光と闇の瞑想  ヴィギャン・バイラヴ・タントラ

翻訳  スワミ・アドヴァイト・パルヴァ(田中ぱるば) 市民出版社


本書の原本は、インドの覚者OSHO(和尚・1931〜1990)によって語られた 『ヴィギャン・バイラヴ・タントラ』である。これは1年以上にわたって 断続的に展開された10シリーズ全80回の講話集で、本書はそのうちの 岱7集8講話を収めている。

第7章 あなたがいないとき

経文

82 感じてみる。
私の思考を、私性を、内側の諸器官を。我。

83 欲求以前、知ること以前に、
どうして私は「私はある」と言えるだろう。
考察する。美の中に溶け去る。

あるとき小さな町に来訪者があった その来訪者は 何人もの町民に
その町の町長のことを尋ねた「町長はどんな人間ですか」
僧は言った「良い人間ではない」
ガソリンスタンドの従業員は言った「あれはとんでもない奴だ」
床屋は言った「あんな悪党には一度だって投票したことがない」

それから来訪者は かくも悪名高き町長に会った そして尋ねた
「その仕事で一体いくら稼いでいるんですか」町長は言った
「稼ぐだって、めっそうもない。全く無給でやっているようなもんだ。
私がこの仕事を引き受けたのは、ただその 名 誉 の た め だ!」

これこそエゴをめぐる状況だ
自分のエゴについて考えているのは自分だけだ
他人は誰もそんなことに構ってはいない

「私のエゴは燦然と輝いている」などと思っているのは
自分だけだ
他人は
誰もそう思ってはいない 
誰もあなたのエゴなど気にしていない――自分自身を除いては

他人は皆その敵にまわっている

でもあなたは相変わらず
夢の中 妄想の中に生きている あなたは
自分のイメージを創り上げる そして
そのイメージを培い 保護し そして全世界は
そのイメージのために存在する と考えている

それはまさに精神錯乱だ 狂気だ

真実ではない

世界は別に
あなたのために存在しているのではない 誰も
あなたのエゴなどに構っていない 誰一人だ
あなたが居ようと居まいと 何の変わりも無い
あなたはまさに一つの波だ

波は来ては去る 大海はそれに関わっていない

ところが
あなたは 自分のことをたいへん重要だと思っている

エゴを溶かしたいと思うなら まず
この事実を認識することだ

自分のエゴイスティックな構造を去らない限り
真実を観ることはできない

エゴというものは あなたの
見るもの全て 知覚するもの全てを
ゆがめる

エゴは自らの利益のために すべてを
操作しようとする

しかし
エゴの利益となるものは何も無い
なぜなら
真実が虚偽を支えるわけがないからだ

そもそも真実は 存 在 し な い も の を
決して支えない

エゴというのは
この世で最も不可能なものであり
最大の虚偽だ

それは存在しない
それは あなたの創造物 想像的な創造物だ

真実は決してそれを支えない
真実はつねにそれを粉砕し 常に破壊する エゴが
真実に抵触するようなことがあると
真実はつねに衝撃として現れる

この衝撃は 絶えず現れてはエゴを破壊する そこで
この衝撃から自分を守るため あなたはだんだん
真実を直視しなくなる あなたはエゴを失う替りに
真実を直視しなくなる

そしてエゴのまわりに偽りの世界を作りあげ それを
真実だと考える そして自分の世界に住み
真実の世界とは接触を持たなくなる――持つことができない

怖いからだ そしてエゴの温室の中に住む そこには
恐怖がある

真実に接触したら いつエゴが破壊されるか分からない だから
真実に接触しないほうがいい……この不可能なエゴを防御し守る為に私達は絶えず
真実から逃げる

なぜ私は
エゴを「不可能」と呼ぶのか なぜ
エゴを「偽り」と言うのか

この点を良く理解するように

真実はひとつだ
真実はひとつの全体として存在する

あなたはただ一人では
存在できない どうして
存在できるだろう もし樹々が
存在しなかったら あなたは
存在できない

樹々は 人に酸素を供給している

空気がもし消え失せたら あなたは死ぬしかない
空気は人に生気と命を与えている

太陽がもし消え去ったら あなたはもうここに居なくなる
太陽の熱や光線それは あなたの生命だ

生は宇宙的な全体性として在る

あなたは一人ではない
一人では存在できない
あなたが存在するのは
ひとつの世界の内だ

決して 個別的 分離的 孤立的な存在として
存在しているのではない 宇宙的全体の中の一つの波として
存在し 相互に密接に関係している

ところが
エゴの与える感覚は個別的分離的孤立的なものだ
エゴのせいで貴方は 自分が孤島であるかのように感じる

しかし あなたは孤島ではない

だからこそ
エゴは偽りなのだ
エゴは非真実だ そして真実は決して
エゴを支えない

だから道は二つだ

もしあなたが真実と接触をもったら
もしあなたが真実に対して開いたら エゴは溶け去る

もう一つの道は
自分自身の夢の世界を創り上げ その中に住むことだ
貴方は既にその世界を創り上げている

誰もが 自分の 夢の中 に生きている

人々が私のもとにやって来る そして私は彼らを観る

彼らはぐっすりと眠り
夢を見ている 彼らの問題はその
夢から起こる

彼らはそれを解決したいと思っているが 解決できない

なぜなら その問題は 真実ではないからだ

どうして 非真実の問題が 解決できるだろう

それが存在しているなら 解決もできる

しかしそれはどこにも無い 
だから解決のしようがない

非真実の問題が どうして解決できるだろう
非真実の問題は 非真実の解答でしか解決できない その
非真実の解答は また新たな問題を生み出す――その問題もまた
非真実のものだ

そのようにして あなたは泥沼に陥る
そこに終わりは無い

真実に もし出会いたいと思うなら……
真実に 出会うことは
神に 出会うことだ
神は 別に 天空のどこかに隠れているものではない
神 というのは あなたのまわりの
真実だ 
神 は隠れていない

あ な た こそが 非真実の中に隠れているのだ

神は最も身近な存在だ

ところがあなたは 自らの
非 真 実 的 世 界 というカプセルの中に身を隠し
その世界を守り続けている
その世界の中心がエゴだ

エゴは非真実だ あなたは
孤立していない あなたは
真実と一体だ あなたは その有機的な一部分として
存在する

そこから分離することは不可能だ

もし分離したら 一瞬たりとも生きていられない

ひと息ごとに あなたは宇宙と橋渡しされる
瞬間ごとに 内に入り外に出
真実に出会い戻って来る

あなたは一つの鼓動だ 死物ではない

その鼓動は 真実との深い調和のうちに存在する

しかしその調和は忘れ去られている

その替りに生み出されたのが
エゴであり「私はある」という死んだ概念だ

その「私はある」は 常に全体に対立し
自分自身を守り闘争し葛藤を繰り広げる

それゆえ あらゆる宗教は
エゴを溶かすことを特に重視する

そこで第一点 エゴは非真実だ

だからこそ
溶かすことができる 真実は
溶かせない どうして
溶かすことができるだろう

真実のものは 破壊されることなく そのまま
存在し続ける あなたが何をしようとも それは
存在し続ける

溶解するのは
非真実のものだけだ
非真実のものは 消失する……無の中へ蒸発して消える エゴが消え去るのも
非真実だからだ

エゴは ただの思考 観念だ

実体は無い

第二点 この
エゴを二十四時間ずっと保ち続けることは無理だ
エゴは非真実のものだから 絶えず燃料や養分が必要だ 睡眠中には
エゴは無い

だからこそ朝になると 実に爽やかに感じるのだ それは あなたが
真実と深く接触していたからだ
真実によって あなたは若返り 生気を取り戻す

深い眠りの中に エゴは無い

自分の名前や自分の形態すべては溶け去っている

自分が誰だかわからない――
教育があるか否か貧乏か金持ちか罪人か聖人か わからない

深い眠りの中で あなたは
宇宙的全体の中へ退く
エゴはそこに無い

朝になると 生気に溢れ新鮮になり若々しく感じる
どこか深い源泉からエネルギーが到来し 再び生き生きとなる

しかし夜がもし 夢また夢また夢だったら
きっと朝になると 疲れを感じるだろう

なぜなら
夢の中では エゴが行き残るからだ
夢の中では エゴが行き残る

エゴがあるせいで 源泉に戻れなくなる
そこで朝になっても疲れを感じる

深い眠りの中に エゴは無い
深い愛の中にいるとき エゴは無い
くつろいでいるとき沈黙しているとき エゴは無い
我を忘れるほど全面的に何かに没入しているとき エゴは無い
音楽に聴き入り自分を忘れているとき エゴは無い

実際そこに現れる平安は
音楽に 由来するものではなく
エゴの忘却に 由来するものだ 音楽は道具的なものだ

美しい日の出や日没に見入るとき 自分自身を忘れる
そのとき突然 あなたに何かが起こる

自分はそこに居ない
自分より偉大な何かがそこに在る

偉 大 な る も の の この出現……

イエスはそれを神と呼ぶ それは象徴的な言葉だ
モハメッドはそれを神と呼ぶ それは象徴的な言葉だ

「神」とは「自分より偉大だ」ということだ

自分より偉大なものが自分に起こっている
その瞬間こそが「神」だ

それが感じられるのは 自分が居ないときだけだ

自分がそこに居たら より偉大なものは 起こらない
自分こそが その障害だ

いついかなるときでも 自分が不在であれば
神はそこに存在する 自分の不在が
神の存在だ

これが大事な点だ 自分の不在が
神の存在であり 自分の存在が
神の不在だ

だから実際 
問題なのは「いかに神に到達するか」ではない
問題なのは「いかに神を達成するか」ではない
問題なのは「いかに不在になるか」だ

神について
心配する必要はない 全く忘れてしまっていい 神という言葉すら
覚えていなくていい それはどうでもいい 肝心なのは神ではなく
あなたのエゴだ

もしそれが無ければ 神はあなたに起こる

またもし あなたが試みたら――神に到達しよう神を達成しよう解脱しようと
努力したら かえって取り逃がすことになる そういう
努力の一切は しばしばエゴに起因している

これこそ精神的探求者の問題だ

神を達成したいと思っているのは
エゴかも知れない

たとえば 現世的な成功ではもはや満足できない すでに
自分は功なり名を遂げた――すでに外の世界で何らかの地位や権勢に到達した
自分は有力者だ自分は金持ちだ博識だ声望がある しかし
エゴは満足しない
エゴは決して満たされることが無い

その理由は先と同じだ

本物の飢えなら満たされる だが
エゴの飢えは偽物だ

だから満たされることが無い 何をしようが役に立たない

飢えが偽物だから 何を食べても満たされない その
飢えが本物だったら 満たすこともできる

 自然な飢えは みな満たすことができる 別に何の問題も無い しかし
非自然な飢えは 満たされることがない

そもそも それは飢えではない

だとしたらどうして満たされるだろう

それは非真実のものだ

まるでそこに空虚があるようなものだ 絶えず
食物を投入しても 底無しの奈落に
食物を投入するようなものだ

どこにも到達することがない
エゴはみたされることがない

こんな話がある かつてアレクサンドロスがインドに向かっていたとき 誰かが彼に
こう言った「あなたは今まで良く考えたことがあったか。世界は一つしかない。その
世界を征服したところで、さて一体どうする」

伝えによると それを聞いてアレクサンドロスはたいへん悲しみ こう言ったそうだ
「そんなことは今まで考えたこともなかった。でも、そう言われると、私はとても
悲しくなる。実際、世界は一つしかなく、私はそれを征服しようとしている。もし
それを征服したら、いったい何をしたらいいのか」

世界全体でさえ あなたの
渇きを癒せない つまり その
渇きは偽りで非真実だ その
飢えは不自然だ

だから
エゴもまた神を探求する 私の感じでは 百人のうち九十九人までが
エゴによる探求をしている その場合 探求は最初から失敗する運命にある
エゴが神と出会うことは あり得ない

エゴは あらゆる努力を払って それに到達しようとする
だから用心することだ

あなたの瞑想
あなたの祈り
あなたの信仰を エゴの企て(エゴトリップ)にしてはいけない

それはエネルギーのいたずらな浪費だ だから
完璧な覚醒が必要だ

これはひとえに
覚醒の問題だ もし
覚醒していれば エゴがいかに働きいかに作用するかが分かる

別に難しいことではない
特別な訓練は要らない
目を閉じれば その探求の性格がわかる

自分に問いかけてごらん――
自分は真に神を求めているのか それとも これもまた
エゴの企てなのか

なぜなら 探求していれば尊敬されるし 人々に「彼は宗教的だ」と思われる

また あなたの奥深くに
「神を自分のものにしない限り、どうして自分が満たされるだろう」という
思いがある

はたして神は貴方のものになるのか

ウパニシャッドによれば
「私は神を達成した」と言う人間は未だ達成していない
なぜなら
「私は神を達成した」という言葉自体が
エゴの言葉だからだ ウパニシャッドによれば
「自分は知った」と主張する人間は未だ知っていない
この主張自体が 彼は知らないことを示している
「私は知った」という主張は
エゴに由来するものだ 
しかし
エゴが知ることはない
エゴこそが唯一の障害だ


82

思考せずに感じる

それでは技法に入ろう 第一番目

感じてみる。私の思考を、私性を、内側の諸器官を。我。

とても単純だが とても素晴らしい技法だ

感じてみる。私の思考を、私性を、内側の諸器官を。我。

まず大事なのは
感じることだ 考えることではない
この二つは別物だ

私たちは余りに頭嗜好だから自分では
感じているつもりでも 実のところ
感じておらず 考えている

感 じ る こ と はすっかり停止している――
あなたの内側で その働きは死んでいる

たとえ「私は愛している」と言ったところで それは
感じではなく やはり思考だ

感じることと思考との違いは何か
感じるときには 自分の中心はハート近くに
感じられる

私が「あなたを愛している」と言うとき この
愛の感覚はハートに由来するものだ
その中心はハートの近くにある

もしそれが思考だったら それは頭に由来する

だからあなたが誰かを愛したとき はたしてそれが
頭に由来するのか それとも
ハートに由来するのか
感じてみるといい

深く感じるとき あなたは常に
頭無しだ そのとき頭は無い あり得ない

ハートこそが自分の全存在となる――まるで頭は消失したかのようだ
感じるときには 存在の中心は
ハートだ

いっぽう考えているときには 存在の中心は頭だ
思考は生存競争の上で たいへん有効なものとなっている だから
私たちは それ以外のものを止めてしまった
私たちの場合 思考以外の次元は 全て止められ閉じられている
私たちはただ頭だ そして体は単に 頭を維持するためだけにある

私たちは絶えず考える
感じることについてさえ考える

だから 感じるよう努めることだ
それについては努力が必要となるだろう なぜなら
その能力その性質が未開発のままだからだ
その可能性を再開発するため 何かをする必要がある

たとえば 美しい花を見ると 貴方はすぐに「これは美しい」と言う

そうせずに その事実を味わい その事実にとどまるのだ

急いで判断を下さないで ただ待つ

そして「これは美しい」と言ったことが はたして
頭に由来するのか それとも
そう感じたのか 確かめる

はたしてそれは 単なる機械的習慣なのか なぜなら貴方は
「バラは美しいものだ、美しいとされている」と思っているからだ 人々は
「バラは美しい」と言い 貴方も今まで何度も
「バラは美しい」と言ってきた

バラを見たとたん
マインドは答えを用意する「バラは美しい」と
マインドは語り それでお終いだ
バラとの接触は無くなる

もはや充分だ 自分は既に語った……
だからもうどこかへ行ってしまっても構わない
――そこにはバラとの触れ合いが無い バラを一目見ることさえ
マインドは許さなかった マインドが中間に介在し
ハートはバラと接触できなかった

しかし それが美しいかどうかを語れるのはハートだけだ
美とは感覚であって 観念ではない

頭では「これは美しい」とは言えない どうして言えるだろう
美は数学ではない 測定するようなものではない 

また美というのは 真の意味でそのバラの中にあるものでもない

人によっては 全く美しいと思わなかったり
目もくれずに通り過ぎたり 醜いとさえ感じたりする

その美は 単純にそのバラの中に存在しているのではない
その美は そのハートとバラとの出会いの中に存在する

ハートとバラが出会うとき 美が花開く
ハートと何かが深く接触すること――それは大いなる現象だ

あなたが誰かと深く接触するとき その人間は美しくなる
その接触が深ければ深いほど より大きな美が現れる

しかし美とは 頭ではなく ハートに起こる現象だ
それは計算ではなく またそれを判断する基準も無い
それは感覚だ

だから もし私が「このバラは美しくない」と言っても それについて
論議できない 論議の必要は無い せいぜい言えることは
「それは貴方の感じ方だ。私の感じ方からすれば、このバラは美しい」と言うだけだ
議論の余地は無い 頭は論議できるが ハートは論議できない

ハートは完結している それは終止符だ
もし私が「これは私の感じだ」と言ったら そこに議論の余地は無い

頭についてなら 論議は続けられ 何らかの結論に行き着く
しかし
ハートの場合は すでに結論に至っている
ハートについては 結論に向かうプロセスは存在しない
結論は 一挙に 瞬間的に起こる

頭の場合 結論は一連のプロセスだ――
論議し 検討し 分析し かくかくしかじかの結論に到達する

ハートの場合は それは一挙に起こる 結論が最初にやって来る
そこが違うところだ
頭の場合 結論は最後だ
ハートの場合 結論が最初であり それに次いで そのプロセスを
探ることが可能になる しかし探るのは頭の作業だ

感じることを あなたは知らない これこそ
こういう技法を実践しようとするときの 第一の困難だ

だからまず感覚を発達させる
何かに触るとき 目を閉じて 考えずに感じる

例えば もし私が貴方の手を取り 貴方に対し
「目を閉じ 何が起こっているのかを感じなさい」と言ったら 貴方はすぐさま
「あなたの手が私の手の中にあります」と言うだろう
でもそれは感覚ではない それは思考だ

そこで私は再び「感じなさい 考えてはいけない」と言う すると貴方は
「あなた自身の愛を表現しています」と言う それもまた思考だ

なおも私が「ただ感じてごらん 頭を使ってはいけない
今 この瞬間 あなたは何を感じているのか」と追及して初めて
あなたは感じることができるようになり そして言う
「温かさです」

「愛」というのは結論だ
「あなたの手が、私の手の中にあります」というのは 頭による思考だ

実際の感覚は 私の手からあなたの手へ流れる温かさ
あるいは あなたの手から私の手へ流れる温かさだ

二人の生エネルギーが出会い その出会う箇所が熱くなり
温かくなる それが感覚だ 感触だ 真実だ

しかし私たちは いつも頭のところに居る それが癖になっている
私たちは そのように訓練されている

だからハートを再び開くことが大事だ

感覚とともに生きるよう努める

何も仕事がないようなとき……なぜなら
仕事をしながら感覚とともに生きることは 最初のうち難しいからだ
仕事の場面では 頭が非常に役立つものになっている
感覚には頼れない

しかし 家に居て子供と遊んでいるとき
頭は要らない それは仕事ではない しかしそこでもまた あなたは
頭を使っている

子供と遊んでいるとき あるいは
妻と過ごしているとき あるいは
何もせずに椅子に座っているとき
感じてみる――その椅子の感触を
感じてみる

あなたの手が椅子に触れている あなたはそれをどのように
感じるか 風がやって来る それがあなたに触れる あなたはどう
感じるか 台所から何かが匂ってくる あなたはどう
感じるか ただ
感じてみる

それについて考えてはいけない さもないと それについての
夢が始まってしまう

だから 何であれ
事実を感じる
事実とともにとどまり 思考には向かわない

あなたは全方向から囲まれている どこへ行っても全てが
あなたに集中する 存在全体が あらゆるところから
あなたに出会いにやって来る――あらゆる感覚を通じて
あなたの中に入って来る

でも あなたは頭の中に居る あなたの感覚は死んでおり 何も感じない

これができるようになるには
ある一定の成長が必要だ なぜなら
これは内的実験だからだ

外側のものが感じられなかったら
内側のものを感じるのは非常に難しい
内側のものは微妙だ

粗大なものが感じられなかったら
微妙なものは感じられない

もし音が聞こえなかったら 内側の
無音を聴くのは難しい 非常に難しい それはたいへん微妙だ

たとえば 庭に腰をおろす 通りには車が行き来し 色々な音が聞こえてくる
そこで目を閉じ 自分の周りの
最も微妙な音を探し出す

一羽のカラスが鳴いている―
―そのカラスの声に集中する 車の音は相変わらずだ
その声はたいへん微妙だ

意識の焦点をそれに向けない限り それに気つ"くことはない もし
意識の焦点をそこに向ければ 車の騒音は全て彼方に遠ざかり
カラスの声が中心となる

あなたはそれを聴く……その陰影(ニュアンス)を聴く

それはたいへん微妙だ しかしあなたには
それが聴ける

もっと鋭敏になることだ
触れるとき
聴くとき
食べるとき
風呂に入るとき
自分の感覚を開く 考えずに
感じる

たとえば シャワーを浴びていたら 自分の上に落ちかかる水の冷たさを
感じる それについて考えない すぐに口に出したりしない
「これは冷たい。冷たくて気持ちいい」などと口に出さない
言語化しない 言語化したとたん
感覚は見失われる

言葉が現れたとたん マインドは働き始める だから
言語化しないで 冷たさを感じる
「これは冷たい」などと言わない 何も言う必要は無い

でも私達のマインドはまさに気違いだ
――絶えずあれこれしゃべり続けている

私がある大学に勤めていたときのことだ
そこには女性の教授が居て 絶えずあれこれしゃべり続けていた
どんな状況下にあっても 決して沈黙することが無かった

ある日 私は大学のベランダに立っていた
それで 私は言った「ごらんなさい!」彼女はあれこれしゃべっていた
そこで 私は言った「ごらんなさい!あの美しい日没を」

そこで彼女は しぶしぶとそれに従った そして言った
「でも思うんだけど、もうちょっと紫があっていいんじゃない。あの左の方に」

これは絵ではない――本物の日没だ!

私達は絶えずしゃべり続けながら
自分が何をしゃべっているのか気つ"きもしない

だから言語化をやめることだ そうして初めて 自らの
感覚が深められる
感覚が深められたら
この技法は奇跡をもたらすだろう

感じてみる。私の思考を

目を閉じ
思考を感じる
思考の連続的な流れがそこにある
思考の連続体が
思考の川が 流れている

そういった思考を
感じる その存在を
感じる それを
感じれば感じるほど さらに多くが現れてくる

何層も何層も 表層にある
思考ばかりではない その背後にもまた
思考があり その背後にもまた
思考がある 何層も何層も

この技法は言う 感じてみる 私の思考を

私たちはいつも「これこれは私の思考だ」と言う

でも良く感じてみてごらん

本当にあなたの思考なのか はたして
「私の物」と言えるだろうか

感じれば感じるほど
「私の物だ」と言えなくなってくる

それらはみな借り物だ みな外から来た物だ
それらは到来物であり
あなたの物ではない どんな思考も
あなたの物ではない――集めてきた塵芥だ たとえその出所が不明だったとしても
あなたの物ではない よくよく追及すれば その出所はつきとめられる

内側の静寂だけが
あなたのものだ――他人から貰った物ではない
あなたは それと共に生まれ それと共に死ぬ

思考は貰った物だ あなたはそれを課せられる
ヒンドゥ教徒にはヒンドゥ教徒特有の一連の思考があり
イスラム教徒にはイスラム教徒特有の思考があり
共産主義者には共産主義者特有の思考がある

それは貰い物だ たとえ自主的に選んだ物であっても
思考とは「自分の物」ではない

だから
思考の存在を感じ
思考の群集を感じたら
それが自分の物ではないことも分かる――
「その群集は自分のところへやって来た……
自分は群集に取り巻かれている、でもそれは
自分の物ではない」

「どんな思考も自分の物ではない」と感じて初めて
マインドを捨てられるようになる

もし思考が自分の物だったら あなたはそれを護る
「この思考は自分の物だ」という
感覚こそが執着だ そうして思考に根を与えてしまう
すると思考は私を土壌とし 私の中に根を張る

しかし「これは私の物ではない」と感じたら 根は無くなる
つまり私はそれに執着していない 「私の物」という
感覚が 執着を生み出す

人は
自分の思考のために闘いもする
自分の思考の殉教者にさえなる あるいは
自分の思考のために殺人者にもなる

しかし思考は あなたの物ではない

意識はあなたのものだが 思考はあなたの物ではない

このことが何の役に立つのだろうか

思考が自分の物ではない とわかったら
何物も自分の物ではなくなる
なぜなら
思考こそがあらゆる物の根源だからだ

家は私の物で
財産も私の物で
家族も私の物だ――これらは外側の物だ 奥深くでは
思考こそが私の物だ
思考が私の物であって初めて こうした全てが こうした
上部構造が私の物となる

もし
思考が私の物でなかったら 何も問題は無くなる なぜなら これもまた
思考だからだ――「あなたは私の妻だ、あなたは私の夫だ」これもまた
思考だ しかし 根本において
思考が私の物でなかったら どうして
夫が私の物になるだろう どうして
妻が私の物になるだろう

思考が根を失えば
世界全体が根を失う

そうすれば
この世界に住みながら
この世界に住まないことも可能になる

たとえヒマラヤに移り住み 俗世界を去ったとしても
もし思考を自分の物だと考えていたら
それは一寸も動いていないのと同じだ
ヒマラヤ山中に座りながら ここに居るのと同じくらい
俗世界の中に居る

思考こそが俗世界だ そしてあなたはその
思考をヒマラヤまで携えて行く

たとえ家を失っても
真の家は内側にある
真の家は思考の煉瓦でできている それは
外側の家ではない

これは奇妙なことだが 毎日起こっている
世俗を去りながら 依然としてヒンドゥ教徒である人間が居る
探求者になりながら 依然としてヒンドゥ教徒だったりジャイナ教徒だったりする
これは一体どういうことか

世界を放棄しながら
思考は放棄しない

彼は依然ジャイナ教徒でありヒンドゥ教徒だ
思考世界はそのまま持ち運ばれている この
思考世界こそ 真の世界だ

「どんな思考も自分の物ではない」と
観てとったら……あなたはそれを
観てとる なぜならあなたは
「観る者」となり 思考は対象となるからだ

静かに思考を観つめるとき 思考は対象となり あなたは
「観る者」となる あなたは
観照者となり 思考はあなたの前を流れて行く

深く観つめ
深く感じれば そこに根の無いことが解かるだろう

思考は 空の雲のように浮かんでいる
その雲は あなたの中に根を持っていない
来ては去っていく

あなたは全く犠牲者だ
あなたはいたずらにその雲と同化してしまう
雲が自分の家の近くを通りかかるごとに「これは私の雲だ」とあなたは言う

思考とは雲のような物だ
意識の空の中を 思考は次々に通り過ぎ あなたはそのどれにもシガミツク

「これは私の物だ」とあなたは言うが それは単に
流れ雲が通り過ぎているだけだ やがてそれは過ぎ去る

子供時代を思い出してごらん あなたは何かの
思考を持っていた そしてその
思考にシガミツキ「これは私の思考だ」と言っていた

やがて子供時代は過ぎ去り
その子供時代とともに
そうした雲も消え去った
今となっては覚えてすらいない

そしてあなたは青年となった
すると青年のあなたを惹き付けるような別の雲が現れ あなたは
それに執着するようになった

そして今 あなたは老年になった 以前の
思考は もはや無い 覚えてすらいない そうした
思考は かつてたいへん重要な物だった 死んでもいい程だった
ところが今は覚えてすらいない

今となっては その馬鹿馬鹿しさを笑いもするだろう――かつて
その為に死んでもいい 殉教者になってもいい と言っていた事を
今となっては一文も払う気にならない

それはもう自分の物ではない
その雲は過ぎ去ってしまった ところが
別の雲が現れ あなたはそれに執着している

雲は絶えず変わり続けるが あなたの
執着は決して変わらない

これこそが問題だ

また その雲の変化も 決して「子供から大人になれば変わる」などという
大まかなものではない
瞬間ごとに変わっている

一分前 何かの雲に覆われていたが
今は 別の雲に覆われている

あなたが先程ここに来たとき
何かの雲が あなたの上に漂っていた そしてこの部屋を去るときには
別の雲が あなたの上に漂っている

そしてあなたは どの雲にも執着し続ける

最後になって 自分の手の中に
何も残らなかったとしても それは当然だ なぜなら雲からは
何も生じないからだ

思考とは 雲にほかならない

このスートラは言う 感じてみる

まず感覚の中に立脚する

それから 私の思考 ――この思考 
あなたが常に「私の思考」と呼ぶこの思考を観つめる

感覚に立脚し 思考を観つめる

すると
「私の」は消え失せる
「私の」こそが 罠だ なぜなら数々の
「私の」や数々の
「私に」から
「私」が進化するからだ

「これは私の物だ」
「これは私のだ」……数知れぬ
「私の物」から
「私」が進化する

この技法はまさに
根本から始める 思考こそが全ての
根本だ

根本のところで
「私の」という
感覚を断つことができたら その
感覚は二度と現れない 二度と再び姿を見せることは無い

根本で断つことができなかったら
ほかで一生懸命に断ち切ったところで何の役にも立たない
繰り返し繰り返し現れてくる

たとえば 次のように
「私の」を断ち切ったとする――「私の妻だって?いいや、私たち二人は
互いに見知らぬ人間だ。結婚というのは単に社会的形式だ」……
こうして
「私の」を断ち切る つまり
「私の妻など居ない」というわけだ でもそれは全く表面的だ そうしておいて
「私の宗教」と言ったりする あるいは
「私の教派」と言ったりする あるいは
「これは私の宗教書だ。これは聖書だ。これはコーランだ。これは私の経典だ」
と言ったりする かくして
「私の」はどこか他のところで生き続け
あなたは相変わらず同じままだ

私の思考を、それから、私性ワタクシセイを

まず最初に
思考の往来を
思考のプロセスを
思考の川のような流れを 観つめ それによって 果たして自分に属する
思考は存在するのか あるいは
思考とは過ぎ去る雲なのかを 観極める

そして
「どんな思考も自分の物ではない 思考に 私 の を付けるのは 錯覚だ」
と感じるようになったら
第二段階目として更に深く進むことができる

それは「私性」に気つ"くことだ
この 「私」はどこにあるか

ラマナ(近世インドの覚者)は かつてある技法を弟子達に与えた
それは
「私は誰か」と尋ねることだ

チベットでも同様の技法を使うが ラマナのものより優れている
チベットでは
「私は誰か」と尋ねる替わりに
「私はどこか」と尋ねる
なぜなら
「誰」というのが障害になりかねないからだ
「私は誰か」と尋ねることは
「自分は在る」ということは前提とされ
疑われることがない……当然のことと見なされる かくして唯一の問題は
「私は誰か」ということになる つまり
「自分の正体」を知ること
自分の顔を認識することが 唯一の問題となる

それはそこにある 認識されてはいないが そこにある

チベットの方法はもっと深い その方法は
まず沈黙し それから内側に向かい
自分がどこに居るか探求する

内的空間に向かい その隅々にまで
「私はどこ」と問いかける

それはどこにも観いだせない
尋ねれば尋ねるほど 存在しなくなる

「私は誰」あるいは
「私はどこ」と尋ねていると
そのうちにある一点に到達する その一点では あなたは
存在するが 「私」は無い……単純な
存在が起こる

でもそれが起こるのは
思考があなたの物でないときだ

これこそが最も深い領域 すなわち
「私性」だ

私たちは 決してそれを感じない
私たちは 常に
「私」と言っている
「私」という言葉は絶えず使われている 最もよく使われる言葉が
「私」だ しかし貴方はそれについて何の感覚も持っていない 貴方の言う
「私」とは何か あなたが
「私」と言うとき それはどういう意味か

この言葉は何を含んでいるか
何が表現されているか

たとえば 身を動かしながら
「これこそ私だ」と言うこともできるだろう 自分の体を動かしながら
「これこそ私だ」と言うこともできるだろう

するときっと人はこう尋ねる
「その手のことか? その脚のことか? その腹のことか?」
そのたびに 私は否定する 否と言う
かくして体全体が否定される

だとしたら 人が「私」と言うとき それは一体
何を意味するのか

それは頭のことか

あなたが「私」というとき 奥深くで いつもそれは非常に
漠然とした感覚だ そしてその
漠然とした感覚は 自分の
思考に関するものだ

感じることを大事にし 思考を断ち 私性に直面する

それに直面することによって
それが存在していないとわかる

それは単に便利な言葉だった
言語上の象徴であり 必要なものではあるが
真のものではなかった

ブッダでさえも使わざるをえない――悟った後でさえも それは言語上の方便だ
ブッダが「私」と言うとき それは決して「私」を意味しているのではない

なぜなら そこには誰も居ないからだ

この私性は 直面することによって消え失せる

その瞬間 恐怖にとらわれるかも知れない 怖気つ"くかも知れない
こういう技法を深く実践する人の中には 恐怖にかられて
この技法から逃げ出す人もたくさんいる

そもそも自分の
私性を感じ それに直面するという状況 それは自分の
死を迎えるのと同じだ つまり
「私」が消えさっていく そして自分に
死が起こりつつあるように感じる

何か沈んでいくような感覚がある――自分が下へ
下へと沈んでいくような……

それで 恐ろしくなり そこから逃げ出し
思考にしがみついてしまう
思考は助けになる
思考の雲はそこにあり
それにしがみつけば恐怖は消え去る

しかし この恐怖は
たいへん良いものだ
たいへん良い兆候だ

それはあなたが
深くまで進んでいるということだ そして最も
深い地点は
死だ もし
死の中に入ることができたらあなたは
不死となる
死の中に入った人間は死ぬことがない

そのときには死もまた周辺的なものとなる
中心ではなく 表層上の存在となる

私性が消え去るとあなたは 死と等しくなる

古いものはもはや無く 新しいものが現れる

新たに出現するこの意識は
絶対的に新しいものであり 汚染されず 若く 手つかずだ 古いものはもはや無い
その意識は 古いものによって指一本触れられていない

この私性の消失によって
太古の処女性が 絶対の新鮮さがもたらされる
それは存在の最深層への接触だ

だからこう考えるといい
思考があり その下に私性があり そして第三に……

感じてみる。私の思考を、私性を、内側の諸器官を。我。

思考が消え失せたとき あるいは
思考に執着していないとき……つまり
思考がやって来ても それに関与せず 身を引き離し 同化せずにいたら
そして私性が消え去ったら そのとき内側の諸器官が観えるようになる

この内側の諸器官は 最も深いものの一つだ

外側の器官についてなら 私達も知っている
手であなたに触れるし 目であなたを見る
これは外側の器官だ

そして 内側の器官を通じて自分自身の存在を感じる

外側の器官は他人に向かうものだ 私は
外側の器官を通じてあなたについて知る

では 自分についてはどうやって知るか「在る」ということでさえ
どうやって知るか いったい誰が自分の存在を感じさせてくれるのか

そこで内側の器官が存在する

思考が止み
私性が無くなって初めて その純粋さの中 その明晰さの中で
内側の器官が観えるようになる

意識 知性 それは内側の器官だ それを通じて自己の
存在や体験に気つ"く

だからこそ目を閉じたとき 体は完全に忘れられても
「自分は存在する」という感覚はそのまま継続するのだ

人が死ぬとき こんなことが推測される――これは事実だ――
人が死ぬとき 私達から見ると彼は死んでいるが 本人が
「自分は死んだ」と認識するまでには少し時間がかかる

なぜなら内側の感覚がそのままだからだ

チベットには 死についての特別な行法がいくつかある
チベット人は 死に対する備えを重要視する
その行法の一つはこんなものだ

誰かが死にかけているとき
覚醒法(バルド)を心得ている師なり僧が その人間に対して
「さあ覚醒を保つのだ。あなたは体から去ろうとしている」
と語りかける

体を去った後でも「自分は死んだ」と
認識するまでには時間がかかる なぜなら
内側の感覚がそのままで 変化することがないからだ

体が感じたり触れたりするのは 他人だけだ
体を通じて自己に触れるとか
体を通じて自己を知ることは決してない

自己を知るのは 内側にある器官によってだ

これこそが問題だ

つまり 私たちはこうした内側の器官に気つ"いていない

また 自分の目に映る自己の像(イメージ)は 他人によって創られたものだ
自己について知っていることは みな他人の語ったことだ

他人がもし私のことを「美しい」とか「醜い」などと言えば 私はそれを信じ込む
他人を通じて私の感覚が語ること
他人を通じて反映されること それが
自己についての自分の信じ込みとなる

内側の器官を認識できれば人は
社会から完全に自由になる

古い経典に「探求者は社会の一部ではない」とあるのは このことを意味している

なぜなら探求者は自分の
内側にある諸器官を通じて
自己を知るからだ

もはや
自己についての彼の知識は 他人に由来するものではない――他人の反映ではない
自己を知るための鏡を必要としない すでに内側に鏡を見つけた
そしてその内側の鏡を通じて自己を知る

内側の諸器官に到達して初めて
内側の真実がわかるようになる

内側の諸器官――かくして こうした
内側の器官を通じて観ることが可能になる

そして ――これは言葉で表現するのが難しい
だから 「我」が使われるのだ どんな言葉も
不適当だ「我」もまた不適当だ

でも「私」はすでに消え失せている

だから注意すべき点は この
「我」と「私」は何の関係も無いということだ

思考が根を失い
「私性」が消え失せ
内側の諸器官が認識されるとき
この「われ」が現れる そうして初めて 自己の
真の存在が明らかになる その
真の存在が「われ」と呼ばれる

外側の世界はもはや無い
思考はもはや無い
エゴの感覚はもはや無い

そして自分自身の
内側の器官を認識するに至った――その
内側の器官とは「知ること」意識 知性 あるいは気つ"きなり覚醒なり
何と呼んでもいい

この内側の器官の光の中に「われ」が明らかになる

この「われ」は 自分のものではない
この「われ」は 自分の最奥の中心であり 自分にとって未知のものだ
この「われ」は エゴではない
この「われ」は 「汝」に対立することがない
この「われ」は 宇宙的だ
この「われ」は 境界が無い
この「われ」の 中には一切が包含される
この「われ」は 波ではない
この「われ」は 大海だ

感じてみる。私の思考を、私性を、内側の諸器官を。

するとそこに隙間が現れる そして突然
「われ」が明らかになる
「われ」が明らかになるとき アハーム・ブラフマースミ
「われ神なり」ということがわかる

この認識は エゴの自己主張ではない エゴはもはや無い

この技法によって 自分自身に突然変異をもたらすことができる
でもまず最初に 感じることを大切にする


83

隙間に焦点を合わせる

第二の技法

欲求以前、知ること以前に、
どうして私は「私はある」と言えるだろう。
考察する。美の中に溶け去る。

欲求が生じると その欲求とともに
「私はある」という感覚が生じる

思考が生じると その思考とともに
「私はある」という感覚が生じる

このことを自分の経験の中に探ってごらん

欲求以前 知ること以前に エゴは無い

静かに座り 内側を見つめてみる

そこに思考が生じる あなたは
その思考と同化する もし欲求が生じればあなたは
その欲求と同化する その同化の中であなたは
エゴとなる

ところが 欲求も無く知識も思考も無かったら
もはや何物にも同化できない
だからエゴは生じない

仏陀はこの技法を使った
彼が弟子達にさせたのは ただ一つ 思考が生じたらそれを
心に記録するということだった

仏陀いわく 思考が生じたら
「思考が生じている」と記す
「今思考が生じつつある、今思考が生じた、今思考が消え去っていく」と内側に記す
「今思考が生じつつある、今思考が生じた、今思考が消え去っていく」と心に記す

そうすれば 思考と同化することも無くなる

これは実に素晴らしく 実に簡単だ

思考が一つ生じる……たとえば 通りを歩いていると 美しい車がそばを通り過ぎる
貴方はそれを見る――見るか見ないかのうちに それを所有したいという欲求が生じる
そこで これをやってみるといい

始めのうちは口に出してみる
ゆっくりと語ってみる
「一台の車を見た。その車は美しい。そこで、それを所有したいという欲求が生じた」
このように口に出してみる

最初はこれでいい もし
大声で口に出せたら さらにいい
大声で言うのだ「一台の車が通った。心はそれを美しいと言った。
そして今、その車を所有したいという欲求が起こった」
全てを口に出し 自分自身に対して大声で語りかける

そうすればすぐに「自分はそれとは別物だ」と感じられる
だから記してみる

それが上手くできるようになったら もはや大声で口に出す必要は無い
ただ内側で言葉にすればいい――欲求が生じたということを

美しい女性が通りかかった そして欲求が現れた あたかも
「自分はそれに関わっていない、単に起こっている事実を記しているだけだ」
というぐあいに

すると突然 あなたはその外に出る

仏陀は言った
「起こること全てを記す。ひたすら記し、そしてそれが消え失せたら、その欲求は消え
失せたと記す。そうすれば欲求からの距離、思考からの距離が感じられるようになる」

この技法は言う

欲求以前、知ること以前に、
どうして私は「私はある」と言えるだろう。
考察する。美の中に溶け去る。

もし欲求が無かったら
もし思考が無かったら
どうして「私はある」と言えるだろう

そのとき すべては静かになる
さざ波一つ無い
さざ波が無ければ どうして「私」という幻想が生み出せるだろう もし
さざ波があったら 私はそれに執着し それを通じて「私はある」という感覚が現れる

意識の中に さざ波が無ければ そこに「私」は無い

だから
欲求が現れる前 心に留める
欲求が現れたとき 心に留める
欲求が去ったとき 心に留める
思考が生じるとき 心に留め それを観つめる
思考が現れたということを 心に記しておく

やがて思考は去る
なぜなら全ては一時的だからだ

そしてそこに
隙間が現れる 二つの思考の間には
隙間がある 二つの欲求の間には
隙間がある

その隙間の中に「私」は無い

思考を心に記せば きっと
間隔の存在が感じられるようになる いかに小さくとも そこには
間隔が在る それから次の思考がやって来る それからまた
間隔が在る

この間隔の中に「私」は無い そして
この間隔こそ 真の存在だ

思考は空の中を動いて行く 二つの雲の間に観える
この間隔の中に 空が開かれる

考察する。美の中に溶け去る。

もしこのことが考察できたら……
「欲求は生じ欲求は去ったが、自分は隙間に留まり、
欲求によって乱されることは無かった……
それは現れ、それは去った、それはそこにあったが、もはや無い、そして
自分は以前と同じままで、乱されることがない。
自分には何の変わりもなかった。
欲求は影のように来ては去った。それは
自分に触らなかった。
自分は無傷のままだ」……

要は このように思考や欲求の動きを考察し また
自分の中に動きの無かったことを考察することだ

考察する。美の中に溶け去る。

この間隔は美しい
この間隔の中に溶け去る
その隙間の中に落ちていき
その隙間となる

これこそ最も深い美の体験だ
美だけでなく善と真の体験でもある

その隙間の中に在る

大事なのは「充たされた空間」から「充たされていない空間」へと
重心を移すことだ

たとえば本を読んでいるとする 本の中には 語句があり 文章がある
しかし語句の間には
隙間があり 文章の間には 
隙間がある

その隙間の中に あなたが在る
紙の白さの中に あなたが在る

そして黒い点々は あなたの上を動いて行く思考や欲求の雲だ

要は重点を変えること 焦点(ゲシュタルト)を変えることだ
黒い点々を観ずに 白いところを観る

自分の内側で 隙間を観つめる

「充たされた空間」「占められた空間」に同化しないで
隙間に関心をもつ この
隙間を通じて 究極の美の中へと溶けていく




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