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瞑想がもちろん中心になるのは確かだけど、それらを「行う」ということのひとつの構造の場が現出する。それは日常の生への隷属性に「属」さない行為であること。まあ、スターホークスというアメリカの魔女が「儀式」を日常の意識を止める「場」でもあると位置づけているように、瞑想と儀式というのは極めて隣接した構造の場を現出させる。実はこの言い方をもっと精緻に述べておられる北沢方邦の「知と宇宙の波動」から引用したいのだが、手元にないので自分なりの解釈で書くが、逆に言うと、瞑想や儀式などのいかにも近代的理性にとってあやしげな行為を行うということはあまり良く思われないがため(まったくの偏見だなあ・ため息)、まあ、オウム事件などで印象が悪くなるのもあるし、まあ、とにかく、ここで述べてみたいのは「彼らはソレ(瞑想的状態)がどのような状態であるかは認識していないというのがある。あたりまえに人間、自分が理解できなものは未知なるものとして「怖い」、ないしは釈然としないというのはあるから、それ(瞑想や儀式)に対する無意識的な嫌悪感は在るのだろう。キリストが「わたしはあなたのそのくびき(偏見)をとりのぞきたいのだ」というのはそのことだと解釈してるけど、もちろん、全然違うかも知れない。
キリストもそうだし、まあ、たいていのマットーな宗教(?)は「隣人愛」を薦めているということになっている。まず、ひとつ提起してみたいのは、その「隣人愛」とやらは、ほんとうは隣人が嫌いなのに、宗教的義務として我慢しなくてはならないものになってはいないかという問題。これでは逆効果でさえあると思うけど、おそらくは後年キリスト教が、人間に原罪があるとさせて互いに罪悪感で縛り付けるような強迫的な関係性のもとにおかれてしまう少なからぬ原因にそれがあると思う。要するにあなたが義務から隣人を愛するのではなく、おのずから隣人を愛せざるを得ないような、ある「狂態」、いや違った(笑)、「状態」に入り込んでいられるかということなんだと思うけど、いやあ、また「なんで俺、キリストについて偉そうに講釈垂れてんねん」という念が沸いてきたのでひとまず、解散。まあ、なんかのヒントぐらいにはなるっしょ。
前回のつっこみに人の「気の滞ったところ」あたりが薄黒く見えるというのがあったけど、その意味ではこういう人たちって、それ(薄黒いところ)がまったくないような身体ー脳ー精神の完成度の高さで、それがため(薄黒いところがないため)、後光が差しているかのように見えたのだろう。なんかチョー常識的なことを書いてるような気がしてきたが、結構重要なポイントだと思ってるン。ああ、こうも言えるな、あなたが人に言えないような悪いことを裏でやっても見える人にはそれが「黒く」見えてしまうのだみたいなあ。。。、俺、疲れてるかも知れない。出直してきますわ!
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