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The Pagan Club

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2004-03-12 Doors [長年日記]

_ Doorsのリーダー、ジム・モリスン

が、今月号のロッキング・オン(四月号)にインタビュー載ってるので購入。まあロック界随一の「知性」と言っていいだろう、インテリジェンス溢れる発言の数々。ジムいわく「儀式はすべてのものに影を落とす」・・・、さ、さ、さ、さ、ゴホン、ゴホン、(息を整えて)最高だぜジム!!!!。

_ 前ふり

さて、いきなりな展開だが、シニフィエとシニフィアンという、現代思想のタームがある。ジャック・ラカンの言い方なら、大文字のSと小文字のSというやつだ。ハートとマインドというのが分かりやすいのかも知れないが、と、とにかく、なるべく分かりやすく書こうと思うが、それは後々にゆっくりと書くとして、今回は飛ばす(笑)。実は少し前、「知の欺瞞」ジャック・カーソル著、という本がラカンも含めて、現代思想の大物連中がいかに数学や物理学の考え方を自己流に解釈して(つまり誤った解釈をして)、引用しているかを暴き、思想界に大きな衝撃を与えたことがある。ラカンの場合だと「位相」の数学的概念を間違って使っているとされているのだが、惜しいことに、その通りだと思われる(精しく位相関係の方程式とか調べたわけじゃないので断定できないが)。だが、ヒントというか、最初にその考え方を提起し、それがあるレベルまでは、正鵠を射たものの言い様であることまで、否定されちゃ、ジム・モリスンのその「洞察」も意味を持たなくなってしまう、つまり、細かいところはラカンは間違ってしまったが、大きなところは凄く有用な言説を提出してくれているのだ。

_ クレタ人が「クレタ人は嘘つきだ」と言った。

というのがもっとも大文字のSと小文字のSの区別を説明しやすい「矛盾」。まず、最初に出てくるクレタ人が嘘つきであるならば、「クレタ人は嘘つきだ」の文の中のクレタ人は、まず、ここではクレタ人は嘘つきという前提があるから、かっこ内の文は嘘であるから、この場合、クレタ人は正直であることを裏から証明する。が、話を戻して、この場合、クレタ人が嘘つきであることを前提としているから矛盾を呈する。次に最初のクレタ人は正直だとすると、正直に(笑)、「クレタ人うそつきね」と言うのであるから、当初の正直なクレタ人は例外的存在であって、と、とにかくだ、ここでは、例外を認めないので(笑)、「じゃあ、なんでおまえだけ嘘つかないんだよ?」とつっこまれる、つまり、これも矛盾した言説になる。この矛盾が生じるのは、おわかりのとおり、発言者のクレタ人と文の中のクレタ人が「同じ」ものである場合においてであって、別のものだと矛盾は生じない、つまり、ラカンが「自己」というものの在りかたを「大文字のS」「小文字のS」と区別することによって、その矛盾を止揚したのだ。う〜ん、こうして書くとそれがどう凄い発想なのか説得力とんじゃいそうだが、まあ、「儀式は・・・」の説明を待っていてくれたまえ。ネットで検索しても、予想外にラカンの仕事、フロイトのエディプス原則を、その大文字のSと小文字の Sを持ってくることによって、「位相」として捉えなおし、数学的な明快な論理をもって、フロイトのエディプス説を見事に論理的に解釈しなおして、「欲望」がみずからの「死」を望む心理的な(ないしは論理的な)圧力になりかけることをなきものにしえたお手前に対する高い評価というか、解釈を分かりやすく(難しくでもいいけど・笑)した「説」がほとんど見当たらないのはどういうこっちゃ。2ちゃんの哲学思想板過去スレとかあさると出てくるかなあ。ここでは数式や図を書き表せないので、はしょった説明になるけど、大文字のSと小文字のSの区別がちゃんとついてないと、「巻き込まれて」、欲望が死を望む論理性を持っちゃうの。わかりやすくいうと、欲望でギラついた人って、同時に死の匂いのようなまがまがしさをあたりにまきちらすような雰囲気になったりするじゃない?、そういう感覚(いや、本当はちゃんとした論理性があって感覚じゃないんだけど、普通ラカンなんてほとんど読まれないらしいから感覚的ないしは直観的にしか捉えられないけど、まあそれでもいいのだが)。まあこれは親子関係だったり、恋愛関係だったりすると、たとえば、相手に「こうあって欲しい」という欲望が、「こうならないのなら殺してやる」となる巻き込まれ方。・・・いや、それはちょっと話が違うな(論理的には親戚関係にはあるけれど)。とにかく、フロイトが発見したとされるタナトス(死への欲望)を論理的に解き明かして、簡単な(笑)位相の捉え方にしなおして、「数式化」をなしえたラカンは偉大だ。補足しておくと、晩年のフロイトはタナトス説を間違いだったと告白したという。

_ 心理的に)「巻き込まれる」

というのをちょっと数学的に言い換えてみよう。双対的に関係を持つ、というのだ。写像関数の領域かな?とにかく、抜き差しならぬ関係(笑)。当然、くりかえすけど、この抜き差しならない緊迫感(笑)は、大文字のSと小文字のSの「区別」がついてない状態におかれて互いに絡み合っている状況でもある。まあ早い話が「修羅場」ですな。

_ さて

その「双対的に絡み合っている」、片方が「儀式」を行うとする。まあありていに言えば、ラカンの位相の捉え方においては瞑想もそれ(儀式)であるが、その他、(健康とか美容を目的にしない)ヨーガでも気功法でも、実際に魔術の儀式でも同じ。それらは「生への隷属性」に属さないというところに共通性があり (あ、だから目的、つまり生への隷属性、がある瞑想ってダメなのか、なるほど)、なおかつ、近代的な生への隷属性がもたらすエディプス原則に基づく死の欲望にも根ざさない。ということはだ、片方がなんらかの「儀式」を行うと、生への隷属性に囚われている双対的な関係から「外れる」構造の場を自立的に作り出すということになる。う〜ん、もうちょっと学術論文調に書いたほうがいいかなあ、俺のスタイルだとノンキな書き方なので、なんか「軽く」なっちゃうけど、まあ気にしないで続ける。人と人、人と事も「関係」はすべからく、よほど意識的な人ではない限り、双対的なものとしてあり、「儀式」は、双対的に向かいあっている関係性の「内部」での煮詰まり(笑)から抜け出して「外部」からの視点をもたらすことになり(まあそれは儀式の本質的なことそのものではないんだけど)、内部で囚われているそれらとの関係性を「変えて」しまう効果をもたらす。これはほとんど「魔術的」でさえあるんだがあまり知られてない心理学的数学的技術だ(このへんは手品にも似ている。つまり「儀式」は手品でいうタネにあたり、知っている人にはなんてことないのだが、知らない人には、少々おおげさな形容だが奇想天外さを感じさせるような効果を及ぼす)。ということで、ジム・モリスンが言う「儀式はすべてのものに影を落とす(影響を与える)」という言説が本質的に優れた知性から導きだされた洞察的な発言であったということがお分かりいただけただろうか。ジムのフェイバリット哲学者はニーチェだったんだよなあ。まあ、今日書いているテーマはこれからもっとわかりやすく噛み砕いて、なおかつもっと重要さを強く打ち出して(笑)、何回も書くでしょう。ヨロピク。まあ次回から何度か「推敲」して、もっとわかりやすく緻密に書きます。いやあ、俺、推敲しなくても、言わんとするところは分かる人には分かるからいいやあ、とかいい加減に書き飛ばしちゃうんだよね(<言い訳がましい・笑)。なお、ここに告白しておきますが、私、ラカンの本、一冊たりとも読み通したことがありません(・・・まあむりやり読み通して全部正しいと思い込んだ似非インテリが多かったのは確からしいが)。

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