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さまざまな(っても呼吸法とヨーガと気巧法と瞑想、プラス音楽かな?)スピリチュアルなエクササイズに取り組んでいたとき、まあ、実存主義の壁を打ち砕くような経験をなんどか味わったが、そのときに思ったことがある。「あれ?これって境界線が引けないぞ?」と。どういう境界線かというと、まあ、早くいうと現実と魔法のあいだの境界線。少し手探りしてみても、もっと奥になにかが在るというような、または、通常、埒もあかないマテリアルワールドがグンニャリと変化するような手ごたえというか、が、起きた。もちろん、良心とペテンがごったまぜになった半ばインチキなそれ(ニューエイジ)も多いので警戒しておく必要はあるが、それでも、普通にニューエイジ全般をいっしょくたにして批判的に見ている常識人よりはいくらかイカレ度が進んでしまったのは確か。いや、イカレ度なんて卑下する必要はないな。要するに、脳内劇場ではなく、実際にリアルワールドでそれを体験しているので、そこにはなにかがほんとうにあるということだけは認識できている。なんというか、そのことを深く感じるたびに謙虚な気持ちにもさせられる。たとえそれが理解しえぬものだとしても。
さて、エクササイズに取り組んでいた時期、ある朝、天上的な爽快さとともに目を覚ましたことがある。その時に見ていた夢は「蛇が口のなかに入り込んで口から喉のあたりをグチャグチャにしようとするので噛み切って殺す」というのだった。その時はなんか無意識的な邪悪なものを撃退したようなコトなのかな?と軽く解釈していたんだけど、これが後年、やっとニーチェを読み出して、「ツァラトゥストラはかく語りき」に登場する牧童が超人に生まれ変わるシーンとして描かれていて心底ビックリしたことがあった。もちろん、当時はシンクロニシティの頻発その他で最初に書いたような実存主義の暗黒を抜け出せていたが、よりにもよって、実存主義者ニーチェの代表作でこんなシンクロニシティが起こるというのは不思議なくらい入り口と出口が一緒だったような畏怖の念が残る。
さて、Setuさんのモンキーウォークや恐竜歩きの真似ではないが、今朝、通勤途上、気忙しそうに足早に歩く群衆の中で意図的にゆっくりと歩いてみた。けげんな顔されるが無視して(笑)、今までトライしたことのないユックリ歩きをしながら、仕事場に向かった。油断するとついまわりに合わせてしまうのを注意深く避けながら。なんと驚いたことにこれだけで瞑想的な意識状態にいける!。油断なく気づいているということなのだろうか。人との間に緩やかな空気が生まれ、優しく接してしまう。まあ、だからといって、毎日それやると「ゆっくり歩きの人」として、有名になるのはちょっと・・・。と書きつつ、明日の朝もその「I will walk before they make me run」エクササイズをしようと思う。度外れにゆっくりするのではないから病院に連れていかれる恐れはないだろう。みんなもぜひやってみることをお奨めしたい。
瞑想体験についてなのだけど、僕が始めて瞑想をしたのは中二の夏休み。ピンクフロイドを聞いて、「目を閉じて聞くと、異次元に吸い込まれるみたいだ」というSF小説好きの感覚の延長で、意識が変容していくことへの恐怖もなく(!)、なおかつそのぐらいの年齢だと世間というもののコモンセンスもまだ未熟、そのうえ人間がもっとも感受性が豊かな時期に、瞑想とはなんたるかの「先入観」なしに、瞑想していたこと。ピンクフロイドの「Echoes」に「空に浮いたまま時間が止まっているあほうどり」という一節があるけど、当時の僕は「ほんとに時間が止まっている感じがするよなあ。凄い音楽だなあ」と、それが瞑想であるという自覚なきままにかなり深い瞑想体験を得ていたように思う。当時の延長で2、3年たっても、まだ瞑想ということに思い当たらぬ時期、レコード棚に立てかけたピンクフロイドの作品だけがリアルな世界を観せてくれるように感じられて、現実そのものはまるで「ハリボテ」のように思っていたよ。
フロイドにはまってから、クラブ活動も止め、学校から帰ってすぐステレオの前に座り込み、それから3,4時間、夕食の時間になるまで延々と(笑)、目を瞑ってフロイド漬けになっていたんだけど、当時の悩みはフロイドを聞いた直後に家族らと夕食をとろうとすると、どうしても家族たちが「変」に感じられるんだよね。学校へ行ってても、フロイドでぶっとんでいる自分と友人たちに合わせている自分が分離してて、当時はその瞑想的な意識状態のほうがオカしいんじゃないか?とか悩んでいたよ。その頃もうちょっと自信があればなあとも思う。は?今ですか?そりゃもう根拠もない(笑)、自信満々ですがなにか?
つまりさ、ネットなんかで瞑想体験とか読んでみると、たいていは瞑想に対しての「予備知識」を得てから、瞑想みたいなもの(笑)をしてみるわけじゃない?それでうまくいかないで悩んでたり、変に類型的な体系論をどっかからひっぱってきたりと、まあ、ほとんどの人は瞑想ができてないように思うことも多い。その意味じゃSetuさんが、例えば、瞑想するときに電化製品に電気が通っていると瞑想の邪魔に感じられるとか、そういうところで、僕もそう感じてるので「ああ、この人はちゃんと体験できてるんだな」と判断しているの。ついでに瞑想しているとこういう「文章」を書くのも嫌になるけど、そのことも書いてあったな。まあ、そんなこんなで、瞑想が自分になにをもたらすかの「期待」があってはならないんじゃないか?というのが今日の結論。
323ページより
ロレンスはまず、「福音書」や「書簡」を書いた「バプテストのヨハネ」と、「黙示録」の「パトモスのヨハネ」が別人だとする自分の意見を書く。
前者は教養高く、当然ギリシャ文化や、他の、キリスト教以前の異教的文化についての知識を十分持っていたにちがいないが、彼は極力それらを排して、ひたすらキリスト教の愛の精神を広めることに専念した。
ところが「パトモスのヨハネ」は、文章も粗雑で、教養も低い。彼は二流どころの、紀元前にいろいろあった黙示文学のあちこちから引き抜いたものに、キリスト精神らしい仮面や衣装をつけて、新約聖書の最後にすべりこませたと、ロレンスはいう。
ロレンスは、古代に生きていた宇宙や信仰や思想が「ヨハネ黙示録」に至るまでに、どのように歪められてきたかを詳しく書くことに彼の著書「黙示録」の大半を費やしていた。そして「ヨハネ黙示録」の中の隠喩や比喩の矛盾や不可解さを指摘しながら、ただその底に一貫して流れているのが、苦しめられてきたイスラエルやユダヤ民族の復讐心だというのである。
人間は個々のうちに、孤独を愛し、思索に耽る純粋な自我と、権力や支配力を渇望する自我との両方がある。キリストの愛の教えは、その純粋自我だけに訴えようとし、他方を完全に無視したものだった。というのは、イエスをはじめ、彼の他の弟子の聖者たちがいずれも貴族階級で、特権的に生きていたから、一般大衆の心がわからなかったためだとロレンスはいうのである。その愛の精神は、彼らと同じようなひと握りの貴族や金持ちには理解され、貧民への慈善も期待できるだろう。しかし、ものを考える力もなく、他人に与えるものを持たず、たとえ少しでも上層にのし上ががりたいと熱望している貧民には、なんの役に立とうか。
だから聖者が真に聖者であり続けるには、孤独に徹して生きるしかないのである。彼らがひとたび公衆の前に出て愛を説き、また愛することを強制するとき、彼らは公人となり、権力者となる。だからイエスが、きわめて大衆的な心理を持ったユダに裏切られるのは、むしろ当然なのである。
で、自分で権力者になれないと知っている下層民には、仮面的な「ヨハネ黙示録」がもっとも愛されてきたのである。また、自分の魂の救済だけを祈るキリスト信者の大衆には、正統的な愛の精神は薄れて、それはただ見せかけの愛、すなわち偽善になる。そしてこれらの人々の集団になると、個人的自我とおのずから違った集団的自我が作用する。それはキリスト教による集団ではあっても、なんの有機的なつながりを持っていない。もちろん真の愛の精神などカケラもない。すべてを破壊し尽くそうとする反抗心や呪詛に固まった個人の集まりにすぎない。しかも、この破壊力が、今や世界を覆っている。だからこの衰微した人間性の活力を取り戻すために、今一度古代人の生きかたを習うべきだと、ロレンスはいうのである。
「人が心から望むものは、生きた完成であり、生きた結合であって、決して自分ひとりだけの”魂”の救済ではない」と激しくいって、最後にこう結んでいる。
「われわれが求めるのは、われわれの誤った無機的な結合、とりわけ金銭との関わりを打ち破ること、そして宇宙との生きた有機的な結合ー太陽と地球と、人類と国民と家族との結合ーを再建することである。太陽とともに始めよ。あとのことは徐々に起こるだろう」
D・H・ロレンスは構造主義思想の元祖だったのかとも思ふ。
中央にしつらえたプレゼン用ステージでギターを弾くはめになる。まあ、オールドのジャズ風音色が出ているので、座りながらブルースを一発かまし、立ち上がって中央へ出て行って両手をピースサインで掲げ「イイェイ!」とか場の雰囲気無視して(笑)喚く俺。いやあ、自分でもよくやれるなあと感心した。舞台度胸あるのね、僕って。
全然そう思ってなかった。というか今の俺の場合だと日記にしてもつまらないぜえ?起きた3次元CADでモデリングした寝た。たまにギター弾いたで毎日が過ぎていくもの。ときどき超具合悪くなって救急車呼ぶとか(おいおい!)。そうそうそれで、まあコンピューター疲労もいいとこなんだけど、それでえれえ調子悪くなって、ガタガタでさ、「気」が薄くなって今にも気を失うかも?てなときに瞑想するとなんとか「治る」んだよなあ。まあ完治とは言わないまでも2割くらい?。まあ、10割にはほど遠いが、さあて、これからどうしたもんかね。冬もそろそろ終わるし、ジョン・C・リリーいうところの+12へと「Second coming」なんつって、まあ+12はいわゆるキリスト意識らしいから、あながち間違いでもない(かも)。
これは、John・C・Lilyという、まあ、電波系(誉め言葉ですがなにか?)脳科学者。イルカとのコミュニケーションの研究で知られているかな?が、スーフィズムからくる意識状態の段階説にて、身体にとどまったままの最高度の脳、精神、身体機序の達成がなされた状態を、「+12」と、名づけているの。これよりも上は「+6」といって、いわゆる幽体離脱体験もこれに含まれているらしい。「+3」が仏陀になること、だそうだ。まあ詳しいことは「意識の中心」ジョンCリリー著、平河出版社を読んでもらいたいが、スーフィ、グルジェフ、オスカーイチャーゾの流れで、リリーはオスカーに出合い、様々なエクササイズを習得したらしい。
まあ、説明読むと、「恋に陥ること」とある。「肯定的なLSDトリップの諸状態」ともある。いわゆる自己実現型タイプがイキやすい「法悦状態」「至高体験」ということだろう。後は・・・、今手元にないので割愛するけど、「恋に陥ること」で、なんだあそんなものなの?と軽く思われても心外だ(笑)。実はその状態だと、「時間が止まる」感覚が味わえる、というか、「彼方なるものを一瞥する」感覚が分かる。彼方なるものを一瞥するのと時間が止まるような感覚が起こるのは同一の精神的位相を示していると思うが、まあ、早い話が瞬間的意識変容体験を、えーっと、つまり、恋に陥ったんです僕がぁ!<照れ隠しにいきおいをつけてる(笑)。すると、おろろいたことに、「あれ?この感じ、俺、初めてじゃないぞ?」と気づいて、やっとこさ、このタコはフロイド瞑想体験を思い出すのである。余談だが、亀有の両さん似の友人との会話篇。俺「ああ、どっかにいい女がいてこの俺をぶっとばしてくないかなあっ」、友人「よーし、俺がこれからワンツーパンチでぶっとばしてやる」・・・。
さて、まあ、ジョンリリーの本で理解が深まり(どうだかな)、瞑想ということに思い当たって、その方面の著作はともかく、つまりはある種の普遍的な意識状態の体験であると目して、では他に誰がその体験を?と人々を観察することになる。・・・なかなかみつからないというか、一人はNHKTVで見た長唄のおばさん。一人は彫刻家のおばさん。もう一人は新宿で会った途端、初めてなのに互いに視線で挨拶してしまったあがた森魚さん。前二者はともかく、あがた森魚さんを見たとき「ああ、この人も知っている」と直感的に閃き、その直後、なにかの本買って、はさまれてたパンフレットに「あがた森魚の永遠の遠国病」。つまりはあがた森魚さんはその+12「恋に陥ること」体験を得て、「永遠の遠国病」にとりつかれたということらしい。もしかするとだよ?その恋した「相手」が同一人物だという可能性だってありうる。
で、+6の説明を見ると「意識の点になること」という一文がある。実はこれ、いまんとこ僕の瞑想体験がたどり着ける最高な状態。いかんせん「点」になってしまっているから(笑)、例えば、「言語」というある種の時空間がないと意味をもたない観念も消失してしまい、たいていはなんか霧のようなところを「点」の俺(笑)が漂うというような感じ。すぐそばに大きな滝の流れも感じるけど、なんだろう?・・・あんまり瞑想体験はベラベラ喋らないほうがいいみたいだが、いずれにせよ、その瞑想から覚めた直後は+12に在るのが常態。ヨーガや気功法等の身体的エクササイズは、まあ、結果的には、その+12なる意識状態を、瞑想から覚めた直後、「長期」にその状態(+12)にいられるようにするテクニックでもあると捉えている。
Setuさんに聞いておくんなまし。zomboことテッツンも分かるかもよ?
さてどっちでしょう.まあ簡単な話,「三枚目」も軽く演じることができるペルソナ(人格)付け替え自由度という特徴により,シュワっちの勝ち.最近の例ではボブサップかな?.まあとにかく,シュワっちがインタヴューで答えていわく「ジムで鍛錬していると宗教的なまでの陶酔感が起こることがあるんだ,それが僕がジム通いする理由の一つでもある」.シュワっちも+12体験者らしい.禅では(曹洞宗では),新米の小僧がぞうきんがけから始めて半年もたたないうちに立派なボクサー体型になるというが,そういう意味も在るのかも知れない.
もうかなり過去の話だが,リサ・ライオンというアメリカ人女性が,いわゆる筋肉質な磨きぬかれたボディをパフォーマンスアートとして芸術表現まで高めたことがある.当然ながら,彼女もシュワっちと同じように鍛錬中に+12へ入り込むという経験を得ているのだろう,おそらくそれがため彼女は後にジョン・C・リリーの養子にまでなっているのだ.蛇足だが,私の場合は贅肉はきれいにそがれるけど,別にマッチョな体型にはならない.単純に彼らの場合,筋肉質のボディという目標があってプロテインを大量にとった結果の身体ということだと思う.
実はこのマネキン状に「静止」したままという日本人の女性ストリートパフォーマンスアーティストを秋葉原駅の近くで見たことがある.ルックスも「完璧」なのにつけくわえ,よほどの意思の強さがなければ不可能だったろう,緻密なエクササイズを丹念に積み重ねた結果を伺わせる贅肉のまったくない端正な身体!.パフォーマンスが「動き」だという思い込みこをひっくりかえされた衝撃は忘れようも・・・,ああ,思い出すがに凄かったな.俺が一人だったら話かけてたんだが,友人のつきあいで秋葉原へ楽器見に行ってたので,急かされて,帰りはもういなかった.言い切ってしまってもいいが,彼女のパフォーマンスアート活動の大きな理由の一つにエコロジーがあるはず.まあ,ヨーゼフボイス(ドイツ人の著名なパフォーマンスアーティスト)がエコロジーをテーマにしていたのはよく知られてるところだけど,彼女はおそらくはボイスの影響ということでななく,独自の着想だと思う.・・・まあ.パフォーマンスアートを「してみる」とそれがなんでエコロジーと関係あるのかがチャネリング様に「降りて」くるものではあるけれど.そのへんの詳しい説明はまた後で,まあ今年いっぱいかけて(笑)なんとか説明してみるYO!
さて、Mintiaさんのリクエストにお答えして、「石野真子への熱い思いを語れ」ということですが、まあ、「熱」くはないかな?。どちらかというとクールダウンする感じ。飛びぬけて美人ということでもなくスタイルだって凡庸だけど、僕が見る彼女のずば抜けた性格として、自我に拘泥することがほとんど感じられないナチュラルな在りようが素晴らしく思えるの。妹の石野陽子が「うちってさあ、両親が凄くいい人たちなのよ、だから子供たちがノビノビと育ったんじゃないかなあ?」と言う。つまりにSetuさんの日記2003-01-08日分に説明されているような、子供たちへの悪しき干渉が少ない寛容的な家庭で育ったんじゃないかな。おそらくは自我(マインド)というものが性格の根強いところに強化されてしまうパターンというのは両親(またはそれに類する保育者)が、子供たちを現状の社会システムに「適合」させようとして、その子供が持っている本来の豊かさを抑圧しようとし、子供たちはそれに抵抗しようとしてマインドという「意固地」なものを自らの性格として定着させてしまうのだと思う。結構重要なポイントだが、石野真子は、舞踏の国キューバで一躍国民的女優にもなったことがあって国賓として招待されたりしている(NHKの石野真子主演番組がキューバで放映された結果)。
森口博子もまたペルソナ付け替え自由度の高い、三枚目も演じる(というかなりきる)タレントの一人でもある。まあ、いわゆるエイブラハム・H・マズローらが提唱していた「自己実現型パーソナリティ」の典型的な例として認知できよう。彼女も石野真子の家庭環境と似て、「うちって家族全員がなにかしらアホなことをやっては、みんながゲラゲラ笑っているような環境だったの」と、これもまた、抑圧が少ない寛容さのある家庭環境である。また、個人的にも+12に入り込んでいると自分が「自己実現」を果たしているのを感じるが、その上、つまり+6は「幽体離脱」体験も含まれ、知られざる事実だが、森口博子は幽体離脱体験がひんぱんにおきて悩んでいたという。彼女はそこまでいけるのだ。え?石野真子はどうだって?、、、彼女は身体にいながらにして幽体離脱しているようなもん(笑)。
実はこの彼女たちの家庭に共通する「寛容さ」について話をコムズカシク(またかよお)しちゃうぞ俺わ。まあ、これも後ほどジックリと説明する予定なので端折るが、例えば逆に、「抑圧的な家庭」である場合のことを考えてみよう。子供たちは生まれた時は「白紙」であるとされ、養育者が彼らを現代社会に適合するように「型にはめる」ということを教育方針とする場合、それ(抑圧)が起きる。その場合、どういう「型」にするのかという部分に、つまりエディプス主体という隠された心理的権威主体に基づいて、ある種の「型」をデッチあげているという構造がある。エディプス主体について簡単に述べてみるとかって我々が古代人、未開人であったころは、いま、現在問題となっているエディプス主体が占めている「場」は神さまだったのだ。つまり、そのまま、かっては「神」が占めていた場を乗っ取った権威主体としてのエディプス主体というものこそ、偽の神、として君臨、つまり悪魔的なものでさえあるのかも知れないって話がおおげさかね?ちなみにエディプス主体そのものは心理的権威主体だけということではなく、エディプス主体が神なるものより上位主体になってしまった近代的合理主義的世界観においては、我々の社会制度全般に組み込まれていることをここに警告しておきたい。
まあ、仕事関係で年配の方と付き合うとするじゃない?で、その人の友人が鬱病で、「なにかいい方法はないかねえ?」とか聞かれるので、「瞑想がいいんじゃないでしょうか?」と答えると、「ほうほう、いわゆる無になることですね?」というのがあったけど・・・
その時にフト思ったけど、ああ、この人も本かなんかで瞑想についての知識はあるみたいだけど、実際にやってみることはしないんだろうな、と軽い空しさがあったよ。
普通さ、自我って、内と外に境界線を引いて、それに囲まれてあるのが自我じゃない?とすると、まあ、良くあることなんだけど、オイラは境界線ないから、相手の自我よりも広いところで発想しちゃうから、いつのまにか相手の自我をモテ遊ぶような(そんなつもりは毛頭ないんだけど)ところがあってさ、まあ対等の立場だと「テめークヌヤロ、おおお、俺さまをモテ遊ぶんじゃねえ(爆笑)」みたいな笑いがあるけど、仕事なんかで付き合う目上の人たちは、なんか腹立たしかったりするみたい。でもまあ、結構深い話ができると思われるみたいで、土曜日に呼び出されて仕事の話かな?と行ってみると、まあ、割と(笑)、宗教的、哲学的な話題を振られて、結局、仕事じゃなくて、そういう会話をしたかったみたいで、満足げにお帰りになられました。残された私は「あれえ?お仕事くれるんじゃないのお」と不満げでしたとさ。
この先も結構書いてたのにサーバーダウンしてて登録できひんかった。
このページってツッコミができるじゃん?それでさ、遠慮なく「批判」も書いてくれると嬉しい。批判は考え直すきっかけになるからね。
を朝がけにちょっと読んだ。「今日1日は最高のことが起こると信じて行動しなさい」みたいなところ。フーンそうしてみよっと気にとめておきながらハイエンドCADを借りている大田区中小企業振興支援センター(仕事場)に出かけた。
な、な、なんと昨年からヒイヒイやってた新しい材質と構造でできたギターをそこ(受け付けのところ)でずっと展示するという話がでて驚いた。なおかつ4月に科学技術省長官賞とかなんとかいうやつのアピールする講演会があり、そこでギターを演奏しろとまで話が進んでいる。実はそのギター、プロのジャズギタリストたちに弾いてもらって、評価が高いのである。リーダーのレフティジャズベース弾きの社長も気合が入り、今年いっぱいかけて会社設立の話になっている。どうなるんだあああ!
石野真子のDVD(正確にはビデオCD)が100円で売ってたので「笑いが取れるな」とシャレで買ったのだが・・・、いやあ、家帰ってからうっとりと見惚れてしまい、癒されました(笑)。
「最近 浄化のスペースにばかり いたためか 毒気がほしくなってきた。あーーっ、クラブ 行きたいっ。」とのこと。うわあ、Setuさんがすぐに分かったようにあのお方はほんとに巫女パワーが凄い。彼女の日記をさりげなく見過ごしてはならない。クラブ(レイヴシーン)というのは実は優れて「癒される」スペースなのだが、世間一般的なイメージではちょっといかがわしいところという誤解があり(もっとも、悪ぶったギャル男が集まりだして、問題にはなってはいるが)、ヒーリングにまつわる清潔感とは相容れないと思われている様相を、不肖ながらこのワタクシが「同じことだってば」と結びつけてしまおうとたくらんでいるのである。まあ、それがため、少々理屈っぽくなるが、それを裏付けるべく思想を語ってみようと思うン。
といった調子で昨日はいい日でしたとさ。
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月っち [26ぐらいだったYO。 ]
mintia [今もこういう感覚ある? ]
月っち [残念ながらちょっと(いやかなりかなあ)薄れている。でも、この日記でどんなふうに復活していくかを記録していくつもりなの..]