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2003-02-13 本の書き写し [長年日記]

_ 本の題は「ロレンスを愛した女たち」中央公論出版より

323ページより

ロレンスはまず、「福音書」や「書簡」を書いた「バプテストのヨハネ」と、「黙示録」の「パトモスのヨハネ」が別人だとする自分の意見を書く。

前者は教養高く、当然ギリシャ文化や、他の、キリスト教以前の異教的文化についての知識を十分持っていたにちがいないが、彼は極力それらを排して、ひたすらキリスト教の愛の精神を広めることに専念した。

ところが「パトモスのヨハネ」は、文章も粗雑で、教養も低い。彼は二流どころの、紀元前にいろいろあった黙示文学のあちこちから引き抜いたものに、キリスト精神らしい仮面や衣装をつけて、新約聖書の最後にすべりこませたと、ロレンスはいう。

ロレンスは、古代に生きていた宇宙や信仰や思想が「ヨハネ黙示録」に至るまでに、どのように歪められてきたかを詳しく書くことに彼の著書「黙示録」の大半を費やしていた。そして「ヨハネ黙示録」の中の隠喩や比喩の矛盾や不可解さを指摘しながら、ただその底に一貫して流れているのが、苦しめられてきたイスラエルやユダヤ民族の復讐心だというのである。

人間は個々のうちに、孤独を愛し、思索に耽る純粋な自我と、権力や支配力を渇望する自我との両方がある。キリストの愛の教えは、その純粋自我だけに訴えようとし、他方を完全に無視したものだった。というのは、イエスをはじめ、彼の他の弟子の聖者たちがいずれも貴族階級で、特権的に生きていたから、一般大衆の心がわからなかったためだとロレンスはいうのである。その愛の精神は、彼らと同じようなひと握りの貴族や金持ちには理解され、貧民への慈善も期待できるだろう。しかし、ものを考える力もなく、他人に与えるものを持たず、たとえ少しでも上層にのし上ががりたいと熱望している貧民には、なんの役に立とうか。

だから聖者が真に聖者であり続けるには、孤独に徹して生きるしかないのである。彼らがひとたび公衆の前に出て愛を説き、また愛することを強制するとき、彼らは公人となり、権力者となる。だからイエスが、きわめて大衆的な心理を持ったユダに裏切られるのは、むしろ当然なのである。

で、自分で権力者になれないと知っている下層民には、仮面的な「ヨハネ黙示録」がもっとも愛されてきたのである。また、自分の魂の救済だけを祈るキリスト信者の大衆には、正統的な愛の精神は薄れて、それはただ見せかけの愛、すなわち偽善になる。そしてこれらの人々の集団になると、個人的自我とおのずから違った集団的自我が作用する。それはキリスト教による集団ではあっても、なんの有機的なつながりを持っていない。もちろん真の愛の精神などカケラもない。すべてを破壊し尽くそうとする反抗心や呪詛に固まった個人の集まりにすぎない。しかも、この破壊力が、今や世界を覆っている。だからこの衰微した人間性の活力を取り戻すために、今一度古代人の生きかたを習うべきだと、ロレンスはいうのである。

「人が心から望むものは、生きた完成であり、生きた結合であって、決して自分ひとりだけの”魂”の救済ではない」と激しくいって、最後にこう結んでいる。

「われわれが求めるのは、われわれの誤った無機的な結合、とりわけ金銭との関わりを打ち破ること、そして宇宙との生きた有機的な結合ー太陽と地球と、人類と国民と家族との結合ーを再建することである。太陽とともに始めよ。あとのことは徐々に起こるだろう」

_ ってなわけで(笑)

D・H・ロレンスは構造主義思想の元祖だったのかとも思ふ。

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