光と闇の瞑想  ヴィギャン・バイラヴ・タントラ

翻訳  スワミ・アドヴァイト・パルヴァ(田中ぱるば) 市民出版社


本書の原本は、インドの覚者OSHO(和尚・1931〜1990)によって語られた 『ヴィギャン・バイラヴ・タントラ』である。これは1年以上にわたって 断続的に展開された10シリーズ全80回の講話集で、本書はそのうちの 岱7集8講話を収めている。

第8章 空の発見



第一の質問

瞑想の中で、「私」が一時的に落ち、内側に空虚が生じることがあります。でもその 空虚は「未知」の訪れによって満たされることがなく、私は挫折感を味わいます。 どうしたらその空虚とともに生きられるようになるでしょうか。

空虚こそが「未知」だ だから その
空虚が何かによって満たされるのを待ったり期待してはいけない

待ったり期待したり欲求したりすることは あなたが
空虚でないということだ

もし何かを待ち 未知の力が降りて来るのを待っていたら あなたは
空虚ではない――そうした期待や 欲求や 願望が存在している

だから 何かによって満たされたい
と欲求 し て は い け な い

ただひたすら空虚になるのだ

待つことすらもいけない

空虚こそが「未知」だ 真に
空虚で在るとき未知は すでにあなたの上に降りている
空虚になって その後に未知が訪れるわけではない
空虚であったら すでに未知は現れている

そこには一瞬の隙間も無い
空虚と未知とはひとつのものだ

最初のうち それは空虚の様に見える
でもそれは 単に外見上のことだ

なぜならあなたは今まで常に
エゴによって充たされてきたからだ あなたは
エゴの不在を感じている だからこそ空虚を感じるのだ まず
エゴが消え失せる――
エゴが消え失せたという感覚が空虚感を生み出す

かつて何かが存在したが もはや無いという不在……
エゴは去ったが エゴのその不在が感じられる

最初に
エゴが消え失せ その後に
エゴの不在も消え失せる

そうして初めて
真に空虚になる
真に空虚だということは
真に満たされていることだ

エゴの不在によって生み出された この内的空間こそが
<神>だ
<神>とは どこか外からやって来るもの で は な い

あなたはすでに神だ

ところが あなたはエゴで充たされているから
神を認識することも 観ることも 触ることもできない

エゴという皮膜のような障害が 邪魔している
エゴが落ちるとき その障害は落ちる もはや膜は無い

別に 何かが
到来するわけではない
到来すべきものは すでに存在している 何か新しいものが
到来するわけではない

可能なものは全て すでにそこに在り 現実となっている

だから問題なのは 達成することではなく 発見することだ
財宝はそこに在る ただ覆われている――その覆いを取り除くことだ

仏陀が悟りを開いたとき 何度もこう尋ねられた
「あなたは何を得たのか。何を達成したのか」
仏陀はこう言ったそうだ

「何も達成していない。むしろその逆に、自己を失った。達成したものは
すでにそこに在った。だから私がそれを達成したとは言えない。
かつてはそれに気つ"いていなかったが、今はそれに気つ"いている。
だから私がそれを達成したわけではない。むしろその逆に、かつて
それを知らないでいたことが不思議に思える。
それはすぐそばに在った。振り返りさえすればよかった」

神性とは未来ではない
神性とは現在だ それは
今ここ に在る

今この瞬間 あなたはそれだ
――でも気つ"いていない 正しい方向を観ていない あるいは
それに同調していない
それだけだ

たとえばラジオがある 電波が今ここを通過している
しかしそのラジオが特定の電波と
同調していなければ その電波は外に現れない ラジオを
同調させれば 電波は現れる
同調が必要だ

瞑想とは同調だ 同調すれば
現れていないものが現れる

だが欲求はいけない 欲求は
空虚になることを妨げる
空虚でない者には 何も可能でない なぜなら
空虚な空間が存在していないから あなたの未発現の本性が現れない 現れるには
空虚が必要だ

だから決して「どうしたら、空虚とともに生きることができるか」
などと尋ねてはいけない それは真の質問ではない

ただひたすら
空虚になることだ あなたは未だ
空虚ではない

空虚とは何かを いったん知ったら
空虚を愛するだろう
空虚はエクスタシーに満ちている
空虚は最も美しい体験だ――マインドにとって 人間にとって 意識にとって……

あなたはもはや いかに空虚とともに生きるか尋ねたりしない
あなたの質問を聴いていると 空虚とはまるで苦悩であるかのようだ
エゴにとっては そう見える
エゴはつねに 空虚を恐れている

だからこそあなたは それがまるで仇敵であるかのように尋ねるのだ――
「いかにそれとともに生きるか」と

空虚とは あなたの
最奥の中心だ 一切の行為は表層上にある
最奥の中心は 全くの零だ 一切の現れは表層上のものだ あなたの存在の
最深の核は 現れることのない
空虚だ

仏陀はそれに名前を与えた シュニャータだ
その意味は「無」あるいは「空クウ」だ
これこそあなたの本性
これこそあなたの存在だ

そして
この無から一切が現れ
この無へと一切は還る

この空虚は源泉だ
この空虚を充たそうと考えてはいけない
この空虚を充たそうと考えると なお一層のエゴを生み出してしまう エゴとは
この空虚を充たそうとする努力だ

また このような欲求 つまり
「神や、神的な力や、未知のエネルギーが降りて来て欲しい」という
欲求もまた一つの
思考だ

あなたが神について何を考えようと
それは神ではない それはどこまでも
思考だ

「未知」を口に出すことによって その未知は既知になる
未知なるものを どうして知ることができるだろう

「これは未知だ」と語ることでさえ もうすでにその
特質を一つ知っているということだ――「未知だ」という
特質を知っている

マインドには
未知が思い描けない だから
未知でさえも 既知となってしまう

マインドの語る事は全て 言語化であり 思考作用だ

神 という言葉は
神 とは別物だ
神 という思考は
神 とは別物だ 思考が無くなって初めて
神 とは何かが感じられ 認識される
神 については もはや何も語れない ただ
暗示されるのみだ しかし
暗示は すべて誤りだ なぜなら
暗示は すべて間接的だからだ

こう語るのがせいぜいだ――
あなたが居ないとき
あなたが居なくなって初めて 欲求は無くなる――

なぜなら あなたは
欲求とともに存在するからだ
欲求はあなたが存在するための食物だ
欲求は燃料だ

欲求も無く
願望も無く
未来も無く
貴方も無いとき
その空虚は存在でいっぱいになる
その空虚の中で <存在>全体が開かれる
あなたは そ れ になる

だから「いかに空虚とともに生きるか」と尋ねてはいけない

まず空虚になることだ

「いかにそれと生きるか」と尋ねる必要はない

空虚は至福に満ちあふれている――最も深い至福だ
空虚とともに生きる術を尋ねることは 実際
自己とともに生きる術を尋ねることだ でもあなたは未だ
自己を知らない

要は その中に もっともっと入っていくことだ

瞑想の中でときに 一種の
空虚が感じられることがある それは真の意味での
空虚ではない だから私は 一種の
空虚と呼ぶのだ

瞑想中 少しの間 数秒の間 
思考作用の停止が感じられる――そんな隙間が現れる しかし
思考作用の停止を感じるのもまた
思考作用だ……非常に微妙な
思考作用だ

つまり あなたは内側で「思考作用は停止した」と語っている
しかし それはいったい何か それは新たに始まった二次的な思考作用だ

あるいはまた「これが空虚だ」とか「いま何かが起ころうとしている」などと語る
それはいったい何か それもまた新たな思考作用だ

たとえそれが起こっても 思考の犠牲になってはいけない
たとえ沈黙が降りて来るのを感じても それを言語化してはいけない
言語化したら 沈黙を破壊してしまう

だから
待つのだ 何 か を
待つのではなく ただ
待つ

何もしない「これは空虚だ」などと言わない そう言うやいなや
沈黙は破壊されてしまう

ただ それに目を向け 観つめ 面と向かい そして ただ待つ

言語化はしない どうして急ぐ必要があるだろう
言語化すると
マインドは再び別の経路から入り込み あなたを欺く
マインドのこの策略には気をつけることだ

最初のうち それはどうしても起こる だから それが起こったら
ただ待つことだ 罠にはまってはいけない
何も言わずに 沈黙を保つ

そうすればあなたは その中に入り込み
それは一時的なものではなくなる

いったん
真の空虚を知ったら それは決して無くならない
真は決して無くならない それは
真の本質だ

いったん内側の財宝を知ったら
いったん自身の最深の核に触れたら
たとえ外側の行動に向かおうとも
好きな事をしようとも
普通の現世的生活を送ろうとも
その空虚はいつもあなたと一緒だ

それを忘れることは不可能だ
それは内側で続いている――
その音楽が聴こえてくる

何をしようと その行為は表層上にとどまり
内側であなたは空虚のままだ

内側で空虚のままとどまり
行為を表層上にとどめられたら すること全ては
神的なものとなる 行為は全て
神的な質を帯びる

なぜなら
それは あなたに由来するものではないからだ
それは 根源的な空虚から 根源的な無から 直接やってくる

何かを語っても その言葉は あなたのものではない

モハメッドの本意はそこにある 彼いわく
「このコーランは私が語ったものではない。それは私にやってきた
――まるで誰かが私を通じて語っているかのように」

それは 内側の空虚から現れた

ヒンドゥ教徒がこう言うのも同様だ
「ヴェーダは人によって書かれたものではない。それは人間の文書ではなく、
神的なものであり、神自身が語ったものだ」

こうした表現は 神秘的なものを言い表すための象徴的な表現法だ
そしてその神秘とはこうだ

あなたが深く空虚であるとき
あなたの行為や言うことは
あなたに由来するものではない

体が現れたのと同じ源泉から現れる

そのとき あなたはもう子宮に入っている――<存在>の子宮に……
そのとき あなたの言葉はあなたのものではない
そのとき あなたの行為はあなたのものではない

あなたはまさに道具だ <全体>の道具だ

もし空虚が一時的にしか感じられなかったら
そしてそれが閃光のように来ては去るようだったら それは
真のものではない また 
それについて考え始めたら その
真でないものでさえ消え失せてしまう

その瞬間に 考えないためには 大きな勇気が必要だ

それは 私の知るかぎり最大の自制だ

マインドが沈黙し 空虚へ落ちていくとき
考えないためには 最大限の勇気が必要だ

マインドの過去全体が叫ぶ……
メカニズム全体が言う 「さあ考えろ!」

微妙な仕方で 間接的な仕方で 過去の記憶は
考えることを強いる そしてもし
考えたら あなたは戻ってしまう

もし その瞬間 沈黙できたら
もし 記憶とマインドのメカニズムによって誘惑されることが無かったら……

実際これは悪魔だ

自分自身のマインドが誘惑しようとする

空虚の中に入ると つねにマインドはあなたを誘惑し 何か
考えるべきことを作り出そうとする そして
考え始めたら あなたは戻ってしまう

伝えによると 偉大な師である
菩提達磨(ボーディダルマ)が中国へ行ったとき 多くの弟子が集まって来た
彼は最初の禅師だった

ある弟子 一番弟子となるべき弟子が 彼のもとへやって来て言った
「私はまったく空クウになりました」

達磨はその場で彼をひっぱたき そして言った
「さあ その空もまた捨ててこい! お前は今、空でいっぱいになっている。
それもまた捨てるのだ。そうして初めて本当に空になれる」

理解できるかな
空虚という観念でいっぱいになると それはあなたの上をうろつく――それは雲となる

達磨は言う
「その空もまた捨てろ。それからここへやって来い」

自分で空虚だと言うような人間は 空虚ではない

つまり この「空虚」という言葉が意味を持ち 彼はそれによって一杯になっている

だから私も同じことをあなたに言う
――その空虚もまた捨てなさい


第二の質問

以前のお話の中で、人間のマインドや無意識を超意識に向かって変容させ、変異させる ことについてうかがいました。また、精神性とは<存在>的な実験だということです。 ところが昨夜のお話では、エゴとは偽りの存在物であって、何の実体も現実性もない とのことです。ということは、精神的な実験なるものは、非<存在>的なエゴの、 <存在>的な変容ということになるのでしょうか。

いいや 精神的な変容は
エゴの変容ではない
エゴを溶かすことだ
エゴは変容されるものではない いかに変容されようと
エゴはエゴのままだ たとえ もっと磨かれ洗練され教化されたとしても
エゴはエゴのままだ

そして洗練されればされるほど 有毒になる
微妙になればなるほど
エゴの術中に陥ってしまう なぜなら
エゴに気つ"くことがなくなるからだ ひどく粗大な
エゴでさえ気つ"かないのに それが微妙になったら まず気つ"く可能性は無くなる

エゴを磨く道は存在するが それは精神性の道ではない
道徳というのはその種のものだ これが
道徳と宗教の違いだ
道徳は何とかしてエゴを磨こうとする
道徳は名誉の上に存在する だからこそ私たちは誰かに対して言うのだ
「これこれをしてはいけない。もしやったら、あなたの名誉は台無しだ。だからやって
はいけない。人が一体どう思うだろう。だからやってはいけない。決して褒められた事
ではない。その代わりに、これこれをするのだ。そうすれば皆に尊敬される」

道徳の全ては
エゴにかかっている……微妙な
エゴにかかっている しかし宗教は
エゴの変容ではない それは超越だ あくまでも
エゴを去ることだ しかし
エゴが悪いから
エゴを去るわけではない

この区別を覚えておくこと
道徳は常に言う「悪い事を去り、良い事をせよ」
宗教は言う「偽りを去れ――悪い事ではなく偽りを。非真実を去り、真実に向かえ」

精神性においては
真理こそが価値あるものだ
正しさではない なぜなら 実際には偽りでありながら
正しいとされるものもあるからだ 偽りの世界では 悪に対抗するために
「偽りの正」が必要となる

精神性は
エゴの変容ではない 精神性は超越だ 要は
エゴを超えることだ この「超えること」は目覚めだ それは
エゴが存在するかどうか を見極める 深い覚醒だ もし
エゴが存在していたら もし
エゴが自己の存在の本質的な一部分だったら
エゴを超えることは不可能だ
エゴが偽りであればこそ 超越は可能となる

夢から覚めるのは可能でも
真実から覚めるのは不可能だ
夢は超越できるが
真実は超越できない

エゴは偽りの存在者だ「偽りの存在者」とはどういう意味か
エゴが存在するのは あなたが
エゴに直面しないからこそだ もし
エゴに直面したら
エゴは無くなる
エゴはあなたの無知の中に存在する

つまり あなたは
エゴの存在に気つ"いていない もし
エゴの存在に気つ"けば
エゴは無くなる

単に気つ"くことによって消え去るものがあるとしたら
それは偽りということだ

気つ"きの中で
「真」は開示され「偽り」は消え去る

だから「エゴを去れ」と語ることでさえ適当ではない
なぜなら「エゴを去れ」と語れば
「エゴとは何物かであり、エゴを去ることは可能だ」という印象を与えるからだ

そればかりかエゴを捨てようと奮闘さえしかねない
しかし そういう努力は不条理だ

エゴは捨てられない 捨てられるのは現実だけだ
エゴと闘うわけにはいかない

どうして
影と闘えるだろう
もし闘ったら 負けを覚悟しておくことだ 別にその
影が強力だからではない そもそも その
影が存在していないからだ

だから勝てるわけがない
あなたは自己の愚かさによって打ち負かされる 確実にだ
なぜなら 闘ったら自分自身のエネルギーを浪費してしまうからだ

影が強力だからではなく
影とは存在しないものだから あなたは自分自身と闘い
エネルギーを浪費することになる それで疲労困憊し 倒れ伏す
そして「影が勝ち、自分は負けた」と考える

ところが その影なるものは全く存在していなかった
エゴと闘ったら必ず負ける だからそうする替わりに
エゴがどこにあるのかを見極める努力をすることだ

中国の皇帝が達磨に尋ねたそうだ
「私の心(マインド)は全く安らかでない。内側で絶えず苦悩にさいなまれている。
だから平安が欲しい。あるいは内側が静かになるような秘密の鍵が欲しい」

そこでボーディダルマは言った
「よろしい、それでは朝早く、朝の四時、ここに誰も居ないときにお越しなさい。
私がこの庵に一人で居るとき、お越しなさい。そのとき忘れずに、その
安らかでない心も携えて来るように。それを家に残して来てはいけない」

王には全くわけがわからなかった この男は気違いではないかと思った
この男はこんなふうに言う「その安らかでない心も携えて来るように。それを家に
残してきてはいけない。さもなければ、いったい誰を沈黙させるのか。
私はそれを静かにしてあげよう。だから持って来るのだ!忘れてはいけない!」

皇帝はその場を去ったが益々わけがわからなくなった 先ほどまではこの男のことを
賢者なり智者と考え 何か鍵を貰えるものと思っていた ところが およそ
彼の言葉はいかにも馬鹿げている どうして自分の心を家に残してこられよう

皇帝は眠れなかった 達磨の目 達磨の眼差し……
皇帝は魅入られてしまった――まるで磁石に引っ張られたかのように
一晩中眠ることができなかった そして四時には支度ができていた
別に行きたいと思っていたわけではなかった なぜなら あの男は気違いだからだ
こんなに早く暗い中 誰も居ないのに……あの男は何をするかわからない

しかし とにかく惹き付けられていたから自分の意に反して出かけた
達磨がまず第一に尋ねたことは……彼は竿を手にして庵の前に座っていた 彼は言った
「よろしい。やって来たな。さて、どこにその安らかでない心がある。
持って来たかな。さあ、いつでも沈黙させてあげよう」

皇帝は言った「何を言っている。
どうして心を置いて来られよう。心はいつもここにある」

ホーディダルマは言った「どこだ。どこにある。
示してごらん。そうしたら沈黙させて、返してあげよう」

皇帝は言った「でもそれは形あるものではない。だから示すわけには
いかない。手の上に載せられるようなものではない。それは私の内にある」

そこで達磨は言った「よろしい、それでは目を閉じ、それがどこにあるか
探ってごらん。そしてそれがつかめたら、目を開け、告げるのだ。私が静めてあげよう」
その沈黙の中 その狂人の前で 皇帝は目を閉じた そして一生懸命にやってみた
同時に彼は怖がってもいた 達磨が竿を手にして自分の前に座っていた
――いつ打たれるか分からない 彼は一生懸命にやってみた あらゆるところを探した

自分の存在の隅から隅まで どこに安らかでない心があるかと ところが
探せば探すほど わかってくるのだった――その安らぎのなさはもう消えている
探求すればするほど それは影のようなもので そこには無い……

二時間たって いったい自分に何が起こったのかさえ気つ"かなかった
その顔は静かになり 彼は仏像のようになった

朝日が昇ろうとしているとき 達磨は言った「さあ、目を開けてごらん。
もう充分だ。二時間とは充分過ぎるほどだ。さあ、それがどこにあるか言ってごらん」

皇帝は目を開けた
彼はおよそ沈黙の極みにいた
彼は達磨の足に一礼し そして言った「もう静めてもらった」

武帝は自伝に書いている「この人は奇跡のようだ、魔術のようだ。何もしないのに、
私の心を静かにさせた。私もまた何もしなかった。私はただ、自分自身の中に入り、
心がどこにあるのか探しただけだ。もちろん彼の言う通りだった――まず最初に、その
ありかをつかむ。そして、ありかをつかもうと努力すると、心はそこに見当らない」

エゴは観つからない 自分の内側に入って
エゴを探求しても
エゴはそこに観つからない
エゴは決して存在していなかった
エゴは偽りの代用品だった
エゴには用途があった だからあなたは
エゴをこしらえたのだ

自分の真の存在 真の中心を知らないから また
中心無しでは機能しにくいから あなたは
虚構を 虚構の中心を作り出した そしてあなたは
虚構の中心によって機能する

真の中心は隠れている あなたは
偽りの中心を作り出した――エゴは
偽りの中心 代用の中心だ

中心無しで存在するのは難しい……機能するのは難しい 機能するためには
中心が要る しかし あなたは真の
中心を知らない だからマインドは 偽りの
中心を作り上げた 

マインドは実に巧妙に代用品を作り上げる 真なるものを見い出せないとき
マインドはつねに代用品を供給する さもないと狂気に陥ってしまう
中心無しでは狂気に陥る バラバラになる 統一が無くなる だから
マインドは偽りの中心を作り上げる

それはちょうど夢を見ているときのようだ 夢の中で喉が渇いたとしよう
もしその渇きが強烈なものになったら 眠りは妨げられる
なぜなら起き上がって水を飲むことになるからだ

それでマインドは代用品を与える マインドは夢を一つ作り出す
そうすれば起きなくてすむ 眠りは破られずにすむ
それで水を飲んでいる夢を見るというわけだ
冷蔵庫から水を取出しそれを飲む

そのようにマインドは代用品を与える これでもう大丈夫だ
しかし真の渇きは癒されていない ただ 騙されているだけだ
にもかかわらず「自分はもう水を飲んだ」と感じられる
それで眠ることができる かくして眠りは破られることなく続いていく

夢の中では
マインドは絶えず代用品を与え 眠りを守ろうとする

この同じことが目覚めているときにも起こる
マインドは あなたの正気を守ろうとして代用品を与えている
そうしないとあなたはバラバラになってしまう

真の中心が明らかにならない限り エゴは機能する いったん
真の中心が明らかになれば 水について夢見る必要は無い
真の水を得たら それを飲めばいい それについて夢見る必要は無い

瞑想はあなたを真の中心へといざなう それが起こったら
偽りなるものの用途は消え去る

それを良く心得ておくことだ
エゴはあなたの真の中心ではない

その理解があって初めて
真なるものの探求が始まる

そして精神的探求とは
エゴの変容ではない
エゴの変容は不可能だ
エゴは非現実のものであり もとより存在していない だから
エゴについては何もできない

もしあなたが
覚醒し 気つ"き 自己の内側を観つめれば エゴは消え失せる
覚醒の炎の在るところ エゴは無い

精神の道とは 超越だ


第三の質問

もしエゴが非現実であるとするならば、無意識的なマインドや、 脳細胞の中の記憶の蓄積や、あるいは、精神的探求の主眼である変容というものも、 全て非現実で夢のようなものでしょうか。

いいや
エゴは非現実だが
脳細胞は非現実ではない

エゴは非現実だが
記憶は非現実ではない

エゴは非現実だが
思考作用は非現実ではない
思考作用は現実だ
記憶も現実だし
脳細胞も現実だし
体も現実だ
体は現実だし
魂も現実だ この二つは
両方とも現実だ

しかし魂と体が同一視されると エゴが形成される
それこそが非現実・非真実だ

それはちょうど次のようなものだ
私が鏡の前に立っている
私は現実だ
鏡も現実だ しかし鏡の中の映像は現実ではない
脳細胞は現実だ
意識も現実だ

しかし意識が脳細胞に巻き込まれ 脳細胞と同化すると
エゴが形成される その
エゴは非現実だ

だから あなたが目覚めても あなたが悟りを開いても
記憶は消滅しない
記憶はそのままだ そればかりか
記憶はもっと明瞭になる
記憶はもっと正確に機能するようになる

なぜなら偽りのエゴが邪魔しなくなるからだ

思考作用もまた消失しない というよりむしろ そうなって初めて
思考することも可能になる それ以前はただ物を借用していただけだ それ以降は
真に思考できるようになる そのとき主人となるのは
その思考作用ではなく あなただ

以前は 思考作用が主人だった
それについてはどうしようもなかった
思考作用はそれ自身で進行した
あなたは全く犠牲者だった

眠りたくても マインドはいつまでも考え続けていた
止めたいと思っても 止まろうとしなかった 実際
止めようとすればするほど 思考は頑固になった
思考はあなたの主人だった

悟りを開いた後でも 思考は存在する
しかし 思考は道具的なものとなる
必要であればいつでも使える
必要でなければ 意識を騒がしたりしない
呼び出したり 停止したり 自由にできるようになる

脳細胞も 体も 記憶も 思考作用も みな
存在する ただ一つ
存在しないもの それは「私」という感覚だ

これを理解するのは難しい

ブッダは歩き
ブッダは食べ
ブッダは眠り
ブッダは思い出す 彼には記憶がある
彼の脳細胞は素晴らしく良く働く

でもブッダは言っている「私は歩く。でも私の中の何者も歩かない。
私は語る。でも私の中の何者も語らない。私は食べる。でも私の中の何者も食べない」

その内的意識は もはやエゴではない

だからブッダが空腹を感じるとき
その感じ方はあなたとは違う
あなたは「私は空腹だ」と感じる
ブッダが空腹を感じるときには
「私の体が空腹だ。私はただ知る者だ」と感じる
そしてその「知る者」には「私」という感覚が全く無い

エゴは偽りの存在物だ
唯一の偽りの存在物だ

そのほかの全ては真実だ

ふたつの真実が出会うとき その出会いの中で ときに第三の副次的現象が生まれる
ふたつの真実が出会い 偽物が生じる

しかしその偽物が生じるのは
意識が在るときだけだ
意識が無ければ 決して偽物は生じない

酸素と水素が出会うとき 決して偽りの水は生まれない

偽物が生じるのはあなたが
意識的であるときだけだ 間違いを犯すのは
意識だけだ

物質は 決して間違わない
物質は 決して偽りとはならない
物質は 常に真実だ
物質は 欺くこともなければ 欺かれることもない

欺きは
意識にだけ起こる
意識とともに 間違いの可能性が現れる

しかし次のことも大事だ

物質は常に現実的であり 決して偽りではないが
また決して真実でもない
物質は真実を知ることがない

間違う可能性が無かったら
真実を知る可能性も無い

両方の可能性は同時に開く

人間の意識は
間違いもするが 間違えたということを
知り それを去ることもできる

それが素晴らしいところだ

確かに危険はある それは当然のことだ
成長と危険は不可分だ

しかし物質には危険が存在しない

こう考えてごらん
新しいものが成長し 出現すると……
新しいものが進化すると
新しい危険もまた出現する

石に危険は存在しない あるいは小さなバクテリアの場合もだ

人間や動物には性が存在するが バクテリアにはそういう意味での性は無い
分裂して増殖するだけだ 一個のバクテリアがどんどん大きくなり 一定の大きさまで
成長すると 自動的に体が二つに分裂する 母体が二つに分かれ 二個のバクテリア
になる こうしたバクテリアの中には 永遠に生きるものもある
つまり 誕生が無いから 死も無いというわけだ

性とともに誕生が現れ
性とともに死が現れる

誕生とともに個体性が現れ
個体性とともにエゴが現れる

成長には危険がつきものだ
しかしその危険は素晴らしいものだ

もしあなたに理解があれば 危険の中に落ち込む替わりに
その危険を超越できる もし危険を超越したら あなたは成熟し
より大きな統合が成し遂げられる もし危険に落ち込んだら
その大きな統合は成し遂げられない

精神性とは頂点だ 最終だ 一切の成長の
究極的な統合だ

「偽」は超越され「真」は吸収された そして
「真」つまり現実だけが残り「偽」は全て消え去った

しかし
体が非現実だと考えてはいけない――
体は 現実だ
脳細胞も 現実だ
思考作用も 現実だ

ただ 意識と思考作用の
関係だけが 非現実だ それは結び目だ だから
それを解けばいい
それを解いたとたん扉は開かれる


最後の質問

自分の携わっている精神的探求が、エゴの企て(エゴ・トリップ)かそれとも 真正な宗教的探求なのか、どうしたらわかるでしょうか。

もし それが解からなかったら
もし そのような疑念をもつようなら
つまり その探求はエゴの企てだ

もし 疑念が無かったら
もし「それは真正だ」とハッキリ解かっていたら
もし 疑念が全く無かったら
その探求は真正なものだ

これは他人を欺くうんぬんの問題ではなく
自分自身を 欺くか否かの問題だ

もし確信がもてなかったら
もし疑念をもつようであれば
それはエゴ・トリップだ

もし探求が真正なものだったら
疑念など存在せず 確信が生まれる

別の言い方をすればこうだ
こういう問題を口にするということは
常にその人間の生き方が間違っているということだ

たとえば 誰かが私のところへ来て言う
「私の瞑想が深まっているかどうか、お尋ねしたいのですが」
そこで私は言う

「もしそれが深まっていたら 私に尋ねに来る必要は無い
深い瞑想体験というものは 自分でそれとわかるものだ
もし自分の瞑想の深みが自分でわからなかったら
他の誰にそれがわかるだろう
あなたがこうして私のところへ訊きに来るということは
その深みを自分で感じていないということだ
それで誰かに認めてもらいたい もし私が
『その通り あなたの瞑想はたいへん深まっている』と言ったら
あなたはすっかり満足する それはエゴ・トリップだ」

たとえば
病気にかかった人間は 自分が
病気であることを知っている ときには
病気が奥深くに隠されていて 自分では気つ"かないこともあるが
その逆は決して起こらない

完璧に健康な人間は
自分が健康であることを知っている

病気に気つ"かないことはあるだろうが
健康については もし健康がそこに存在していたら
気つ"かないということは決して無い

健康という現象は まさに幸福感そのものだ

もし自分で自分の
健康が感じられなかったら いったい誰が感じるのか
不健康についてなら どこかの専門家がその病気の診断を下せるかも知れないが
健康については 診断を下すべき専門家は居ない
その必要が無い

だから 自分が健康かどうか尋ねるようなら
あなたは不健康だ
それだけは確実だ その疑念がそれを証明している

だから精神的探求についても それが
エゴ・トリップか真正の探求かは判定できる

こういう疑念が生じるということは その探求が真正ではなく
エゴ・トリップだということだ

エゴ・トリップとは何か

それは 真の現象に対する関心よりも
それを 所有したいという関心のほうが強いということだ

人々は私のところへやって来て言う「私のことはお見通しだと思いますので、お尋ね
しますが、私のクンダリーニ(精神的エネルギー)は、上がっているでしょうか」

彼らの本当の関心はクンダリーニには無い
証明書が欲しいのだ

そこで時々 戯れに言ってみる
「そうだ あなたのクンダリーニは上がっている」
すると とたんにこの上も無く喜ぶ

憂鬱で悲しげな様子で現れた人間が「あなたのクンダリーニは上がっている」
と言われると まるで子供のように喜ぶ

彼は喜んで去って行くが 部屋を出ようとするとき ちょっと呼び戻して
「あれは冗談だ 本当じゃない 未だ何も起こっていない」と言う
すると再び悲しむというわけだ

そもそも彼は目覚めに関心をもっているわけでは全然ない
彼の関心は得意になることにある――
「もう自分のクンダリーニは上がった、もう自分は他人より偉い」と

多くのいわゆる導師(グル)たちは
いつもそうした傾向を利用する――人々のエゴ的傾向を……
彼らは人々に証明書を与える――「あなたはもう目覚めている。もうブッダだ」

そう言われて否定する者は居ない
もし私が十人の人間にそう言ったら 十人中九人は否定しない

みんな喜ぶ 彼らが探していたのは「あなたは目覚めた」と言ってくれる導師だった

偽りの導師が存在するのは あなたがそれを欲しているからだ

真正な導師は あなたにそんなことを言ったり証明書を与えたりしない

証明書を求めるのはエゴだ

しかし 証明書など要らない

体験は体験であって それ以外のなにものでもない

たとえ全世界がそれを否定しても構うことはない何も変わりはしない

もし真の体験が存在するなら 誰かに
「あなたはそれを達成した」とか「あなたは達成していない」とか言われたところで
それに何の意味があるだろう
どうでもいいことだ

でも それが どうでもよくない なぜなら
そもそもの探求がエゴによるものだからだ だから
「自分は全てを達成した」と
信じ込みたい

これはしばしば起こる

世間で失敗した者
世間で浮かばれない者
世間で成功できず「人生は刻々と過ぎていくのに、野心はいっこう達成されない」
と思っている者

そんな人間が 精神的探求へと向かう
するとその同じ野心を 今度はこちらで成就しようとする
そしてこちらでは いとも簡単に成就される

なぜなら精神的探求の場合
自分を欺くのは いとも簡単だからだ

現実世界では 物質の世界では
欺くのも それほど簡単ではない

もしあなたが貧乏だったら どうして金持ちのふりができるだろう
たとえそのふりをしたところで 誰も騙されはしない それでもまだ
「自分は金持ちだ」と言って頑張ったら 世間のみんなから
まわりに居る人々全てから 気違いだと思われる

私の昔知っていた男はある頃から 自分の事をジャワハラル・ネール(初代印度首相)
だと思うようになった それで家族や友人のみんなが彼に言って聞かせるのだ
「そんな馬鹿な事を言っちゃいけない。さもないと人に気違いだと思われる」
でも彼は言う
「馬鹿な事なぞ言っていない。私はジャワハラル・ネールだ」
彼は「ジャワハラル・ネール」の歌を歌い 巡回裁判所や役人や地方長官や行政官へ
電報を送るのだった――「これからそちらへ向かう。ジャワハラル・ネール」

ついに彼は捕らえられ 自宅に軟禁された 私は彼に会いに行った 私と同じ村に
住んでいたのだ そして私にこう言う「君はもののわかる人間だ。君ならわかるだろう
。あの馬鹿どもときたら誰もわかろうとしない――私はジャワハラル・ネールなのに」

そこで私は言った「そうだ だから会いに来たんだ あの馬鹿どもの事はどうでもいい
あなたのような偉人は いつも苦労するのだ」

彼は言った「その通りだ」彼はすっかり喜んでいた そして言った
「私のことをわかってくれるのは君だけだ。偉人に苦悩はつきものだ」

外の世界では 自分を欺こうとすると他人から気違い扱いされる
でも精神的探求の場合には まったく簡単だ
自分のクンダリーニが上がったと言えばいい

背中に痛みがあるから「クンダリーニが上がった」とか
頭脳のバランスがちょっとおかしく感じられるから「中心が開きそうだ」とか
絶えず頭痛がするから「第三の眼が開きそうだ」といった具合に
自分をだませばいい

誰も文句を言わないし 誰も構いはしない
しかし 偽りの教師はそれを認めてくれる
それで あなたは大喜びだ

エゴの企て(エゴ・トリップ)というのは
自分自身の変容に関心をもつより
それを承認してもらうことに関心を持つことだ

その承認は容易だ 安価で買える

そしてそれは相互的なものだ

導師が いわゆる導師が「あなたは目覚めた人間だ」と言うとき
もちろん彼があなたを目覚めさせたわけだから あなたはその導師に尊敬を払う

これは相互的なものだ

あなたは彼に尊敬を払う そして
あなたは彼から離れられなくなる

なぜなら もしあなたがその導師を離れたら
あなたの目覚めはどうなるか……
あなたのクンダリーニはどうなるか
だから離れるわけにはいかない

その導師も貴方に頼っている なぜなら貴方が彼に尊敬と名誉を捧げるからだ
貴方もその導師に頼っている なぜなら他人は 誰も貴方の目覚めを信じないからだ

だから離れられない

これは相互的な詐偽だ

もし真に探求しているなら ことはそれほど簡単ではない

また目撃者などは要らない

真の探求は困難で骨折りだ
何生かかるかも知れない
苦痛に満ちている――長い苦しみだ

なぜなら
多くを破壊し
多くを超越し
長い既成の鎖を断つ必要があるからだ

それは容易ではない
子供の遊びではない

それは困難を極め 苦悩は必至だ

自らの様式(パターン)を変えようとするときには
古いもの全てを廃棄する必要がある そして貴方のあらゆる投資は
古いものだ だから苦悩は必至だ

自分の内側にエゴを探してみても見あたらなかったら
今までお馴染みだった自己イメージはどうなるか

貴方はいつも考えていた――自分はたいへん良い人間で道徳的で……そのイメージは
どうなる 自分がどこにも見つからないとなれば その良い人間はどこに居る

エゴの中にはその全てが含まれている――
自分についての考えが全て含まれている

だから簡単に捨て去れるものではない

エゴは あ な た だ……あなたの過去全体だ

エゴを落としたとき あなたはまさに零(ゼロ)になる

まるで自分がかつて存在していなかったかのように
まるで今初めて生まれたかのように
何の経験も
何の知識も
何の過去も無い――まさに無垢の子供だ

大胆さが必要だ
勇気が必要だ

真正の探求は骨折りだ

エゴの企て(エゴ・トリップ)は全くたやすい
いとも簡単に成就される

なぜなら 実際には何も成就されないからだ ただ
信じるというだけだ 自分に何かが起こったと
信じるのみ――

時間とエネルギーと生の浪費だ

だから貴方が真の師のもとにいたら 師は絶えずあなたをその
エゴ・トリップから引き戻す

師の役割は あなたが気違いになったり 夢想を始めないように監視することだ
師はあなたを引き戻す

でもこれは たいへん難しいことだ

引き戻されるたびに あなたは師に復讐する

「私は大変高くまで行っていた。まさに爆発する寸前だった。それなのに師は
『何も起こりはしない。ただ想像しているだけだ』と言う」……

そうして貴方は地へと引き戻される

真の師の弟子になることは難しい

そして弟子は 殆どいつも師に逆らう

なぜなら 弟子たちは自らのエゴ・トリップにいそしんでいるのに
師は 彼らをそこから連れ戻そうとするからだ

そして こうした弟子達は 偽りの師を作り上げる
彼らの欲求は非常に大きく
その欲求を充たしてくれる人間なら 誰でも師にしてしまう

エゴの成長に手を貸すのは容易だ なぜなら
あなたがそれを喜ぶからだ

しかし
エゴが消え去るよう手助けするのは 実に難しい

だから 毎日 いつもいつも
よく確かめることだ――自分の探求が
エゴ・トリップかどうかを……

エゴのやり口は 実に全く狡猾だ

それは表面的なものではない
エゴは内側から 貴方を操作する――無意識の奥深くから

しかし もし貴方が深く覚醒していたら
エゴにだまされることもない

もし深く覚醒していたら
エゴの言語がわかるようになり
エゴの感覚がわかるようになる

なぜならエゴは常に
体験を追い求めているからだ

これこそが鍵だ

エゴは常に
体験を追い求めている
体験が性的なものであれ精神的なものであれ何の変わりも無い

エゴは貪欲だ――これを
体験しよう あれを
体験しよう クンダリーニを
体験しよう 第七身体を
体験しよう ……という具合に つねに
体験を追っている

真の探求は どんな体験に対しても貪欲でない

なぜなら どんな体験もやがて
失望に終わるからだ……必ず
失望に終わる

なぜなら どんな
体験も やがて新鮮味を失うからだ そしてそれに飽きた人間は また再び新たな
体験を 探し始める

その新たな体験の探求は やはり
エゴ的なものだ 人は瞑想を始めるが その瞑想も
新たな刺激を得るためだ

自分の生は退屈だ……日々の決まりきった生活には飽き飽きした
だから何か刺激が欲しい

おそらく貴方はそれを手に入れるだろう なぜなら人は
自分の求めるものを何でも手にするからだ

これこそが苦だ――すなわち
欲求したものは 何でも手にする そしてそれから後悔する

その刺激を手に入れるが それから貴方はどうなるか
その刺激にもまた飽きる そして今度は
LSDなり何なりを求める あるいは
この師からあの師へ
この道からあの道へと遍歴し
新たな刺激を求める

エゴとは
新たな体験を求める
貪欲さだ

しかし どんな
新しい体験もやがて古くなる
新しいものは何でも古くなる
そこで再び……

実際のところ
精神的探求とは 体験への探求ではない
精神的探求とは 自己の存在への探求だ

それが探求するもの それはどんな
体験でもない――至福でさえもなくエクスタシーでさえもない なぜなら
体験は 外的なものだからだ いかに内的であろうとも
体験は 外的なものだ

精神的探求とは 自分の内側に在る真の
存在への探求だ

自分の真実を
知る必要がある それを
知ることによって 体験への貪欲は全て止む それを
知ることによって 新たな体験へ向かおうという欲求は無くなる

内的真実を
真正な存在を知ることによって
あらゆる探求は止む

だから
体験に向かわないことだ
体験は全てマインドの策略だ
体験は全て逃避だ

瞑想とは 体験ではなく 認識(さとり)だ
瞑想とは 体験ではなく むしろ あらゆる体験の停止だ

それゆえ 内側の出来事を真に表現しようとした者
たとえば 仏陀のような人間は
「そこで何が起こるかは尋ねてはいけない」と言う
あるいは さらに尋ねられたら
「そこでは何も起こらない」と言う

もし私が「瞑想の中では何も起こらない」と言ったら
貴方はどうするか

きっと瞑想をやめるだろう――
「もし何も起こらなかったら、それが何の役に立つだろう」

それは 貴方のエゴの企てを示している

私が「瞑想では何も起こらない」と言い
それでも貴方が
「私は今まで色んな出来事を体験し、色んな体験を経てきたが、
どんな体験もみな失望に終わった」と言うようなら……

それを貴方は一通り経験し
それがなにものでもないことを知る そして
それを繰り返したいと思い そして
その繰り返しにもまた退屈してしまう そこで何か別のものに移る……

貴方はこのようにして
何生も何生も動き回ってきた 何千も何千もの生を
体験を追いつつ過ごしてきた

そして言う「私は体験を知った。もはや新たな体験は何も要らない。
体験者が知りたい」

そうして焦点がすっかり変化する

体験 は貴方の外にある
体験者 とは貴方の存在だ

そして これこそ
精神的探求と虚偽の相違点だ

体験 に向かっていたら その探求は偽りだ
体験者 に向かっていたら それは本物だ

体験者に向かうとき クンダリーニやチャクラといったものはどうでもいい

それらはきっと起こるだろうが
誰もそれに関心をもったりしないし そんな横道に逸れたりしない

向かうもの それは
内側の中心だ――その
内側の中心には 意識のほか何も残っていない その
内側の中心では 全く ただ独りだ

ただ意識だけが残っている……内容物の無い意識だけが

意識の内容物とは体験だ 自分の体験するもの それは全て
意識の内容物だ 例えば苦悩を体験する……その苦悩こそ
意識の内容物だ また 喜びを体験する……その喜びが
意識の内容物だ また 退屈を体験する……その退屈が
意識の内容物だ また 沈黙を体験する……その沈黙が
意識の内容物だ また 至福を体験する……その至福が
意識の内容物だ 

こうして貴方は延々と内容物を変えていく
永久に変え続けることもできるだろう

でもそれは
本当のものではない
本当のものは こうした体験の起こる意識のことだ――
退屈の 起 こ る 者
至福の 起 こ る 者 だ

精神的探求とは 何 が 起こるかではなく
誰 に 起こるかだ

そうすればエゴの生ずる可能性も無くなる




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