光と闇の瞑想  ヴィギャン・バイラヴ・タントラ

翻訳  スワミ・アドヴァイト・パルヴァ(田中ぱるば) 市民出版社


本書の原本は、インドの覚者OSHO(和尚・1931〜1990)によって語られた 『ヴィギャン・バイラヴ・タントラ』である。これは1年以上にわたって 断続的に展開された10シリーズ全80回の講話集で、本書はそのうちの 岱7集8講話を収めている。

第2章 根源へ向う



最初の質問――昨夜のお話では、外側を変えても内側は変化も変容もしないということです。でも内側を変容させるためには、正しい食物、正しい労働、正しい眠り、正しい行動や振舞いも重要な要素ではないでしょうか。外側をまったく無視するのは、間違い ではないでしょうか。

外側はけっして内側の変化をもたらさない

ただ
外側は助けにもなるし
障害にもなる
外側によって
内側が爆発しやすくなる 状 況 が現れる

大事な点は
外側の変容は内側の変容ではないということだ

たとえ
あらゆることをやって
その 状 況 が現れたとしても
内側が爆発するとはかぎらない

その状況は必要だ
それは役に立つ
でもそれは変容ではない

そして外側に巻き込まれてしまったら……

外側というのは膨大だ
何生にもわたって変化させながら
けっして満足はできない――
いつもどこかに変えるべきものが残っている

なぜなら内側が変わらないかぎり
外側はけっして完璧ではないからだ
絶えず変更し
磨きをかけ
改善しながら
けっして満足を感じることがない
けっして「よし、すべては整った」
と言えるような状況には達しない

こうして多くの人々が人生を無駄にしてきた

もし外側に取り憑ツかれてしまったら――
食物とか衣服とか振舞いに取り憑かれてしまったら……

私は別に
外側を無視しろと言っているわけではない
私が言いたいのは
それに取り憑かれるなということだ

外側は役に立つが
マインドがそれに取り憑かれたら
外側は大きな障害となる

つまり
外側が口実となり
それによって内側の変化を延期してしまう

いくら外側を変えたところで
内側はピクリともしない
いつまでも同じままだ

みんなも聞いたことがあるかもしれないが
インドの古い寓話にこんなものがある
『パンチタントラ』に出てくる話だ

一匹のねずみが猫をひどく恐がっていた。いつもおびえ、心配していた。
眠ることもできなかった――猫の夢を見て震えだすのだった。そこで、
ひとりの魔法使いがそれを哀れに思い、そのねずみを猫に変えた。外側は
変わったが、すぐにまた、猫の内側のねずみは、犬を恐がるようになった。
その心配は同じだ――対象が変わっただけだ。以前、それは猫だった。
それが今度は犬になった。震えは続き、苦悩は変わらず、夢は依然として
恐怖でいっぱいだった。

そこで魔法使いはその猫を犬に変えた。ところが、その犬はすぐに虎を
恐がり始めた。内側のねずみは同じままだ。ねずみは変わっていない。
ただ体だけ、外側が変わっただけだ。同じ心配が、同じ病気が、同じ恐怖
がそこに残っていた。魔法使いはその犬を虎に変えた。するとすぐにその
虎は狩人を恐がり始めた。そこで魔法使いはねずみに言った、
「さあねずみに戻るんだ。体は変えられても、お前を変えるのは無理だ。
お前の心臓はねずみの心臓だ。私にはどうしようもない――ねずみの心臓は!」

外側を変えることはいくらでもできるが
ねずみの心臓はそのままだ
その心臓こそが問題だ

姿は変わり
形は変わるが
実体は同じままだ
猫を恐がろうが
犬を恐がろうが
虎を恐がろうが
何の変わりもない

問題なのは「何を恐がるか」ではなく
「自分は 恐 が っ て い る 」ということだ

重要な点は
私に言わせれば
外側の努力を内側の変容と
取り違えないということだ

この点をよく注意するように

つまりこういうことだ

役立つことは何でもすればいい
正しい食物を摂るのはいいことだ
でも食物に取り憑かれるのは馬鹿げている
機違い沙汰だ

また
正しい振舞いをするのはいいことだ
でもそれに取り憑かれたらノイローゼだ
何であれ過度に走ってはいけない

インドには
食物に取り憑かれた修行者の教団がいくつもある
みんな一日中食物のことばかり考えている
何を食べ何を避けるか―調理していいのは誰々でいけないのは誰々か……

むかし私は
ある修行者と一緒に旅をしたことがある
彼は乳しか摂らなかった――牛の乳だけだ
その乳も白い牛のものにかぎる
それ以外の食物は摂らない
これでは気違いだ

だから内側こそが大切だ
外側は役に立つし有効ではあるが
それを中心にしてはいけない

外側を重視するあまり
内側を忘れてしまうようではいけない

内側は内側であり
あくまでも中心だ

そして外側は補助物として
もし可能ならば変化させる

でも全く無視するのもいけない
無視する必要はない

というのも実際のところ
外側もまた内側の一部だからだ
外側は内側に対立するものでも
内側に矛盾するものでも
自分に課せられたものでもない

それはあなた自身だ

しかし内側が中心であり
外側は周縁だ

だから周縁に見合うだけの重要性を与えればいい
周縁というのは
周辺部であり
境界であって
家ではない
だからそれに気を配る必要はあるが
過剰にとらわれてはいけない

私たちのマインドは
いつも逃げ道を探している

食物なりセックスなり衣服なり体なり
に関わっていればマインドは楽になる
なぜなら
もはや内側に向わなくてすむからだ
もはやマインドを変える必要はない
もはやマインドを破壊する必要も
マインドを超えていく必要もない

食物を変えても同じマインドは存続する
何を食べようともマインドは同じままだ

ただ内側に向かうときだけ……
内側へ行けば行くほど
マインドは止んでいく
内へ向かう道は
無心(ノーマインド)への道だ

マインドは恐れる
それで逃げ道を探そうとする――
逃げ道とは外側に関わることだ

そうすればマインドは今のままでいられる
何をしようと変わりはない
何をするかに関わりなく
現にあるマインドは続いていく

そしてそのマインドは
同じままで入る方法を見つけだす
ときには
あなたが自然な出口を求めて苦労しているとき
マインドは歪んだ出口を見つけだす

それはもっと危険だ
そんな出口は
助けというよりもむしろ妨げになる

こんな話がある。ムラ・ナスルディンが階段から転げ落ちて、脚を折ってしまった。
それで、折った脚を石膏で固めた。そして三ヶ月間、階段の昇り降りを止められた。
三ヶ月たってから医者のところへ行き、石膏をはずしてもらった。
ムラは聞いた、もう階段を昇り降りしていいですか」
医者は言った、「いいですよ。もうまったく大丈夫」
ムラは言った、「それはありがたい、先生。ほんとに助かりますよ。まったく不便
なことで――一日中、雨どいの昇り降りでしたからね。三ヶ月間というもの、毎日
が雨どいの昇り降りで、ほんとに不便でした。近所中の笑いものにはなるし、階段
の昇り降りはだめというもんだから、別の方法を考えたというわけで」

これこそ誰もがやっていることだ
もしひとつの出口がふさがれたら
必ず歪みが起こる

あなたにはマインドの手口がわからない
その手口はまったく巧妙だ

人々はそれぞれ問題をかかえて私のもとへやってくる
その問題は一見すると単純だが
実際はそうではない

その問題はみな
一見すると単純明快だが
実際はそうでない

奥深くに
何か別のものが隠されている
その何かを
理解し
捨て
超えないかぎり
その問題はそのままだ
ただ形が変わるだけだ

大量にタバコを吸う人間がいるとする
彼はタバコをやめたいと思っている
でもタバコ自体はもんだいではない
問題は別のところにある
たとえタバコをやめたところで問題はそのままだ
それは別のものとなって現れる
一体いつタバコを吸うのか
何かが心配なとき
緊張しているときにタバコを吸う
それが助けとなる
タバコを吸うことで自信がつき
リラックスする

タバコをやめたところで
その緊張は変わらない
緊張や心配はそのままだ
心配はきっと現れる
そこで別のことをする
何か素晴らしい代用品が見つかったりする
――見たところ全く違ったものだ
別に何でもかまわない
タバコの代わりにマントラ(真言、呪文)を使ってもいい
もし緊張を感じたら
「ラム、ラム、ラム」と言えばいい
――何でもいいから連続的にだ

人々にとってタバコとは何か
それはマントラのひとつだ
煙を吸っては吐き吸っては吐く
それは一つの反復になる
その反復によってリラックスが感じられる
何であれ反復は同じ効果をもたらす
マントラを使って「ラム、ラム、ラム」と言っていれば
「それは悪い」と言う人はいない
でもそこにある問題は同じだ

問題は変わっていない
ただ目先を変えただけだ
以前は煙を使い
今は言葉を使っている
繰り返しに効果がある
どんなたわごとでも効果がある
ずっと繰り返していればいい
何かを繰り返すとリラックスするが
それは繰り返しが一種の退屈を生み出すからだ
退屈はリラックスだ
だから退屈を生み出すような事をすればいい

もしタバコを吸っていたら
誰もが「それは悪い」と言う
一方マントラを唱えていたら
誰も悪いとは言わない
でも問題が同じなら
私に言わせれば
それは悪い

むしろ以前より余計に危険だ
というのもタバコの場合
「それは悪い」と自分で知っている
ところがマントラを唱える場合
自分ではそれに気つ゛かない
自分の気つ゛いていないこの病気は
余計に危険で有害だ

表面で何をやっても
もっと深い根が変わらないかぎり
何も起こらない

だから外側については次のことが大事だ
外側の気つ゛きを保ち
表面から根へと向かい
その根を見つける――
「なぜ自分は緊張しているのか」と

たとえば食べ過ぎる人がいるとする
それを止めることはできるだろう
強いて食べすぎを止める事は可能だ
でもなぜ食べ過ぎるのか
それは体の要求ではない
どこかでマインドが入り込んでいる
だからマインドに対して何かをすることだ
それは体の問題ではない
なぜ絶えず自分につめこむのか

食物に対する過剰な執着
それは愛の必要を示している
充分に愛されていないと
食べる量は多くなる

愛され
また自分も愛することができたら
食べる量は少なくなる

誰かに愛されていると
それほどは食べられなくなる
愛によって存分に満たされるから
空虚を感じない

愛がないと空虚を感じる――
何かを詰め込まないといけない
そこで絶えず食物を強いる

そこには理由がある
根源的な理由がある
子供が初めて愛と食物に出会うとき
その両方の出会いは同時に起こる
同じ乳房から
同じ母親から
子供は食物と愛とを得る
だから食物と愛が関連つ゛けられる

もし母親が愛情深かったら
子供は決して余計に乳を飲まない
その必要がない
子供はその愛の中で安らいでいる
彼は知っている――
「必要があればいつでも食物はやってくる
乳はそこにある
母親はそこにいる」と
彼は安らかだ

一方もし母親が愛情深くなかったら
子供は安らかではない
お腹がすいたとしても
はたして食物がやってくるのかどうか定かではない
愛が存在しないからだ
そこで彼は余計に食べる
このことが後を引く
それが無意識的な根となる

だからいくら食物を変えたところで――
これを食べたり
あれを食べたり
これを食べなかったり
……何の変わりもない
そもそもの根源がそのまま残っている
自分に食物をつめこむのをやめても
今度は別のものをつめこむ
やりかたは幾らでもある
もし食べ過ぎをやめたら
今度は金を貯めだすかもしれない
再び何かによって満たされる必要がある
――そこでひたすら金を貯める

よく観察してみれば分かる
ひたすら金を貯めている人間は
けっして愛の中にいない
いるはずがない

金を貯めるということは
実際のところ
一つの代用品だ
金があれば安心できる

愛されている人間には不安感がない
愛の中では
あらゆる恐怖が消え去る
愛の中には
未来も過去もない
今の瞬間で充分だ
まさにこの瞬間が
永遠だ

自分は受け入れられている――
もはや未来に対する心配
明日起こることについての心配はない
愛の中に明日はない

でも愛がなければ
そこに明日が現れる
何が起こるか分からない
そこで金を貯める――
誰ひとり信頼できない
だから物を信頼し
金や富を信頼する

こんなふうに言う人々がいる
「金を寄進しなさい
金を貯めてはいけない
金に執着するな」
でもそれは表面的なものだ
なぜなら内側の要求はそのままだからだ――
蓄財をやめたところで
人々はまた別のものを貯め始める

一つの出口をふさいだら
別の出口が必要になる――
根が破壊されないかぎり

だから過剰に外側にとらわれてはいけない
自分の外側の人格が何であれ
要はそれに気つ゛いていることだ
それに気つ゛き
注意を払い
つねに周辺部から根へと向かい
そこにある原因を見い出す

どんなに困難であろうと
根に向かう

いったん根を知るようになれば
いったん根が露出すれば……

こんな法則がある
「根は闇の中でしか存在できない」
樹の根ばかりではない
どんな根も闇の中でしか存在できない
いったん光のもとに引き出されると
根は死んでしまう

だから自分の周辺部を見回し
それを深く掘り下げ
根にまで達し
その根を意識のもとに
光のもとに引き出してみる

いったん根に達すれば
根は消え失せるのみだ

あなたが何かを す る わけではない
その問題点を知らないからこそ
何かをしてしまうのだ

正しく理解すれば
問題は消失する
問題の正しい理解
問題の根源的理解が
問題の消失となる
これが第一点

第二点
何をしようと
それは表面的なものだ――
本人の全面性を現してはいない

だから人をその行為によって判断してはいけない
なぜなら行為とはまさに刹那セツナ的なものだからだ

たとえば怒っている人間を見れば
「この人間は憎しみや怒りや復讐心に満ちている」
と判断しがちだ

でもその直後
怒りは消え失せ
その人間は限りなく愛情深くなり
その顔には別の香りが
別の開花が現れる

その怒りは刹那的なものだった
それによって人間全体を判断してはいけない
でもその愛もまた刹那的なものだ
それによってその人間全体を判断してはいけない

だから
あなたが今までやってきたことは
あなた自身の総計ではない

行為はあくまでも刹那的なものだ
もちろんそれはあなたの一部分だが
あなたの全体はそれを超越している

あなたは瞬時に違うものになる
あなたの振舞いや行為や行動
を通じて他人が何を知ろうと
それはいつ裏切られるか分からない

今まで聖者であった人間が
今この瞬間
罪人になることもある
聖者である彼にそんなことができようとは
想像もできなかった
でもそれは可能だ
別に想像を絶することではない

また今の今まで罪人だった人間が
次の瞬間にガラリと変わることもある

私の言いたいのはこうだ――
人間の内側は非常に広大だから
外側からは判断できない

外側はあくまでも表面的なもの
偶然的なものだ
繰り返そう
外側は偶然的なもので
内側は本質だ

だからよく内側を見つめ
外側に巻き込まれないようにすること

もう一つ付け加えよう
外側はつねに過去だ
つねに死んだものだ
してしまった事は
してしまった事だ
それはつねに過去だ
けっして生きていない

内側はつねに生きている
それは今ここに在る
でも外側はつねに死んでいる

私を知るということは……何であれ
私の言った事やした事を知るということは
私の 過 去 を知ることであって
私 を知ることではない
私はここにいる……生きているそれは
私の内側だ

でもあなたが私について知る事は
みな外側だ
それは死んでいる
もはや存在していない

このことを自分の意識の中で観察してごらん

自分が何をしたにせよ
それによってあなたが束縛されることはない
それはもはや現実ではない
たんなる記憶だ

あなたはそれよりも大きい
その可能性は無限だ

あなたが罪人なり聖者なりだったとしても
それはたんなる偶然だ
あなたがキリスト教徒なりヒンドゥー教徒だったとしても
それはたんなる偶然だ

しかしその最も内奥の存在は偶然ではない
それは本質的
根源的なものだ

内側を強調することは
本質を強調することだ

そしてその「内側」は
いつまでも自由だ
内側とは自由そのものだ

外側は隷属だ
外側については
起こったときにしか知ることはできない
それについては
もうどうしようもない
過去に対して何ができるだろう
もとに戻すわけにはいかない
逆戻りはできない
過去に対しては何もできない
過去とは隷属だ

このことが正しく理解できたら
カルマ
「行為」の理論も理解できる
この理論はインドの智慧の中でも
とりわけ根本的な部分だ
いわく
カルマを超えない限り
あなたに自由はない……

あらゆる行為を超えない限り
あなたは束縛の中にいる
外側にあまり注意を払ってはいけない
それに取り憑かれてはいけない
大事なのはそれを補助として使うことだ
そして肝心なのは
内側を発見することだ

私たちがここで扱っている諸技法は
内側のため
それを発見するためにある

この世にはいろんな伝統が存在するが
もっとも重要な宗教的伝統の一つにジャイナ教がある
しかしながらジャイナ教は外側に注意を払い過ぎる
あまりに注意を払い過ぎる結果
瞑想なるものの存在をすっかり忘れている
ヨガの科学なるものの存在を
すっかり忘れている

ジャイナ教は
食物や衣服や睡眠といった全てに取り憑かれている
そして瞑想に対する努力が何もない

ジャイナの伝統に瞑想が存在しなかったわけではない
どんな宗教も瞑想なしには誕生しない
でもジャイナの伝統は
どこかで外側に取り憑かれてしまった
外側が余りに重要なものとなった結果ジャイナの伝統は
次のことをすっかり忘れてしまった――
こうした外側的状況すべては
もともと補助的なものであって
終着点(ゴール)ではない――

「何を食べるか」は終着点ではない
自分の存在こそが終着点だ
もし食生活が自分の存在を発見する助けとなるならば
それはいいことだ

でも食べることに取り憑かれ
食べることしか考えなくなったら
それは取り違えだ
それでは食物中毒であり
狂気ノイローゼだ


第二の質問

あらゆる瞑想技法は、実際のところ、探求者を自分自身の存在へと導くための行為だと言えるでしょうか。

ある意味でそれは正しい
しかし
より深い意味では正しくない

瞑想技法が行為だと言えるのは
とりあえず何かを「する」よう指導されるからだ
瞑想することでさえ
何かを す る ことだ
静かに座ることでさえ一種の行為だ

だから表面的には
あらゆる瞑想技法は行為だ
でも深い意味ではそうではない
なぜなら
もしそれに成功すれば
その行為は消え去るからだ

それが努力と映るのも始めのうちだけだ
もしそれに成功すれば
その努力は消え失せ
その全体は自然なもの
無努力のものとなる

もしそれに成功すれば
それは行為ではなくなり
努力する必要がなくなる

ちょうど呼吸のようなもので
ただそこにある

でも最初のうち努力は必須だ
なぜならマインドにとっては
努力なしに何かをすることは不可能だからだ
マインドに対して
「無努力になれ」と言ったら
何が何だか分からなくなる

禅では
無努力がたいへん重要なものとされる
師は弟子たちにこう言う
「ただ座れ何もするな」
そこで弟子はそれに努める
実際それに努める以外に何ができるだろう
弟子は努めて
ただ座ろうとし
何もしまいとする
すると師は
彼の頭を棒で叩いて言う
「するな!
私は『努めて座れ』とは言っていない
それでは努力になる
また
『努めて何もするな』とも言っていない
それもまた行為の一種だ
ただ座れ!」

もし私が「ただ座りなさい」と言ったら
あなたはどうするか
きっと何かをするだろう
でもそれでは「ただ座る」ことにならない
努力がある
あなたは努力して座り続ける
そこには緊張がある
あなたは
ただ座ることができない
一見するとそれは奇妙だ
ただ座ろうとするやいなや
面倒なことになる
ただ座ろうというその努力が
ことを面倒にする
一体どうしたらいいか

何年も何年も弟子は座り続け
叱咤をあびる
「お前は肝心な点を逃している」と怒られる
でも弟子はひたすら続け
そして毎日しくじる
なぜなら努力があるからだ
師をだますことはできない
でもある日
辛抱強く座っていると
「座ろう」というこの意識さえも消え去る
ある日突然
彼は座っている
樹のように
あるいは岩のように
何もせず

すると師は言う
「それが正しい姿勢だ
やっとお前はそれを成し遂げた
よく覚えておけ
これこそが座るということだ」

でも無努力を達成するには
忍耐と長い努力がいる

最初のうちは努力があり行為がある
でもそれは最初のうちだけの必要悪だ
それはあくまでも超えるものだ

いつか必ず
瞑想について
何もしていないような
瞬間がやって来る
自分はただそこにいて
それが起こる
自分はただ座り
あるいは立ち
それが起こる
何もせず
ただ気つ゛きを保ち
それが起こる

こうした技法はすべて
あなたを無努力の瞬間に連れていく

内側の変容
内的な覚醒は
努力を通じては起こらない
なぜなら
努力とは緊張の一種だからだ

努力があったら
全面的にはリラックスできない
その努力が障害となる
この背景をこころえ
そして努力すれば
いずれ少しずつ
それを去ることができるようになる

それはちょうど水泳のようなものだ
水泳を知っている人間ならわかるだろうが
最初のうちは努力が必要だ
でも最初のうちだけだ

いったんその感覚が分かれば
いったん水泳とは何かが分かれば
その努力は去り
努力なしに泳げるようになる

水泳の達人でさえ
水泳とは何かを語ることができない――
自分が何をやっているのかを正確には語れない……
自分が何をやっているのか説明できない
実際のところ
彼は何もやっていない
ただ
水や川に身を任せて
深く呼吸しているだけだ
彼は実際
何もやっていない
いまだに何かやっているとしたら
水泳の達人ではない
まだ素人だ
修行中だ

こんな話がある。ミャンマーで、ある仏教僧が、
新しい寺の門を設計するよう命じられた。そこで
彼はいろいろな図面を描いた。その僧には、ひとり
非常に才能豊かな弟子がいた。そこで彼はその弟子に、
自分のそばへ来るようにと言った。師が図面を描いている間、
弟子はそれを眺め、気に入ったら「いい」と言い、気に入らなかったら
「だめ」と言う――それが弟子の役目だった。師は言った
「お前がいいと言うものがあれば、それを送ろう。でもお前が
だめと言うならば、その図面を捨てて、また描き直そう」

こうして何百もの図面が捨てられた。三ヶ月がたった。師でさえも心配になってきた。
でも、自分でそう言った手前、守らないわけにはいかなかった。弟子はそこに控えて
いる。そして師は図面を描く。弟子は「だめ」と言い、師はまた次のにかかる。

ある日、墨がなくなってきた。そこで師は「墨をさがしてきておくれ」と言った。
弟子はでかけた。師は弟子のことを忘れた。そして、無努力になった。
弟子の存在が問題だったのだ。「彼がそこにいて見ている」という
観念が、つねに師の頭の中にあった。師はつねに心配していた――
「はたしてこれを好んでくれるか、あるいはまた捨てられてしまうか」
と。それで内側に不安が生まれ、無為自然になれなかった。

弟子は出かけた。図面は完成した。弟子は戻ってきた。そして言った、
「素晴らしい! なぜ今までこれが描けなかったのですか」

師は言った、
「今になってその理由がわかった。それはお前がここにいたからだ。
お前のせいで、私は努力し、認めてもらおうと思った。
その努力が、全てをぶちこわした。
私は自然になれなかった。
溢れ出ることができなかった。
自己を忘れることができなかった。
お前がいたからだ」

瞑想しているとき
瞑想しようとする努力そのもの
成就したいという考えそのものが
障害となる

それをよく意識することだ

瞑想しながら
そのことを意識する

そうすれば
やがて
忍耐を通じて努力の無くなる日がやって来る
実際もうあなたはいなくなり
瞑想だけがある

それには長い時間がかかるかもしれない
それは予測できない
いつそれが起こるか
誰にもわからない

努力によって達成できるものなら
予測もできるだろう
たとえば「これくらいの努力をすれば成就する」といったふうに

でも瞑想が成就するのは
無努力になって初めてだ

だからこそ何も予測できない
自分の瞑想がいつ成就するかについては
何もわからない
今この瞬間に成就するかもしれないし
何生かかっても成就しないかもしれない

すべてはこの一点にかかっている――
努力がやみ
無為自然になる

瞑想が行為ではなく
自分の存在となる

瞑想がちょうど
愛のようなものになる

あなたは愛について何もできない
何ができるだろう
もし何かをしたら
愛は偽りになり
人為的なものになる
その愛は深いものではない
あなたはその中にいない
その愛は一つの演技となる

愛は在る
それについては何もできない

瞑想についても
あなたは何もできない

でもそれは別に
「何もするな」ということではない
何もしなかったら
あなたは現状にとどまってしまう
だから何かをしないといけない

しかし必要なのは
「するだけでは到達できない」
という完璧な意識だ

行為は最初の段階で必要となる
それを省くわけにはいかない
それを通過し
超越することが必要だ
そして無努力の浮遊を達成するのだ

その道は労多く
まったく矛盾している
瞑想以上に矛盾しているものは他にない

なぜ矛盾しているかといえば
瞑想は努力に始まり
無努力に終わるからだ
でも
その無努力は起こる
それがどのように起こるのか
論理的には想像できなくても
体験の中でそれは起こる
ある日あなたは努力にうんざりする
そして努力は落ちる

それがブッダに起こったことだ
六年の間
彼は可能な限りあらゆる努力をした
彼ほど悟りに取り憑かれた人間はいなかった
およそ自分にできることは全てやった
教師から教師へと尋ねまわり
教わったことを全て完璧にやった

それが問題だった
どんな教師も彼に対してこうは言えなかった――
「それじゃだめだ、そんな様ザマだから到達できないんだ」
それは不可能だった
彼の行いは
どんな導師をも上回っていた
だから導師達はみな白状せざるを得なかった――
「自分に教えられるのはここまでだ。そこから先は
わからない。だから、どこかよそへ行きなさい」

彼は危険な弟子だった
そして危険な弟子だけが到達する
彼は可能なこと全てを学んだ
言われたことは全てやった――
まさに言われたとおりに
そして導師のもとに行ってはこう言う
「私はそれをやりました。でも何も
起こりませんでした。次に何をしたらいいでしょう」

教師達は言う「どこか、よそへ行きなさい。ヒマラヤに
教師が一人いる。そこへ行きなさい」あるいは
「どこそこの森に教師が一人いる。そこへ行きなさい。
それ以上のことは私にはわからない」

六年間
彼はあちこち訪ねまわった
そしてやれることは全てやった
人間に可能なことは全てやった
そしてうんざりした
全てが無益に
不毛に
無意味に見えた
ある夜
彼はあらゆる努力を捨て
リラックスした
そして菩提樹の下に座って
こう言った――すべては終わった
この世には何もない
そしてこの精神的探求の中にも
何もない
もはやすることは何もない
すべては終わった
現世ばかりでなく
彼岸もだ

突然
あらゆる努力がやんだ
空っぽだった

することが何もなければ
マインドは動けない
マインドが動くのは
することがあるからだ――動機とか
目標とか……
マインドが動くのは
何か可能だからだ――
達成するものがある
未来がある……
今日でなかったら明日
達成できるかもしれない
それでマインドは動く

その夜ブッダは行止まり(デッド・ポイント)
に立ち至った
実際
彼はその瞬間に死んだ
もはや未来はなかった
達成するものはなく
達成できるものもなかった
「私はすべてをやった。世界全体
は無益であり、存在全体が悪夢だ」
物質的世界が無益となったばかりでなく
精神的世界もまた無益となった

彼はリラックスした
とはいっても
何かをやってリラックスしたわけではない
この点が大事だ
彼がリラックスしたのは
緊張すべきものが何もなくなったからだ
別にリラックスしようと努力したわけではない

菩提樹の下にいたブッダは
リラックスしようとしていたわけではない
することは何もなかった
緊張すべきことは何もなかった
欲求することは何もなかった
未来も希望もなかった

その夜彼は絶対的な無の状態になった
リラックスしていた――
リラックスが起こった

あなたはリラックスできない
なぜなら達成すべきものが
依然として存在しているからだ
それが絶えずマインドをかきまわす
そしてあなたはクルクルと回り続ける

ブッダの場合
突然その回転が止まった
その車輪が止まった
そしてブッダはリラックスし
眠りに落ちた

朝
目覚めたとき
最後の星が消え去ろうとしていた
彼の目に最後の星が消えていった
そして最後の星が消え去るとともに
彼もすっかり消え去った
彼は悟った

それからのち
人々はよく彼に尋ねた――
あなたはどうやってそれを達成したのか
その方法は何か

もうブッダの困難がわかるだろう
もし彼が
「私はある方法を通じて達成した」
と言ったら
それは誤りだ

彼が達成したのは
何の努力もなくなったからこそだ
でも彼が
「どんな努力もしなければ達成できる」
と言ったら
それもまた誤りだ

彼の無努力の背景となったのは
六年にわたる努力だったからだ
その努力
六年間にわたる労多き努力がなかったら
この無努力の状態は達成されなかった
必死の努力があったからこそ
頂点へと達し
もはや行くべきところが無くなったのだ
そしてリラックスして
谷へと落ちた

いろいろな意味で
この点は大事だ

精神に関する努力というのは
まったく矛盾した現象だ
努力は必要だが
あくまでも
「努力を通じて達成されるものは何もない」
と意識している必要がある
努力が必要なのは
ひとえに
無努力を達成するため
努 力 の な い こ と を達成するためだ

でも努力をゆるめてはいけない
もしゆるめたら
決してリラックスに到達できない――
ブッダのリラックスに到達できない
あらゆる努力を払えば
その新しい努力によって
リラックスの起こる地点が自動的にやってくる

たとえば
皆はどう思っているか分からないが
私の見るところ
西洋ではずっと
エゴが中心とされてきた
エゴの成就
エゴの発達
強いエゴの達成が
西洋における努力の全てだった

いっぽう東洋において中心とされたのは
いかにエゴの無い状態に到達するか
いかに無エゴになるか
いかに自分自身を忘れ
明け渡し
解け去って
自分を無くすかだった

東洋は努めて無エゴになろうとし
西洋は努めて完璧なエゴを得ようとしてきた

ところが物事の矛盾性はここにある
非常に発達したエゴを持っていなければ
明け渡しはできない
明け渡せるのは
完璧に明確なエゴを持っているときだ
さもないと明け渡しはできない
いったい誰が明け渡すのか

だから私から観れば
どちらも半分で
どちらも苦だ――
東洋も西洋も

東洋は無エゴを選んできた
それは後半部だ
前半部が欠けている

誰がエゴを明け渡すのか
頂上がなければ
どうして谷が現れるだろう
頂上があるからこそ
谷もある
頂上が高ければ高いほど
谷は深い

もしエゴがなければ
あるいはエゴが生半可なものだったら
明け渡しは不可能だ
あるいは
明け渡したとしても
生半可な明け渡しだ
ほどほどのものだ
そこからは何も起こらない
何の爆発も無い

西洋では
前半の部分が強調されてきた
それで人は
どこまでもエゴを成長させる
それによって不安はますます大きくなる
そしてエゴを成長させても
それからどうしていいか分からない
なぜなら後半の部分がないからだ

私にとって
精神的探求とはその両方だ
大いなる頂点
完璧なエゴを作り上げ
そしてそれを溶かす
一見それは不条理だ
エゴを作り上げるのも
ただ溶かすため
深い明け渡しを達成するため
失うためだ

持っていないものは失えない

だから私に言わせれば
次の二点について同時に訓練を施す必要がある

まず
誰もが完璧なエゴを持ち
成就したエゴを持つようにする
でも
それはまだ旅の半分だ
ついで
それを明け渡せるよう手助けする

頂上が高ければ
谷も深い

エゴが高ければ
その明け渡しも深くなる

これは全てについて言える

精神的探求の道にあっては
この絶えざる対照をよく覚えておくことだ
かたときも忘れてはいけない

まずは完璧なエゴ人間(エゴイスト)になる
そうすれば明け渡すこともできる
そうすれば溶け去ることもできる

努力が去り
すっかり無努力となる地点に到達するよう
できるだけの努力をすることだ


第三の質問

昨夜のお話では、マインドが成長すればするほど、混乱というマインドの本性が明らかになるということです。でもマインドのこの成長は、明晰さにもつながるのではありませんか。


私が言ったことは
まさにこれに関連している

そのとおり
それは明晰さにつながっている

真に成熟したマインドを持って初めて
自分が混乱していると分かる
「マインドは混乱だ」と気つ゛いていない人
のマインドはあまり成熟していない

そういうマインドは
子供じみて
未熟で
まだ発展途上にある

成熟しきったマインドがあって初めて
混乱というマインドの本質に気つ゛くことができる
そしてマインドを発達させて初めて
瞑想は可能となる

なぜなら瞑想とは
その対極にある到達点だからだ

瞑想とは無心(ノーマインド)を意味する
でもマインドに到達していなかったら
どうして無心に到達できるだろう

だから
まずマインドに到達し
そしてマインドを失うのだ

決してこう考えてはいけない――
「もし最終的に無心の状態に到達するとしたら
どうしてマインドに到達する必要があるだろう」

もしマインドに到達しなかったら
その「究極」は決して起こらない

マインドがあって初めて
それは起こる

だから別にマインドは悪いものではないし
知性も悪いものではない

実際
私にとって悪いものは何もない
私は全てをよしとする

すべては対極へ到達するために使うことができる

反対であるからこそ
対極に到達できるのだ

狂人は瞑想できない
なぜなら彼にはマインドが無いからだ
しかしその無心(ノーマインド)
はブッダの無心ではない

無心には二つの次元がある――
マインドの上方の次元と
マインドの下方の次元だ

マインドの上を行くのも無心であり
マインドの下を行くのも無心だ

マインドから転落すれば
マインドは無くなるが
それは瞑想ではない

マインドを超えて初めて
ブッダの無心が達成される

この点が大事だ

この両者はよく似ているので
誤解してしまうことがある
両者はそれほどよく似ている

例えば子供は無垢だ
聖者イエスやクリシュナ
のような人間も無垢だ

でもその無垢は
子供じみてはいない
子供のようではあるが
子供じみてはいない
子供の無垢は無知に由来するものだ
子供の無垢は消極的なものだ
――何かの不在でしかない

やがて全ては噴火する
子供というのは
噴火を待つ火山だ
その無垢はまさに
火山が噴火する前の静けさだ

聖者とは超えていった者だ
噴火はすでに起こった
そして火山は再び静かになった
この静けさは別種のものだ

最初の静けさは色んなものを孕ハラんでいる
――何かがそこにある
その静けさは表面上のものだ

やがて子供は悩み苦しむ……
奥深くで着々とそれに向かって進んでいる

聖者はすでに
その悩みや苦しみを通過している
嵐は去った
その静けさ
その無垢は
一見すると似ている

でもそこには深い違いがある

だから時には愚者が聖者のように見えたりする
じっさい愚者は聖者のようだ
彼らは狡猾ではない
狡猾であるためには知性が必要だ
彼らは計算高くない
計算高いためにはマインドが必要だ

愚者は単純で
無垢で
非狡猾で
非計算的だ
彼らは誰も騙せない
別に騙すのが嫌いだというわけではなく
だませないのだ
その能力そのものが欠如している

彼らはいっけん聖者のようだ
又ときには聖者も彼らのように見えたりする
つまり同じことが全く違った次元で再び起こっている

マインドの下に落ちること
それもまた可能だ

すると無心が起こる
でもそれは瞑想ではない

マインドはそれによって失われるが
そのマインドはそもそも
瞑想へと向かう踏み石となるはずだった

マインドは別に悪いものではない
マインドを発達させ
知性を発達させるのは大事だ

でもそれは
あくまでも一つの手段だ
その手段は
放棄するものであり
捨て去るものだ――
船のように使うものだ
向こう岸に着いたら
あなたは船を去る
そしてもう船の事は全く忘れ去ってしまう


最後の質問

いつも感じていることですが、私たちは自分で自分の苦悩を生み出しています。 それにもかかわらず、なぜ私たちは相変わらず苦悩を生み出し続けるのでしょうか。 一体いつ、どのようにしたら、自分で苦悩を生み出す事をやめられるのでしょうか。


まず第一点
そして理解すべき最も根本的な点

「いつも感じていることですが、私たちは自分で自分の苦悩を生み出しています」
というのは当たっていない

あなたは真からそう感じているわけではない――
自分こそが自らの苦悩を生み出しているとは……

あなたがそう思っているのは
そう教えられてきたからだ
何世紀にも渡って教師たちは教えてきた
「人は自らの苦悩を生み出しているのであり他の誰もそれに責任は無い」

あなたはそういう話を聞き読んできた
そしてそれは貴方の血となり骨となり
無意識的な条件つ゛けとなってきた
だから貴方はよくオウムのように
「私は自分で自分の苦悩を生み出す」と繰り返す

でもそれは
自分の感覚ではない
自分の認識ではない

もしそれを認識したら
その後半はありえない
つまり決して
「それにもかかわらず、なぜ私たちは相変わらず苦悩を生み出し続けるのでしょうか」
などと言いはしない

「自分はみずからの苦悩を生み出す」ということを
もし貴方が真に感じたら
もしそれが自分自身の感じだったら
いつでもそれはやめられる

勿論あなたがそれを生み出したいなら
それを好むなら
自虐家(マゾヒスト)であるなら
話は別だ

もしそうだったら
それはそれでいい別に問題はない
もし「私は苦悩を楽しむ」と言うのであれば
それはそれでいい
生み出したいだけ生み出せばいい

でももし「私は苦しんでいるがそれを超えたい
それを完全に止めたい
でも私はちゃんと理解している
――自分こそがそれを生み出している」と言うようであれば
あなたは間違っている
あなたはそれを理解していない

ソクラテスは「知は美徳だ」と言ったそうだ
そしてこの二千年間
はたしてソクラテスのこの言葉
「知は美徳だ」が正しいのかどうかが
ずっと議論されてきた

ソクラテスいわく
いったん貴方が何かを知ったら
もうその逆はできない

例えばもし「怒りは苦悩だ」と知ったら
もう怒ることはできない

ソクラテスの「知は美徳だ」
という言葉の意味はそこにある

だからこんなふうには言えない――
「怒りが悪いことだと知りながら私は怒ってしまう
一体どうしたらいいか」

ソクラテスいわく
その最初の部分が間違っている

「怒りは悪い」と知らないからこそ
それを続けるのだ

もし知っていたら
そうするはずがない
どうして自分の知識に逆らうことができるだろう

例えば「手を火の中に入れたら痛い」
と私は知っている
知っているからこそ
手を火中に入れたりしない

ところが「火は熱い」ということを
誰かから聞いたり
伝統を通じて聞いたり
聖典の中で読んだとしたら
そして私が火を知らず
似たような体験も無かったとしたら
そのときには
自分の手を火中に入れる事もありうる
しかしそれも一回だけだ

自分の手を火中に入れ
火傷を負って苦しみながら
それを繰り返し
そして「火は熱いと知りながら
繰り返し手を火の中に入れてしまう
どうしたらいいか」と尋ねる――
そんなことが想像できるだろうか

「私は知っている」と言うが
誰がそれを信じるだろう
一体それはどんな種類の知識なのか

もし自分の苦痛と火傷の
体験が役に立たなかったら
もはや何も役に立たない
もはやどんな可能性もない

それは最後の可能性を逃すということだ
しかしそれは逃しようの無いものだ
それはあり得ない

ソクラテスの言うとおりだ
また智に到達した人々もみなソクラテスに同意する
その同意の中には大変深い一点がある

いったんあなたが知ったら……しかし
あくまでも自分自身の知識であればだ
借り物の知識ではだめだ
借り物の知識では役に立たない

自分自身の体験だけがあなたを変える
他人の体験は役に立たない

あなたは耳にした――
「自分こそが自分の苦悩を生み出す」と
でもそれは単に頭の中のことだ
自分の存在の中には入っていない
自分自身の知識ではない

議論なら頭でもできるが
いざ実際の現象が起こると
すっかりそれを忘れてしまう

あなたの振舞いは
他人の知識ではなく自分
自身の知識に従う

安楽で冷静で落ち着いた状態で
静かに怒りについて論議しているなら
「怒りは毒だ怒りは病気だ邪悪だ」
と言う事もできるだろう

でもいったん怒り出すとガラリと変わってしまう
もうそれは知的議論ではない
いまや自分が巻き込まれている
いったん巻き込まれると
あなたは怒り出す

後になって冷静さを取り戻した時ふたたび
回顧的にその記憶はよみがえり
マインドは再び機能し始めあなたは言う
「あれは間違っていた
あれはよくなかった怒りはよくないと私は知っている」

この「私」とは誰か

それは
たんに知性
たんに表面的なマインドだ

あなたは知ってはいない

誰かによって怒りの中へ押しやられると
あなたはそのマインドを投げ捨ててしまう

論議している時には大丈夫でも
本物の状況が出現すれば
本物の知識しか役立たない

その状況が現れなければ
そのまま論議も続けられるだろう
でも論議している時でさえ本物の状況は出現する
――相手の反論が余りに執拗であれば
あなたは怒り出し
そして忘れ去ってしまう

本物の知識とは あ な た に 起 こ っ た 
知識のことだ

聞いたわけでもなく
読んだわけでもなく
それについて情報を集めたわけでもない

それは自分自身の知識だ

そこには何の疑問も無い
それを得たら
もはやそれに逆らうことはできない
別に努力して逆らわないようにするわけではない
たんに逆らえないというだけだ

どうして逆らえるだろう

例えば私がこれを壁だと知っており
そして私はこの部屋から出たいと思っている
――その場合はたして
私は壁を通り抜けようとするだろうか

これは壁だとわかっている
それで私は扉を探す
壁を通り抜けようとするのは盲人だけだ
私には目があるから壁と扉は見分けられる

でも私が壁を通りぬけようとし
あなたに向かって
「私は扉がどこにあるかよく知っているし
これが壁だとも知っている
にもかかわらず
どうしてもこの壁を通り抜けたい」と言ったら
その意味はこうだ――「私の目には
その扉が偽物に見える
人々は『これは扉だ』と言うが
私の目にはその扉は偽物だ
また人々は『これは壁だ』と言うが
私の目には
扉はこの壁の中にある
だから私はそこを通り抜けるんだ」

こういう状況で必要なのは明確な区別だ――
自分の知っているものは何であり
また知識として集めてきた物は何なのか

情報に頼ってはいけない

その情報源が
いかに有力なものであろうと
いかに有力な情報源から仕入れてこようと
情報は情報だ

たとえブッダから聞いたとしても
それはあなた自身のものではない
どのみちそれは
あなたの役には立たない

けれどもあなたは
それが自分の知識だと思い続ける
そしてこの誤解によって
エネルギーや時間や生が浪費される

根本的なことは
「何をすれば苦悩が無くなるか」
と問うことではない

根本的なことは
「自分こそ自らの苦悩を生み出している」
と 知 る ことだ

今度じっさいの状況が出現し
苦悩するような事があったら
忘れずに
自分がその原因であるかどうかを観て見る

そして自分がその原因であるとわかったら
きっとその苦悩は消え去る
そしてその同じ苦悩は再び現れることがない
それは不可能だ

でも自分をだましてはいけない
だますことは可能だ
だから私は言うのだ

たとえば苦しんでいるとき
「この苦悩を生み出したのはこの私だ」
と言いながら奥深くで
「これを生み出したのは他の誰かだ」
と思っている
自分の妻が夫が他人が
それを生み出したのだ――

しかしこれは単なる慰めだ
自分ではどうすることもできないから
自分を慰めるのだ
「誰が生み出したのでもない
自分で生み出したのだ
だからこれから徐々にやめるようにしよう」

だが知識とは瞬時の変容だ
――「徐々に」ではない

「それを生み出したのは自分だ」と理解したら
それはたちまち止む
そしてもはや二度と現れない

もし再び現れるようなら
それは理解が深くないということだ

だから別に
どうしたらいいか
どうやって止めるか探る必要は無い

唯一必要なのは
深く進み
その本当の原因は誰かを探ることだ

もし他人が原因なら
それは止められない
世界をそっくり変えるわけにはいかない

自分が原因であって初めて
それは止められる

だからこそ私は強調するのだ

宗教だけが人類を無苦悩へと導ける

他のそういうものは無い
なぜなら他のすべては
苦悩は他人によって生じると信じているからだ

宗教だけが
苦悩は自分によって生じると言う
宗教は
あなたを自分の運命の主人とする

あなたは自分の苦悩の原因だ

それゆえにまた
あなたは自分の至福の原因にもなる




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