盲目的信仰

  インドと言えば、ヴァナラシを思い浮かべ、ガンジスに沐浴する信仰深き人々の姿、その傍らでは火葬の炎が舞い上がり、それはとても神秘的なイメージに包まれている。が、しかし、その神秘のベールを一皮むけば、そこには信仰の盲目さが横たわっている。




夢のプロジェクト

  インドには大きな川が5つある。ディアス川、サンドリッチ川、ガンジス川、ゼノン川、そしてインダス川だ。この中ではとくにインダス川とガンジス川は有名だろう。歴史では、「川が文明を築く」と言うが、まさにこの巨大な二つの川のおかげで、文明が開けた。インダス川にはインダス文明、そして、ガンジス川に沿っては、いまのインドの文明が生まれた。ハラッパ・モヘンジョダロの遺跡といえば、歴史的に有名な地名だろう。いまは廃墟と化しているが、インダス文明の発祥の地として、世界的に知られている。

  イギリスがまだインドを支配しているころは、この二つの川がインドに属していた。1947年にイギリスがインドを独立させたとき、インドは東パキスタンと西パキスタン、そしてここインドの3つに分割されたが、インダス川はそのほとんどがパキスタン領となった。

  この独立のとき、インドが三つに分断され、パキスタンとインドに分離されたおかげで、ちょうどインドとパキスタンの国境となったパンジャブ地方は真二つに引き裂かれた。西側のパンジャブ地方はパキスタンに、東側のパンジャブ地方はインドに帰属した。それでパンジャブ地方の人々は困ったことになった。というのは、インダス川がこのパンジャブ地方を通過しているのだが、その主流はパキスタン領となり、インド側のパンジャブ地方はほとんど川を失ってしまった。しかも、彼らはシーク教を辛抱しており、イスラム教を国教とするパキスタンに属することはできない。それで、川の少ないインド側のパンジャブ地方にみな追いやられることになったのだ。

  さぁ、どうしたものだろう?水がなければ生きてはいけない。インド側のパンジャブ地方では畑すら満足に耕すことができない。そこはまさに砂漠のような不毛の地。

  もともと、パンジャブ地方の人々は伝統的に戦士の部族として鍛えられてきた。シークという言葉を知っているだろうか?彼らはターバンを巻いたシーク教徒として知られている。このシーク教はグル・ナナックによって創設されが、開祖ナナックはこの宗派をまさに戦士のように育て上げていたのである。それには理由があったのだ。当時、インドはたえずムガール帝国の侵略に悩まされており、ムガールがインドに侵略するときは、聳え立つヒマラヤを迂回して、アフガニスタン経由でカイバル峠やカンダハルを超えるルートで進入してくる。そのとき必ずパンジャブ地方を通過する。だから、自分たちを守るために、ナナックはパンジャブ地方の人々を戦士として鍛え上げた。ところで、インドの元首相だったインディラ・ガンジーは、彼女のボディ・ガードを勤めるシークによって暗殺されたが、シークたちは、現代では軍隊や護衛部隊、あるいは優秀なガードマンとして働いていることが多い。

  グル・ナナックを開祖と仰ぎ、シーク教を辛抱するパンジャブ地方の人々は、イスラム教のパキスタン側に属することはできなかった。だから、インド側のパンジャブ地方に集まってきたが、そこは砂漠のような不毛の地であったために、どうしたものか困り果てたのだ。

  時の首相、ジャワラ・ネルーは、「夢のプロジェクト」として、この不毛の地パンジャブを変えるために、残されたインダス川の支流の一部に巨大なダムを作り、貯水した水でパンジャブを緑の楽園に変えるという構想を立ち上げた。ジャワラ・ネルーの熱心さに答えるかのように、戦士シークたちがダム工事という過酷な労働に立ち上がった。彼らは自前の忍耐強さを生かし、ダム建設のために惜しみない労力を注ぎ込み、ついに夢のプロジェクトは現実のものとなった。完成したダムからは豊富な電力が供給され、そして灌漑用水として、無数に張り巡らされ運河を通じてパンジャブ地方は隅々にまで水が行き渡るようになった。やがて、パンジャブ地方は、インド有数の穀倉地帯として小麦などを生産するようになり、インドの「穀物の壷(grain bowl)」として呼ばれるようになった。

  もともとインドの穀物生産は、雨頼み。現在も基本的にそうだが、雨が降らないと干害になり、逆に雨が降りすぎると、田畑は水浸しとなって作物が育たない。インドでは治水ということがまったく行われてこなかったのだ。

  そういう意味で、このパンジャブ地方は大成功だった。砂漠のような不毛の地に水をひき、運河を張り巡らして一大穀倉地帯にしてしまったのだから。もちろん、土自体はもともとよかったということもある。インダス川の大氾濫して、ヒマラヤの豊饒な土地がパンジャブにはあったのだ。


ガンジス川とヤムナ川

  インドの中央部から東側にはガンジス川とヤムナ川がある。ガンジス川はインドではガンガと呼ばれている。それとヤムナ川…こちらは世界にはあまり知られていないかもしれないが、ガンジスと並ぶ巨大な川で、デリーはこの川の沿線に発達した町だ。この二つの川は源流をヒマラヤに発している。ガンジス川が始まるところ、それはヒマラヤの奥地だがガンゴトリと呼ばれ、リシュケシ、ハドワ、ヴァナラシ、ブッダガヤなどの地域を流れて、ヤムナはヤムノトリという地点から発して、デリーやアグラを通って、やがてはインド洋に注ぎ込んでいる。この二つの巨大な川のおかげで、インドの中東部は土質がよく緑も多い。もちろん農業も行われているが、パンジャブ地方のような治水が行われていないために、非常に効率が悪い。

  この二つの川は、隣接してインド大陸を流れているが、出会うことがない。ただ、ヴァラナシ近くのエラハバードという町でその二つの川が合流しているとヒンドゥー教では言われている。二つの川が出合う唯一のポイントというわけだ。そのポイントは、サムワットと呼ばれているが、ここはヒンドゥー教の聖地として称えられてきた。ちょうどいま、インドの修行僧サドゥーたちが一同に会し、それとともに大勢のヒンドゥー教の信者たちが集まる大集会がそのサムワットで行われようとしている。

  この大集会は12年に一回の割で各地のヒンドゥーの聖地で開催され、サムワットで行われるのは144年ぶり。集まる人数は、およそ7万人と予想されている。しかも、それが42日間続く。インドで、7万人規模の大集会が開催されるのは、これは並大抵のことではない。しかも7万人が42日間も続く。ちょっと考えただけで、こんなことが実際に可能なのだろうかと、普通考えたら疑問になってしまうだろう。まさにオリンピックのような規模の集まりだ。だから、相当な下準備と組織だった仕組みが必要になる。だがね、インドはとても不思議な国なんだ。たいした準備がやられている様子はまったくない。たとえ、仮に準備や組織活動がうまくいかなくて、集会がメチャクチャになったとしても、みんな大成功だったと称える。だから、彼らは大した準備もしていない。仮に大した準備がなくても、そして何が起こっても、集会は必ず成功すると思っている。

  「存在が必ず面倒をみてくれる」と彼らは信じている。彼らは「すべてはOKだ」と無条件に信頼している。だから、たとえ何かが起こったとしても、彼らはこう言う。

「存在がそう望んだために、そういうことが起こった」

「そういう運命だったのだ」


  インドでは、宗教が特殊に発達し、人間の考え方に大きな影響を与えている。とりわけ、ヒンドゥー教は、すべての「ものごとは起こるべくして起こる」と教えている。だから、ものごとがどうしようもない結果をもたらしたとしても、人々は「ものごとは起こるべくして起こった」と簡単に納得してしまう。

  たとえば、ヒンドゥー教の大集会が行われるエラハバードで、144年ぶりに7万人もの大量の人間が集まって、そこで、あまりにもの多くの人間が橋を通過して、その橋が落ちて大惨事が起こったとしよう。人々は「そういう運命だったのだ」「それは起こるべくして起こった」と口を揃えて言うだろう。実際に、インドではよく橋が落ちる。一年のうちにいくつも橋が落ちて大勢の人間が死んだりする。

  橋はかなり老朽化していたか、それだけ大勢の人間の重みに耐えられないから落ちたにも関わらず、人々はそれは運命だと、あたかも何の問題もそこにはないかのように話すだろう。まったく馬鹿げた話しだ。インドの人々には、あまりに宗教が浸透したために、一種の盲目的な信仰が生まれてしまったのだ。

  もちろん、運命というものはあるだろう。ものごとは起こるべくして起こるだろう。だからと言って、壊れかかっている橋をほったらかしにして、それで落ちたら、やっぱりそれは起こるべくして起こると納得してしまうのはあまりに馬鹿げている。

  たとえば、インドでは川はすべてを浄化するという信仰がある。人々は、神聖なるガンジス川で行水をしている。すべてが浄化されるからと…、だから、人々は、ありとあらゆるものを、汚物からゴミから、現代では化学的な汚水もすべて川に垂れ流しにしてきている。そのために、ガンジス川はいまではどぶ川のように汚い。確かに、何百年も昔のインドだったら、問題なかっただろう。第一に人口がいまよりかなり少なかったし、科学技術が生み出す汚染もなかった。だが、時代は変わり、状況が変わったにも関わらず、人々は、古めかしい信仰を改めようとはしない。膨大な数の人々が毎日のように生活で出る汚水を垂れ流し、方や、工場は汚水処理を施すことなく垂れ流し、ガンジスはどぶ川のような状態だ。一時、国が年々汚染が深刻化しているガンジス川を浄化するために資金を投入したが、一向に成果があがらなかった。人々はガンジス川は神聖だと、すべてを浄化すると信じ込み、ただただ川に捨てるといった昔ながらの方法を止めようとしない。いまでは、ガンジスは神聖な水どころか、最も汚い水だろう。

  ヴァナラシでは、年老いた老人たちがたくさん住んでいるが、彼らはヴァラナシで火葬をすれば、そのまま天国へ行けると信じている。だから、インド中から大勢の老人が毎日のようにやってきて、そこで死を待つ。当然、毎日のように大勢の老人がヴァナラシで焼かれる。だが、処理すべき遺体があまりに多いため、完全に焼かれて灰になる前に、生焼きのまま海に放り込まれてしまう。川下では野犬たちが待ち伏せしていて、流れてくる遺体を川から引きずりだして綺麗さっぱりと食い尽くしているという有様。ヴァナラシの老人たちは獰猛な人食い犬たちの餌になっているというわけだ。

  毎日のようにガンジス川には、膨大な数の人間が生み出す膨大な汚物が流し込まれている。それでどぶ川のように汚染された川になっても、無数の死体が流されていたとしても、人々はただガンジスは神聖だと信じ、いまの状況について何もしようとはしない。これこそ、まったくの盲目的信仰といわざるを得ない。

  だからこそ、パンジャブのシーク教徒たちの血と汗で作られたダムとそれをとりまく運河は「夢のプロジェクト」と呼ばれた。インドでは考えられないような事業だったのだ。もし、それがヒンドゥー教の中心でもあるガンジス川で起こったら、人々は「あぁ、それはそういう運命だったのだ」「存在が面倒をみる」と何もしなかっただろう。あまりに信仰に厚い人々は、それがために盲目となってしまう。(ダルマディープ)







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