光と闇の瞑想  ヴィギャン・バイラヴ・タントラ

翻訳  スワミ・アドヴァイト・パルヴァ(田中ぱるば) 市民出版社


本書の原本は、インドの覚者OSHO(和尚・1931〜1990)によって語られた 『ヴィギャン・バイラヴ・タントラ』である。これは1年以上にわたって 断続的に展開された10シリーズ全80回の講話集で、本書はそのうちの 岱7集8講話を収めている。

第4章 この瞬間に入る



最初の質問

先日のお話では、哲学は反瞑想だそうです。また一方、以前のお話では、タントラやヨガやヴェーダンタといった東洋哲学は、悟った賢者の手によるものだと いうことです。もし哲学が反瞑想であるとしたら、なぜ悟った賢者たちは、哲学的な 思惟に基つ"く強固な構築物を後に残したのでしょう。

哲学は「ダルシャン」ではない
ダルシャンは東洋の用語だ
ダルシャンは受容を意味し
哲学は思考を意味する

ヘルマン・ヘッセはダルシャンを西洋言語に翻訳しようと新しい言葉を造った
それは「フィロシア」だ「シア(sia)」は「見る(see)」から来ている

哲学は考えることを意味し
ダルシャンは見ることを意味する
両者は根本的に違っている
違っているだけではない正反対だ

考えていたら見ることはできない
思考で一杯になっていたら
受容はかすむ受容は曇る

思考がやむとき見ることは可能となる
思考がやめば目は開き目の雲は晴れる
思考がやんで初めて 受容は起こる

ソクラテスやプラトン アリストテレスといった西洋的伝統は全て
思考をその基礎にしている

一方カナードやカビル パタンジャリ 仏陀といった東洋的伝統は全て
見ることをその基本にしている

だから仏陀は哲学者ではない全くちがう
パタンジャリもカビルもカナードもだ
哲学者ではない

彼らは真理を見た
それについて考えたわけではない

あなたが何かを考えるのは見えないからこそだ
もし見えたら 考えたりする理由はどこにもない

思考はつねに無知の中にある
思考は知識ではない

もし知っていたら 考える必要はどこにもない
知らないからこそ そのすきまを思考で埋めるのだ
思考は闇の中の手探りだ

東洋の哲学は哲学ではない

東洋のダルシャンに対して
「哲学」という言葉を使うのは全くの誤りだ

ダルシャンの意味するもの それは
見ること 目に到達すること 覚サトること 知ることだ
――じかに 直接に 思考や想念の媒介なしに

思考は決して「未知」に通じていない
どうして通じているだろう
それは不可能だ

まず思考の仕組みを理解する必要がある

考えているとき あなたは一体何をしているか
考えているとき あなたは古い思考や古い記憶を繰り返している

もし私が「神は存在するか」と訪ねたら
あなたはそれについて考えることもできようが
そのとき一体何をするか

神について今まで聞いたこと全て読んだこと全て蓄積した全て
を繰り返す

たとえ新しい結論に達したとしても
その新しさは外見上のものであって真実ではない
たんに古い思考の組み合わせだ
色んな古い思考を組み合わせて新しいものを構築しても
それは外見上新しいというだけで
実際は全く新しくない

思考は決して独創的な真理に到達できない
思考は決して独創的ではない
それは不可能だ

思考の対象は常に過去であり古いものであり既知のものだ
決して未知には触れない――ただ既知の上を
ぐるぐる回っているだけだ

真理を知らないとき神を知らないとき
あなたは何をするか
あなたはそれについて考える
円環の上をぐるぐると回る

実際の体験に到達することは決してない

だから東洋では思考を重んじない
見ることを重んじる

神については 考えることはできないが見ることはできる
神については 何らかの結論に到達することは不可能だが
覚ることはできる
神は体験となりうる

しかし知識を通じ理論や哲学を通じて神に達することは不可能だ

あらゆる知識を捨てて初めて その中に入ることができる
要は
今までに聞いたり読んだり集めたりしたもの
今までにマインドが集めた塵 過去全体
そうしたものを片つ"けることだ

そうすれば目は新鮮になり意識の曇りはなくなる――
そうすれば そ れ が見えるようになる

 そ れ は今ここにある

ところがあなたは曇っている

<神>とか真理を見つけるためには
別によそへ行く必要はない

それはそこにある――あなたがいるその場所にある
それは常にそこにあったが
あなたの目が閉じていた
あなたの目が曇っていた

だから問題なのは
いかにしてもっと考えるかではなく
いかにして無思考の意識に達するかだ

だからこそ私は瞑想と
哲学とは相反するものだと言うのだ
哲学は考える
いっぽう瞑想は無思考の意識に達する

東洋の哲学者は実のところ哲学者ではない
西洋には哲学が存在するが
東洋には宗教的覚醒が存在するのみだ

もちろん「仏陀」というものが起こったら
あるいは「カナード」や「パタンジャリ」というものが起こったら
……誰かが「絶対」を覚ったら
彼はそれについて語る

でもその言葉は
アリストテレスの言葉西洋哲学の結論とは違う
その違いはこうだ

カナードや仏陀のような人間は
まず覚醒に至る……覚醒が最初だ
それからそれについて語る
体験が第一だ
そしてそれについて表明する

いっぽうアリストテレスやヘーゲルやカントは
まず考えそして思考や論理的検討や弁証法を通じ何らかの結論に達する
その結論に到達するのは思考を通じマインドを通じてであって
瞑想の実践を通じてではない
そうして彼らは主張し表明する

だからその源泉が違っている

ブッダにとって表明とは単に伝達の一手段だ
彼は決して「その伝達によって人は真理に到達する」とは言っていない
ブッダを理解できたとしても それは真理に到達したということではなく
たんに知識を集めたということだ

必要なのは
まず瞑想を通ること
深いエクスタシーやマインドの深淵を通ることだ
そうして初めて真理に到達できる

真理というのは
<存在>的な体験を通じて到達されるものだ それは
<存在>的なものであって心的(メンタル)なものではない

真理を知り
真理となるためには
変化することが必要だ

いつまでも旧態依然として知識を集め続けたら
偉大な学者偉大な哲学者にはなりえても
悟りを開くことはない

いつまでも同じ人間のままで突然変異はない

だからこそ私は
哲学と瞑想とは全く逆
まさに正反対の位置にあると言うのだ

だから生について考えてはいけない
それより
生を深く生きるのだ

また究極的な問題について考えてはいけない
それより今この瞬間
<究極>の中に生きることだ
<究極>は未来の中にない
それは常にそこにある――
無時間的にそこにある

似たような質問が別の人から来ている


二番目の質問

問題は思考によって解決できるでしょうか

思考によって解決できる問題もある
思考によって解決できるのは
思考によって生み出された問題だけだ
真の問題は
思考によっては解決できない……生にかかわる問題は
思考によっては解決できない

それは思考によって生み出されたのではなく
生そのものの中に存在するものだ
思考はたいした役に立たない

思考が役立つのは次の場合だけだ――
考えに考えに考え抜くことによって
「思考は無益だ」という真理に出くわす場合だ

「<存在>的な問題に対しては思考は無益だ」
 と認識すること それが思考の効用だ
その認識に到達するのは 思考を通じてだ

でも
思考によって生み出された問題は
思考それ自身によって解決できる
たとえば数学の問題だ
それは思考によって解決できる
なぜなら数学は思考によって生み出されたものだからだ

もし地上に人間が一人もいなかったら
はたして数学は存在するだろうか
きっと存在しないだろう

人間のマインドが消失すれば数学も消失する

生と<存在>の中には数学は存在しない

庭に樹がある――
あなたは樹を一本二本三本と数えるが
「三本の樹」というものは存在しない……

その「三」とは心的(メンタル)なものだ

樹はそこに存在するが
数学は存在しない

三という数字は あなたのマインドの中にある

もしあなたが居なければ
樹はそこに存在するだろうが
三本の樹は存在しない

ただ樹だけだ

三という性質はマインドによって与えられたものだ

それは 投 影 された性質だ

マインドは数学を生み出す
だから数学の問題はどれでもマインドによって解くことができる
……思考によって解くことができる

でも無思考によっては数学の問題は解けない

瞑想は何の役にも立たない
瞑想はマインドを溶かしてしまう――
そしてマインドとともに数学はみな溶け去る

だから問題の中でも
マインドによって生み出されたものは解決できる
いっぽう
マインドによって生み出されない問題<存在>的な問題の場合
マインドによっては解決できない

それを解決するには
<存在>そのものの中へ深く入るしかない

たとえば愛だ
愛は<存在>てきな問題だ
だから思考によっては解決できない
むしろ混乱するばかりだ

考えれば考えるほど
愛という問題の源泉から遠ざかっていく

瞑想は助けになる
瞑想は洞察を与え
その問題の源泉へと導いてくれる

でもそれについて考えていたら表面から先には進まない

生の問題は思考によっては解決できない
逆に
考え過ぎることによって
あらゆる解決法は遠ざかり問題はさらに増す

たとえば死だ
死というものは
思考によって生み出された問題ではない
だから
思考によっては解決できない
考えたところで どうして解決できるだろう

慰めなら可能だ――その
慰めを解決だと思い込むこともある
でもそれは違う

自分をだますこともできる
それは思考を通じて可能となる

あれこれ説明を考え出すこともできる
その説明によって自分は問題を解決したと思ったりする

思考を通じて問題から逃れることもできるだろうが
それでは解決にならない

これをはっきりと区別すること

たとえば死がそこに存在する
自分の恋人が死ぬ……あるいは
自分の友人なり娘なりが死ぬ
死はそこにある
さて
あなたに何ができるだろうか

死について考えることもできるだろう
それについて考え「魂は不滅だ」と言うこともできるだろう
――というのも かつてそんなことを読んだことがあるからだ
ウパニシャッドの中では「魂は不滅であり
死ぬのは肉体だけだ」と言われている

あなたはそのことを全く知らない

もし本当に知っていたら何の問題も無い
どこに問題があるだろう
「魂は不滅だ」と本当に知っていたら
死というものは起こらない
だから全く何の問題も無い

でも問題は実際にそこにある……死は起こった
そしてあなたはそれに心を乱され深い悲しみの中にいる
そしてその悲しみから逃れたいと思う
何とかしてその悲しみを忘れたいと思う

そこで「魂は不滅だ」という説明にすがる
それは一つのトリックとなる

だからといって私は別に「魂は不滅ではない」
と言っているわけではない

でもあなたにとって それはトリックだ
あなたは自分をだまそうとしている
あなたは悲しみの中にいてその悲しみから逃れたいと思っている
それでこの説明が役に立つ

そうして自分自身を慰める――「魂は不滅だ、誰も死なない、
ただ肉体が死ぬだけだ。ちょうど着物を替えるように、あるいは
棲み家を替えるように、魂は一つの家から別の家へと移った」

いくらそう考えたところで
実際にはそれについて何も知らない
かつてそのようなことを耳にし知識として収集しただけだ
そういう説明を通じてあなたは安心する
そして死を忘れることができる

実際それは問題に対する解決ではない
何も解決されていない
次の日に誰かが死んだらまた同じ問題がもちあがる
更にまた誰かが死に同じ問題がもちあがる

奥深くであなたは知っている
「自分もまた死ぬのだ 死は逃れられない」
そこに恐怖がある

いつまでも延期することはできるだろう……
説明によっていつまでも逃避することはできるだろう
でもそれでは役に立たない

死は<存在>的な問題だ
思考を通じて解決するわけにはいかない
偽りの解決を生み出すのがせいぜいだ
だったらどうすればいいか

ここに別の次元が存在する――
それは瞑想の次元だ

思考の次元でも考察の次元でもない

瞑想を通じてあなたはその状況に直面する

死が起こった
自分の恋人が死んだ
けっして思考に入ってはいけない
ウパニシャッドやギータや聖書を持ち込んではいけない
キリストや仏陀に尋ねてはいけない
彼らのことは放っておくのだ

死はそこにある
それに直面し対峙タイジする
全面的にその状況に身を置く

それについて考えない
どこに考えることがあるだろう
過去の戯言を繰り返すのがせいぜいだ

死とは全く新しい現象であり
未知なるものだから
知識はどんな意味でも役に立たない

だからマインドを去り
死とともに深い瞑想の中に入るのだ

何もやってはいけない
いったい何ができるだろう……
何かをしたところで何の役に立つだろう

あなたは知らない
だから無知の中にとどまるのだ

偽りの知識や借物の知識を持ち込んだりしない
死はそこにある――それとともにとどまるのだ
あくまでもそこにとどまり死に直面する

思考には入らない
思考に入るということは
その状況から逃げ去ることであり 不在になることだ

考えたりせず死とともにとどまる

悲しみはそこにあるだろう
痛みもそこにあるだろう
重荷はあなたの上にのしかかるだろう

それはそれでいい
それは一部分だ――
生の一部であり
成熟の一部であり
究極の覚醒の一部だ

要はそれとともにとどまり
全面的に そ こ に い る ことだ

これは瞑想だ
それによって死についての深い理解に至るだろう
そうすれば死はそれ自身 永遠の生となる

でもマインドや知識を持ち込んではいけない

死とともにとどまるのだ
すると死は自らを開示する

そうすれば死というものがわかる
あなたはその内側にある邸宅に入る

死はあなたを生の中心へ連れていく――なぜなら
死とはまさに生の中心だからだ
死というのは生に対立するものではなく
まさに生のプロセスだ

でもマインドは「生と死は反対だ」
という対立関係を持ち込む
するといくら考えても
そもそもの根本が誤りであり
その対立関係が誤りだから
けっして正当な結論には到達しない

生にかかわる問題があるときには常に
 マ イ ン ド ぬ き で
その問題と一緒に と ど ま る

それが私の言う瞑想だ
問題と一緒にとどまることによってその
問題は解ける

もし真にそこにとどまることができたら
死は二度と再びあなたに起こらない
なぜならあなたはもう
死というものを知っているからだ

私たちは決してそうすることがない

愛について
死について
そして
およそ本来的に真実である全てについて
私たちはいつも考えてしまう

でも
思考とは誤りのもとだ
思考は借物であって自分のものではない
思考は解放をもたらしてはくれない

解放をもたらすのは
自分のものとなった真理だけだ

自分のものである真理に到達するには
どこまでも静かにそこにとどまることだ

どんな問題に対しても
思考はしくじる
思考には真の問題が解決できない
しかし
思考自身によって生み出された
 真 な ら ざ る 問題なら解決できる

なぜなら真ならざる問題は論理の規則に従うからだ

生は論理の規則に従わない
生には生の隠れた法則がある
その法則に対しては
論理を押し付けるわけにはいかない

それについてもう一点

マインドを持ち込むと常に
マインドは解剖し分析する 真実はひとつなのに
マインドはいつも分割する

真実を分割するということは
それを歪ユガめることだ

するとあなたは一生涯 葛藤を続けることになる
――何も達成されない

なぜなら真実は根本的にひとつだからだ

それなのにマインドはそれを二つに分割し
そしてその分割を相手にする

たとえば前にも言ったとおり
生と死はひとつなのに
マインドにとってはそれが二つになり
死は生の敵となる

しかしそれは違う
なぜなら
生は死なしに存在できないからだ
生が死なしに存在できないとしたら
なぜ死が敵になるだろう

これが基本的な状況だ
死は生を可能とする

生は死の中で成長する――
死は魂だ
死なしで生は不可能だ

ところがマインドや思考はそれを分割し
正反対のものとしてとらえる

そうして貴方はいつまでも考え続ける
でも何を考えようと全ては誤りだ
なぜなら始めに罪を犯しているからだ――その罪とは分割だ

瞑想するとき分割は消える
瞑想するとき分割は存在できない

沈黙の中でどうして分割ができるだろう

私たちはここにいる

誰もが自分のマインドの中であれこれ考えている

すると私たちは別々だ――みんな別々だ

あなたの思考はあなたのものであり
わたしの思考はわたしのものだ
私のマインドの中には私の夢があり
あなたにはあなたの夢がある

今この場所には多くの個々人が集まっている
でももし私達全てが瞑想していたら
あなたも考えていないし私も考えていない
――思考は止まる……

すると個々人の数はそれほど多くはなくなる
実際 個人はまったくいなくなる

もし私たち全てが瞑想していたら
限界は消え失せる

私が瞑想しあなたが瞑想していたら
もはや二人の人間は存在しなくなる
存在できない

ふたつの静寂がひとつになる
その静寂は決して二つではない

どうして一方の静寂が他方と区別できるだろう
それは不可能だ

思考同士マインド同士なら区別できる
しかし
ふたつの静寂はまさにひとつだ――
ちょうどふたつの零ゼロのようなものだ

ふたつの零は二つではない
ふたつの零はひとつだ
何千もの零を合わせても零は零だ

瞑想は零を内側に生み出す
一切の限界
一切の分割は消え去る

それによって
真の目が第三の目が
ダルシャンがもたらされる
かくしてあなたは
真の目をもつ

その真の目に対しては
真実は明瞭で開かれている
真実が開かれたら
もう何の問題もなくなる


三番目の質問

晴れた大空を見つめることと、悟りを開いた師の写真を見つめることと、闇を見つめることの違いは何でしょうか

見つめる技法は
見つめる対象にはあまり関係が無い そうではなく
見つめることそのものに関係している
なぜなら
まばたきせずに何かを見つめると
焦点は一点に収束するからだ

ところがマインドは本性からして絶えず動いている
だから全く動くことなく真に見つめていたら
マインドは困り果ててしまう

マインドの本性は対象から対象へと移ること絶えず動くことだ

もし闇とか光などを凝視していたら……
真に見つめていたらマインドの動きは止まる
もし
マインドが動いていたら凝視は消え去り対象は無くなる
マインドが他の場所へ動いたらあなたはもう忘れてしまう――
自分自身が何を見ていたのか思い出せない

その対象は物理的にはそこにあるが
あなたにとっては消え失せている
あなたはもうそこにいない
思考の中へ入っている

凝視「トラタック」とは意識の動きを許さないことだ

マインドの動きを許さなかったら最初のうち
マインドはもがく激しくもがく

でもそのまま凝視を続ければ
それも段々静まってくる
しばらくの間
マインドは停止する
マインドが停止するとき
マインドは無くなる
マインドが存在できるのは動いているときだけだ
――思考が存在できるのは動いているときだけだ

動きがなくなると思考は消え去る
もう考えることはできない

思考は動きだ
想念から想念への動きだ
それはプロセスだ

ひとつのものをずっと
完璧な覚醒と注意深さで見つめたら……

というのも
死んだ目で見つめることもできるからだ
死んだ目で見つめていたら思考は止まらない 何も見ていない目
死んだ目……死者の目で見ていたらマインドはいつまでも動いている
それでは役に立たない

凝視とは
目だけでなく
マインド全体が
目を通じて一点に収束することだ

だからその対象が何であっても……対象は人によって違う
光が好きだったらそれでいい
闇が好きだったらそれもいい
対象が何かということは深い意味では無関係だ

重要なのは凝視の中で
マインドを完全に停止させること
一点に収束させることだ
そうすれば
内側のそわそわした動きは止まる……
内側の揺らめきは止まる

ただ見つめるだけで何もしなければ
その深い 見 つ め る こ と があなたを完全に変える
それはひとつの瞑想となる

これはいい方法だから試してごらん
しかしあくまでも目と意識を 一 緒 に し て 見つめることだ
目を通じて 真 に 見る

不在であってはならない
あなたがあくまでも そ こ に 存 在 する

そうすれば考えることは不可能になる……
思考は不可能になる

でもそこにもう一つ危険がある
それは無意識になる危険 眠りに落ちる危険だ
目を開けていても眠りに落ちることは可能だ
すると凝視は石のようになる

始めのうちまず最初の問題は
見ているとき 自 分 が 存 在 し て い な い ことだ

これが最初の障害だ
どうしてもマインドが動いてしまう
目は固定されてもマインドが動いている――
目とマインドの出会いが無い
それが最初の困難だ

もしそれに打ち勝ったら第二の困難が現れる
動きなしに見つめていると眠りに陥ってしまう

自己催眠に陥る……自分で催眠術にかかってしまう
それは自然だ

なぜなら私たちのマインドは二つのことしか知らないからだ
――絶えず動いているか眠っているかだ

自然な状態ではマインドは二つのことしか知らない
――絶え間ない動きつまり思考と眠りに落ちることだ

そして瞑想は第三の状態だ
瞑想という第三の状態にいるとき
マインドは深い眠りの中と同じくらい静かで
そして思考の中にいるのと同じくらい覚醒している
その両方の共存が必要だ

完全に覚醒していると同時に
深い眠りの中にいるように沈黙する

だからパタンジャリ(古代インドの神秘家)のヨガ・スートラは言う
――「瞑想とは一種の深い眠りだ。しかしただ一つの違いがある。
それは覚醒しているということだ」

パタンジャリによると
スシュブティとサマーディつまり
深い眠りと究極の覚醒は同じものだという

唯一の違いは
深い眠りの中で人は覚醒していないが
瞑想の中では覚醒しているということだ

でも両者の質は共に深い静寂だ……
さざ波もゆらめきもない静寂
動くことのない静寂だ

最初のうちはときとして
凝視によって眠りに陥ることがある
だから
マインドを一点に収束できるようになり
マインドが動かなくなったら
覚醒したままでいることが大事だ

眠ってはいけない
眠ってしまったら淵の中溝の中に落ちてしまう
その二つの溝の間に
つまり絶えざる思考と眠りとの間に
一つの狭い橋がある
――その橋とは瞑想状態だ


四番目の質問

お話によると、科学は客観に関わり、宗教は主観に関わるそうです。でも今、新たに勃興してきた科学である心理学、より正確に言えば深層心理学は、主観的であると同時に客観的でもあります。だから科学と宗教は深層心理学において出会っています。

それはあり得ない
深層心理学あるいは心的現象の研究とはやはり客観的なものだ
深層心理学の手法は客観的科学の手法だ

この区別を明確にしよう
たとえば
瞑想を科学的に研究するということは可能だ
つまり
瞑想している人間を観察することは可能だ
だが
観察者にとってそれは「対象」となる
たとえば
あなたが瞑想し私が観察する
私は科学的機器の全てをそろえ
あなたに何が起こっているか
あなたの中で今まさに起こっているかを観察する
それは可能だが
その研究はどこまでも客観的なものだ
私は外側に居る
私が瞑想しているのではない
貴方が瞑想している――
貴方は私の対象だ

そうして私は
貴方に起こっていることを理解しようとする
たとえ機器を通じてであれ
あなたについて様々なことがわかる
しかしそれはどこまでも客観的科学的なものだ
だから実際には私の得るものはみな
真の意味で貴方に起こっていることではなく
あなたの体に現れる影響だ

ブッダを見通すのは不可能だ
彼に起こっていることを見通すのは不可能だ
なぜなら実際のところ
そこには何も起こっていないからだ

悟った人間の最も深い中心は無だ
そこには
何も起こっていない
何も起こっていないとしたら
どうしてそれが研究できるだろう

研究できるのは 何 物 か だ
アルファ波なら研究できる……マインドなり体なり化学系に
起こっていることなら理解できる

でも誰かが悟ったとき
真の奥底では何も起こっていない
あらゆる出来事は止んでいる

これこそがその意味だ
世界は止んでいる
もはやサンサーラ(輪廻流転)はない
出来事は無い

彼はあたかも無のごとくだ

だからこそ仏陀は言ったのだ
「もはや私は、無アートマン、無自己になった。
私の中には誰もいない。私はまさにひとつの空クウだ。
もはや炎は消え失せ、家はからっぽだ」

何も起こっていない
あなたに何が記録できるだろう
せいぜいのところ
何も起こっていないことが記録されるだけだ
客観的に記録できるのは何かが起こったときだけだ

科学の手法はどこまでも客観的だ
そして科学は主観性を非常に恐れている
それにはいろんな理由がある
科学や科学的マインドにとっては主観性なんてとんでもない

まず第一に
主観性は個人的個別的であって誰もその中には入れない
それは共有的集合的なものではない
共有的集合的にならない限りそれについては何も語れない
それを語っている当の人間はだまされているかも知れないし
或いは他人をだましているかも知れない
彼は嘘つきかも知れない
或いは嘘つきでないにしても幻を見ているのかも知れない
自分ではそれが起こったと想い信じているが
実際には単なる錯覚 自己欺瞞かも知れない

だから科学の場合には真理はあくまでも客観的なものだ
他人の目で見ても本当にそれが起こっているとわかる必要がある

第二に反復可能であることだ
水を熱すれば一定温度で沸騰する――それは反復可能だ
私たちが反復に反復を重ねても その度に水は一定温度で沸騰する

もし百度で沸騰したのがただ一度きりで二度とそうならなかったら
或いは時には九十度で沸騰し時には八十度で沸騰するようなら
それは科学的事実とはならない

反復可能性が要求され
また何度反復実験を行っても同じ結果が出ることが必要だ

ところが主観的な覚醒は反復可能ではない
予見可能でさえない

それは招き寄せるものではなく起こるものだ
強制するわけにはいかない
たとえば
深い瞑想を達成したり
たいそう高次の頂上体験を得たとしても
「それをここで再現してごらん」と言われて
それが再現できるとは限らない
かえって逆に
そう言われたから再現しようと努力すると
その努力が障害となったりする
観察者の存在でさえ
ときとして妨げとなる
それで再現できなくなる

科学は客観的実験 反復可能な実験を必要とする
心理学もまた科学であることを求めるのなら
やはり科学の規則に従うほかない

宗教は主観的なものだ
事実の証明に携わるものではない
むしろ
それに対する個人的な体験へと向かうことだ
最も深いものはどこまでも個人的だ

究極とはどこまでも私的なものだ
決して集合的ではない

全ての人が悟りの境地に到達しない限り
それは集合的にはならない

それは個々の人間が成長して達成するものだ

だから科学と宗教は真の意味では
決してまみえることがない

なぜならその姿勢が違っているからだ
宗教は絶対的にプライベートだ――
個々人の自分自身に対する関わりだ

だからこそ古来から他の国々に比べて
宗教的であった国は伝統的に個人主義的なのだ
例えばインドだ
インドは個人主義的だ
ときには自分勝手にさえ見える
誰もが自己や自分の成長や自分の悟りに関心を払い
他人には関心を払わない……
他人や社会や社会環境や貧困や隷属に無関心だ

誰もが自己に携わっている――
究極的な頂点に向かっての成長に従事している
それは自分勝手にも見える

西洋の国々はより社会主義的であって個人主義的ではない
だからインドでは共産主義という概念自体が不可能だ
インドは仏陀やパタンジャリといった人間を生み出してきたが
マルクスのような人間を生み出すことがなかった
そうしたものは西洋からやってきた

いっぽう西洋では
社会や集合的全体が個人よりも重要であり
科学が宗教より重要であり
客観的な出来事のほうが
絶対的なプライバシーの中の出来事よりも重要だった
西洋ではプライバシーの中で起こることは夢だ

例えばインドでは
世間一般に起こることをマーヤー「幻影」と呼んできた
シャンカラ(古代インドの思想家)によれば
世界全体は幻影だ
唯一真実なのは自分の内側の奥深くに起こるもの
そこに起こる「究極」「ブラフマン」であって
それ以外の全ては非真実だ

その正反対が西洋の科学的態度だ
自分の内部に起こることは幻影で外部に起こることは真実だ
真実は外側にある
内側にあるのは夢の世界だ

この二つの態度は非常に違っており
その姿勢は正反対だ
だからそこに出会いはありえない
またその必要もない
次元が違っている領域が違っている

決して互いに侵犯することがない
葛藤はまったくない
そして葛藤の必要はない

科学は客観的世界に働きかけ
宗教は個人的主観的世界に働きかける
両者は決して交錯しない
だから何の葛藤もない

そして私に言わせれば
外的世界に働きかけているときには
科学的態度で働きかけたほうがいい

そして自分自身に働きかけているときには
宗教的態度で働きかける

葛藤を生み出してはいけない
その必要は無い

内的世界に科学を持ち込んではいけないし
外的世界に宗教を持ち込んではいけない

もし外的世界に宗教を持ち込んだら
そこに生じるのは混沌だ
インドではそれが生じている――混乱状態だ

またもし内的世界に科学的態度を持ち込んだら
そこに生じるのは狂気だ
西洋ではそれが起こっている
今や西洋は完全にノイローゼ状態だ

その両方ともに同じ間違いを犯している
この二つを混同してはいけない

外側を内側に持ち込んだり
内側を外側に持ち込んだりしてはいけない

主観は主観のままに また
客観は客観のままに とどめる

外側に向かうときには科学的・客観的になり また
内側に向かうときには宗教的・主観的になることだ

葛藤を生み出す必要は無い そもそも
葛藤など存在しない
葛藤が生じるのは
一つの態度を両方の領域に押し付けようとするからだ
とかく私たちは
全面的に科学的になろうとか
全面的に宗教的になろうとするが
それは間違いだ

客観に対する主観的姿勢は
偽りで危険で有害だ
その逆もまた同じだ


五番目の質問

今までに大変多くの技法や方法についてうかがいました。そして私達は、どうにかしてそうした技法を成功させたいと熱望しています。この性急さを克服するには、どうしたらいいでしょうか。

記憶すべきことが二つある

一つ
精神性(スピリチャリティ)は決して
欲求からは生まれない
欲求というのは 私たちのあらゆる痛みや悩みの根源だ また
欲求を精神的領域へと向けることもできない

にもかかわらず どうしてもそうなってしまう
それは自然だ

なぜなら私たちは一つの動きしか知らないからだ―それは
欲求だ 私たちはこの世のものを
欲求する ある人は富を
欲求し  ある人は名声を
欲求し  ある人は権勢や力といったものを
欲求する 私たちはこの世のものを
欲求する そしてこの
欲求によって不満に陥る

私たちは 必ず 不満に陥る――
欲求が成就されるか否かは関係ない

成就されなかったら
不満に陥るのは言うまでもないが 成就したとしてもやはり
不満に陥る

なぜなら欲求が成就される
ときその欲求は成就されるが
その望みや期待は成就されないからだ

たとえば
欲求したとおりの富を得たとしても 真の
欲求物はその富ではなかった――その富を通じて何か別のものが
欲求されていた

それは決して成就されない

富が達成されたとしても
そのまわりに漂っていた望み――幸福への
夢 至福への
夢 恍惚とした生への
夢――は成就されぬままだ

もし富が達成されなければ不満を感じ
また富が達成されても  不満を感じる

その期待は成就されていないし
その夢は達成されていない

全てはそこにある
手段はそこにある
でも
目的は逃げてしまった
目的はいつも手をすり抜けていく

欲求を通じ人は
深い不満に陥る
この不満が起こると今度は絶対的に異なるものを
求め始める

宗教的な
あこがれや宗教的な
切望が生まれる

ともあれあなたは再び
欲求し始める あなたは性急になる……あれやこれやを
達成したいと思う

そのマインドは同じままだ

欲求の対象は変わった――
かつてそれは富だったが 今度は瞑想だ
かつてそれは権力や名声だったが 今度は静寂や平安だ
かつてはこれこれであったが 今度は別のものだ
でも
そのマインドは
その仕組みは
あなたの存在の機能そのものは
同じままだ

かつてあなたはAを
欲求していたが 今度はBを
欲求している しかしその
欲求 す る こ と はそのままだ

瞑想は
欲求できない 瞑想が起こるときは
欲求のないときだけだ 解脱やニルヴァーナ(にゃはん)は
欲求できない それが起こるのは
無欲求の状態のときだけだ

そうしたものは欲求の対象にはできない

私の目には また
知る者すべての目には
「欲求すること」こそが「現世」だ

別に現世のものを
欲求するからではない
欲求すること
欲求するという現象こそが現世だ

欲求には性急さがつきものだ

マインドは待ったり延期したりするのを嫌う マインドは
性急だ 性急さは
欲求の影法師だ
欲求が強ければ強いほど性急さは増す

そして性急さは動揺や不安を生み出す
だとしたら どうして
瞑想に到達できるだろう

欲求はマインドの動きを生み出し また
欲求は性急さを生み出し

そして性急さは動揺や不安をもたらす

私は毎日このことを目にする

ひどく現世的に生きている人間 そして
普段あまり動揺や不安を感じない人間が
瞑想や宗教的探求を始めたりすると つねにも増して
動揺や不安を感じるようになる

その理由は
欲求が鋭くなり本人が
性急になっていることにある

現世的なものなら全ては現実的で具体的だから
待つこともできた

ものごとは常に自分の手の届くところにあった

ところが宗教的領域では
ものごとはどんどん逃げ去り遥かかなたにあり
とても手が届きそうに見えない

人生はかくも短いのに
欲求の対象は無限だ――そこで
性急さはつのり
動揺や不安は増す

そのように乱れたマインドをもって
どうして瞑想ができるだろう

だからこれはパズルだ
つまりこういうことだ

もし本当に不満を感じ外側のもの全ては
不毛だと思うようになったら……金やセックスや力や権勢が
不毛だと感じるようになったら……もしこの
認識に到達したら そのときには もっと深い
認識もまた必要だ

もしこうしたものが
不毛なら 欲求することはそれにも増して
不毛だ あなたは欲求に欲求を重ねるが何も起こらない――そして
欲 求 す る こ と は苦を生み出す

「欲求することは苦を生み出す」という事実をごらん

欲求がなければ もはや苦はない だから
欲求を落とすことだ 新たな欲求を生み出したりせず ただ
欲求を落とす 精神的(スピリチュァル)な
欲求を生み出さない

例えば さあこれから神を探求しよう あれなりこれなりを見い出そう 真理を覚ろう
などと言ったりしない 新たな
欲求を生み出さない 新たな
欲求を生み出すということは その人間が自分の
苦を理解していないということだ

欲求の生み出す苦を
よく見つめる

「欲求とは苦だ」ということを
感じそれを落とす

それを落とすのに努力はいらない 

そもそも
努力するとは別の
欲求を生み出すことだ だからこそあなたは別の
欲求を必要とするのだ そうすれば
欲求を去ることができる 別の
欲求があればそれに しがみつくことができる その新たな
欲求にすがることによって古い
欲求を去ることができる

新たなものが手に入れば古いものを去るのも簡単だ
でもそれでは
すっかり核心を逃してしまう

だから ただ
欲求を去るのだ なぜなら それは
苦だからだ そして 新たな
欲求を生み出したりしない

そうすれば性急さは無くなる

そうすれば瞑想は 実践されるというより あなたに
起こる

というのも 非欲求的な マインドは
瞑想の中に 在るからだ

そうすれば こうした技法と
遊ぶことができる 私は
「遊ぶ」と言う あなたはこうした技法と
遊ぶことができる――そこに
実践はない
実践とは良い言葉ではない
その言葉そのものが不適切だ

あなたはこうした技法と
遊べるし
遊びを楽しむことができる

なぜなら もはや 何かを達成しようという
欲求も どこかに到達しようという
性急さも無くなるからだ

遊ぶといい そして
遊びを通じ 瞑想が
遊びであるとき
すべては可能となる
すべては今ここで可能となる

もはやあなたは
性急でもなければ
あわててもいない また
どこに行くわけでも
どこに到達するわけでもない

あなたは今ここにいる

もし瞑想が起これば それでよし
もし起こらなければ それでよし

不都合なことは何も無い
もはやどんな欲求も期待も未来も無い

瞑想と非瞑想が自分にとって同様のものであるとき
瞑想はあなたに起こっている

あなたは到達した ゴールは到来した
<究極>はあなたの中に降臨した

そう言うと きっと奇妙に感じられるだろう

私はこう言った――
瞑想を実践にするより
遊びや戯れにしなさい――どんな
結果も期待せず それを
楽しみなさい……

私たちのマインドは実に深刻だ 深刻きわまりない
遊ぶときでさえ私たちはそれを深刻なものにする
――仕事や義務にしてしまう

子供のように 遊ぶのだ
瞑想技法と共に遊べば
それを通じてもっと多くのことが可能になる

技法について深刻にならず
それを戯れと見なす

ところが私たちは全てを深刻にしてしまう

そして宗教に関しては いつも実に深刻だ
かつて宗教が戯れであったためしは一度も無い

だからこそ この地球は今もって非宗教的なのだ

それゆえ必要なのは宗教を
遊びに 戯れに お祝いにすることだ――
瞬間瞬間に対するお祝いに――

自分のやっていることを何であれ楽しむ

そして 大いに 深く 楽しむことによって
マインドもまた止む

もし真に 私の言うことを 理解していたら
これら百十二の技法を通じて
なんでもすべて技法になるとわかるだろう

もし 真に 理解していたらだ

だからこそ百十二ある
瞑想をもたらすマインドの質を理解していたら
すべては技法になる

そうすれば何をしようと技法になる

要は 遊び戯れることだ

技法を祝い 楽しむ

時間が止むほどに その中に 深く入り込む

でもそこに
欲求があったら 時間は止まない 実際
欲求とは 時間だ
欲求する とき 未来が必要になる
欲求は 今ここ では成就されない
欲求が成就される のは未来のどこかだ

だからあなたは必然的に未来へと向かう
こうして時間はあなたを破壊する
あなたは
永遠を逃してしまう
永遠はここにある

だから瞑想を 戯れとして お祝いとして
見なすことだ――その対象が何であれ……

たとえば庭で穴を掘っている
それも一つの技法となる

ただひたすら
掘り楽しみ
掘るという行為を祝う
その行為そのものになる

行為者は忘れる「私」はそこになく ただ
行為だけが残る

そしてあなたはその
行為に対して存在している――
至福に満ちて存在している

そのときエクスタシーはそこにある……

性急さも欲求も動機もない

もし瞑想に動機や欲求や性急さ
を持ち込んだら全ては破壊されてしまう
そんな状況下では やればやるほど不満を感じる
そしてきっとこう言うだろう「こんなにやっているのに何も起こらない」
人々は私のところにやって来て言う――
自分はこれをやっている
自分はあれをやっている
もう何ヶ月も何年もやっている
それなのに何も起こらない

先頃オランダから探求者がやって来た
彼はある特定の技法を毎日三百回やっていた
そして私に言った「二年間というもの、この技法を毎日三百回やっています。
一日も休んだことがありません。私は全てを捨て去りました。なぜなら、これを
毎日三百回やる必要があったからです。でもまだ何も起こりません」
そして彼はこの技法のせいで神経がおかしくなりかけていた

そこで私は言った
「まず必要なのは それをやめることだ
何をやってもいいが その技法だけはだめだ
さもないと おかしくなってしまう」

彼はそれについて実に深刻だった
彼にとってそれは生死に関わる問題だった
どうしても達成しないといけなかった

彼は言った「あとどれほど月日が残っているでしょう。
時間は短く、私はこれを今生で達成しなければなりません。
もう二度と生まれてきたくないんです。生は全くの苦悩ですから」

彼はこの先 何度も何度も生まれ変わるだろう
彼のようなやり方では ますます狂気に陥るばかりだ
それは誤っている――その姿勢そのものが誤りだ

瞑想を遊びとして 戯れとして見なし
それを楽しめば その質そのものが変化する

そうすれば もはや瞑想も
何かの結果を得るための原因ではなくなる

そのかわりに瞑想を
今ここで楽しめるようになる
瞑想は原因であり結果だ
その両方だ
始点であり終点だ

そうすれば決して瞑想を取り逃すことはない
決して無い

瞑想は起こる

なぜならあなたには瞑想を取り入れる
準備ができているからだ
あなたは開いている

今まで誰も
「瞑想を戯れと見なせ」
と言う人はいなかった

でも私は言う
瞑想を遊びとするのだ
小さな子供のように
瞑想とともに遊んでごらん


最後の質問

先日のお話では、闇とは<存在>にとって根本的なものなのに、殆どの宗教はその逆の 見方をしているということです。この問題について、もう少しご説明いただけないでしょうか。ことに、この問題に関する現代科学の見方について。現代科学によれば、物質の 分割可能な最小単位は、電気的なエネルギーだということですが。

またしても同じ分割だ――光と闇
それが二つなのはマインドを通して見るからだ

もしそれに瞑想すれば
それはひとつだ

光に瞑想しようが
闇に瞑想しようが
何の違いも無い

瞑想すれば
一方は他方の中に溶け去る

つまり
光とは闇の減少したものであり
闇とは光の減少したものでしかない――
その違いは程度的なものだ

両者は相互に対立する二物ではなく むしろ
同一の現象の二つの度合いだ

その「同一の現象」とは光でも闇でもない
――あるいはその両方だ

その現象の中には
光から入ることもできれば
闇から入ることもできる

多くの宗教は光を使ってきたが それは
光のほうが快適で容易だからだ

闇は難しく それほど快適ではない
闇を通じて入るほうが骨折りだ

それゆえ多くの宗教は光を選んだ
でもどちらを選んでもいい
それは人による

冒険的で勇敢な人間には闇のほうが向いている

でもそれが恐かったら そして
骨の折れる道を行きたくなかったら光を選ぶといい

両方とも同一の現象に属している それが
一方では光として現れ
他方では闇として現れる

例えばこの部屋は光に満ちている
でも誰が見ても同じ光に満ちているとは言えない
違うだろうか

もし私の目が弱かったら その光は
あなたの場合ほど明るくない
私はそれを少し暗く感じる

例えば火星なり何なりの惑星から来た人がここにいて
たいへん鋭敏な視力を持っているとしよう すると彼は
あなたが光を見る所に もっと大きな光を見るだろう また
あなたが闇を見る所にも 光を見るだろう

またある種の動物や鳥たちは
あなたには何も見えない夜間でも物を見分ける
そうした動物や鳥たちにとって光であるものが
あなたにとっては闇だったりする

だとしたら光とは何か また闇とは何か
それは同一の現象だ

あなたがどれだけそれを貫けるか そしてそれが
あなたをどれだけ貫けるか……

問題はどれだけ貫けるかであって それを
光と呼ぼうが闇と呼ぼうがどちらでもよい

この両極性は外見上の両極性であって実際上のものではない
その両者は一つの現象の相対的な度合いだ

科学によれば物質の分割可能な最小単位は電気的なエネルギーだという
でも科学はそれが光だとは言っていない
電気的なエネルギーだと言っている

闇もまた電気的なエネルギーであり
光もまた電気的なエネルギーだ 電気的エネルギーと
光とは同義ではない

もしそれに「電気的エネルギー」という名前を与えるなら
光はその一表現であり また
闇もその一表現だ

しかしそれについての科学的論議に立ち入る必要はない
それは無意味だ

むしろ考えるべきは
自分自身の傾向であり
自分の好みについてだ

もし光に安らぎを感じるようなら光を通じて入るといい
それがあなたの入口だ また
もし闇に安らぎを感じるようなら闇を通じて入る
両方とも同じところに通じている

この百十二の技法のうち 多くは
光にかかわり またいくつかは
闇にかかわっている

シヴァは可能なかぎり全ての
技法について説明しようとしている
特定の種類の人間に語りかけているのではなく
あらゆる種類の人間に語りかけている

そして中には闇を通じて入るのを好む人間もいる
たとえば 女性的なマインドをもつ人
より受動的 受容的な人は
闇を通じて入るのを好む
闇の方が受け入れやすい

男性的なマインドは光の方を好む

みんなはこんな事実に気つ"いているだろうか
古今の多くの詩人や哲学者やそのほか
人間のマインドに深く通じている人々は常に
女性性を闇になぞらえ
男性性を光になぞらえてきた

光は攻撃的だ 男性的な要素だ
闇は受容的だ 女性的な要素だ

闇とは子宮のようなものだ

だからそれは人による
もし闇を好むなら それを通じて入るといい
もし光を好むなら  光を通じて入る

ときには反対のものに引き付けられることもある
そうしたらそれを試せばいい
何を試しても危険は無い

全ての道は同じゴールに通じている

何を選ぶかいつまでも考えていてはいけない
時間を無駄にせずに とにかく試すことだ

いつまで考えていても きりがない――
「何が自分に向いているか、何を選び何を避けるか、
なぜ光を重んじる宗教は沢山あるのに、
闇を重んじる宗教は殆どないのか」云々ウンヌン

そんなことを心配したところで どうしようもない

むしろ自分自身のタイプを考え
何が自分に向いているか 自分が心地よく感じるものは
何かを考え そして始めてみる

そうしたら他の全ては忘れることだ

これら百十二の方法全てが貴方向きだというわけではない

選んだのが一つだったとしても
あなたにとってはそれで充分だ

百十二の方法を網羅する必要は無い
一つで事足りる

だから自分向きの方法に出会えるよう
感覚を研ぎ澄まし 注意深くなることだ

それ以外の方法について心配する必要は無い

一つ選び それと遊んでみる

もし心地よく感じ 何かが起こりそうだったら
その方法の中に入り込み 他の百十一は忘れる

またもし不適当なものを選んだと思ったら
それを捨てほかのを選び それと遊んでみる

これを四つなり五つなり六つの技法で試せば
自分に合った技法に出くわすだろう

でも深刻になってはいけない

ただ 遊ぶのだ




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