1章 ♪花は流れて どこどこ行くの
麻薬と刑務所
僕は『ハイサイおじさん』のヒットを刑務所の中で知った。
あれは1972年(昭和47年)のことだった。麻薬不法所持で逮捕され、刑務所に服役していた僕のところに面会に訪れた母親が、こんな知らせを持ってきた。
「昌吉よぉ、コザ(現・沖縄市)のレコード屋にさぁ、『ハイサイおじさん』は売り切れました、という貼り紙が貼ってあるさ。母さん、それをちゃんとこの目で確かめてきたよ」
その類いの貼り紙はコザだけにとどまらず、凄まじい勢いで沖縄全土に広がり、やがて本土にまで評判が轟いていった。まさに、前代未聞のことだった。
もとはといえば、民謡界の第一人者だった父親がレコードを出すことになり、その中に僕が中学生のときに作った歌『ハイサイおじさん』を一緒に収録したらどうか?という話が持ち上がった。試しに入れてみると、これがなかなかの好評。終いにはシングルカットされ爆発的にヒットするわけだけど、当の本人はそのとき刑務所にいたのだから不思議な巡り合わせである。
その年、本土復帰を目前に控えた沖縄は、歴史の変わり目の激しい渦の中にあった。ベトナム戦争の中継地点としての役割を担っていた沖縄は、死と直面している兵士たちの異常な心理状態が伝染したかのように、麻薬や抗争やギャンブルが、あたりまえのようにまかり通っていた。
特に僕の生まれ育った基地の街コザはそうだった。しかし、その混沌を引きずったまま本土復帰を果たすわけにはいかない。
そこで徹底した麻薬撲滅作戦が行われ、その網に引っかかったのが、夜の世界で派手に遊んでいた当時24歳の僕・喜納昌吉だったというわけだ。
1972年の5月15日が沖縄日本復帰である。その記念すべき年に、僕は検事控訴復帰第1号として裁かれ、初犯に もかかわらず実刑1年半の判決を言い渡されてしまった。そして復帰をまたいで1年4ヵ月間を、僕は刑務所の塀の中で過ごしたのだった。
逮捕される前の僕は、大学を中退してコザの街で民謡クラブ「ミカド」を切り盛りし、その勢いに乗ってコザの中心「ゲート通り」にカジノや洋服屋まで経営。札ビラを切って遊び回り、羽振りのいい生活を送っていた。
小さい家なら1軒1000ドル*で建つと言われた時代に、ミカドは一晩で1500ドルも売り上げたこともあった。ベトナム戦争は下火になりつつあったけど、それでも基地の街コザには米兵が溢れ、世界各地から集まったあらゆる人種で独特の賑わいを見せていた。
ヤクザが肩で風を切り、ヒッピーが長髪をなびかせる。明日をも知れぬ米兵が、つかの間の快楽をむさぼり歩く、まさにカオス(混沌)そのものだった。
大学をドロップアウトした僕は、あっという間に事業に成功すると、その当時としてはスッ飛んだファッションに身を包み(長髪を茶髪に染め、厚底ブーツを履いていた)、外車を乗り回し、夜の街を派手に駆け回って遂には麻薬にも手を染め、警察に厄介になったというわけだ。
ボロボロに傷ついた「ミカド」のころ
復帰前の沖縄には麻薬なら何でもあった。大麻、ヘロイン、LSD・・・・・・。欲しいと思えば何でも手に入る。あらゆるドラッグがあたりまえのようにまん延していた。
ミカドが成功したことで、物質的には満たされたが、心は満たされなかった。『ハイサイおじさん』に代表される僕の斬新なスタイルは、大衆には圧倒的な支持を受けていたが、保守的な音楽界、民謡界といった筋からは酷評を受けていた。
しかも、ミカドに客を取られた店からは嫉妬をかい、我々民謡クラブの連中を束ねようとしたヤクザにも思うままにさせなかったことで、イヤがらせの集中砲火を浴びた。
「昌栄(父)さんよぉ。悪いことは言わないさぁ。この白紙委任状にサインすればいいさ」
ヤクザの手先(驚くことに音楽業界の人間)が迫る。
「それはできない」
きっぱり断った父の態度に怒ったヤクザたちは、客には直接手出ししないのだが、大勢でやってきて店の真ん中でわざと大げさなケンカを始めた。ブロックは投げる、棒で叩く。
「今度、この店にガソリンを流し込もうかねぇ」
これ見よがしに、そんなことまで口にする。これでは客が逃げないほうがおかしい。
こんな修羅場を目の当たりにして、若かった僕はショックだったし、心はボロボロに傷ついた。それで麻薬に逃避したといったらあまりに安易だけど、コザのカオスの中で、神経も一種異常をきたしていたのだろう。
ただ最初は瞬間的な快楽を与えてくれた麻薬も、やり過ぎるとひどいことになる。幻覚に悩まされ、心の半分が異常なくらい躁状態になってはしゃいで、あとの半分は落ち込み、どうにもコントロールできず発狂寸前になってしまった。
刑務所生活が僕を変えた
1972年の年が明けて間もないその日、ヤクザやヒッピーたち、そして僕の仲間が麻薬不法所持で捕まり、その流れで僕も連行された。
だが刑務所での僕は、何かが抜け落ちたように模範囚になっていた。
夜の世界の飽食の日々から、清貧の現実に直面し、僕の中の何かが確実に変わっていったのだ。
麻薬に頼るなど瞬間的な快楽でしかない。そんなことをやっても心は絶対に満たされないし、結局は心と体がバラバラになって、人として崩壊するしかないということを思い知った。
やがて僕は服役中に、むさぼるように本を読み始める。
マルクスに始まって、ありとあらゆる本を読みあさった。初めはわけもわからず難しい本ばかり読んでいた。ニーチェ、ヘーゲル、ソクラテス、アリストテレス、サムエルソン、フロイト、ライヒ・・・・・・。
哲学から心理学、経済学まで本を読み進むうち、彼らは何を求めて何をしようとしていたのだろうか、という疑問が浮かんできた。それを知りたいという欲求は、どんな本を読んでも尽きることはなかった。
本を読みながらその世界に入り込み、堪えきれずにポロポロと涙を流すこともあった。心を被っていたデカダンス*2の膜が、一枚ずつはがれていくような気がして清々しかった。農作業をして、本を読み、地に足をつけた生活を送ることで僕は次第に心の健康をとり戻していくのだった。
頭の中に浮かんだ疑問を追いかけて、キリスト、ブッダ、マホメットなど、宗教という観点から世界を平和にしようと試みた人の本も読んだ。それらを読めば読むほど彼らが求めてやまなかった「平和な世界」とは、まさにそれまで自分が生きてきた世界である本来の沖縄の生き方と同じなのだと気がついた。
刑務所に入る前はデカダンス*の中で生きていたから、沖縄本来の暮らしとはかけ離れた生活を送っていたけど、僕は、歌、踊り、祈り、儀式、瞑想を大切にする沖縄の伝統的な社会の中で育ったのだ。その原点に立ち返ってみると、祖先を敬い、自然やすべての生命とも共生しながら生きていくという沖縄の精神性や生活方式そのものこそ、平和への鍵なのではないかと思った。
この生き方は沖縄だけではなく世界の先住民とも共通するもので、行き詰まった文明を救うのはこの共生という概念だということを、僕は刑務所の中でつかんだのだった。
あの刑務所生活がなかったら今の喜納昌吉はないだろう。
僕はあのとき、本当の意味で新たなスタートラインに立っていた。