光と闇の瞑想  ヴィギャン・バイラヴ・タントラ

翻訳  スワミ・アドヴァイト・パルヴァ(田中ぱるば) 市民出版社


本書の原本は、インドの覚者OSHO(和尚・1931〜1990)によって語られた 『ヴィギャン・バイラヴ・タントラ』である。これは1年以上にわたって 断続的に展開された10シリーズ全80回の講話集で、本書はそのうちの 岱7集8講話を収めている。

第6章 覚醒の炎



最初の質問

無防御で受容的で開放的(オープン)な瞑想者は、その性格上、周囲の非瞑想的で、否定的で緊張度の高い波動によって、苦しみを味わいます。そうした有害な波動から無防御な魂を守るには、一体どうしたらいいでしょうか

もし真に無防御であるならば あなたにとって
否定的なものは何も無い
否定性はあなたの解釈だ あなたにとって
有害なものは何も無い
有害性はあなたの解釈だ

もし真に開放的であるならば 何ものにも
害されることはない――何ものも
有害だとは思えない 何かが
有害だと思えるのは あなたが
抵抗しているからであり あなたが
敵対しているからであり それを
受け容れていないからこそだ

このことを深く理解するように

敵だと思うのは あなたが自分を守っているからだ
敵だと思うのは あなたが開放的でないからだ

もし開放的だったら
<存在>はすべて友好的だ

そうでないということは あり得ない

実際それを友好的だと感じることさえない――
それはただ友好的であるばかりだ
それを「友好的だ」と思う感覚すらない

そういう感覚があるのは「敵対性」という
反対の感覚があるからだ

つまりこういうことだ

無防御というのは
不確実性の中で生きる
覚悟があることだ

深い意味では
「死ぬ覚悟さえある」
ということだ

抵抗したり 敵対したり 妨害したりすることがない

もし死が来ても それに対して抵抗することもない

ただ死の起こるのをゆるす

<存在>を全面的に受け容れる

だとしたら どうしてそれが
死だと感じられるだろう

否定するということは それを
敵とみなすことだ もし
否定しなかったら どうしてそれを
敵とみなせるだろう
敵ができるのは 自分の
否定のせいだ

死はあなたを
害しはしない
害されるというのは 自分の解釈だ もはや誰もあなたを
害さない――もうそれは不可能になっている

これこそ道家(タオイスト)の教えの秘密だ

老子の教えの根本はこうだ――
受け容れれば<存在>全ては味方になる
それは必然だ

否定すれば 敵ができる
否定すればするほど
防御すればするほど
守れば守るほど ますます多くの敵ができる

敵は自分の創造物だ
敵というのは 外側に存在するのではなく
自らの解釈の中につくるものだ

いったんこれが理解できたら こうした質問は決して生じない――
「私は無防御で開放的だがどうして周囲の否定的な波動から自分を守ったらいいか」
――そのように言ったりはしない

もはや
否定的なもの は何も無い いったい
否定的なもの とは何を意味するのか
否定的なもの とは 自分が
拒否したい と思うもの 自分が
受け容れたくない と思うもの 自分が
有害だ と思うものだ

それはつまり 自分が
開放的でない ということ
瞑想状態にない ということだ

この質問は 全く観念的な質問だ 体験し 感じた質問ではない
あなたは未だ瞑想を知らない
あなたはただ考えているだけだ
そしてその考えは 単なる推測だ

あなたはこう推測する「もし私が瞑想し、開放的になったら、きっと不安定になるだろう。そして否定的な波動が私の中に入り、害を働くだろう。そうしたら、どうやって自分を守ったらいいだろうか」これは
推測による質問だ
推測による質問を 私に持ち出してはいけない
そういう質問は 不毛であり 見当違いだ

瞑想し 開放的になる

そうすれば決して このような質問を持ち出すことはあるまい
なぜなら その開放性そのものによって
否定性は消滅するからだ そうすれば
否定的なものは無くなる また何かを
否定的だと考えたら 開放的になれなくなる
否定性に対する恐怖それ自体が 閉鎖性を生み出す

あなたは閉じてしまう……開くことができない
「何々に害されるかも知れない」という
恐怖があったら どうして
無防御になれるだろう

だからこそ私は強調するのだ――
死の恐怖が消失しないかぎり
無防御にはなれないし
開放的にはなれない

そしていつまでも自分自身の
マインドの中で 自分自身の
牢獄の中で 閉じたままだ

ものごとの
推測なら いくらでもできるが
推測とは すべて誤りだ
マインドは
瞑想について何も知ることができない
瞑想の領域を見通すのは不可能だ

マインドが完全に停止するとき
瞑想は起こる だから推測は不可能だ……
瞑想については考えられない
瞑想については
知っているか 知らないか のどちらかで
考えることはできない

要は 開放的になることだ そうすればその
自分の開放性によって <存在>の中の
否定的なもの全てが消え去る 死でさえも
否定的でなくなる
否定的なものは何も無い 自分の恐怖こそが
否定性を生み出す

奥深くで あなたは
恐れている――
恐れているせいで 色々な安全策を作り出す
その安全策が
敵を作り出す 自分が
敵を作り出す というこの事実を良く見極めることだ

<存在>は あなたに敵対的ではない
どうして そんなことがあり得るだろう

あなたは <存在>に属している……まさに
あなたは <存在>の一部分 有機的な一部分だ

どうして <存在>があなたに敵対し得るだろう

あなたは <存在>だ

あなたは分離していない
あなたと<存在>との間に 隙間は無い

否定性や 死や 敵や 憎しみを感知するとき
もしあなたが開放的で無防御だったら きっと
「自分は<存在>によって破壊されてしまう」と思う
そこで自己防御の必要を考える

防衛だけではない――なぜなら最大の
防御は攻撃だからだ 単なる
防御に終始するだけではない 自己
防御の必要を考えるとき あなたは
攻撃的になる なぜなら
攻撃すること
攻勢に出ること それは自分自身を
守る一番の方法だからだ

恐怖が
敵を作り出し
敵は
防御を作り出し そして
防御は
攻撃を作り出す

こうしてあなたは
暴力的になる――つねに
防御の体勢をとる 誰に対しても
敵対している

この点を理解するように

恐怖を抱いているとき あなたは誰に対しても
敵対的だ 程度の差こそあれ 敵も友も みな等しく
敵だ 友のほうが
敵対性が少ないというだけだ 自分の夫や妻もまた
敵だ

どうにか関係をとりもち上手く調整しているというだけの話だ

あるいはたぶん二人に共通の
大敵がいて その共通の
大敵に対抗して 二人は一緒になり徒党を組むということもあるだろう――しかし
敵対性はそのままだ

もしあなたが閉じていたら
全存在はあなたにとって敵対的だ

現実にそうだというのではなく あなたにとってそう
映るということだ

あなたが開いていたら
全存在はあなたの友になる

しかし閉じていたら
友でさえも敵だ それ以外にはあり得ない 奥底では
友さえも恐れている

どこかでヘンリー・ソローが書いている――彼は神に祈った
「私は自分の敵を抑えますから、どうか私の友人を抑えて下さい。
私は敵と戦います、どうか私を友人から守って下さい」

表面上では友人同士でも 奥底では
敵対している あなたの友情は往々にして
敵対性を隠す ための上塗りでしかない

閉じていたら そこから生じるものは敵ばかりだ

開いていて初めて 友はできる
誰かに対して全面的に開いていれば そこに友人関係が起こる

それ以外の仕方では決して起こらない
自分が閉じていたら どうして
愛することができるだろう

あなたはあなたの
牢獄に住み 私は私の
牢獄に住み その二人が出会うとき接触するのは
牢獄の壁ばかりで二人はその背後に隠れている

私たちはそれぞれの
カプセルの中で動きまわる――
カプセル同士は接触し
からだ同士は接触するが奥底では私たちは孤立したままだ

愛を交わしているときでさえ 体は互いの中に入っても あなたは
中に入らない 出会うのは体だけで あなたは依然
カプセルの中独房の中だ

そこに触れ合いは無い――あると思うのは
自己欺瞞でしかない

最も深い人間関係であるセックスにおいてさえ
触れ合いは無い 閉じている人間に
触れ合いは決して起こらない

愛は不可能になっている

その理由は
あなたが恐れているからだ

こうした質問は無用だ
偽りの質問を持ち出してはいけない

もうすでに開放性を知っていたら 決して
何かが自分にとって有害だとは考えない

もはや有害なものは何も無い だからこそ
「死でさえ祝福だ」と私は言うのだ

その姿勢自体が違ってくる そうすればあなたは
開いたハートですべてを観る

この姿勢が あらゆるものの質を変える
もはや
何かが有害だと思うこともなければ
どうやって防衛するか尋ねることもない

その必要がない
その必要が生じるのは 自分が閉じているからだ

でも人は とかく頭で推測する
人々は私のところにやって来て尋ねる――
「もし」自分が神を認識したら それからどうなるか? 彼らは
「もし」で質問を始める
「もし」なるものは存在しない

<存在>の中では
そんな質問は発せられない
そんな質問は不条理で愚かだ

質問者は自分が何を尋ねているか知らない

もし自分が神を認識したら それからどうなるか……

この「それからどうなるか」は決して生じない

神の認識によって あなたはもはや居なくなり
神だけが在る また
神の認識によって 未来は無くなり
現在だけが在る また
神の認識によって 思い悩みは無くなる

あなたはすでに<存在>とひとつになっている

だから「それからどうなる」
という質問は決して生じない
こういう質問が生じるのは マインドが絶えず
思い悩み葛藤し未来のことを考え続けているからだ


第二の質問

私の場合、覚醒が成長し注意が増していっても、「私は存在する、私はここに居る、私は覚醒している」という感覚が依然そのままです。どうしたらこの感覚が溶け去り、ただ覚醒しているだけの無エゴ状態になれるでしょうか。

これもまた 推測による質問だ

私の覚醒が成長し注意が増していっても、「私は存在する、私はここに居る、私は覚醒している」という感覚が依然そのままです。

このようなことは決して起こらない なぜなら 覚醒が成長するに従って「私」は減少するからだ 完璧に覚醒したら あなたは 在るが 「私は在る」という感覚は無い 言葉上では このようにしか表現できない―― 微妙な 在 る こ と を感じるが そこに「私」は無い あなたは存在を感じる 豊富に感じる それは満ち足りた瞬間だ――でもそこに「私」は無い 「私が存在する」とは感じない 「私がここに居る」とは感じない 「私は覚醒している」とは感じない その「私」は 覚醒の欠如 注意の欠如に由来するものであり 睡眠状態に由来するものだ それは存在しない 推測による質問は こうして生じる それについては いつまで考えたところで何も解決されない 「私は在る、私は覚醒している」と思うのは ほかでもなく 覚醒が無いから 気つ゛きが無いからだ 「私は覚醒している、私は意識的だ、私は存在する」という感覚は 思考であり考えているだけだ 決して認識したわけではない 「私は覚醒している」と考えたり 「私は覚醒している」と繰り返したところで 何にもなりはしない 覚醒は繰り返しではない また真に 覚醒しているときには「私は覚醒している」と繰り返す必要は無い そのときには ただ覚醒しているだけだ―― もはや「私」は存在しない 覚醒を試してごらん 今ここで 覚醒してみる いったい「私」はどこに在るか あなたは 在る――むしろ、あなたはより強烈に 在る でも一体「私」は エゴはどこにあるか 意識のこの強烈さの中に もはやエゴは無い 後になって その 覚醒が失われ 思考が再開したら「私はある」と感じられるだろう しかし 覚醒しているとき 「私」は無い さあ 今ここで それを体験してごらん あなたは静かにここに  在 る 自分自身の 存在が感じられる――でもどこに「私」があるだろう この「私」は決して生じない この「私」が現れるのは 後で回顧的に考えたときだけだ 覚醒を失うと たちまちこの「私」が現れる 純粋な覚醒が体験できたら たとえそれが 一瞬であっても そのとき あなたは 在るが 「私」は無い そして 覚醒を失ったら……その 瞬間が消え去り思考が始まったら「私」はたちまち戻って来る それは 思考作用の一部分だ 「私」という観念自体が 一つの 思考だ――それは 思考に由来している 「私はある」というのは 一つの 思考だ 覚醒を保ち 思考が無いときに どうして「私はある」と感じられるだろうか  在 る こ と は存在するが それは思考ではない それは 存在的にそこに在り それはひとつの 事実だ  でもこの 事実は すぐにも思考に変わってしまう―― たとえば「私」の存在していなかったこの空白 について考えるとか――それを考えたとたん その「私」は戻って来る 思考とともにエゴが現れる 思考とはエゴだ 思考が無ければエゴも無い だから質問をしようと思うときには まずそれを <存在>的なものにすることだ 私に質問を提出する前に 自分の尋ねようとしていることが 適切かどうかを検討してみる このような質問は 一見言葉の上では適切に思えるが 実際のところは たとえば私が「すでに灯りはついている」と語りながら 「灯りはついているが 闇はそのままだ この闇をどうしたらいいか」 と質問するようなものだ 何のことはない 未だ灯りがついていないということだ そうでなければ どうして闇が依然としてそこにあるだろう 闇があるなら 光は無い 光があるなら 闇は無い 両者は共存できない 覚醒とエゴは共存できない 覚醒が到来したら 覚醒が現れたら エゴは消え失せる それは 同時だ――1秒の隙もない 光が現れると 闇は消え失せる 決して 順を追って段階的に消え失せるわけではない 決して  闇がだんだん外に出て行くわけではない 決して誰も 「ほら闇が段々外に出て行く」などと言いはしない 光が現れると 闇はたちまち無くなる 一瞬の隙も無い もし 隙があったら 闇が去っていくのが見えるだろう またもし 一瞬の隙があるとしたら  その隙が一時間であってもいいわけだ そこに隙は無い その出来事は同時的だ 実際のところ 光の出現と闇の消失とは 同一の現象の二側面だ 同じことが 覚醒についても起こる 覚醒しているとき エゴは無い  でも エゴは終始策略をめぐらそうとする エゴは「私は覚醒している」と言ってあなたをだます そしてこういう質問が生ずる エゴはあらゆるものを蓄積しようとする――覚醒さえもだ エゴは単に富や力や権威を 欲しがるだけではない 瞑想も 欲しがる サマーディも 欲しがる 悟りも 欲しがる エゴはあらゆるものを 欲しがる およそ可能なものは何でも 所有したい エゴはあらゆるものを 所有したがる――瞑想やサマーディ(三昧)やニルヴァーナ(にゃはん)でさえも そうすればエゴは「いま私は瞑想を達成した」と言うことができる そして この質問が生ずる 瞑想は達成された 覚醒は到来した でも エゴはそのままだ 苦悩はそのままだ 過去の重荷の 一切はそのままだ 何も変わらない エゴは たいへん巧妙にほらを吹く 注意が必要だ いつ騙されるか分からない エゴは口先たくみに 物事を言葉に変える 何でも言葉にしてしまう――ニルヴァーナでさえも こんな話がある あるとき 二匹の蝶がニューヨークの大峡谷を舞っていた ちょうどエンパイアステートビルの近くにさしかかったとき 雄の蝶が雌の蝶に言った 「いいかい、もしその気になれば、この僕の一撃でエンパイアステートビルも粉々さ」 ちょうどそこに賢者が一人居合わせて この言葉を耳にした 賢者は雄の蝶を呼び寄せて尋ねた「いま何と言った、お前だってよく承知している だろう。エンパイアステートビルが、お前の一撃で粉々になるわけがない。それはお前 だってよく承知のはずだ――今さら言うまでもない。なのに、なぜそんなことを言う」 雄の蝶は言った 「ごめんなさい。どうかお許し下さい。一寸彼女の前でいい格好をしたかったんです」 賢者は言った「そんなことはおよし」そう言って 彼は蝶を追い払った 雄の蝶は彼女のところへ戻った 当然彼女は尋ねた「あの賢い人は何て言ったの?」 そこで雄のほら吹きは言ったものだ「それがね『そんなことはおよし』って僕に頼む んだよ もう恐がっちゃって 震えて びくびくでさ 僕がエンパイアステートビル を粉々にするというもんだから『そんなことはおよし』だってさ!」 同じことが絶えず起こっている 賢者は決して そんな意味で言ったわけではなかった 本当の意味は「そんなことを言うのはおよし」ということだった でも エゴはそれを逆手にとった エゴは何でも逆手にとる――どこまでも 狡猾だ その 狡猾さにも年季が入っている 何千年にもわたる年季だ どこからその 狡猾さが侵入してくるのか 全く見当もつかないほどだ 人々は私のところにやってきて言う 「もう瞑想は起こりました。でも、私の苦悩はどうしたらいいでしょう」 これこそ エゴのめぐらす策略の手口だ でも彼らは 自分が何を言っているのかさえ気つ゛いていない 「もう瞑想は起こりました。クンダリーニ(精神的エネルギー)は上昇しました。 さて、一体どうしたらいいでしょう。苦悩はみなそのままです」 マインドは何かを 信じたがる そこであなたは 何もせずにひたすら 信じ だまし続ける―― 夢想的な願望成就だ でも現実はそんな 夢想的願望成就によって変わりはしない 苦悩は続く 自分をだますことならできるが 悩みをだますわけにはいかない いくら「瞑想は起こり、クンダリーニは上昇し、もう私は第五身体に入った」 と宣言したところで 悩みが 素直に引き下がるわけではない そうした 悩みは あなたの言うことに耳を貸しもしない けれども本当に瞑想が起こったら そうした 悩みは一体どうなるだろう 瞑想的なマインドの中に どうして 悩みが存在できるだろう だから覚えておきなさい 覚醒しているとき あなたは 在る しかし あなたはエゴではない――あなたに 限界は無くなる あなたは 無限の拡がりとなり 中心は無い 「私」という一点集中的な感覚は無い 無焦点の存在だ……始まりも終わりも無い まさに無限の大空だ そしてこの 「私」が消え失せるとき自動的に 「あなた」も消え失せる なぜなら 「あなた」は「私」との相関関係があって初めて存在するものだからだ 「私」がここにいる だからこそ 「あなた」がそこにいる もしこの 「私」が私から消え失せたら 「あなた」はもはや存在しない 存在できない どうして 「あなた」が存在できるだろう 別に あなたが肉体的に存在しなくなるわけではない あなたは そこに在るがままに存在する でも私にとって あなたは あなたではあり得ない あなたが 意味を持つのは 私の「私」にとってだ 私の「私」が あなたを 生み出す 一方が消え去ったら もう一方も消え去る そこに在るのは単純な存在だ あらゆる障壁はもう消え去っている エゴが消え去ることによって 全存在がひとつになる エゴこそが分割者だ エゴが存在するのは あなたに 注意が欠けているからだ 覚醒の炎がそれを破壊する これをもっと実践してごらん 突如として目覚める 通りを歩いているとき 急に停止し 深く息を吸い 少しの間 気つ"く その気つ"きというのは 起こっていること全てに ただ 目覚めている ということだ――車の騒音 歩いている人々 話をしている人々 およそ周囲の全てに ただ 目覚めている その瞬間 あなたは居ない ただ<存在>と その美だけが在る そのとき 車の騒音は 騒音として聞こえない 邪魔には感じられない なぜなら それに抵抗し 闘う 者が居ないからだ それは貴方のもとへ ただ やって来ては去る それは聞こえ やがて聞こえなくなる それは現れては去る それを妨げる障壁は無い それによって あなたが傷つくことはない なぜなら 傷は全てエゴの中に作られるからだ その騒音は通過する 妨げる障壁は無い もはやどんな闘いも無く 邪魔だという感覚も無い そもそも通りの騒音は 邪魔物ではない それが 邪魔物となるのは 通りの騒音があなたと葛藤を起こすからだ つまり 「騒音は邪魔だ」という固定観念があなたにあるからだ それを受け容れれば それは現れては去る そしてあなたは ただそれに浸り そして 溌剌としてそこから現れる 全く疲れることは無い 唯一あなたを疲れさせ 絶えずエネルギーを消耗させるのは この抵抗だ この抵抗こそ 私たちが エゴと呼ぶものだ でも私たちは 決してそのように考えない エゴこそが 私たちの生になっている――生の焦点になっている だが実際のところ エゴなるものは 存在しない よくあることだが 私が誰かに向かって 「そのエゴを溶かしなさい」と言うと とたんに相手は私を見つめ いかにも物問いたげな様子を見せる…… 「もしエゴを溶かしたら、人生はどうなるだろう。私は居なくなってしまう」 あるとき 一国の大指導者であるたいへん有名な政治家が こう質問されたそうだ 「さぞやお疲れでしょう、一日中どこへ行っても、サインを求める群集に取り囲まれて」この政治家この指導者は言った「いかにもその通り。殆ど殺されそうだ。でも 必ずしもそうばかりとは限らない」彼はきっと類まれな正直人間だったに違いない 彼は言った「殆ど殺されそうだ――殆どね。でも、もしサインを求める者が誰も 居なかったら、本当に死んでしまうだろう。この押し寄せる群衆には殺されかねないが 、それよりもっと危険なものがある。きっと本当に死んでしまうだろう ――もし誰にもサインを求められなかったら」 だから いかにエゴが 疲れるものであろうと いかに難儀なものであろうと 貴方にとってはエゴこそが生だ そしてエゴが無くなると 生がマインドから消え失せたようになる あなたには想像できない―― 「あなた」無しでいかに生が存在できるか 「わたし」という 手 が か り 無しで…… それはある意味で論理的だ  なぜなら 私たちは今まで決して エゴ無しで生きたことが無かったからだ 私たちは エゴを通じて 生きてきた 私たちは エゴをめぐって生きてきた 私たちの知っている生の形はただ一つ―― エゴに基つ"いた生だ それ以外の生は何も知らない  そしてエゴを通じて生きてきたせいで 私たちは真に 生きることができなかった 私たちはただ 生きようともがくだけで 生は決して私たちに起こらず 脇を素通りしてしまう 生は常に 手の届くところ 希望の中にある――明日になれば次の瞬間になれば きっと自分は生きているだろう……しかし 生は決してやって来ない 生は決して到達されない 生は常に 希望の中 夢の中にあり 私たちは進み続ける そしてそれがやって来ないものだから 私たちは速く進む それもまた論理的だ もし生が私たちに起こらなかったら マインドの考えることはただ一つだ ――この速度は充分ではない だから急げ ぐずぐずするな…… かつてこんなことがあった 高名な科学者 T・H・ハクスレーが ロンドンのどこかで講演をすることになっていた 彼は駅までやって来た 郊外線の駅だ しかし汽車は遅れていた それで彼はタクシー に飛び乗り 運転手に言った「急いでやってくれ!フルスピードだ!」 かくして 車はカーレースのような速さで突っ走った ところが 彼はハッと気がついた――まだ行き先を告げていない そればかりか 彼自身 その行き先を忘れてしまった そこで彼は運転手に尋ねた「おい君 いったい行き先を知っているのかね」 運転手は言った「いいえ ただ思いっきり速くやるだけで」 それと同じことが起こっている あなたは思いきり速く進む どこへ向かっているのか なぜ進んでいるのか 終点はどこか…… ただ「いつの日か生が自分に起こるだろう」という 望みしかない なぜ 生が 今この瞬間 に起こらないのか あなたは生きている―― なぜ 生が 今この瞬間 に起こらないのか なぜ ニルヴァーナは いつも未来に いつも明日にあるのか なぜ 今日ではないのか 明日は決してやって来ない……来るときには常に 今日 としてやって来る そしてあなたは再びそれを取り逃がしてしまう 私たちは今まで そんな生き方しかしていない 私たちが知っているのは生の一つの次元だけだ 私たちが生きている「生」このいわゆる生は まさに死んだものであり全く生気に欠けている―― どうにか持ちこたえながら ただ待つだけの 「生」だ エゴがあったら 生は常に 待機状態だ――絶望的な 待機状態だ 急いだところで どこに到達するわけでもない 急ぐことによって エネルギーは消耗し あなたは死んでしまう あなたは今まで それを何度となく繰り返してきた あなたはいつも急ぎ そして急ぐことによって エネルギーを消耗してきた でもそれによって やって来るのは 死以外の何ものでもない あなたは生のために急いでいるが やって来るのは 死以外の何ものでもない ところがマインドは 一つの次元にしか慣れていない 一つの道しか知らない――でも それは道ですらない ただ 道に見えるだけだ――それでマインドは言う 「もしエゴが無かったら どこに生が在るだろう」 でも私は言う もしエゴがあったら そこに 生の可能性は無い ただ 約束だけだ エゴは 約束の達人だ 絶えず 約束し続ける かつて 約束の成就された試しは無いのに あなたは全くそれに気つ"いていない だからまた信じてしまう 新しい 約束が持ち出されると あなたはまた信じてしまう 振り返ってごらん! エゴは色んな 約束をしてきた ところが何も達成されていない 約束はみな反古にされた でもあなたは決して振り返らない 決して思い起こすことが無い あなたが子供だった頃には 青年期への約束があった―― 「大きくなったら何でも思い通りだ」誰もがそう言った そしてあなたもまた期待していた 「大きくなったら 起こるべきことは全て起こる」 ところがもう その日々は過ぎ去ってしまった 約束は成就されないまま 忘れ去られてしまった 約束は忘れ去られた――まだ成就されていないのに あなたは忘れてしまった それを観るのは とても辛いことだ だからあなたは 決して観ない そして今 あなたは老年に期待する―― 「老年になれば、探求は花開き、瞑想が起こる……苦悩は止み、 子供たちは大学へ行き、全ては落ち着く。そうすれば、もはや自分 には何の責任も無くなる。そうすれば<神>を求めることができる。だから、 老年になれば、奇跡が起こる」 しかし 成就されること無く あなたは死んでしまう それは起こらない 希望したところで 決して それは起こらない 今すぐにでも それは起こる 今すぐにしか それは起こらない しかしそのためには 非常に強烈な覚醒が必要だ――その強烈さによって あらゆる約束や あらゆる希望や あらゆる将来的計画や あらゆる夢が捨て去られ 今ここ に在る 自分の姿を 直視できるようになる この自分自身への帰還 つまり意識が両方に向かう代わりに 自分自身に帰ること それによって あなたは 意識の円環となる 現瞬間が永遠となる あなたは 覚醒し 気つ"いている この 覚醒の中 この気つ"きの中に「私」は無い――あるのは 単純な存在だけだ そして 単純さは その 覚醒から やってくる 単純とは 腰巻一つという意味ではない 単純とは 貧困のうちに生きることではない 単純とは 乞食になることではない 貧乏になったり乞食になるのは とても複雑で 狡猾で 計算つ"くのものだ 単純さが生まれるのは「私」の無い 単純な存在に到達したときだ そこから 単純さは生まれ あなたは 謙虚になる それは練習によるものではない 練習された 単純さは 決して 単純ではない 練習された 謙虚さは 隠されたエゴに他ならない それは起こるものだ もし 覚醒していられたら それはあなたから湧き出て あなたは 謙虚になる  その謙虚さは エゴを敵視するものではない エゴを敵視する謙虚さは 実のところ別種の エゴだ より微妙で より危険で より有毒な エゴだ ここで言う謙虚は エゴの不在としての謙虚であって エゴの対立物としての謙虚ではない あくまでも エゴの不在だ エゴは消え失せた あなたは自分自身に到達し そこに エゴの無いことを知った そして単純が生じ 謙虚さが生じる――ただ湧きあがる 別にあなたは何もやっていない それは副産物だ 強烈な覚醒の副産物だ だからこの種の質問は愚かしい 覚醒しているにも関わらず 依然「私」の存在を感じるというのは あなたが 覚醒していないからだ だから 覚醒するよう努力することだ その基準はこうだ―― 覚醒しているとき 「私」は無い 覚醒しているとき 「私」はそこに見つからない これが唯一の基準だ


最後の質問

先日、客観重視の西洋文化と主観重視の東洋文化の不均衡についてお話がありましたが 、それと同時に、どんな文化においても全面的な人間存在は受け容れられないという ことです。そこでお聞きしたいのですが、主観客観をともに備えた全面的な人間存在 を、受け容れ発展させるような文化は、はたして出現するでしょうか。

この一面的な発展は
自然な誤りとして起こってきた ごく
自然な誤りだ この
自然な誤り について良く理解するように

なぜなら 色々な物事がこれに由来しているからだ

何かを語ることは その逆を否定することだ
何かが語られると 何かが同時に否定される

もし私が
「神は内側に居る」と言えば
「神は外側に居る」は否定される

しかし私の真意はそこに無い

またもし私が
「沈黙するためには 内側に向かうことだ」と言ったら それは一方で
「外側に向かったら 決して沈黙できない」ということになる

だから言葉によって語られることは 何であれ
常に何かを否定する

つまり言語は、生の全体を表せない ということだ

あるいは もし生の全体を表そう とするなら
言語は 非論理的 非合理的になる

もし私が「すべては神だ」と言ったら それは無意味になる
もし私が「外に出ようが内に入ろうが沈黙は達成される」と言ったら
何の意味も伝わらない

なぜなら
両方を語っているからだ 対立する
両者を語っている
両者を一緒にし
両者は互いに否定し合う

そして何も語られない

これは昔から行なわれてきた
言語表現によって生の全体を表現し尽くそうという試みは
たびたび昔から行なわれてきた

でも一度も成功した試しが無い
それは不可能だ

やろうと思えばできるが その言葉は神秘的になる
何の意味も伝わらない

論理には論理の約束事がある そして言語は論理だ

例えば あなたが私に
「あなたはここに居るか」と尋ねる そこで私が
「ある意味でここに居り ある意味でここに居ない」と言ったら あるいは
「イエスとノーの両方だ」と言ったら
私を愛している人間なら私を神秘家と呼ぶだろうし
私を愛していなければ 狂人と呼ぶだろう

どうして「イエスとノー」の両方であり得るだろう
私はここに 居るか居ないかのどちらかだ

居るなら「イエス」だし
居ないなら「ノー」だ
もし私が「イエスとノーの両方だと言ったら
それは言語の論理的構造から飛び出している

言語は常に 一つの選択だ

それゆえに あらゆる文化 あらゆる社会 あらゆる文明は
一面的なものとなる

言語なしに存在できる文化は無い 実際のところ
言語こそが文化を創り出す
人間は言語をもつ唯一の動物だ 
いかなる
他の動物も 文化や社会や文明を生み出せない
人間だけが 文化や社会や文明を生み出す

そして言語とともに選択が現れる
そして選択とともに不均衡が現れる

動物に
不均衡は無い
均衡(バランス)を欠くのは人間だけだ 動物はみな 深い
均衡の中に存在している 樹々や石といった全ては
均衡がとれている
均衡を欠くのは人間だけだ

どこに問題があるのか それは人間が
言語を通じて生きるからだ
言語が選択を生み出す

もし私が誰かに対して
「貴方は美しくて醜い その両方だ」
と言ったら その言葉は何の意味も伝えない 一体ぜんたい
「美しくて醜い その両方だ」というのはどういう意味か

もし私が「あなたは美しい」と言ったら それには意味がある
もし私が「あなたは醜い」と言ったら それにも意味がある
でも「両方だ あなたは賢くて愚かだ」と言ったら それは何の意味も伝えない

しかし真実は そのとおりだ
実際
単純に醜いという人間は居ないし
単純に美しいという人間も居ない

美が存在するところには いつも
醜が存在する
醜が存在するところには いつも
美が存在する

両者はひとつの全体の一部だ

また
智が存在するところには いつも
愚が存在する

賢者にして
愚者でない人間に出会うことはないし
愚者にして
賢者でない人間に出会うこともない

これはあなたには想像しにくいかも知れない あなたの場合 いったん
「この人間は愚者だ」と言ったら その先には進まない
そこで閉じてしまう 扉を閉じてしまう
いったん
「この人間は愚者だ」と言うと もはや
彼の知恵を見ようとはしない たとえ
彼の知恵が目の前に示されようと あなたはそれを認めようとしない
そして
「この男は愚者だ。どうして賢者であるわけがある。それは不可能だ。何かの間違いだ
。何か馬鹿なことをやった拍子に、上手くいったに違いない。何かのはずみだ。
賢いわけがない」と言う

また ある人間を賢者だと決めつけると
何か馬鹿なことが彼から生じようとも 決してそれを信じないか あるいは
何かの説明をつけて合理化し 賢者としてしまう

生はその両方だ
でも
言語は分割する
言語は選択だ

それで どの文化にも それ自身の選択様式がある

東洋は昔 科学技術を発展させた――学術的研究を発展させた
西洋が現在発展させた全てを発展させた 五千年前
東洋は全てを発展させ そして その無意味を感じた ちょうど
西洋でいま感じられているように
東洋はそれを無意味だと感じた

それを無意味だと感じたとき 東洋は逆の極端へと転じた いわく
「さあ内側へ向かおう。外側にあるものは、全て幻であって、どこへも通じていない。
だから内側へ向かおう」

かくして科学は成長を停止し 技術も停止した 停止しただけではない
内側へ転じるに従い 外側にあるものを全て敵視するようになった――
「ただ内側にある生にだけ生きよ!外側のものは全て去れ!」

かくして人々は 現世に敵対し 生に対して否定的になり
物質的なもの全てを否定するようになった

そしてひたすら精神性を 純粋な精神性を追い求めた

生は両方だ 実際
生は両方だ と言うのも正しくない
生はひとつだ

私たちが
物質的と呼ぶものは
精神的なものの一表現に他ならないし また私たちが
精神的と呼ぶものも
物質的なものの一表現に他ならない

生はひとつだ

内側と外側は 対立する二物ではなく
ひとつの<存在> の二極だ

でも社会がある
選択の極端に達するやいなや――
選択とは必然的に極端なものとなるが――私たちは常に
他方を逃してしまう

そしてあなたは
逃した方を殊更に思い出す 自分の持っている方は忘れてしまっても
逃した方は殊更に思い出される

だから東洋では科学技術の進歩の頂点で
その不条理を
その無用さを感じた

静寂は 決してそれを通じて達成されない
至福は 決してそれを通じて達成されない

だから「それを捨て去れ、それを放棄せよ、そして
「内側へと、内的世界へと向かえ」……
かくしてこの内側への動きは 自動的に外側の否定となった

西洋では今 それが起こっている
西洋は技術的な高みへと到達した そして今
その無意味さが感じられている そして今
インドは貧困のどん底に落ちている

それは起こるべくして起こった
それは東洋のマインドが内側へと向かった結果だ

もし内側へ向かう運動が 外側のもの全ての犠牲のもとに行なわれたら
人は貧しくなり 束縛を受け 病気と苦しみを背負い込むことになる
それは必然の成り行きだ

今や
インドは 瞑想に関心が無い
インドは 内的世界に関心が無い
インドは ニルヴァーナに関心が無い

インドの関心は 科学技術にある
インドの学生たちの関心は 工学や医学にある
インドの天才たちは 西洋に出かけて 原子力の専門知識を学んでくる

そして西洋の天才たちは 東洋にやって来て
瞑想とは何か いかに内的宇宙に向かうか知ろうとする

西洋は成し遂げた――人類史上初めて 外的宇宙に向かう方法を知るに至った
西洋は月に到達した 月に到達した今 それが馬鹿らしく見えてきた

そして自問する「それで一体どうなる。月に到達したところで、それがどうなる。
人間の苦悩と悲惨は同じままではないか」月は助けにならない
人間を月に送ったところで その
人間は同じままだ

だから外的宇宙での活動は無益に思われる エネルギーの浪費だ
どうしたら内的宇宙へ進むことができるのか

いま西洋は東洋に向かう そして東洋は西洋に向かう

またもや選択だ

西洋が完全に東洋に向かったら 二、三世紀の間に
西洋は貧困に陥るだろう

ヒッピーを見てごらん 彼らはもうそれを実践している
もし西洋の新世代が皆ヒッピーになったら
誰が科学技術のために働くだろう
誰が産業のために働くだろう
誰が西洋の達成した文明のために働くだろう

何かを達成するためには 何世紀も何世紀もかかる
それが一世代の間に失われることもある

その世代がもし「私たちは大学へ行かない」と言い出したら一体どうなる
古い世代がいつまで物事を続けられるだろう
二十年たてば全ては消え失せる

「僕は大学に行かない!」という
新世代の姿勢によって そうなりかねない
新世代は離反しつつある……既成社会忌避者になりつつある

彼らは言う「大きな車や、大きな家や、たいそうな科学技術が何の役に立つ。
愛が無かったら、心の平和が無かったら、この豊かさが何の役に立つ。
生が無かったら、この高い生活水準が何の役に立つ。
だからそれを去ろう!」

二世紀の間に 西洋は貧困の淵へと沈むだろう 東洋ではそれが起こった

マハーバーラタ(古代インドの大戦争)の時代 東洋では
今とほとんど同じ科学技術が発展を見せていた
そしてそれが無用なものと見なされた

もしインドが科学技術のほうに転じれば 二世紀のうちに
宗教は消え失せるだろう
もう 消え失せているも同然だが……

そして「瞑想」という言葉は まさに時代遅れと映るだろう
内側について語る者がいたら 人々はその正気を疑うだろう
「内側とは一体どういう意味か、内側などというものは無い」

これは言語のせいで起こる

つまり言語は選択であり マインドは
極端へと向かう マインドが一方の
極端へと向かうとき
他方の極は失われる その
他方とともに
いろんな側面が消え失せる
そうした側面が消え失せると それに対する飢えが感じられる そこで再び そちらの
極端へと向かう するとまた別の何かが失われる

だから全面的な文化は 未だ生まれていない そしてそれが生まれるのは 人が
静寂になることを学んだときだけ
静寂が人間のマインドの核そのものになったときだけだ

言語ではなく
沈黙だ
沈黙の中で あなたは
「全体」だ しかし言語の中で あなたは常に「部分」だ

人類が
沈黙を通じて生き始めない限り……
言語を通じてでなく
マインドを通じてでなく
存在の全面性を通じて 生き始めない限り
全面的な文化は不可能だ

全面的な人類だけが
全面的な文化を構築できる

人類は部分的で
断片的だ どの人間も
断片だ――自分の成り得るものの
断片 自分の成るべきものの
断片 自分の潜在性の
断片だ こうした
断片的な人間から
断片的社会はできあがる 今迄ずっと
断片的社会ばかりが存在してきた

しかしもうじき私たちは この
無意味さに気つ"くかも知れない――極端を行き来する この
無意味さに

もしこの気つ"きが強烈になり 私たちが対極に向かう替りに
全体を見つめるようになれば……

例えば私は 物質を
敵視してもいなければ 精神を
敵視してもいない 精神に
味方してもいなければ 物質に
味方してもいない

私は両方の味方だ
私にとっては
物質と精神の間
内側と外側の間に選択は無い

両方をとる
両方を受け容れて初めて 人は
全面的になる
しかしこれを
理解するのは難しい
把握するのは難しい

それは伝統のせいだ

精神的な人間に出会ったら はたして彼が
貧乏かどうかを見てみるといい 必ずや彼は
貧乏だ 必ずや彼はあばら家に住み食うや食わずだ

なぜか
なぜ彼が貧乏で 食うや食わずである必要があるのか

それは内側の選択が外側の否定となるからだ

それが伝統の一部となっている

贅沢な暮らしをしている人間に出会ったら あなたの目には
精神的には映らない どうして
精神的であるはずがあるだろう

贅沢のどこが悪い
贅沢のどこが精神性に対立するだろう 実際 精神性は究極の
贅沢だ 実際 精神的な人間だけが
贅沢であり得る

彼はくつろぐ術を心得ている
彼はたのしむ術を心得ている また自分の行くところ全てに
至福を携えていく術を心得ている

ところが伝統が人々の脳細胞の隅々まで染み通っている だから
貧困のうちに暮らす精神的な人間を見ると
「あの人は本物に違いない」と感じる

しかし貧困のどこに精神性が関係しているだろう

その理由は何か
私たちは今までずっと極端を選んできた

長い伝統のせいで これはなかなか理解できない
あなたはそれに気つ"いてさえいない

つい先日ここに来た人の話によると
ヴィノバ(マハトマ・ガンディの高弟)の住んでいるワルダという所は一日中大変熱い
ところが ヴィノバは扇も使わなければ 扇風機も使わないし エアコンも使わない

それも道理だ――精神的な人間がどうしてエアコンなど使えるだろう扇でさえ使えない
それを見た彼は大層感心した「何という偉大な精神的な人だろう!扇さえ使わない」

そこで私は尋ねた「ではヴィノバは一体どうしているんだ」
彼は言った「一日中十時から五時まで七時間の間冷やした布を頭や腹に当てています」

つまり七時間が毎日浪費されているというわけだ!
扇や扇風機やエアコンが 一体どれほどだというのか
ところがヴィノバは 毎日七時間を浪費している

しかし もしそこに扇があったら 彼は
ヴィノバのことを精神的だとは思わなかっただろう そして
ヴィノバもまた 同じような見方をしているようだ
――つまり毎日の七時間は重要ではないと

生はごく短い
それにも関わらず ヴィノバのような天才が いたずらに七時間を浪費している
彼自身もまた「科学技術は反精神的だ」と思っている

外側と内側のうち 彼は
内側を選んだ しかし
内側を選ぶのであれば 濡れタオルを当てるのでさえ
外側だ 結局は同じことをしている
方法がひどく原始的だというだけだ
冷やすということに変わりはない
それで七時間も浪費している
何とも高価な代償だ

ところが私たちは言う「いや、それは苦行だ。精神性というものだ。この人は偉大だ」
こんな考え方が 私たちの脳細胞の隅々にまで行き渡っている

私は生を全面的に受け容れる

外側と内側は
ともにここに存在しており
ともに私に属している そして
両者には均衡が必要だ

一方を犠牲にして一方を選ぶことはない もし選んだら
あなたは犠牲になる――
一極端の犠牲だ そしてそのせいで貴方は苦しむ

均衡(バランス)を創り出すことだ

外側と内側は対立していない どちらも
同じエネルギーの二つの運動であり
同じ川の二つの岸だ……

岸が一つだけだったら川は流れない

他方を忘れることはできるだろうが
それは依然そこに在る
他方があってこそ 川は流れる

他方を完全に忘れ去ることもできるだろうが そうすると
偽善が生まれる――いつまでも他方を
隠すことになる

そんな必要は無い
そんなことをすると川は流れない

生は内側と外側の間を流れる

どちらも共に本質的なものだ

生はその一方だけでは存在できない

また その二つは真の意味では二つではない

川の両岸が二つなのは ただ外見上のことだ
川に潜ってみれば分かるが その両方はくっついている
同じ大地が二つの岸となって現れているだけだ

外側と内側もまた
同じ大地
同じ現象だ

もしこの洞察が深まれば
人間は……私が関心をもつのは
人間であって 文化でも社会でも文明でもない もし
人間が全面的になり均衡がとれたら いつの日にか
人類社会も均衡がとれるようになるだろう

そうして初めて人は 安らげるようになる
そうして初めて人は 不必要に苦しむことなく成長できるようになる

今のところは
誰かが成長するということは稀にしか起こらない

殆どの種子は無駄になる 幾百万のうち
成長し開花するのは たった一つだ
まったくの無駄だ

しかし 社会の均衡がとれていれば……
何ものも否定されず
何ものも選択されず
全てが深い調和の内に受け容れられれば
たくさんの人が成長する

実際 今とは正反対の状況となるだろう
誰かが成長しない ということは
稀にしか起こらなくなる




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