私は登校拒否の草分けね

  アノーシェ: そうそう、私はもと登校拒否児だったわね…。いまだったら不登校と言うのかしら。私が子どものころは、登校拒否がとても珍しい時代で、学校に行かない子どもは県に2人しかいなかった。その2人のうちの一人が私だったの。他のみんなが学校へ行っているのに、私だけ行かない。やっぱり自分はおかしいのかも?そう思って自分から進んで精神病院にも行ったことがあったけど、ワッハッハッ!

  私は子どものころから、学校の勉強というのは、私にはまったく関係のないことだわという感覚があった。でも、小学校のころはバスケットが大好きで、バスケットをやりたいがために学校へ行っていました。子ども心に、
「バスケットがうまい学校があったら進みたい、そうでなかったら働こう!」
と決めていました。とにかくバスケットは大好きで小学校のバスケ部でもとてもうまかったんだけど、ある日、突然、父親が異例の転勤になって、秋田から高知へ引っ越さなければならなくなった。父親に「高知の学校にもバスケットボール部はあるから…」と説得されて渋々納得して高知に引越しとなりました。

  ところが、転向した高知の学校に行って、びっくりした。高知の小学校はいままで通っていた秋田の小学校とはまったく環境が違っていた。秋田の小学校では、そのころ、学習塾に通っている生徒はクラスに2人。塾通いの子達をみんなで「なんでそんなにがり勉をやるんだ」って馬鹿にしていたくらいで、とにかく、みんながとても自由にやりたいことができる環境でした。とくに私のクラスの担任の先生が若い先生で、なんでも自主的にやらせてくれて、学校はある意味でとてもジューシィーな場所でした。そのクラスでは、頭の悪くても面白い子が役割について、演劇をやりながら授業をしたり、漫才やコメディのショータイムが授業中にあったりして、みんなで一緒に大笑いしていた。とくにA君は漫才がとても上手で、みんなを笑わしてくれて、クラスがとても楽しかった。A君は勉強はぜんぜんできなかったけど、クラスのなかではみんなに愛されていた…そんな感じでやれたのも、当時としては珍しく熱血な先生と出会ったおかげで、自由に自主的にやることができた。小学校5年に違う先生になって、A君はいつものように授業中に漫才をやって、みんなを笑わそうとしたら、新しい先生に叱り付けられて、それがあんまりひどく叱り付けられたものだから、彼はそれ以来、漫才をやるのを止めてしまいました。それが彼のいいところだったのに…。そんな雰囲気に耐えかねて、クラスのみんなが、この先生は私たちに相応しい先生なのだろうか?と、みんなで投書しようか!という騒動にまで発展したけど、でも、それはやっぱり先生が可愛そうだから、とみんなで止めることにした。それくらいに、私がいたクラスではでは、みんなが自発的にものごとを考えられるようになっていました。

  ところが、高知の小学校に来てみて驚いた。高知では、秋田とは逆で、学習塾に行かない生徒がクラスに2人。あとはみんな塾に通っている。とにかく受験一色。まず、小学校から中学に進学するときに受験がある。だから、みんな塾に通って受験勉強をしている。でも、小学校では、まったく授業になっていなかった。いつも自習のような感じで、みんな勉強は塾に行って教えてもらう。もちろん、バスケット部もなかったし、バスケットをやっている子どもすらもいなかった。そういう事実を目の前にして、私は、

「うそやろっ!」

と叫んだんです。もちろん、父親を恨みながらね…。

  大人たちからすれば、バスケットなんて単なる遊びくらいにしか見えなかったのかもしれないけど、私にとっては自分の人生をかけていたものでした。当時の私にバスケットがすべてで、バスケットだけが私と学校を繋げていた絆でした。もともと勉強は自分とはまったく関係ないことだと感じていたし、まして受験のために勉強するなんて考えることもできなかった。だから、私は、この高知の受験受験という乗りに絶対に乗らんぞ!と…強情だったのね。それで学校へは行かなくなり、自分の部屋の窓を締め切って、「立て篭もる」ことになったんです。小学校6年のころでした。子どもながらに「これだ!」と真剣になっていたもの、自分の世界がある日突然奪い取られ、そのショックがあまりに大きくかったのだと思います。

  学校へ行かずに立て篭もりを続けて一年くらいたったころ、「これは私がおかしいんじゃなくて、外の世界がおかしいんじゃないか」って感じはじめました。もともと、私はみんなが学校へ行っているのに私だけが行っていないから、自分はおかしいんだとは思ったことはなかったんだけどね…。逆に、いろいろとよく考えてみたら、なんでみんな学校に行けているのだろう?学校に行くのがあたりまえで正しいことになっているけど、でもね、一億人も人間がいるのに、誰もそのことを疑っていないのは変だなぁって思っていました。そのころ、別にとくにすることもなかったので、昼間からテレビの番組を見たりしていたんだけど、ある番組で精神病院の話しがたまたま出てきて、精神病院の檻の中には、頭のおかしな人たちが入れられていると思っているけど、実は檻の外にいる人たちのほうが気が狂っている…というような話しが出てきて、これは世間一般の見方と違うなぁと、とても共感したりしていました。

  ひとり、部屋の窓を締め切って立て篭もっていたけど、でも、なんでか、私はどんどんと暗くなっていきました。とにかく暗さの極までいっちゃったという感じでした。泣くとか笑うとか、そういう感情を絶対に表に出さなと決めてしまったようです。泣いちゃいけない、笑っちゃいけないと思っていました。たぶん、父親に対する反抗というのがあったのだと思います。彼のせいでバスケットが奪われたってね、恨んでいた。面白いのは、その極の暗さのなかで、どこからともなく、ビジョンのようなものが唐突に私に見えてきたこと。それは…これからは、人間というのは精神的なエネルギーの時代になる…そういうビジョンでした。これは、宗教ということではありません。人間の精神のエネルギーとエネルギーが集まって、ひとつの何かができるというか、それは、コミューン(共同体)のビジョンだった。どこかに、一箇所、そういうコミューン体のようなものが出来たら、それが世界に広がるんだみたいなビジョンでした。そのころから、コミューン、共同体、ユートピア病だったのかしら…はっはっ。でも、それが私には面白かった。立て篭もりの暗さのなかで、どこからともなく、いきなり私に見えてきたから…。

  そのうちに、私の姉が鹿児島の大学に進学することになり、ひょっとしたら鹿児島ならこの子は学校に行くかもしれないと両親が考えて、それで今度は私は姉と一緒に鹿児島へ引っ越しました。もう私はほんとだったら中学生だったけどね。で、実際に、鹿児島の中学校に行ってみた。でも、やっぱりまた行かなくなりました。鹿児島がまたこれがすごいところでした。男の洗濯物は女と一緒のタライでは洗濯しないっていうくらい、男尊女卑の封建的な社会。学校では男は全員丸坊主。学級委員長はかならず男。女がでしゃばってやるもんじゃない。「なんで?委員長を女がやってもいいんじゃないの?」って聞いたら、「いったい何言っているの?委員長は男って決まってるだろうが!」と言われた。授業中、先生が「意見ある人、手を挙げて」とか聞いても誰も手を挙げない。あるいは、先生が「わかっている人、手を挙げて」と言って、それでみんな答えがわかっているのに誰も手を挙げない。もちろん私は手を挙げてこうこうですと答えているうちに、みんなに「よかぶっせ!(いい子ぶってる!)」と白い目で見られた。だけど、私も私で、そのころ感情を閉ざして生きていこうと決めていた時期だから、「なにさ、ふん、友達なんかいらないわよ」と強気だったので、みんなからイジメにあった。もっとも、いまのような強烈なイジメというものではないと思うけどね。

  それでやっぱり中学校へも行かなくなった。小学校のころは立て篭もりを続けて、外には出なかったけど…、やっぱり人目を気にしていたところがあったと思うんだけど、中学校になってからは開き直ってしまったところがあって、どうせ行かないなら町で遊ぼう!と、町へ昼間から出かけて、本もたくさん読んだり、映画を年に60本も見たりしてた。中学2年も終わりころになって、親が「どうせ学校へ行かないなら、高知へ帰って来い」と言ったので、高知へ帰ることになりました。ちょうどそのころ、中学の新学期が始まるころで、私も中学三年生…のはず。とにかく私は新学期に高知の地元の公立中学に行ってみた。べつに行っても行かなくても一緒だったと思うだけどね…。でも、行ってみて、これまたびっくりした。中学のガラス窓が全部割られていて、トイレにもドアがひとつもなかった。高知県というのは受験が厳しい県だから、だから公立高校へは落ちこぼれしか行かない。だからメチャクチャだったのね。授業中、誰一人として先生の言うことを聞いている生徒はいない。頭が少しよくて、こういうところから抜け出そうって子は、授業中にただ自分の勉強をやっている。それ以外の子は、いろいろな話しに花を咲かせ…いまから20年以上だったけど、男の子は全員髪を染めて、そのころ流行のリーゼントをして決めていた。彼らは、何々くんが家にいないぜ、また家出でもしているんだろうというような話しをしている。そういう様子を聞いてはいたけど、実際、行ってみて、あまりのすごさに唖然として、やっぱり行かなくなった。

  その高知の公立中学は、もし私が我慢して中学校に通いつづけたら通うことになったはずの中学。でも、そんな中学に行ったところで何の意味もないし…いまから思うと、私は結構、本能的に、あっさりと学校へ行くのを止めてしまったのだと思うわ。学校そのものは、私はもともと嫌いではないけど、友達もできて、子ども同士で遊んだりして楽しいこともあるけど、受験とか、勉強勉強という乗りには絶対に付いていきたくなかった。受験戦争の乗りには絶対に乗らんぞって思っていた。そのころは、子どもが自殺したら、第一面にトップで「小学校5年生が飛び降り」みたいに報道されたけど、だんだん年を追うごとに記事が小さくなってきて、いまでは、子どもが自殺しても三面記事の隅のほうに小さく「小学生がいじめを苦に自殺」みたいに報道されている。それくらい子どもの自殺が増えたということなんだろうけど、でも、だからといって、こういう子どもたちが可愛そうだとか、そういう気持ちがありません。私は、子どものころから、社会を見てみるときに、もちろん大人たちも大嫌いだったけど、そういう大人に賛同して馬鹿みたいに付き合っている子どもを馬鹿にしていました。いまだにそういう感覚はあります。自分で責任取ってないぞ!ってね。こういう社会は、受験受験っておかしくなってしまっている社会から、一抜けたするしかないんだって!そんな風に感じていました。

  中学にも行かなくなって、私は16歳から働くことになりました。いろいろとやりましたよ。時給400円から始めて、夜の仕事もやったし、職を転々としました。親元を去り、自立した生活を始めて…そのとき、そのとき、いつも精一杯生きてきて、それがまたとても楽しい。私が、学校へ行かないことで、何か特別なものを、学校へ行っているみんなと違った何か特別なものを手にしたか?…そのことに関しては、まだ何も言えません。ただ、ひとつ言えるのは、いつも、一瞬先のことはまったくわからないし、いつも自分の感覚に従って流れるままに生きている。それはね、まるでね、ちょっと前までの自分の生き方が、まるで前世か他人の生き方のように感じられることさえある。いろいろと変化することは怖いけど、いつも、存在は私をもっと素晴らしいところへ連れて行ってくれているって感じがして、だからね、学校というひとつの枠のなかから「はみ出し」たおかげで、私にはたくさんの可能性の扉が開かれてた…はみだして、よかった!「失敗(のように見えるけどね)は成功のもと!」

アノーシェ



みなさんの学校体験を教えてください!
最近は登校拒否という言葉ではなく、不登校という言葉を使っていると知って驚きました。 まぁ、どっちにしても同じなのだろうけど、僕としては、やっぱり登校拒否のほうがピンとくるなぁ…(まだ不登校という言葉になじんでいないせいか?)
そんなことを考えていたら、突然、アノーシェがやってきました。
彼女に最近、登校拒否?不登校?が多いんだねぇ、日本では…と言うと、
「私は登校拒否の草分けよ!私の時代は、学校へ行かない子は県下に2人しかいなかったしねっ!」
って元気よいお返事に、ほっとしました。
やっぱり、登校拒否なんだ!(ちなみに彼女と僕とは同世代で〜す)
彼女は、「私は、なんでみんな学校に行くんだろう?私は、絶対に受験受験の乗りには乗らんぞ!」 と、小学校6年から学校へ行かず、自宅の部屋に篭城した。あの時代、ここまでやれるとはほんとうにほんとうに大したもんだと感心しました。
僕には、じつは彼女のような勇気はなくて、みんながやらないことを自分が先にまずやるっていうのは、これはパイオニア精神が必要だなぁ…。僕は登校拒否まではできなかったんだけど、学校ではすごく落ちこぼれで、イヤイヤ行っていて、もちろん、受験などには落ちこぼれていました。受験のために勉強して、それがどうなる?なんのために計算ばっかりやらなくちゃいけないんだ!と思っていました。
彼女の話しを聞いて、あのころの自分をいろいろと思い出しました。
みんなはどうだったんだろう?
子ども時代、喜んで学校へ行っていたのだろうか?
受験勉強が楽しかった人はいるだろうか?
そこで、みなさんの学校体験を教えてもらえませんか?
受験は大変だったけど、登校拒否なんて考えられないとか、学校に適応できないというのは人生失格!とか、あるいは私も登校拒否だったとか、アノーシェに聞きたいことなど、なんでも結構です。専用の掲示板を設けましたので、自由に書き込んでください。






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