最近のサリタ、グランドキャニオンで

 

  私は高一の時、産経新聞の論文コンクールで佳作をとって十万円貰いました。その論文の題名は「国境が消えるとき」でした。本当は私は「国境は心(マインド)」という題名をつけて、そういう意味で作りましたが、あとで先生に題名を変えられてしまったのでね。本当の国境はなく、それは人の心(つまりマインド)のなかにしかないので、だから国境は越えていけるっていう意味の論文でした。当時の私のありったけをこめたものた゛ったのですよ。

  私は10歳までアメリカで育ちました。そのときの私にとって、両親の故郷である日本は理想郷でした。よく知らない日本という国に望郷の念というか、アメリカ生活で得られないものがすべて日本にあると思っていました。

 

和風一色の我が家

幼少時、アメリカの自宅で

  私のアメリカの家には、もうほとんど和風一色というか、紙風船とか、ラムネのビン、日本から送られてくるものがいろいろと飾ってあって、弥勒菩薩の絵も飾ってあったし(これはこわかったけどね)、兜もお雛様も年中飾ってあって、そういうものを子供ごころにとても愛しくて何時間でもながめていました。繊細な丸みというか、日本のものはアメリカのものとはちがう深い趣が感じられて。お雛様の小さいうつわとか飽きずに手にとって撫で回していました。ラムネのビンとか、形がなんとも摩訶不思議でそこがまた「日本」らしくてね。真ん中のガラス玉などがわけもなく神秘的に感じられて、よく知らない自分の故郷がなつかしくなったりしました。私は、日本というのはべつ世界に思っていました。なにか大切な自分のなかの秘密の場所が、そこに帰っていったら、安心というのが私のなかの日本でした。

 

あこがれの日本へ…でも嫌な予感が…

  ところが、私が10歳になったとき、父の仕事の関係で日本に帰ることになりました。あれほどあこがれていた日本、そこへいざ帰るってなったら、嫌な予感がしてね、日本に帰りたくないって、泣いたんだけど…。何か胸騒ぎに近いような不安を感じて、アメリカに残りたいと命がけでダダをこねる自分がいました。両親に、「すぐにアメリカに戻るんだから」と、「ちょっとの間だから」と説得され、半分騙し騙しのカッコウで、日本に帰りました。でも、やっぱりその不安が的中してしまいました。

 

日本でいじめに直面

  日本に帰って、奈良の田舎のまったく普通の小学校に通いはじめました。が、そこで日本によくある陰湿でしかも巧妙ないじめに直面しました。昨日の友は今日の敵、みたいないじめ方で、さっきまで気持ちが悪いほど優しかった友達がクラスの女王だか大将だかの命令でいきなり「大嫌い、死ね」とか殺人的な勢いでけなすんです。もうそれはサイコのサスペンス映画も色あせるほど右を向いても左を向いて真っ暗、悪夢のような日々でした。クラスの中に王国が出来あがっていて、その厳しいルールにそむいたら自分達も生きていけないと思うからみんな盲目的にそのクラスのリーダーに服従するんですね、もう恐怖から。友達が好きだから一緒にいるんじゃなく、そうしないと排除されてしまうから。誰でもいい、ふりでもいい、一緒にいて、でないといじめられる。これは牢獄の中の社会と一緒なんですね。私はそのルールの基本も分かってなかったから、異端者として標的にされました。無視され騙され笑われ石を投げられ。それもあからさまにではなく、先生や他の生徒がいない時に。アメリカの学校ではこんなに出来あがったいじめのシステムみたいのはなかった。というかいじめを必要としているシステムといえます、日本の学校って。

  小学校を卒業するまでほとんどいじめられ、振りまわされました。日本の子供社会の恐ろしさを知り、枠にがっちりはめられて何もみようとしない大人社会のいくじなさを知り、自分のなかで、日本という象徴的な故郷がガラガラと崩れ去りました。あまりの幻滅にすっかり日本が嫌いになりましたね。ことあるごとに自分の中て゛アメリカと日本を比較して日本のアカン所を探そうとして躍起になってました。テレビを見てる時も外にいる時もアメリカではこうだったああだったのにとくらべてばかりいて、どこにいても自分の内側では二つの故郷が戦争状態にいました。寝ても覚めても、四六時中。しかもそれから何年も。

 

日本の学校で思うこと

  思うに、日本人には両親からのコンディショニングをみるよりも、学校でどう生きねばならなかった事を見た方が色々出てくるんじゃないかと思います。家庭内のドラマより強烈に植え付けられるものってあったと思います。そこで麻痺したり凍りついてしまった感情とか。西洋での学校社会はもっと淡白なもので、日本みたいに一丸になって何かをするという家族的というか軍隊的な要素はあまりなかった。家族が生活の中心だから。でも日本の学校は第二の家庭生活のようて゜、だから学校で排除されたら生死に関わってくる感じですよ。一日のほとんどを学校で過ごし、給食やら掃除やらで常に集団行動をとらされ、遠足や運動会その他でお互いの親睦を深める事を強要されます。感情表現さえも自分のものではなく、クラスの雰囲気で決める..。学校という「昼間の家庭」にいる子供は自分の安全を確保するために1人きりで右往左往しなければならなく、みんなよるすべのない孤児みたいに不安定でした。すくなくとも私のいた学校はそうだったと思います。

 

今度はアメリカが私の秘密の故郷に…

  こんな日本に比べたらアメリカは天国だったように思えてきて、今度は自分の秘密の故郷はアメリカという事になってしまいました。自分を守るために本能的にすりかえないとやっていけなかったからね。でも気が付いたんですけど、私の中では昔から故郷というのは象徴でしかなかったんです。それはどこかの土地ではなく、自分がトータルに生きてもいい桃源郷のようなものでした。

  だけど今度はアメリカに帰ったら全てがよくなるとしばらく信じ込んでしまったのです。

 

十二歳にして空虚感が荒れ狂いました

  日本人の子供への条件付け全てがとてもダークなものにみえて、日本人にはなるまいといじめられるたびに自分に誓いました。日本社会を受け入れるということは私のなかで卑劣ないじめへの敗北を意味していました。いじめに耐えたのも来年こそはきっとアメリカに一家そろって帰るだろうとも思っていたから。でもある日はっと気がついたら、あれほど嫌っていた日本社会に私はすっかり順応していることに気づき愕然としました。「日本」に自分を征服されてしまった気がした。内側にあった自分の大切なもの、それをすべて失ってしまったような気がして、十二歳にして空虚感が荒れ狂いました。思春期に近い年齢もあったのでしょうけど、自分に対する自信とか信用がほとんど殺されてしまった感じでした。

 

日本にもアメリカにもなじみきれず、
自分を守る壁をつくっていた

  結局 全面的にどこかへ自分をゆだねる事ができない、それがとても寂しかった。アメリカでは日本人だからアメリカ社会に入りきれない、日本でも自分は日本になじみきれない、そんな子供時代でした。どの国にいても自分自身でいたら拒絶され、それで自分を守るために壁をつくり、いつまでもでてこれなかったんですね。

写真(左)は15歳のころ、学校では学級委員長をしていた。

 

帰国6年後にして帰国子女のための高校に転校したが…

  中学に入学してからは日本人との付き合い方のコツみたいなのが分かってきて、(そうです、その頃の私の頭の中にはすて゜に日本人との付き合い方の虎の巻が出来あがっていたのです。)クラスの中のカーストも上のほうへ移行できました。いじめを交わす術も身につき、精神的にゆとりは出てきてたけど、やはりどこかでは全然日本人は信用できなくて(次の日に手のひら返したようにいじめてくるんじゃないかという疑いとか)暇さえあればアメリカの望郷の念にかられて、自分はいつこの監獄を出られるんだろうかと思っていたんですよ。実際、家も学校も色々な意味で息がつまりそうだった。それでも中学の3年間はいい子でがんばって、おかげでその頃から接触障害に陥ってしまったけど、とても日本的に偏差値で高校を選び、卒業式はみんなと一緒に涙を流して卒業しました。

  ところが入った女子高が超日本という感じで、その時になってやっと両親ははじめからアメリカに帰る予定なんてなかったんだということに気づき、本気で両親に反発しました。 勢いにのり女子高を退学して、私の希望だった国際学校にいれてもらえました。そこはほとんど帰国子女ばかり。それまで奈良の田舎にいたので、私と同じ境遇の帰国子女たちに逢えませんでしたが、その学校にいったら、孤立感がなくなって、気を許せる仲間ができるんじゃないかって、期待しまくって、はりきって通い始めました。

  その国際学校は、実験的な試みをしていて、同じ校舎の中に在日の白人の通うインターナショナル・スクールと帰国子女たちのための国際学校が共存してました。そこで私は帰国子女の学校とインターナショナルスクール(在日白人の学校)の溝を埋めようとしていました。生徒会長にまでなって、そうすることで、自分がなんかひきさかれている感じがする、日本とアメリカの間でくるしんだ私の体験から、お互いにわかりあえるのではないかと、一生懸命やりました。

生徒会長をしていた国際学校時代、先生と

  でもやはりもうなにかが違っていました。その国際学校に入学したときは、私は日本に帰ってからすでに6年間の月日がたっていました。方や、他の生徒たちはほとんどが帰国したばかり。日本はいいなあと無邪気でさ。同じ帰国子女のハズなのに話が合わず、私はなんだか裏切られた気がしました。インターナショナルスクールの内輪の白人社会もとても閉鎖的な感じがして、全然自分たちの世界の考え方が正しいに決まってるし思ってる節があって(とても親切な先生もいましたけどね)もうここまでくると、どうしていいのか!?まったくわからなくなってきた。どこにいったら、楽になるのか、どこにいっても楽にはならないのじゃないか、その当時は和尚もコミューンも知らず狭い世界しか知らなかったから、この広い宇宙の中に自分の居場所がどこにもないと思いつめてしまったのですね。

 

鬱がひどくなって、学校に行けなくなった

  そのころ、家でもいろいろあって、だんだん鬱がひどくなっていきました。授業中に倒れたり、対人恐怖症になって、それまでは、明るく前向きに生きていこうという感じでいたかったのに…人が怖くなってしまって、耐えられなくなってきて、学校へいけなくなりました。生徒会長だったのにね。そういう責任感ものしかかってきて、自分のなかで落ちてゆくのはもう止められず、最終的に入院しなくてはならないほどひどくなってしまいました。

 

入院中にまだ見た事もない和尚が夢で暗示をくれた
そしてサニヤシンに出会った!