トップ «前の日(01-14) 最新 次の日(01-16)» 追記

The Pagan Club

2003|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2004|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2005|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|
2006|01|03|05|

| イマーノ | エコロジー | エディプス主体 | シンクロニシティ | スピリチュアル | フェミニズム | ボディワーク | ロック | | 瞑想

半期 四半期 全カテゴリ


2005-01-15

_ 難しいことを書きます。

さてと。オーストラリア原住民アボリジーヌのドリームタイムやインディアンらの神話的宇宙論、ケルトの幻視と現実の間に境界がなかったこと等、まあ共通してあるのは、近代理性が編成している(!)このらちもあかないマテリアル(物質的)ワールドと、まさしく「夢」そのものとの弁証法的関係であり、彼ら野蛮人(もちろん誉め言葉ね)においては一次的に従うべきものは「夢」であり、現実はそこから派生する出来事として捉えられているということは少しでもその世界(まあ、文化人類学までいかなくても、ネイティヴピープルについての関心は近年、高まってきているから)を知る人には分かってることだろう。うう、例によって推敲しないで書き飛ばすので、あちこち脱線するが、とりあえず、「夢みてんじゃないよ」といったふうに、近代においてはそれ(夢)は「悪い」こととされている側面も多々あるわけで、・・・というか、フィンドホーンに現れるという「植物の精霊」(も含めてチャネリングとかシンクロニシティとか)とはなにか?ということを思想哲学物理学方面から考察して、さふひふ「存在」の正当性を訴えてみたい。まあ安手のトンデモ本なんかでさも分かったふうに量子論を引用するのはよくあるが、目もあてられない。そういうんじゃないってば。これってクリスタル・ストーンとかが、オカルト物販扱いされるのとも良く似てるな。そういうんじゃないのもちゃんとあるのに・・・。

_ ヒルベルト空間

という数学的な考え方がある。近年の量子力学が解明した「存在」は確率の波でしか記述できない、という量子論に基づく世界を説明するのに使う高等数学であり、まあ古典的なニュートン物理学での定まった量の計測において、「定まった」ものが確率論的に決定される場合の計算のために使われる。たとえば、ボールを投げるとすれば、古典的なニュートン物理学では、速度と角度という二次元の座標でそのベクトルを表現できるが、量子力学では、ボールの存在というかふるまいは確率の波として捉えるから、二次元どころではなく、「無数の次元」が必要になる。ちょっと脱線するが、似たような話で、少し前、SynthEditで、f分の1をどうやって組み込むかというときに悩んだ、二次元上で直線(一定)状に記述されるパルスとそのまわりをランダムになおかつ一定の値に収束するようにまとわりつく霧状のf分の1状態での、例えば、「星雲」がそうである、中心に向かうにしたがって「濃く」なってくる霧状のものを考えてもらえれば、数学的に記述する場合、確率論が含まれると無数の次元を考える必要があるというのはなんとなく分かってもらえるだろう。もちろん、俺もなんとなく分かっていると思い込んで書いてるのだが(爆)、それはともかくとして、とりあえず、ヒルベルト空間とは、次元数が無限の空間のことであり、ヒルベルト空間の数学的記述に複素数が使われるのは、確率の波をとらえる情報の波は、いわば赤道である実数と、北極、南極軸である虚数との二つの「座標軸」の関係のなかではかることができるからなのである。なんのこっちゃ。複素数に虚数が含まれているのは高校で習ったでしょ?忘れる?・・・orz.

_ ポール・ディラックのブラ=ケット記号

さて、このブラ=ケット記号とは、もともとそのままブラケット、日本語でいう「」←これ、つまり「括弧」のことで、括弧内で、<A|B>というように表わす数の関係の記述法。この場合、AがブラでBがケットとしてブラ=ケット記号として記述される。この括弧のなかの右側、つまりケットにおかれたBは事物のある状態、可能性としての状態を表わす。ケット(B)じたいは加算が可能だが、乗算をするのにはブラ、Aを要求する、つまり、状態の確率変化をあらわす。なにが「つまり」じゃゴラーという気持ちは分かる(笑)。少し考えれば分かると思うんだけど・・・。まあ気をとりなおして、とりあえず、この数式内部においてはケットじたいはベクトル量(方向を持った量)として単純に記述できるが、乗算による積は無限次元の内積だから、いわゆるスカラー積(方向をもたない量の積)になる。例えばこの<A|B>の読み方はBブラ=ケットAと読むのだが、これはすべて確率過程だから「もしBならばA」とも読める。そしてここが重要なポイントだが、この式が記述する全体を「確率振幅」と言い、そこに作動している関数が有名な「波動関数」なわけだ。簡単に波動関数の説明をすると、量子力学の基礎となる関数のことで、素粒子の状態変化、挙動などが、波動関数によって「波」として表現、把握することが可能となったのだ。

_ さてこのブラ=ケット式がもたらした衝撃とは

確率振幅の全体は「複素共役」(コンプレックス・コンジュゲイト)と呼ばれるものによって計算される。複素共役とは、AもBも実数部と虚数部からなっているものに対して、Bが負になっているもの、つまり虚数が負になっているもので、<A|B>*とあらわす。虚数部が負になっていると、逆の逆は真であるから、確率振幅は必ず正の実数になる。量子化の規則によって、いわば逆の逆はその全体の逆と等しくなる。つまり<A|B>=<B|A>*となる。言葉でいいあらわすと確率的に起こる原因Bとその結果Aは、その逆、つまり原因Aとその結果Bと複素共役によって等しくなる(!)。あることが起こって結果ができるのは我々が当たり前だと信じ込んでいる古典的な因果律だが、この等式の衝撃は、結果が先にあってそれから原因が起こることが等しいものとして記述されるところにある。この二つの「反対」の時間の向きが等しいということは過去と未来が等しいということになり、この式<A|B>=<B|A>*の右辺と左辺は、今瞬間の時を鏡としてどちらが実像でどちらが虚像であるかを決定することができない。これはつまり、客観的な実在においての時間の流れは決定論には置かれておらず、ただ単に我々の「(近代理性による)認識」が時間の流れを過去から未来へと不可逆的なものとして捉えているだけにしかすぎないということを意味する。いやほんと。

_ これらはつまり

過去は未来であり、未来は過去であるとして古典的因果律の解体がもたらされただけではなく、最初のほうに書いた無限次元のヒルベルト空間が、すなわち我々の住む世界であるということを証明したのだが、これがつまりパラレルワールドセオリーのブレイクスルーを切り開き、少し前までは、いわゆるコペンハーゲン学派らによって、そのセオリーは微視論的な量子世界でしか通用しなく、われわれが住む日常世界はそれであるはずはないという二元論が言われてきたが、近年の物理学者らの大半はそれがわれわれの日常を貫く普遍的なものであるという認識になってきている。ソースを忘れたが、この説(というか引用している本)が書かれた当時、1989年当時、数パーセントしか賛成派はいなかったのだが、最近では7、8割方の物理学者がそれを認めてきている。

_ さて、このヒルベルト空間と我々の脳の在り方が非常によく似ている

ことを簡単に説明しておこう。ハードウェアとしての脳は実に複雑な位相空間になっており、ソフトウェアとしても、複雑な網状組織の神経線維が非線形に発火することによって、同時にさまざまなイメージをみることができる。と同時にそれらのイメージ群どうしじたいもまた複雑な位相空間におかれ、相互に影響を及ぼしている。これの一例としては、いわゆる「マンダラ」の絵が挙げられるだろう。すなわち、脳の活動の大半を占めるイメージ的、感性的活動の働きはヒルベルト空間とほぼ同様と見ても差し支えないのだが、言語活動だけは一次的で線形に働く。ひとつの言語記号がえらばれ、その意味に集中すると、他の言語的意味は排除される。多義的な自然言語(つまり感性も含めた意味の膨らみを持つ言語感覚)の意味世界から、記号と対する意味を一義的に、いいかえれば一対一対応で選択している。これは逆に言えば、「詩」というものを考えてみれば、その詩における言語活動は記号に対する意味を「多義」的に「伺わせる」ように、つまり一義的には取り扱わず、暗喩や比喩を使うわけで、そのことが「詩」の、普段我々が使う言語体系とは違ったある種のイメージ喚起力をもたらしているわけで、これもまた我々の脳はヒルベルト空間におかれていることを証明しているとも言えるだろう。または「詩」とは対極的にある「機械翻訳」を考えてみれば分かると思うが、ヒルベルト空間が無限次元に開かれたイメージ群(脳にとってはね)であるからして、他の言語が導く一義的な言葉を双対的に適切な訳をするのにはヒルベルト空間をプログラミングする必要があるわけで、無限にプログラムしなくてはならなくなる(笑)。そのことが翻訳ソフトがいつまでたってもろくな翻訳できない根本的な理由で、これもまた逆に脳の在り方とヒルベルト空間が同質のものであることを裏づける証拠になると言い切ってしまへ。

_ 超決定論

さて、パラレルワールドセオリー、多重世界論においても、我々は「今、ここ」に決定づけられて存在している。そのことが初期量子論においてパラレルワールドセオリーへの反感(笑)をもたらしていたわけであるが、いきなり単純な話にしてもなんだが、「決定」されるという状態は「解」が出された状態であり、ごくシンプルにすると、多重世界において、他の世界が今自分がいるところと「交差」する、いわば動力学的に介入することによって決定されるということを意味する。ただし、時間の性質上、その「決定」はその瞬間でしかなく、無限に開かれた(まあ正確には重ね合わされた)決定されうる世界が存在するわけで、正直書いてる俺ももうキツくなってきたが(笑)、とりあえず結論を出しちゃうと、動力学的に交差する超決定論において人間の「意図」は驚くべきことに、その交差する「位置」を選択することが可能なのである。このことの意味は、現実の在りようの責任の大半はその人間の自己決定権(の強度)にあることを意味し、えっと、もうちょっとていねいに書いたほうがいいんだが、もうお腹すいてきたのでイージーに書いちゃうけど、ナショナリズムや共産主義等の近代的イデオロギーの問題は、しつこく書いているように、本来はヒルベルト空間に開かれた我々の物理的存在、または(脳の)認識のほんとうの在り方を「狭める」ようにしか働かないというところにある。さてと、ここまで、ヒン難しい(笑)話ばっかりだったが、とりあえず、脳の活動の大半がヒルベルト空間に開かれた無限次元に在るということを頭に入れておいて、以下、アウシュビッツ収容所捕虜の体験者、V・E・フランクルの「夜と霧」みすず書房より。

_ [スピリチュアル]ページ123から

「なあ君、もしわれわれの女房が今われわれを見たとしたら! 多分彼女の収容所はもっといいだろう。彼女が今われわれの状態を少しも知らないといいんだが。」

すると私の前には私の妻の面影が立ったのであった。そしてそれから、われわれが何キロメートルも雪の中をわたったり、凍った場所を滑ったり、何度も互いに支えあったり、転んだり、ひっくり返ったりしながら、よろめき進んでいる間、もはや何の言葉も語られなかった。しかしわれわれはその時各々が、自分たちの妻のことを考えているのを知っていた。時々私は空を見上げた。そこでは星の光が薄れて暗い雪の後ろから朝焼けが始まっていた。そして私の精神は、それが以前の正常な生活では決して知らなかった驚くべき生き生きとした想像の中でつくり上げた面影によって満たされていたのである。私は妻と語った。私は彼女が答えるのを聞き、彼女が微笑するのを見る。わたしは彼女の励まし、勇気づける眼差しを見るーーそしてたとえそこにいなくてもーー彼女の眼差しは、今や昇りつつある太陽よりももっと私を照らすのであった。その時の私の身をふるわし私を貫いた考えは、多くの思想家が叡智の極みとしてその生涯から生み出し、多くの詩人たちがそれについて語ったあの真理を、生まれて始めてつくづくと味わったということであった。すなわち愛は結局人間の実存が高く翔り得る最後のものであり、最高のものであるという真理である。私は今や、人間の詩と思想とそしてーー信仰とが表現すべき究極の極みであるものの意味を把握したのであった。愛による、そして愛の中の被造物の救いーーこれである。たとえもはやこの地上に何も残っていなくても、人間はーー瞬間でもあれーー愛する人間の像に心の底深く身を捧げることによって浄福になり得るのだということが私にも判ったのである。収容所という、考え得る限りの最も悲惨な外的状態、また自らを形成するための何の活動もできず、ただできることと言えば、この上ないその苦悩に耐えることだけであるような状態ーーこのような状態においても人間は愛する眼差しの中に、彼が自分の中にもっている愛する人間の精神的な像を想像して、自らを充たすことができるのである。天使は無限の栄光を絶えず愛しつつ観て浄福である、と言われていることの意味を私は生まれて始めて理解し得たのであった。

私の前で一人の仲間が倒れ、その後から進んでいた者達も従って転んだ。看視兵がすぐ飛んできて彼等をなぐりかかった。数分間、私の想像の生活は中断された。しかし、直ちにまた私の心は高く飛翔した。そしてこの世の囚人の境涯から彼岸へと再び逃れ、またもや愛するものとの対話を始めた。私は問い、彼女は答えた。「止まれ!」われわれは作業所に到着した。「総員、道具を取れ!鶴嘴とシャベルだ!」みんなは、少しでも手頃な使いよいシャベルや鶴嘴をうまく手に入れるために、暗い部屋の中に殺到した。「早くしないのか!この豚犬ども。」間もなく各人は壕の中の昨日の場所に立った。凍った地面は鶴嘴の先で砕け花火が散った。頭はぼんやりとし、仲間達も語らなかった。しかし私の精神はなお愛する者の面影によりかかっていた。まだ私はそれと語り、それは私と語った。その時私は或ることに気がついた。すなわち私は妻がまだ生きているかどうか知らないのだ!そして私は次のことを知り、学んだのである。すなわち愛は、一人の人間の身体的存在とはどんなに関係薄く、愛する人間の精神的存在(哲学者の呼ぶ So-sein ーー本質)とどんなに深く関係しているかということである。彼女がここにいるということ、彼女が生存しているかということは、もはや問題ではないのである。愛する人間がまだ生きているかどうかということを私は知らなかったし、また知ることができなかった。(全収容所生活において、手紙を書くことも受け取ることもできなかった。そして事実妻はこの時すでに殺されていた。)しかしこの瞬間にはどうでもよいことであった。愛する人間が生きているかどうかーーということを私は今や全く知る必要がなかった。そのことは私の愛の想い、精神的な像を愛しつつみつめることを一向に妨げなかった。もし私が当時、私の妻がすでに死んでいることを知っていたとしても、私はそれにかまわず今と全く同様に、この愛する直視に心から身を捧げ得たであろう。そしてこの精神的な対話は今と全く同じように力強く、かつ満足させるものであったであろう。この瞬間、私は「我を汝の心の上に印の如く置けーーそは愛は死のごとく強ければなり」(雅歌八章ノ六)という真理を知ったのであった。

本日のツッコミ(全5件) [ツッコミを入れる]

Before...

イ○カワ(流され者)  [>多重世界論では、巨視的にもそうなっているということを言っているようです。 何気なしに突っ込んでしまいましたが、多..]

ジョナー [>あるいは無限次元をある一点に収束させて決定しようとすることが、意識とか意思とかを存在せしめるのではないかと。あるい..]

ジョナー [おそらくバナナ王子様がつっこみをいれておきたかったのはここでしょう(ハートマーク) ちょっとあんたたち、何むづ..]


以下のメッセージを削除するには、「設定」画面から「フッタ」を編集してください

あらかじめREADME日記の書き方には目を通すようにしてください