光と闇の瞑想  ヴィギャン・バイラヴ・タントラ

翻訳  スワミ・アドヴァイト・パルヴァ(田中ぱるば) 市民出版社


本書の原本は、インドの覚者OSHO(和尚・1931〜1990)によって語られた 『ヴィギャン・バイラヴ・タントラ』である。これは1年以上にわたって 断続的に展開された10シリーズ全80回の講話集で、本書はそのうちの 岱7集8講話を収めている。

第5章 エゴを明け渡す

経文

79 火が体をずっと昇っていくのを注視する――
爪先から上に昇り、体を焼き尽くして灰にするまで……
あなたを除いて。

80 見せかけの世界が燃えて灰になることを瞑想する、
そして、人間以上のものとなれ。

81 主観において、文字が言葉へ、
そして言葉が文へと流れ込み、
また、客観において、円環が世界へ、
世界が原理へと流れ込むとき、
最後にそれが私たちの存在において
一点に集中することを見る。

悟った人々全て 世の宗教家全ては ただ一点で一致する
不一致点はたくさんあるが 一致点は一つしかない
それは「人間というものは、自らのエゴのせいで
真実から遮断されている」ということだ

エゴすなわち
「私はある」という感覚こそが唯一の障害だ

この一点で 仏陀とかキリストとかクリシュナといった人々は
みな一致する 彼らが
みな一致するということは これが
あらゆる宗教的努力の根本だということだ

他のすべては付随的なものであり
本質はこれだ――すなわち あなたは
自らのエゴのせいで閉ざされている

このエゴとは何か
その構成要素は何か
それはどのように生じるのか そして
なぜそれほど重要なものになるのか

自分のマインドを見てごらん
エゴという現象は
理論的には理解できない
<存在>的にしか理解できない

自分のマインドを見つめ 観察すれば
きっと深い理解に到達するだろう
エゴというものが理解できれば
もう何の問題もなくなる

エゴはたやすく落とせる
というより 落とす必要がなくなる

もしエゴが理解できたら
まさにその理解がエゴの解消となる
そもそも
エゴが成り立つのは 理解がないからだ
エゴが成り立つのは 眠っているからだ

もしエゴに深い注意の目を向けたら
もしエゴに意識の焦点を合わせたら
  エゴは消え去る

ちょうど
部屋に灯りを持ち込めば闇が消え去るように
エゴは消え去る

たとえ灯りを持ち込んだ目的が
闇を見ることであり
闇とは何かを知ることであったとしても
灯りを持ち込めば闇は消え去せる

エゴが存在するのは
自分の<存在>にかつて一度も気をつけなかったせいだ
エゴは 気つ゛きのなさと表裏一体だ
だから実際
エゴを落とす必要はない
エゴを観ることができたら
エゴは自然に落ちる

それはどういうことか かつてあなたは
エゴの無い瞬間を感じたことがあるだろうか 沈黙しているとき
エゴは無い

しかしマインドが騒ぎ しゃべりたて落ち着きのないときに
エゴはある くつろぎ 沈黙し 静かなとき
エゴは無い

今もしあなたが沈黙していたら
エゴはどこにあるだろうか

あなたは存在するだろうが
「私」という感覚は無い

まずそこのところをよく理解することだ

私が語っている今このとき あなたは
こんな事実に気つ゛くだろう――もしあなたが
沈黙し あくまでも深く瞑想的であれば あなたは
そこに存在するが「私」という感覚は無い

ところが逆に
困難に陥り悩み苦しんでいたら きっと
自分の内側に確たるエゴを感じるだろう

怒りとか熱情 暴力性 攻撃性といったものを抱いているときには
自分の内側に結晶化したエゴが感じられる

しかし
愛や慈悲を抱いているときには
エゴは存在しない

だからこそ私たちは
愛することができないのだ エゴがあったら
愛は不可能になる だからこそ私たちはいつも
愛について語りながら決して
愛することがない 私たちが
愛と呼ぶものはみな多かれ少なかれセックスであって
愛では無い あなたはエゴを無くせない そして
愛はエゴが消失しない限り存在できない

愛や瞑想や神が要求するのはただ一つ――それは
「エゴはあってはならない」ということだ

イエスの「神は愛なり」という言葉もそういう意味だ
神や愛という現象は エゴが無くなって初めて起こる

もし
愛を知っていたら
神を知る必要は無い――あなたはもう
神を知っている
愛とは神の別名だ もし
愛を知っていたら
瞑想に入る必要は無い――あなたはもう
瞑想の中に在る
愛とは瞑想の別名だ

愛が無いからこそ これほど多くの
瞑想技法や瞑想教師や瞑想の流派が必要となるのだ
もし
愛が存在したら 何を実践する必要も無い……
そ の こ と はもう起こっている
そ の こ と とは エゴの消失だ

だから理解すべき第一点
沈黙しているとき エゴは無い

別に私の言うことを信じる必要はない
私は理論について語っているのではない
これは事実だ

別に私の意見を採用する必要はない
自分の内側で観察すればいい
先に延ばす必要は無い
この事実は今ここで観察できる

もし沈黙していれば あなたは
 在 る もはや何の限界も何の中心も無い あなたは中心無しに
存在 する――もはや結晶化した「私」は無い 自己の
存在 はそこに在る 意識はそこに
在る でも「私は在る」と言える者は居ない

沈黙しているとき エゴは無い
沈黙していないときエゴはある

だから
エゴ こそが病気だ あらゆる病気が一束となったものだ だからこそ
エゴ の明け渡しが強調される――
その病気の明け渡しが強調される

第二点
沈黙の中で たとえ一瞬なりとも 自分の
存在 の無エゴ性を一瞥したら そのときにはエゴを分析できるようになる
つまり
エゴという現象の中に入れるようになり
エゴとは何かがわかる

マインドとは蓄積された過去だ
マインドは決してここに居ないし決して今に居ない
マインドは常に過去から来る
それは蓄積であり記憶だ

マインドとは
あなたの得てきた体験全てであり
あなたの遭遇した情報全てであり
あなたが掻き集めたり耳にしたり聞いたり読んだりして
蓄積した知識の全てだ
マインドは絶えず蓄積している

マインドほどの
蓄積者もいない いつも
蓄積している あなたが意識していないときでさえ
蓄積を続けている 眠っているときでさえマインドは
蓄積している

往々にして貴方はそれに気つ゛いていないかも知れない
眠っているとき通りに物音がしてもマインドは蓄積している

朝になって催眠術をかけられ質問されれば貴方は全てを物語る――
夜間マインドが蓄積した全てを

昏睡状態に陥ったとしても あるいは
無意識状態の中でも あるいは
病気の発作の中でも マインドは蓄積している

蓄積するためには 意識は要らない
マインドは絶えず蓄積している 母親の胎内にいたときも
マインドは蓄積していた

母親の胎内にいたときの記憶は
催眠術によって再生可能となる

自分の出生について貴方は何も覚えていないが
マインドは蓄積している 起こったこと全てを
マインドは蓄積している

そしてその再生は可能だ
その記憶は催眠術によって再び
意識の上にもってくることができる 莫大な記憶が
蓄積されている この
蓄積がマインドだ
記憶こそがマインドだ

この「私」つまりエゴは どのように生じるのか

あなたの内側に意識があり
意識のまわりの表層上に こうした記憶が全て蓄積されている

それは役に立つ
それ無しでは生きていけない
それは必要物だ

しかしそのとき
意識と記憶の間に
新たな副次的現象が起こる

意識は内側に在る
貴方は内側に在る――
「私」無しに在る

内側に「私」は無い

あなたは 在る――
中心無しに在る

表層部には 知識や体験や記憶が絶えず蓄積される
それがマインドだ

そしてあなたが世界を 見るときには常に
マインドを通じて 見る 新しいことを体験するときにも常に
記憶を通して 見る……

記憶を通してそれを解釈する すべては
過去を通じて見られる
過去が仲介となる

いつも過去を通じて見ていると
あなたは過去と 同化 する――
その 同化 がエゴだ

換言すれば
意識が記憶と同化すること それが
エゴだ

人々は
「私はヒンドゥ教徒だ」とか
「私はキリスト教徒だ」とか
「私はジャイナ教徒だ」と言う

それはどういうことか

生まれつきのキリスト教徒やヒンドゥ教徒やジャイナ教徒は居ない

あなたは ただ 人間として 生まれる

それから 教えられ 条件付けされ そうして自分は
キリスト教徒だとか
ヒンドゥ教徒だとか
ジャイナ教徒だと 考える

それは記憶だ 「お前はキリスト教徒だ」と教えられる
それは記憶だ 

そしてこの記憶を通じてものを見ると常に
「私はキリスト教徒だ」と思うようになる

あなたの意識はキリスト教徒ではない

それは不可能だ

意識はひたすら意識だ

単に「お前はキリスト教徒だ」と教えられた だけだ
この教育が表層部に蓄積される

かくしてあなたは
眼鏡を通してものを見
世界全体は色付けされる

その眼鏡が余りにしっかり くっ付いているため
眼鏡から離れることが決して無い――決して
眼鏡を外すことが無い 余りに
眼鏡に慣れ親しんでいるため 目の上に
眼鏡があることを忘れている
そして
「私はキリスト教徒だ」と言う

何かの記憶や知識や体験や名前や形態に
同化 するとき 常にこの
「私」が生まれる

するとあなたは
若かったり年寄りだったり
金持ちだったり貧乏だったり
美しかったり美しくなかったり
教養があったり無かったり
尊敬されていたりいなかったり
するのが自分だと 思い込む

かくしてあなたは終始
まわりに蓄積された物事と同化し
エゴが生まれる

エゴとはマインドとの同化だ

だからこそ あなたが
静寂で在るとき エゴは無い なぜなら
静寂で在るとき マインドは機能していないからだ それこそが
沈黙の意味だ

マインドが機能しているという事は あなたが
静かではないということだ
静かで在るわけがない

マインドの機能というのは
内側の雑音であり おしゃべりだ……
絶えざる内的おしゃべりだ

おしゃべりが止まったとき あるいは
おしゃべりが無いとき あるいは
おしゃべりを超越したとき あるいは あなたが
内側へ向かったとき
そこに沈黙が在る

その静寂の中にエゴは無い

しかし静かになるということは たまにしか起こらないし
しかも ほんのしばらくの間だけだ 
だからこそあなたは
沈黙の起こる状況を素晴らしいと感じるのだ
そしてそんな状況を求めるようになる

そこで山へ行き 朝
太陽が昇るのを見つめる すると突然
歓喜が湧き起こる 至福を感じ
美が自分の内側に降るのを感じる

それは一体どういうことか

静かな朝 静かな日の出 そして樹々の緑 山……そうしたものによって
内側のおしゃべりが停止するのだ

その現象が偉大であるから――
まわり全体がかくも美しく 平安で 静寂であるから
しばらくの間マインドは
停止する その
停止の中で あなたは
無 エ ゴ 状 態 を認識する むろん少しの間だけだ

これは色々な状況で起こる
セックスの中でも起こるし 音楽の中でも起こる

自分を圧倒するような偉大なものの中では
いつものおしゃべりも しばらくの間 追いやられ押しやられる
――そして 無 エ ゴ が再び現れる

偶然であれ あるいは何かの実践を通してであれ
エゴが無いときには かつて感じられなかったような
微妙な至福が感じられる

その至福は 外側に由来するものではない
山や日の出や 美しい花や セックスに由来するものではない

それは外側に由来するものではない
外側は単に機会をもたらすだけだ
――それは内側に由来するものだ

だから外的な状況を何度も何度も繰り返したら
それは現れなくなる 免疫になってしまう……慣れっこになる

同じ山 同じ朝……再びそこへ出かけても何も感じられない
何かが欠けているような感じがする

最初のとき それは全く新しいものだった
だからマインドは停止した

その驚きは実に大きく その奇跡は実に新しいものだった
だから いつもの
おしゃべりは続けていられなかった
おしゃべりは停止した――ちょうど畏怖の中では
おしゃべりが停止するように

でも二回目になると もはや全てがお馴染みだ
もう畏怖はない 神秘はない……
マインドはいつものままだ

これはどんな体験の場合も同じだ

ある体験の中で喜びを感じたとしても それを繰り返したら
その喜びは破壊される

どんな体験でもだ

なぜなら繰り返していたら
マインドを押しやれなくなるからだ

だから記憶すべき第二の点

マインドは蓄積だ
あなたの
意識は 蓄積された過去の背後に隠されており あなたは
その過去と同化している

「私はこれだ 私はあれだ」と言うとき あなたは
つねにエゴを作り出している

第三点 もし このことが理解できたら 
第三の点は難しくない 第三点

マインドは使うものだ
同化する必要は無い
道具として使えばいい
実際それは道具だ
それに同化する必要は無い

要は 常にその上方にとどまることだ
そして実際
あなたはいつも その上方に在る
あなたはいつも 今ここ に在る――ところがマインドは
常に過去だ あなたは
常にマインドに先んじている

マインドはその後をのろのろと歩いてくる
マインドは影だ

今のこの瞬間こそが 新 た な る も の であり
それはマインドのものではない

一瞬の後それは記憶の中に吸収され
それはマインドのものとなる

瞬間ごとに あなたは自由だ

だからこそ 仏陀は瞬間を重視したのだ 彼は言った
「瞬間にとどまれ、そうすればマインドは無くなる」

しかし瞬間は原子のように小さい
とても微妙だ 簡単に見逃してしまう

マインドは常に過去だ――あなたの知る物すべてだ

しかし今ここを通り過ぎていく現実は
マインドの一部ではない それが
マインドの一部となるのは 一瞬の後だ

もし
今ここ に在る 現実に目覚めていられたら それは
マインドを超越しているということだ そして
マインドを超越していられたら……もし常に
マインドの上方にとどまり 決して
マインドに執われることなく
マインドを使ったら……決して
マインドに巻き込まれることなく 道具として
マインドを使い 決して
マインドに同化することが無かったら
そのときエゴは消え失せる

無エゴになる
無エゴになったら 他にすることは何もない

他の全てはあなたに起こる あなたは
無防備になっている
開放的になっている

そのとき <存在>全体は あなたに起こる
そのとき あらゆるエクスタシーは あなたのものだ
そのとき 苦は不可能だ

苦は エゴ を通ってやってくる
至福は無エゴの門を通ってやってくる


それでは技法に入ろう
これらの技法は無エゴに関連している
ごく簡単な技法でも この背景を理解して実行できたら
それによって色々なことが可能となる


79

火を注視する

最初の技法

火が体をずっと昇っていくのを注視する――
爪先から上に昇り、体を焼き尽くして灰にするまで……
あなたを除いて。

とても単純な技法だ
とても素晴らしく 実行するのも大変やさしい
でもその前に いくつかの前提条件がある

仏陀はこの技法をたいへん好んだ
彼は弟子たちにこの技法を伝授した
仏陀に入門を許可されると まず最初に
「火葬場に行って死体の燃えるところを観察しなさい」と言われた
三ヶ月間何もせずに ただそこに座って観る……

そこで探求者は村の火葬場に行き三ヶ月間そこにとどまる
昼も夜も

そして死体が運ばれて来ると座って瞑想する
ひたすらそれを見つめる

火が起こされ死体が燃えはじめる
三ヶ月間何もせず ただ死体が燃えるのを観ている

仏陀は言った
「それについて考えず、ひたすら見つめなさい」
そして探求者は自然にこう思うようになる
「やがて自分の体も焼かれるのだ」

三ヶ月は長い
夜も昼も休みなく
体が焼かれるときには探求者は常に瞑想する

するとやがて彼は 薪の山の上に
自分の体を観るようになる
自分自身が焼かれているのを観るようになる

それは役に立つ
もしこの技法をやりたかったら火葬場へ行くことだ
そして見つめてみる

三ヶ月とは言わないが少なくとも
死体が一つ燃えるのを見つめる
観察する

そうすれば自分でたやすくこの技法ができるようになる
考えずに ただ その現象を見つめる
ただ 起こっていることを見つめる

人々は身内の遺体を燃やしに出かけるが
決して見つめることがない

その代わりに別の事を語り始める
あるいは死について語り論議する
そして色々な事をする――色々な事を語り噂話をしながら
決してそれを見つめない

それは瞑想すべきものだ

話はしないほうがいい

それは稀な機会だ……自分の愛する人間が焼かれている
その様子を目にすれば あなたは必ず感じるだろう
――自分もそこで焼かれていると……

たとえば自分の母親が焼かれているのを見る あるいは
父親なり妻なり夫なりが焼かれているのを見る

するとあなたは必ず
その炎の中に自分自身を観るだろう

その体験はこの技法の助けとなる
それが第一点

第二点
死を極度に恐れている人間にはこの技法はできない
その恐怖が壁となってしまう
それで技法の中に入れない――あるいは
ただ表面上で想像するだけで
技法は奥まで達しない
すると何も起こらない

だから第二点
恐れていようといまいと
死は唯一確実なものだ
恐れているかどうかは関係ない

生においては
死より他に確実なものは何も無い あらゆるものが不確実だ
死だけが確実だ 偶発的でないのは
死だけだ

人間のマインドをごらん 
私たちはいつも死について それがまるで
偶発的であるかのように語る でも唯一
偶発的でないもの それが死だ 他の全ては
偶発的だ

死は絶対的に確実だ
あなたは必ず死ぬ

私が「あなたは必ず死ぬ」と言うと それは一見
未来のずっと先のことのように聞こえる
それは違う

あなたはすでに死んでいる 生まれた瞬間
あなたは死んだ

誕生とともに
死は既定の現象となる
死の一部分はすでに起こっている――誕生だ

だから今度は第二の部分 後半の部分が起こる
だからあなたは死んでいる……半分死んでいる

生まれるということは
死の領域に入るということだ
それはもうどうにもならない
それを変えるすべはない

あなたはもう その中に入っている
誕生とともに 半分死んでいる

第二点
死は最後に起こるものではない
それはすでに起こっている
それは一つの過程(プロセス)だ

ちょうど生が過程であるように死もまた過程だ

私たちは別々に考えるが
生と死とは両足のようなものだ
生と死 は共に一つの過程だ

人は瞬間ごとに死んでいる

つまりこういうことだ
息を吸うこと それは生であり
息を吐くこと それは死だ

子供にとっての最初の行為は
息を吸うことだ 吐き出すことではない

まず最初は吸うことだ
胸の中には未だ空気が入っていないので吐き出すわけにはいかない
まず吸う必要がある 最初の行為は吸うことだ

そして老人が死ぬとき その最後の行為が
息を吐くことだ

死ぬとき息を吸うことはできない――できるだろうか 今まさに
死のうとするとき 息は吸えない
最後の行為が吸うことだということは決してない

最初の行為が吸うことであり最後は吐くことだ
吸うことが誕生であり出息は死だ しかしいつでもあなたは
その両方をやっている――
吸っては吐き吸っては吐き……
吸うことは生で吐くことは死だ

もし観察したことがなければ
よく観察してごらん

あなたは
常に息を吐くときの方が安らかな状態にある
深く息を吐けば 内側に何か安らぎが感じられる

息を吸うとき人は強壮になり 緊張する
吸うことによって強壮になると緊張する

ふつう私たちはいつも吸うことに力点を置く
例えば私が「深呼吸しなさい」と言うと あなたはいつも
吸うことから始める

実際 私たちは吐くことを恐れている
だからこそ呼吸が浅くなるのだ
あなたは決して息を吐かない
ただ吸うだけだ 吐くことは体がする
なぜなら体は吸うことだけでは保たれないからだ
体は両方を必要とする――生と死

一つ実験してごらん
一日中 思い出すごとに息を深く吐く そして
吸うことはしない 吸うことは体に任せる
自分はただ深く息を吐く

そうすれば深い安らぎが感じられるだろう
なぜなら死は安らぎであり静寂だからだ

もし吐くことにもっと大きな注意を払うことができたら
きっと無エゴが感じられるだろう

息を吸うときにはエゴが大きくなるように感じられ
息を吐くときにはエゴが無くなるように感じられる

だから吐くことにもっと注意を払うのだ
一日じゅう思い出したときに
深く息を吐きそして
吸うことはしない
吸うことは体に任せ 自分では何もしない

吐くことに力点を置くことは
この実践にたいへん役に立つ なぜなら
それによって死を受け容れる準備ができるからだ

受け容れる姿勢が必要だ――さもないと
この技法は大して役に立たない
受け容れの姿勢が可能になるのは
何らかの仕方で死を味わったときだけだ
深く息を吐けば死が味わえる
それは素晴らしい

死とは素晴らしいものだ
死に類するものは他に無い――
静寂と くつろぎと平安に満ち満ち 掻き乱すものは何もない
しかし私たちは
死を恐れる なぜ
死を恐れるのか なぜ
死に対してこれほどの恐怖が存在するのか 私たちが
死を恐れるのは
死のせいではない それは
死を知らないからだ

でも未だ一度も出会ったことのないものをどうして
恐れるのか
恐れるにしても まずは知る必要がある

だから実際のところ私たちは死を
恐れてなどいない その
恐怖はどこか他のところにある

あなたは未だかつて決して真に生きていない
――そのことが
死の恐怖をもたらす
その恐怖は あなたが生きていないからこそだ だからあなたは
恐れる――
「自分は未だ生きていない。それなのに死が起こったらどうしよう。
満たされてもいないし、生きてもいないのに、死ぬなんて……」

死の恐怖を感じるのは 真に
生きていない人間だけだ
生きている人間は
死を歓迎する

そこに恐怖は無い
彼はすでに生を知っている
そこで今度は死も知りたい

ところが私たちは
生それ自体をひどく恐れているせいで まだ
生を知らない……まだ
生の中深くに入ったことがない

それが死の恐怖を生み出す

この技法に入りたいなら 肝心なのは
この深い恐怖に気つ゛くことだ そして
この深い恐怖を捨て一掃する

そうして初めてこの技法に入れる

吐くことにもっと
注意を払うのは役に立つ 実際もし
注意の全てを吐くことに払い
吸うことを忘れることができたら……

べつに恐れなくていい――
「死ぬのではないか」などと……
死にはしない 体が自分で息を吸う

体には体の智慧がある あなたが深く息を吐けば
体は自分で深く息を吸う 干渉する必要は無い

そうすると大変深いくつろぎが意識全体に広がる
一日中くつろぎが感じられ内的な静寂が現れる

この感覚は 別の実験によってさらに深められる
一日十五分間 深く息を吐いてごらん

椅子なり地面の上に座って 深く息を吐く
吐いている間は 目を閉じる

空気が外に出るとき 自分は中に入る
それから体に息を吸わせる
空気が中に入るとき 目を開け自分は外に出る

ちょうど逆をやってみる
空気が外に出るとき 自分は中に入り
空気が中に入るとき 自分は外に出る

息を吐くとき 内側に空間が生み出される
なぜなら 息は生だからだ

深く息を吐くと あなたは空っぽになる
生は外に出てしまい ある意味で
あなたは死んでいる― 一瞬の間
あなたは死んでいる

その死の静寂の中で
内側に入ってみる 空気は外に向かっている そこで目を閉じ
内側へと向かう 空間がそこにあるから
内側へ向かうのはやさしい

でも息を吸っているときには
内側へ向かうのはたいへん難しい 入るべき空間がない

息を吐いているときなら
内側へ向かうこともできる

そして空気が中に入るとき
あなたは外に出る――目を開けて外に向かう

この二つの間にリズムを創り出す
すると十五分もすれば たいへん深いくつろぎが感じられるだろう
そしてこの技法に入る準備が整う

この技法に入る前 準備段階として
これを十五分やってみる

それは単に準備するためでなく
喜んで受け容れるため 受容的になるためだ
もう
死の恐怖は無くなる
死はくつろぎのように感じられる……
死は深い休息のように感じられる もう
死は生に対立せず
まさに生の源泉として
まさに生のエネルギーとして感じられる

生は湖の表面のさざ波のようなものであり
死は湖そのものだ

さざ波がなくても
湖はそこにある
湖はさざ波なしに存在できるが さざ波は
湖なしには存在できない

生は
死なしに存在できない
死は生なしに存在できる なぜなら
死こそがその源泉だからだ

そうすればこの技法が実行できるようになる

火が体をずっと昇っていくのを注視する――爪先から上に昇り

体を横たえる まず最初に
自分自身を死んだものとして想像する
体を死体とみなす

横になり 注意を爪先に持っていく
目を閉じ 内側に向かう

注意を爪先に持っていき
火がそこから上方へと昇っていくように――
すべてが燃えていくように感じる

火が上昇するにつれ 体は消え去っていく
爪先から始め 上方へと向かう

なぜ爪先から始めるのか
その方がやさしいからだ

爪先のある場所は「私」や
エゴから ずっと離れている
エゴは頭の中にある
だから頭からは始められない――それはとても難しい
だから ずっと離れたところから始める つま先は
エゴからもっとも離れている

だから火をそこから始める
こう感じてみる――
「爪先が燃えてしまった もう灰しか残っていない」
そしてゆっくりと進む
火は出会うもの全てを焼きつくす
あらゆる部位が――脚が腿が消え失せる

そうしたものが みな灰になっていくのを観続ける
火は上方に昇っていく そして
火の通過した場所はもう存在しない
みな灰になった

引き続き昇り 最後に頭が消え失せる
全てがみな……灰は灰に還った

体を焼き尽くして灰にするまで……あなたを除いて。

あなたは あくまで「丘の上の見張りだ」だ
体はそこにある――死んで 焼けて 灰となって
そして自分は見張りだ
観照者だ この
観照者にはエゴが無い

この技法は 無エゴの状態に達するのにたいへん好適だ なぜか
それは実に色々なことがその中に含まれているからだ

一見単純でも実はそれほど単純ではない
内側の仕組みはまったく複雑だ

まず第一に
記憶は体の一部であり
記憶は物質だ だからこそ
記憶できるのだ
記憶は脳細胞に記録される

それは物質的な物であり 体の一部だ
脳細胞に手術を施し
一定の脳細胞を除去したら
一定の記憶が消失してしまう
つまり
記憶は脳細胞の中に記録されている
記憶は物質だ それは破壊可能だ 科学者によれば
記憶を再び移植することも可能だという

そのうち私たちは何か方法を見つけるだろう
たとえばアルバート・アインシュタインのような人間が死んだら
その脳細胞が保存できるようになる そして
その脳細胞を子供に移植すれば その子供はアルバート・アインシュタイン
の記憶を実際の体験なしに保持できる

それは体の一部だ……
記憶は体の一部だ

だから体が全て燃え尽き灰となったら
あなたには何の記憶も無くなる

そこで ここを理解するように
もし記憶が未だ存在していたら 体は未だそこにある
つまり あなたは ごまかしている

もしこの感覚の中に深く入ったら つまり
「体は死に 燃え尽き 火によって完全に破壊された」と
本当に感じたら そのときには何の記憶も無い

見つめているそのとき そこにマインドは無い
一切は停止している――思考は全く動かず ただ
そこに起こっていることを見つめ ながめている

いったん このことがわかれば
ずっとこの状態にとどまれるようになる

いったん 体から自分を分離できる
とわかれば……というのもこの技法は
自分を 体から分離させるための技法
自分と体の間に隙間を生み出す為の技法
少しのあいだ体外に存在するための技法だからだ

もしこれができたら
体の中にとどまりながら
体の中に居ないということも可能になる

今までどおりに生き続けながら もはや
今までと同じではなくなる

この技法には少なくとも三ヶ月かかる
だから続けてやることだ
これは一日では起こらない

でも毎日一時間ずつ続ければ 三ヶ月もたつと
ある日突然 想像力の助けにより
隙間が生み出される

そして実際 あなたの目に 体は灰と化す
それが見えるようになる

それを見ることによって あなたは
ある深い現象を認識する――つまり
エゴとは偽りの実体だということだ

それが存在したのは あなたが
体や思考やマインドと同化していたからだ あなたは
そのどれでもない――マインドでも体でもない あなたは
周囲のすべてと別ものだ
自分の表層部とは別ものだ

一見すると単純なようでも この技法は
深い突然変異をもたらしてくれる

でもまず火葬場へ行って瞑想することから始める そうすれば
いかに体が燃えるか
いかに体が再び灰に戻るか
がわかるようになる……容易に想像できるようになる

そうしてから爪先から始め ごくゆっくりと進む

また この技法をやってみる前に
もっと吐くことに注意を払うようにする
技法に入る直前 十五分間
息を吐き目を閉じ そして体に
息を吸わせ目を開ける

十五分間 深いくつろぎを感じ それから技法に入る


80

世界全体が燃えていると想像する

第二の技法

80 見せかけの世界が燃えて灰になることを瞑想する、
そして、人間以上のものとなれ。

先程の第一の技法ができたら
この第二の技法は実にやさしい

自分の体が燃えていると想像できるようになったら
世界全体が燃えていると想像するのも難しくない
なぜなら
体こそが 世界であり 人は
体を通じて世界に関係するからだ 実際 人が世界に関係するのは
体があるからこそだ 世界とは
体の延長だ

だから
体が燃えている と考え 想像できたら
世界全体について 同様に想像することも難しくは無い

そしてスートラによれば これは見せかけの
世界だ つまり あなたの思い込みで
世界は存在する その
世界全体が燃え 消え去っていく――

もし
第一の技法が難し過ぎるようなら この
第二の技法から始めてもいい
第一の技法ができたら
第二の技法は実にやさしい ただ すでに
第一の技法を実行した人は 別に
第二の技法を行なう必要はない

体とともに 全ては自動的に消え去る
第一の技法が難し過ぎるようなら
第二から直接始めてもいい

私は先ほどこう言った「爪先は頭からたいへん遠く
離れているのだから まずそこから始めなさい」
しかし人によっては 爪先からでも上手くいかないかも知れない

そういう場合には更に遠ざかって
世界から始めてみる そして徐々に
自分のほうへと向かう かくして
世界全体に火がつけば その燃えさかる
世界の中で
自分が燃えることも容易になる

第二の技法

見せかけの世界が燃えて灰になることを瞑想する、
そして、人間以上のものとなれ。

世界全体の燃焼が見えるというのは 人間の上をいくことだ
それは超人だ――超人の意識を知るということだ

世界の燃焼を
想像するのは可能でも それには
想像力が必要だ 私たちの
想像力は余り訓練されていない
想像力に対しては教育制度が無い
だから全く
未訓練だ 頭脳は
訓練される――学校や大学があり人生の大半は頭脳の
訓練に費やされる しかし
想像力は訓練されない
想像力には それ自身じつに驚くべき一面がある もし
想像力が訓練できたら それを通じて驚くべきことができる

小さいことから始めてみる
大きなものにいきなり飛びつくのは難しいし 失敗しかねない

例えば世界全体が燃えているという
想像は余り深いところまでいかない 第一に それは
想像だと自分で承知している また
想像の中で 炎がそこら中にある様子を考えたとしても
世界が燃えているとは感じられない
世界は依然そこにある なぜなら それはただの
想像だからだ――
想像がいかに現実になるのかを あなたは知らない
まず それを感じることが必要だ

この技法に入る前に 簡単な実験をしてごらん

まず両手を握り 目を閉じる そして
想像してみる――手がどうしても開かない
死んだように固まって 何をしようと開けられない……

最初の内はきっと
「自分はただ想像しているだけで、開けようと思えば開けられる」
と感じるだろう

でも十分間とにかく考え続ける――「自分には開けられない
自分にはどうしようもない 手はどうしても開かない」と
そして十分後にそれを開いてみる

十人のうち四人は すぐに成功する
四割の人間は すぐに成功する
十分たつと手が開けられなくなる
想像が現実のものとなる

どんなに頑張ろうと……
頑張れば頑張るほど難しくなる
そして汗をかき始める
自分の手を目の前にしながら開けることができない
まったく固まってしまった

でも心配しなくてもいい
再び目を閉じ 再び想像するのだ「手は開けられる」
そうすれば開けられるようになる

四割の人はすぐに成功する これら
四割の人は たやすくこの技法に入っていける
何の問題も無い

残り六割の人間にとっては少々難しい
時間が必要だ

たいへん敏感な人は 何でも
想像でき それが実際に起こる そしていったん
「想像は現実になる」と感じたら その感覚は自分のものとなり
さらに先に進むことができる そうなれば
想像力を通して色々なことができる

あなたはすでに自分でも気つ゛かずに それを行なっている
すでにそれを行なっているが 自分では知らないでいる

たとえば病気が街に入ってきた――フランス風邪が入ってきた
そしてあなたはそれに罹る

あなたにはとても考えられないだろうが
百例のうち七割はまさに
想像力によるものだ

つまり「インフルエンザがはやっているから自分も又それに罹るだろう」と
想像し そして実際に罹ってしまう 多くの病気は
想像力によって起こり また 多くの問題は
想像力によって生み出される

しかし それを生み出したのは
自 分 だ とわかりさえすれば その問題はまた解決できる

想像力を少々訓練すれば この技法は実に有効なものとなる


81

すべてが自分の存在の中に集まる

第三の技法

主観において、文字が言葉へ、そして言葉が文へと流れ込み、
また、客観において、円環が世界へ、世界が原理へと流れ込むとき、
最後にそれが私たちの存在において一点に集中することを見る。

これもまた想像による技法だ

エゴはいつも
恐れている――無防備になること 開放的になることを
恐れている「何かが入ってきて自分を破壊するのではないか」と
恐れている

だからエゴは自分のまわりに城砦を造る
かくしてあなたは壁をめぐらした牢獄に暮らす
なにものも自分の中にいれない

あなたは恐れる――もし何かが入ってきて
自分を掻き乱すようなことがあったらどうしよう……
だから何ものも中にいれないほうがいい

かくして交流(コミュニケーション)は全て停止する
自分の愛している相手 
或いは愛していると考えている相手との間にさえ
交流は存在しない

夫婦が話している様子をごらん
二人は話を交わしていない
そこにコミュニケーションは無い

むしろ二人は言葉を通じて 互いに避けあっている
コミュニケーションを避けようとして 話をしている

沈黙すると無防御になる
沈黙すると互いに接近してしまう――なぜなら
沈黙の中ではエゴや壁が無くなるからだ だから夫婦は決して
沈黙しない

あれこれ語り合うことによって時間をつぶし
互いに自分を開かないようにする

私たちは それほど他人を恐れている

こんな話がある
ある日ムラ・ナスルディンが家から出ようとしていると 妻が言った
「あなた 今日が何の日か忘れたの」ナスルディンは承知していた――
その日は二十五回目の結婚記念日だった そこで彼は言った
「知ってるさ 知ってるとも」そこで妻はたたみかけた
「だったら どうやってお祝いするつもり?」
ナスルディンは言った「そうだな どうしたもんかねえ」
彼は頭をかき しきりに考え そして言った
「どうだろう お祝いに二分間の沈黙を捧げるってのは……」

他人と一緒に居るとき あなたは
沈黙したままでいられない 段々落ち着かなくなってくる
沈黙していると 相手があなたの中に入ってくる――
あなたは開いている その扉は開いている その窓は開いている
そこで恐ろしくなる 

それで絶えず語り 色々工夫して
閉じたままでいようとする

エゴとは閉鎖だ
牢獄だ 人はなぜその
牢獄を受け容れるのか それは自らの大きな不安感のせいだ その
牢獄によって私たちはある種の安心感を得る――
「自分は保護されている 守られている」

この技法 第三の技法を行なうにあたって
第一の そして最も根本的なことは
「生は安全確実なものではない」ということだ

安全確実にする方法は無い 何をしようと どうにもならない 虚構の
安全を作り出すのが関の山で 生は依然
不確実なままだ
それは
生の本性だ
生は死を包含している だとしたら
生が安全確実であるはずがない

少し考えてみればわかる

もし生が真に安全確実だったら
それはすでに死んだものだ

絶対的・全面的に安全確実な
生は 決して生きたものではない

なぜなら その
冒険そのものが失われるからだ

あらゆる危険から守られているということは
死んでいるということだ

生それ自身の中には
冒険や 危険や 不確実がある
死が内包されている

たとえば私があなたを愛する
そのとき私はすでに危険な道の中にいる
もはや何も確実ではない

でも私は全てを確実なものにしようとする

明日の為に 生きているもの全てを
殺そうとする なぜなら
殺して初めて 明日についても安全確実でいられるからだ

かくして
愛は結婚へと変身する 結婚は安全確実だ
愛は不確実だ――次の瞬間にも一変してしまう

自分は今までずいぶん投資してきた それなのに
次の瞬間 恋人に去られてしまう
あるいは 友人に去られてしまう

そして自分は空っぽのままに取り残される……

愛は不確実だ

その未来は固定化できない
その先は見通せない

そこで愛は殺され
安全確実な代用品が出現する
それが結婚だ

結婚なら安心できる 予測可能だ
妻は 明日もまた自分の妻だ
夫は 将来もまた自分の夫だ

もう安全なものになった
もはや危険は無い
すでに
死んでしまった その関係はもう
死んでいる 永続的でありうるのは
死んだものだけだ

生きているものは必ず移り変わる
変化こそが生の性格だ
変化というのは
不確実なものだ

生の領域に もっと深く分け入ろうとするなら
不確実さを受け容れ 危険を恐れず 未知なるものに向かう
覚悟をすることだ

そしてどんな意味でも
未来を固定化しようとしてはいけない
未来を固定化しようという まさにその努力が全てを
殺してしまう

また次のことも大事だ――
不確実は生き生きとしているばかりでなく美しい

安全確実は鈍重で醜悪だ

不確実は生き生きとして美しい

安全確実にするには 扉や窓や全てを閉じるほかない
すると光も空気も入らないし誰も入らない
そんな人間は ある意味で安全でも
もはや生きていない

この技法が可能なのは
無防備で 開放的で 恐れていないときだ
なぜならこの技法によって
全宇宙があなたの中に入るからだ

主観において、文字が言葉へ、そして言葉が文へと流れ込み、
また、客観において、円環が世界へ、世界が原理へと流れ込むとき、
最後にそれが私たちの存在において一点に集中することを見る。

全ては私の存在に集中する……私は大空の下に立っており
全存在は あらゆるところから あらゆる隅々から
私に集中する

エゴは存在できない

この開放性の中で
全存在はあなたに集中する そのときあなたは
「私」として存在できない あなたは
開いた空間として存在する

決して結晶化した「私」としては存在しない

この技法を行なうときには まず小さな一歩から始めてみる

たとえば樹の下に座る
そよ風が吹き 木の葉がさらさらと音を立てている
風はあなたに触れ あなたのまわりをめぐり 過ぎ去っていく

でも単に過ぎ去るだけではいけない
風が
自分の内側をめぐり
自分を吹き抜けていくようにするのだ

まず目を閉じる そして ちょうど
風が樹を吹き抜け 木の葉がさらさらと音をたてるように 自分もまた
樹のように解放的になり 風が吹き抜けていく……
そんなふうに感じてみる――
自分のまわりではなく
自分の中を通り抜けていくように

木の葉のざわめきが あなたの中に入る
そしてあなたは感じる――
「自分の気孔の全てから空気が吹き抜けていく」
空気は本当にあなたを吹き抜けていく
それは単なる想像ではない 事実だ

忘れているだけだ
人は鼻を通じて呼吸するだけではない
体全体で呼吸している――
体じゅうにある無数の気孔で呼吸している
もし
体じゅうの気孔がふさがれ塗りつぶされたら
たとえ鼻で呼吸していても
三時間で死んでしまう

鼻で呼吸するだけでは生きていられない
体の
どの細胞もみな生きた有機体であり
どの細胞もみな呼吸している

空気は実際あなたを通り抜けている
しかし あなたは接触を失っている

だから樹の下に座り 感じてみることだ

はじめのうちは想像のように思えるだろうが
ほどなくそれは現実のものとなる

空気が自分を通り抜けていく――それは現実だ

そうしたら
昇る朝日のもとに座る そして
太陽の光線が自分に
触れるだけでなく自分の
中に入り自分を
通り抜けていくのを感じる

するとあなたは無防備になり 開放的になっていく

これは何を対象にしてもいい

たとえば私がここで話をしており あなたはそれを
聞いている あなたは耳だけで
聞くこともできれば からだ全体で
聴くこともできる

今ここで試してみるといい
重点を変えてごらん

耳だけで私の話を
聞くのではなく からだ全体で
聴く もし本当に
聴いていたら 本当に
耳を傾けていたら そのとき
聴いているのは からだ全体だ

一部分ではなく
断片的エネルギーではなく
あなたの全体が
聴いている からだ全体が
聴くということに あずかっている――

そのとき私の言葉は
あなたを通り抜ける
あらゆる細胞から
あらゆる気孔から あなたは
言葉を飲む
言葉はあらゆるところから
吸収される

こうしてごらん
寺院に行って座る

多くの参拝者が来ては去り
寺の鐘は何度も何度も鳴らされる

それをからだ全体で聴いてみる

鐘が鳴らされ寺全体に響きわたる
――すべての壁が反響している

寺が丸い形に作られているのは
反響によって音が自分へと集中するようにだ
だから音は到る所からやって来て
あなたに集中する

そしてそれは
からだ全体で聴かれる――
あらゆる気孔が
あらゆる細胞が それを
聴き 飲み 吸収する

そして音は あなたを通り抜ける

そして あなたは 多 孔 的 になる……
いたるところに扉が開いている

もはや あなたは防壁ではない――
 何に対してもだ
空気に対しても
言葉に対しても
 音に対しても
光線に対しても
 何に対しても 防壁ではない

もはや何にも抵抗していない

「もう自分は抵抗していない 葛藤はなくなった」
と感じるようになると突然あなたは
エゴの消失に気つ゛く
エゴがあるのは葛藤があるからだ
エゴは抵抗だ あなたが「いいえ(ノー)」と言うと
エゴは現われる 「はい(イエス)」と言うと
エゴはなくなる

だから私に言わせれば アスティック「真の有神論者」とは<存在>全体に
「イエス」を言う人間のことだ――彼の中には
何の「ノー」も何の抵抗もない 彼は全てを受け容れる……
何でも起こるがままだ たとえ死が訪れようとも 彼はその
扉を閉ざさない
扉は開いたままだ

この開放性が必要だ そうして初めて
この技法も実行できるようになる
この技法はこう言っている――
「<存在>全体があなたの上に落ちかかり 集中する
抵抗せず 集中するに任せ それを歓迎しなさい」

あなたは ただ 消え失せる
あなたは 空間になる
……無限の空間になる
そもそも
この無限の空間は 決してエゴの上には集中しない 狭すぎる

宇宙が集中するのは あなたが宇宙のように
無限になったときだけ……あなた自身が
無限の空間になったときだけだ

このことは起こる
ゆっくりでいいから もっと敏感になってごらん
そして自分の抵抗に気つ゛くことだ

私たちの抵抗はたいへん大きい
私があなたに触れれば きっとあなたは その接触に対して
抵抗するだろう あなたは防壁を作っている
それで私のぬくもりは
あなたの中に入らない……私の接触は
あなたの中に入らない

私たちは互いに触れることを避ける
もし誰かがあなたに触れたら あなたは警戒し
相手はあなたに「すみません」と言う
いたるところに抵抗がある

もし私があなたを見れば あなたは抵抗する
なぜならその眼差しは あなたの中核深く
まで入っていき きっとあなたを掻き回すからだ

そうしたら貴方はどうするか

これは見知らぬ人ばかりではない
べつに見知らぬ人を待つまでもない なぜなら皆
誰もが見知らぬ人だからだ

一つ屋根の下に住んでいるからといって
見知らぬ人でなくなることがあるだろうか

自分の生みの親である父親のことを あなたは知っているか 彼は
見知らぬ人だ 或いは母親のことを あなたは知っているか彼女は依然
見知らぬ人だ だから 誰もが
見知らぬ人で あるか あるいは
見知らぬ人など 誰もいないかのどちらかだ

しかし私たちは恐れを抱き いたるところに
防壁をめぐらす この
防壁は私たちを鈍感にする そして何も
私たちの中に入れなくなる

私のところにやってきて こんな風に言う人々がいる
「誰も愛してくれません 誰も私のことを愛してくれません」

そこで私がその人に触ると
彼は触られることも怖がる――それが私には感じられる 何となく
縮こまってしまう 私が彼の手を取ると 彼は
縮こまってしまう 彼はその手の中に居ない

私の手の中にあるのは死んだ物体だ――彼は
縮こまっている

そして彼は「誰も自分を愛してくれない」と言う

どうして人があなたを愛せるだろう
例え全世界があなたを愛したところで それを感じることはあるまい

なぜなら 自分が 閉じているからだ

愛はあなたの中に入れない――入り口も扉もない

そしてあなたは自分自身の牢獄の中で苦しんでいる

もしエゴがそこにあったら あなたは閉じている――
愛に対して
瞑想に対して
神に対して……

だからまず
もっと敏感に
もっと無防備に
もっと開放的になり
ものごとが自分に起こるのをゆるすことだ

そうして初めて<神>は起こる
なぜならそれは最後の出来事だからだ

普通のものごとが起こるのもゆるさない人間が どうして
<究極>をゆるすだろうか
<究極>が起こるとき あなたは もはや
居なくなる あなたは ただ
居なくなる

カビール(中世インドの神秘家)は言っている「かつて
貴方を探していたとき
貴方は居なかった そして今
貴方は居る でも探求者のカビールは
どこに居る
彼はもう居ない 一体これは何という出会いか」

カビールは怪しむ
「これは何という出会いか かつて私が居たとき
<神>は居なかった いま
<神>は居る でも
私は居ない 一体これは何という出会いか」

でもこれこそが唯一の
出会いだ なぜなら「二つのもの」は
出会えないからだ

普通わたしたちの考えでは
出会いには二つのものが必要だ 一つしかなかったらどうして
出会えるだろう だから普通の論理では
出会いには最低二つのものが必要だ――相手が必要だ
でも真の
出会い……私たちが愛と呼ぶ
出会い 私たちが祈りと呼ぶ
出会い 私たちがサマーディとかエクスタシーと呼ぶ
出会い そうした
出会い で必要なもの それは「ひとつ」だ

探求者がそこに居るとき
探求されるものは無くなる そして
探求されるものが現れたら
探求者は消え失せる

どうしてそうなるのか それは
エゴが障壁だからだ

「自分は在る」と感じるとき そのせいで何も
あなたの中に入れない
あなたは自らの自己でいっぱいだ あなたが居なくなれば
あらゆるものが通り抜け可能となる あなたはどこまでも広大になるから
<神>でさえも通り抜けられる
<存在>全体が通り抜けようとしている

あなたにはもうその用意ができている

だから宗教なるものの全ては いかに
居なくなるか いかに
溶け去るか いかに
明け渡すか いかに
開いた空間となるか ということだ




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