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さて、ビートルズのファンだったりすると、ジョンの「伝記」の類はたくさん読むはめになる。はたであんな夫婦(ジョンとヨーコ)がいたら、嫌だなあ、というぐらいに二人ともテンパってピリピリしている。だいたい、ビートルズ中期だって、ジョンの作る曲は「俺は負け犬、眠い、疲れた、だまされた、ヤクを打ってくれ、死にたい」とブーたれた曲ばっかりで、突発的に「愛こそはすべて」という曲を作ったりはするもの、たいていはヒネくれた性根丸出しの優れた(・・・)曲ばっかりであって、とても愛と平和に満ちたパーソナリティとは思えない。まあ両親を早くに亡くし、そのことが影を落として、若い頃のマーロン・ブランド風のマッチョイズムから始まったジョン・レノンの不良っぷりが売れたからといってすぐ治るわけもなく、当時の、フラワームーブメントの「愛と平和」にすぐさま馴染めるわけもなく、曲としてはコーユー曲ばっかりである。そういうムーブメントの真っ只中に置かれ、全世界的な若者の精神的リーダーに祭りあげられたジョンが平静でいられるはずもなく、相当のプレッシャーがかかったせいで、同じく小野家の異端児として、売れない前衛芸術家であった(つまりほぼ乞食同然の貧苦にあえいでいる才女)オノ・ヨーコのテンパり具合というか、似たような状況で二人が惹きつけられるのも無理からぬことだろう。ごく単純にジョンいわく「世界で僕のことを理解しているのはヨーコだけなんだ」とのことだが、まあ、ジョンが感じていたプレッシャーをヨーコの前衛的なセンスが解放したのかも知れない。で、もちろん、ビートルズ解散の(直接ではないにしろ)引き金になったわけで、ヨーコに対する世間のあたりは冷たく、それをかばうジョンのあつれきは想像外のものがあっただろう。と、とにかく、そんなこんなで、当然だと思えるのだが、当時の二人はそういったプレッシャーに耐えられず、「ヘロイン中毒」だったのはほぼ間違いのないところだろう。そういったなかで
を作ったのかと思うと、(ああ、もちろん、その前に例のプライマルスクリームアルバム、「ジョンの魂」があったけど)、・・・えーと、うまい言い方がみつからないが、少なくとも、金満家のポップスターがお慰めの曲つくったのとはわけが違う状況であの曲が作られたのだろうとは思う。まあなにが言いたいかというと、根拠もない理想主義的な曲をでっち上げたのではなく、当時のジョンがおかれた「状態」が必然的にあの曲を作り出したわけで、生命保険のCMなんかに使われてしまうような安い曲ではないと言いたいのだ。まあつまり、スタンダードナンバーにはなっているから、各アーティストが良く(最近ではジャズボーカルで多いね)取り上げているときに感じるその優美なメロディの裏にあったギリギリにまでとぎすまされた感覚を欠落したまま、「立派なお題目」化されて歌われるのには抵抗感がいつもある。こういう言い方ができるかな。これを歌って本当に似合うのは、まさに憎しみと闘争の苦痛を味わっている当事者なのだ。・・・少しかっこ良さげ(笑)。
もう一人のロックカリスマ、ミック・ジャガーも例にひいてみよう。キース・リチャードとの不仲が取り沙汰されていた当時、キースいわく「ミックは世間のたいていの男が羨むような生活を送っているというのに、なんでああまで不満をかこっているのか俺には理解できないね、」とのこと。この発言は後にキースがソロ活動した時「ああ、自分でリーダーシップをとって歌を歌って、世間にメッセージを届けるということがどれだけのプレッシャーになるのかがやっと分かったよ」と反省(笑)、めでたく二人とも仲直りしましたとさ。多分、不満をかこつミックとテンパっているジョンは似たような心境だったんじゃないかな。いわゆる60年代後半から続いてた理想主義?、リベラリズム、カウンターカルチャーを代表する立場にいながら有効なアプローチを見出せないみたいなさ。そういえば、爆発的に売れてしまったピンクフロイドが、やたらと仰々しく女々しいピアノ中心の曲作ったりして、いにしえの(笑)フロイドファンに受けが悪かったが、あのへんは当時の(つまり爆発的に売れてからの)フロイドのリーダー、ロジャー・ウォーターズが愛聴していたアルバムがジョン・レノンの「ジョンの魂」だったからだと僕は解釈している。まあ、それを言ったら、REMはワーナーブラザーズ以降のアルバム、ほとんどが爆発的に売れてしまって気が動転しているのをそのまま歌っているようなもんだが、あと、U2も「マックフィスト」とか悪魔のメイクしだしたり(注、U2のメンバーは全員、敬虔なクリスチャンである)、まあとにかく、一ロックファンとして、彼らのような才能に恵まれたアーティストが世間のプレッシャーで変調きたしていくのはちょっと、いや、非常におもしろくない。まあ日本で爆発的に売れている邦楽ミュージシャンがそうはならないのはアーティスティックなセンスの欠如を示しているだけではあるが(もちろん例外もあるけど・・・)。
我が敬愛するロビン・ヒッチコックやマイクスコット、ジュリアン・コープやキヨシローの「爆発的に売れない」傾向は、各アーティストが自分を見失うことなく、着実に活動できるとも言えるわけで、嬉しいような物足りないような。マイクやジュリアン、レコード会社から契約を切られたりしてるし・・・、そういや、イマーノビッグボスも今出しているレコードレーベルはインディーズ。ロビン・ヒッチコックにおいてはどういうことになるのか心配だったが、なんと、彼のコンサートにギターでピンクフロイドのデイブ・ギルモアが参加し、シド・バレット時代の「インターステーラーオーバードライブ(1stアルバム「夜明けの口笛吹き」に収録、邦題は星空のドライブ)」をやったという。繰り返すが、ロビン・ヒッチコックのセンスは、シド・バレットと同じものなので、これはほとんど第一期ピンク・フロイドの再現そのもの!!!。凄い話だ。つーか、この話、ちゃんと普通のロックファンに伝わっているのかしら?。余談ではあるが、ロビンもマイクもディランフリーク。あ、ロジャー・ウォーターズもか。このへんのセンスって、アメリカの公民権運動の中心的な動きのひとつでもあった「草の根(グラス・ルーツ)運動」の感覚というか、超絶主義者の流れ、「森の生活」ヘンリー・ソロー著の流れを感じるんだが。まあ表層的な一般常識としての「正義」ではなく、もっとより奥深いところに「義なるもの」の感覚としてこいうのがあると思っている。REMにもその匂いがあるね。いずれにしても、彼らの表現が政治的でもあるのはそういう構造からだろう。その意味では政治が政治の体をなしていないわが国ではなにかがすっぽぬけていて、このよふな志向性を持ったアーティストには「困難」な状況だとは思う(つーか、そういう感覚を持ち合わせているアーティストはほとんどいない)。イマーノビッグボスがいつも言うことだが「あいつらは人間をナメてるんだ」、ということ。
という歌詞が「A Pagan Place」にある。もちろん、これはインディアンの化粧のことを歌っているのだが、発売当時、1986年ごろだったかな?この歌詞を見て、ここだけ違和感があった。「なんでまたインディアンなんて未開民族のことが出てくるのだろう?」と。今でこそ、ネイティブ・アメリカンの世界観がどれほど優れたものだったかさまざまな本や体験(!)から吸収し、尊敬しているが、とにかく、当時の自分にはインディアンなど過去の未開民族、悪い意味での土人としか捉えていなく、少々まごつくような歌詞ではあった。
普通に生きてて、ネイティヴ・スピリットに触れるような機会が少なかったような人たちにとっては、今だインディアンなど、考えるに値しない、野蛮な土人としか考えられてないだろうな、という見当がつく。「われわれのほうが進んだ文化人なのだ」とでも言うように。まあ繰り返すが、アメリカ合衆国のアイディアというか憲法起草者、ベンジャミン・フランクリンがインディアンのイロコイ連邦から盗みとった「united」の理念は、同じく繰り返すが、インディアンらの持つ文化の基層にある、「祭りのときに頭角を表して、歌い踊ることによって、祭りにあるムード(アストラル照射性?)をもたらしうるような才能を持った人物を、実質的には女性たちが評価し、政治ごとを司ることを「許可」するというシステムがあり、これがあるがゆえにイロコイ連邦は「成功」していたのだと思っている。つまりアメリカの「united」はそれらが欠落しているわけで、表面上のことを掠めとっても成功するわけがないのは当然だろう。
という言い方を、まあ、このWeblogをお世話してくれている和尚ファンのMR,Sutuまわりでは良く聞く。と同時に、前章で書いているようなお祭り次元についても和尚は「フェスティヴ・デメンション」そのままお祭り次元だが、が、近代社会では喪失しているのが大きな問題だと指摘している。禿同。まあとにかく、後から書くので、「話を合わせているだけじゃないの?」という批判に耐える証拠は挙げれらないが、まあ話を早くすると、ビースティー・ボーイズがデビューした時の代表曲「俺たちはパーティを開く権利のために戦うぜ!」という曲を聴いたとき、私の中に湧き上がったイメージは「ああ!こいつらいきなりブッダ・フィールド現出させちゃったよ」という感激があり、えらくイケてる連中が出てきたなと嬉しかったのだが、当時(今でもか)、その曲とブッダ・フィールドの感覚を結びつけて語っているのは読んだことないのでこうして書いてみる。まあこれからが今書いてもなんだか後付けみたいになるのであんまり面白くないのだが、実は周知の通り、現在、このニューヨークの甘ったれた中産階級のガキどもがブチ切れ気味に(笑)、撒き散らしていたブッダ・フィールドの延長上、彼らビースティー・ボーイズは必然的にチベット解放運動の指導者、経済援助等、として活動をするようになるという結実をもたらしている。
というイメージはなんだか地味で落ち着いたもの、という先入観が、あまりそういうことに興味ない人にはあるのかも知れないけど、ほんとうはそのような、なんというかアストラル照射性に満ちたフェスティヴ・ディメンションをもたらすものとして、まあちょっとしょぼい説明にはなるが、日本語でいうところの「おてんとうさま」とでもいうのか、なにか日が照ってる感じ、じゃ物足りないな、なんかこの世ならざる「光」に満ちてきてポカポカと暖かくてみんな理由もなく晴れ晴れとした嬉しくなってしまうようなお祭り感覚がある状態が「ブッダ・フィールド」なのだと思う。まあ繰り返すが、RCサクセションのコンサート評で良く言われる「なんか霊的なオーラに満ちていて凄い」というのもそれだと思うが、そういうのをちゃんと現代思想とかでマナ板の上に乗せて解釈できないもんすかね。まあ、一部、ヨーロッパの民俗学あたりでは中世の農民たちの季節ごとの収穫や婚姻のお祝いなんかでみんな踊っていたのを産業革命がなきものにしてしまったというような視点は提出されてはいるが。今手元にないので詳しく書けないが、この農民たちのお祝いごとを当時の「王制」の側は抑圧にかかっていたとも読んだな。とりあえず、権力をかさにきた奴らは民衆がお祭り気分になって歌い踊ることを「抑圧」したがるのは常態だが、「いい気になろうぜ、俺たちだけでも」と秀逸なレトリックでうっちゃったイマーノ・ビッグボスマンセー!!!
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ルナっち [はい、みなさん、あけましておめでとうございます。・・・書いてんの9日だ(笑)。 実は昨年末からやっていたコンピュー..]
mintia [ハ−ッ。。。!! 珍しいよ。るなっちの日記、一気に読めた。ついでに叫ばせて。。。 バカヤロ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっ..]
mintia [あ。場所、借りただけよん。 るなっち。。。あけおめ。。chuっ☆ ←レンタルスペース代 ]