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スマトラ沖地震津波・被害者の手記

Oh!Ah!Now! Wombat - 自由なバザール

友人篠原ちづるさんがスリランカで遭遇した津波の手記です。彼女はこの体験を少しでも多くの人にシェアすることで、今後増えるであろう災害時に少しでも被害者を少なくすること、そして敏速な救助を保護を訴えたいといっています。

何かに反発すること、バッシングするためではなく、それぞれの方の中でなにかの新しいエネルギーになることを祈ります。

1日も早く地球上に安堵の日々が戻りますように。そして被害者の方々のご冥福をお祈りします。

一日目

その日は朝9:30頃、まるで天国のようなウナワトナビーチから10mほど離れたシークレットガーデンヴィラの小さなバンガローで私は毎朝欠かさないエクササイズを終え、いざビーチにこうとしたところ、ザワザワ、ザワザワ・・・と大きな音がしてきた。

私はどこかの家の貯水タンクが壊れて水が流れ出たのかと思っていると、外から子供の泣き声、女の人の叫び声、犬のほえる声がしたかと思うと、次の瞬間隣の家との間の塀の下から水が噴出してきた。そしてさらに、庭の中を流れていた小川の上流から真っ黒な下水の水とゴミがすごい勢いで流れてきた。

私は驚き、何が起こっているのか訳もわからないままバンガローの中に逃げ込んだ途端に水位はベッドの高さに!

その時、まだ事情のわかっていない私は「え~、今晩ここで眠れないじゃない!」と思っていた瞬間、気がつくと私の体はあっという間に天井まで持ち上げられ、天井まであと20㎝というところで頭だけ出して浮いていた。

「このまま水位があがったら確実に息ができなくなって死ぬ!!」と思った瞬間、私は下水の真っ黒な水であふれた水中にもぐりこみ水の下に消えたドアをくぐり外へ泳いで自力で脱出した。この判断までにおよそ1,2秒だった思う。今思えばそのチョイスをミスれば私はここにいなかったと思う。

「あ~助かったぁ~」と思うまもなく、水面から出た私の眼に映ったのは真っ黒な水の大洪水の激流、すぐさま私もその水に飲まれカラダをさらわれた。丸太、家具、ゴミ、いまや姿を変えて何かわからないものが流されて来て私の体にアタックする。何がどうなっているのか理解できない。私の体もくるくる回る。。。

そのとき、ヴィラの泊り客のティーンエイジの子供が3人ココナツの木にしがみついているのが目に入った。そのうちの1人が私を見つけ手を差し伸べている。

でも、手は届かない、、、しかし、その子供たちを見て、「私はこのまま流されてはいけない!彼らのように木につかまろう!」とようやくアクションを起こした。そんなことも気がつけないほど、何が起こっているのか把握できなかったのだ。

流されながらようやく近くのココナツの木にしがみつくと、今度は激流に加え大きな木の柱や丸太など大きな漂流物が私を襲う。何かがアタックしてくるたびに、私も押し流されそうになる。流れの速さにビキニのパンツも流されそうになって、膝のところまで流されかけたが必死に手繰り寄せる。

流れてきたものが私に重くのしかかってきて、とうとう木にしがみついているのも耐えられなくなってきた。「どうしよう!!」と思ったが、その時「木の後ろ側に行けば流されてきたものを避けられる」と気がついた。「こんなことにも気づかないなんて、私どうかしちゃってるよ」と思った。それほどパニックだった。

そしてどうにか流れが少しおさまった。

その時泊まっていたヴィラの主人ダニーが「Go to left side!」と叫んでいるのが聞こえた。左手を見ると少しだけ高くなった丘のようなところを見つけ、そこを目指して必死の泳いだ。私と3人のティーンエイジャーズとそのおばさんとおとうさんの6人は固まって泳いで左手に見える丘に泳ぐ。ようやく陸地にたどり着き引っ張り上げてもらうと、ほっとする暇もなくそこでは地元の女の人が泣きながら走り回っている。

「My daughter!My daughter!(私の娘!)」といって私たちに訴えかける。

子供が流されてしまったのだ。。。この流れでと水の量では助けになんていけない。。。どこにいるのかもわからない。

ヴィラで働いていた地元の男の人が身につけていたルンギ(腰布)も流されたらしく、下半身裸で同僚の名前を叫んで走り回っている。

私は呆然として、どうなっているのか、何をしたらいいのかまったくわからないで立っている。ただ、真っ黒い水が来て、今はすべてがその水の下だということだけはわかった。

水の流れはまだ早く、水位も同じままゴーゴー音を立てて流れている。なんでこんなことになってるのか?まったく理解することができなかった。

ダニーが裏山に行こうといっている。

裏山の山頂には村があるからだ。

裏山の急な斜面をみんなで登る。海の見える少し開けたところに着いた。真っ黒い水と流されたものが、ビーチから泳いで20分くらいの小さな岩だらけの島まで広がっている。ゴーゴーという音だけは相変わらず聞こえるけれど、海はいつもどおりに見える。一体どうなっているのだか相変わらずわからない。

私は自分のバンガローのベッドサイドにおいてあった、カシオの完全防水の時計をしっかり握り締めたままだった。この時計と上下別々の水着以外はすべて流されてしまった。

裏山の斜面から山頂にある村人の家にたどり着く。

私たちが小さな家の前の空き地に座り込んだり、村人が出してくれた椅子に座ったりして呆然としていると、他のツーリストたちが少しずつ避難してくる。みんな命からがら避難してきたようで何も持っていない。怪我をしているカップルがいたので、私は村人にデトールとコットンをもらって手当てを始めた。その女の人は脚に何かが突き刺さったような傷ができている。男の人は足の爪が2枚はがれている。他にも擦り傷がたくさんある。

私は医者でも看護婦でもない。オステオパシー、クラニオセイクラル(頭骸骨仙骨療法)のセラピストだ。ただ人の体を扱うことには変わりなく、自分自信が大怪我をした経験も多く、医者や看護婦がどうやって患者、患部を扱うかはよく見ている。とにかくけが人の手当てを始めた。

オーストラリア人の中年の女性と私と2人で次から次からやってくるけが人たちを手当てした。はじめはデトールしかなかったのだが、だんだん荷物を持って避難してきた人が増えてきた(荷物があるなんて、なんてラッキーな人たちだ!)。

他の消毒薬、ガーゼ、包帯などが届けられた。人の数はどんどん増え、人だらけになった。村人がござを敷いくれ、けが人はその上に横になったり、座ったりしていた。幸いけが人はみんな破傷風の注射は受けているとのことで少し安心した。

誰かがスマトラ沖に大地震があって、これはその影響の津波だと話しているのが聞こえる。

けが人は次から次へとやってくる。

脚に怪我をした女性が脚がなくなるのではないかとフリークアウトしている。

「10針ぐらい縫えばいいだけだよ、今は消毒しておいて、医者が見つかったらすぐに治療してもらおう!かっこいいステッチの痕が脚にできるけど、すぐ歩けるようになるよ!!」と励ました。

怪我をしてパニックしてる人たちを落ち着かせるのにクラニオのテクニックも使った。

行方不明だった地元の女性の娘が見つかって運び込まれてきた。

目がどこも見てなくて震えてベッドにねかされている。真っ黒い水を飲んだに違いない。どうしたらいいのかわからない。

子供の周りで騒いでいる村人を追い払って静かにさせ、母親をすぐ横に連れてきた。水を飲ませ顔や体の泥を拭く。目を見てもどこも見ていない。体に触れて落ち着くのを待って、村人に病院に連れて行ってもらように頼む。何人かの女性が山の反対側から下に降りていくと病院があるというので、子供を抱えて連れて行かれた。

血圧を下げる薬が流されてなくなったから大変なことになる!といって男の人が入ってくる。それがないとすごく大変なことにある。ビーチに戻ってホテルの部屋に行けば薬がある!とまくし立てている。

私はクラニオのテクニックで血圧を下げられるけど、試してみるか?と聞いてみたが、そんなの信用できない!薬が必要なんだ!というので、もし血圧が高くなりそうだったら私のところに来てね、といったのだが彼は黙って出て行った。

また別のけが人が入ってくる。こんなにたくさんのけが人を見て、触って、手当てしたのははじめてだ。くらくらした。みんなに大丈夫だよ!たいしたことじゃない!と励ましている自分はすごくしっかりしているように見えるが、実は自分自身だってパニックしている。

私の友人2人はまだここには避難してきていない。あの2人は大丈夫だろうか?

けが人はほとんど手当てが終わったようなので、外へ出て木下に一人で座ってる女性の横に座った。

「どうしてる?」と彼女に声をかけるとボーイフレンドが死んだのだと言う。ドキッとした。彼女はオーストラリア人でボーイフレンドはスリランカ生まれのオーストラリア育ち。10年以上付き合っていたカップルで、彼は彼女にいつか自分の生まれた国を見せてあげたいといつも言っていたのだという。そしてようやく今年のクリスマス、2人でスリランカに来ることができたのだ。

津波があったとき、二人はシュノーケリングを楽しんでいたのだが、津波に巻き込まれ、彼女は泳げたが、彼は泳げなかったので逃げることができなかったという。彼女は死んでしまった彼の遺体をサーフボードに乗せて、海に押しやってさよならを言ったのだ。

彼女は彼を助けることができなかったとうつむいた。

怪我をした人にはいう言葉があったが、彼女にかける言葉は何も見つけることができなかった。彼女を抱きしめ、涙が出てくるだけだった。

それでも彼女はオーストラリア人らしく「I'm O.K. I'm O.K.」を繰り返す。

O.K.じゃない人がO.K.といってるのは悲しい。

何時かはわからなかったが、午後だというのは日の感じでわかる。

下のロックハウスというホテルは無事でたくさんの人が避難しているというので、地元の男性に案内してもらい山の中のブッシュを抜けて下に下りる。靴も流されたので裸足でブッシュを歩く。足の裏を柔らかくして、柔らかく地面を踏めば裸足でも痛くないのには驚いた。

10分ほどブッシュを歩いて抜けるとロックハウスホテルの裏にたどり着く。ホテルのフェンスを乗り越え、友人のロシア人の親子がいないか聞いて回る。誰も知らないという。一体どこにいってしまたのだろう?助かっているのか?

案内してくれた男性にここには友人はいないと告げると、上に戻ったほうがいいというのでまたブッシュを戻ることにする。

戻る途中に道に迷っていた中年のドイツ人夫婦と岩の上でお父さんを待っているという4人の子供とお母さん、そしてその友人に出会う。下のロックハウスに行けばたくさんの人が避難しているし、食べ物や水もあるからそっちにいったほうがいいと、またロックハウスまで案内していると、そのロックハウスには医者がいるとそのうちの誰かが言った。

「Oh! じゃぁ、その医者をつれて山に戻ればいい!」と私と案内の男性は喜んだ。

ロックハウスに着くとすぐに医者を探す。すると2人もいるではないか!

医者は傷の手当てに必要なものはあるというが、山の上にはいけないと言う。ここにもけが人が運ばれてくるし、遺体も運ばれてきている。この遺体を焼かなければならないし、やることが山ほどあるので行くことができないというのだ。でも、けが人を運んで来てくれるのなら治療をすることはできると言った。それならつれてくるしかない。

私と村人はホテルに落ちていた未開封のミネラルウォーターを拾ってフェンスを乗り越え、裏山に戻ろうとした。すると先ほどの中年夫婦の奥さんが彼女のはいていたサンダルを私にくれた。

靴を履いてブッシュに入ると、なんだか自分の歩き方が破壊的な感じがした。裸足で歩くと棘や障害物が刺さらないように、身長に優しく、ふわふわと歩くけれど、靴を履くとすべてを踏みつけて破壊的にどしどし歩ける。

「う~~ん、、、自然と共に生きることと、自然を破壊して生きるという態度の違いは靴を履くというとても単純なことからはじまっているのだなぁ~」と、そんな大変なときにふと思った。

私とその男性は山頂の村に戻った。

そこには5~60人、いやもっとかもしれない、そんなけが人がいる。私たちは全員に山を降りてロックハウスに行けば水も食べ物も眠るところもある。そして医者もいることを伝えた。けが人で動けない人はみんなで下へ運ぼうと伝える。

でも、ほとんどの人が下に行くのは怖いからいやだ、ここに今晩も残るというのだ。モスキートネットもなく、家の外に寝るのでもいい、下に行ったらまたまた大波が襲ってくるかもしれないから。。。というのだ。

誰かが夕方5時と夜7~8時の間に、また大波がやってくると言っている。それが本当なら怖い。正しい情報は誰も知らない。

津波前、ビーチで知り合ったゲリーとトレーシーのイギリス人カップルが目に止まった。探している友人、サーシャとナターシャが下のタプラバニホテルにいるとトレーシーが言う。「え!どこ!」タプラバニホテルへの行き方を聞きながらも、もうカラダはその方向へ走っていた。

タプラバニホテルへ向かう途中、村の女性がポットとカップをいくつか持って歩いてるのに会った。その女性は甘いコーヒーをくれた。コーヒーはめったに飲まないが、このときばかりは本当にコーヒーがおいしく感じた。

タプラバニホテルにたどり着く。

ロックハウスより少し山にあがった斜面に立っているリッチなホテルで、小さなプールまである。ヒッピーリゾートだったウナワトナにこんなリッチなホテルがあるなんて!と今まで2度ほどここに訪れたことがあっただけに驚いた。

ゲートを抜けてロシア人の親子を見なかったかとたずねると「上にいるよ」と誰かが言う。階段を駆け上がってサーシャ!ナターシャ!と叫ぶと2階のバルコニーの端にサーシャのブロンドカーリーヘアの頭が見えた。

駆け寄ってサーシャとハグする。涙が出る。すごく嬉しい!!ナターシャ(サーシャの母親)もやってきて3人でハグする。2人とも怪我はない。洋服もちゃんと着ているし、彼女たちのいたバルコニーには荷物がちゃんとある。なんてラッキーな人たち!

裏山に逃げて来た人たちは、ほとんど何も持たず、逃げるだけが精一杯の人たちで、けが人も多い。水着1枚だけの私は、ここでは変に見える。でも、生きててよかった。

私はロックハウスに立ち寄り、医者に山頂の人は津波が怖くて降りてこないこと、5,6人ひどい怪我の人がいることを伝え、その足でビーチに行ってみた。

津波前は裏山の斜面の終わりに建っているロックハウスを出て左に行くとビーチが見える村のメインストリートがあり、両脇にはゲストハウス、ホテル、レストラン雑貨屋、土産屋などがびっしろち建っていた。その道に平行してビーチがずっと続いている。そのイメージでメインストリートだったところに立つと、コンクリートの丈夫な建物だけが残っていた。あとはみな流されていた。

その建物を目印にどこに何があったか思い出しながら、ひざまである泥水と漂流物を掻き分けながら歩く。コンピューター、マグカップ、家具、丸太、皿、死んだイグアナ、トタン板、折れた木、ミシン、ジュースのびん。。。

全滅したビーチ沿いの村は、視界をさえぎるものがなく、広々として見える。全部流されてしまったからだ。

私の泊まっていたシークレットガーデンのあったところまでたどり着く。

壁の一部は残っている。ビーチにあった私の大好きだったスリーフィッシュレストランの建物が少し残っているだけで、あとは何もかもがぐちゃぐちゃだった。

その向かいにあるシークレットガーデンはビーチから10mも離れていない。ガーデンの中は未だ水浸しで私の太ももまで水位がある。あのきれいでかわいいバンガローはない。

私の貴重品を入れていたロッカーを探す。どこにも見つからない、もう探しようがない。家の中の家具はすべて押し流されていてあとかたもない。私の泊まっていたバンガローは?メインハウスを左に回って私の泊まっていたバンガローのあったところに出ると、バンガローは跡形もなく流されていた。ほんの少し残されているほかの建物から見当をつけて自分のいたバンガロー辺りの瓦礫の山に立ってみる。

見覚えのある蚊とり機が目に入った。この下に私のバックや靴や携帯やそんなものが押しつぶされているんだ~。もし私があの瞬間にチョイスを間違ったら、私もこの瓦礫の下でつぶされていたんだろうなぁ。私はそんなことを考えながら、裏山には戻らずタプラバンのバルコニーで眠ることにした。

1日何も食べていなかったから、ホテルが出してくれた大鍋に入ったペンネをむさぼるように食べた。ジンジャービールを3本立て続けに飲んだ。

あばら骨を骨折したというおじさんがゴホゴホ咳をしている。水も電気もない。

プールの水は汚く真っ黒ににごっていたけど、少しはましかもと思って真っ黒に汚れた泥だらけのカラダを洗った。

眠れない夜だった。

あばら骨の折れてるおじさんが咳をするたびにみんなが起きた。波の音がすごく大きく聞こえる。横で寝ているヨーロピアンの女性は波音でフリークアウトしそうになる。

下でコップの割れる音が何回も聞こえてくる。上のバルコニーで誰かが用を足すもので私の足がぬれる。

明日目が覚めたら、すべてが夢であってほしいと願う。

なくしたもののことばかり考える。

お気に入りの旅行セット、バリで買ったルンギ、ニュージーランドで買ったマウイ柄のルンギ、バックパック、トレッキングシューズ、マグライト、スイスアーミーナイフ、イタリアの友達にもらったベルト、ブラジルの友達にもらったすごくかっこいいビキニ(なんでこんなときに限ってボロイビキニの方を着てしまったのだろう。。。)、オーストラリアで買った愛用のショーツ、パーティー用のブラックライトで光るお気に入りのTシャツ、歯医者さんが使う歯石とりの器具、ここに来る前にインドの友達がくれたシルバーのドルフィンペンダント、テルミー(温熱療法)の器具、、、金目のものはまったくないけれど、愛用で思い入れのあるものばかりだった。

でも、それよりもパスポートとお金とシティバンクのカード、これがないとまずい。日本大使館とシティバンクは応用がきかないから、どうしても見つけたいな。チケットの再発行は大丈夫だろうけど、日程が取れるかな。

二日目

朝は猿の声であける。にわとりよりも猿の声のほうが朝を告げる。少しはうとうと眠ったようだ。

またビーチに下りていく。サーシャたちは行くなというけれど、「私はあなたたちのように荷物を何ひとつ持っていないの。どうしてもみつけだしたいのよ。」といって下に下りていく。

ビーチの村はまるで傷ついた傷口のようだ。海は怖くて近づきたくない。このままだとコレラや感染病が発生するかもしれない。水も食べ物も、ホテルのキッチンのガスも底をつき始めている。

水位は昨日よりも下がっている。昨日は太ももまであったシークレットガーデンの庭も今日は膝まで水につかるだけだ。私の泊まったバンガローの瓦礫は相変わらずそこにある。1枚だけ私のTシャツを見つけたが使い物にはならない。仕方がない。上に戻ろう。

これからどうするかをみんながあちらこちらで話している。

私たちはゲリーの案内で裏山を越えて街に出て、山岳部のキャンディまで行って様子を見て日本大使館のあるコロンボまで行くことにした。

赤ちゃんが脱水症状を起こしてしまってるお母さん、裏山の怪我をしている人たちに絶対にここに助けが来るように伝えるから!と約束してそこを後にした。

ゲリーと私、そしてトレーシーとナターシャとサーシャの5人はサーシャに恋心を抱いている地元の男の子の案内で裏山を超え、反対側に降りていく。

山の反対側は、あの惨劇が嘘のように平和だった。何も壊れていない。店が閉まっていたり、車が少ないこと以外はいつもと何も変わらない。

目の前を通るトラックの荷台に人が乗っていた。私たちも乗せてもらえないかと頼んで乗せてもらった。案内をしてくれた地元の男の子の家に行くことにする。トラックでかなりの時間走った。彼の家に着いた。ものすごいシンプルな家、トイレとキッチンは外。お父さん、お母さん、おばあちゃん、お父さんの兄弟、子供たちの大家族。そこでココナツジュースを飲ませてもらってほっとする。スリランカカレーを作ってもらって食べた。すごくおいしかった。

テレビで津波のニュースを見るけど、英語のニュースはほとんどなくて現地の言葉だ。

男の子たちはキャンディへ行く車の調達に出て行った。

私はお金が一銭もないので車代を払うことができないと告げると、「心配しなくていいよ、とにかくみんなで一緒に行くんだ」といってくれて私は涙が出た。

夕方6:00、車がやってきた。

村の人が運転してくれる。家族の人と住所を交換して全員とハグをしてさよならを言った。 私はタプラバンで他の旅行者にもらった花柄のビーチサンダル、オレンジ色のタイパンツ、紫にオームと書いてあるヒッピーなTシャツ、そして手にはスーパーのビニール袋にシーツが1枚と水のボトルが1本という、なんとも怪しい格好をしている。下着も何もないけれど、とにかくオレンジ色は私のラッキーカラーだ!O.K!よし、いくぞ~!

キャンディには明け方4時頃にたどり着いた。10時間以上かかった。1件目のホテルは満室で2件目のホテルは断られ、さまよい歩いてようやく3件目のすごく安そうなホテルに泊まれることになったが、すごい値段を吹っかけてきた。しかし睡眠には変えられないので、ナターシャがカードで払うことになった。

部屋ではみんなでごろねをして、唯一の所持品のシーツをかぶって床にあったエキストラマットで少しだけ眠った。

三日目

夜が明けて、朝一番にすることは大使館に電話をすることだ。

ウナワトナのおかあさんと赤ちゃんの救助だ。起きてすぐにトレーシートナターシャと3人でヒッチハイクで街に電話をかけに行った。イギリス大使館に電話をして、イギリス人のお母さんと赤ちゃんが助けが必要なこと、そのホテルの番号、彼女の携帯電話の番号を伝えてお願いする。

そして次は日本大使館に電話をしてパスポートの再発行を頼むと、写真と警察の紛失届けが必要で、2~3時間で新しいパスポートができるという!嬉しい!!何日かかるかと心配していたが、すぐにできる。チケットの再発行の手続きをしてすぐにコロンボに行こう!

ナターシャに10ドルとスリランカルピーを少し借りて、コロンボ行きのローカルバスに乗ったのが12:00。内陸部はいつもと変わらずすべてが普通に機能していて安心する。

3:45にコロンボのセントラルバスステーションに到着。トゥクトゥクをおもいっきり値切って日本大使館に飛んでいく。大使館が閉館してしまったら大変だ。

日本大使館は高級なところに立っているんだな。

ゲートでセキュルティに日本人カウンター行けといわれ、VISAセクションの日本人カウンターに走っていく。窓口がマジックミラーになっているちょっと怖いカウンターでパスポートの再発行を依頼すると、映画で見た警察のように別室に呼ばれて事情を聞かれる。

するとパスポートの再発行には10250ルピー(約1万円)が必要でお金は貸せませんというではないか。愕然とする。津波より怖い日本大使館!

とにかく私は何もなくなってしまって、この洋服ももらいもので、お金もぎりぎりバス代があるだけなんだということを伝えるしかない。

私はインドに住んでいるから、インドに帰ればすぐにお金も返すことができる。どうか貸して下さいと何度も頭を下げてお願いする。

すると外で待っていてくださいというので、別室を出てロビーで待った。朝日新聞が積んであったので片っ端から読み漁った。やっとまともに事情がつかめてきた。もうすでに数時間待っている。

ロビーに誰もいなくなって一人で待っている間も涙がぽろぽろ出てきて困った。セキュリティのスリランカ人がどうしたのか?と小さな声で聞いてきたので、津波で全部なくなってしまった。2日かけてウナワトナからキャンディ、コロンボにたどり着いたけど、お金を貸してくれないといっている。お金がないとパスポートも再発行できないし、お腹も減っていて疲れていると答えた。悲しいというよりも惨めだった。

日も沈み暗くなった頃、ようやく別室に呼ばれお金を貸してくれることになったと伝えられた。しかし、14000ルピーまでしか貸せないというのだ。10250ルピーが再発行代、250ルピーが写真代、ビザを取り直すのに850ルピー、合計11350ルピーが必要だ。そうすると手元に残るのは2650ルピー。飛行場までのバス代、バスストップまでの交通費に300ルピーはとっておきたい。

すると2350ルピー(約2300円)、これでは今晩泊まれるホテルもなく、道端で夜をあかさなくてはならない。洋服も買えないしご飯すらもあやういと思ったけれど、何かこれ以上いってもめると何も貸せないといわれたら終わりだ。「これで足りますね!」と念を押されるので、借りることのできる分だけでO.K.した。

手続きのため別室でまた延々待ていたら、事務所の中で女の人の声がする。どうも何かの食べ物の出前が来たようだ。「あ~いいな~、ここで働いてる人が何か食べるんだ」と思っていたら、お弁当を差し入れてくれた。「は~嬉しい~」今日始めての食事。

夜10時頃14000ルピーと返済のための細かな規約と1日ごとの利率を4枚に渡って細かく打ち出された書類と振込用紙を渡された。外に出る。

ちょうど日本人の女の子が私と同じようにやっとの思いで大使館にたどり着いたところのようだ。しかし大使館は10時までなので明日来るようにと取り次いでもらえないようだ。写真をどこで撮ったらいいのかすら案内がない。いったいどうなっているんだ。

出口のセキュリティガードのところで、このあたりに安いホテルはないかとたずねる。

ガードマンの一人がチョコビスケットを私にくれながら2000ルピーなんかで泊まれるホテルなんてないぞという。確かにそんな値段で、しかも12月29日の夜10時にそんな安いホテルをツアリストが探すのは私も難しいと思う。大使館の人は心当たりがあるから14000ルピーしか貸してくれないのだろう。そう思って大使館に電話をかけて聞いてみた。

しばらくすると日本人の男の人がやってきて、正面の受付に案内された。大使館はホテルの斡旋はしないが旅行代理店の紹介はできますというので電話番号をもらったが、この年末のこんな時間に代理店が営業しているのか、そしてホテルを探しているのか?と聞き返すと、また「少々お待ちください」とその人はオフィスの奥に足早に戻ってしまった。また少し待つとそのロビーの椅子で寝てもいいとのこと。道で夜を明かすよりはましだ。。。

よかった。。。私がロビーに案内されたときはそこの電気は消えていたが、私が寝るときには電気を消さないでくださいといわれたので、「さっきは消えてましたよね?」というと保安上の問題があるからと答えた。その後大使館ではシーツの1枚も貸してくれず自分の汚れたシーツを引っ張り出した。大使館にはシャワーもないんだなぁ~と思った。

四日目

明け方、どきどきして目が覚める。

夜中にも泣いてしまった。今も泣き出してしまいそうだったけど少しはよくなった。明るくなって日がさしてきた頃、地元の掃除の人がやってきた。コーヒーを飲むかと聞いてくれたので、「yes」といったら。甘いコーヒーを持ってきてくれた。優しい人だな。

9時頃まで写真を撮る店は開いていないので、もう少しここで待とう。。と思っているとセキュリティの地元のおじさんが自分が使ってると思われる石鹸とタオルとトイレットペーパーを持ってきてくれた。シャワーを浴びるか?と聞いてくれたので嬉しくて、うんうんと大きくうなずいた。

セキュリティなどの業務用のトイレについている、トイレのタンクから水を汲み取るような簡易シャワーを使わせてもらい、何度も石鹸でカラダを洗うが、汚くて泡が全然立たない。においもなかなか取れない。何度も何度も洗う。。。

するとドアの影から地元の女の人が顔を出して新しい洋服と下着を持ってくるのでここにいるように言われる。「あ~清潔な服が着られる、嬉しい!」新品のショーツとブラジャーと彼女の古着(といってもとてもきれい)の洋服をもらった。

正面のロビーに来るように言われ行ってみると、昨日は見なかった日本人の男の人がやってきて、とてもとても丁寧に腰を低くして話し始める。なぜか信じられないくらい丁寧で、このままもみ手でもしたらぴったりだと思ってしまった。

昨日とは打って変わってこの態度はなんだろう。朝食を食べさせてくれるといっている。私は早く写真を撮ってパスポートを再発行してもらいたいので、帰ってきてから朝飯をご馳走になりたいとつげ、大使館を出た。

写真を撮って戻ってくるのに乗ったトゥクトゥクの運転手さんの家族はコロンボの近くに住んでいるので被害はなかったのだそうだが、私の話をきいて50ルピーも負けてくれた。大使館の入り口でガードの人がサモサとパンとミルクをくれた。それを食べながら写真を提出してパスポートの再発行を待つ。途中写真のサイズが小さすぎるといわれたが、大きいサイズは時間がかかることを伝えると許された。もうどうでもいいよ。。。

大使館の腰の低い人は大使らしい。。。その人にウナワトナの状況、助けがいる人がたくさんいること、赤ちゃんとおかあさんの話しなどをして、救助を要請してほしいとお願いする。

その人は、どうぞ大使館で休息してください、大使館には休息する施設があるのですよと言う。「!! じゃぁ、なんで昨日はその部屋があることを言わないんだ!」と思ったけれど、言わなかった。もうここで何かを言うことなんてどうでもいいことだった。ここを早く出たい気分で一杯だった。警察みたいだった。私は犯罪者か何かか?

大使館を出るときその人は移動のタクシー代はあるか?とポケットマネーを出そうとまでしていたが、私は断って外に出た。

大使館を出るとテレビ東京のインタビューがあった。

私はそのスタッフの方々に助けられた。エアラインのオフィスやインド大使館に来るまで送ってくれたり、彼らのホテルで休憩もさせてくれた。この場を借りてもう1度お礼を言いたい。本当にありがとうございました。そして、そのおかげで使わなかった2000ルピーはホテルにあった災害救助の寄付金箱に入れた。

今回の体験で私は本当に具体的に人々を救護できるようになりたいと思った。

目の前で苦しんでいる子供に何もしてあげられなかった。もっと知識があれば。。。

そして、この世界中の津波の被害の復興に日本が正しいエコロジカルな方法で技術と知識と人材を援助をしてほしいと思います。迅速な対応をしてほしいと思います。さらに私もその助けになれればと心から思っています。

コロンボのゴルフェイスホテルが無事でよかった。

クラシックでいい感じの私のお気に入りのホテルだ。スリランカの地元の人々には本当に助けられた。また必ずスリランカを訪れたい。


オリジナル: スマトラ沖地震津波・被害者の手記

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