インドの砂漠が森へと甦る。イマジン&実践レポート / ああ、インド暮らしの日々/ /月刊いんどアーユルヴェーダ新聞 /インド伝統医学に学ぶアーユルヴェーダな生活有料メルマガ
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進化する責任 

「秘教の心理学」日本語版、第一章「内なる変革」からの引用です。
 あなたは自分の進化にたいする責任を
 誰かほかの人に負わせることはできない
 この状況を受け容れることは
 あなたに強さをもたらす
 あなたは成長への
 進化への途上にある

 私たちは自分自身の生に
 自分自身の進化にたいして責任を負わなくてもいいように
 神をつくりだしたり、グルを拠りどころとしたりする
 自分から離れたどこか別のところに責任を置こうとする
 グルや神を受け容れられないとしたら
 酒やドラッグによって
 私たちを無意識にするものによって責任から逃れようとする
 だが、責任を拒むこうした努力は馬鹿げているし
 未熟で幼稚なものだ
 そういったものはただ、問題を後回しにするだけで
 解決にはならない 

、P14

問「人間の進化の道のりで、将来いつの日か、人類全体が悟りを得ることは
あるのでしょうか?人間は現在、進化のどのような地点にいるのでしょうか?」

人間とともに、自然の自動的な進化のプロセスは終わる。
人間は、無意識的な進化の最後の成果だ。
人間とともに、意識的な進化が始まる。

・・第一に、無意識的な進化は機械的で自然なものだ。
それはひとりでに起こる。
このタイプの進化を通じて、意識があらわれる。
だが、意識が存在するようになるや、無意識的な進化は止まる。
その目的は果たされたからだ。
無意識的な進化は、意識が存在する
ようになるところまでしか必要とされない。

人間は意識するようになった。
ある意味で彼は自然を超越した。
もはや自然にはなにもできない。
自然な進化によって可能な最後の成果が生まれてしまった。
いまや人間は、進化するかしないか自由に決められるところまできた。

第二に、無意識的な進化は集合的だが、
進化が自覚されると、それは個的になる。

いかなる集合的で自動的な進化も、人類より先へは進まない。
ここからは、進化は個的なプロセスになる。

意識は個をつくる。
意識があらわれる以前には、個は存在しない。
ただ種が存在するだけで、個はない。

進化がまだ無意識的なとき、それは自動的なプロセスだ。
それについて不確実なものはなにもない。
ものごとは原因と結果の法則によって起こる。
・・だが人間とともに、意識とともに、不確実性が実在のなかに生じる。

もはやなにも確かではない。
進化は起こるかもしれないし、起こらないかもしれない。
可能性は存在するが、選択は完全に各個人にかかることになる。

・・人間とともに、選択の自由と意識的な個性が実在のなかに生じる。
あなたは進化することができるが、その進化は個人的な努力となる。
ブッダになるよう進化するかもしれないし、進化しないかもしれない。
その選択はあなたのものだ。

だから、進化には2つのタイプがある。
集合的進化と個人的・意識的進化だ。
しかし、進化(エボリューション)という言葉は、
無意識的・集合的な進歩を暗に意味している。

だから、人間について語るときは、
レボリューション(変革)という言葉を使う方がいいだろう。
人間とともにレボリューションが可能となる。

・・変革とは進化に向けての意識的・個人的努力を意味している。
それは高みへ達するための個人の責任を思いおこさせる。
ただあなただけが、みずからの進化に対して責任がある。

・・私には、あらゆる人間が生得の権利として
これを実現しうるときなど想像出来ない。それは不可能だ。

意識は個人的だ。無意識だけが集合的だ。
人間は、自分たちが個人となる意識の地点にまで到達した。

人類というようなものは存在しない。
ただ個としての人間だけが存在する。
それぞれの人間が、自分自身の個人性と、
それに対する責任を悟らなければならない。

・・あなたに用意ができているなら、
あなたの深みから新しい次元が、変革の次元が始まる。

進化(エボリューション)は終わってしまった。
いまや、越えたるものへとあなたを開くためには、
変革(レボリューション)が必要だ。
それは個人的な変革だ。内なる変革だ。 

プログラムで隷属を生み出す 

〈I AM NOT A MESSIAH〉

わたしは救世主ではない。
わたしはあなたにどんな希望も与えない
そしてわたしは、はっきりとあなた方に
あなたを救うことのできる人は
誰もいないのだということを憶えておいて欲しい
考え全体がまちがっている
あなたがあなたの束縛をつくりだした
どうして私があなたを自由にすることができよう?
あなたが自分の束縛を放りだして、自由になるのだ
あなたは自分の鎖を愛しているのに
わたしに自由にして欲しいと望む
あなたは不合理なことを求めている
あなたの惨めさ、苦しみの原因はあなたなのに
自分の苦しみ、そして惨めさから救って欲しいとわたしに望む
しかもあなたはその同じ種子をまきつづける
その同じ古い人物でありつづける
その同じ原因に水をまきつづける
誰にあなたを救うことができよう
そしてなぜ、誰かがあなたを救わなければならない?
あなたを救うのはわたしの責任ではない
わたしが、いまあるあなたをつくったのではない
あなたが自分で、いまあるあなたをつくったのだ。

だから、ここでのわたしのはたらきは
わたしを信じればあなたは救われると、
単純にいうメシアとしてのものではない
非常に単純な戦略だ
あなたは自分の人格の変化、変容とは何の関わりも持たない
あなたはまったく何もやる必要はない
あなたはただわたしを信じる
どんな疑いも生じさせてはならない
さあ、これが信仰の戦略全体だ
あなたは疑いを避けることはできない
どこに信仰が存在しようとも
そこではただ疑いが抑圧されているにすぎない
もし疑いがないのなら
あなたはどんな信仰も必要としないはずだ
疑いゆえに、あなたはそれを抑圧するための
それに覆いをかけるための信仰を必要とする
そしてその条件とは
つまり、疑いはあってはならない
あなたはどんな疑いも持たずに私を信じなければならない
そうすればわたしはあなたを救おうというものだ
あなたはその条件を満たすこともできないし
なぜわたしは救われないのかとわたしに尋ねることもできない
その条件とは
もともと満たすことのできないものだ
そしてわたしは
あなたはその条件を満たしてはいないと、自由に言える
契約は、あなたの側で果たされていない
わたしになにができよう?
あなたは疑う余地もなくわたしを信じた
が、それは絶対に不可能だ
それは誰にもできない
それはものごとの道理ではない
信仰は常に疑いと手を取り合って存在する
それは疑いのために存在する
わたしはどんなことにもまったく信仰を持っていない
なぜなら、わたしは
どんなことにもまったく疑いをもっていないからだ
もし疑いがなかったら、信仰の必要はない
病気がそこにないのだから、薬の必要はない

あなたは信仰を、さらに多くの信仰を注ぎ入れつづける
だがあなたは、疑いを自分の無意識のなかに深く
さらに深く抑圧しているにすぎない
そしてそれは、深くゆけばゆくほど危険だ
なぜなら、あなたはそれに無意識になるからだ
いつの日かあなたは、信者だと信じている自分に気づくだろう
自分は信仰を達成したのだ、と
なぜなら、あなたの疑いはあなたの無意識の中に
ひじょうに深く入ってしまったために
あなたはもうそれを見ることはできないからだ
わたしはあなたに自分の疑いをはっきりと見て欲しい
それを何らかの信仰体系で抑圧するよりは
それを意識的マインドのなかに取り出すがいい
それと顔を合わすのだ
そして自分の疑いと顔を合わすだけで、それは溶ける
信仰は必要ない、それはただ蒸発する
それは信仰によって代用されるべきではない
もしそれを信仰によって代用したら
そのときには、あなたは非常に奇妙なジレンマに陥る
あなたの信仰をほんの少しひっかくだけで
そこにはまったく活気に満ちて流れている疑いがある
信仰は皮一枚の薄さだ
そしてその下をあなたの血は流れている

だから基本的に私の立場は
あなたがどうあろうとも
その責任はあなたにあるというものだ
もしあなたが惨めだったら、あなたに責任がある
ほかの誰にもその責任を転嫁してはいけない
さもなければ、あなたは決してそれから自由にならない
なぜなら、もしあなたの惨めさの責任がわたしにあるとしたら
あなたはどうやって自由になることができる?
そうだとしたら、わたしがあなたを自由にしないかぎり
あなたは自由になることができない
それはわたしの手のうちにある
そして、もしそれが私の手のうちにあるなら
それは他の誰かの手のうちにもありうる

わたしと共にいる者たちは
それがどんなにきびしくつらいものであろうと
それを理解しなければならない
つまり、あなたに起こっていること、
あなたに起こったこと、
あなたに起こるであろうこと、
そのあらゆることの責任はあなたに、
あなただけにあるということだ
ひとたび自分のあらゆる責任をその全体性において受け容れたら
あなたは成熟する
あなたは、かんしゃくを投げつけるのをやめる
そして、メシアを探し求めるのをやめる

(1984/11/2  ラジニーシ・バイブル 第一巻、#4)

プログラムで隷属を生み出す 

――愛する和尚
  ……
  どうすれば、このような競争心をあおることなく      
  子供たちが、その子自身の潜在的な可能性を
  あますところなく開花させるように
  子供の手助けをすることができるのでしょうか?

子供たちが、まったく競争心を持たずに
成長していく手助けをしようと考え始めたとたんに
あなたは間違った道に踏み出している
あなたが何をしようとしているにせよ
子供たちに特定のプログラムを与えることになるからだ
そのプログラムはあなたがあなたが与えられたものとは
違っているかもしれない
だがあなたは、やはり子供を条件付けしていることになる
たとえ、この上なく好ましい意図に基づいているとしても

木は、誰かが成長の仕方を教えなくても成長し続ける
動物も植物も、全存在も、何のプログラムも必要としない
根本的には
プログラムを植えつけるという考え方そのものが
隷属を生み出している

そして、人間は何千年もの間
さまざまななのもとに、隷属する人間を生み出してきた
ひとつの呼び方に飽き飽きすると、
すぐに別の呼び方を考えて、名前をつけかえた
その条件づけは、2、3はプログラムの修正がなされ
ところどころに変えられた箇所があっても
根本的なところは何も変わりはしなかった

あなたは「どうすれば?」と
方法論を尋ねている

私に言わせれば
親の役目とは、子供が成長するのを助けることではない
子供は、あなたがいなくても成長する
あなたが果たす役目とは
すでに成長しつつあるものを支えてやり
それに滋養を与えて、手を貸すことだ
指示を与えてもいけないし
理想像を与えてもいけない
子供たちに何が正しく、何が間違っているかを
教えてはならない
子供自身に、それを経験させるようにしなさい

子供たちに対して、あなたにできることはひとつしかない
それは、あなた自身の生を分かちあうことだ
子供たちに、自分もまた
親から条件づけを受けてきたことを話しなさい
特定の理想に従い、特定の制限の中で生きてきたこと
そして、こういった理想や制限のために
すっかり生を無駄にしてしまったことを話しなさい
そして、自分はお前たちの生を損ないたくない
完全に自由でいてほしいと、話しなさい
                       (ニューチャイルドp204-206)

道を歩く 

歩き方や道は沢山あるが
全ての終わらない終着地
は同じ

何が正しい歩き方で
何が不正な歩き方か
果てしなく議論して
時間とエネルギー
を浪費せず

誰もが
自分自身のライフスタイルや
自分自身のタイプに同調して
道を選ぶ必要がある

誰もが
自分の個性や
自分の自然体に
適った道を
注意深く選ぶ
必要がある

それが全て

(アナディにはそう聴こえました)

Be a Joke unto Yourself 

Question 6

SOMETIMES YOU TALK NON-SENSE IN THE LECTURES. 

あなたは講話のなかで時々ナンセンスなことを話します。

HOW CAN YOU TELL US TO GO AND LOOK FOR AN ALIVE MASTER IF YOU DIE? 

もしあなたが死んだら、行って
生きたマスターを探しなさい。なんて、
なんでそんなことが言えるんですか?

YOU KNOW PERFECTLY WELL THAT WE ARE MARRIED FOR ETERNITY. 

私たちは永遠に結ばれている。このことを、
あなたは完全にわかっています。

IF YOU ARE TRYING TO ESCAPE THIS MARRIAGE, TOO BAD: 

この結婚からあなたが逃げようとしているなら、あんまりです。

THERE IS NO DIVORCE AVAILABLE FOR GODS! 

あなたと離婚するなんてできません!

BE CERTAIN THAT WE'LL BE HUNTING YOU EVERYWHERE, 
IN EVERY STONE OR FLOWER, IN EVERY EYE AND STAR....

ぜんぶの、石や花や目や星や、どこもかしこも探して
確実にあなたを見つけ出します……



Because I am so certain about it, that's why
 I can play--that's why I can say, "Look for a living master." 

それは私にも確実だ。だから、
「生きたマスターを探しなさい」
などと言って遊ぶことができる。

I am so certain about you . 

あなたについては確実だ。

My trust is absolute about you--that's why I can say, 
"When I am gone, don't be bothered about me: look for a living master."

あなたについて私の信頼は究極だ。だから
「私がいなくなったら、私のことを気にしないで、生きたマスターを探しなさい」
と言える。

But if you have loved me, I will live for you forever. 

あなたが私を愛したら、
あなたのために
私は永遠に生きる。

In your love I will live. 

あなたの愛のなかで、
私は永遠に生きる。

If you have loved me, my body will disappear but I cannot die for you. 

あなたが私を愛したら、
私の肉体が消えるとしても
あなたの愛ゆえに
私は死ねない。

But I can assert much nonsense because I know your love:

ナンセンスなことも言えるのは
あなたの愛を知っているからだ。

I trust it.

愛は信頼する。

When a master says, "Don't go to anybody; cling to me. 
Even when I am gone, go on continuously with me, don't move anywhere"
--that simply means he does not trust you. 

「誰のところにも行かず、私だけに決めなさい。私が死んでも、私の弟子をやり続け、
どこにも行ってはいけない。」とマスターが言うとき、彼はあなたを信頼していない、
ということだ。

He is afraid, he has doubts--he knows that once he is gone, you will be gone. 

彼は恐れている、彼は疑っている、
彼が死ねばあなたはいなくなると彼は知っている。

In fact, he knows that even while he is alive, you will be gone. 

実際、彼が生きていてもあなたはいなくなる事を彼は知ってる。

He protects;he says, "Don't go to anybody else. I am the only one." 
He's very monopolistic. 

彼は守ろうとして言う
「他の誰のところにも行ってはいけない。私が唯一のマスターだ」
彼は非常に独占的だ。

He is so doubtful, that his marriage with his disciples is a sort of monogamy. 

彼の弟子との結婚は一種の独占になってしまっているので、彼は疑いでいっぱいだ。

He's afraid. 
He is afraid because the divorce is possible--
he is afraid of it, 
and wants to protect in every way so that it is not going to happen. 

彼は恐れている。離婚が起こりうるから……
彼は恐れている。
彼は恐れ、そうならないようにあらゆる手段で守ろうとする。

He will say, "Never worship anybody, never love anybody,
 never revere anybody, never listen to anybody, never got to anybody--
just look at me, and forget the whole world.
Exclusively love me."

「ほかの誰も崇拝してはいけない、ほかの誰も愛してはいけない、
ほかの誰も敬い崇めてはいけない、ほかの誰にも耳を傾けてはいけない、
ほかの誰の所にも行ってはいけない・・ただ私を見て全世界を忘れなさい、
私だけを特別に愛しなさい。」

I don't say that to you. 

私はそんなことは言わない。

I know: 

私にはわかっている……

even if I am gone, I know you will
search for me. 

私にはわかっている、
私が肉体を離れてもあなたは私を探す。

Yes, I can trust you will hunt for me in every stone
and flower, in every eye and star....

そうだ、私は信頼している、
あなたは全ての石や花や目や星を探す。

And I can promise you one thing: 

そして私は一つ約束できる……

if you hunt for me, you will find
me...in every star and in every eye....

探せば私は見つかる……すべての星やすべての眼のなかに……

because if you have really
loved a master, you have moved into eternity with him. 

なぜなら、
本当に師を愛したら
、あなたは永遠に
師とひとつだからだ。

The relationship is not of time, it is timeless.

この関係は時に左右されない無時間の関係だ。

There is going to be no death. 

愛は永遠に死なない。

My body will disappear, your body will
disappear--that will not make any change. 

私の肉体は消えるだろう、
あなたの肉体は消えるだろう……
愛は変わらない

If the disappearance of the body makes any change,
 that simply shows that love had not happened.

肉体が消えることで愛が変わるとしたら、
それは愛ではなかった、ということだ。

Love is something beyond the body. 

愛は肉体を超えたものだ。

Bodies come and go, love remains.

肉体は来ては去り、愛は在り続ける。

Love has eternity in it--timelessness, deathlessness. 

愛は永遠だ……無時間、不死だ。

That's why,
Seeta--that's why sometimes I can talk nonsense. 

だからこそ、シータ……
だからこそ時々ナンセンスを言うことができる。

I know you will find sense even in my nonsense. 

私にはわかっている、
あなたは私のナンセンスの中にさえも意味を見つける。

I know you will understand, you will not
misunderstand--that's why.

私にはわかっている、
あなたは理解する、あなたは誤解しない……だからだ。


The Divine Melody Chapter #10, 10 January 1977 A.M. in Buddha Hall

愛――
愛とは何だろう?

愛を感じるのはたやすいが、定義するのはまったくむずかしい。
魚に、海とはどんなものか問うとしたら、魚はこう言うだろう。
「これが海さ、まわり中が海だ。それだけのことじゃないか。」
だが、もしあなたが頑張って、
「頼むから海を定義してくれよ」と言ったら、そのときには
問題は非常にやっかいになる。

生の上でこの上なく微妙な美しいものごとは、
生き抜くことはできるし、知ることはできる。
が、定義したり描写したりするのはむずかしい。

人間のみじめさは、この四、五千年というもの、
真摯に生き抜くべきだった愛、
内側から実現すべきだった愛を、
ただ語るだけですごしてきたところにある。

(セックスから超意識へ 和尚エンタープライズジャパン p.9 )

誓い。聖なる不満足

内なる中心に近つ゛けば近つ゛くほど、この世界に住む
生きとし生けるすべてのものの苦しみを感じるようになってゆく。

一方では深い穏やかさと静けさを感じ、
一方では苦悩するすべてのものたちへの
深い憐れみを感じはじめる。

苦しみに次ぐ苦しみ、そしてまた苦しみ。

どこもかしこも苦しみで満ちている。

一方では大いなる喜びが沸きあがってくるが、
一方では深い悲しみもまた湧いてくる。

何百万もの人々が苦しんでいるからだ――
それも何の理由もない馬鹿げた苦しみを味わっている。

あなたが味わっている至福を達成する
ことは、彼らの生得権でもある。

だから、もう自分は至福に満ちているから、
すべては終わったのだと満足してはならない。

あなたが至福に満ちるようになっても、
すべてが終わったわけではない。

今や旅は新たなる方向へと転じる。

覚者ブッダの境地を達成し、
わが家にたどり着いたら、いよいよ
真の仕事ワークがはじまる。

これまでは夢にすぎなかった。

今や、他の人々が夢から出てくる
のを助ける真の仕事がはじまる。

弟子が達成したら、彼は師にならなければならない。

キリスト教で「キリスト意識の誓い」と呼ばれているのはこれだ。
それを本当に理解しえたキリスト教徒はいない。彼らはそれを誤解してきた。
彼らはイエスだけがキリストであると考えている。

「キリスト」という言葉は「クリシュナ」から来ている。

それは誓いだ。
自分が救われたら、
あらゆるものを救わなければならない
というのがその誓いだ。

苦しみから救われることは無上の喜びだが、
他の者たちを苦しみから救ってゆくことと比較すれば何でもない。

自分が苦しみから救われることは、依然として
自己中心的であり、自己に焦点が合わせられている。
自己の何かが依然として残っている。

あなたは自分のことにしか関心がない。

自己が消え、あなたが救われたからといって、
どうしてその旅をやめることができるだろう?

さあ、今度は他の者たちを救わなければならない。

イエスが救済者と呼ばれるのはそのためだ。

だが、彼が唯一のキリストではない。
彼の前にもたくさんのキリストがいたし、
彼の後にもたくさんのキリストがいた。
これからもたくさんのキリストが現れるだろう。

覚者ブッダになる者はみな、必然的に
あらゆる者を救済しなければならなくなる。

人間の喜び、安らぎ、至福は小さなものだ。
そういうもので満足してはならない。

いつか分かち合わねばならないことを、
いつか他の人々が目覚める手助けをしなければ
ならなくなることを片時も忘れてはいけない。

この種子をあなたのこころハートの奥深くに植えつけなさい。

仏性が花開いたときも、あなたが世界から消えてしまわないように。」

仏教には二つの言葉がある。

ひとつは「アルハト」だ。アルハトとは、光明は得たのだが、
すべてが終わり、為すべきことは完了したと考えている者をいう。
彼は消え失せてしまう。

もうひとつは「ボーディサットヴァ」と呼ばれる。
彼は光明を得たが、消えず去らずに、
懸命にこの世にとどまろうとする。

彼は滞在を引き延ばし、可能なかぎり
この世にとどまろうとする。

こんな話がある。仏陀がにゃはんニルヴァーナの扉に到達した。
すると扉が開き、天上の音楽が奏でられ、黄金の花が降り注ぎ、
花輪を手にした天人たちが彼を歓迎しようと待ち構えていた。

ところが、仏陀は入ることを拒み、扉に背を向けた。
天人たちは驚いて、目を疑った。彼らは何度も何度も彼に尋ねた。
「何をしておられるのです?あなたは今生だけではなく、何生
にもわたって こ の 扉 を探し求めてこられたのでしょう。
ようやくたどり着かれたのに、扉に背を向けられるとは?

私たちはあなたをお待ちしていました。
またひとり覚者ブッダが増えたと、天国は喜びで湧きかえっています。
どうかお入りください!一緒にあなたの
仏性の開花を祝おうではありませんか」

だが仏陀は言った。
「苦しんでいる者がひとり残らず救われないかぎり、
私はなかには入らない。私は待たなければならない。
私は最後に入るつもりだ。他の者たちを先に入れよう」

この美しい物語によると、仏陀は今も
なお扉の前で待ちつつ゛けているという。

扉は開いている。いつ仏陀が入りたいと言うか
わからないから、天人たちも扉を閉めるわけにはいかない。
彼にはなかにはいる権利があるので、扉は開いている。
仏陀のために扉は開け放しになっている。

こうして天上の音楽は流れつつ゛け、花は今も降り注ぎ、
天人たちは花輪を手にして待ちつつ゛け・・・・・・
そして仏陀は外に立っている。

彼は人々を勇気つ゛けている。
呼びかけ、挑み、奮い立たせている。
彼は人々に言っている。

「扉は開いている。
この機会を逃してはならない。なかに入りなさい!
私は最後に入ることになるだろう。もう扉は二度と閉まらない。
すべての人が救われ、光明を得ないかぎり、
扉が閉まることはない」

これは寓話にすぎないが、とほうもなく意義深い。
それを歴史的事実だと見なしてはならない。そんなことを
すれば要点を見逃してしまう。扉もなければ、天人もいないし
、花輪もなければ、天上の音楽もない。

そして仏陀は、光明を得た瞬間に消えてしまった。
その彼がどうして扉に背を向けたまま立っていられるだろう?
誰がそこに立っているというのだろう?
だが、その誓いは・・・・・・。

仏陀が<存在>のなかに解き放ったエネルギーは今もなお作用している。 真 に 
探し求めている者たちは、今でもそのエネルギーを手に入れることができる。
そのエネルギ−はどこまでも作用しつつ゛けてゆく、
永遠に作用しつつ゛けてゆく。

イエスはもはやいないが、そのキリスト意識は新しい位相に入っている。
マハーヴィーラはもはやいないが、その意識はこの生命の大海に入っている。

これらの人々は<存在>の一部となり、波動を放っている。
それがこの寓話の意味だ。

彼らは今もあなたを奮い立たせている。

そのメッセージを受け取る用意があるなら、彼らは今でも
あなたを向こうの岸辺に連れてゆこうとしている。

死を迎える瞬間、師マスターは無限のエネルギーの一部になる。

そのエネルギーには仏陀が加わっている。
マハーヴィーラが加わっている。
ツァラツストラが加わっている。
老子、イエス、マホメットが加わっている。

師が死を迎えるたびに、より多くのエネルギーが解放され、
それが大きな潮のうねりになってゆく。

じつに多くの人々が光明を得てきたので、
それはひとつらなりの潮流になってゆく。

あなたがたは幸運だ。

あなたの憧れが本物ならば、
あなたの願いが本物ならば、
この潮のうねりに運ばれて
向こうの岸辺に行くことができる。

それを胸の奥に刻んでおきなさい。

小さなものごとで満足してはいけない。

途上ではたくさんのことが起こるだろう。
 奇 蹟 の よ う な こ と が数多く起こるだろう。

だが、どれにも満足してはいけない。

いいかね、あなたは
キリスト意識、ボーディサットヴァ
にならなければいけない――それ以下の
ものではあなたを満足させることはできない。

これは聖なる不満足だ。

(黄金の華の秘密 第十話 結晶する黄金の華)

マインドの洞窟

愛する和尚、
何年か前、サイコシンセーシス・ワークショップの催眠状態
の中で、リーダーにプラトンの洞窟のたとえ話に誘導されました。
そこでは男たちは背後にある洞窟の出口を決して見ることなく、焚き火
のそばで壁に映る影を見ているのです。これは私に深い印象を与えました。
そしてこれについて話していただければ、とてもありがたいのですが。
------------------------------------------

プラトンのたとえ話は、洞窟の中で働いていて、壁に映る自分たちの影だけを
見て、壁の上で起こっていることだけが現実だと信じている奴隷たちの話だ。
彼らはその影以外のどんな現実も知らない……。
その影が自分たち自身のものであることすら知らない。
彼らは外の世界について、洞窟の外のことについては何も知らない。
それは彼らにとっては存在しない。

これは最もすばらしいたとえ話の一つだ。
途方もない意味を持っている。
これは私たちのたとえ話だ。
私たちの人生に翻訳するなら、それは
私たちが洞窟の中に住んでいて、
あるスクリーンに映る影を見ており、しかもそのスクリーン
については何ひとつ知らないということを意味している。
私たちはそのスクリーンを超えた世界の存在については何も知らない。
私たちはそのスクリーンの上の影について、
それが自分自身のものであるということすら知らない。
正しく見るなら、これは私たちのマインドのたとえ話だ。

世界についてあなたは何を知っているかね? 
ほんの小さな頭蓋骨があなたの洞窟だ。
そしてあなたのマインドのスクリーンだ……。
だからあなたが思考、感情、感傷と呼ぶものはすべて影だ・・・
それには何の実体もない。
そしてあなたが腹を立て、落ち込み、苦悶しているのは、
あなたたちがその影に自己同化することを学んだからだ。
マインドのスクリーンに投影されているのはあなた自身の怒りだ。

またそれは悪しき循環になる。
その怒りはあなたをさらに腹立たせ、さらなる怒りが
さらなる怒りを投影して、それがどこまでも続く。
私たちは一生涯、マインドを超えた現実の世界が外側に存在することなど
考えたこともなく、また感傷やフィーリングや感情、それらのすべてを
超えた世界・・・エゴを超えた世界・・・があることなど
生涯考えたこともなく生き続ける。

瞑想のアートのすべてはあなたをその洞窟から外に連れ出し、
あなたはその影ではなく、それを見ている者であること
に気づくようにすることだ。

そしてあなたが見る者になった瞬間、奇跡が起こる。
その影は消え始める。
その影はあなたの自己同化を食糧としている。
あなたがそれに自己同化を感じていれば、それらは存在する。
あなたがそれに自己同化すればするほど、それはさらに栄養をもらう。

あなたがただそれを見る者になったら・・・
ただ見るだけで判断もせず、非難もしなかったら・・・
徐々にその影は消えていく。食べ物がなくなるからだ。
そのときそこには途方もない明晰性、感受性が起こり、
あなたは彼方なる世界を・・・
日の出の世界、雲の世界、星の世界を見ることができる。
それはあなたの外にある。

するとあなたは自分の内面にも気づくことができる。
それははるかに神秘的なものだ。
外側の世界はじつにすばらしいが、内なる世界はその千倍も美しい。

ひとたびあなたが何とかその洞窟の外に出られたら、
あなたは宇宙意識の一部になる。
内側に、あなたは全永遠を持っている。
あなたは永遠にここにいたし、永遠にここにいるだろう。
かつて死は起きたこともなく、また起きることもできない。
そして外側には途方もなく美しい存在がある。

だから今やそれを「外側」とか「内側」とか呼ぶことは正しくない。
それは頭蓋骨がそれらを二つに分けていたときの古い単語だ。
今やそれはひとつだ。
あなたの意識とその美しい日没とその美しい星の夜、
あなたの意識と新鮮なバラはもはや別のものではない。
なぜなら分離という原理がないからだ。
それはすべてでひとつの宇宙的な全体だ。

The Transmission of the Lamp, Chapter #9――Osho

いま自分を楽しむ

 〈質問〉トータルな受け入れとは何でしょうか。
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ミラレパ(質問者の名前)。
 トータルな受け入れという言葉自体、
その裏に、「非−受け入れ」が潜んでいる。
なぜ、トータルな受け入れが教えられてきたのか。
それは、人々がトータルな拒絶の中に生きてきたからだ。
自分に何が起ころうとも、人々はそこに必ず何か悪いものを見つける。

 これは非常に大切なことだが、
私たちのいわゆる宗教的な資質というのは、すべて反動だ。
人々が暴力的だと、私たちは反動を起こして、非暴力の哲学が生まれる。
暴力的な人間が、「それは良くない」と頭で理解し、努めて非暴力的
になったとしても、その非暴力の中には同じ暴力的な姿勢がある。

 そしてこれは普通の人々だけの話ではない。
非暴力の権化のようになったマハトマガンディーのような人でも、
深く根ざした暴力性は一生涯つきまとった。
たとえばこんな話がある…

 マハトマ・ガンディーは科学技術の産物にはすべて反対していた。
糸紡ぎ機以降はだ。彼にとっては、糸紡ぎ機で歴史は止まっている。
いったいそれがどうして暴力的なのか。
もし人が糸紡ぎ機でストップしたら、世界の人口のほとんど一割は死ぬだろう。
もちろんガンディーは人類の一割が死ぬことを提唱している
わけではないが、結果的にはそうなる。
そして残った人々も飢餓と栄養失調になり、満足に住む場所もない。
そしてこうしたすべてが、非暴力という美名のもとに覆い隠されるのだ。

 実際の生活上でもマハトマ・ガンディーは、
どこにでもいるような暴力的な人間だった。
長男のハリダスは教育を受けたいと望んだが、
ガンディーは西洋から来たものすべてに反対していた。

こうした姿勢はそれ自身が矛盾している。
慈しみのある人間の姿勢ではない。
慈しみのある人間、愛にあふれる人間にとっては、世界はひとつだ。

そして彼はハリダスに対して、こう語った、
「もし教育を受けたいなら、もう二度と私の前に顔を出すな」。
これが非暴力というものだろうか。
 彼はハリダスに対して扉を閉ざした。

インドの伝統では、父親が死んだ時、その火葬の薪に火をつけるのは長男だ。
ハリダスにはそれが許されなかった。
それがガンディーの遺志だったからだ、
「生きていようが死んでいようが、ハリダスには何も許さない」。
いったいハリダスのどこが悪かったのか。
教育を受けたいと望んだだけだ!

 ガンディーには狂信的な思想があった。
そして狂信的思想というのは、非暴力とは相容れないものだ。
たとえば、トイレ掃除はみんなの義務になっていた。
トイレ掃除といっても、西洋のトイレではない。
インドのトイレほど醜悪で汚いものはない。

彼は自分の妻に対しても、アシュラムのトイレ掃除に参加させようとした。
彼女はそれが嫌だった。それで拒否した。
するとガンディーは言った、
「もし拒否するなら、ここはあなたの家ではないし、私はあなたの夫ではない」
。このような姿勢は独裁的で、愛がなく、暴力的なものだ。
愛のある姿勢だとは言えない。

 あるとき、ハリダスが駅の群衆に混じっていた。
ガンディーが汽車で通ることになっており、
ハリダスは遠くから父や母の顔を見たいと思ったのだ。
近づくことができないからだ。
ハリダスが次の駅で待っていることを、ガンディーは取り巻きの人々から聞いた
。それでコンパートメントの窓やドアが全部閉じられた。
すすり泣く妻に向かってガンディーは言った、
「泣くのはやめなさい。泣くということは、
私ではなくてハリダスのことを思っているということだ」

 ハリダスがどんな罪を犯したというのか。
近代的な教育を受けたいと思っただけだ。

ガンディーの生涯をたどると、暴力的なことがたくさんある。
ところが非暴力の傘がすべてを覆ってしまう。

 ミラレパは、「トータルな受け入れとは何か」と尋ねる。
覚えておくべき第一点。
受け入れとはトータルなものであり、そうでなかったら受け入れではない。
「トータルな受け入れ」というのは、自分の無意識の中深くに
何かを抑圧していて、それを抑圧するために力を尽くすということだ。

 受け入れとは単純なものであり、自然なものであって、
決して何らかの主義主張から生じるものであってはいけない。
自分の理解から生じるべきものだ。
そうすれば受け入れにトータルも非トータルもなくなる。

 よく見れば、受け入れか「非−受け入れ」かはわかるだろう。
しかし、「トータルな受け入れ」というのは、
今まで深く追究されることがなかった。
なぜ「トータル」が強調されるのか。
それはつまり抑圧があるということだ。
あなたにはそれがわかっていない。
それで同じことがいろんなところで起こる。
トータルな節制とか、トータルな禁欲とか、トータルな明け渡しとか。

私はこのトータルという言葉が嫌いだ!
自分の普段の生活を見つめてごらん。女性に対してこう言うだろうか、
「私はあなたをトータルに愛しています」と。
愛しているだけで十分だ。
トータル以上だ。
「私はあなたをトータルに愛しています」と言い張るやいなや、疑惑が生じる。
トータルという偉大な言葉の裏に何かを隠そうとしている。

 受け入れは美しい。
しかし「トータルな受け入れ」は違う。
受け入れ
というのは、自分自身の覚醒から現れるものであって、
教えとか、経典とか、世界を徘徊するいわゆるマスターたち
から現れるものではない。
それは自分自身の理解だ。
実際、それが自分自身の理解であるとき、
受け入れという言葉でさえ無益になる。

 今この瞬間、この静寂、木々の小鳥、陽光があなたに降り注ぐ…
そこに受け入れの問題があるだろうか。
それはただ起こっている。
決して理論的なマインドの訓練ではない。
あなたは別に強制的な訓練によってここに坐っているわけではない。
この途方もない静寂の中、あなたは何の努力もなく坐っている。
それはあまりに美しいため、
ほんの少しの努力によっても破壊されてしまう。

 別の言い方をするとこうだ。
あなたは努力して愛するだろうか。
努力して慈しむだろうか。
努力して生き、努力して呼吸するだろうか。
心臓の鼓動に努力はいるだろうか。

 ちょうどこのように、生の全体が自然発生的な流れとなる。
あなたの感性、あなたの明晰さが、進むべき方向を決める。

しかしそこに努力はない。
なぜなら努力とは、自分が分割されているということだからだ。
自分の一部分はこちらの方向に向かい、別の部分は別の方向に向かう。
すると努力が現れる。
努力とともに生きるのは、分裂症的な人類だ。

 私の生活には何の努力もない。
そして、努力の人は決して存在と同調できない。
いったい誰と戦うのか。
努力とは戦いだ。
 私はあなたに何の訓練も与えない。
何の戒律も与えない。
あなたがあなた自身になりさえすれば、私は満足だ。
あなたは今あるままで、完璧に美しい。
あなたがそれを理解さえすれば…。

 木々は努力なぞしない。
小さな灌木は、小さいことであくまで満足している。
大きなレバノン杉は、自分の大きなことにあくまで満足している。
そこに比較はない。
灌木を見下ろして軽蔑したりしない。
それは灌木の自然な姿だ。
そのリラックスの中に、
影として、静かに、足音すらもなく、受け入れがやってくる。

 私はこの言葉が嫌いだ。
なぜなら、受け入れというのは、
自分の中に何かしら受け入れていないものがあるからだ。
たぶん小さな部分だろう。
その小さな部分を抑圧するために、トータルな受け入れを持ってくる。

 二十年ほど前、ある若い男が私のもとにやってきて、こう言う、
「私はあなたにトータルに明け渡したいと思います」。
 私は言った、
「だとしたら来る場所を間違えたね。戻りなさい。
いつか、トータルとか明け渡しとかいう考えがなくなったら、
あなたを迎え入れよう。私はあるがままのあなたを楽しむ。
あなたの枝を切りつめたり、特定の型にはめたりしたくない」

 ところが世界中のあらゆる宗教は同じことをやってきた。
ただこのように言うばかりだ、「あなた自身にはなるな、ほかの誰かになれ」

 つい先日、私はデヴァ・アムリットと話をしていた。私は言った、
「あなたの巡礼、真理の探究の中で、こうした言葉は最後にすることだ」と。
彼の本の題名は、『何年もの準備』というものだ。
そこには危険な意味合いがある。
つまり、何かを達成し、何かになりたいと思う。
どこか遠くにひとつの理想がある ・・・ ゴータマ・ブッダとか、
ボーディダルマとか、荘子とか、イエス・キリストになりたいという理想が。
その姿は明確ではないかもしれないが、とにかく彼方の星に、
なんとかして到達したい…。

 私は言った、「これは私の言葉だ、だから括弧付きで入れておきなさい、
『こうした何年もの準備はすべて無益だ。
あなたは今までのあなたとまったく同じだ』」
 いろんな人がいる。
私のような人間は非常に怠け者だ。
これが私の場所だと知っている。
別に走り回ってこの場所に来たというわけではない。
何年もの準備を経て、今まであった自分を達成するだって?
今まであったもの以外は達成できないのだ。

 彼は私に言った ・・・ 彼は非常にハートのある人だ、
子供のようで、愛に満ちている・・・
「私はお金とか、権力とか、恋愛とかに幻滅しました」。
私は言った、「もうひとつ幻滅する必要があるね」。
彼は私を見て言った、「ほかに幻滅するものがあるのでしょうか」。
私は言った、
「なんとかして誰かになろうということ、それが最後の幻滅だ。
あなたはそれだ。自分の巡礼はまったく無益な努力だった、と幻滅すること。
あなたはずっと同じところに立ち続け、そして単に準備のことを夢見ていた。
そしてもし、何年もの準備が幻滅をもたらさないなら、
それは無駄だったということだ」

 誰もがこの世界に生まれ、何かを探究する。
それはある意味で自然だ。
しかし成熟が現れるのは、このように気づいたときだ、
「なんだ、私は自分が探し求めていたものだ」と。

だから、もしその本の読者が、最後に私の結論を読んだとしたら、
本の題名はちょっと奇妙だと思うだろう。
「何年も準備をしてどうなるんだ。準備なんかいらないというのが結論なら」

 ミラレパ。
私はまたアムリットに語ったのだが、
中国にはとても美しい一組のカードがあった。
老子や荘子の時代だ。
探求、巡礼を描いた十枚のカードだ。
この十枚のカードは、禅の十牛図と呼ばれる。
 一枚目の絵では、牛がいなくなる。
するともちろん、飼い主はそこらじゅうを探す。
森の中などを。しかし、いなくなった牛は見つからない。
 二枚目の絵では、足跡を見つける。さあ糸口があった。
 三枚目の絵では牛を見かける。でも全身ではなく、尻尾だけだ。
大木の陰に。しかしとにかく物事はハッキリしてくる。
 四枚目の絵では、牛が半分見えてくる。
 五枚目の絵では、牛の全身が見える。
 六枚目の絵では、角を持って牛を捕まえる。
 七枚目の絵では、牛の上にのっかって家に帰る。
八枚目の絵では、牛は元の場所に戻る。
 九枚目の絵では、飼い主が家の外に座って、笛を吹いている。
 この十枚の絵が日本に渡ったとき、最後の絵が落とされた。
九枚の絵しか受け入れなかった。

それ以上何が必要だろう。
あなたは家に戻ってきた。
あなたは笛を吹いている。
すべてが美しい。
なくなったものは見つかった。

 でも十番目の絵を見たとき、私は言った、
「この人々は九番目の絵でひっかかってしまった。十番目こそが一番大事なのだ」。
しかしそれは彼らのイデオロギー的、宗教的、道徳的な傾向に反していた。
その十番目の絵とは、飼い主が酒瓶を持って街へ出かけていくというものだ。
今ブッダは本当に家に戻ってきた。

 ブッダが平凡にならない限り、それはいまだエゴトリップだ。

木々や、鳥たちや、動物たちや、山々と同じくらい平凡にならない限り…。
精神性などを誇ることもなく。

 精神性を誇ることも、微妙なエゴトリップにほかならない。
こんなことを言うのもつらいが、ゴータマ・ブッダはこう宣言した、
「私は人類の歴史の中で唯一悟りを開いた人間だ。
私の悟りは決して取って代わられることがない」。

これは九番目の絵だ。
クリシュナムルティについても事情は同じだった。
彼もまた九番目の絵から抜け出すことができなかった。
つまり、「自分がいつもそうだったもの」になることができなかった。

 マインドの道は非常に狡猾だ。
一番の金持ちになったり、一番の権力者になったり、
とにかく何でも一番になりたがる。一番上じゃないといけない。

あなたにとっては、酒場でブッダを見つけるのは難しいだろう。
しかしそれこそがふさわしい場所だ。
彼は家に戻った。彼は自分の自然な姿を受け入れた。

 ミラレパ。トータルな受け入れについて尋ねてはいけない。
尋ねるなら、どうしたらもっと明晰になれるか、自然になれるか尋ねる。
すると受け入れは陰のようについてくる。
それについて気にする必要はない。

 第二次大戦中、パディはイギリス軍の兵隊だった。
ある日、将軍が彼をテントに呼んで言った、
「マーフィー一等兵、キミに特別の任務を与える。
夜、敵陣の後ろにパラシュートで降りるんだ。するとジープが待っている。
その運転手がまた命令を伝える手はずになっている」
 その夜、パディは飛行機に乗り込んだ。敵陣に近づくと
パディは上官に向かって尋ねた、
「でもパラシュートは初めてなんです。どうしたらいいでしょう」
 「心配するな」、上官は答えた、
「ただジャンプすればいい。三秒たって上を向けば、パラシュートが開いている
。もし開かなかったら、緊急コードを引っ張れば、第二パラシュートが開く。
着地したらジープが待っているから」
 「わかりました」とパディは言い、そして飛行機からジャンプした。
三秒後上を見たが、何も起こらない。
そこで緊急コードを引っ張るが、やっぱり何も起こらない。
「なんてこった」、地面に向かって落下しながらパディは言った、
「このぶんじゃジープの野郎も来てないにきまってる!」

 生というのは、本質的に、途方もない受け入れだ。
知る知らないにかかわらず…。
そもそもあなたは、自分の目をトータルに受け入れているだろうか。
自分の身体をトータルに受け入れるだろうか。
自分の生きている状況をトータルに受け入れているだろうか。

 こうしたトータルな受け入れという考えに囚われていたら、悲惨なことになる。
なぜなら比較がつきものだからだ。
自分より美しい目をしている人もいれば、強い身体をしている人もいる。
もっと物知りな人もいる。するといつも劣等感を感じることになり、
その劣等感があなたのハートを食い尽くしていく。
あなたはますます悲惨になっていくが、それは
自分でいたずらに創り上げたものだ。

比較する必要はない。
というのも、比較するような相手はどこにもいないからだ。
あなたはユニークな一個人だ。
あなたがどうあろうと、それが存在の欲するあなたの姿だ。
楽しめばいい。

 受け入れという言葉を変えたほうがいい。
それはあんまり至福に満ちていない。
受け入れといったら義務的な感じがする。
どうしようもない。
自分より美しい人もいるし、金持ちの人もいるし、強い人もいる。
どうしたらいいか。受け入れか。

 私の教える受け入れというのは、そのようなものではない。
私の考える受け入れというのは、あらゆる宗教のものとはまったく異質だ。
 私はあなたの独自性を宣言する。
 あなたはひたすら自分自身であり、
あなたとまったく同じ人は、現在にも、過去にも、未来にも、ひとりもいない。
存在はあなたにそのような独自の人間性を与えた。
それを楽しめばいい。
その楽しみの中から、受け入れが現れる。
それは気にする必要がない。
私は決して何者かになろうと思ったことはない。
何者でもないことを存在が欲するならば、私は途方もなく幸せだ。

 子供のころ学校の教師たちは私に言ったものだ、
「そんなんじゃ、しまいには何者にもならないぞ」と。
 そして彼らの言うとおりだった。しまいに何者にもならなかった。
しかし私は途方もなく幸せだ。
そして何者かになろうとしていたあの教師たちは、みんな悲惨なものだ。
ときどき私は村に帰って彼らに尋ねたものだ、「お元気ですか、私は何者でもな
くてとてもうれしいのですが、みなさんはいつも辛そうですね」

 自分のあるがままを楽しむようになれば、人生はサイケデリックな彩りに輝き
、瞬間瞬間がとてもジューシーなものになり、生活の全体がお祭りになる。

 ミラレパ。トータルな受け入れというこの考えは、捨てることだ。
どうして受け入れる必要があるのか。
「私は自分を受け入れる」というのは、とても憂鬱な考えだ。
喜び、踊り、歌うのだ。
そして世界に知らしめる ・・・ 自分はただひとり独自の存在で、
誰もその埋め合わせはできない ・・・ 。
私にとっては、これこそが本来の意味での自己探求だ。
そこに比較はない。その必要がない。

 驚くかもしれないが、いわゆる歴史上の偉人ですら、
みんな劣等感に悩まされていた。
ナポレオンはあまり大きくなかった。165センチしかなかった。
それで一生悩んだ。護衛兵のほうが高かった。
ある日彼は、寝室の絵を動かそうと思った。しかし届かなかった。
すると護衛兵が言った、「私の方が高いですから、動かしましょう」。
ナポレオンは非常に腹を立てて言った、「高いと言うな。長身だと言え」。
 どこに違いがあるのか。違いというのは、高いと言われると傷つくからだ。
自分のほうが劣っている、低い。だから長身だと言え。
そうすれば心もそんなに痛まない。

 でも私はいつも不思議に思っていた。
私もやっぱり165センチだが、劣っていると思ったことは一度もない。
たとえあなたが200センチだったとしても、それで
私の足が地面に届かなくなるというわけではない。
そして空に関するかぎり、あなたも私も届きはしないのだ。
だから唯一決定的なのは、自分の足が地面に届くか否かだ。
届きさえすれば何の問題もない。

 しかしそれはひとりだけではない。リンカーンはあまり美しくなかった。
更には、どもりで、それをひどく気にしていた。
もし大統領候補がどもっていて、外見も美しくないとしたら、アメリカでは
あんまりチャンスがない。小さな女の子が彼にアドバイスをした、
「おじさん、ちょっとあごひげを生やせば、顔の形もきれいになるよ」
 この女の子のアドバイスに従って、彼はひげを生やした。
大統領を勝ち得たのはリンカーンではなく、ひげだったのだ。
しかし一生の間、どもりについてはどうしよう
という考えに悩まされ続けた。普通の人よりも劣っていると感じた。

 心理学的に言うと、政治家はすべて、劣等感から生まれる。
その劣等感があまりに辛いので、世界に向けて、自分が劣っていないことを
見せようとする、「私は大統領だ、私は総理大臣だ」と。

自分自身に満足している人は、誰もわざわざそんなものになりはしない。
人類が自分自身を楽しむようになったら、政治家は消え失せ、宗教は
消え失せ、聖者は消え失せ、いわゆる道徳家も消え失せる。
こうした醜悪な人々は、自分の劣等感を覆い隠そうとして、何者かになろう
としているのだ。あるいは少なくとも何者かのふりをする。
これらはみな偽善者だ。
聖者や、政治家や、僧侶や、いわゆる有識者のいない世界は、
どこまでも平和な世界だ。
花園のように平和、今日の朝のように平和だ。
戦争の必要はないし、国家の必要もない。
背伸びする必要はないし、劣等感に悩まされる必要もない。

 私の姿勢はこうだ。個々人のそれぞれが、自然によって定められた自分になる
。そうすれば世界のあらゆる問題は消え去る。そのほかに道はない。
 こうした問題が生まれたのは、精神分裂や、偏執症や、精神症を病んだ人々だ
。ありとあらゆる狂人たちが、一番の金持ち、一番の権力者のふりをする。

 たとえばこういうことだ。
アメリカでは、三千万の人々が路上で死にかけている。
十分な食べ物や、衣服や、寝場所がないからだ。
そしてまさに同数の、三千万の人々が、食べ過ぎのせいで病院で死にかけている
。自分に詰め込むのをやめられないのだ。それで病院送りになる。
なぜなら家では自分をコントロールできないからだ。

 奇妙な話だ。三千万の人々が飢餓で死につつあり、
まったく同数の人々が食べ過ぎで死につつある。
ちょっと理解があれば、六千万の人々を救うことができる。
どちらも苦しんでいる。病院も路上も生活する場所ではない。
私はアメリカの事例を引いたが、それはアメリカが
もっとも豊かな国だというふりをしているからだ。

しかし私の見るところ、アメリカは心理学的に正常にさえなっていない。
同様のことが他の国々でも、更に大きなスケールで繰り返されている。
まるで私たちが何らかの狂気によって支配されているかのようだ。

必要なことはただひとつ、その狂気を落とすことだ。

 世界一の金持ちは日本にいる。210億ドル持っている。
アメリカ一の金持ちは45億ドルしか持っていない。
しかしいったいぜんたい、210億ドルも持っていて、それを何に使うのだろう。
ばかげている。
何百万もの人々が死にかけている。エチオピアはまた飢饉に直面している。
前回のよりも大きい。前回の飢饉では一日千人の人々が死んでいた。
次の飢饉ではおそらく二千、三千の人々が死ぬだろう。
そしてヨーロッパ共同体では、半年ごとに多量の食品を海に沈める。
山ほどのバターを。沈める費用だけで二百万ドルだ。
これは食品の価格ではない。食品を海に運ぶための費用だ。
その一方、エチオピアでは、人々に飲み水がなく、食べ物がない。
 状況があまりに悪化したため、パレスチナでは、
人間の身体を食べる許可を政府が与えざるをえなくなっている。
もちろん自然に死んだ身体をだ。しかしそれは始まりだ…。たとえば、
もし誰かが自然に死なずに、自殺したら、首をつったらどうなるか。
その違いはたいしたものではない。
またもし、イスラエル人かなんかを捕まえたらどうするか。単純な問題だ。
死んだ人間を食べるか、それとも死なせてから食べるかだ。

史上初めて、ひとつの政府が、それは犯罪ではないと認めたことになる。
そしてこれは人間が人間を食べることだ。動物についてはどうか。

 世界を見回してみれば、なんだか気違い病院のようだ。
しかし気違いの人が多数を占め、当然のことながら、
最も気違いの人が選ばれて大統領になり、総理大臣になる。

 精神病院でこんなことがあった。
監督の医者が引退し、新しい医者が引き継ぐことになった。
そこで祝いの場を設け、引退する医者を送り出し、
新しい人を歓迎することにした。引退する医者がしゃべっている時、
誰もが黙っていた。何の感情も、何の表情も、何の拍手も、何の笑いもなかった
。まるで誰もいないかのようだった。ところが新しい医者が語り始めると、
たいへんな変化が起こった。みんな拍手したり、叫んだり、跳ねたり、笑ったり
。新しい医者は当惑した。いったいどういうことか。
それでアシスタントに、どういうわけか尋ねた。アシスタントは言った、

「言いたくはないのですが、隠すわけにもいきません。
みんな、あなたの方が自分たちに似てると思っているのです。
この人のほうが自分たちにふさわしい、前の人はちょっと正気すぎる、と」

 もし人が自分のあるがままを受け入れ、自分の創造的な力を使えば…。
そして誰もが、何らかの力、能力、創造性を持っている。
そうすれば何者にもなることなく、どこまでも幸せだろう。
必ずしも、一番の金持ち、一番の権力者でないと
幸せになれないというわけではない。
それは私たちが今まで持ち越してきた未開人の子供じみた考えだ。

 ミラレパ。私は言いたい、
「トータルな受け入れ」という言葉を落としなさい。
そして次の言葉と置き換えなさい、
それは「自分自身を楽しむ」ということだ。

自分自身を楽しむやいなや、存在全体があなたの中で楽しむ。
まわり中で起こっている調和的なダンスと、あなたは波長が合ってくる。
人間だけがバラバラだ。
なぜバラバラなのかというと、何か特別な者になりたいと思うからだ。
特別になりたいと思ったら、そこに何らかの狂気が生まれる。

 誰かが精神分析家に尋ねた、
「ノイローゼと精神病という言葉は
よく耳にするのですが、その違いは何でしょうか」
 精神分析家は言った、
「その違いは非常に微妙なものです。精神病の患者は、2+2は5だと考えます
。そしてそれについて熱狂的に固執します。誰もそれを変えることはできません」
 「ではノイローゼ患者はどうでしょう」
 「ノイローゼ患者は、2+2は4だと知っています。
でもそれを受け入れたくないんです」

 微妙な違い。
自分が何であろうと、どこにいようと、誰であろうと、
楽しむことができなかったら、あなたは正気ではない。
私にとって正気の基準は、自分のあるがままを楽しめるかどうかだ。

 では深刻な話はそれくらいにして…

 サンフランシスコで洗濯屋をやっている中国人が銀行口座を開き、
定期的に自分の利益を積み立てていった。
 数ヶ月後、その預金はかなりのものになった。
ある日、彼は銀行へ行って、お金を全部おろしたいと言った。銀行員は驚いた。
それで中国人は説明した。自分はこれから結婚してハネムーンに出かけるのだと
。支店長が出てきて、説得にあたった。
今必要な分だけおろしなさい、もし全部おろしたらインタレスト(利子)を
失いますよ、と。しかし中国人は説得に応じず、金を全部おろして銀行を出た。
数週間後、支店長は通りで中国人に会った。
それでハネムーンと結婚生活について聞いてみた。
中国人はこう言うのみだった、
「よくないね。ハネムーンと結婚生活は銀行みたいなもんね。
入れて、出して、インタレスト(興味)を失って」

Osho『Om Mani Padme Hum』より

I am US are You

信頼とは ただ

疑いを

動機として

生きない

ということだ

存在へのそれほどの信頼、
それほどまでにもゆらぐことのない信頼は、
あなたが責任を引き受け始めたときに生じてくる。

自分のまわりのちいさなものごとに対する責任をより感じるように

なるにつれて、存在は千倍ものかたちで応え続けてくれる。

あらゆるものへの敬意


(和尚)

疑って生きるより、信頼して死ぬほうがよい

ひとたびあなたが疑いにとらわれると、マインドにつかまったことになる。

だから疑いがやってきても、たとえやってきたとしても、何の価値もない。

私は、疑いはいつでもまちがっていると言っているのではない。

そんなことは言っていない。私はそんなことを言うような人物ではない。

あなたの疑いが完全に正しくても、それでも間違っている。

なぜなら、それがあなたのハートを破壊するからだ。

疑いには何の価値もない。

 たとえば、あなたが見知らぬ部屋に誰か見知らぬ人といるとしよう。

そしてあなたは、そのひとが泥棒か信頼できない人ではないかと疑う。

この部屋でこの人と眠るのは安全だろうか?

たとえそのひとが泥棒だとしても、人殺しだとしても、
疑いに価値はない。

 疑って生きるより、信頼して死ぬほうがよい。

疑って百万長者になるよりも、信頼して盗まれるほうがよい。

あなたの富を盗む人は、なにも盗んだことにはならない。

だがもし疑ったら、あなたはハートを失う。

だから、信頼するようにと私が言うとき、
私は信頼はいつもうまくいくと言っているわけではない。

そんなことは言っていない。

何度も何度も、信頼はあなたを
多くの困難な状況に置くことになるだろう。

というのも信頼すればするほど、あなたは攻撃されやすくなるからだ。

そして、信頼すればするほど、
あなたは騙そうと待ち構えている人たちの
犠牲にされやすくなる。 彼らは信頼する人たちを必要とする。

そうでなければ、誰をもだますことはできない。

 だが、それでも私はだまされなさいと言う。

それは疑い深いことほど高くはつかない。

もし、人が選ばなければならず、その選択肢が二つー
だまされるべきか、疑うべきかーその二つしかないなら、
だまされた方がいい。

ひとたびこれが決意されたら、疑いはあなたを捕らえることができない。

 何度もなん度も信頼はひじょうに不確かな状況をつくりだし、

あなたを危険な道へと導くだろう。

あなたはますます攻撃されやすくなり、かんたんにあざむかれ、

だまされる。

だが、それでも私は、
どんなに高くつこうとも信頼だけが
守るべきただひとつの宝だ、と言おう。

それに、あなたはもうこのことが理解できるだろう。

というのも、あなたのハートが、あなたのシステムのなかで
なにがうまくいっていないかをすぐに知らせてくれるからだ。

あなたが、信頼と疑い、そしてその影響を
感じることができるのは
よい兆候だ。

だから、ハートのなかでなにかが縮んでいるのを感じたら、

いつでもすぐに内側を観なさいーどこかで疑いが沸起こっている。

どこかであなたは信頼との接触を失っている。

どこかであなたはもう生と響き合っていない。

あなたは切り離されてしまった。 
疑いは切り離す。
信頼は一体にする。

そしてあなたが一体になると、ハートはリズムをとり、
ハーモニーを奏でて、うまく流れる。

それが神聖であることのなんたるかだ。

ハートの内にあり、そのハートが花開いていることー

それが神聖な人のなんたるかだ。

頭のなかにいて、計算高く、ずる賢いことは
神聖ではないということだ。

だから、ただそれを見守り、
その兆候をふたたび失わないようにしなさい。

グッド。
    
A Rose is A Rose Is A Rose,#3
(和尚)

私の責任で世界は狂っている

『 「世界」「社会」「宗教」「国家」といった言葉は
その背後に中身の全くない只の言葉に過ぎない
---空っぽの入れ物だ

あなた以外に世界はない 』

『この大きな世界では、無数の狂ったゲームが進行していて、
あなたがたは皆、その参加者だーー勿論、非常に少ない度合いで
あなたの能力に応じて。
だが覚えておくがいい、その平手打ちは、
いずれあなたのもとに戻って来る事になる、
他のどこに行くというのかね?

あなたのところに来たものはすべて、いいかね、あなたのしたことだ。

いつ自分がそれを始めたのか恐らくあなたは忘れてしまったのだろう
、世界は大きい、時間がかかる。
だが、あらゆるものがその源に戻るーーそれは生の基本的ルール
の一つで、ゲームのルールではない。』

『「あなたが世界だ」
というJ・クリシュナムルティの声明は、
私達の周りに存在するこの世界を作り出している
責任を、個人1人1人が、どこに居ようと、どうあろうと、
受け容れるべきだ、という事実を強調しているだけだ。

 もしそれが狂っていたら、あなたは
あなたなりのやり方で、その狂気に貢献している
もしそれが病んでいたら、あなたも又
それを病気にさせているパートナーだ

そしてその強調は重要だ、何故なら
「私にも、この悲惨で狂っている世界の責任がある」
ということをあなたが理解しない限り
変化が起こり得る可能性は無いからだ

いったい誰が変えるというのか?
誰もが、自分以外の誰かに責任があると思っている 』

『あなたが世界だ」というのは、
それがどうあろうとも、私達は自らの責任を免れることはできない 、という意味だ。』

『 世界を地獄にしてしまうどんなことにも
貢献しないように、油断せずにいるがいい
そして、それを楽園にするような何かを世界に
貢献することを覚えておくがいい 』

『 しらないということは、ひじょうに危険だ

病気に診断が下されたら半分は治っている
病気に診断が下されていないと本当の問題が生じる
薬は問題ではない、診断が問題なのだ 』

『 「あなたが世界だ」というのは数学的な声明ではない
「あなたがせかいだ」というのは心理学的な洞察だ

そしてそれは、成功し得る唯一の革命のための
鍵そのものになり得る 』

和尚


感謝すべて

普通のマインドは、責任を常に他の誰かに転嫁する

あなたを苦しめているのは常に他人だ、
妻が自分を苦しめている、
夫が自分を苦しめている、
両親が自分を苦しめている、
子供達が自分を苦しめている、
或いは社会の経済システムが、
資本主義が、共産主義が、ファシズムが、
体制側の政治イデオロギーが、社会構造が、
或いは運命が、カルマが、神が……

たとえ何であろうと人々は
責任を逃れる為の無数の方法を持っている、

だがあなたが他の誰かX、Y、Z、が
自分を苦しめていると言った瞬間、
あなたはそれを変える為に何も出来なくなる、
自分に何ができる?

社会が変わり、共産主義が来て、
無階級社会が訪れたら、誰もが幸せになる、
それまで、それは不可能だ、
貧しい社会の中でどうやって幸せになれる?
しかも資本家によって支配されている社会の中で
どうして幸せになれる?
官僚的な社会の中でどうして幸せになれる?
あなたの自由を許さない社会の中で
どうしてしあわせになれる?

言い訳、言い訳、言い訳だ――

「 自分に対しては私に責任がある、
自分に対しては他の誰にも責任はない、
それは絶対かつ完全に自分の責任だ
私がどんな存在であろうとも、
私は私自身の創造物だ 」

というたったひとつの洞察を避ける為の言い訳だ

『 全ての責めを自分ひとりに追い込み 』

一旦この洞察が定着したら

「 私は自分の人生に責任がある
自分のあらゆる苦しみに、自分の痛みに、
これまで自分に起こったことと、
今起こりつつある全てのことに
私がこの道を選んだのだ、これらは私が種を播き、
そして今その収穫物を穫り入れているのだ、
私に責任がある 」

一旦この洞察があなたの中で自然な理解になったら、
そうなったら他のことは全て単純だ
そうなったら人生は新しい展開を取り始める、
新しい方向に向かって動き始める

その次元が回心、革命、突然変異だ ――
何故なら、いったん自分に責任があると私が知ったら、
私は自分が決めたいかなる瞬間にも
それを捨てることができると知っているからだ
私がそれを捨てるのを誰も妨げることはできない

あなたが自分の不幸を捨てて、
その不幸を至福に変容するのを
誰が邪魔できるだろうか?

誰にもできない。
たとえあなたが監獄に入れられ、
鎖につながれ、囚人になっていても、
誰もあなたを閉じ込めることはできない、
あなたの魂はそれでも自由のままだ

もちろんあなたには非常に制限された状況があるが、
その制限された状況の中でさえ、
あなたは詩を歌うことができる
あなたは無力の涙を流すこともできれば、
或いは詩を歌うこともできる

足を鎖でつながれていても、
あなたは踊ることができる、
そうなったら、鎖の音さえも、
そのメロディーをもつことだろう

『 あらゆる者に感謝せよ 』

アティシャはまさに、きわめて非常に科学的だ

最初に彼は言う、全ての責任を自分に引き受けよと、
次に彼は言う、あらゆる者に感謝せよと

さて、あなたの不幸に対して
あなた以外の誰にも責任がないとすると、
それが全てあなたがしていることだとしたら、
そうなったら何が残るのか?

『 あらゆる者に感謝せよ 』

それはあなたが変容する為の空間を
誰もが創ってくれているからだ
自分ではあなたを邪魔しているつもりの人ですら、
あなたが敵だと考えている者ですら

あなたの味方、あなたの敵、善人に悪人、
都合のいい状況に都合の悪い状況・・・
それら全てが、あなたが覚者に変容できる為の
状況を生み出しているのだ
全てに感謝しなさい

ある時ある男がブッダの顔に唾を吐きかけた、
もちろん弟子達は激怒した。仏陀の一番身近な弟子、
アーナンドは彼に「これはあんまりです!」と言った、
彼は真っ赤になって怒った、彼は仏陀に
「彼が何をやったのか、この男に教えてやる
のをお許し下さい」と言った、

仏陀は顔を拭って、その男に言った

「 ありがとう、私がまだ腹を立てられるかどうか
観られる状況をあなたは創ってくれた、
が、そうはならなくて、私はこの上もなく嬉しい

そしてあなたはアナンドにも状況を創ってくれた、
これで彼にも自分が腹を立てられるということが解った

有り難う、非常に感謝しています!
時々、どうぞ、ここに来て下さい、
誰かに唾を吐きかけたい衝動が起こったら
いつでも、ここに来て構いません 」と言った

それはその男にとっては非常にショックで、
何が起こっているのか、
彼には自分の耳が信じられなかった
彼は仏陀を怒らせるつもりで来たからだ、
彼は失敗した、
1晩中彼は眠れなかった、
転々反側して眠る事ができなかった

絶えずその考えが彼にまとわりついた―
自分は仏陀に唾をかけた、最大の侮辱だ
処が仏陀はまるで何も起こらなかったかのように、
それまでと同じく穏やかなままだった
そして顔を拭って

「 ありがとう、いつでも誰かに
唾を吐きかけたくなったら、私達の所に
いらっしゃい 」と言った

彼はそれを何度も何度も思い出した、
あの顔、あの穏やかで静かな顔、
あの慈愛に満ちた目

そして感謝を述べたとき、
それは単なる形式ではなかった、
彼は本当に感謝していた
彼の全存在が彼が感謝していることを、
その雰囲気全体が彼が感謝に
満ちていることを示していた
アナンドが真っ赤になって
怒っていたのが分るのとまさに同じく、
仏陀は実に冷静で、愛に満ち、慈愛に溢れていた

彼は今や自分を許すことができなかった
自分は何ということをしてしまったのか?
あのような人に唾を吐きかける―あの仏陀のような人に

翌朝早く彼は駈け戻り、仏陀の足元に身を投げ出して
「 どうぞお許し下さい、一晩中眠れませんでした 」
と言った

仏陀は言った
「 全てお忘れなさい、既に過ぎたことに、
許しを求めることはありません、
どれ程の水がガンジスを流れ下ったことか 」
仏陀はガンジスのほとりの木の下に坐っていた、
彼はその男に示した

「 ごらん、毎瞬どれ程の水が流れ下っているか、
24時間が過ぎた
どうしてそんなものを持っているのです?
もうとっくに存在しないものを、全て忘れることです 」

「それに私にはあなたを許す事はできない、
まず私はあなたに腹を立てていなかった、
もし腹を立てていたらあなたを許すこともできたでしょう
本当にあなたに許しが必要だったら、
アナンドに求めなさい、
彼の足元に身を投げ出しなさい
――彼なら喜ぶだろう! 」

『 あらゆる者に感謝せよ 』

助けてくれた人達に、
邪魔をしてくれた人達に、
無関心であった人達に、
みんなに感謝しなさい

何故ならみんなが一緒になって、
そこで覚者が生れる

その中であなたが覚者になる
状況を創ってくれているのだから

 The Book Of Wisdom #5 より抜粋 
( anadiはこのように聴きました )


 

『 あなたは私の臨在のもとにあることを愛している。

あなたは満たされ、満足する。

しかし、私は満足しない。

というのは、そこにはもっと先があるからだ。

これはほんの始まりにすぎない。

そうして、わたしは、あなたが最初の所でひっかかってしまうのを許さない。 』




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