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ということで、昨晩は久しぶりにヨーガをする。呼吸法から始まって様々なポーズ、死体のポーズをラストに持ってきて瞑想をするというのが基本だが、昨晩は瞑想できなくて、死体のポーズのままフトンかぶって寝てしまう。グッスリ眠れ、ここんとこなかった目覚めの良さ。体調も万全とはいかないまでもかな〜り良くなっているな。たった一回ヨーガしただけなのに。で・・・。
まあ、普通見る夢って、夢のなかで「起こって」いることに気をとられ、背景まで覚えてないんじゃないかと思うけど、今朝見た夢は背景がクリスタルストーンのようなエメラルドグリーンの透明な海になってて、壮大な爽快さに満ちてて気持ちよかった。夢のなかで「起こった」ことは下品な現世利欲的なビジネスパーソンとのあーだこーだ。背景(海)が素晴らしかっただけに、余計、ビジネスマンの下品さが引き立つ(笑)。
おそらく、「背景」がナワールで、「ビジネスマン」がトナールとも。ナワールとかトナールとかなんのことだようという声にお答えして、以下、「気流の鳴る音」真木悠介著、筑摩書房より引用。とういうか今読んでみたらそのまんまですが(シンクロニシティだ。この本、おととい、古本屋で見つけ買ったばかりで、ほとんど目を通してないが、カスタネダについての文が多いのは気づいていた)。
「今かりにお前自身の言葉を使えば、<トナール>とは社会的人間なのだよ」(カスタネダの師、ドンファン)
<ナワール>とは、この<トナール>という島をとりかこむ大海であり、他者や自然や宇宙と直接に通底し「まじり合う」われわれ自身の本源性である。
_ こんなんでましたけど、これでよろしいでしょうか。
でさ、普通の(笑)現代思想でいうところの「記号論」ってトナール内の論理で、言うなれば二次記号でしかないんだけど、ナワールのほうへと広がる記号という読み解き方もアリだと思うン。言うなれば一次記号。例えば、トーテムポールってそういうことなんだけど(だから、トナール的な近代の論理ではワケが分からないシロモノでしかないわけで)、要するに一次記号の世界は当たり前のように顕現しているのだが、近代の論理では見落とされてしまいがちで、それがゆえにはじめ人間ギャートルズを見た我々は望郷の念にかられるのである。うまく話しがまとまったな、サンキュー、さみっち。
まあ、知ってる人はこの補足事項は必要ないだろうけど、普通の対立項、たとえば、「善と悪」「神と悪魔」「精神と物質」というのはトナール内で起こる論理であり、ナワールではそれらは重なりあって分割されえないものとしてあるんだけど、良くありがちな誤解として、トナール、ナワールの二項対立をトナール的な論理の内部で展開すると話がヘンになってしまうYO!。自分でも何書いてんのか分からなくなってきたので今日はこのへんで。後はパリさん(読んでくれてっかなあ?)にナワールをも含めた精緻な論理展開をお願いしようと思うン。あと、単純にナワール=正しい、トナール=間違っているということではないけど。少し本(前述の「気流の鳴る音」)から引用しておきましょう。
「<トナール>はきわめて貴重なもの、つまりわれわれの存在そのものを保護する守護者だと言える。だから<トナール>の特徴は、やりかたが周到で用心深いということだ。その仕事はわれわれの生の中でもとびぬけて重要な部面なものだから、それはわれわれの中でしまいには変質してしまい、守護者(ガーディアン)から看守(ガード)になってしまうのもふしぎはないのさ」
「守護者(ガーディアン)とは心が広く、理解力のあるものだ。これと反対に看守(ガード)のほうは、心がせまくいつも目を光らせていて、いつでも専制的なのさ。<トナール>は本来、心が広い守護者でなければならんのに、われわれの中で狭量で専制的な看守になってしまうんだ」
まあ、こういうわけで、優れたロックってナワール的なものから狭量なトナール的なるものへの「反逆」音楽として批評性が必ずあるがゆえに優れている(た)というわけだね。あんまりこういう論調は聞かないけど、多分合ってると思うよ。蛇足だけど、山形裕生って現代思想方面で暴論吐きまくってて面白い人だけど、ロックに関してはセンス悪いねえ。アメリカのバンド、ガーベッジ好きなんだって。ウププププ。そういや忌野清志郎は、感覚的に僕の中では一番近いところにあると感じられるのはグレイトフル・デッドなんだけど、これもあまり言われないな。デッドファンでインクレディブル・ストリングス・バンド好きでもある人って多いように思うけど、そうでもない?。
おいおい、何ヶ月も瞑想サボっていては駄目だろうとはいうものの、とりあえず、「人ごみに流されて変わっていく私」な状態をこの俗世間に住むときの日常意識の基準に仮りに置き、瞑想するとどのように「人ごみの流れに逆らう私(・・・)」になるかを観察するといろいろ分かってくることがある(<言い訳だ・笑)。まあきちんと瞑想を毎日やっていると、ある日、自分の「身体感覚」が軽い電気的なショックとともに消えうせ、実はここからがほんとの瞑想だと思ってるけど、とりあえず、まだ今回はそれはコなかった。使用したBGMはエイフェックス・ツインの例の二枚組。テストに(つまり始めて瞑想用に)それを聞いていたので、それもイけない理由のひとつかも知れない。もちろん、最終的には音楽なしにでも瞑想ができるようになるのがベストだが、と、とにかく、ある種の音楽は瞑想の補助に凄く有効に利く。たとえて言うと、音楽なしでは、皮ジャンの上からかゆいところをかくような歯がゆさがある部分、音楽はその邪魔くさい皮ジャンのようなものを超えさせるような、なんというか「橋」にあたるような効果がある。まあ、基本的にはこのウェブダイアリー、瞑想やヨーガその他で「どのように変化」していくかを現場報告(笑)のようにしてみたいというのが基本的アイディア。あああ、気がつけば、タバコを吸うのを「自然に」ストップさせてんな俺。さっきまで(略)。
は、「意味をなさない」二音節の言葉を頭のなかで唱えつづけるという方法。あ、もちろん、目を瞑ってね。息を吸うときに「ソ〜」、吐くときに「ハ〜ム」というのを20分くらい続ける。要するに、その「ソーハム(でもなんでもいいが、とにかく日常に使う言葉としては意味がない二音節のカタカナで)」という「言葉だけが意識を独占する状態」、を続けられるようにするのがまず第一の目標。最初はいろんな雑念がわいてきて、その言葉だけに集中するのを持続させるのが予想外に難しいと気づくけど、諦めずに毎日欠かさず続ける。むきにならないで、自然にその言葉だけに集中できるようになるまで気長に。多分、それがうまくいったら、目をさますと「生まれ変わった」かのような新鮮さがあるはず。優れた「気分転換」にはなるから、このへんまでは、そんな危険性もなく瞑想できるんじゃないかな。あ、あと、瞑想する「場所」「時間」「使用する音楽」を同じものにすることも大切なポイント。ある日、その「場」が聖なるものに感じさえするような感覚も起きたりする。いつも不思議に思うんだが、「いい匂い」がしてくるのも瞑想が持続的に成功した場合の特徴のひとつ。身近な人に「私の(瞑想している)部屋に香水まいた?」と問い質したくなるくらいハッキリとわかるので気に止めといてちょ。あとね、煩雑な外の世界から帰って、瞑想している部屋に入るときに「ああっ、心地よいしっとりとした静けさがあるなあ」と感じ始めるのも成功している状態。これも、他の瞑想してない部屋と比べるとはっきりと違いが感じとれるはずなので参考にしてちょ。とりあえず、長いこと瞑想サボっていた俺の部屋は暴風雨が吹き荒れているようだなあ。ダイナソーJrでも聞くか。
いや、ひさしぶりにやってみたあんまり成功してない(笑)瞑想とはいっても、ジワジワと後から利いてきて、いわゆる「瘴気」に気づく。肩のへんが凝っていたりとかまあいろいろ。まあいままでの体験上、「瘴気」が増えてきてるのは観念的には分かっているつもりだったけど、実感として、客観的にそれらが「在る」のに明確に気づくのは瞑想がベスト。もちろん、「瘴気」があるのは嫌なものであるから、それをヨーガその他で片付けていくことにしよう。まず、「気」が滞っているところの流れを良くするべく、お風呂に入る(爆)・・・。ああ、冗談めかして書いたけど、関係なくもないんだよな。ヨーガの後の心地よさは風呂入ったあとの心地よさが何倍かに増えた感じだし。まあとにかく、「瘴気」があるのに気づかないで「麻痺」している状態というのがそういったエクササイズにトライする体験のない普通人の在りかたではあって、瞑想はその「麻痺」したところへと神経が行き渡り(覚醒し?)気づかせる効果もあると言える。まああんまりこういう言い方もしたくはないんだが、瞑想的なるピュアネスと比べ、普通世間一般での「お付き合い」は、瘴気のやりとりでしかないような様相も少なくない。もちろん、そういうんじゃない場合も多いけどさ。うーん、ぶっちゃけ、「瘴気」を纏っておくと、世間との付き合いが楽にはなるのは確かなのね。まあ、逆に瞑想、その他に集中していた時期は「君はなんだか不思議な感じがするな。まるで別の世界にいるみたいだなあ」と良く言われたが、本当にその通りっぽい・・・。まあはっきり言ってそういう状態のわたし、「こんな連中相手してられんわ」とフラストレーションが溜まり、家帰って、ロビン・ヒッチコック聞いて、精神状態が安定してたりする。マジにイカれていると観察されることの多いロビン・ヒッチコックの音楽聞いて安定するとはこれいかに。ああ、なんかで読んだ話だけど、狂気に陥った人はその特異な意識状態の海に「溺れ」てしまうに対し、神秘主義者は安全に「泳いで」いる、という違いがあるという言い方があるけれど、それと似たような話だなあ。まあ、瞑想をやって狂うパターンも少なくないらしいので、諸刃の剣なのかも知れないけど、それでも、瞑想がうまくいったときの「静けさ」は、狂気を落ち浮かせる淵でもあると思うんだが、人に助言できるほど、「実際に狂気の淵に落ちいった人たちを助ける」体験がないので断言はできない。まあ最近では、分裂症は「通過させるプロセス」であるという研究報告も出始め、それまでの「通過するプロセス」であるところの狂気を無理やり薬や電気ショックで「抑圧」させることを良くないことだとする見方がでてきているし、まあ人様の役にたてるかどうか分からないが、「精神の成長」の一時期、心の、または脳の神経回路の「組み替え」が起こるとき、人は狂気に陥ることは十分にありうるし、また、そのことを「恐れて」はならず、「通過するプロセス」であることを覚えていればなんとかなるっしょ。多分、狂気をヒドくさせるもっとも大きな理由は「恐怖」なのかも知れないし、逆に「恐怖」が狂気を引き起こすパターンだって多いはず。まあ戦場なんかでは身体的損傷が目ではっきりと見えるから、それだけに目がいきがちだけど、気が狂う人も多いのはあまり知られてないな。
というのがある。戦場で気が狂うのとは違うが、まあ、ひとつの見方で、狂気は「抗議」の一形式でもあるというのがある。それに通ずる話なので書いておこう。ご存知のようにチリという国家は内乱が続いて、国内が慢性的な戦争状態におかれていた。兵士として召喚されるのは男子ばかりで、つまり、チリ女性の恋人、父親、息子たちが殺されるのがあたりまえという状態。ここで、起きたのは、女性たちが誰に教えられるのでもなく、静かな抗議の意味を込めて、ひとり、ひとり、自主的に「踊る」ということが自然発生した。それをグェッカ・ソロ、というのだ。まあこれは昭和初期の「踊る宗教」こと、北村サヤが教祖になった(名前忘れた)団体が、そもそも、サヤが踊り出した当初のきっかけが、それまで息子に嫁いできた女性を、5、6人も、離婚させた鬼のような姑(笑)に、陰険なメに会わされ、ブチ切れた嫁(笑)北村サヤが狂ったように踊りだしたことから始まっているのがあるが、これも似た状況。あんまり自分の両親を悪く言いたくないが、俺もそのパターン(笑)。ちなみに、北村サヤが当時の天皇制に噛み付き、官憲にたてつくさまはすごくかっこいい。時代背景を考えてみても肝っ玉の座った女役座だ。(注、北村サヤが自分でそう名乗っていた)。まあ、似たようなことをやってのけたのに、女性ロック歌手シンニード・オコーナーがステージ上で、ローマ法皇の写真を破ったというのがある。これは日本で言えば、右翼の街宣車の前で、天皇の写真を破くのと同じこと(注、そのくらい、西洋ではキリスト教が深く根づいている)。まあジョン・レノンの「俺たちはキリストよりも有名だ」発言等、ケルト系は、ロックの場でキリスト「教」にたてつくような真似をよくするが、まあ、キリスト「教」に侵攻されて、自分たちの神さまを「悪魔扱い」されたケルト人たちにとってはあたりまえの反応なのかも知れない。キリストは偉く冴えたことを言ってると思うことも多いのに、なんで、キリスト「教」になるとああなるんですかね?。まあ瞑想をするキリスト教(エッセネ派)がちゃんとあるのは救われる話だが、結構、瞑想を良くないこととする流派も多いよな。わけがわがんね・・・。ところで、イスラム教はどうなんすか?、スーフィズムが瞑想する派だというのは知ってたけど、よもや、他のイスラム教で、瞑想を良くないこととしてないでしょうねえ?(たぶん、良くないことにしてるんだろうな・・・。この前知った話だけど、スーフィズムってイスラム教でも異端視されてるんだってさ)。
まあ世間が不況で精神的にも肉体的にもその他、不安定になった人がいるとするじゃん?(俺もか?・笑)、キリストが目の前にいると、なんというんだろうな、キリストの「存在感」によって水が高いところから低いところに自然に流れるように「癒される」ということがひき起こさせられると思いますの(ん?)。渇いた土に水が沁みててくるような感じだと思うよ?。キリスト「教」の問題って、いわゆるキリスト「物語」にしちゃってて、なんか映画のヒーローもの程度(まあドラマ性があって引き込まれるというのは分かるが)の話になって、キリストがどのような「状態(存在)」に在ったかという観点が欠けてるように思う。これは論点を拡大していけば、精神病院にキリストがきたら、患者たちが治りはじめることでもありうるかも知れない。とりあえず、宗教的な深みがない意見だが(笑)、キリストに満ちた癒しのみちからというのはキリスト自身が「達成」した融通無碍な生命力の淀みない流れの復活によって、ある種の元気さ、興奮しやすさと言ってもいいだろうけど、なんというか色んな意味で「満ち足りた」状態が、目の前に「存在」することによって、病んだ人たちが「ああ、それでもいいんだ」と無意識的に思い直す、というような部分があると思う。まあ存在することの「お手本」みたいな感じがあると思うのだが。その生命力の強さというのはキリストにじかに接したとき、「電撃的」な衝撃を感じるぐらいなさ〜。逆に権勢欲に取り付かれた頑なな人間たちにとっては「なんだ?こいつ」と強く反感(ないしは嫉妬)買うような。ひさびさに長分書き込みしたな。瞑想したおかげで「復活」してきたのかしらん?
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Before...
mintia [ルナっちがわからなくなるような本だったら、Mintia には ムリだ。本はうすいのがいい。。。。とりあえず ありがと..]
観覧車 [「第9号」図書館にリクエストしたら却下されました。うーん、叶 恭子の本があるのだから、購入してくれてもいいじゃない。..]
ルナっち [↑た、確かに(笑)。 ]