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花粉症治ってきたけど、体調悪し。ヘンに最高な体調(+12)を知っているだけになおさら具合悪し。この「極端から極端」へと行き来する性格、なんとかならないか。そうそう、俺、凝り性なんだけど、意志薄弱で、一時のエクササイズ集中期は凝り性で「おお、どこまでいけるんだ?」というノリだったなあ。意志薄弱さの元は、普通、瞑想なんかに取り組むとき、ます、「意思力」を鍛えてからという方法論があるが、そのへん、単にピンクフロイドに心酔して瞑想してしまい、音楽という快楽に意思の力関係なしに浸っていたという理由もありそうだ。ただ、瞑想のなんたるかを認識するのに、逆に「意思」をほとんど介在させないので、結構興味深い自然に湧き起こる「認識」がありうるし、ヘンに意思が強くて、瞑想の効果を意思の力でネジまげて(笑)、結果的に高圧的になる自称宗教家(アレイスタークロウリーとかさ)も多いような・・・。
になる。瞑想した後だと。まあ、今のところ、肉は(好きではないが)食べられるし、タバコはチェーンスモーカーである。けど、瞑想した後なんか、今でも、4、5時間は「いつのまにか」タバコを吸ってない。「ハッ?」と気づき、無理して吸うと激マズなのにはいつも驚く。まあ、そんなかんじで、瞑想に2、3週間、集中できたときなんかには、「肉」が素直な欲望として、食べられなくなり、「ヨーガなんかでいう菜食主義ってこれかあ」と思う。まあ、そういった感じで、意思薄弱も使いようによるのである(という言い訳をしているわけではないが)。
というのがあるけど、まあ、何事にもゆるぎなくまったくの落ち着いてるような状態。まあ、心が台風だとして、台風の目みたいな、「中心」点があると思うけど、瞑想しているとこれを見出すようにも思う。なにを書きたいのかというと、まあエクササイズって、心身に大きな変化をもたらすから、なんというか「基準点(面というか心的環境)」みたいなものを見出しておかないと、バランスをくずして、ひどい場合(というか結構あると思うけど)、魔境とか、私がキリストの生まれ変わりだとか(笑)、イっちゃうパターンもあるそうな。そういう意味でも、瞑想って心身構造の変化を「試す」場合の必須事項だし、おそらくは、指導する人が必要であるかも知れない。ある程度大人になって「世界」というコモンセンスを確立してから瞑想するとそのコモンセンスが「ゆらぐ」とき、人は危機感を覚えるというのはあると思います。
これはまあ、ドンファンが教えたとかいう古代メキシコ体操。カスタネダ自体、ほんとか嘘か(まあ例の著作集、最初の4冊はわりと正確な文化人類学のフィールドワーク(の寄せ集め)で、後半がフィクションだという説あり)さだかではないところがあり、その体操とかもマトモなものなのか判断できないんだけど、やらないよりやってみるほうがマシ(?)ということで、どんな体操なのか詳しい人(またはページ)知ってたらツッコミ願います。蛇足だけど、坂本龍一は故アントニオカルロスジョビンの自宅でレコーディングし、ジョビンの書棚にカスタネダとレヴィ・ストロースの著作が並んでいたのに感激したという。まあ、これはあれだね、僕の書棚にフィンドホーンと北沢方邦の著作が並んでいるのとほとんど同じようなもんだね。天才は似てくるのね。ウフフのフ。<激しいツッコミが予想されますが(笑)。
そういえば、要するに、レヴィの著作は学問的に正確さを置いて記述されているのだが、その場合、カスタネダのようなマージナルな事柄はわきに除けられちゃうというというのがあって、つまり、レヴィを(あいまいさを含めて)補足するという意味ではカスタネダの最初の4冊は意味あるかも知れない。
ということで、昨晩は久しぶりにヨーガをする。呼吸法から始まって様々なポーズ、死体のポーズをラストに持ってきて瞑想をするというのが基本だが、昨晩は瞑想できなくて、死体のポーズのままフトンかぶって寝てしまう。グッスリ眠れ、ここんとこなかった目覚めの良さ。体調も万全とはいかないまでもかな〜り良くなっているな。たった一回ヨーガしただけなのに。で・・・。
まあ、普通見る夢って、夢のなかで「起こって」いることに気をとられ、背景まで覚えてないんじゃないかと思うけど、今朝見た夢は背景がクリスタルストーンのようなエメラルドグリーンの透明な海になってて、壮大な爽快さに満ちてて気持ちよかった。夢のなかで「起こった」ことは下品な現世利欲的なビジネスパーソンとのあーだこーだ。背景(海)が素晴らしかっただけに、余計、ビジネスマンの下品さが引き立つ(笑)。
おそらく、「背景」がナワールで、「ビジネスマン」がトナールとも。ナワールとかトナールとかなんのことだようという声にお答えして、以下、「気流の鳴る音」真木悠介著、筑摩書房より引用。とういうか今読んでみたらそのまんまですが(シンクロニシティだ。この本、おととい、古本屋で見つけ買ったばかりで、ほとんど目を通してないが、カスタネダについての文が多いのは気づいていた)。
「今かりにお前自身の言葉を使えば、<トナール>とは社会的人間なのだよ」(カスタネダの師、ドンファン)
<ナワール>とは、この<トナール>という島をとりかこむ大海であり、他者や自然や宇宙と直接に通底し「まじり合う」われわれ自身の本源性である。
_ こんなんでましたけど、これでよろしいでしょうか。
でさ、普通の(笑)現代思想でいうところの「記号論」ってトナール内の論理で、言うなれば二次記号でしかないんだけど、ナワールのほうへと広がる記号という読み解き方もアリだと思うン。言うなれば一次記号。例えば、トーテムポールってそういうことなんだけど(だから、トナール的な近代の論理ではワケが分からないシロモノでしかないわけで)、要するに一次記号の世界は当たり前のように顕現しているのだが、近代の論理では見落とされてしまいがちで、それがゆえにはじめ人間ギャートルズを見た我々は望郷の念にかられるのである。うまく話しがまとまったな、サンキュー、さみっち。
まあ、知ってる人はこの補足事項は必要ないだろうけど、普通の対立項、たとえば、「善と悪」「神と悪魔」「精神と物質」というのはトナール内で起こる論理であり、ナワールではそれらは重なりあって分割されえないものとしてあるんだけど、良くありがちな誤解として、トナール、ナワールの二項対立をトナール的な論理の内部で展開すると話がヘンになってしまうYO!。自分でも何書いてんのか分からなくなってきたので今日はこのへんで。後はパリさん(読んでくれてっかなあ?)にナワールをも含めた精緻な論理展開をお願いしようと思うン。あと、単純にナワール=正しい、トナール=間違っているということではないけど。少し本(前述の「気流の鳴る音」)から引用しておきましょう。
「<トナール>はきわめて貴重なもの、つまりわれわれの存在そのものを保護する守護者だと言える。だから<トナール>の特徴は、やりかたが周到で用心深いということだ。その仕事はわれわれの生の中でもとびぬけて重要な部面なものだから、それはわれわれの中でしまいには変質してしまい、守護者(ガーディアン)から看守(ガード)になってしまうのもふしぎはないのさ」
「守護者(ガーディアン)とは心が広く、理解力のあるものだ。これと反対に看守(ガード)のほうは、心がせまくいつも目を光らせていて、いつでも専制的なのさ。<トナール>は本来、心が広い守護者でなければならんのに、われわれの中で狭量で専制的な看守になってしまうんだ」
まあ、こういうわけで、優れたロックってナワール的なものから狭量なトナール的なるものへの「反逆」音楽として批評性が必ずあるがゆえに優れている(た)というわけだね。あんまりこういう論調は聞かないけど、多分合ってると思うよ。蛇足だけど、山形裕生って現代思想方面で暴論吐きまくってて面白い人だけど、ロックに関してはセンス悪いねえ。アメリカのバンド、ガーベッジ好きなんだって。ウププププ。そういや忌野清志郎は、感覚的に僕の中では一番近いところにあると感じられるのはグレイトフル・デッドなんだけど、これもあまり言われないな。デッドファンでインクレディブル・ストリングス・バンド好きでもある人って多いように思うけど、そうでもない?。
まあ、エディプス主体がどうとかこうとか、フェミニズムの学問領域では姦しいわけですが、ちょっと前に書いたように、心理的装置としてだけではなく、われわれ近代文明社会全体の「制度」にも無意識的に組み込まれているのが問題だとされている。んだが、それはそうだけど、普通、「エディプス主体」が普通の話題になるほど、世間に広まっているとはとても言える状況じゃないわけで、理論的にはともかく(笑)、感覚的にそれがなんであるのかを掴みやすく説明してみる。間違ってはいないと思うけど、もちろん、責任は取れない。
というのはビートルズのホワイトアルバムに入っていた傑作(というかなんというか)。「なんで俺たちは道路でやっちゃいけないんだい?」。まあ、やっちゃいけない、と抑圧している主体が「エディプス主体」なんだけど、まあ、それだけだと、エディプス主体がなんでヤバいのかはまだはっきりと浮かび上がってこない。そうそう、舞踏家、田中(漢字後で)氏が若い頃、道路で裸で踊ってて何回も逮捕されていたが、まあ、「裸」だったのがいけなかったと法解釈されたんだろうけど、ほんとうのところはどうだかな。
の前で「踊る」という場面を想像してもらえれば、「なんか踊りにくいな」と感じさせるものがある。それが「エディプス主体」ということなんですけど〜。会社の上司はともかく、ヤクザや警察が典型的な階層構造を持った暴力的権力装置であることからも分かるように、エディプス主体は現代社会の権力体制と密接に結びつき、ちょっと前に書いたように、マレイ・ブクチンが「エコロジーの問題の基本的原因となっているのは社会構造にある」ということで、フェミニズムとエコロジーとレイヴ(に代表される民衆の自発的踊りのムーヴメント)のトリニティは、既存の権力体制の諸問題を解決する志向性があり、それらを取り結ぶキーワードないしは主要敵がエディプス主体であるというあたりが結論としてビューティホーっしょ?
花粉症治ってないのでこんぐらいにしといたるわ。あと、どなたか存じませぬが、ヤフーやグーグルの検索エンジンにひっかかるようにしてくださっているようでありがとうございます。ワシやりかたわからんかった。
などと書き出すのもありだが、要するに、子供が生まれると、で、その子供を現体制に適応できるように教育せにゃあかんと、となると、必然、現代社会を裏から操る「エディプス主体」的なるものを無意識的にも、子供に押し付けてしまいがちだと。まあ、このへんが、よくあるパターンで、色んな大学教授がはかなんでおられる「学生時代はあんなに冴えてた女子学生が結婚するとダメになるねえ」というパターンにはまりがちなアレ。なんだっけな?「公園デビュー」っていうの?主婦が子供つれて集まる場が、どうも陰湿な権威的匂いを帯びてきて、仲間外れだとかイジメだとかさ、まあ、そのテもエディプス主体の在りようを必然的に浮かび上がらせていると思うよ。家族関係での「投影」って、無意識下で強くエディプス主体が支えちゃってるからキツい、という捉え方もありだし。まあ、そういった袋小路に陥りがちな互いの関係性を「外す」場としての、エコロジカルフェミニズムに基づくコミュニケーションネットワークシステムの希求性は高いと思うんですけど。まだ、書いてなかったけど、日本のエコフェミ代表は「青木やよひ」女史で旦那さんが「北沢方邦」という構造主義文化人類学者で、このタッグはヴェリーストロングあるね。お〜い、てっつん、「知と宇宙の波動」北沢方邦著は、俺、また古本屋で買っちゃったから、その本あげるわ〜。汚い本でごめんよ〜。急須ネコカム連盟(?)諸君、これはその世界では知られてる本だから図書館にもあるはずだぞ〜。かなり読みやすいはずだが、偉くムズかしい内容も出てくるけど、一家に一冊のお勧め本だぞ〜。
フランス出自の構造主義思想では熱い社会と冷たい社会という言い方がある。これは元々熱力学の法則(ブラウン運動とかのさ〜)に基づいた説明で、「熱い」というのは変化が激しい(つまり近代社会)で、「冷たい」というのは変化が少なくて安定している未開社会の在り様を指して言う。んだけども、普通、「冷たい社会」などと言われたブンには、人間関係の希薄な人情の冷えた(笑)都会のこと?とか誤解されがちである。もともとが言語学のソシュールを出自する構造主義であるから、たとえば、このような例にあるように、他の文化圏に「翻訳」する時に、必然的にその文化に合わせて、言い換えなくてはならないのだが、お堅い(笑)学問の領域ではちょっと意味が違ってきても、もとの言葉になるたけ忠実に訳して、分けが分からなくなるパターンも多い。というかフランス人、「気取る」のが文化でもあるから(日本人だとワビサビとか?)、キャツらの文献読む場合、そこんとこを留意しておく必要があるみたいです。はい?わたしですか?いやああんまり読んでないですけどォ・・・。
「静的」なものを解釈するのは優れているけど、「動的」なものをうまく解釈できない、という言い方がある。違いまんなあ。こういう言い方の場合、未開社会のシステムという安定して「静的」なものを解釈してきたため、方法と目的が一緒クタにされていると思う。まあ、「過去」のものである、「それまでの」未開社会の分析手法として素晴らしかった構造主義を「未来」へ「これから」構築する手法として使うということも考えられるのである。いかん、無理して難しいこと書いてみたらちょっと気が遠くなってきた。章を改めて・・・
実は一部の突出した知性を除いて、構造主義的なる思考様式が身についているのはCMディレクターでもあるんだが(本人が構造主義を知っているかいないかはともかく)、例えば、浜崎あゆという「死の匂いを撒き散らす」(<私の主観ですけどなにか?)アーティストがいるが、この「死の匂い」を解釈しなおして、携帯電話のCMだったと思うけど、生命の気配のない「サイボーグ」としてかっこよく(のつもりなんだろうと思うけど?)打ち出したCMがあった。いわゆる「逆手に取る」パターン。または、SMAPの仲居くんというインチキっぽいパーソナリティの持ち主を「模倣犯」という映画の主人公にアてる、等、ここにあるのはある種の構造の一要素を「読み換え」て、別のものにするという方法で、たぶん世界でもそんなことをいうのは俺しかいないんだろう(笑)「未来志向型構造主義思考」的なるものの芽生えがあるとしてみる。なんとなく見えてくるものがあるとは思うんですけど〜。というかTV嫌いなわりには結構知ってるじゃんルナっち・・・。
ここは構造主義思想について語るところではないので端折るが、ネイティヴ・アメリカンやアボリジーニらのような未開社会ブーム(?)において、未開人らの世界のほうが近代社会よりもよほど文化的に優れた豊穣な世界であることを発見し、西欧の近代知なるものへの批判を最初にもたらしたのは一連の構造主義思想家だったのはあまり知られてないのがちょっとなにだな〜と思い、書いてみました。なお、60年代後半のカウンターカルチャーにおいてなんで構造主義思想が取り上げられなかったのか不思議ですが、なんででしょうね。
要するに今、仕事でつきあっている会社の社長の家が近所で(歩いて10分!)、まあ、社長んとこ顔出すと、午前中だったりするにもかかわらず(笑)、「おい、車で送ってってやるから待ってろ」とか言われて、まっすぐに帰るわけがなく、「必ず」飲みに行くはめになっているのである。
今日はひさしぶりに飲みにいくのをまぬがれてるんですけどォ・・・。
たとえばさ、TVの「砂の嵐」画面あるじゃん?。放送が終わってホワイトノイズ状になっちゃってるやつ。まあ、まったくのカオス状態だけど、それをずーっと見ていると、なんか「模様」が見えてくるでしょ?。当然、そんな模様はホワイトノイズに含まれているわけがなく、脳が「作り出して」投影しているものでしかないんだけど。
まあ、早い話が「アシッド」、LSDね。をJonn・C・liliyが、「神経系統にホワイトノイズを発生させる」と説明したんだけど、つまりだから、LSDトリップというのは、すべて脳が作り出している「投影」だということも考えられるの。ということで、
まあ、ホワイトノイズとも似て、瞑想じたい、脳の神経系を「鎮め」きってしまい、ほとんどまったくといっていいほどの(100パーセントそれができれば凄いことかも)情報がない空白の状態に人を導き、つまり、「情報がない」という意味では空白もカオスも同じことになるから、そこになにを投影するかというのは当の本人の問題になってくるわけ。
LSD摂取して、「瞑想と同じだ」とか言ってたらしいけど、それでもってなんでああなるのか、一瞑想家として(瞑想を)弁護しておきたい。まあ、意識そのものがあるとする。目の前にあるのは社会だったり自然だったりする。もちろん、意識を「間」において、その目の前にある社会や自然と「反対の側」、つまり、普通は「無意識」とか呼ばれる心の深いところにあるものがあるとする。まあ、動物的な直観機能みたいなものだね。本能とはちょっと違うけど。
同じアシッドを摂取する人でも(笑)、キヨシローとショーコーじゃ反対のベクトルを向いてるよね?たとえば、ショーコーは信者にアシッドきめさせて、狭い個室に閉じ込め「地獄のビデオ」とか見せてたじゃない?。まあ、状況的には意識の外に神経を慣らせている状態。で。キヨシローだと、「春の自然の中でLSDをキメてみるのもいいものです」と、意識が内部に向けられるの。
さて、なんで自然の中でアシッドをきめるのが心の内部に意識を向けることになるのでしょうか?
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