メガ、もとヒッピー、いまサニヤシン、彼が語る、奇妙奇天烈、楽しい人生。

1977年、僕はイスタンブールでヒッチハイクをしていた…僕の所持金、40ドルだった




  1977年、僕はヒッチハイクをしていた。イスタンブール(トルコ)でヒッチハイクしたときは、僕のポケットのなかにあった所持金は40ドルだった。それからヒッチハイクを続け、トルコを抜けて、イラン、アフガニスタン、パキスタン、北インド、ニューデリーを通過して、プーナにたどりついた。僕がプーナに着いたとき、僕の所持金20ドル。それを元手にレストランまがいのことをはじめて、それから1年もの間、インドに滞在した。

  なんで、トルコでヒッチハイクしてまでプーナに向かったのかって?ううん、当時、トルコのイスタンブールに来るようになる以前は、ロンドンで生活していた。そこで、ちょっと信じがたい考えの持ち主に出会ったのがそもそものことの始まりさ。その男は「イギリスにコミューンを創る!」という壮大なヴィジョンを持っていた。彼は新聞に広告を出して、それは「共同体を一緒に作ろうと思う人間よ来たれ!」みたいな内容で、それで人が集まってきた。彼にはそれなりのカリスマ性があったし、しかもヴィジョンもあった、共同体を創ろう!っていうね。

  もちろん彼はサニヤシンだった。それでミーティングをやったときにサニヤシンも集まってきたが、そこに集まった40人のうち、半分はまったく見ず知らずの連中だった。子供のいる家族連れがいたり、ただ街角で新聞を見ただけの路上生活者まで混じっていたり、およそサニヤシンとか、インドとか、そういうものにはまったく関係のない人たちが半分も来たんだよ。

  ミーティングで、我々は我々の持ち財産をすべてひとつにすることを決定した。要はみんな持ち金を包み隠さず出して、ひとつの財布を作って、で、2台のバスを購入し、共同体のための土地をイギリスのウェールズに探しに行こう!という決定だった。今から思うと、どんでもないひちゃかめっちゃかな決定だったと思うけど、当時、共同体というと、なんだか理想郷というか、すばらしい考えに思えたんだね。だから、持ち家があった人は、それを売却して、そのお金を全て出した。一銭も持っていない人も、それでも受け入れられて…ぼくは、当時イギリスでしばらく定職についていて、ある程度のまとまった金があった。だから、それをすべて投入した。

 




2台のバスを購入して、ウェールズまで土地を見に行った…。土地を見るところまではよかったが、突然、リーダーが、こう言った。
「うん、私が思うに、我々は、まずインドにいくべきだろう、そしてバグワンの祝福を受けるんだ!」



  それで急きょ、僕らはインドに向けて出発することになった。突然、20人の水知らぬの連中もバグワンの祝福を受けるためにインドに向かうことになった。彼らは、いったい全体、共同体とインドやバグワンがどういう関係にあるのか、さっぱりわからなかったようだが…僕らは当時オレンジ色の服にマラをかけていたしね…それがどういうことなのか全くわからないようだったけど、どういうわけだか、新聞を見たりして、それで引き込まれたんだね。とにかく、バスはティピというアメリカインディアンのテントの設備も積み込んで、記録映画を撮るためにビデオ撮りの設備も購入して…それで僕らはいよいよ遥かなるインドのプーナに向けてバスを出発させた。

  僕らを乗せたバスは、オランダやフランス、ドイツやオーストリアを通過していった…あるとき、バスの一台が故障して、うんともすんとも動かなくなってしまった。それはボルボのバスだった。ちょっと信じがたい話しかもしれないが、そのボルボバスが故障したのは、ちょうどボルボのバスが製造されている、その工場のすぐ近くだったんだ!僕らはもう一台のバスで故障したバスを牽引してボルボの工場にたどりついた。でも、僕らはプーナへの旅がまだ始まったばかりで、節約しなければなかったので、工場の人と交渉したんだ。「あなた方が僕らのバスを修理してくれる、そのお礼に、僕らはミューシャンのバンドですから、音楽をやります。修理と交換で、どうでしょう?」って聞くと、彼らは快くOKしてくれた。とにかくサニヤシンは音楽好きなので、適当にバンドを組んで音楽をやるくらい手馴れたものだった。僕らの旅は、だいたい、こんな感じで旅は進んでいった。

  こんなちょっと奇妙なこともあった。バスの修理で立ち止まっているとき、近くの農地にバスを止めさせてもらっていた。もちろん、農夫に尋ねてOKをもらってからバスを駐車して、そして、インディアン・テントのティピを取り出して設置…わかるでしょ、それからどうなったか、ヒッピーのお時間ってやつ。当時はみんなヒッピーだったからね、ヒッピータイム、みんながストーンしたってこと。大勢の人間が一気にストーンする有様はなかなかのもの。でも、その日、こういうミーティングの真っ最中に、3人の僧が突然入ってきたんだ。その僧たちのひとりが、あなたがたは東の方に向かって進んでいるらしいが、この若い僧を一緒に連れて行ってくれないかと聞いてきた。その若い僧は日本人だった。頭は綺麗にそられてつるつるだったし、手に祈祷をする道具をもっていた。なんでも、彼はインドの彼のマスターに会いに行きたいが一銭も金を持ち合わせていないという。それで僕らに便乗させてくれという話しだったが、僕らは「いいよ、一緒においで!」って二つ返事で受け入れることにした。

  僕らの旅はいつもこんな風に、ハプニングの連続で…そうそう、こんなとんでもないことがあった!僕らは、オランダのヒューマニバーシティに立ちよったんだけど…みんなが結構疲れてきたので、それならと立ち寄ることになったんだけど…ちょうどそのとき、僕らがバスをオランダのヒューマニバーシティに止めたとき、ヒューマニバーシティを率いるヴィレッシュたちは例のAUMマラソンの最終日で、パーティを一緒にやろうということになったんだ。それで、僕らはそのパーティに参加することになって、夕食の支度を始めた。でも、それがとんでもないことになってしまった。じつは、あとでわかったんだけど、うちのメンバーがロンドンを出発するとき、一緒にマジックマッシュルームをバスに積み込んできていたんだ。その日の調理当番が、そのマジックマッシュルームを普通のマッシュルームだと思い込んで、スープに大量に投入してしまった。だから、パーティの晩餐にマジックマッシュルームが一杯入ったスペシャル・サイケデリック・スープをみんなで頂くことになってしまったのさ。その日、パーティも終わりに近づき、みんながミーティングでフィードバックとかシェアリングをやっている最中、奇妙な症状を訴え始めるものが続出した。その最中はいったい何が起こっているのか、まったくわけがわからなかったが、わかるわけないが、とてもサイケな状態で会場はまったくメチャクチャ…後になって、その日の調理番がミスを犯したことが判明して…普通、スープにあんなものを…サイケデリックな症状を起こすマッシュルームなんて入れるわけがないから、とんでもないことだって…でもね、まぁ、ヒッピーの時代だったから、時代はとてもクレージーだったから許されたけどね…。




こんな感じでヨーロッパをバスで通過していったんだけど、それは本当に気違いじみていた。40人の人間が、なかには子供もいたが、2台のバスに便乗してともに生活しながら移動、当然、バスの上ではいつもなにかが起こっていた。


  誰かと誰かがエンカウンターして、騒動を起こしたり、ある女性がいままで一緒にいた男性から他の男性のもとへ走る…走るといってもバスのうえでの出来事なんだ!いつもあれやこれやと人間関係の騒動が起こりつづけ…まさにグループプロセスと同じだったよ。40人と寝起きをともにし、生活する、これにはもうみんなの我慢がきかなく始めていた。
  だから、バスがイスタンブールに到達したとき、一台のバスの連中が我々はトルコでもっと時間と取りたい、スーフィーたちに会いに行きたいと言い出した。他のバスの連中は、我々はインドに真っ先に行くのだとついに仲間割れ状態だった。僕は言った。
「もうあんたらみんなにはうんざりした。俺はヒッチハイクでひとりでインドに向かうことにする!」

  そのとき、僕らには会計係りがいて、彼が僕らの財産をすべて管理していた。じつはイスタンブールで僕らのお金はそろそろ底をつき始めていた。40人のためにあと残されていたお金は、イスタンブールでついに2000ドルを切っていた。そもそもバスを2台買ったのが大出費だったし、それに長旅のための改造をしたり、もちろん重油だって必要だったし、みんなの食料も調達しなければならなかった…そういう理由で底をつき始めたんだ。残されたお金をきっちり40で割ると、一人分の分け前は40ドルだった。会計係りが「オーケー、メガ、あんたはこれからひとりでヒッチハイクをする。だから40ドルを受け取る権利がある」そう言って僕にきっかり40ドルを渡してよこした。




僕は渡された40ドルを手にバスを離れ、さぁ、ヒッチハイクをすることになったが、その日の夜には、僕を乗せてくれるトラックに出会うことができた。



  そのトラックには2人の男が乗っていた。一人はフランス人、もう一人はスイス人で、彼らはとても大きなトラックに乗っていた。トラックの荷台にはユンボが載っていて、彼らはそのユンボをパキスタンに配達する途中だった。彼ら二人ともフランス語をしゃべり、僕もとても流暢なフランス語も英語もしゃべるから彼らは大喜びで僕を乗せてくれた。というのはね、この二人、英語が少々苦手だった。しかし、パキスタンに着くまで、いくつも通関しなければならず、その度に英語力が必要とされたんだ。

  普通は、トラックの運転手にしても、ヒッチハイクする人間を長いこと車に乗せる事はない。日中はともかく、夜になると、運転手はヒッチの連中を下ろすもんだった。何をしでかすか、わからなかったからね、ヒッチする人間を信用しなかったわけさ。 当時は、とにかくなんでもキチガイじみていたからね…でもね、あの二人の運転手は、僕を信用してくれて、ずっと乗せてくれたんだ。僕はね、オレンジの色の服をきて、首にはマラをかけていて、長髪だったし、彼らにはとても奇妙に見えたに違いないんだけど…、よく乗せてくれたもんだって今でも思うよ。

  こういう次第で僕はプーナに到着したわけさ。他の2台のバスがどうなったかって? 2台とも僕に遅れて到着した!そのうちの一台は、トルコでスーフィに会いに行ったバスはかなり遅かったけどもとにかく着いた。そのバスは、じつは途中、アフガニスタンのカブールでついにお金が尽きてしまって立ち往生…それでどうしたと思う?みんなで赤十字に行って血を売ったんだ。そのお金でディーゼル燃料を買って、僕が到着したよりずっとずっと後になってプーナに現れた。とにかく2台ともプーナに到着したんだ

  最初のバスがプーナに到着したとき、それは当時アシュラムがやっていたドミトリーに到着した。そこで僕はじつはね、レストランをすでにオープンしていて、それを見た彼らはかなり驚いた様子で「メガ!」って叫んだんだ。僕は「いらっしゃい!」って答えてやったよ。




生き延びるためには、人は創造的でなくてはならない…僕の状況はまさにそれだった。ノンビリと構えていられるような状況じゃなかったよ。何かが起こらなくてはならなかった。考えるより、即行動…生きるか死ぬか、そういうことだったんだ。


  僕がプーナに到着そうそう始めたレストランは、昔、マハラジャ(インドのお金持ち)が住んでいたパレスのなかにあった。もう相当古めかしくなっていたけどね、それはいまでも建っている。ちょうど現在のOSHOコミューンの背後に、今、新しいブッダホールを建設しているその横にあたるけど、そこにアパートの建物が数多く見えるね、そのなかにいまでもマハラジャの古いパレスが残っている。それは当時、アシュラムのドミトリーとして利用されていた。いまでも、そのとき、僕と一緒にそのドミトリーで生活していた仲間と、ここプーナで出会うことがある。

  なんでそこでレストランを始めることになったかって?それはこんなだったよ…プーナに着いて、そのドミトリーに入ったとき、僕は一人の背の高いドイツ人に出くわした。長い髪と長い髭があって、そのころはみんなが誰かれも長い髪に長い髭をしていた。彼はまるでロシアのラスプーチンのような容姿で、目がギョロっとしていた。

  僕がドミトリーに入るなり、彼が僕に言った。
「私は君が来るのを待っていた!」
僕は言った。
「なんだって?」
当時は、みんなこんな調子で、エソテリックな、神秘的で、じつはよくわからない口調で話すことが多かったんだよ。僕は言った。
「なんだって?僕はあんたがいったい誰かすらも知らない。あんたに会ったのはこれが最初だよ。」
彼は言った。
「気にすることなかれ。私は、君がここにやってくるのを既に知っていた。君が、私を助けることになるのもね」
そして彼は、「君はいくら持ち合わせがあるかな?」と聞いてきた。 僕は「20ドルだよ」と言った。
「十分だっ!我々はそのお金でここにレストランを開くのだ」
そう彼は言ったが、たぶん、そのとき、彼にはほとんど何も持ち合わせがなかったに違いない。

  それで僕らは、マーケットに出かけた。ダル豆を買い、お米を買い、チャイ用のお茶を買い、基本的なものを買った。ミルクは買う必要がなかったね。ドミトリーのすぐ隣に牛を飼っている男が住んでいて、いつでも新鮮なミルクが安く買えたから。それとケロシン・ストーブとナベカマを買った。それで、早速、ダルとライスという簡単なメシを作り始め、野菜も簡単に手に入ったから、料理して出した。手に入った野菜を次々とナベにいれていけば、はい出来上がり!野菜の料理は超簡単だったよ。当時はこんな料理でみんな喜んで食べてくれた。それとチャイやコーヒーを出して、そうするとみんなが店にたまり始めてね…。僕はそこでメシを食い、そこでメシを人に出して、それでドミトリーで生活するための家賃も手に入った。ドミトリーは一日たった5ルピーだったよ。




まだまだ続く、メガの奇天烈人生。次は疥癬病にやられゴアへ、そして次から次へと奇天烈なお話し!
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