光と闇の瞑想  ヴィギャン・バイラヴ・タントラ

翻訳  スワミ・アドヴァイト・パルヴァ(田中ぱるば) 市民出版社


本書の原本は、インドの覚者OSHO(和尚・1931〜1990)によって語られた 『ヴィギャン・バイラヴ・タントラ』である。これは1年以上にわたって 断続的に展開された10シリーズ全80回の講話集で、本書はそのうちの 岱7集8講話を収めている。

第3章 存在への回帰



昔ある村に一人の博士(ドクター)が滞在していた。たいへん
有名な歴史家で優れた学者だった。村には年寄りの郵便局長が
いたが、その局長がこの老いた男、この「ドクター」に関心を
持った。一体何の医者(ドクター)なんだろうかと知りたく
なって、ある日、尋ねてみた。
「いったい何のドクターなんですか」
相手は答えた、「哲学のドクターです」
ところがこの年寄りは、そんなものは今まで聞いたことがなかった。
それで考えあぐねた末に言った、
「当地にそんな病気があったとは、一度も聞いたことがありません」

これを笑ってはいけない
なぜならこの老いた郵便局長は
ある意味で正しいからだ――哲学は病気の一種だ
もちろん哲学の博士は医者ではない
むしろ彼は病気の完璧な犠牲者だ

哲学は特定の症状を伴った病気ではない
だからそれを症例について考えることはできない
それは人間とともに生まれる
それは人類と同じほど
あるいは人間のマインドと同じほどに古い
そして人は多かれ少なかれみな犠牲者だ
思考はどこへも通じていない――
あるいは循環に通じている
悪循環に

あなたはやたらに動く
もしあなたが専門家であれば
早く動くこともできるだろう
しかしどこへも到達しはしない

このことをよく理解すること
もしこれが理解できず
また感じられなかったら
瞑想の中には飛躍できない

瞑想というのは
まさにその逆の姿勢だ――反哲学だ

哲学とは考えることを意味し
瞑想とは無思考の状態を意味している
その二つはまさに正反対だ

問題について考え
そして答を見い出そうとするのは
まったく人間的だ

でも哲学は答に到達しない
そして哲学が到達したかに見える答は
すべて単なる見せかけだ

そうした答をもっと深く掘り下げてみれば
そこには更に多くの疑問があるのみで
それ以外には何もない

だからどんな答も更に多くの疑問を生み出す
――そしてそれが延々と続く

科学は何らかの答に到達する
なぜなら科学は思考でなく実験を主とするからだ
思考はただ補助として使われるのみで
基本は実験にある
だからこそ科学は何がしかの答を得てきたのだ

いっぽう哲学者たちは有名無名を問わず
何世紀にもわたって思索を続けてきながら
一つの答にも一つの結論にも到達できずにいる
到達できるはずがない

思考とはその本質上
実験に対する補助として使えば何かに到達するものだ
だからこそ科学は何らかの答に到達する

しかし宗教もまた
何らかの応えに到達する
宗教もまた実験だからだ

科学は客観に対して実験し
宗教は主観に対して実験する――
両方ともに実験であり
両方とも実験を主としている

その二つの間に哲学がある――実験なしの純粋な思考
抽象的な思考だ
どこまでも延々と続けたところで
どこにも到達しない
抽象的な思考
思弁的な思考
それは終わり無き思考だ
その道筋を楽しむことはできるだろうが
そこに終点は無い

宗教と科学とは
ある意味で似ている
両方とも実験を重視する

宗教的な実験のほうが勿論
科学的な実験よりも深い

なぜなら科学では
実験者それ自身が巻き込まれていないからだ
彼は道具とともに作業し
物とともに作業し
対象物とともに作業する
でも本人は遠くにいる
いつもその実験の外にいる

だから宗教というのは
より深い科学だといえるだろう

なぜなら実験者それ自身が実験となるからだ
彼の他には道具は無く
彼の他には対象物も無い
彼は同時に
自分の道具でもあり
自分の対象物でもあり
自分の方法でもある
彼はすべてだ
そして彼は自分自身の上に働きかける

それは難しい
――自分が巻き込まれているから難しい
そして自分が巻き込まれているから
その実験は体験となる

科学では実験は実験のままだ
科学者がそれによって影響されることはない
それによって変容されることはない
科学者はそのままだ

でも宗教では
実験を通過することによって
すっかり別人になる
同じままそこから出て来ることは決してない
必ず変わる

だからこそ宗教的な実験は体験になる

ここが肝心な点だ

神について魂について彼岸について
ひたすら考えることによって
「自分は神について何かを知っている」
と人は思い込んでしまう――ただそれ に つ い て 考えただけなのに
それは偽りだ

神 に つ い て 知ることはできない

 に つ い て という言葉は不条理だ

神を知ることならできるが
 に つ い て 知ることはできない

その に つ い て が哲学を生み出す

神について
どうして知ることができるだろう

あるいは例えば愛について
どうして知ることができるだろう

愛を知ることならできるが
愛について知ることはできない

「について」とは
「誰か他人が知っていて
自分はその人の知識を信じている」
ということだ

あなたは色んな意見を掻カき集める

「私は神についてちょっと知っている」
とあなたは言う

 に つ い て の知識はすべて偽りであり危険だ

それによってだまされてしまう

あなたは
神を知ることができるし
愛を知ることもできるし
自分自身を知ることもできる――
だがその に つ い て は忘れることだ

その に つ い て は哲学だ

ウパニシャッドが何かを言う
ヴェーダが何かを言う
聖書が何かを言う
コーランが何かを言う――
でも貴方にとってはその全てが に つ い て になる

それが自分の体験とならない限り
それは無益だ無駄だ

このことをよく理解するように

なぜなら思考には際限がないからだ

マインドというものは
瞑想についても思考を始める
何でも思考の対象になる
瞑想についてさえ思考になる

そしてそれについて考え続けても
何も起こらない

私は実にたくさんの方法について語っているが
そこには一つの危険がある

往々にしてあなたは
こうした方法について思考を始めたり
知識豊かになったりする

でもそれでは役に立たない
役に立たないばかりでなく危険だ

瞑想とは体験であり
 に つ い て 知っても価値は無い

この「体験」という言葉を覚えておくことだ

生の諸問題
生のあらゆる問題
それは<存在的>であって
頭のものではない

考えることによっては解決できない
生きることによってしか解決できない

生きることを通じて未来は開かれる
決して 考 え る こ と を通じて未来は開かれない

逆に現在さえも閉じてしまう

皆は観察したことがあるだろうか――
考えている時いったい何が起こるのか

考えている時あなたは閉じてしまう

現在の全てが脱落し
あなたはマインドの中に
ある夢の小道を進む

言葉は言葉を生み
思考は思考を生み
そうしてあなたは延々と動き続ける

思考の中で動けば動くほど
あなたは<存在>から遠ざかっていく

思考とは 離 れ 去 っ て い く 道 だ
それは夢の道だ――
概念の中で夢見ることだ

さあ地上に戻っておいで
宗教はこの意味で非常に地上的だ
世俗的ではなく
非常に地上的
実体的だ

さあ<存在>に戻っておいで

生の諸問題が解決できるのは
あなたが<存在>の中に深く根つ゛いているときだけだ

思考の中に舞い上がれば
根から離れ去ってしまう

遠く離れれば離れるほど
ものを解決する可能性は少なくなる
むしろ全てを混乱させてしまう
そして全てはもっとややこしくなる
そしてややこしくなればなる程
あなたはまた考え
そして更に遠くに離れ去ってしまう

思考に御用心!

それでは技法に入ろう


76

闇の中に溶け入る

第一の技法

暗夜の雨の中、その暗黒に入る――
諸形態の中の形態として。

かつて
ある秘教的な教団が存在していた
それは大変古いもので恐らく皆も聞いたことはあるまい
その教団はエッセネ派と呼ばれていた
イエスはその教団の中で教えを受けた
彼はエッセネ派に属していた
エッセネ派というのは世界で唯一
神を絶対的な暗黒と考えていた教団だった

「神は光だ」とコーランは言う
「神は光だ」とウパニシャッドは言う
「神は光だ」と聖書は言う

でもエッセネ派は世界でも唯一
「神は
絶対的な暗黒だ
絶対的な暗闇だ
まさに無限の暗夜だ」と語る

この技法は実に素晴らしい
奇妙ではあるが実に素晴らしい
そして実に意味深い

まずその意味を理解することだ
そうすればこの技法はたいへん役に立つ

これはエッセネ派によって使われた技法だ
それは暗黒に入るための技法
暗黒とひとつになるための技法だ

よく考えてごらん
なぜ
どこでも神が光として象徴化されるのか

それは神が光だからではなく闇が恐いからだ

これは人間的な恐怖だ
私たちは光を好み闇を恐れる
だから
神を暗闇とか暗黒として想像するのが難しい
これは人間的な観念だ
闇が恐いからこそ
神を光として想像するのだ

私たちの神々は自らの恐怖から生み出される
私たちは神々に姿を与える
その姿は私たちによって与えられる――
それが指し示すものは私たち自身であって
神々ではない
神々は私たちの想像物だ

私たちは闇を恐れる
だから神は光だ

しかしこうした技法は
これとは逆の教団に属する

エッセネ派は「神は闇だ」と言う
それには意味がある
つまりこういうことだ

闇は永遠だ

光は来ては去るが
闇はそのままだ

朝陽は昇り光が現れる
夕方陽は沈み闇がやってくる

闇の場合は何も昇りはしない

闇は常にそこにある
それは決して昇らず決して沈まない

光は来ては去るが闇はそのままだ

光には常に源がある
闇に源はない

源のあるものは決して無限ではない
源のないものだけが無限で永遠だ

光には人を掻カき乱す要素がある
だからこそあなたは光の中で眠ることができない
光は緊張を生む

闇はくつろぎだ
全面的なくつろぎだ

でも、なぜ私たちは闇を恐れるのか
それは私たちにとって
光が生として映るからだ
たしかに光は生だ

そして闇は死と映る
確かに闇は死だ

生は光を通じてやって来る
そしてあなたが死ぬときには
まるで自分が永遠の闇の中に落ちるように思われる
だからこそ私たちは死を黒で描くのだ
そして黒は喪の色となっている

神は光であり死は黒だ
でもそれは私たちの恐怖が投影されたものだ

実際闇には無限性がある
光は有限だ

闇とはちょうど子宮のようなものだ
すべてがそこから生じ
すべてがそこへ落ち込んでいく

エッセネ派はこの立場をとる
それはじつにすばらしく又じつに有効だ

もし闇を愛することができたら
もう死は恐コワくなくなる

闇の中に入ることができたら――
闇の中に入れるのは恐怖がないときだけだ――
全面的なくつろぎに到達できる
闇とひとつになれたら
あなたは溶け去る

それは明け渡しだ
もはや恐怖はない
闇とひとつになるということは
死とひとつになることだ
もはや死ぬことはない
あなたは不死になる

闇は不死だ
光は生まれそして死ぬ
闇はただ在る
それは不死だ

こうした技法を試すにあたっては
次の点に留意する

闇についての恐怖
暗黒についての恐怖をなくすのだ
さもないと
どうしてこの試みが実施できるだろう
まず第一にその恐怖を落とす

だから予備段階としてこうする――
闇の中に座り灯りを消し
闇を感じる

闇に対して愛に満ちた態度をとり
闇が自分に触れるようにする
闇を見る

暗い部屋の中であるいは暗夜に
目を開け交流し一緒になり
その交わりを吸い込む

きっと恐くなるだろう
もし恐くなったら
こうした技法は役に立たない――
技法の実行は不可能だ

まず第一に闇との深い親しみが必要だ
たとえば夜になって人々が寝静まった後
闇の中にとどまる

何もしてはいけない
ただその中にとどまる
ただその中にとどまることによって
それに対する深い感覚が生じる

闇は大きなくつろぎをもたらす
恐怖のせいでそれを知らないというだけだ

たとえば夜眠気を感じなかったら
すぐに電気をつけてしまう……
本を読んだり何かをやり始める
いっこうに闇にとどまろうとしない

大事なのは闇の中にとどまることだ
闇の中にとどまれたら
そこに新しい入口が
闇との新しい接触が現れる

人は闇に対してすっかり閉じてきた
そこにはいくつか理由がある
歴史的な理由がある

つまり夜はひどく危険だった
そして人は洞窟とかジャングルの中にいた

昼のうちはまだ安全だった
周囲を見渡せたし野獣に襲われることもなかった
あるいは何か工夫して身を守ることができた
少なくとも逃げることはできた

でも夜にはどこもかしこも闇で人は無力だ
だから恐くなる

そしてその恐怖が無意識の中に入り
いまだに私たちは恐れている

私たちは今洞窟の中に住んでいるわけではないし
野獣の脅威に晒サラされているわけでもない
誰も私たちを襲ったりしない

でも恐怖は存在する
それは深くまで入っている
何百万年ものあいだ人間のマインドは恐れてきた

あなたの無意識はあなた自身のものではない
それは集合的なものであり遺産だ
それはあなたへと伝えられてきた

その恐怖は存在する
そしてその恐怖のせいで闇との交流を持つことができない

さらにもう一つ
この恐怖のせいで
人は火の礼拝を始めた
火が発見されたとき火は神となった

別に火が神だというわけではない
闇が恐いからだ

日中は光があって恐くはなかった
わりあいに安全だった
でも夜には闇があった

だから火が発見されたとき
当然のことながら火は神になった
もっとも偉大なものになった

パルシー教徒(インドのゾロアスター教徒)は
今もって火を礼拝している
闇が恐いせいで火を礼拝するようになった
夜間火は友人になり保護者になり
神のように守ってくれた

その恐怖はいまだに存在している
あなたは必ずしもそれに気つ”いていない
なぜならそんな状況が存在していないからだ

でもいつか夜に電気を消して座ってごらん
きっと原始の恐怖がやってくるだろう

自分の家にいるのに
周囲に野獣の気配を感じ始めるだろう

何かの音が聞こえてきて
きっと野獣が恐くなるだろう――
まるで危険が迫っているかのような……

その危険は実際にあるわけではなく
あなたの無意識の中に存在している

だからまず最初に
自分の無意識な恐怖に打ち勝つことだ

そうして初めて
このような技法に入ることができる
こうした技法は闇に関わっている
シヴァはおよそ可能なかぎりの
技法を与えている

こうした技法についての私自身の体験は
たいへん素晴らしいものだ

もし実行できたら
これは素晴らしい技法だ

今まで全く知らなかったような
深いくつろぎの中に入れる

でもまず最初に
自分の無意識的な恐怖を明らかにし
そして闇を生き愛するようにする

闇は大きな至福に満ちている
それを知り
それと触れ合うことは
深い宇宙的現象と触れ合うということだ

だから闇の中で目覚めているような機会があったら……
そんな場合ふつう電気をつけるか
あるいは眠りに入るかしてしまう

両方とも闇から逃れようとするトリックだ
眠ってしまえば恐くなくなる
もう意識がなくなるからだ
また意識があるときには電気をつける――

それではいけない
電気をつけたり眠ったりせずに
闇の中にとどまるのだ

いろいろな恐怖が感じられるだろう

肝心なのはそうした
恐怖を感じ
恐怖に気つ”き
恐怖に意識の光を当てることだ

そうした恐怖は自然に現れる
それが現れたら
ただ観照者としてとどまる

すると恐怖は消え去るだろう
そしてほどなくあなたは
全面的な明け渡しとともに
恐怖なしに闇の中にとどまれるようになる
全面的なゆだねとともに闇の中にとどまれる

そのとき実にすばらしい現象が起こる
そのときにはエッセネ派のこの言葉が味わえる
――「神は闇だ絶対的な闇だ」

暗夜の雨の中、その暗黒に入る――諸形態の中の形態として

あらゆる形態は
闇の中から生じ
闇の中へと溶け去る

諸々の世界は
闇の中から創造されそして
闇の中へと退いていく

闇は子宮だ
宇宙的子宮だ
乱されることのない
絶対的な静けさがそこにある

シヴァによれば
この技法をやるには雨の夜がいい
そんな夜は全てが暗黒で雲があって星は見えず
空は完全に暗い

月のない真っ暗な夜……

暗夜の雨の中、その暗黒に入る――諸形態の中の形態として

その暗黒の観照者となり
そして自分自身をその中に溶かし去る

それは全形態の中の形態だ
一形態であるあなたが
暗黒の中に溶け去っていく

光がある時あなたは限定される

私にはあなたが見える
光が存在しているから
あなたの体には明確な限定がある
あなたは限定されている
あなたには境界線がある

境界線が存在するのは光があるからだ

光がなければ境界線は溶け去る
闇の中では何物も限定されない
すべては全てと溶け合う
諸形態は消え去る

おそらくそれが私たちの恐怖の一因だろう

そのときあなたは限定されない
そのときあなたは自分が誰だかわからない

顔は見えないし体もわからない
すべては形態の無い存在の中に溶け入る

おそらくそれが恐怖の一因だろう

限定された自己の存在が感じられない
存在はあいまいになり恐怖が現れる

あなたは今自分が誰だかわからない
エゴは存在できない

限定できなければ
エゴとして存在することは難しい

それで恐くなる

あなたがここに存在するためには光が必要だ

思惟 瞑想 溶け込み……
闇に溶け込むことは
光に溶け込むよりやさしい

なぜなら 光は物をハッキリさせるからだ
闇はあらゆる「ハッキリ」を取り去る

光の中では人は
美しかったり醜かったり
あるいは金持ちだったり貧乏だったりする

光によって人格や性格がもたらされる――
教育があるとか教育がないとか
聖者であるとか罪人であるとか
光の中ではハッキリした性格が現れる

闇は
あなたを包み込む……
あなたを受け容れる

闇はあなたを包み込み受け容れる――
ハッキリした人格としてではなく
いかなる限定も無く――

あなたは包み込まれ
そしてひとつになる

闇は常にそれをやっている

でも恐怖のせいで
あなたにはそれが理解できない
要はその恐怖をぬぐい去り
ひとつになることだ

その暗黒に入る――諸形態の中の形態として


その暗黒に入る……
どうやって暗黒に入るのか
それには三つある

ひとつ
闇を凝視する

それは難しい

炎のような光源を凝視するのはやさしい
なぜなら光源は目立つ対象として存在するからだ
その一点に注意をもっていくのは簡単だ

闇は対象ではない
どこにでもある
そこらじゅうにある――
一つの対象として見ることはできない

だからその空虚を凝視するのだ
そこらじゅうにそれは存在する

ひたすらそれに見入る
安らかに闇に見入る

そうすれば闇は目の中に入ってくる
闇が目の中に入ってくるとき
あなたは闇の中に入っていく

暗夜にこの技法をするときには
目を開いたままにする
閉じてはいけない

目を閉じているときの闇はまた別のものだ
その闇は自分自身のもの
心的なものになる
現実のものではない

実際その闇は光の
陰的(ネガティブ)な部分だ
陽的(ポジティブ)な闇ではない

例えば
今ここは明るいが目を閉じれば闇が現れる
でもその闇は光の陰像(ネガ)にほかならない

ちょうど窓を見て
それから目を閉じると
窓の陰像(ネガ)が現れるようなものだ

私たちの経験はすべて光に関するものだ

だからそこに現れるのは
光の陰的(ネガティブ)な体験だ

それを私たちは闇と呼ぶ
それは本物ではない
それでは役に立たない

目を開け
そのままで闇の中にとどまる

すると別の闇が現れる――
陽的(ポジティブ)な闇だ

それを凝視する ひたすら
闇を凝視する

涙が出てくるだろう
目が痛んでくるだろう
でも心配せずに続ける

そして闇が……そこに存在する
真の闇が目の中に入るときその闇は
実に深い慰めの感覚をもたらしてくれる

真の闇が目の中に入るとき
あなたはそれによって満たされる

闇がこのように自分の中に入っていくと
一切の陰的(ネガティブ)な闇は内側から無くなる

これは実に深い現象だ

あなたの内側にある闇は陰的(ネガティブ)なものだ
それは光に対立している
その闇は
光の不在ではなく
光の対立物だ

それはシヴァの語る
「全形態の中の形態」
としての闇ではない――
実在している真の闇ではない

私たちはひどく闇を恐れている

そこで防衛のために色んな光源を作りだした
その結果 私たちは明かりに照らされた世界に住んでいる

それゆえ目を閉じると
その明かりに照らされた世界が
内側に陰像(ネガ)として反映されるわけだ

私たちは接触を失っている――
実在している真の闇
エッセネ派の闇あるいは
シヴァの闇とは接触していない

ひどくそれを恐れ
すっかり闇から顔をそむけている
背を向けて立っている

だからこれは難しい

でもそれができたら
奇跡をもたらしてくれる
魔術的だ

あなたの存在は全く変わる

闇があなたの中に入るときあなたは
闇の中に入る

それは常に相互的だ

あなたが
宇宙的な現象の中に入るためには その
宇宙的な現象があなたの中に入らないといけない

それは強要できない
強いるものではない

あなた自身が
開け放たれ
無防御になり
宇宙的現象が内側に
自由に入れる状態になって初めて
あなたもまた宇宙的現象の中に入れる

それは常に相互的だ

強いるわけにはいかない

あなたにできることは
それが入るに任せることだけだ

現代の都市で真の闇を見つけるのは難しい
現代生活で 真の闇を見つけるのは難しい

本物でない光によって私たちはすべてを
本物でなくしてしまった
闇でさえ汚染されている
純粋ではない

だからどこか遠くの場所へ行って
闇を感じてみるといい

電気のない遠くの村へ行くとか
山の頂上へ行くとか……
そこに1週間いて純粋な闇を体験してみる

そうすれば
きっと別人になって戻ってくるだろう
この絶対的な闇の7日間に あらゆる恐怖
あらゆる原初の恐怖が表に出る

きっと怪物たちに面と向かうだろう
きっと自分自身の無意識に面と向かうだろう

それはまるで
人間が通って来た全行程を
たどり直すようなものだ

自分の無意識の深みから
色々なものが生じてくる
それはリアルに見えるだろう

あなたは恐れ おびえるかも知れない
実にリアルだからだ

でもそれは
自分の内側から生み出されるものだ

現在 精神病院にはたくさんの狂人たちがいるが
彼らが悩まされているのは
内側から噴出する原初の
様々な恐怖によってだ

そうした恐怖は内側に存在し
狂人たちは日々
恐れ おののいている

でもそうした原初の恐怖を
どう消滅させたらいいのか
人々は知らない

もし狂人たちを導き闇について
瞑想するようにしてやれば
狂気は消え去るだろう

少々ではあるが
この方向に向かっているのは日本だけだ
日本では狂人たちがまったく違った方法で扱われる

もし誰かが精神病なり神経症なりでおかしくなったら
日本の場合必要とあれば隔離されて生活させられる
その状態によって3週間から6週間隔離の中で生活させられる

どんな医者もどんな精神分析医も彼のもとへ行かない
食事は出され必要なものは与えられるが
患者は一人のまま放っておかれる

夜には明かりがない 闇の中で彼は一人だ――
もちろん苦しみながら色んな局面を通り抜ける
必要な世話はすべて看てもらうが誰も付き添いはしない

自分自身の恐怖と直接的に面と向かうしかない
そして3週間から6週間たつと
その狂気は消え始める

別に何が行われるわけでもない
ただ一人で放って置かれただけだ
それこそが唯一の方策だった

西洋の精神科医たちは驚いた
なぜそんなことが起こるのか理解できなかった
西洋では何年もかかる
精神分析とか治療といったあらゆることをする

決して患者を一人にしない
決して患者を内側の無意識に対して
全面的に直面させるようなことはしない

救いを与えれば与えるほど患者は
救いから遠ざかる

なぜなら
それによって患者がもっと依存的になるからだ

肝心な問題は内側の自己に直面することだ――
他人の助けは本質的なものではない

ものを知る人々なら
きっと患者を自分自身に直面させるだろう

要は自分自身の無意識と仲直りすることだ

この闇の瞑想は
自己のあらゆる狂気をすっかり吸収する

試してごらん
自分の家でもできる
毎晩一時間 闇と共に過ごすのだ
何もせずにただ闇を凝視する

すると溶けていくような感じがするだろう
何かが自分の中に入っていき
自分が何かの中に入っていくような感じがするだろう

一日一時間ずつ3ヶ月間
闇と共に過ごし
闇と共に生きれば
個体性の感覚
分離の感覚は
全て失われるだろう

もはやあなたは島ではない
大海になる

闇とひとつになる
そして闇は大海のようだ
何にも増して広大で
何にも増して永遠だ そして
何にも増してあなたに近く そして
何にも増してあなたを恐れさせる

それはあなたのすぐそばにあって
つねに待ち受けている

暗夜の雨の中、その暗黒に入る――諸形態の中の形態として

闇を凝視する――目の中に入るくらいに

第二に
横になって まるで母親のそばにいる
ように感じてみる

闇は母だ
あらゆるものの母だ

かつてこの世に何も無かったとき
そこに何があったか
闇の他には考えられない

また一切が消え去ったとき
そこに依然として存在するものとは何か
それは闇だ

闇は母親だ 子宮だ
だから横になって 母親の子宮の中に
寝ころんでいるように感じてみる

やがてそれは現実的になり暖かくなる

そのうちあなたは感じるだろう――闇が 子宮が
自分を四方八方から包み込んでいくと
あなたはその中にいる

そして第三
動いているとき
仕事に行くとき
しゃべっているとき
食べているとき
あるいは何をやっているときでも
一片の闇を携える

このまえ私は「炎を携え
自分は光だと感じることによって
体はある種の奇妙な光を放射し始め
敏感な人々はそれを感じるようになる」と言ったが
そのようなことが闇についても起こる

闇を内側に持ち運べば
体全体は大変くつろぎ
穏やかになり清涼(クール)になる
――人々はそれを感じる

自分の内に光を持ち運べば
それに引き付けられる人々もでてくる
一方
自分の内に闇を持ち運べば
それから逃げ出す人々も出てくる

それに対して恐れを抱く人々もいる
彼らはそれほどの沈黙に耐えられない
それはまさに彼らにとって耐え難いものになる

内側に闇を持ち運べば
闇を恐れる人々はあなたから逃げ出そうとする
あなたに近寄ろうとしなくなる

誰もが闇を恐れている
友人たちも去って行くかもしれない
あなたが家に入って行くと家族はけむたがるだろう

あなたは涼しさを一杯にたたえて家に入るのにひきかえ
皆は昂タカぶり興奮している

彼らにとって
あなたの目を覗き込むのは難しい
あなたの目は谷のように淵のように深くなっている
あなたの目を覗き込む者は目がくらむことだろう
それほどの淵がそこに感じられる

あなたはいろんなことを感じる
あなたにとって怒ることは不可能だ

内に闇を持ち運ぶと怒ることができなくなる
炎を持ち運んでいれば怒るのは実に簡単だ
いつにも増して簡単だ

炎はあなたを興奮させる
炎を持ち運べば
あなたはいつにも増して性欲を感じる
なぜなら炎はあなたを興奮させ熱情を創り出すからだ

でも内に闇を持ち運べば
きっと深い 無 性 欲 が起こってくるだろう
性欲が感じられない
容易に怒りにとらわれない
熱情は消え失せる
自分の性別を感じなくなる
そういう言葉は無用なもの無意味なものと感じられる

あなたはたた在る

一日じゅう内に闇を持ち運ぶことは大変役に立つ
なぜなら夜 闇について思惟し瞑想するとき
一日じゅう持ち運んだ内側の闇が
その出会いを助けるからだ

内側の闇が
外側の闇と出会うようになる

「自分は闇を持ち運んでいる」と思い出すだけで
あなたは闇に満たされる

体の隅々まで どの細胞もみな
闇に満たされる――

そして大きなくつろぎが感じられるだろう
試してごらん
きっと大きなくつろぎが感じられるだろう

自分の中の全てがゆっくりになる
走ることができなくなる

それであなたは歩く
その歩みもまたゆっくりになる
それであなたはゆっくりと歩く
ちょうど妊娠した女性が歩くように
ゆっくりとても注意深く

あなたは何かを運んでいる

炎を持ち運ぶとその正反対が起こる

歩みは早くなる
というより走りたくなる
動きはもっと大きくなる
もっと活動的になる

ところが闇を持ち運ぶとくつろいでくる
他人の目には怠惰になったと映るだろう

大学にいたとき私は二年間この実験をやった

その結果あまりに怠惰になったため
朝ベッドから起きるのさえ難しくなった
それで教授たちはひどく気をもんだ
どこかおかしいんじゃないかと教授たちは思った
――病気になったか或いは全く無関心になったか

私とたいへん仲の良かった教授
……私の専攻の主任だった教授がひどく心配して
よく試験の朝になると私を寮まで迎えに来て
試験に間に合うように会場までひっぱって行ったものだ
そして私が会場に入るのを見届けてから
やっと安心して家に帰る――それが彼の毎日だった

これを試してごらん

自分の子宮に闇を持ち運ぶ
闇になる――それは生における
最も素晴らしい体験の一つだ

歩いているとき
食べているとき
座っているとき
あるいは何をやっているときでも
闇が自分の中に満ちていることを
自分が闇で満たされていることを
覚えておく
そして
そのとき物事がどのように変わるかを
観る

そのときには興奮することもなければ
あまり活動的であることも緊張することもない

眠りがたいへん深くなるから
夢は消えうせるだろう
そして
一日中まるで酔っ払っているかのように振舞うだろう

スーフィーは この方法を使った――
スーフィーの一派が
このスーフィーたちは
酔っ払いスーフィーとして知られている
彼らは闇によって酔っ払っている

彼らは土に穴を掘って
毎晩その穴の中に横になる
そしてその穴に横になって瞑想する――
闇に瞑想しそれとひとつになる

その目を見ると 酔っ払っていることがわかる
彼らの目には どこまでも深いくつろぎ
どこまでもくつろいだ波動が感じられる――
それは深く酔っ払ったときにだけ
或いはひどく眠いときにだけ起こるようなものだ
そのときにだけ人の目はその表情を見せる

彼らは酔っ払いスーフィーとして知られている――
彼らは闇に酔っ払っている


77 内側の闇を運び出す

第二の闇の技法

77
月のない雨の夜が存在しないとき、
目を閉じ自分の前の暗黒を見つめる。
目を開アけ、暗黒を見る。
かくして過ちは永遠に消え去る。

私はさきほど「目を閉じたときの暗黒は偽物だ」と言った
それでは月のない夜 暗夜がないときにはどうしたらいいか
もし月があって月光があるときにはどうしたらいいか
このスートラがその鍵を与えてくれる

月のない雨の夜が存在しないとき、
目を閉じ自分の前の暗黒を見つめる。

この暗黒は最初のうち偽物だ
でもそれを本物にすることはできる
その方法は 目を開け 暗黒を見ることだ

まず目を閉じ 暗黒を見る
それから目を開け
内側に見た暗黒を外側に見る

もしそれが外側で消えうせるようだったら
内側で見た暗黒は偽物だ

これは前の技法より少しばかり難しい
前の技法では内側に真の闇を持ち運ぶ

この技法では偽物を外へ運び出す
――どんどん運び出す

まず目を閉じ 闇を感じる
それから目を開け そして
開いた目でその闇を外に見る

これこそ内側の偽物の闇を外に捨てる方法だ
どんどん捨てていく

これには少なくとも3週間から6週間かかる
そしてある日突然
内側の闇が外へ運び出せるようになる
内側の闇が外へ運び出せたら
もうあなたは本物の内なる闇に達している

本物は運び出せる
偽物は運び出せない

これはたいへん魔術的な体験だ

もし内側の闇を外に運び出せたら
照明のある部屋にいても闇を外に運び出せる
そして闇の一片が自分の前に拡がる

この体験は実に奇妙なものだ
なぜなら部屋には明かりがついているからだ

あるいは陽光の中でさえも
内側の闇に達している人間は
それを外へ持ち出せる

すると闇の一片が目の前に現れる
その闇を拡げていけばいい

いったんそれが起こるとわかれば
闇を 暗黒の夜の闇を
陽光の降り注ぐ昼間に
持ち運ぶことができるようになる

陽はそこにあっても闇を拡げられる
闇はいつもそこにある たとえ太陽が照っていようと
闇はいつもそこにある

あなたにはその闇が見えない
闇は陽光によって覆われている

いったんその覆いを取り除く方法がわかれば
その闇は見つけられる

チベットにはこれに似た方法がいくつもある
それによって内的世界から外的世界へと
ものを持ち出せる

みんなも聞いたことがあるだろう
「熱ヨガ」と呼ばれるたいへん有名な技法がある

夜は寒い 氷のように冷たい 雪が降っている
でもチベット僧は チベットのラマは
雪の降る氷点下の野外に座ることができる

そして汗をかき始める
これは医学的な奇跡だ
どうして発汗するのか
内側の熱を外へ持ち出しているのだ

また内側の涼しさ
或いは内側の冷たさも外に持ち出せる

マハヴィーラ(仏陀の同時代人でジャイナ教の祖)
の生涯について こんな言い伝えがある
今まで誰もそれを説明しようとしていない
ジャイナ教徒によれば彼はただ苦行をしていただけだ
でもそうではない

こんな言い伝えがある――
夏の暑い季節になって灼熱の太陽が照り付けると
彼はいつも影のない所 樹も何も全くない所に立つ

夏には焼けつく太陽の中に立ち
そして冬には冷たい場所 最も冷たい場所を探す――
樹の下 影の多い樹とか 川のそばとか あるいは
気温が氷点下になるような場所を

寒い季節には冷たい場所を探して瞑想し
暑い季節には最も暑い場所を探して瞑想する

人々は彼のことを気違いだと思った
そして彼の帰依者によれば
彼はただ苦行をしていただけだ

でもそうではない
実際には これに似た内的技法を試みていたのだ

暑いときには内側の冷たさを外へ引き出そうとした
――それが感じられるのは外が暑いときだけだ

また外が寒いときには内側の熱を外へ引き出そうとした
――それが感じられるのは外が寒いときだけだ

ジャイナ教徒の考えとは違って
彼は体の敵ではない
自分の体を敵視してはいない

ジャイナ教徒の考えによれば
彼は自分の体を殺そうとしていた

つまり自分の体を殺すことのできる人間は
自分の欲求も殺せるというわけだ

これはまったくの戯言タワゴトだ
そんなことをやっていたわけでは全くない

ただ内側のものを外に引き出していただけだ
そしてその内側のものによって守られていた

ちょうどチベットのラマが雪降る中で
熱を創り出し発汗するように
マハヴィーラは焼けつく太陽の下
に立って発汗しないでいる

彼は自分の内なる冷たさを引き出す
そしてその内なる冷たさが外に出て彼の体を守る

同様に 内側の闇も外に引き出せる
その感じはたいへん涼しい

もしそれが引き出せたら
あなたはそれによって守られる
どんな興奮にも
どんな激情にも乱されることがない
試してごらん

三つある

目を開いて闇を見つめ闇が内側に入るがままにする

第二に
闇を母の子宮として周り中で感じそれと共に生きる
その中にだんだん自分を忘れていく

そして第三に
どこへ行くときにも自分のハートに闇の一片を持ち運ぶ

もしこれができたら闇は光(ライト)になる
あなたは闇を通じて開悟(エンライト)する

月のない雨の夜が存在しないとき、
目を閉じ自分の前の暗黒を見つめる。
目を開アけ、暗黒を見る。
かくして過ちは永遠に消え去る。

それが方法だ
始めにそれを内側で感じる
深く感じ取って外でも知覚できるようにする
それからやにわに目を開けそれを外に感じる
それには時間がかかるだろう

かくして過ちは永遠に消え去る。

そして内側の闇を持ち出すことができたら
過ちは永遠に消え去る

もし内側の闇が感じられたら
あなたはどこまでも涼しくなり静寂になり
興奮は去り過ちは消えてなくなる

だいたい過ちが存在するのは
興奮しやすい状態にあるからこそだ

過ちは単独では存在しない

それは興奮しやすい傾向の中に存在する

たとえば誰かに侮辱される

ところが内側には
その侮辱を吸収するような闇がない

それで燃え立ち怒り激高する
そんなときには何でも起こる
暴力をふるったり殺人を犯したり狂人まがいの事をする
何が起こるかわからない まさに気違いだ

また誰かに賞賛されたりすると
やはり気違いになる――もう一方の極端において

周囲には色んな状況があるが
あなたはそれを吸収できない

ブッダを侮辱してごらん
彼はそれを吸収する――それを飲み込み消化してしまう

いったい何がその侮辱を消化するのか
内なる闇の貯水槽 沈黙の貯水槽だ

どんな毒物を投げ込んでも吸収される
どんな反作用も起こらない

ひとつ試してごらん
誰かに侮辱された時こう思い出す――
「自分は闇に満たされている」と

そうすればすぐにわかる
反作用がなくなる

たとえば通りを歩いていて美しい女性なり男性を見かける
すると興奮してくる
そこで思い出すのだ
「自分は闇に満たされている」と

突然その情熱は消え失せる
試してごらん
これは全く実験的なものだ
信じる必要はない

激情なり欲求なりセックスで一杯だと感じる時には
ただ内側の闇を思い出す

少しのあいだ目を閉じ闇を感じ
そして観てみる――もう激情は消え去っている
欲求はもはやない

内側の闇がそれを吸収してしまった
もうあなたは無限の空虚となった――
全ては下に落ち二度と戻ってこない
まさにあなたは底無しのようだ

だからこそシヴァは言う

かくして過ちは永遠に消え去る。

こうした技法は一見たいへん簡単だ
でも簡単に見えるからといって
試さずに放っておいてはいけない

エゴにとっては大した挑戦ではないとしても
試してみることだ

ふつう私たちは簡単なことは決して試さない
なぜなら あまり簡単だったら真実に見えないからだ

でも真理は常に簡単だ
けっして複雑ではない
複雑である必要はどこにもない

複雑なのは嘘だけだ
嘘はけっして簡単ではない
簡単だったらすぐに見破られてしまう

私たちの考えでは
簡単に見えるものからは何も生まれない

でも実際は何も生まれないのではなく
エゴが難しいものにしか挑戦しないのだ
そうした傾向のせいで様々な宗派様々な教団は
それぞれに方法を複雑なものとしている

そんな必要はないものでも
わざわざ複雑にし障害を設けている

そうやって難しくすればエゴは挑発されあなたは心地よく感じる
非常に難しくごくわずかの人々にしかできないものがあると
「そうだこれこそ価値あるものだ なぜならこれは
ごくわずかしかごく稀にしかできないものだからだ」と思う

こうした方法は実に単純だ

シヴァは人の傾向を考慮に入れていない
ただその方法をそのまま正確に記述しているだけだ――
可能なかぎり単純に
可能なかぎり電文的に
ただ裸の本質だけを――

だからエゴの挑戦を求めてはいけない
こうした探求はエゴイスティックな探求のためにあるのではない

これらは必ずしも挑戦的ではないが
試してみればあなたを変容してくれる

また挑戦は良いことではない
なぜなら挑戦することによって
あなたは熱狂的になり気違いのようになるからだ


78 純粋な注意力を深める

第三の技法

注意が何かの上にとまるとき
まさにその瞬間 体験する

何の体験か
この技法では まず注意力の養成が必要だ
一種の注意深い態度を育てる必要がある
そうして初めて この技法は可能となる

そうすれば
注意が何かの上にとまるとき
つねに体験が可能となる――自己が体験できる

ただ花を見ることによって 自己が体験できる
花を見ることは単に
花を見ることではなくなる……見 る 者
 を見ることになる

でもそれは注意の秘密を知ればの話だ

一輪の花を見るとき自分では
  「花を見ている」と考えているかもしれない

でも実際のところあなたは
花について考え始め
花は置き去りにされる

あなたはもうそこにいない
――どこか他所ヨソへ行っている
そこを去っている

「注意」が意味するのは
 「花を見ているときには
ただ花を見るだけで ほかに何もしない」ということだ

まるでマインドが停止したかのように……
まるで思考がなくなり
花の単純な体験だけが存在するかのように

自分はここにいて
花はそこにある
そしてその両者の間に思考はない――

これができれば 突然 注意は
花から自分自身へと戻ってくる
はね返ってくる

それはひとつの円環となる

あなたは花を見るが その 見 る こ と が返ってくる

花がそれを反射する はね返す

思考が存在しなければ それが起こる

するとあなたの見ているものは花
だけではない 見 る 者 をもまた見ている

 見 る 者 と花は二つの対象となり
あなたはその両方に対する観照者となる

でも まず 注意力の訓練が必要だ
貴方には全く注意力がない
あなたの  注意力はゆらめいている――
ここからそこへ そこから向こうへと動いている

一瞬たりとも注意深くない

私がこうして話しているときでさえ
あなたは私の言葉の全てを聴いてはいない

ひと言聞くと 注意はどこかへ去りそれからまた戻ってきて
ひと言聞き それからまた注意はどこかへ去る

ほんのいくつかの言葉を聞き
その間のすきまを埋め
それで自分は私の話を聴いたと考える

あなたの内にあるものは全てあなたに由来する
あなた自身の創造物だ

ほんのいくつかの言葉を聞き
そのすきまを埋める

でも その埋めたものが全てを変えてしまう

私がひとこと言うと
あなたはそれについて考え始める
静かにしていられない

静かにしていられたら あなたは注意深くなる

注意とは
思考の干渉のない静かな気つ゛きのことだ
それを育てる必要がある
それを育てるには
それを実行するしかない――
それ以外に道はない

実行すればするほど それは成長する
何をしていても どこにいても
それを育てるよう努める

例えば車や汽車に乗って移動している
あなたはその中で何をしているだろうか

そういうときには注意力を育てるといい
時間を無駄にせず 30分汽車に乗っていたら
そのあいだ注意力を育てる

ひたすらそこにいて何も考えない
誰かを見たり汽車を見たり外を見たりするとき
何も考えず その 見 る こ と になる
思考を停止する
そこにいて 見る

すると その見ることは直接的になり
貫くようになる
そして
あらゆるところでその見ることは反射され
あなたはその 見 る 者 に気つ"く

あなたが自分自身に気つ゛かないのは
そこに壁があるからだ

花を見るとき
まず思考のせいで
その 見 る こ と が変わってしまう

思考が自分の色を与える
それから
その見ることが花へと行く
それが戻ってくると
思考はまた別の色を与える
あるいは
それが戻ってくるにしても
肝心のあなたがいない
他所ヨソへ移ってしまって もうそこにはいない

見ることはすべて戻ってくる
どれもみな反射され還ってくる
ところが
それを受け取るべきあなたがいない

だから必要なことは
それを受け取るべく
そこに 存 在 す る ことだ

一日中いろんなものを使ってやってみる
そうすれば少しずつ注意深さは育つ
その注意深さをもって これを行う――

注意が何かの上にとまるとき  まさにその瞬間 体験する

どこでもいいから見る
ただ見るのだ
注意がとまる――するとあなたは自己を体験する
でもまず必要なのは 注 意 深 く あ る 能力だ
それは訓練できる
特別な時間は必要ない

何をしているときでもいい――
食べているとき
風呂に入っているとき
シャワーを浴びているとき
注意を深める

でもどこに問題があるのか
問題は
私たちが全てにマインドを使い
常に未来の計画を立てているということだ

汽車に乗っていてもマインドはすでに
次の旅の手配や予定や計画を立てている
それをやめることだ

禅僧の睦州ボクジュウは言っている
「これが私の知る唯一の瞑想だ
食べるときには食べ
歩くときには歩き
眠いときには眠る
起こるものは起こる
私は決して干渉しない」

干渉しない――それが全てだ

起こるものは起こるに任せ
自分はただそこにいる
そのことが注意深さをもたらす
注意が身につけば この技法は自分のものになる

注意が何かの上にとまるとき  まさにその瞬間 体験する

あなたは体験者を体験する――自分自身に戻る

あなたは
あらゆるところで投げ返され
あらゆるところで反射される

<存在>全体は鏡となり
あなたはあらゆるところで反射される

<存在>全体が自分の鏡となる
そうなって初めて自己を知ることができる
それ以前は無理だ

<存在>全体が鏡とならないかぎり……
<存在>のあらゆる部分があなたを開示しないかぎり……
あらゆる関係性があなたを解き明かさないかぎり……

 あ な た というのは 無限の現象だ
だから普通の鏡ではだめだ

 あ な た は内側であまりに膨大な存在だから
<存在>全体が鏡とならないかぎり
垣間見ることはできない

宇宙全体が鏡となって初めて
あなたは反映される
あなたの中には<神>が存在している

そして<存在>を鏡とするための技法がこれだ

注意力を創り出し気つ"きを深めれば
注意がどこかにとまるとき――何の対象でもいい
から どこかにとまるとき――突然あなたは自己を体験する

これは可能だ
でも今すぐにはできない
なぜなら基本的な要件が満たされていないからだ

花を見ることと注意は別物だ
あなたはただ花のまわりを走っているだけだ
走りながら花を見たというだけで
一時イットキもそこにとどまったことがない

そのとき生全体が瞑想的になる

注意が何かの上にとまるとき  まさにその瞬間 体験する

自己を想起する
この技法が役立つのは一つ深い理由がある

ボールを投げつければ戻って来る
それと同様に
花なり顔なりを見るときには
何らかのエネルギーが放たれる

見ることはエネルギーだ
あなたは気つ"いていないが
何かを見るということは
エネルギーを投下すること
エネルギーを放つことだ―― 一定量の
エネルギーが放たれている

だからこそ
通りの人々とか広告とか雑踏とか商店を一日中
見ていると疲労を感じるのだ
いろんなものを見ていると疲労を感じ
目を閉じて休みたくなる

それはどういうことか
なぜそうした疲労を感じるのか
それはエネルギーを放出したからだ

仏陀やマハヴィーラは自分の僧たちに対し
あまり多くを見たりせず地面に集中せよと語った

仏陀が許したのは1メートル先を見ることだけだった
どこも見てはいけない自分の進む路上だけを見る
1メートル先を見ていれば充分だ
1メートル進めばまたその
1メートル先が見える

それ以上は見ない
いたずらにエネルギーを消費してはいけない

見ることによって一定量のエネルギーが放出される
要は静かに待ちエネルギーの戻って来るに任せることだ

そうすればきっと驚くだろう
エネルギーが戻って来るに任せたら
決して疲労を感じない

やってごらん
明日の朝やってみる
静かに何かを見る
静かになり
それについて考えない
そしてしばらくのあいだ辛抱強く待つ

エネルギーは戻って来る
それによって実際 再び活力が得られる

人々はいつも私に尋ねる
私がいつも本を読んでいるものだから人々は私に尋ねる
「なぜ目が大丈夫なんですか もうとっくに眼鏡をかけてもいい時期なのに」

別に不思議はない
何の思考もなく読んでいれば
エネルギーは戻って来る
決して浪費されない

そうすれば疲れを感じることは決してない
今に至るまで私は1日十二時間
ときによっては1日十八時間
本を読み続けてきたが
決して疲れを感じたことがない

今まで自分の目に不都合を感じたことがない
何の疲れもだ

思考がなければエネルギーは戻って来る
何の障害もない

自分がそこに存在すれば
そのエネルギーは再吸収される
その再吸収は新たな活力をもたらす
そして目は
疲れるというよりも更にくつろぎ
活気を帯びエネルギーに満ちる






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