたらいいのか?  私は自分自身の信心の無さに恥じ入っていた。言い訳する術さえ 持ち合わせていなかった。何を言ったらいいのか? 私の心は泣き叫ばん ばかりの悲痛な思いに覆われてしまっていた。涙があふれた。ふりしぼる 言葉で、バガヴァンに頭を垂れた。 「バガヴァンよ、どうかこんな私をお許し下さい。 私はあなたの子として値しない人間です」  バガヴァンは答えた。 「私のかけがえのない子よ、これは私の恩寵です」 私はバガヴァンに対して、詫びる思いとともに、一つの疑問を挟んだ。 「ではどうして、あなたは私をいつまでも許してくれるのですか?  どうしてそんなに私を愛してくれるのですか?」 「なぜなら、あなたは私の創造物です。 そして、私のかけがえのない子です。どんなことがあろうと、 私はあなたを見捨てることはしません。 あなたが泣き叫ぶとき、私はあなたの心を思いやり、ともに泣きます。 あなたが喜びで歓喜を上げるとき、私はともに笑います。 あなたが落ち込んだとき、私はあなたを励まします。 あなたがふさぎ込んだとき、私はあなたを元気づけます。 あなたが疲れ切ったとき、私があなたを運んであげます。 私は、最期の最期まであなたとともにいます。 そして、あなたを永遠に愛し続けます」 私は泣いた。涙をすべて流しきるまで。そうして過ちばかりの過去を 振り返った。私は今までどんなに冷たい人間だったか。私は今まで、 自分のとった行動によって、どんなにバガヴァンの御心を汚してきたかを。 「バガヴァンよ、あなたは私のことをどれぐらい愛しているのですか?」 バガヴァンは笑みを浮かべながら、左右の腕を目一杯広げたのだった。 私は思わず、膝まずいていた。神の足許で・・。  私はこのとき初めて、バガヴァンに心から祈ったのだった。 ▲TOP  息子を闘病生活から解放してくれたカルキ (モハナ・サンタナンさん) 生きているどの瞬間も、バガヴァンの恩寵だけが働いているのを感じます。 私の人生はバガヴァンの御許にあり、バガヴァンが私のために用意してくれた 仕事が、私の人生のすべてです。バガヴァンは、私の人生すべてを司って おられる方です。あらゆる出来事がバガヴァンによってもたらされます。 どんなことも起こるべくして起こるのです。 今までの孤独な奮闘に終止符が打たれ、平和と安らぎに満ちた、こんな すばらしい人生へと導かれたのも、バガヴァンの恩寵以外ありえません。 このバガヴァンからの恩恵と慈愛の大きさに触れ、バガヴァンへの感謝が あふれんばかりにわき上がります。 ▲TOP http://www.ammakalki.com/goldenage/experience1.html 2004.12 21日間コース 先に開催された2004年12月の21日間ムクティ・プロセスのコースの 体験談です。(小泉空弦さん) 「今生の運命の契約書の書き換えのセッションのおいてバガヴァンは白い 丈夫な紙に縦長の見たこともない変な文字でかかれた契約書を左手に持ち、 何故か日本製の透明な緑色の100円ライターでそれに火を付け 暖炉へ 投げ入れました。その後金色の新しい契約書を私に見せてくれました。」 「ディクシャ3  すべてのセッションにおいて体験を伴う恩寵をいただいたのですが途中に あった脳入れ替えセッションが幾つかの記憶を消してしまいました。 なんとか思い出した体験は次の通りです。  最初金色の光の波に身を任せて漂っていました。次に私は非常に小さい 存在となり血管の中にいます。血液は赤くなく透明で赤血球がところどころ に漂っています。そこへウイルスが進入してきました。幾つかの白血球が それを取り囲み破壊しました。  次に濃い青色の光のビームがヴィシュディチャクラへと集まってくるのを 感じていたらバガヴァンの指が私の喉仏に触れマッサージを続けてくれ ました。それが終わると私は突然オリオン座のM42とよく似た星雲に なりました。私はそれ自身なのであらゆる方角からそのダイナミックな情景 を楽しむ事ができます。しばらく楽しんでいると綿花の固まりを乗せた アメリカ製の古いフォー ドのトラックの情景が現れました。しかしそれは 何故か上下が逆さまなのです。その事を不思議に思っていると自分が木から ぶら下がっている蓑虫である事に気づきました。 そこから先ほどの星雲へ戻ることは一瞬にして可能です。宇宙と蓑虫は 一体なのです。  次に金色の光のカーテンが私の身体の上を漂っています。金色の粒子が 私の身体の全ての細胞へと注がれDNAの中へと入っていく様子を体験 しながらアン マとバガヴァンへの感謝を続けていました。」 「次の日本当に散歩を楽しみました。野に咲く花の存在や岩でゴツゴツした 斜面を味わい風と戯れました。私は登っている丘に尋ねてみました。 「なぜ此処にこんなに沢山の岩があるのかな?」 「太古に川だったところが隆起したからだ」という答 えとともに全く違う 太古の情景が肉眼で見ている景色と二重写しになりました。」 http://www.ammakalki.com/goldenage/kuno_keizai.html *カルキ・ワラヤグニャ(修養会)にて、今や私たちはその契約を直視でき、 さらに、私たちが生前交わしてしまった過った選択、間違った契約について 、しっかり見つめ直し、受け入れ、そして悔い改めます。こうして私たちは 、新たなチャレンジへと足を踏み出すのです。  ■カルキ・バガヴァンへの祈り− それは新たな契約を交わすこと、そして、古い契約を破棄すること *心の底から、魂の叫びを主に訴え、祈り続けます。 *しかし、ここに至っては、その祈りは、許しを求めるためでも、 愛を求めるためでも、ましてや私たちが主と交わした契約を回想したいと 願うためでもありません。その祈りとは、全く新しい契約として約束を 交わし直し、幸多き新しい人生へと導いて欲しいと、主の祝福を願うこと なのです。   つまり、私たちは、生前、神との契約の中で、自ら不幸を約束してきました 。そして、今度は、そういった運命的な過ち(自ら望んだ不幸)を含まない 新たな契約≠交わし直すために、主に祈り願うのです。縁起の良い、 幸多き人生を約束するのです。 *私たちの側でそれを受け取る準備が出来次第、新たな幸運の契約 (主との約束)がその効力を発揮しはじめます。それはあたかも、静寂の中 で少しずつ夜が明けていくように、幸運と繁栄に彩られた黎明の光が私たち の人生を照らしはじめ、危機的状況が溶け去ります。そして、無限に溢れる 歓喜に溺れることでしょう。そしてさらに、主カルキ・バガヴァンから 授かった幸多き新たな契約≠ヘ、外側の状況に於いても、ハッキリと 顕在化するでしょう。喜びに包まれた新たな転機としてそれは訪れ、 満ち満ちた世界への新しい扉を開くのです。 *私たちを襲い続けてきた経済的障害が一つ一つ、踏み出した足先から 不思議なほど簡単に消え去ることを目の当たりにします。そして、悲しみと 苦しみばかりだった最初の状態が遠い昔の出来事のようになっているのに 気づきます。それと同時に、心は張り裂けんばかりの感謝に溢れ、感涙に 噎ぶことでしょう。ここに至って、それが、至高なる智慧の神カルキの 祝福に他ならないと理解できるのです。  ■要求の神は、その見返りとして私たちにあるものを求めています *この危機的状況の生じた初期の段階から、見かけ上の解決に至るまで、 カルキ・バガヴァンは様々な恩寵を私たちに授けてくれましたが、主は、 それらすべての恩寵に対する代償として、主の側から見て とても重要な見返りを要求しています。すなわちそれは、 私たちが本気になって悪癖とドーシャ (訳注:怒り、憎しみ、ジェラシー、恐れ、罪の意識などの罪深き質を指す) を放棄するよう、努力を重ねることです。 その悪癖とドーシャこそが、主のダルマサンスターパナのためのヤグニャ (修養会)の燃料になるのです。 考えてみて下さい。なんと心優しい神なのでしょう。 主は至高なる仁慈≠サのものではないでしょうか。 人類は、これからの一万年、擁護の盾≠得たも同然なのです。 (訳注:「ヤグニャ」とは元々「生け贄、捧げ物」という意味です。しかし 、私たちが修養会で捧げるのは、実際の生け贄ではなく、私たちの否定的な 質、つまり、悪癖やドーシャなのです。言い換えれば、私たちのいらない ものをカルキ・バガヴァンに差し出すことによって、欲しいものが 与えられるということなのです。だからこそ、 「なんと心優しい神なのでしょう」という言葉で表現されるわけです) http://www.ammakalki.com/goldenage/quetion&answer1.html 質問 心にいろいろな迷いや不安感が生じます。心の平安と神への委ねを もっと強く感じなくてはダメですね。 「神に委ねる」ということは、とても難しいことです。  考えてみて下さい。 「誰かに身を委ねる」場合、その人に対する心からの信頼がなければ、 委ねることはできませんね。 学校の先生や職場の上司を尊敬し、その相手に従順になれるのも、 相手への100%の信頼からですよね。それでは一体、 「100%の信頼」はどのようにしたら可能なのでしょうか? 少しずつ、話を進めていきましょう。  まず、初対面で面識のない人に「100%信頼する」ということは 危険ですし、逆にすべきではないことだと思います。そう思いませんか? その危険が今、多くの宗教活動・スピリチュアル・ムーブメントで表面化 しています。 最近何かと話題になる宗教団体では、信じ込まされて「100%の信仰」 を強要されていますね。これは不自然なことです。  それでは、私たちの自然な姿勢はどんなものなんでしょうか?  それは「試してみる」「やってみる」ということではないでしょうか?  最初は初対面かもしれませんが、つき合っていく中でその人の人柄、行動 、人間性に共感し、徐々に信頼感が育まれます。そして、何ヶ月、何年と いう間に、「この人には何でも相談しよう」という「強い信頼」が生まれて きますね。 「神への委ね」も同じだと思います。一つ一つの体験、一つ一つの教えから 、それが自分に役立ち、喜びとなったとき初めて「神へのステップ」が 始まるんだと思います。 「こんなことを感じ取れた」、「気づけた」、「心が安らいだ」…… などなど。 そういった感情が、次のステップへとつながります。 「そしたら、こんなこともお願いしてみよう」と、神に向いていくのです。  そして、何度もそういったやり取りが進むうちに、 「この方なら、すべてお任せしたい」という自然な感情が生じます。  バガヴァンの教えは、「盲目的信仰」では決してありません。 実践的な教えです。役立たなければ無意味です。 だから、バガヴァンご自身もおっしゃいます。 「もし、私の教えがあなたにとって役立たなければ、捨て去って下さい」 と。そして、「私を試してみて下さい」とおっしゃいます。  私たちは納得がいくまで、バガヴァンを試してみればいいのです。 願いを叶えてくれなければ、 「バガヴァン、どうしてくれるんだ。何とかしてみろ!」と、 喧嘩を売っても良いのです。 質問  人の幸せを願うことで自分を捨てようとしていました。 でもそれが逆に辛さを募らせてしまっているようです。 「悟った人の愛」と「悟ってない人の愛」の違いについて説明すると 分かりやすいと思います。 「悟ってない人の愛」は「他の人を愛する愛」です。 「悟った人の愛」は「自分を愛する愛」です。 人に対する愛でさえ、自分で自分を愛しているのと同じです。 いつも自分を愛しています。ただそれだけです。 周りに「他人」という存在はありません。自分と他人という分離・距離感 は、そこにありません。  さて、質問に戻りましょう。 マインドが強く働いている状態で、「自分を捨てようとする」ことは自分に 制約を課していることと同じです。バガヴァンの言葉で言う「心の矯正」に 他なりません。マインドは抑えつければ抑えつけるほど反発力を強めます。 心の葛藤が生じるばかりです。辛さになるかも知れません。  こんな経験はありませんか?  「怒らないようにしよう」と心を制御していると、いつか堪忍袋の緒が 切れて、大爆発するという経験。あるいは「いつも笑顔でいよう」と自分を コントロールしていると、どんどん辛くなっていくという経験です。 こういったマインドに対するしつけや抑えつけを「心の矯正」と呼んで います。  数日、数ヶ月は、耐えられるかも知れませんが、ほとんどの場合、長くは 続きませんね。心の自然な性質から出た行動では決してありません。 逆に、バガヴァンの言う「心の転換」は、心の質自体が変わっている状態を 指します。心の内に「怒り」が全くない状態です。心が満たされ「笑顔」が 自然に出てくる状態です。決して努力して行っているものではありません。  バガヴァンは、一人一人の心の転換を進めていきます。 私たちがまずすることは、自分の内にある苦しい部分、嫌いな部分を しっかり見つめることです。その上で、その部分をバガヴァンに 差し出します。  バガヴァンはそれを取り去ってくれるばかりか、それと引き替えに 愛と慈しみを注いでくれます。 ▲TOP 質問  苦しみは大切なものだとおっしゃいますが、私は苦しみは嫌いなので、 「苦しみなくご指導をお願いします」とバガヴァンにお祈りします。 いけないでしょうか? 「幸せなときも、苦しまなければいけません」と言っているのでは ありません。「今が幸せなら、その幸せを一杯味わって下さい」ということ です。「幸せを捨てて、苦しみを味わいなさい」ということでは、決して ありません。  苦しむ人々を見て、バガヴァンは手を差し伸べようとしているだけです。 逆に幸せな人にはもっと幸せになってもらいたいのです。  分かってもらえますか? バガヴァンは、人に強要することは一切 ありません。一人一人の自由意志を最大限に尊重している存在だからです。  先ほどの菜食主義や生活習慣にしても同じです。できる範囲のことを 少しずつ行っていけばいいと思います。あるいは、「試してみる」という つもりでやってみるといいと思います。  いずれにしても、食習慣を急激に変えるのは苦痛です。自分の体と相談 しながら、「試しながら」行うと良いと思います。人それぞれ、身体的特徴 や長年の習慣を持っていますから。  逆に「こうしなさい」と大上段に振りかざして指導するやり方は、 如何なものでしょう? ▲TOP 質問 自分だけ救われても、地球上の全ての人が 救われなければしかたないですよね。  それと同じことを、カルキ・バガヴァンご自身もおっしゃっています。  「私にとって、僅かな人数の人だけを「悟り」に導くことは、 不自然なことです」と。つまり、主カルキ・バガヴァンにとっては、 すべての人が救われなければ意味がないと言うことです。 (注:主バガヴァンの言うこの「悟り」とは、 あらゆる苦しみ、あらゆる束縛・囚われ・執着からの解放された状態です。 「自分」という枠さえも解放されています)  もう少し具体的にお話しいたしましょう。まずは、バガヴァンの生まれて きた目的からお話ししたいと思います。  今回の化身の目的は、人類すべてを「悟り」へと導くことです。  そして、その目的を果たすために、人口の0.01%の人々が悟りに 達しさえすればよいということです。つまり、0.01%の人が悟りに 達すれば、残りは自動的に悟りを得ることができるということです。  ちょうどそれは、牛乳にほんの僅かなヨーグルト菌を加えるだけで、 翌日には牛乳が完全にヨーグルトに変わっているのと同じです。 バガヴァンはこの最初に加えるヨーグルト菌を作ろうとしているのです。  具体的に言えば、人口1億2千万人の日本国内で、ブッダが1万2千人 出現したことと同じです。ブッダ一人が、後世に渡って、人々にどれだけ 偉大な影響を与えたかを見れば、1万2千人のブッダの影響力が如何に 凄いかは想像できることと思います。  そのブッダを創り出すためのコースが、インドにて開催されている 21日間コース(ムクティー・プロセス)です。  このコースでは、参加者に悟りを与え、体験させるだけではありません。 人々にそれを伝える訓練も与えられます。(もちろん、人々に伝える かどうかは、その人その人の自由意志に任されています)  このコースや、各国で行われている修養会で、気づきを高め、神を体験 した人たちは、自ずと、周りの人たちに対する愛や共感・同情心を感じ始め ます。つまり、自分という枠が外れていくに従って、周りの人たちと自分 との垣根が消えていき、相手の心の痛み、苦悩を、自分のことのように 感じられるようになるのです。  こうして、自分を愛するが如く、相手に対する愛も沸き上がるのです。  これはとても自然な感情です。これこそ、周りの人たちに対する 無条件の愛ではないでしょうか。 ▲TOP 質問 禁酒、禁煙、肉食禁止は絶対守らないといけないのでしょうか?   カルキの教えは、「こうしなさい。こうしてはいけません」というもの ではありません。  カルキが伝えようとしているものは、人をあらゆるものから解放すること 、自由にすることです。 もし、禁酒、禁煙、菜食主義で、不自由を感じ、 束縛を感じるようでしたら、それにこだわる必要はありません。  ただし、可能なら、徐々に食生活を変えていくと良いでしょう。急に 変えるのは危険です。できればまず朝食から抜いていきます。そして、 数カ月から一年かけて、食事も菜食に変えていくと良いでしょう。  カルキは、決して「こう生きなさい」とか、 「悟りを目指して生きなければいけません」などとは言っていません。 http://www.oneness-web.jp/kirael/ksr0310.htm 「自分を自由に解き放ってください。そして、以下のことを必ず忘れずに 強調して人々に伝えて下さい。「私たちひとりひとり」は“人間”として 、人生と呼ばれるものの中で調和と幸福を経験する権利があることを。 これを軽く考えないでください。この新しいエネルギーでは、すべてが敏速 なペースで展開してゆきますから。あなたのハートに尋ねてごらんなさい。 ハートは知っていますから。」 http://katamich.exblog.jp/i8/ 黄金の玉が頭の中に入った! 2005.4.2 「お友達が行ってきたインドのワークでは21日間、いくつかのステップで さまざまな経験をするそうです。それこそ、母体に生命が宿って出産前の 10ヶ月間にまで遡り、そこから過去のトラウマを解消させていくようなこと もするのですが、私が聞く限りで面白かったのが、「ディクシャ」と 呼ばれる「悟り与えるパワー」の注入があります。スタイルとしては軽く 頭を触れるだけなのですが、ディクシャを受けた人は 「物理的に脳の回線が変化する」そうなのです。それはCTスキャンで見て も明らかであると聞きました。脳の回線が変わらなければどうあって 「悟り」を与えられることはないのだと(詳しくはここ)。 お友達とは2時間ほど話した後、私もディクシャを受けることになりました 。ソファにリラックスして座ります。旦那さんが私の前に立ち、私は軽く 目をつぶります。5秒ほどした時です、頭の上から「ずど〜ん」と何かが 流れてくるのが分かります。気になって目を開けたくなるほどです。私の中 でその「ずど〜ん」が胸の辺りまで来た頃に、頭の上に手が置かれました。 ヒーリングを受けているようで気持ちのいいものです。トータルで1分ほど で終わりです。その後しばらくは体をぐにゃぐにゃにしてリラックスします 。 数分後にお友達夫妻が部屋に入ってきて、再びお話をします。あの 「ずど〜ん」の瞬間のことを聞きました。その時は、手をお椀のようにして 「ちゃぷちゃぷ」とパワーをインドから集めている最中だったのですが、私 の場合はその時点でディクシャのパワーが流れてきたのでしょか。お友達 いわく、私の脳に穴を開けて「黄金の玉」を注入したそうです(笑)。 その辺は私では確かめることができないのですが、目を瞑った5秒後に 「ずど〜ん」がきたのは体験的事実です。私の場合は、普段から滝行や瞑想 をしているので、その辺のチャンネルが開きやすいのでしょうね。ちなみに 「黄金の玉」は入ってしまえば、一生出て行くことはないそうです(爆笑) 。」 *********************** http://plaza.rakuten.co.jp/okirakumono/6005  悟りを語る上で神様の話は避けて通れないので書いておきます。 ブッダの生きていた頃(実は6千年前だそうです)にはまだ神という概念が なかったので、ブッダは神について何も記してませんが、20世紀最大の聖者 と呼ばれたラマナ・マハリシははっきりと「人は神の恩寵によって悟る」と 書いているそうです。 実際に、僕がディクシャを受けたり施したりしてて思いますが、こんな物理 的脳の変化を引き起こすようなことは、少なくとも人間業ではありません。  神とはどういう存在かについて、インドでこういう講義を受けました。 人間の体について見ていくと、まず細胞というレベルの知性が存在します。 それらを統合してその上に臓器というレベルの知性が存在し、さらに臓器 だけでなく手や足も統合して人体というレベルの知性が存在します。 これが僕らのレベルですね。  各細胞からみれば、僕らは「神」です。  細胞が元気になるように栄養を与え、酸素を送り込むようなシステムを 維持するのが神の役目です。一方、細胞の方も自分が元気でいることで 神である僕らの体を支えます。  すなわち、共依存の関係にあるんです。  今の一般常識では、僕ら人間以上の知性は存在しないことになってますが 、人類全体を統合する知性、あるいは地球全体、宇宙全体を統合する知性が 存在します(その存在を仮定しなければこれだけ見事なシステムが維持 できるはずがありません)。それら僕ら人間より上位にある知性が神です。 「私は細胞です」というと何か変な感じがしますが、かといって 「私は細胞ではありません」とも言い切れません。同様に「私は神です」 とも言えないし、「私は神ではない」とも言えません。  バガヴァンが「神と人間はイコールでもなければ違ってもいない」 というのはそういう意味です。  僕らは今、「個」あるいは「自分」という概念を持ってしまったために、 神との間に分離感が生じてしまい、神の存在を感じられなくなってしまって ます。人体でいえば、各細胞がそれぞれ独立宣言してるようなもんです。 あまつさえ、細胞同士が争い、傷つけあい、殺しあいをやってるわけです から、神さまも大変なんです。苦しいんです。 だから、神は今いろんなアバター(神の化身)を地球に送り込んでいます。 神が人間の姿をもって現れた存在のことです。  中西ヒーリングでは、自分が胃の中や腸の中に入って患部を治療したり しますが、それと同じで神も神にとっての細胞である僕らのレベルまで 降りてきて、細胞である我々の苦しみを取り除こうとしているんです。  スピリチュアルなアバターだけでなく、数学や物理のアバターまで あらゆる分野のアバターが人類を助けるために大勢来ているそうです。 そのうち、悟りという分野についてのアバターがカルキ・バガヴァンと その妻アンマです。彼らの目的は、人々に悟りを与え、苦しみから解放する こと、ただそれだけです。 http://plaza.rakuten.co.jp/okirakumono/6006  神が現れる方法には、アバター(神の化身)として肉体を持って この世に生まれてくる以外に、ハイヤーセルフ(高次元の自分)という 方法があります。いわゆる我が内なる神です。これはそれぞれの人のハート に住んでいる神で、チャネルの開いた人から徐々にコンタクトが取れる ようになっていきます。いつもいつもいつもさりげなく見守ってくれてる 存在で、僕らにとってより重要なのはこちらの神様です。  この内なる神あるいはハイヤーセルフについて、 バガヴァンのとても素敵な教えがあります。  「あなたの神をデザインしてください」  この内なる神は、自分で好きに定義していいんです。キリストにしようが 観音様にしようがアラーの神にしようが全くの自由です。  また、その属性も自由に僕らの方で定義可能です (サンスクリット語でパクタパラディーナというんだそうです)  父のような/母のような存在、親友のように何でも話を聞いてくれる存在 、どんな自分でも笑顔で受け止めてくれる存在、こちらの願い事を思った だけですぐにかなえてくれる存在・・・そういう風に定義すれば神は そのように振舞います。  逆に、悪いことすると天罰を与えお布施といって寄付を強要する 支配的な神と定義すれば、そのようになります。  ぜひぜひ、皆さんの神様をデザインしてください。どんな神様が いいですか? 少し考えてみてください。顔は?声は?性格は?  神様のイメージが固まったら、自分のハートに心地よい場所を設定し、 自分好みの神様を招き入れて、たくさんお話してください。できれば 上下関係のない神様の方が気楽でいいですが、それもお好みです。  実は、僕らディクシャ講師が普通の人と違う点があるとすれば、神様と よくお話してるという、この点だけじゃないかとも思います。 「ディクシャお願いします」と言ったら、直接だろうが遠隔だろうが、 すぐにエネルギーを流してくれるんです。僕らがやってるのは、本当に ただお願いしてるだけなんですよ(^^;  でも、神様とつながってるというこの圧倒的安心感は、 ちょっと言葉では表せませんね〜。  委ねるという感覚が日に日に強くなってきます。そして、悟りあるいは 苦しみからの解放は、この委ねるということと、とても密接な関係に あります。委ねて生きてるからこそ苦しみがないんです。  インドのように神様や聖者が掃いて捨てるほどいて、しかも生活が極めて 厳しい国では「委ねる」というのは、しごく当たり前なんですが、 現代日本人はどうもこれが苦手のようです。  委ねてるとどこに連れて行かれるかわからない  マインドがこんな不安をささやくからです(苦笑) それだけ日本が 豊かになって守るものがたくさんありすぎるんでしょうね〜。  ここでまたバガヴァンの素敵な教えがあります。  「外側は積極的に自由に生きてください。 内側は受容的に謙虚に生きてください」  (インドでの講義メモからの引用なので、言葉は正確ではないかも)  つまり、自分の外側の世界では好きに生きていいんです。 財産を委ねろといってるわけではありません。その代わり、 内側ではやってきた体験を謙虚に受け入れなさいということです。  この内と外を逆にすると、いわゆるカルトになってしまいますね。  つまり、外側はあくまで受容的に、教祖様の教えには絶対服従です。 財産も差し出すしサリンも撒きます。でも内側では、、、、 こんなことでいいのかというものすごい葛藤の嵐でしょうね〜(^^; http://plaza.rakuten.co.jp/okirakumono/6007 委ねるということについて、もう少し考えてみましょう。 委ねるということは、全てなすがままで自分の意志をまったく主張しないと いう意味ではありません。人によって解釈は違うでしょうが、僕は自分の感 覚に照らし合わせて、体験をえり好みしないことという風に解釈してます。  つまり、目の前の現実社会で起こるさまざまな出来事も、自分の内側で 巻き起こる色んな思いも、すべて受け入れるということです。一般的に現実 を受け入れるというと、外側の世界の現実を受け入れることにフォーカス しがちですが、自分の内側にもOKを出すところがミソです。そもそも自分 の内と外との区別がどんどん曖昧になっていくのが悟りのプロセスです。 例えば、誰かに何かイヤなことを言われてムカッと来たら怒ればいいんです 。今はちょっと我慢しとこうと思ったら、我慢すればいいんです。なんて 自分はつまんない人間なんだと思えば、落ち込めばいいんです。今その瞬間 の体験を、意義付けしたり理屈をこねまわしたりせずに、ただ味わうだけ です。  それを逆に、自分の好みの体験だけをチョイスするために、何かしら状況 をコントロールしようとすると、とたんに苦しみが生まれます。決して コントロールしきれないからです。怒ってはいけませんと言われたって、 できないものはできないでしょう?(笑) 怒りも素敵な体験なんですよ。  一瞬一瞬の体験を受け入れること=委ねた生き方をしていると、苦しみが 生じないばかりでなく神の恩寵が流れ込みやすくなります。それは以下の ような理由によります。 インドで習ったことでなるほどと思ったのが、人の表面的な意識と神との間 には無意識が存在しているという話です。ここでいう無意識とは、見るのも イヤな自分自身が、表面意識に上ってこないように放り込まれてる穴倉です 。  子供の頃のトラウマもそうだし、自分でも気づいてない思い込みや 固定観念、恐怖、怒り、悲しみ、寂しさ、そんなものを抱えた自分自身が、 腐敗した状態でドロドロに詰まってます。言ってしまえば汚物ですね(笑)  このことを示したのが、以下の図です。 oncho1  この無意識の領域の厚さは、人によって厚い人もいれば薄い人もいるで しょう。また均一の厚さでもないと思います。その人ごとに、厚い部分、 薄い部分があると思います。  でも、いずれにせよこの無意識の部分は汚物なので、直視しなくてすむ ように壁に塗り固めてあって、さらに表面的にはおしゃれな壁紙かなんか 貼ってあるので、普段はその存在に気づくことさえありません。ここでいう 壁紙とは、自分の真の姿から目をそらすもの全てのことをさします (例えば、刺激の多い生活)  この図のように、現代人の表面的な意識は神と断絶しているんです。 だからこそ、何をやってても、何を達成しても、なんとなく寂しさ、空しさ 、不安、物足りなさを感じてしまうのです。そのため無理に幸せを求めよう として、より刺激的あるいは享楽的な生活に走ってしまってるという感じも します。  こうした状況をなんとか救おうとして、神は恩寵を与えます。 oncho2  ところが、間に無意識の壁があるもんだから、簡単には恩寵が流れません 。しかも、人の側から見れば、壁紙が破れて汚物がせり出してくるわけです 。これはたまりませんね(^^: 見たくないと思って隠し通してきた自分と 直面せざるをえなくなるわけですから。  そうして、せり出してくる壁を必死で手で押さえて、「やめて〜」と いって苦しんでるのが現代人の一般的な姿ではないでしょうか?  バガヴァン「苦しみから逃れようとすること、それが苦しみです」  僕らが委ねた生き方ができずに体験をえり好みしようとしてるのは、要は ある状況において自分の理想どおりに行動できない・できなかった自分を 見るのがイヤだからだと思います。それがイヤだから、なんとかそれを 見なくて済むように手を変え品を変え、もがくんです。それが苦しみの正体 です。特に僕なんざ、あれこれ考えるのが好きだし情報量は多いし、本当に たくさんもがいてきました〜(^^:  よく映画の主人公が困難な状況で「この世には神も仏もないのか!」と 叫ぶシーンがありますが、実はそういう状況こそが神の恩寵の現れじゃ ないかと、↑この図がひらめいたときに僕は思いました。 oncho3  見たくない自分も、見てしまえば終わりです。神の恩寵が流れてきれいに 掃除してくれるんです。この辺は中西さんのセミナーなどで サムスカラシュッディ(質の浄化)をちゃんとやった人はわかるでしょう けど、怒りも恐怖もちゃんと味わえば、その後にものすごい解放感と喜びが やってくるんです。サムスカラシュッディの場合は、人の側からも無意識の 壁に穴を開けていくことになるので、開通作業がはかどりやすくなります (人力ではそんなに深くは掘れないんですけどね。。。) oncho4  一旦、穴が開いてしまえば、そこから神様と「今度はこのあたりを よろしく♪」なんてお話しできるので、効率的に穴開け作業が進み、 ますます恩寵が流れ込んでくるようになります。  結局悟りのプロセスというのは、この無意識の壁を壊していって、人と 神との境目をなくしていくことだなあと思います。そのために神様が使う 優秀なツールがディクシャです。人によって壁の厚さがまちまちなので、 穴の数や大きさに差は出るかもしれませんが、でもいずれはみんな神と ひとつになるんだろうなあというのが、この図からわかりますよね(^o^)b http://plaza.rakuten.co.jp/okirakumono/6004 ディクシャにより脳の配線が変わり、想念というものは外部から飛び込んで くるもので自分のものではないとわかると、つまらない考えにとらわれて 悩んだり心配したりといったことが減ってきます。そのため、とても自由で 解放された気分でいることが多くなります。  しかし、それでもある考え・ある感情にとらわれてベタッとそれに 張り付いてしまう場合があります。これは感情のチャージによるものです。 つまり、これまでの人生でうまく表現できなかった感情が、記憶と共に 体(主に内臓)に蓄積されているのです。  感情は、怒りでも悲しみでもそれ自体は、ちゃんと表現できれば苦しみ にはなりません。子供が「泣いたカラスがもう笑った」ができるのは、表現 することをためらわないからです。ところが、うまく表現できなくて感情を ためこんでしまうとチャージとなって体に残り、無意識のうちにその人を 何度も繰り返し苦しめます。トラウマというのは、その典型的な例です。  この感情のチャージを解消するもっとも簡単な方法は、もう一度その感情 を味わうことです。吐き出してしまえば終わりです。その辺の ワークショップ等で楽になったなあと感じるのは、主にこの感情のチャージ が解消された場合ですね。インドでもさんざんやりました。  逆にいうと、心理学やら哲学やら精神世界を振り回して、何らかの 意味付けを加えるのは、逆効果であることがわかります。プラス思考 なんてのはその最たる例です。  「いい方向に考えなくっちゃ!」「すべては必要必然なんだから」・・・ そうやって自分を無理やり納得させても、結局チャージを増やすばかりです 。僕が今までこの日記に書いてきたことも間違いが多いなあと思います。 色々勉強してきた人ほど、この意味付けにによるごまかしが上手です。 そして苦しくなります。 「決して怒らずいつもニコニコしていよう」なんてできるわけがありません 。悟ってもできません(^^: いろんなことやって自分は変わったなあと 思ってる人でも、怒りという感情がなくなったわけではありません。怒りの 対象が変わったか、自分をごまかしているだけです。  腹が立ったらその怒りを味わえばいい。悲しいときは泣けばいい。うまく いかないときは落ち込めばいい。流れてきたものに逆らわないのが悟りです 。だから葛藤や苦しみがないんです。体験をコントロールしようとすると 苦しみを生じます(決してコントロールしきれないので)。 http://plaza.rakuten.co.jp/okirakumono/6003 今日は、午前中は1ヶ月ぶりの庭の手入れ、昼からは息子と雨水利用 システムの改造に取り組みました(ペットボトルを使った浄水機能追加)。 その他、インドの話を聞かせてくれという人が結構いて、その辺の電話や メール連絡、断線したスタンドの修理、明日の打ち合わせの資料作りなどで 、振り返ってみると忙しい一日でした。  でも、忙しいという感じがしないのです。 なぜかと考えてみると、自分がとても静かな状態で過ごしてるからだと気が つきました。子供からなにか話し掛けられて鬱陶しいなあと感じたりする のは、自分がなにか考え事をしてるときが多かったことにも気づきました。 つまり、インドから帰って以来、考え事に没頭している時間がとても短い のです。  例えば、「30秒間何も考えないぞ!」と決めて目をつぶって、 何も考えないでいられますか?今すぐやってみてください。  もし自分で考えているのなら考えないでいることもできるはずなのに、 できないでしょ?必ず何らかのコメントが頭に浮かんだはずです。  悟りのプロセスがある程度進むと、これが誰でもできるようになります。  こうなってみると体験的によくわかりますが、自分が考えてるというのは 錯覚で、自分で考えているのではなく、考えは外部から飛び込んでくるもの なんです。テレビやラジオとおんなじです。その人ごとに、同調しやすい チャンネルと同調しにくいチャンネルがあるだけです。  空間に蓄えられてる想念(マインド)が、額のチャクラから入って後頭部 のチャクラに抜けていくのを見ることができる人もいます。 僕は、インドコースの途中で、ふとバスから外を眺めてるときに、全くコメ ントが浮かんでこないことに気づきました。それまでだったら、僕はコメン トの鬼みたいなものでしたから、常になにか考えてて、この赤茶けた大地の 成分はラテライトだっけとか、日本に帰ってからかみさんにこの風景をどう いう風に説明しようかとか、それこそいつも頭を動かしてる人間でした。  ところが、そのとき以降実に頭の中が静かなんです。 その気になれば、 ずーっとコメントが浮かばない状態を続けられるし、たまーに 「これでいいのかな?」とか浮かんだりしても、それがテロップのように すーっと流れていきます。  そのうちもっと詳しく書きますが、これがマインドからの解放というやつです。  マインドから解放されるとこんなに素敵なことがあります。  ・流れてくる考えに惑わされて、苦しむことがなくなる  ・その体験を丸ごと味わえる   (コメントが浮かんでるうちは「解釈」という処理が入るので、体験が限定される)  ・どんな体験でも味わい尽くせば喜びに変わる、ということを体験できる   (マインドから解放されてないと注意力が続かなくて困難)  ・自分の考えは自分のものではないことが、深く実感できる。  ・自分のものではないとわかれば、それをコントロールしようとしなくなるので、そこで葛藤や苦しみが生じない。  お釈迦様がある人から「あなたは見たところ普通の人と変わりない ようですが、どこが違うんですか?」と聞かれて、おもむろにそこにあった ミカンを手にとって美味しそうに食べたそうです。そして曰く 「あなたがたは白昼夢を見ている。私は目覚めている」。  飛び込んでくるさまざまな想念に翻弄され、今その瞬間の体験を 味わうことができないのが、現在の人間の姿です。  では、マインドから解放されるにはどうしたらいいかというと、これは 物理的に脳の配線をつなぎかえるしかありません。しかし世界中の脳外科の 先生に聞いても、どこをどういじればいいか知ってる人はいません。いくら 心理学や哲学を勉強しても瞑想や座禅をやり続けても、決してこの状態には なりません。その方法を知ってるのは、カルキ・バガヴァンただ一人で、 そのためのエネルギーを注入する手段がディクシャです。  なぜなら、彼は悟りのアバター(神の化身)だからです。  この物理的な脳の変化が起こらないうちは、どんなに趣味と仕事が一致 しようが、自己実現できていようが、家族関係がうまくいってようが、不安 や心配、恐怖から解放されることはありません。必ずマインドが介入して きて、耳元でいろんなことをささやくからです。「今はよくてもきっと失敗 するよ」「どうせまたいつものパターンさ」「世の中どんどんひどくなるね 〜」「本当にそれでいいと思ってんの?」「プラス思考でいかなくっちゃ!」・・・  それらのささやきが自分のものではないと、距離感を持って見られるよう になると、ものすごく楽ですよ〜。単にそういう放送を流してるテレビ局が あるというだけの話です。 #アバターとは、宇宙全体を統括するような巨大な意識が、ある目的のため に肉体を持って生まれてきた存在です。バガヴァンの話によれば、数学の アバターや物理のアバター、そしてもちろんスピリチュアルな世界でも、 多くのアバターが今地球上に来ているそうです。バガヴァンは、悟りの アバターなので、ディクシャのエネルギーはすべて彼を通して流れるように なってます。バガヴァンが発電所で、僕らディクシャ講師が変電所です (そのままだと強すぎるので)。  バガヴァンはディクシャによりそうした脳の状態を与えると言い、そして こちらは実際にそうなってるんですから、これは信じるなという方が無理 でしょう(笑)。  「悟りは与えられるものである」というのはそういう 意味です。努力により達成するものではありません。 http://plaza.rakuten.co.jp/okirakumono/6000    ****** はじめに(必読) ****** 1.情報源 これからぼちぼちと悟りについて書いていきますが、これは僕自身の体験は もちろんのこと、以下の情報を参考にしていることをお断りしておきます。  ○カルキ・バガヴァンの教え  ○インドコースでの講義  ○カルキセンター主催の国内コースでの講義  ○大矢浩史さんとの質疑応答(←カルキセンター代表:実は大学の同期 だった・・・)  ○大矢さんの本『黄金時代の光』 小冊子『ワンネス』  ○中西研二さんとの質疑応答  ○中西さんの本『悟りってなあに?』 2.目的  ここで色んなことを書く目的は以下の2つです。  ・体験に導くこと  ・体験を理解すること  つまり、こんな面白いことあるからやってみない?というのと、その体験 はこういう意味ですよ、というその2つです。 3.注意  だから、これを読むだけでわかったような気になって終わるのではなくて 、必ず体験してみてください。インドコースに参加するのがベストですが、 カルキセンターや中西ヒーリング会、あるいは全国各地の僕らディクシャ 講師が、個別でやってるコースに参加してみてください。ディクシャを 受けてください、  体験なしでは、決して理解できません!  もし、僕のように好奇心旺盛で探求好きで、徹底的に理屈で理解したい という人がいたら、思う存分やってください。必ず行き詰まるので(笑)。 4.念のため 僕の日記をちゃんと読んでる人はご存知でしょうが、僕はいかなる宗教団体 に入ってるわけでもなく、信者獲得のために動いてるわけでもありません。 自分が、これはいい!と思ったからすすめてるだけです。このスタンスは昔 から変わってません。関心のない方は無視していただいて結構です。 このカルキ・バガヴァンがやってるワンネス運動は、宗教ではありません。 それが証拠に、キリスト教徒もイスラム教徒もヒンズー教徒も、改宗なんか せずに信仰している神はそのままでディクシャやってます。  また、僕ら21日間コースに参加した面々は、ディクシャをできるだけの パワーをいただきましたが、これからの活動について一切の制約を受けて ません。料金設定も自由だし、信者獲得のノルマもなく、もちろんインドに 上納金を納める必要なんかありません。  ただ人々を苦しみから解放し、悟りを与え、ワンネスの世界を実現する ことだけが目的です。そしてそれだけが、今のこの世界を救う方法だと 思ってます。自分とそうでないものという分離感がある限り、人々の行動は 利己的(自己チュー)にならざるをえないからです。  そして悟りとは、「自分は存在しない」ということがはっきりと わかることです。 http://plaza.rakuten.co.jp/okirakumono/6002 ※悟りを求める気がない人は、読まないでください。  情報だけが一人歩きしても混乱するだけなので。  また、情報だけであるいは自分の努力で悟ることは不可能です。 「人生とは重い荷物を持って山道を登るようなものだ」と徳川家康が言った そうですが(本当は言ってないらしい)、悟りについてそんなイメージを 持ってる人も多いかと思います。苦労して努力してやっとのことで山の頂上 に登り詰める感じ、到達点・・・僕もずっとそう思ってました。  ところが実際に体験してみるとそんなもんではないですね。  カルキセンターの大矢さんの言葉を少し僕流にmodifyすると、 「山に登ってもいいし登らなくてもいいけど、そんなことよりいい山だなあ としみじみ味わう感じ」です。しかも、努力は不要というか、努力してる うちは決して悟れないということに、努力好きな僕はインドで叩きのめされ ました(笑) お釈迦さまもありとあらゆる修行をやって、それでもダメだ〜 とhelplessの状態になったときに初めて悟りが訪れたんです。  悟りはゴールではありません。そもそも宇宙に目的がないのに、人の人生 にゴールなんかあるはずがありません。永遠に続く宇宙のプロセスのなかで 、たまたま僕ら人類が、なぜか身に付けてしまった「苦しみ」から解放 された時点を便宜上、悟りと呼んでるだけだというのが僕の認識です。  本来は、人は赤ちゃんの頃は皆悟った状態で生まれてて、1歳〜1歳半 くらいの間に「自分」という認識が生まれ、18歳〜24歳の頃にその自分 という概念が消失し悟りの状態に戻っていくのが、自然なんだそうです。 脳には元々そういう機能があるのに、そのプログラムがうまく作動しなく なってるのが、今の人類です。バガヴァンの言葉を借りれば 「創造のエラー」なんだそうです。神様は万能ではないし、失敗も するんです(^^:  今はそのエラーをなんとか修復しようと神様もやっきになってますから、 全世界の人々全員が必ず悟れることになってます。それもあとほんの数年 です。ちなみに日本は国として世界で最初に悟る国なんだそうで、2008年中 には全国民が悟るそうです。まさか〜そんなとお思いかもしれませんが、 僕にとってはとっても!リアルな感じです。関心のない方はそのときをぼー っと待っていてももちろん結構です。その頃になれば、自分でも気がつか ないうちに悟るでしょうから。僕は野次馬根性と好奇心、そしてハートの 奥底から湧き出る何かにつき動かされてこんなことやってるだけです(^o^)  ちなみに、人間以外の動物や植物は、みな悟ってます。  彼らには分離感というものがありません。空を行く鳥の群れや無数の小魚 たちが、なぜ見事にターンをするのか、指揮命令系統のない虫たちがなぜ 統一的行動ができるのか・・・彼らには「個」という概念がないからです。  そして僕ら人間は、その「個」あるいは「自分」という概念を、実在の ものと思ってしまってるが故に苦しんでいるのです (この辺は理屈では決してわかりません!) http://ondanka.yahoo.co.jp/interview/01/01.html  小林武史 「未来バンクの田中優さんに会って、 『自分のお金を自分の選択する未来のために使う』 という市民のためのバンクの存在を知って、その時はまさに 目からウロコでしたね。海外ではすでに事例があるけど、日本では なかなか難しいのは、日本人のメンタリティのなかで、どこか "結局、みんな自分のことがかわいいのよ" というような感覚があるんだと思う。 難しいことは上の人が決めるんだっていう、ある種の 人任せみたいな感覚。 だけど、今はそういう、すべてを決めてくれる 人っていうのもいないわけだし。 自分たちのお金の流れ、自分たちのエネルギーを つくっていくというのもあるのかなあと思ったわけです。」 http://ondanka.yahoo.co.jp/interview/01/02.html 「」 http://www.asyura2.com/0502/bd39/msg/848.html WTCタワー再保険返還請求に向けて・・・徐々に出てくる鮮明証拠画像 http://www.net-g.com/photon/reset3.html 「*火山活動は1975年以来地球全体で500%も増加している。 *地震活動は1973年以来地球全体で400%も増加している。 *1963年から1993年の間で、地球上のあらゆる災害(台風、ハリケーン、土石流、津波)が410%も増加している。 *太陽系で発生する強烈なプラズマ流が最近1000%も増加した。 」 http://japana.org/global_justice/kazuki/gmo_corporate_invasion.html フランケンシュタインフード  しかし、米モンサント社が開発したGM大豆がアルゼンチンで大規模に栽培されるようになると、PRの偽りが明らかになっていきます。 同社がGM大豆と一組にして売り込む除草剤は強い毒性を持ち、どんな雑草にも効果があるという触れこみで、ラウンドアップ(一網打尽)と名づけられました。その毒性から作物自体を守るために、GM作物はラウンドアップ耐性を備えるように遺伝子を操作されています。 しかしラウンドアップの散布をつづけると、耐性を持つようになった雑草がかえって増えました。ほかの除草剤を合わせて、濃度を高めた薬剤ミックスを頻繁に散布するしかなく、在来種を栽培するときよりも2倍の農薬が必要になりました。 毒性の高い薬剤が広大な大豆畑に堆積しながら、周辺の耕地へも拡散してゆきます。すぐにGM大豆の大農場に隣接する中小農場の作物が被害を受けて収穫できなくなりました。ブタやニワトリが死に、子ヤギが死産か奇形で生まれてきます。人への悪影響も確かです。大農園で散布された農薬が風で流れてくると、目が痛くなる。子どもたちの足には発疹が出ます。 1999年、スエーデンの研究者たちが、ラウンドアップの主成分であるグリフォセイトには発ガン性があると報告しました。さらに、併用される除草剤は、24Dやパラクワットなど先進国ではすでに禁止されている農薬です。大量の農薬で栽培されるGM作物や、それを飼料として育てられた家畜を人が食べたとき、健康に障害を起こすことはないのでしょうか。この問題についての研究は、まだなにも始まっていません。 http://blog.livedoor.jp/nell888/archives/12299061.html イタリアごろごろ猫記 Diario di un gatto pigrotto January 14, 2005 津波の残した教訓 スマトラ沖地震・津波からちょうど3週間経ちました。 被災地の援助はもちろんですが、このような惨事になってしまった 要因についても考察するときがきたようです。 少し遅くなりましたが、先週イタリアの新聞"il manifesto"に掲載された インドの環境活動家ヴァンダナ・シーヴァ(Vandana Shiva)さんの 論説「地球への警告」を訳しましたので、目を通していただけるとうれしいです。 ヴァンダナ・シーヴァさんは、遺伝子組み換えに反対する農民たちを 精力的に支持するなど多くの環境問題に体当たりで取り組む知的な素晴らしい女性(^_^)。 彼女の詳しいプロフィールはWhere Angels Fear To Send Trackbacks(kasuga sho diary)さんを是非参考になさってください。写真もあります。 以下、全文訳です。 地球への警告 ヴァンダナ・シーヴァ  世界が12月26日の津波から得るべき最も重要な教訓は、温暖化の影響の繰上げも含めた新たな自然災害の襲来に備えなくてはならないということだ。水が立ち上がりモルジブ諸島を飲み込んだとき、私は自然が言うのを聞いた−「ほら、海面が上昇するとこうなるのだ。地球全体は、このようにして平和に暮らす環境を地上から失っていくのだ」と。  米国政権とビヨン・ロンバーグ(Bjorn Lomberg、[訳注]デンマークの統計学者)のような環境懐疑論者たちが、金持ちの北は二酸化炭素の排出を制限し温暖化現象を抑止する努力をするなど許されないと主張し続けている間に、そのように「ビジネス優先」で押し切ると、どれほど莫大な損失を受けるかを津波は示した。津波はロンバーグを、自作の「コペンハーゲン・コンセンサス」の気弛みから覚醒させなければならない。この「コペンハーゲン・コンセンサス」によると、地球の気候変化による影響は、経済政策と経済システムの変更を必要とするほど重大ではないというのだ。ロンバーグはモルジブの住民たちに、化石燃料に起因する気候の変化がもたらした、もはや取り返しのつかない海面上昇現象は仕方ないから諦めるかと尋ねてみたらよいだろう。  津波被災者の援助に総動員で取り組むと同時に、我々は気候の変化による未来の被災者に対しても、今すぐに行動しなくてはならない。地球の温暖化に関する国連協定の話し合いの場で、小島国家連盟(Alliance of Small Island States)のあるリーダーはこう言った。「人間の最も強い本能は欲ではなく、生き残りの精神だ。我々は我々の土地、そこの住民と文化が、短期の経済利潤と引き換えにされることを誰にも許さない」インド洋の国々は、海面上昇で浸水し海岸線が変形することにより、ダメージを受けることになるだろう。津波は視野の狭い利己的な計算ではなく、公平に基づく将来を築くようにと我々に伝えているのだ。  次の災害は必然的に津波ではないかもしれない。例えばそれは、ガンジス河の地震断層の上に建設中のダムの一つ、テーリ・ダム(Tehri)が原因となり引き起こされた地震による洪水かもしれない。水はダムからデリーまで数百マイルを流れ、世界最大の水小売業者スエズ社によって私有化される。このダムは高さ260.5m、322万平方メートルの水を集積し、バギラーティ(Bhagirathi)の谷に45kmまで、ビランガナ(Bhilangana)の谷では25kmの範囲まで広がる予定だ。もしダムが地震の起因となれば、1時間半以内に高さ260mの水−津波の20倍の高さだ−がリシケシュ (Rishikesh)とハリドワール(Haridwar)の聖地を一掃してしまうだろう。8時間で谷から214km離れたメールト(Meerut)を高さ10mの水が一撃し、10時間で高さ8.56mの波が286km離れたブランシャハール(Bulanshahar)を襲うだろう。  災害に備える必要性を訴えた津波の教訓は、迅速な経済成長のために自然のコストと脆弱性を無視した開発モデルの結果生じるだろう惨事全てにかかわる。真に災害に備えるとは、環境の脆弱性を縮小し、その耐久性を高めることだ。公共財産と各政府の社会責任は、大企業の利益や欲のために犠牲にされてはならない。津波の被災者にとって食料、水、医薬品は最も早急に必要なものだ。公共機関がこれら必需品の配給に急がなくてはならないとき、大企業のグロバリゼーションは私有化に先を争っている状態だ。インドなどの国が、津波の残した公衆衛生の緊急事態に直面して、価格を抑えたジェネリック医薬品を必要としているとき、政府(インド政府)は2005年1月1日以降低価格医薬品の製造を阻止する特許法を出した。  皮肉にも、津波は大企業のグロバリゼーションの世界と、人からなる世界が相反することを顕著にした。インドの特許法は災害が我々の海岸を襲ったのと同じ日に可決された。これは、大企業のグロバリゼーションは人々とその命に起こる事象に解答を出すことのできない力によってリードされていることを示した。津波は人類への警鐘だ。もはや、公共財産の私有化へ狂ったように走る白昼夢を見ている場合ではない。あらゆる食料と水が大企業の自由市場にコントロールされる商品と成り下がってしまったら、社会は飢えた人間をどのように食べさせるのか、喉の渇いた人に水を与えてやることはできるのか?    弱い立場にある何百万人もの人間は、しっかりとした公共システムが食料、水、医療サービスを供給することを必要としている。これらの公共サービスの必要性は、世界貿易機構(WTO)と世界銀行が強要する私有化と真っ向している。我々は利潤を追い求める市場における単なる消費者ではないことを、津波は気づかせてくれた。我々はもろく、互いに支えあいながら壊れやすい世界に生きているのだ。これは地球とそこに住むあらゆる人間に対する責任と義務についての警告だ。津波は、この地上で我々はみな繋がっていることを思い出させてくれる。お金ではなく、哀れみの心が我々を一体にする価値なのだ。津波はとりわけ、謙虚な姿勢をとるようにと呼びかける。自然の怒りの前で我々は無力だと気づかせてくれる。  津波は傲慢を捨て、我々のもろさを認めるよう促す。海岸で衝突したのは波だけではない。ふたつの価値観がぶつかり合ったのだ。ひとつは自分が引き起こした自然災害に対して全く無能な、自由市場と大企業のグロバリゼーションの世界観、もう一方は異なる世界の人々が集まり一つの人類を作り、不確かな未来に向かって自分たちのもろさを十分に認識しながら、生活を再建し備えようとする地球デモクラシーの世界観。被災者たちの支援に全力を傾けつつも、長い目で見たとき我々が貢献できる最も大切なことは、このもろい地球に刃を立てることを慎み、環境の弱さに対応するよう備えることだ。自然の成長ではなくその復元力こそが、この不安定な時代に人類が生き残りうる能力を測る本当の尺度であろう。● *おことわり* 英語の原文を探しましたが、IPS(Inter Press ServiceNews Agency)では冒頭の数行を載せただけで、 全文はプレス関係者に有料で配布しているようです。 私はil manifestoのサイトに1週間だけ掲載されたイタリア語訳を さらに日本語訳しました。直接イタリア語の記事を読みたい方は コメント欄に書いてくだされば、保存してあるものをコピーして お送りします。 津波があった日、インド政府は極秘に核爆弾実験を行っていたという ニュース(エジプトのインテリジェンス・サービスからイスラエルの新聞に 伝わったらしい)を聞きかじりましたが、もしこの二つに関連性が あるのだとしたら…(~_~;)。 Posted by nell888 at 10:02 │Comments(2) │TrackBack(0) このBlogのトップへ │前の記事 │次の記事 この記事へのトラックバックURL http://blog.livedoor.jp/nell888/tb.cgi/12299061 この記事へのコメント こんにちは! >公共財産と各政府の社会責任は、大企業の利益や欲のために犠牲にされてはならない。 >津波は大企業のグロバリゼーションの世界と、人からなる世界が相反することを顕著にした。 昨今の大企業のあり方には、あまりにも道徳心に欠けているのでは?と 思わずにはいられないものが多々ありますよね。東南アジアには大企業の 生産工場が沢山ありますが、そこで生み出された利益が、 その現地の労働者の生活や、彼らの国の発展につながっているか、 と言えば、そうとも言えないし・・・。 今回の津波で、被害を受けた東南アジアの国々を取りまく状況が  さらに悪くなるのが一番恐ろしいことだな、と思いました。 とても興味深く読ませていただきました! では、また。 Posted by マーヤー at January 19, 2005 13:45 ☆マーヤーさん 読んでくださって、どうもありがとうございました!うれしいです^^。 こなれていない日本語ですみません。翻訳、まだ修行中なのですが シーヴァさんの記事をどうしてもご紹介したくて。。。 全く同感です! ナイキはシューズの65%をリーボックは35%(数字ちょっとあやふやです)を この地域で生産させていたのだが、津波の被害で今後の生産が危ぶまれる というような記事を最近読みました。また日本が輸入するエビの量も減ったのだとか。 私たちが普段買いなれている商品は、こういった貧しい国の人々が 安い賃金と厳しい労働条件で生産するものだったりするのですよね。。。 大企業は小さな会社を買収して市場を独占してしまい、私たち消費者の 選択権がどんどん狭められている様子には困惑します。 たとえば、大好きだったイタリアのチョコメーカーがスイスの大企業(ネ○レ)に 吸収されてしまい、抗議の意味で買わなくなったのですが、悔しい…。 めぐり巡って彼らと繋がっている。 私たちの生活と彼らの生活がともに向上するように、日常でも 意識をしていければなって思います。 Posted by ねる at January 20, 2005 08:53 名前: メール: URL: 情報を記憶: コメント: このページの上へ▲ http://www.sloth.gr.jp/library/others/020222peter.html ナマケモノ・チャレンジ--電気の節約で市民風車を! ピーター・ハウレット(ナマケモノ倶楽部会員) 「北海道のヒグマはマイナス20〜30度にもなる過酷な冬を穴倉に閉じこもり、冬眠するという徹底したエネルギー節約を実践しています。冬眠中のクマは活動期の37〜38度の体温を5度も下げ、一分間に40〜50回の心拍数を最低8回におさえ(米国アイオワ大学のエドガー・フォークによる)、体に蓄えた脂肪をスローに使いながら春を待つのです。  乾ききった砂漠にはカンガルーネズミがいます。このネズミは水を「節約」する非常に効率の良い胃袋を持っています。ヒトでは尿中の尿素が約6%なのに対して、カンガルーネズミは24%もの高い濃度だそうです。つまり、ヒトと同じ量の尿素を排出するのに必要な水分をカンガルーネズミは4分の1ですませることで砂漠の厳しい環境を生き抜いているのです。(米国デューク大学のシュミット・ニールセンによる。)  しかし、節約の横綱は何といってもナマケモノ。この動物は生存競争が激しい熱帯雨林を「節約」と「共生」で生き延びています。まず、体の構造そのものが「節約」をしていると言えます。他の哺乳類と比べて相対重量(体重に対する筋肉総重量)はおよそ半分しかないので、生きていくために必要とするエネルギーも半分でまかなっていることになります。さらに体温は30〜34゜と低く、外界の条件で体温を変化する事ができるので、エネルギーの消耗を少なくしています。さらに睡眠時間は一日平均19時間ともいわれ、ここでもまたエネルギーの「節約」をしています。この動物は「ナマケモノ」と言うより「セツヤクモノ」と名前を改めたほうが良いかもしれません。」 「*日本の道路を走るガソリン自家用車の平均燃費は1982年から1996年の間に14%も悪くなっている! *北海道の一世帯当りの平均電気使用量は過去10年でおよそ月/50kWh増えている。(従量電灯AB契約者<北電>) *函館の一人1ヶ月平均配水量は過去10年で120リットル以上増えている。  節約どころか、私たちはますます、資源・エネルギー大量消費型動物になっているのです。これはもう「分かっちゃいるけど、やめられない。」ですまされるような問題ではありません。50年後に世界のサンゴ礁が消える!と警告されている今、100年後に世界の平均気温が2゜上昇し海面が50cm上昇し北海道の自然海岸の約80%が消失すると警告されている今、80年後に海面が40cm上昇し世界の沿岸域に住む7500万から2億人が家を失うと警告されている今、それでも私たちは何もしないでいられるのでしょうか。私たちの子供たちや孫たちに恨まれないようにするためには、今すぐに、「節約」に本腰を入れなくてはなりません。  しかし、「節約をしよう!」と言うスローガンだけでは、なかなか動き出しにくいと感じる人もおおいようです。実現可能な努力目標を決め、自分の「節約度」を目に見える形で提示しないとその気になれないということは確かにあります。そこで、このほど、私たち「南北海道自然エネルギープロジェクト」では月500円分の電気使用量の節約という目標を掲げ、自分の「節約度」が見える方法を発案しました。それが「ナマケモノチャレンジ」2002年カレンダーなのです。」 「1. 電力会社に問い合わせて、2001年の自宅の月ごとの電気使用量/金額を記載した資料を送ってもらい、この情報をグラフに記入する。 2. 月500円以上の電気使用量の節約に挑む。 3. 毎月「電気ご使用のお知らせ」が届いたら、その情報をグラフに記入し2001年の同月の使用量から差し引き、500円以上の節約ができたら緑のポッチシールを貼る。 4. 節約した500円は郵便局の自動払込手続きをして、「エネファンド」ヘ。  「南北海道自然エネルギープロジェクト」では、この「エネファンド」を基金として市民風車を建設しようと計画しています。NPO「北海道グリーンファンド」が昨年の9月に市民風車1号機を建設し、「クリーンなエネルギーを市民の手で作り出そう」という人は輪を広げていきたいものです。  私たちの会のシンボルである「風の又三郎」と共に「どっどど、どどうど・・・」と、北海道の、日本の、そして世界のエネルギー政策に新しい風を吹き込みたいものです。皆さんもぜひ「ナマケモノチャレンジ」にご参加ください。 連絡先:「南北海道自然エネルギープロジェクト」事務局     函館市柏木町35−4 アイズ内     TEL:0138-55-2391 FAX:0138-51-2590 」  ヴァンダナ・シヴァ 「問題なのは、「貧困」と「開発(デヴェロップメント)」という表現です。エコロジーの枠組みの中で使われるのか、商業的な枠組みの中で使われるのかによって、意味が大きく違ってきます。 人類の3分の2が日々の糧を直接、大地や水、生物多様性に頼って暮らしている。だからその資源が破壊されたり、私有化されたりすれば、これらの人々は生きる手段を失い、貧困を余儀なくされます。 一方、その同じ破壊が市場経済においては「成長」とみなされるのです。ダム、高速道路、港湾は、商業的枠組みの中では「開発」プロジェクトの花形です。けれども、地域コミュニティはいつもこれらのプロジェクトに抵抗します。なぜなら、こうした開発は、そこに住む人々の家庭やコミュニティを壊したり、生活の基盤を奪ったり、文化の断絶をもたらしたりして、結果としてその地域の発展をおしとどめ、かえって「低開発地域」におとしめてしまうことになるからです。 第三世界において、環境{エコロジー}運動は、貧困や発展阻害に対抗する抵抗運動です。環境運動といえば北半球の裕福な国だけの専売特許だと思わないで下さい。生き生きとした力強い運動が、「南」の国々においても展開されているのです」 「現在行われている「開発」なるものは資源の集約的な搾取を意味しており、だから初めから環境破壊や経済的略奪を内包するものだということ。また、環境をめぐる問題は単に金銭上の損失や利益の問題ではないということ。生命や健康の基盤そのものの破壊は、単にお金の損失ではなく、まさにいのちそのものの問題なのですから。つまり環境運動の一番重要で普遍的な意味は、「再定義」という点にあるのです。「開発」とは何か、経済価値とは何か、技術効率性とは何か、科学的合理性とは何か、を改めて問い直し再定義する。こういってもいいでしょう。エコロジーとは、私たちが編み出そうとしている新しい文明にふさわしい、新しいエコノミーの創造なのだ、と。」 「経済成長の考えに基づいた「開発」においては、市場で値をつけられず、商品生産にも寄与しないような資源や資源プロセスがすべて無価値のものとされてしまいます。この考え方がこれまでしばしば、人々の生存の基盤であった資源を破壊したり、奪ったりする「地域開発計画」なるものを生み出してきたのです。多目的共有森林を工業用木材の単一栽培プランテーションに変えるといった資源の転用、共有資源の破壊、そして自給用の農作物や飲料水の商品化。どれも市場経済の中で、経済開発プログラムとしてよく提案されるおなじみの方法です。しかしそれらは、本来の「自然と生存の経済」の文脈においては「不経済」を意味し、発展の阻害をしか結果しません。環境運動が「開発」に反対するのは、それが生存の基盤そのものの破壊を意味するからです。ですから、第三世界における環境運動とは、富裕な人々の暇つぶしなどではありません。それは、市場経済の保護を受けるどころか、逆にその拡大によっていのちを脅かされる大多数の民衆による生存のためのやむにやまれぬ行動なのです。」 http://www.sloth.gr.jp/siva3.htm 観るディープエコロジーな「私」 ヴァンダナ・シヴァ 「他の種は単なる原料としてみなされ、生物の多様性は破壊され続けています。これほど豊かな生物多様性に恵まれたつ美しい惑星が、産業のニーズに応えるために開発される鉱山に成りはてようとしています。もし私たちが、遺伝子工学や生命特許の考えを受け入れ、それに基づいてこの世界を生きていこうとすれば、どうなるか。私たちは常に戦争状態の中にあることになるでしょう。自分自身との戦争、自然界との戦争です。これは戦争と暴力の哲学というものです。そこでは自己が他者とは分離したもの――自然界、他の生物種、他の人間たちとは切り離された別の個であることが前提になっています。いや、単に分離しているだけではなく、敵対的な関係にある。つまり、自己と他者とはたえず戦争状態にあるということです。これに対して、「自己」のもっと大きな捉え方があるでしょう。そこでは、「他者を含む自己」という考え方です。「私」と「他者」が一緒に「自己」をつくっている。他者あっての自分。この世のすべては、永遠の関係性のうちに存在している、という考えです。インド哲学には「私はあなたである」という表現がある。美しいでしょ。一体なんです。これはマハトマ・ガンジーが唱えたことでもあります。彼はこんなふうに言っていました。 あなたがもし、自分の行動が正しいか間違っているかと迷うなら、その時は自分の知っている中でもっとも恵まれない人、これまで出会った中で社会的にもっとも不利な立場に置かれている人のことを心に思い浮かべなさい。そして、あなたの行動がその人にどういう影響を及ぼすことになるか、で判断しなさい。もしその人物を傷つけることになるのなら、その道を進んではならないし、逆にそのもっとも恵まれない人に何かの利をもたらすと考えられるなら、行動しなさい」。ここにも「他者を含む自己」という考え方が見られますね。ディープエコロジーの基底にあるのも同じ考え方です。だから、もっとも不利な立場に置かれ、もっともその存在を脅かされているものたちのために行動する、というのがディープエコロジーな「私」なんです。 貧困を生み出したものは何か。それは「人間対自然」という世界観です。この世界観は、稀少性という概念を「自然」の中にもち込み、一方で、その希少性を補い、埋め合わせるものとしてさまざまなテクノロジーを生み出そうとしてきたわけです。けれども現実には、これらのテクノロジーは、希少性を埋め合わせるどころか、環境や生態系を破壊したり、人々を一層貧しくしたり、つまりいたるところで希少性をつくり出してしまいます。たとえば、海は何世紀もの間、漁民たちに十分な食糧を与えてきた。けれど、新しい技術が次々とうみ出され、しまいにはジャンボジェット機を12機も入れることのできるような巨大な底引網を持つトロール船さえ現れて、海底を根こそぎさらっては海洋のもつ生命サイクルを破壊してしまう。 今や、こうした破壊的なテクノロジーを後押ししてきたはずのFAO(国連食糧農業機関)でさえ、世界の漁業の約90%が崩壊の淵にたっているということを認めざるを得ない状態です。要するに、もう捕るべき魚があまり残っていないんです。自分たちを貧困から守ってくれるはずのテクノロジーによって、逆にインドの漁民たちは一層貧しくさせられた。以前、漁民は決して貧しくはなかったのです。彼らなりの小規模な漁を行っていた頃は、それなりの収入を得て暮らしをたてていくことができたんです。  私は、インドでもっとも貧しいコミュニティのいくつかで活動しているんですが、貧困問題の解決策は、たいがいの場合、環境問題への取り組みの中で見出されるものです。現代インドの貧農が生き残る方法は、生物の多様性を壊すかわりに豊かにしていくような農業以外にはありません。たとえば農薬や除草剤を必要としない自然交配による在来の種子を使うということです。工業化された近代農業はどうでしょう。農夫たちは化学肥料や農薬や井戸掘りのための機器を買うのに多額の借金を背負わされ、その結果インドでは何千という農夫が自殺に追い込まれています。 こうした貧困、借金地獄、自殺といった深刻な社会問題に対するディープエコロジーの提案はシンプルなものです。ひとつは灌漑する必要のない種子を使うことです。そうすれば貴重な地下水を無理してくみ上げるための井戸を掘ったり、そのために借金をかかえこんだりしなくても済むわけですから。地球上の人間の誰もが十分な食糧と水と住みかとを得て、人間としての尊厳をもって生きること。それを実現するにはディープエコロジ―の考え方にたつしかない。つまり、貧困に対する唯一の現実的な解決策は、人類のみならず地球上のすべての命が存在する権利を認め、受け入れるところにしか見出されない、ということです。」 http://www.yasudasetsuko.com/gmo/column/030507.htm 生き物と地球に対する詐欺強奪戦争 ヴァンダナ・シヴァ ヴァンダナ・シヴァ氏講演録・完全版 2003年3月25日東京ウイメンズプラザホールにて (通訳:佐久間智子テープ起こし:山田勝巳) イラク戦争で毎日失われる無辜の犠牲者に黙祷を捧げましょう。(全員起立して黙祷) 私は、この戦時に平和のために旅をしてきて皆さんに参加しました。食料に対する戦争を止める平和の旅です。私が地球、体、食料システムに対する戦争と言う時、比喩的な意味で言うのではなく、現実の戦争なのです。 先の第二次大戦では日本の人々が被災しました。先の戦争で使われた大量破壊兵器が、核兵器だろうが化学兵器だろうが戦後農業に使われるようになりました。窒素肥料は爆弾工場で作られました。化学農薬は化学兵器を作る過程で作られ、人を殺すためのものでしたが、今は虫を殺すために使っていますが、人も殺しています。 非化学になったきっかけ 私が非化学の有機的、生態学的農業を推進し始めたのは1984年、ボパールの一つの農薬工場で悲惨な事故が発生し、一晩に3000人が死に、次の数日に6,000人が、最終的には40,000人死亡したのがきっかけでした。 この事故以外にも何百万人と言う人が農場で化学農薬によって、消費者が食料を食べてガンやアレルギーなどの病気で、この不必要な戦争で死んでいます。しかし、この農業における戦争は、食糧を生産するのに使われている大量破壊兵器が直接人を殺すだけでなく、この暴力の技術がもたらしたと言われている繁栄はまやかしの繁栄であって、暴力的技術がもたらす繁栄は、農村社会に不満と略奪をもたらしています。 農村社会の不満・緑の革命 この不満の例として、「緑の革命」が成功し、農業で繁栄しているとされるパンジャブ州では、1980年代に内戦が起こりました。ボパールで30,000人死んだが更に30,000人がパンジャブの暴力的農業で死亡しています。 イラクの場合のように、この死は全く不可避のものでした。ノーベル平和賞が与えられた『緑の革命』が成功だったのであれば、その後に起こった戦争という矛盾から一体何を学ばなければならないのでしょう。 次第に分かってきたことは、殆どの戦争が二枚舌で表現されている事です。農業の戦争は、『緑の革命』という旗印の下に、第三世界に平和のための食料という名のプログラムで押し付けられ、繁栄と平和をもたらし、共産主義を回避した技術として非常に賞賛され「緑の革命」に対しノーベル平和賞が与えられたのです。 しかし、残念ながら繁栄は本物ではなかったし平和ももたらされなかった。 繁栄がもたらさなかった理由はいくつかあり、私の『緑の革命の暴力』の中に書いたが、繁栄が実現しなかったのは、このシステムが、より多くの食糧を生産するためのものではなく、地球を短期間に破壊するシステムだったからです。 同じ量の米を生産するのに、通常の方法よりも水が5倍必要だった。そして、水不足が水争いを起こしました。このシステムは、平和的農業と置き換えるためのものだったのです。 有機農業について 平和的病害虫防除が有機的農場では実現しているが、これは多様性があることによって可能になっていて、私のところの農場では病害虫がありません。雑草も殆どありません。多様性が多ければ多いほど特定の種が病害に変わることはないのです。自然には、害虫とか雑草などというものはないとおもいます。生息空間を奪う暴力的農業によって、特定の種が害虫に変わってしまうのです。 戦争的発想が害虫や雑草に戦線を布告して、害虫も雑草も攻撃すればするほど強くなってスーパー害虫、スーパー雑草が出てきています。 害虫は、テロリストと良く似ています。攻撃をすればするほど、ますます凶暴になって行きます。テロリストや害虫や雑草を対策する唯一の方法は、これらのものにも他の種と平和共存する場所を与えることです。生きる空間を奪わないことです。暴力は更なる暴力を生み出すだけです。これは、農業でも冷戦でも同じ事です。 畜産について 工場畜産ではこれがはっきり出ています。インドには最も多種類の牛がいて、皆素晴らしい角をもっています。この角を飾るお祭りがあるくらいなんですが、牛は農場でも街中でも自由に歩き回っていますが、角で殺しあうようなことはしません。 しかし、たくさん詰め込む工場畜産ではこの解剖学的に美しい角が危険なものになるのです。だから、切ってしまいます。 鶏の嘴は、餌を食べたり害虫を捕まえたりするものですが、養鶏場では互いに傷つけないように嘴を切ってしまう。豚は、密飼いでは歯と尻尾が除去される。 このような食料は危険です。というのは、その生産方法が暴力的なだけでなく、暴力が施されたものは体に入ると身体に暴力をふるいます。この実例には全くばかげた狂牛病があります。 牛は元々狂うものじゃないんです。インドでは牛は聖なるものですが、牛がその糞で土を肥やすために敬われている事は余り知られていません。ヨハネスブルグで牛の糞を私のところへもってくる人がいて、私は有機農家が持ってきてくれたのかと思ったが、その人をよく見ると、インドモンサントの代理人だったのです。 モンサントの人間が持っていたとしても、牛の糞は土を肥やす平和な農業を象徴するものだが、彼等はそれを私を侮辱する武器にしたのです。 遺伝子組み換えについて 戦争を仕事にする人間が、食料を扱っていることが危険なのです。モンサントは枯葉剤の開発を行い、1990年代まで種苗を扱うことはしなかった。戦争が終わったので兵器のやり場を無くして農業で、それも遺伝子組み換えの中でその技術を使ってきた。 ノーマン・ボロはノーベル平和賞を「緑の革命」でもらった人ですが、元々はデュポンの防衛研究所に居た人で、普通の植物は農薬に耐えられないので農薬に耐える植物を開発していた。 「緑の革命」だろうと遺伝子組み換えだろうと平和のための食料、飢えを無くす等ときれい事を言っているが、どちらの技術も化学物質や戦争の市場や農業で戦争するための道具を増やすようになっている。 現在、農業での戦争は、3つの手段で推進されています。第一は、遺伝子組み換え技術、第二は知的所有権、第三は他の国の農業を潰すための貿易ルールです。 遺伝子組み換えが必要であるという宣伝文句に、世界の8億の飢える人たちを養うために食糧増産が必要だといっています。遺伝子組み換えは、食料を増やしません。 除草剤耐性のものは収量を減らします。混合農業では、20-30トン/エーカー生産できるが、除草剤耐性のものは、組み換え体だけで他のものは全て殺してしまう。除草剤耐性作物が栽培されている殆どの国では、既に大量に除草剤が使われて土が汚染されてしまっています。アメリカなどは大量のラウンドアップが土を汚染している。一時的には大豆生育を助けるが。 除草剤について インドでは除草剤を使わないが、それは畑にあるものは薬草、食料など様々な用途に使われていて、女性はこれらの作物を摘むことを仕事にしているのです。 数年前バンガロールでモンサントの大きな看板を見たのですが、それには女性が両手を雑草で縛られていて「ラウンドアップで解放されよう」と書いてあるのです。モンサントは、ラウンドアップを売るために色々な神や聖人のイメージを使いますので、純朴で信心深い田舎の人たちはラウンドアップが神の贈り物であるかの印象を持ってしまいますから、そうではないというキャンペーンをしなければならないのです。 去年はインドやアフリカでひどい旱魃(かんばつ)がありました。それは、気候変動によるのですが、原因はこの地球に対する戦争です。ラジスタン州では全滅でしたが、モンサントはラウンドアップがまるで旱魃対策であるかのように売っていました。 ラウンドアップとハイブリッドコーンをセットで売っていたのです。それで急いで農村へ出かけて今年六月に蒔くコーンについてはモンサントの種やラウンドアップは絶対に買わないように言って回りました。 モンサントのコーンの収量の数値を挙げて見ましょう。モンサントのチラシには、5000-9000kg/エーカーのコーン収量が上がると書いてあります。別のチラシでは2000kgに落ちています。現場のモンサントの従業員が私の同僚に話した収量は1200kgです。実際に栽培した農民は 700kgという数字を出しています。 インドで主に栽培されているBtコットンはもっと異常な状況です。希望なら詳細を話しますが、Btコットンに関してモンサントは収量が倍になったと言っています。これは全くの嘘で、Btコットンというのは、植物にBtという土壌菌を組み込んで植物がBt毒を出すようにしたのであって、収量とは全く関係がありません。 これに関してモンサントは、収量が倍になるということは、収益に換算すると10,000ルピー/エーカーの増収になると宣伝していました。 私達は、収穫時期に4つの州を回ってBtコットンの実際の収量がどうなのかを調べて回りました。約束された1500kgではなく農民が収穫していたのは200kgでした。非GMコットンは1000kg収穫できていました。10,000ルピー増収するどころではなく、6,400ルピーの損失だったのです。GMを栽培しなかった農家は、10,000ルピーの収入がありました。 信用できない企業のデータ GMバイオテクノロジー巨大企業と付き合ってきたこの5年間で学んだことは、彼等のデータを信用するなということです。このデータに関しては、開発とか技術移転といった美名を冠したプログラムで持ち込まれているものについても同じですが、その本質は独占です。 ゴールデンライスとは その例にゴールデンライスがあります。ゴールデンライスは、米にビタミンAを入れて第三世界の盲目をなくしようというものですが、ゴールデンライスの特許の多くはシンジェンタとモンサントが持っています。 私は、ゴールデンライスは盲目への盲目的対処だと言っています。ゴールデンライスを素晴らしい発明だとして推進している哀れな研究者や企業役員は、普通の米が既にビタミンAを持っているということを知らないんです。 欲しければありますよ、赤米、茶米。ビタミンAのために米を遺伝子組み換えしなくても農民の持つ赤米にはビタミンAがあるんです。企業の技術者や経営陣がそれに盲目なだけです。 それに米だけを食べる人はいません。色々なものを食べて色々な栄養を摂取しています。貧血やビタミンA欠乏を予防しようと思えば、米ではなく緑のものを食べるのは誰でもしていることです。 インドでは、コリアンダー、カリー、カリーリーブといったものがあり、1400ugのビタミンAがあります。十年に及び、何十億ドルという研究を経て遺伝子組み換えした米は、たったの30ugのビタミンAしかないのとは比べものになりません。 このことを、ゴールデンライスを開発していた研究者に野菜で70倍も摂れるんだと言ったところ、『そんなことは知らない』というのです。彼等は、このような野菜のことは知りませんし、米の事だって知らないんです。彼等が知っているのは米の細胞のことだけで植物としての米じゃないんです。 農民は植物全体を扱いますが、彼等が扱うのは培養皿の中の米の細胞で、そこに植物の遺伝子を打ち込んでいるんです。こんな人たちや培養皿から出来た植物に我々の食に未来を託すわけには行きません。細胞に遺伝子を打ち込んだり、核を取り出したりする様は、まさに細胞に仕掛けられた戦争です。 最近の勝利 最近私達が勝利した事があります。巨大アグリビジネス企業の一つであるシンジェンタが私達のジーンバンクの一つから、米の遺伝子を持ち出して独占しようとしましたが、米に手を出すなというキャンペーンをして阻止できました。 海賊行為 バイオパイラシー(生物に関する海賊行為)については、生体的植物防除に使うニームと、香りが素晴らしいバスマティライスの事件がありますが、ニームはアメリカ農務省とグレイス社が開発したものだと言い、バスマティライスはテキサスの会社が独占しようとしました。テキサス人は、中東の油も独占しようとするなど、人のものを自分のものだと言い張る癖があります。 このような海賊行為に対してバイオダイナミックだとか有機農業だとかいう事に戻ってきますが、ここで生物多様性を考える場合、もう一つの海賊行為に気付かなければなりません。 コンアグラという企業をご存知だと思います。カーギル、ADM、コンアグラというのが大きなアメリカの穀物商社ですが、米やスターリンクコーンも持ち込んでいると思います。で、そのコンアグラがアター小麦粉で6098905という特許を取りました。アターというのは小麦粉という意味ですから、アター小麦粉というのは小麦粉小麦粉ということになります。 インド人は日本人のように食べ物にうるさい民族です。自然な小麦粉は粉にすると悪くなりやすいので、挽きたてのものを使うために小さな製粉所が町のあちこちにあります。 ここで、皆さんにコンアグラがアター小麦粉に関して行なった賢い発明を読んでみましょう。「アジアで食べられているチョパティやルティといったパンを作るのに使われるアター小麦粉に関する発明について。アター小麦を砕く為に設計された機械によるアター小麦粉を作る方法」と言うのです。 本当に!これまで誰もやれなかったと言うんです。バスマティライスの特許の場合は、この米を調理する方法を発明したと言っています。 よく思うのですが、これらの大企業が欲しがっているのはおばあちゃん達の智恵なんだということです。おばあちゃんたちが知っていることは何でも発明として欲しいんです。これがバイオパイラシーです。おばあちゃん達の知識を盗むことです。 この戦争、ほんの一握りの企業が何でも自分達の手に入れるために行なう戦争は、どんな戦争にも見られるものです。カーギルは、作物の花粉交配をする蜂を花粉泥棒だとインドでは言っているのです。こんなとんでもない論理は理解しなくていいんです。蜂や蝶は花粉を交配するのは自然です。ターミネーターの種やハイブリッドコーンの種を独占的に生産したい企業は、蜂がその花粉を盗んだと言うのです。生物多様性は太陽の泥棒なんです。これほどの欲望、これほどの支配欲ですから、あらゆるものを欲しがります。 今回イラクに対する戦争を計画したアメリカン・エンタープライズ・インスティチュートと言う会社の代表が、ヨハネスブルグの会議で私の隣に座っていたのですが、議論や討論の最後に彼が言ったことは、全てのものに所有権があるべきだというものです。 このような発想では、タダで流れる川や、種が自然に出来るのや、自給的な家族や国は彼等の脅威であって攻撃しなければならないものなのです。 貿易ルールに殺される人々 農業では、これが貿易ルールです。貿易ルールは全く不公平で嘘ばかりです。貿易ルールは、不公正を無くすために書かれていて偽りの価格でダンピングし農業を潰さないようにするものです。 でも、日本の農家を潰している価格、日本の食品保障を脅かしている価格は、世界中で何百万人もの農家を破滅に追いやっています。 新しい貿易ルールによって高い種と安い収穫物価格のために、20,000人の農民が自殺しています。生産費が上がって、収入が減ったためです。 アメリカの2002年の農業法では、輸出補助金が増えてさらに輸出価格が下げられ、ダンピングされています。 ダンピングの実態を簡単に見てみましょう。小麦の生産費は、$6.24で輸出価格は、$3.5/ブッシェル、大豆は$6.98に対し $4.93、メイズ(コーン)は$3.47に対し$2.28、コットンでは$0.93に対し$0.29と生産費の半分の価格で国際市場に持ち込まれ、私達の国内経済を破壊しているのです。 綿だけでもアフリカ農民はダンピングのために2億5千万ドルの損害を被っています。インドでは貿易障壁を下げたため収入の60%がここ3 年間で減りました。不公平な価格や偽りの価格の中では、戦争農業の世界では、輸入規制をして農民を守り食料保障や健康や自給を守るのは基本的人権だと思います。 WHOで集中攻撃される日本 アメリカのアグリビジネスが最大の害を与えていますが、WTOでいつも攻撃が集中するのは日本の農業補助金です。 国内補助は、不公正貿易にはなりません。国内の一部を支えるものです。皆さん、輸入規制と国内補助金については日本政府が譲らないように要求して下さい。 世界中で数え切れないほどの平和な農業が始められています。私達の農法では他の種に対する戦争は起きません。 ある国の農業が他の国の農業と戦争することはありません。私達の食べ物を作る農業は、私達の体と戦争することはありません。 私達の身の回りで起こる暴力、不公正に対して市民運動、市民の叫びが大きすぎると言うことはありません。 私の今回の日本への旅が、腐敗した企業や腐敗した政府に対し、非暴力がもっと力をつけるのであればそれなりの価値はあったと思います。日本に招待して頂いてありがとうございます。地球と食料が平和でありますように。 http://www.chokugen.com/opinion/backnumber/h17/jiji050223_290.htm 『東京に中国の弾道ミサイルが打ち込まれ数万人が犠牲になるなど、今の日本人には到底考えられないことである。 アメリカの(本当の)対日防衛指針は、「自衛隊を日本の国権の発動(国家の意思)ではなく、アメリカの意思でアメリカの敵国に軍事行動を取らせる」ことである。現憲法下でアメリカの意思を実現可能にするには、アメリカの敵国が東京にミサイルを撃ち込むことである。だから東京周辺(座間、横須賀、韓国の大田)に米軍司令部を置くことに決まったのである。戦闘の第一目標は敵の司令部を叩くことであるのだから。歴代の防衛庁長官は「現憲法下であっても、もし北朝鮮の弾道ミサイルが日本に向けて発射準備されていることが確認できたら、自衛隊は北朝鮮を攻撃できる」と言明し、国会も国民も全く異論はなく、いわば日本のコンセンサスになっている。これでなぜアメリカは日本に平和憲法維持を望み(日本の勝手な軍事行動を禁じ)、一方で平和憲法に反する自衛隊の海外派兵と米軍との共闘を求めるのか理解できたはず。この矛盾を矛盾でなくすのはアメリカの敵国からの東京直撃ミサイルしかない。』 http://square.umin.ac.jp/ihf/ 国際保健通信36 戦時下の医学部長 『 2003年7月27日のことだった。その朝もアラウィ先生は、いつものように多 忙な一日を迎えていた。すでに外来患者たちは、彼の診察室の前に列をなし、 アラウィ先生は診療に追われていたという。  そんななか激しい腹痛を訴える患者がやってきた。その男は、脇腹が痛いと 騒ぎたて、他の患者を押しのけて診察室に乱入した。アラウィ先生は落ち着か せようとその肩を抱き寄せた。間髪を入れず男の懐から銃が抜かれ、その次の 瞬間には、アラウィ先生の右眼から後頭部へと一発の銃弾が走り抜けていた。  居合わせた妻のブシュラさんが抱き寄せたときには、頭部からサラサラと血 液が床に流れ落ち、そして息絶えていたという。享年52。イラク新時代に欠 かせぬ逸材の、志なかばの最期であった。  しかし、アラウィ先生の「患者のそばに」という精神は、いまもイラクの医 師たちに受け継がれている。イラク戦争時に、アメリカはイラクを骨抜きにす るため有識者の国外脱出を奨励したが、ほとんどの医療者は病院を守り続けた。 そして、いまもテロと内戦にさらされ、危険に満ちた状態だが、バグダッド大 学医学部は逞しくその役割を果たし続けている。』                               【高山義浩】 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4839700990/i16jp-22/249-6551650-7225903?dev-t=D2E5ETG5CGB5DD%26camp=2025%26link_code=xm2/ref=nosim#product-details不可能な夢を観なさい 和尚 黄金の華の秘密 めるくまーる 『聴きなさい! 神が扉を叩いている・・・扉を開けなさい。 耳を清ましなさい! 神はあなたに「みずからに課した牢獄から出てきなさい。」と言っている。 神はあなたを探している! 邪魔をしてはいけない! 神があなたを探すのを手伝いなさい! 神が探しているのにあなたは逃げている。 何世にもわたって逃げ続けている。 惨めなくせに、それでもあなたは逃げ続けている。 そして神の手が近付いてくると、いつもあなたは身震いする。 だが、私にはわかっている。 その恐怖が起こるのも無理はない。 何が怖いのだろう? それは神が存在するなら、自分は存在しえないという恐怖だ。』(p546) 『グルジェフが「自己想起」と呼び、仏陀が「サマサティ」--留意--と呼び、 マハヴィーラが「ヴィヴェック」--識別--と呼んでいたのはこのことだ。 今やあなたはリアルではないものを見抜き、現実と非現実を識別している。』 (p522) 『そしていいかね、イルカやチンパンジーは遊びを知っているかもしれないが 、祝うことができるのは人間だけだ。祭り祝うことはまさに人間的だ。 色々な定義を耳にしたことがあるだろう──「人間は理性的な動物である」 と言う者もいれば、また別のことを言う者もいる。 私は「人間は祭り祝う動物である」と言う。 人間が他の全ての動物と袂をわかつのはそこだ。』(p430) 『未来は絶えず変化してゆく用意がある者たちのものになる。 なぜなら、今や世界はめまぐるしい速度で変化しているので、 古いものにしがみついている者たちは大きな苦しみを味わうことになるからだ。 彼らはこれまで大きな苦しみを味わったことがなかった。 むしろ逆に、進んで変わろうとする者たちのほうがひどい苦しみをなめてきた。  これからは状況が逆さになるだろう。 これからの時代は変化を愛し、喜々として踊りながら変わってゆこうとする 者たち、変化を祝う者たちのものになる。 そして、いつなんどき変化の機会が訪れても、彼らはそれを逃がさない。 未来は彼らとともにあることになる。 歴史は大きな転換をとげ、別の地平を進もうとしている。』(p429) 『踊ったり、歌ったり、音楽や絵や彫刻を創作したり、 あるいは何でもやりたいことをやりなさい。 最も深い喜びとなるものを見つけだし、それをやりなさい! そして行為とは、目に見えないものを見えるものにするということだ。 行為とは夢をこの世にもたらすということだ。 夢を実現させなさい。 潜在能力を発揮させなさい。 それにまさる喜びはない。』(p178) 『人はそこにないものをみて、見ることも、触ることも、 聞くこともできなかったものに時間と空間のなかでの形を与える。』 『彼が殺せないのは、生命を奪うことが美しいことだとは思えないからだ。 人をだましたり、不誠実になれないのは、それらすべてが醜いことだ と感じるからだ。彼は美を基準にして判断する。』(p169) 『不可能な夢をみなさい。 最初はほとんど馬鹿げているように見えるかもしれない。 確かにそう見える。 だが、その夢が充分に強ければ、あなたの現実は変容を遂げる。』(p162) 『最初のうちは大いなる愛を込めて樹に触れても--- あなたは樹が応えてくれるはずがないと思っている--- 樹が少しでも応えてくれるのを感じても、 あなたは空想だと思うだろう。 そうではない。 樹は応えている。 だが、本当にそうだと気付くには少々時間がかかるだろう。 あなたが愛にあふれていれば、 樹は愛をもって応えてくれる--- 愛にはいつも愛が返ってくる。 愛に愛が返ってこなければ、 その愛は愛ではなかったのだと知りなさい。 それが真相だ。 別の何かが愛の仮面をかぶっていたということだ。』(p146) http://www.bekkoame.ne.jp/~topos/siso/toposnote/toposnote24.html#231%81%9C%92%B2%8D%B8%82%C6%82%A2%82%A4%96%B3%96%BE 調査という無明 『「類」の発想というのは、自分がそこに属していると思っている集団的な在り方のなかで、自分をそこに縛ってしまうとらえ方のこと。その縛りを解くことは、その集団になすりつけていた自分の責任を自分に取り戻すということでもあるので、その際のリスクを負う恐怖から多くの人は、自分を自由にさせないでいる。自分が今こうなのは、自分のせいではなく、何か他の責任であると思い込みたがること。』 http://www.bekkoame.ne.jp/~topos/siso/toposnote/toposnote24.html#232%81%9C%82%D0%82%C6%82%E8%82%C6%82%DD%82%F1%82%C8 ひとりとみんな 『ふたりでいるためには、ひとりでいることができなければならない。でないと、ふたりが1+1=2どころか、1+1=1とか、悪くすれば、1+1=-1とかになってしまいかねないからひとりでいることができるとき、むしろ1+1は3にも4にもなる可能性を秘めることになる。 みんなでいるためには、ひとりでいることができなければならない。ひとりでいることができないみんなは、「群れ」ているだけである。』 http://www.bekkoame.ne.jp/~topos/siso/toposnote/toposnote24.html#233%81%9C%90%B8%90_%90%A2%8AE%82%D6%82%CC%93%A6%94%F0 精神世界への逃避 『人は多くロボットであることに安らぎを見出そうとする。つまり、これこれこういうことが正しい、価値がある・・・というように外から図式的に型にはめられることで、あれこれと、自分はいったいどうしたいのだろうか、というように自分を見つめないでもすむからである。見つめたように思っていても、その自分は図式化された自分であり、それに基づいて見えている人間関係であるにすぎない。』 http://www.chokugen.com/opinion/backnumber/h16/jiji041104_276.htm 増田俊男 『私は「ブッシュ再選は過去の事実」と何回も述べて来た。また 「アメリカの選挙は決まっていることを確認するお祭りだ」とも言ってきた。 私は20年間以上「アメリカになり切っていた」ので「理屈ぬきにアメリカを 知っている」。ブッシュ政権の本質をもう一度確認してみよう。 1. 9.11(2001年9月11日に起きた同時多発テロ)を事前に知っていた、 ※WTCに事務所を持つ複数の企業は事前の報告を受け9月11日は臨時休業にした。 (ア) 複数の銀行はUnitedとAmerican Airlines名の連絡を受け、10日前から両社 株に「空売り」をかけて9月17日の市場再開日に底値で買い戻し膨大な利益を 出した。 (イ) 1998年8月の在ケニア・タンザニア両国米大使館同時爆破犯人容疑者 (9名)の裁判は9月12日、前日(9/11)弁護団は早朝からWTCで証拠点検中 だった。 弁護団は「ビン・ラーディンの手下は無罪、真犯人を明らかにする」 と述べていた』 『8. 食肉、野菜で安全なモノは自国向け、危険なモノは輸出用に。 ※下等民族を食料や新型細菌で「間引く」ことにより優秀民族の存続を保証 する政策。 9. 米三軍(陸海空)の司令部を日本に移転し、敵国のアメリカ本土攻撃を 回避した、 ※沖縄で犯罪率の高い海兵隊を削減して「沖縄の負担軽減」が米軍再編成だと 宣伝しておいて、中国・北朝鮮のミサイル攻撃の標的となる米三軍司令部を 関東地方へ集中させることに成功。これで米本土は安全。 10.ブッシュは自らの陣営に、ブッシュがいかに不正義、「嘘つき」、横暴で 、まるで殺人鬼のようだと堂々と発表させることによって大統領選を勝利に 導いた。 ※「正直者はバカを見る」が資本主義アメリカ。ブッシュは国民とともに 「正直に」アメリカ哲学を実行して勝利した。当たり前の話!』 http://www.chokugen.com/opinion/backnumber/h15/jiji031224_227.htm 『アメリカといえどもアキレス腱がある。私は世界史が好きだが、歴史上何度か 「弱い国が強い国に勝った」ことがある。それは強国の弱点を突いたからである 。アメリカの弱点は「アメリカの国民」と「マネー」である。つまりブッシュ と言えども落選したらテキサスのカウボーイでしかない。日本がアメリカの世論 に対して何が出来るか、世界のマネーの大半を握る日本がマネーを使って アメリカに対して何が出来るか。私は対米世論戦略とマネー戦略でアメリカを 動かすことが出来ると確信する。この二つの要因を、平和裏に、巧みに使って、 事実上破綻しているアメリカの経済に対して日本が責任を持つことが対米戦略の 基本でなくてはならない。アメリカの国民に日米関係の真実を明らかにし、日本 が持つ対米政治、経済カードと比較優位性でアメリカを戦争する必要の無い国 にすることが日本の使命であると信じる。』 http://www.chokugen.com/opinion/backnumber/h15/jiji031224_226.htm 『第二次大戦直後のアメリカは恒常的貿易黒字国だったからドル(エネルギー) の蓄積はいつも十分だったが、1971年8月15日(日本の敗戦記念日)以降逆転 して恒常的貿易赤字国に転落し、将来黒字転換の可能性は皆無となった。 したがってアメリカは太陽(基軸通貨国)の役目を終えなくてはならないのに、 太陽(基軸通貨国)のメリットがあまりにも大きい(アメリカの借金は全部他国 が働いて払ってくれる)ので太陽(基軸通貨国)の地位にしがみついている。 アメリカの生死に関わる国益は基軸通貨国の地位を死守することである。』 『日本は自国の貿易黒字分でアメリカの貿易赤字分を補填するため、自国の資金 需要は皆無なのに超金融緩和策を執りアメリカへ資金を送り続けるだけでなく、 2004年度は外国為替資金特別会計予算(為替介入資金)を140兆円(2004年度の 国家予算83兆円と比較してください)も計上して、ドルを買いまくる。 正に介入と言う名の対米資金援助である。資金の流れだけを見ると日本は アメリカの国益(基軸通貨維持)のために働いていることになる。正に日本は アメリカの存在のために存在しているようだ。本当は日本が太陽になるのが 正しいのだが、、、、。正しさを否定するのがアメリカの軍事力!』 http://www.chokugen.com/opinion/backnumber/h15/jiji031203_223.htm 『小泉政権の金融監督庁(竹中大臣)は日本企業に対して持ち合い解消を半ば 強制的に徹底した為、現在アメリカからの TOBに対抗できる企業は皆無に等しい 状況になってしまった。そこで、小泉内閣は追い討ちを掛けるように、本年 6月9日、三角合併を可能にする内容を盛り込んだ「改正産業活力再生特別措置法 」を交付、実施したのである。アメリカにしてみれば、TOBは勿論のこと、 輪転機で株券を刷って日本に持ってくれば好きな会社が買えることになった。 アメリカのファンドがいの一番に狙ってくるのが日本の銀行である。次に目を つけているのが350兆円を有する郵貯・簡易保険。アメリカのファンドがいくら 株券を刷っても郵政省(郵貯・簡易保険)は買収できない。ところが今や小泉 首相は郵政民営化を最優先にしているから、 350兆円がハゲタカ・ファンドの 餌食になるのも時間の問題である。 「日本の国民の命である預貯金800兆円を、輪転機で勝手に刷った紙切れと交換 で譲り渡せば日本の産業が再生される」という竹中教の教祖様に日本経済を 丸投げした小泉首相の罪は重い。イニシアティブには、日米両国が歓迎すべき 事例として前述のリップルウッドの買収例が掲げられているのだから、小泉構造 改革とは何か、推して知るべしである。』 http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/card170.html 杜子春 芥川龍之介 『と、どこから登つて来たか、爛々《らんらん》と眼を光らせた虎が一匹、 忽然《こつぜん》と岩の上に躍り上つて、杜子春の姿を睨みながら、一声高く 哮《たけ》りました。のみならずそれと同時に、頭の上の松の枝が、烈しく ざわざわ揺れたと思ふと、後の絶壁の頂からは、四斗樽程の白蛇《はくだ》が 一匹、炎のやうな舌を吐いて、見る見る近くへ下りて来るのです。  杜子春はしかし平然と、眉毛も動かさずに坐つてゐました。  虎と蛇とは、一つ餌食を狙つて、互に隙でも窺《うかが》ふのか、暫くは 睨合ひの体でしたが、やがてどちらが先ともなく、一時に杜子春に飛びかかり ました。が、虎の牙に噛まれるか、蛇の舌に呑まれるか、杜子春の命は 瞬《またた》く内に、なくなつてしまふと思つた時、虎と蛇とは霧の如く、 夜風と共に消え失せて、後には唯、絶壁の松が、さつきの通りこうこうと枝を 鳴らしてゐるばかりなのです。』 大きなまやかし 喜納昌吉 『世界と、人間を支配する呪縛の構図。問題を複雑化することによって答を隠蔽し、進歩の名のもとに、既得権を保持し、自然破壊を助長する愚かな構造を。そんな構造から、今こそわれわれ人類は解き放たれるべきではないのか。私は沖縄に住んでいる。そして沖縄には、日本にある米軍基地の75パーセントが集中している。沖縄の面積は、日本全土のわずか0.6パーセントでしかないというのに。日米安保によれば、米軍基地は極東の平和の維持のために欠かせないものであるという。(中略)ここに大きなまやかしがある。平和のための基地というなら、なぜ武器などを置く必要があるのか。武器を配備することによって保たれる平和とは何か。そんなものに、いったい何の意味があるのか。私は政治家ではない。社会運動家でもない。・・・もちろん宗教家でもない。私はミュージシャンだ。長く音楽活動に携わり、世界のあちこちの国でライブを行ってきた。その体験から私にわかった事が一つある。・・・平和を実現しうるものは、武器では絶対にない。それは楽器なのだ。 「今、私は提案する。すべての武器を楽器に」と』 (「すべての武器を楽器に」喜納昌吉著1997年5月冒険者刊) http://ueno.cool.ne.jp/tka/genjitu.htm 『資本主義は頭の良いユダヤ人が考え出した大がかりなダマシの手法であり、そのカラクリは国家という概念が醸し出す威信を背景に、紙幣という紙でできた道具と銀行という代理店を使って、実体の裏付けのない信用というものを創造しつづけていくことで成り立っており、信用が創造され続ける限りは無限連鎖が続く一種のネズミ講的要素を含んでいる。 国家が節度ある範囲内で徴税し、これに基づいて紙幣や債券を発行しているうちは何ら問題はないのだが、パーキンソンの法則の如く、あらゆるものがガン細胞みたいに自己増殖し、瞬く間に肥大化してしまったりすると、気が付いたころにはあとは時間の問題となるケースがほとんどだ。 まず銀行だが、人々は銀行にはたくさんのお金があると思っているが、実際にはお金はない。なぜなら銀行は利益を極限まで高めるため、ほとんどのお金を貸出しか投資に回しており、信用というものに疑問を抱いた預金者が銀行にお金を引き出しにいく割合が2割を超えると、銀行は払い出すお金がないから一夜にして倒産の憂き目にあう。 また輪転機を回せばいくらでも刷れる紙幣に疑いを持った人々が、紙幣にいっせいに見切りをつけてモノに切換え始めると、紙幣の価値はどんどん下がってしまい、逆にモノの値段が青天井となるハイパーインフレとなり、その国の資本主義は事実上崩壊し、あなたの預金通帳の数字はあえなく、ただ数字を羅列しただけのものになり果てる。 先の読める人たちはそろって、もうそろそろ始まるのかなと思っているが、もしこのままあと10年持ちこたえることができるようなら、それこそ世界の新七不思議に加えられるほど、事態はすでに切迫している。 知らぬが仏なのか、知らないと仏になるのか、どっちだろう。 この百年間、第1次大戦後のドイツや10年前のロシアがそうなったように紙幣が紙屑同然になってしまうようなことは、大なり小なり多くの国で繰り返されてきたが、喉元過ぎれば何とやらで、多くの人が都合良く忘れてしまっているだけなのである。 実際日本でも、戦争中の国債や軍票はゼロになったし、戦後日本に帰国した人は水際でほとんどの財産を没収された。 また戦後の預金封鎖のおりには、預金していた人の財産価値は、正味たったの1日で百分の1以下となった。 いつの世もイザとなれば何でもありで、昨日の常識は今日の非常識、なりもふりもあったものではない。 天災も人災も、あなたが忘れたころにやってくる。』 『「(ルーズベルト)大統領の望まれる日本をして米国への先制攻撃を実行させる為、太平洋をカラにして全艦隊をハワイに引き上げました。本日より10日後に迫った日本の攻撃を行わせるため、12月7日当日はレーダーを停止し海門を開け、日本の攻撃をいささかも妨げることはありません」 米海軍太平洋艦隊司令長官  ハズバンド・E・キンメル    1941年11月27日打電文 「(ルーズベルト)大統領が希望される日本軍による先制攻撃を実行させるためのマニラでの準備を全て完了しました。日本軍がパールハーバーに向かうのを一切妨げることはありません」 米陸軍極東部隊司令官     ダグラス・マッカーサー      1941年11月28日打電文 以上は、昨年日本でも出版された米国人ロバート・B・スティネット著「真珠湾の真実−ルーズベルト欺瞞の日々」 の中の米国公文書の一節である。 今から60年前、米国は石油の禁輸などあらゆる手段を使って日本を参戦へと追い込むべく謀略の限りを尽くしたが、公表された公文書は当時のルーズベルト大統領を表看板とした影の世界政府が、日本に先制攻撃をさせることによって、アメリカ国民を第2次世界大戦へと引き込んでいった明確な証拠である。 時代は飛んで2001年9月11日』 『何故なら、無くしたものを嘆くより、残されたものの中にこそ真に大切なものがあるということに気づくことができれば、あなたは救われる可能性があるが、逆ならそうはならないからである。 どんな嵐や津波や地震や火山をもってしても、あなたから奪い取ることができないものがある。 それは、あなたの真心であり、愛であり、思いやりであり、やさしさであり、これこそが何をもってしても絶対に奪い取ることができない、あなたが持っている最高の財産なのである。 人間はあらゆるものを無くして初めて、一番大切なものを思い出す。』 『世の中には三種のナイフがあって、ひとつは金属でできていて、ふたつめは言葉、みっつめは想念でできている。 人間の世界では、金属でできたナイフで人を刺した時だけ罪になり罰せられるが、神の世界では、金属でできたナイフであろうが、言葉でできたナイフであろうが、想念でできたナイフであろうが、どのナイフで人を刺しても、すべて同罪である。 だから、あなたが人の悪口を言って言葉でできたナイフで人を刺すたび、あるいは人を憎んで想念でできたナイフで人を刺すたび、その度ごとに罪を重ねて来たのである。』 『あなたは子供と遊んであげているのですか。 それとも遊んでもらっているのですか。 あなたは子供を育てているのですか。 それとも子供から育てられているのですか。 あなたは子供を正しく育てているのですか。 それとも正しく育つのを邪魔しているのですか。 あなたは子供を愛していますか。 それとも束縛していますか。 あなたの子供はあなたの所有物ですか。 それとも神様からの預かりものですか。 あなたは子供の短所を見つけようとしていますか。 それとも長所を見つけて伸ばしてあげようと考えていますか。 あなたは子供に何かを教えているのですか。 それともより多くのことを教えてもらっているのですか。 今回は子供の日が近いので、たまたま子供をテーマに選んだが、 ” 子供 ”の部分を、あなたが面倒を見てあげていると思っている人、例えば部下・生徒・弟子・患者・ボランティアの対象者など、そのほか誰とでも入れ替えてもよいし、全く別の設問に入れ替えてもよい。』 『今後、宗教がどうなるかを端的に一言で表現するなら、それは衰退もしくは消滅であろう。 なぜなら、自身の外に神を求めた時代は終わり、自身の裡に神を求め、自身が神の分霊であることを思い出すからである。 いつも言っていることだが、分厚い教典や難解な教義をふりかざす教団ほど、実は程度が低いのである。神は愛一元の光一元であるから、大元の創造神に近づけば近づくほど、すべては単純明快・簡単明瞭となる。』 『』 http://www.ribbon-project.jp/book/itami.html 「戦争責任者の問題」  伊丹万作 戦争のあと、多くの人が「だまされていた」「知らなかった」といいました。 ほんとうにそうだったのでしょうか。 「だまされたかった」「知ろうとしなかった」のではなかったでしょうか。 おかしいと感じる人はいたのに、 流れを止めることができなかったのはなぜでしょう。 伊丹万作が58年前に遺したこの文章は、 いまのわたしたちの状況に警鐘を鳴らしている気がします。 自分自身が将来「だまされていた」といわないために、 わたしたちに出来ることはなんだろうと考えた中で生まれたのが、 「戦争のつくりかた」でした。 宜しければ、ぜひご一読ください。  最近、自由映画人連盟の人たちが映画界の戦争責任者を指摘し、その追放を主 張しており、主唱者の中には私の名前もまじつているということを聞いた。それ がいつどのような形で発表されたのか、くわしいことはまだ聞いていないが、そ れを見た人たちが私のところに来て、あれはほんとうに君の意見かときくように なつた。  そこでこの機会に、この問題に対する私のほんとうの意見を述べて立場を明ら かにしておきたいと思うのであるが、実のところ、私にとつて、近ごろこの問題 ほどわかりにくい問題はない。考えれば考えるほどわからなくなる。そこで、わ からないというのはどうわからないのか、それを述べて意見のかわりにしたいと 思う。  さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃え てだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた 人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてく る。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると 思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のも のは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうを さして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上の ほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人 の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人 間がだませるわけのものではない。  すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多 かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまさ れ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかに だまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますとい うようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつ て互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。  このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオの ばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組 織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直 ぐにわかることである。  たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一 歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもな く、むしろ国民自身だつたのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い 戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせ の帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたの は、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れない。もともと、 服装は、実用的要求に幾分かの美的要求が結合したものであつて、思想的表現で はないのである。しかるに我が同胞諸君は、服装をもつて唯一の思想的表現なり と勘違いしたか、そうでなかつたら思想をカムフラージュする最も簡易な隠れ蓑 としてそれを愛用したのであろう。そしてたまたま服装をその本来の意味に扱つ ている人間を見ると、彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる 演技をして見せることによつて、自分の立場の保鞏(ほきよう)につとめていた のであろう。  少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を 圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも 直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であ り、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給 機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつた ように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならな い、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。  いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相 互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたために ほかならぬのである。そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するなら ば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行け なかつた事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。  しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなか つたと信じているのではないかと思う。  そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分 の子にうそをつかなかつたか」と。たとえ、はつきりうそを意識しないまでも、 戦争中、一度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたして いるだろうか。  いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つてい たとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるに ちがいないのである。  もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そう いうものであろうと思う。  しかし、このような考え方は戦争中にだました人間の範囲を思考の中で実際の 必要以上に拡張しすぎているのではないかという疑いが起る。  ここで私はその疑いを解くかわりに、だました人間の範囲を最小限にみつもつ たらどういう結果になるかを考えてみたい。  もちろんその場合は、ごく少数の人間のために、非常に多数の人間がだまされ ていたことになるわけであるが、はたしてそれによつてだまされたものの責任が 解消するであろうか。  だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされた ものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまさ れたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘 ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。  しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまら ず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」 ことを主張したいのである。 だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち 意志の薄弱からもくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現 を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つま り、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこ ととは、されていないのである。  もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであつて、そ こに善悪の観念の交叉する余地はないはずである。しかし、有機的生活体として の人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といつてよい。すなわち知の 問題も人間の行動と結びついた瞬間に意志や感情をコンプレックスした複雑なも のと変化する。これが「不明」という知的現象に善悪の批判が介在し得るゆえん である。  また、もう一つの別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人 だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにち がいないのである。  つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとが そろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ 軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。  そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中に あるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失 い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつてい た国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。  このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打 破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつ た事実とまつたくその本質を等しくするものである。  そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国 民の奴隷根性とも密接につながるものである。  それは少なくとも個人の尊厳の冒涜(ぼうとく)、すなわち自我の放棄であり 人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚であ る。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。  我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷 状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許し た自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に 救われるときはないであろう。 「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解 放された気でいる多くの人人の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将 来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。 「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でも だまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めている にちがいないのである。  一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなけれ ば人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重 要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされ たということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱(ぜいじやく)な自 分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。  こうして私のような性質のものは、まず自己反省の方面に思考を奪われること が急であつて、だました側の責任を追求する仕事には必ずしも同様の興味が持て ないのである。  こんなことをいえば、それは興味の問題ではないといつてしかられるかもしれ ない。たしかにそれは興味の問題ではなく、もつとさし迫つた、いやおうなしの 政治問題にちがいない。  しかし、それが政治問題であるということは、それ自体がすでにある限界を示 すことである。  すなわち、政治問題であるかぎりにおいて、この戦争責任の問題も、便宜的な 一定の規準を定め、その線を境として一応形式的な区別をして行くより方法があ るまい。つまり、問題の性質上、その内容的かつ徹底的なる解決は、あらかじめ 最初から断念され、放棄されているのであつて、残されているのは一種の便宜主 義による解決だけだと思う。便宜主義による解決の最も典型的な行き方は、人間 による判断を一切省略して、その人の地位や職能によつて判断する方法である。 現在までに発表された数多くの公職追放者のほとんど全部はこの方法によつて決 定された。もちろん、そのよいわるいは問題ではない。ばかりでなく、あるいは これが唯一の実際的方法かもしれない。  しかし、それなら映画の場合もこれと同様に取り扱つたらいいではないか。し かもこの場合は、いじめたものといじめられたものの区別は実にはつきりとして いるのである。  いうまでもなく、いじめたものは監督官庁であり、いじめられたものは業者で ある。これ以上に明白なるいかなる規準も存在しないと私は考える。  しかるに、一部の人の主張するがごとく、業者の間からも、むりに戦争責任者 を創作してお目にかけなければならぬとなると、その規準の置き方、そして、い つたいだれが裁くかの問題、いずれもとうてい私にはわからないことばかりである。  たとえば、自分の場合を例にとると、私は戦争に関係のある作品を一本も書い ていない。けれどもそれは必ずしも私が確固たる反戦の信念を持ちつづけたため ではなく、たまたま病身のため、そのような題材をつかむ機会に恵まれなかつた り、その他諸種の偶然的なまわり合せの結果にすぎない。  もちろん、私は本質的には熱心なる平和主義者である。しかし、そんなことが いまさら何の弁明になろう。戦争が始まつてからのちの私は、ただ自国の勝つこ と以外は何も望まなかつた。そのためには何事でもしたいと思つた。国が敗れる ことは同時に自分も自分の家族も死に絶えることだとかたく思いこんでいた。親 友たちも、親戚も、隣人も、そして多くの貧しい同胞たちもすべて一緒に死ぬる ことだと信じていた。この馬鹿正直をわらう人はわらうがいい。  このような私が、ただ偶然のなりゆきから一本の戦争映画も作らなかつたとい うだけの理由で、どうして人を裁く側にまわる権利があろう。  では、結局、だれがこの仕事をやればいいのか。それも私にはわからない。た だ一ついえることは、自分こそ、それに適当した人間だと思う人が出て行つてや るより仕方があるまいということだけである。  では、このような考え方をしている私が、なぜ戦犯者を追放する運動に名まえ を連ねているのか。  私はそれを説明するために、まず順序として、私と自由映画人集団との関係を 明らかにする必要を感じる。  昨年の十二月二十八日に私は一通の手紙を受け取つた。それは自由映画人集団 発起人の某氏から同連盟への加盟を勧誘するため、送られたものであるが、その 文面に現われたかぎりでは、同連盟の目的は「文化運動」という漠然たる言葉で 説明されていた以外、具体的な記述はほとんど何一つなされていなかつた。  そこで私はこれに対してほぼ次のような意味の返事を出したのである。 「現在の自分の心境としては、単なる文化運動というものにはあまり興味が持て ない。また来信の範囲では文化運動の内容が具体的にわからないので、それがわ かるまでは積極的に賛成の意を表することができない。しかし、便宜上、小生の 名まえを使うことが何かの役に立てば、それは使つてもいいが、ただしこの場合 は小生の参加は形式的のものにすぎない。」  つまり、小生と集団との関係というのは、以上の手紙の、応酬にすぎないので あるが、右の文面において一見だれの目にも明らかなことは、小生が集団に対し て、自分の名まえの使用を承認していることである。つまり、そのかぎりにおい ては集団はいささかもまちがつたことをやつていないのである。もしも、どちら かに落度があつたとすれば、それは私のほうにあつたというほかはあるまい。  しからば私のほうには全然言い分を申し述べる余地がないかというと、必ずし もそうとのみはいえないのである。なぜならば、私が名まえの使用を容認したこ とは、某氏の手紙の示唆によつて集団が単なる文化事業団体にすぎないという予 備知識を前提としているからである。この団体の仕事が、現在知られているよう な、尖鋭な、政治的実際運動であることが、最初から明らかにされていたら、い くらのんきな私でも、あんなに放漫に名まえの使用を許しはしなかつたと思うの である。  なお、私としていま一つの不満は、このような実際運動の賛否について、事前 に何らの諒解を求められなかつたということである。  しかし、これも今となつては騒ぐほうがやぼであるかもしれない。最初のボタ ンをかけちがえたら最後のボタンまで狂うのはやむを得ないことだからである。  要するに、このことは私にとつて一つの有益な教訓であつた。元来私は一個の 芸術家としてはいかなる団体にも所属しないことを理想としているものである。 (生活を維持するための所属や、生活権擁護のための組合は別である)。  それが自分の意志の弱さから、つい、うつかり禁制を破つてはいつも後悔する 破目に陥つている。今度のこともそのくり返しの一つにすぎないわけであるが、 しかし、おかげで私はこれをくり返しの最後にしたいという決意を、やつと持つ ことができたのである。  最近、私は次のような手紙を連盟の某氏にあてて差し出したことを付記しておく。 「前略、小生は先般自由映画人集団加入の御勧誘を受けた際、形式的には小生の 名前を御利用になることを承諾いたしました。しかし、それは、御勧誘の書面に 自由映画人連盟の目的が単なる文化運動とのみしるされてあつたからであつて、 昨今うけたまわるような尖鋭な実際運動であることがわかつていたら、また別答 のしかたがあつたと思います。  ことに戦犯人の指摘、追放というような具体的な問題になりますと、たとえ団 体の立場がいかにあろうとも、個人々々の思考と判断の余地は、別に認められな ければなるまいと思います。  そして小生は自分独自の心境と見解を持つものであり、他からこれをおかされ ることをきらうものであります。したがつて、このような問題についてあらかじ め小生の意志を確かめることなく名まえを御使用になつたことを大変遺憾に存ず るのであります。  しかし、集団の仕事がこの種のものとすれば、このような問題は今後において も続出するでありましようし、その都度、いちいち正確に連絡をとつて意志を疏 通するということはとうてい望み得ないことが明らかですから、この際、あらた めて集団から小生の名前を除いてくださることをお願いいたしたいのです。  なにぶんにも小生は、ほとんど日夜静臥中の病人であり、第一線的な運動に名 前を連ねること自体がすでにこつけいなことなのです。また、療養の目的からも 遠いことなのです。  では、除名の件はたしかにお願い申しました。草々頓首」(四月二十八日) (『映画春秋』創刊号 昭和二十一年八月)『伊丹万作全集1』 筑間書房 p.205-214 伊丹万作 1900年1月2日生。1946年9月21日没。 http://www.ribbon-project.jp/book/index.html 戦争のつくりかた http://www.chokugen.com/opinion/backnumber/h16/jiji041008_271.htm 『すでに横須賀には米海軍司令部があるから、米国の要求をのめば陸海空の司令部が日本に集中することになる。沖縄の負担軽減がクローズアップされる背後で、日本にとって致命的な事態が進行している。軍司令部とは人間で言えば頭脳に当たるのだから、戦争において真っ先に攻撃目標になるのは司令部である。 2010年の上海万博後、中国経済はハードランディング(経済破綻)となるから、中国は中台戦争に踏み切らざるを得ない。経済破綻によって中国全土で起こる暴動に、人民軍は無力だからである。中国中が大混乱に陥ろうとするとき、中国にできる選択は戦争以外にない。』 『ワシントン州から軍司令部を日本に移動するのは、中国から米本土へのICBM(大陸間弾道ミサイル)攻撃を想定した迎撃ミサイル実験が必ずしも成功していないからである。司令部を日本に移動すれば、中国のミサイルは米本土ではなく日本がターゲットになり、米国はリスクを回避できる。米軍の司令部が日本に移動することは、日本にとって致命的リスクである。』 http://homepage.mac.com/ehara_gen/jealous_gay/final_answer.html 9.11トリック─テロは起きなかった 『2001年9月11日にニューヨークとワシントンで相次いで起きた「米中枢同時テロ」なるものは、言われているような「自爆テロ」などではなかった。実体は、アメリカ連邦捜査局(FBI)と中央情報局(CIA)、およびイスラエルの諜報機関モサドによって緻密に遂行された「自作自演のテロ偽装工作」であった。テロリズムとは本来「国家権力による恐怖政治」を意味するものであるから言葉の定義に則せばテロは現実に起きたわけだが、アメリカ国務省が定義するところの「テロ」(Patterns of Global Terrorism)は起きなかった。』 『そして9月11日当日の朝、米投資会社カーライル・グループ(Carlyle Group)がワシントンDCのリッツ・カールトン・ホテルで投資家会議を主催、そこにオサマ・ビン・ラディンの異母兄シャフィグ・ビン・ラディンが出席し、カーライル上級顧問の父ブッシュとも会っていた(父ブッシュは事件直前に退出している)。さらには、事件発生後早々に米国内にいたサウド王家関係者とビン・ラディン近親者24名がサウジアラビア国籍の特別チャーター機で密かに出国していた事実からも、両者の癒着ぶりが伺い知れるところである(出国許可を与えていたのはリチャード・B・チェイニー副大統領)。』 『1999年10月、実に興味深い本『幸運なる二世 ジョージ・ブッシュの真実』("Fortunate Son: George W. Bush and the Making of an American President" by James H. Hatfield)が発売され、たちまちベストセラーとなった。ところが、「殺人委託容疑で起訴されていた」という著者の「犯罪歴」なるものが持ち上がって、わずか1週間たらずで出版差し止めとなり、2万部はお蔵入りのまま、7万部が回収されるに至った(2001年6月復刊)。その後この騒動の顛末は、ドキュメンタリー映画( "Horns and Halos" http://www.hornsandhalos.com/ 邦題は『解禁!ジョージ・ブッシュ伝 噂の真相』)にもなった。 ところでこの本は、ブッシュ大統領の生い立ちから大統領選出馬表明までを追った伝記であるが、その内容はスキャンダラスにまみれ、たとえば1972年州兵時代にコカイン所持の罪で逮捕されたブッシュが父親のコネで罪状却下され逮捕歴がもみ消された一件をはじめ、祖父プレスコット・S・ブッシュがナチスのスポンサーとして資金援助していたことや、KKK、ビン・ラディン一族とのつながりなど、ブッシュ家の暗部を白日の下にさらすものであった。』 『その半年後の7月18日、『幸運なる二世 ジョージ・ブッシュの真実』の著者ジェームズ・H・ハットフィールド(=写真)は、アーカンソー州スプリングデールにあるモーテルの一室で「処方薬の過剰摂取による自殺を図り」(警察発表)亡くなった。享年43。彼が「自殺」する間際に書き上げた遺稿のタイトルは、「なぜオサマ・ビン・ラディンはかつてのビジネスパートナーだったブッシュを殺したいと思ったのか?」(Online Journal, http://www.onlinejournal.com/Special_Reports/Hatfield-R-091901/hatfield-r-091901.html "Why would Osama bin Laden want to kill Dubya, his former business partner?" *1)であった。』 『 本当の首謀者とは、欧米の寡頭勢力(Globalists)による策謀である。端的に言えばそれは、1991年6月ドイツのバーデン・バーデンで開催された「ビルダーバーグ会議」(Bilderberg Conference)におけるロックフェラー財閥総帥デイヴィッド・ロックフェラーの発言「知的エリートと世界銀行家たちによる超国家的な主権」("The supranational sovereignty of an intellectual elite and world bankers" by David Rockefeller)をいう。彼はそこで「世界は今、より高度化され、世界政府へと向かって進むべく手が打たれている」("The world is now more sophisticated and prepared to march towards a world government.")と表明しているが、ビルダーバーグの創設自体が「世界政府」実現を最終目標にしている。その行き着く先は、ジョージ・オーウェルが『1984』で描いた支配と隷属による「監視社会」である。今回の謀略はそのための契機であり、すでに10年以上も前から立案・計画されていたものだ。』 『「世界政府」へと至る過程で、当面の目的としては、まず第一にエネルギー資源の独占と軍産複合体の復活、すなわち石油・天然ガス、武器、麻薬の利権を確保することにある。とくにアフガニスタン攻略は、カスピ海周辺に眠る石油・天然ガスをアフガニスタン経由で運ぶパイプライン計画のため。アフガニスタン首相に指名されたハミド・カルザイなる人物は、カリフォルニアの石油企業ユノカル社(UNOCAL: Union Oil Company of California)の元コンサルタントで、彼の役割はユノカルの事業、すなわち石油・天然ガスのパイプライン計画を滞りなく円滑に進めることにあった。まさしく傀儡以外の何ものでもない。また、アフガニスタンは世界最大のケシ栽培地域である。麻薬ビジネスには絶好の機会到来だ。 そして第二に、イスラエルの生存と勢力拡大に基づいた「拡大中東構想」=「中東支配計画」(Greater Israel)、すなわち宿願の「ユダヤ国家」樹立という目的がある。イスラエルは本質的に「反ユダヤ」(Anti-Semite *2)勢力であるが、彼らの野望は、旧約聖書の一節にある「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで、カイン人、ケナズ人、カドモニ人、ヘト人、ペリジ人、レファイム人、アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の土地を与える。」(創世記15:18-21 *3)という「神の契約」の実現をめざす。そのためアメリカとイスラエルは結託して中東一帯の土地を略奪・占領し、敵対する“ならず者国家” ("Rogue States")はことごとく軍門にくだり異民族もろとも根絶やしにされる運命にある(Media Monitors Network, "Israel's Grand Design: Leaders Crave Area from Egypt to Iraq" http://www.mediamonitors.net/johnhenshaw1.html /Institute for Advanced Strategic and Politcal Studies, "A Clean Break: A New Strategy for Securing the Realm") http://www.israeleconomy.org/strat1.htm 注*2 Anti-Semiteは、今日的には「反ユダヤ」で用いられるが、語源的には「反セム族」でアラブ人も含まれる。』 『そもそも遠隔自動操縦による“テスト飛行”が行われたのは1999年10月31日、アメリカのマサチューセッツ州沖の大西洋に急降下して墜落、乗員・乗客217名全員が死亡したエジプト航空990便(ボーイング767型機)の「事故」がそれであった。表向きは副操縦士が自殺を図って故意に墜落させたことになっているが、真相はそうではない。回収されたCVRには、パイロットらのアラビア語の会話に交じって、機内の誰ともちがう聞き覚えのない英語で「コントロールせよ」("control it")/「油圧系」("hydraulic")という音声記録が残されていた(National Transportation Safety Board, "EgyptAir 990: Cockpit Voice Recorder Transcript") http://www.ntsb.gov/events/EA990/docket/Ex_12A.pdf これは、外部からのアクセスによってFCSが“電子的にハイジャック”され、油圧系統を制御できる遠隔操縦に切り替えられたことを示唆している。その英語の音声があった直後に、機体はコントロール不能となり(コントロールされ)、海面へ突入した。エジプト政府とエジプト航空が自殺説に異を唱えたのも無理はない。その990便にはエジプト軍の上級幹部が多く搭乗していたのだから。折しもその990便に指示を与えていたニューハンプシャー州ナシュア空港の航空交通管制官が、WTCビルに突入した2機の「ハイジャック機」をモニター監視していたのは、偶然ではない(Telegraph, "FAA worker says hijacked jeltiners almost collided before striking World Trade Center")。 http://www.investigate911.com/flight93.htm さらに驚くべきことに、実際にWTCビルに突入した航空機はいずれも民間航空機に見せかけた、胴体底部にミサイルポッドを装備した無人航空機で、突入する寸前にミサイルを発射していた(Breaking News, "911 Plot Uncovered" http://www.911uncovered.com/ /The Mysteries of 9/11 http://www.amics21.com/911/index.html /questions, questions..., http://www.questionsquestions.net/WTC/pod.html "Analysis of Flight 175 "Pod" and related claims") 』 『とりわけて重要な物的証拠は倒壊したWTCビルの残骸、とくに鉄骨の支柱や梁にこそあったのだが、わずか数時間後には手際よく片づけられ、あるいは計略的に盗まれ、スクラップ同然にスタテン島のゴミ埋め立て処分場やリサイクル工場へと散財していった。爆破による痕跡を残すことなく、硝煙反応・亜硝酸塩も検出されないよう、証拠保全・現場検証は怠りなくないがしろにされたわけである。そんな芸当ができるのも何のことはない、WTCビル爆破と瓦礫撤去の“マッチ・ポンプ”を請け負っていたのが、オクラホマ連邦政府庁舎ビル爆破事件(1995年4月19日)にも絡んでいたコントロールド・デモリション社(Controlled Demolition, Inc.)という高層ビル爆破解体の専門会社で、オクラホマでも同様の手口で証拠隠滅を図るなど、まさしく名は体を表すとおり完璧にコントロールされていた。』 『航空機の突入したツインタワーばかりか両棟を含め計6棟のWTCビル群が、古いビルの爆破解体特有の垂直倒壊で連鎖的に崩れ落ちていったのは、地下爆破によって壁が一挙に壊れ、敷地全体の地下構造が総崩れとなり、ビルごと引きずりこまれてしまったためである。』 『WTCビルにはモルガン・スタンレーやメリルリンチ、ゴールドマン・サックスなどロスチャイルド財閥系の投資銀行が入っていたが、同ビルの25フロアを所有する最大テナントであるモルガン・スタンレーは社員3700人のほとんどが「奇跡的にも」(同社CEOフィリップ・J・パーセルの発言)無事であったという。さらに事件発生直前の数日間、シカゴ証券市場でアメリカン航空とユナイテッド航空の株をはじめ、モルガン・スタンレーとメリルリンチの株もプット・オプションの買い、株価暴落を見越した大量の空売りが行われており、これらのインサイダー取引にはCIAの高官が関与していた(Independent News, "Mystery of terror 'insider dealers' ") http://news.independent.co.uk/business/news/story.jsp?story=99402』 『ペンシルベニア州ピッツバーグ近郊のシャンクスビルで墜落したとされるユナイテッド航空93便は、追尾していたノースダコタ州空軍第119戦闘航空団3機編成F16“ハッピー・フーリガン”の発射したサイドワインダー・ミサイル2発によって撃墜されていた。「戦闘機を目撃した」「ミサイルの発射音を聞いた」「爆発音を聞いた」「空から飛行機の破片が落ちてきた」といった多くの住民の証言、そして機体の破片・遺留品などの残骸が半径8マイル(約13キロメートル)にわたって広範囲に散乱していたことは、空中で撃ち落とされたことの何よりの状況証拠である。だがそれを決定的なものにしたのは、93便を撃墜した当のパイロット、“ハッピー・フーリガン”のリック・ギブニー少佐の名前が特定できたことだ。』 『なお付け加えておけば、ペンタゴンが攻撃されていたとき、爆破されたエリアとは反対側の執務室に「待避」していたドナルド・H・ラムズフェルド国防長官(PNACのメンバー)は、そのわずか5時間後にはイラク攻撃のためのプランを提示していたことが、側近の書き記したノートから明るみにされている(CBS News, "Plans For Iraq Attack Began On 9/11") http://www.cbsnews.com/stories/2002/09/04/september11/main520830.shtml』 『実はそのFBIオフィスには犯罪捜査に関する機密ファイル、とくにカザフスタンとイランに対してエクソンモービルとBPアムコが関与した違法なオイル・スワップ犯罪、米連邦準備制度理事会(FRB)議長のアラン・グリーンスパン、モルガン、ゴールドマン・サックスに対して申し立てられた金価格の固定を図った犯罪、それら連邦大陪審に告発された重要な証拠書類が保管されていたのだが、まったく7号棟のケース同様、すべて灰燼に帰し証拠隠滅された(Online Journal, PDF: "Big Oil, the United States and corruption in Kazakhstan") http://www.onlinejournal.com/archive/05-12-02_Chin-Pt_1.pdf』 http://www.1101.com/taro/idenshi/2004-02-27.html 『糸井 海外から帰ってくると スペインにあるエネルギーがないとか、 ニューヨークみたいな最先端がないとか、 日本の悪口を言う人が多いでしょう。 でも、逆ですか。 大西 はい。僕はもう、 それは、反対しますね。 日本のええとこもあるし、悪いとこもある。 日本にないところが 世界にあったりするんですけど、 日本が悪いなんて、 僕は絶対に思わないですね。 たとえば、絵を描く「紙」は、 日本がいっちばんすばらしいと思う。 和紙ひとつとっても、 日本って、ものすごい。 装飾のこまかい技術や工夫なんか、 日本より優れてるものはないなと思いますもん。 糸井 好きなんだね、日本。 大西 好きですね。 海外の人のつくったものは、 大ざっぱさがデザインになってたり、 偶然がデザインになってたりするんです。 それが海外の「味」であるんやけども、 でも、自然にできたもんは、 自然になくなっていくと思うんですよ。 糸井 日本のほうに人工的なものを感じるんだ。 大西 自然にできてないものやから、 みんなに受け継いでいけるんじゃないかなと。 糸井 職人の世界みたいなもんだね。 大西 額ひとつでも、海外のは、 自然に色を塗るから、 そういう「味」があるんです。 日本でこの額ができますか?言うたら、 「いや、これは海外やないとできない」 と言われる。 自然に塗ったんが「味」になってもおてるから。 日本は、やっぱりキチッとやってしまう。 でもそれが、日本のよさなんです。 糸井 それ、おんなじことを、 養老孟司先生がいってるんですよ。 大西 え、そうなんですか。 糸井 アメリカの自然公園のつくり方って、たとえば 「弁当のカスを捨てるな」「自然を触るな」だけ。 つまり、自分がその自然に影響を与えないように、 というようにできてる。 ところが、日本の自然の味わい方というのは、 「人間が手を入れて」よくするんだって。 大西 へえ! 糸井 アメリカの自然のとらえ方って 「触るな」なんだけど、 ところが「触るな」でやったものって、 必ず滅んでるんだよ。 衰退してボロボロになるだけ。 でも、手を入れたものって、 手を入れ続けていくから、滅びないんですよね。 大西 なるほど! 糸井 日本の自然は、 みるだけの自然じゃなくて、 環境に溶け込む自然なの。 いちばん感心するのは 奈良の春日山が、あんだけ街の中にあって、 自然が守られてることなんだって。 大西 手、加えてますもんね。 糸井 それは、世界的にも、 めずらしいらしい。 春日山の中にいる昆虫とかなんかって、 ものすごくめずらしいやつが いっぱい棲んでるらしい。 大西 へぇー! 糸井 養老先生は、 日本の自然観のほうが、おもしろいんじゃないか、 それが日本の文化だっていう言い方を してるんだけど、 いまの話、ふたりはすごい違う人だけど、 そっくりだなと思ったんです。 大西 考えてみれば、日本のものって、 手入れがいることばかりですもんね。 糸井 そういう意味じゃ、 岡本太郎って人も、 自分をすごく「手入れ」してきた人だね。 大西 ああ! そうですね。 糸井 生まれは、岡本一平とかの子の息子でさ、 とんでもない天才教育みたいなとこにいて、 パリに留学して帰ってきてから、 縄文だなんだって言い出して。 ぜんぶそのつど、自分に手を入れて 変えていってる。 自然そのものじゃなくて、 つくってった人物ですよ。 だから、残る。 大西 ああ。ほんなら、 岡本太郎先生は、 日本ですね。 自然そのものにみえているものでも、 懸命に手入れしたものなんですね。 春日山に近いですね。 糸井 もしかしてジミー大西だって、 そうじゃないかな。 大西 僕‥‥。 糸井 天然っていう言われ方してるけど、 「天然」でもつ時間って、 限られてるんですよね。 大西 腐りやすいって、 みんな言いますからね(笑)。 糸井 そうそう。 天然のままでいたら、 絵は描いてないですよ、いま。』 http://www.1101.com/taro/idenshi/2003-12-16.html 『田島 岡本太郎さんが言っていることで 大事だと思うのは、 がんじがらめになったり やばいと思っている自分に、 「困難な状況にいるとき、  そのときこそ  おまえは  すばらしいんだ」 って言ってるということなんです。 自分を縛ったり、 やりたいことをやれない状況だったり そういうときって、じつは、 すっごいラッキーな状況にいるぞ、 ということでしょう。 そういう状況の取り方は、 岡本太郎さんが兵隊にいって、 自分からすすんでぶん殴られた、 あのエピソードがあらわしてます。 不良の生命力というか、 そういう状況で盛り上がっていくときが、 命がいちばん彩られているんですね。 ── 「おまえは、いまがすばらしい」 っていうのは、 みんなに言いたいところですね。 田島 ええ。自分にとっての障害に立ち向かって もっと苦しい気分になるというのが 「自由なんだ」ってことなんですよ。 やりにくいところがなくて、 障害を感じることができていない人っていうのは、 じつは不自由だと、そういう気がします。 だから、大事なのは、 疲れちゃって、「ハー」となってるときに 「落ち着くな!!!」 っていうかさ(笑)。 なんていうんだろうね!── ‥‥TAROは疲れなかったんでしょうか? 田島 いや、しょっちゅう疲れて、 「俺はもう死にそうだ」とか 言っていたと思います。 そこで岡本太郎さんがとことん落ち込んでいるのが すばらしいな、と思うんです。 ── 追い込む、追い込む! 田島 「あっ、もったいないもったいないもったいない、  もっと落ち込まないと!」(笑)。 負けても勝ってもどっちでもいい。 まずぶん殴られちゃえばいいんだ、 それがすばらしいことなんだよ、と言ってる。 そこが泣けるんです。』 http://www.1101.com/taro/idenshi/2003-12-19.html 『敏子 ああ、そう! 「マイナスに賭けろ」はもう、 岡本太郎の哲学なのよ。 田島 雑誌で座右の銘を訊かれたりすると そう答えているんですよ。 敏子 そう、うれしいわ! あのね、あれは、簡単なことじゃないのよ。 ずっとずっとずっとやってると、 ちょっと気を弱くして、 「こっちのほうがいいかなぁ〜?」って なっちゃうときがあるの。 気弱になっちゃって、 楽なほうにヒュッて行っちゃうと、 いままでのことは ぜんぶダメになっちゃうのよね。 だから、マイナスに賭け通す。 それがあの人の、ほんとうの、覚悟なの。 むずかしいことなのよ。 田島 たいへんですよね。 それまでやってきたことが、 ぜんぶひっくり返って 自分に戻ってきちゃうからね。 敏子 それは、太郎さんの、ほんとうの、覚悟なの。』 『田島 はい! 敏子 ‥‥わかっていらっしゃるわ、この人! 「うれしい! わかってらしゃる!」「いや〜ハハハ!」 田島 いやいやいやいや! とんでもないです。 敏子 日常生活のどんなささいなことでも マイナスに賭けるのよ。 つまんない、瑣末なことがすべてを決定するの。 すごい大きな岐路に立った、 決戦みたいなときは だれでもみごとな決断をできますよ。 でも、こまかいことは、 みんないいかげんになっちゃうの。 ── TAROは、徹底してますね。 敏子 そう。それがあの人のおもしろいところなの。 どんなささいなことでも、 弱気なものが自分のなかにおこるのは いやなのね。 みんな「岡本太郎だった」と思ってるけど、 そうじゃない、 あの人は、自分で覚悟して 岡本太郎に「なった」んだから! 田島 なあーるほどね! 敏子 岡本太郎になるぞ!って言って。 田島 ずーっと、ずーっと、 なるぞ!だったんですね。 敏子 そう。あの人、覚悟した確信犯だから、 なにがあってもぜんぜん動じないの。 才能ある人とか、 そのままヒョッと地位についた人というのは ふつうは、グラグラグラグラしてますよ。 田島 そうですよねえ。 どんなときでも、 どんな人と接するときでも 岡本太郎さんは、動じないですから。 敏子 それがみごとなのよ! かっこいいぞー! 田島 へへへ。かっこいいですよね。 敏子 ほんとに、かっこいいんだよ。 あたくし、小説出したのよ。 田島 そうなんですか。 敏子 それが、エロティックな小説なのよ! 田島 ハハハハ! まじですか! かっこいいですね! 敏子 ほんとよ。 11月26日に出たの。 新人作家デビューなのよ。 田島 それはすてきだわ。 敏子 いちおうフィクションの形を とってるんだけどね。 ── TAROを思わせる人は、でも、 小説の途中で、 亡くなっちゃうんですよ。 敏子 そう、じつはわりとすぐに亡くなっちゃうの。 ‥‥だってね、 亡くならないのよ、死なないのよ、ってことを 書いてるんだから。 田島 なるほどね! へええ。 敏子 わたくしはね、一瞬たりとも 太郎さんが亡くなったなんて、 思ったことないんだから。 死なないと話がはじまらないのよ。 田島 岡本太郎さんが お書きになった言葉というのは、 亡くなった、昔の人の言葉ではなくて、 いま、そこで、 自分に対して言ってくれているような そんなかんじがします。 敏子 そうでしょう。 言葉だけじゃなくて、絵もいいのよ〜。 そうだ! メキシコで発見された壁画の 下絵がそこに展示されているから、 帰りにみていってよ。 あれをどうしても持ってきて、 みんなに大きな壁画をみせたい。 いいよ! 田島 どんな絵なんですか? 敏子 原爆の絵なのよ。 まんなかに、 ガイコツが燃え上がっているの。 ── そうなんです。 「超マイナスの状況」で 燃え上がっている。 田島 はー! 敏子 しかも誇り高くね。 「こんなひどい目に遭ってかわいそうでしょう」 という、悲しくみじめで 縮こまった絵じゃないのよ。 そんなことばかり言ってたらね、 いまの人類は ここまできませんよ。 だって、火山も爆発したし、津波もあったし ペストも流行ったし、いろいろあったよね。 それに負けずにピシャッと、誇り高く、 みんなここまで生きてきたんだもの。 すごいことよ。 田島 ひゃー、そうか、そうですね。 ガイコツが燃えてるんだ。すっごいな! 敏子 いい絵なのよ。 わたくし、惚れ直したのよ。 原爆という、まったくまがまがしい力が 炸裂した瞬間に、人間の誇りがね、 それに負けずにバーッと燃え上がったんだぞ、 ていう絵なんだよ。 岡本太郎じゃなければ、 そんなの、できない絵なの。 いいぞぉー!』

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