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The Pagan Club

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半期 四半期 全カテゴリ


2004-06-01 WaterboysのThis is The Sea日本盤デラックスエディションで再発されてます。 [長年日記]

_ ちょっとたるんでるな俺

うーん。実は「ヨーガ」をはじめるのは春からがベストということで、これから、ヨーガによる心身変容の術(笑)を報告しようと思っているが、花粉症だ・・・・。毎年春になると「ま、花粉症治ったら初めてみようか?」と計画を立て、ジョン・レノンいわく「人生とは計画を立てているとき、その横を通りすぎていくもの」のように、いつのまにか、それをするのを忘れている。これではいかんぜよっ!と思うが、別に自慢でもなんでもないが、ヨーガの「効果」は瞑想を伴って、進行の度合いが強くなるというのは確かなのだが、要するに、この日記を前から読んでくれている人は分かってくれると思うが、僕の場合、「知らずの瞑想」時代のおかげか、ヨーガの進歩が異様に早い。なにかの本で読んだ、「何年間もの厳しいヨーガ修行を積まないと達成できない菜食主義」が三ヶ月もかからないで、肉が吐き気を催してくるので食べられなくなるとか、例のギターソロとか、あと、女性(略)、まあとにかく、人を「指導」するような立場になる気は毛頭ない。

_ さて、フラワリーキッスのミワコさんと約束した通り

まず、ヨーガのお勧め教則本として、・・・あわわわわ。見つかんねえっ!。本棚が二段構えなので奥に入ってるっぽい。中国4000年の歴史というか、まあとにかく、この手は「古典的名著」を参考にするのが基本。これはつまり最近の出版文化にあてはめて言い換えれば、「版を重ねる」本が良いということを意味する。全然話が飛ぶが、有名な内藤アキヨ(章代)さんというヨーガ教師がいるが、彼女のHP見てたら、「構造主義」についての言及があって、「そうでしょう?」と心強かった。どんどん話をズラしていくが(<おいおい)、構造主義が打ち立てた「理論の力」は、つまり、スピリチュアリティが落ちいりやすい罠、早く言えば、戦争中の日本は天皇を「神」とするスピリチュアリズムがあったわけで(そういえば、昭和天皇崩御の時、どこにこんな連中が隠れていたのかと驚くほど、いわゆる、神道風のカッコして、皇居の前で一心不乱にお祈り、祈祷か、をする若い女性たちがたくさんいたが)、まあとにかく、その手の民族主義的国粋主義(ナショナリズム)と精神性(スピリチュアリティ)の危険な(笑)結びつきを無きものにする論理の力が構造主義にあるということを言っておきたかったのだ。誤解なきように書いておくが、いわゆる「民族としての誇り」は、エスノセントリズムといい、近代のナショナリズムとは別のもの。ああ、そうそう、これも書いておかなくちゃだが、高群逸枝という日本フェミニズムの祖がいたが(言うことも凄くおもしろい人)、なんと、その高群型フェミニズムの考えかたが当時の(つまり戦争中の)天皇制の考え方と結びつき、「強化」してしまったという過ちがあったということをここに警告しておこう。まあ、いずれにしても、戦後民主主義デモクラシーにおいて、スピリチュアリティが敬遠される基本的原因のひとつに天皇を神と置いた偽神道系スピリチュアリティがもたらした戦争があるわけだが、繰り返すが、構造主義はその過ちを断つところにある。詳しい人は知ってるだろうけど、構造主義という考え方は、「半永久的」に成立し続ける性質があり、一見、難し気だが、内藤さんのようにヨーガや瞑想に「凝る」人が必然的に見出す論理性なのでもあって、まあではなぜ、そうなのかということを噛み砕いて書くつもりさ〜。今日はもう寝ます。

_ [エディプス主体]あわわ、寝たらあかんがな

まあ、ヨーガや瞑想と構造主義を結びつける観点は、ずっと前に書いた、フランス人のトップモデルがLSDでブっとんでは構造主義について考え、第三世界(アフリカ)の飢饉に思いを巡らせていた、というような発現が起こるような場にある。今回は思い切り端折るが、LSDとヨーガや瞑想というのは「凄く似てる」ところがある。これはつまり、どちらも時間や空間の感覚を「日常」とは違う状態に持っていくが、逆にいえば、その「日常」とされているわれわれ近代の人間の世界認識がいかに無意識的な抑圧主体(言うまでもなく、それがエディプス主体なわけだが)、によって支配されコントロールされているかを浮かび上がらせている。繰り返すが、最近の優れたフェミニズム思想は、そのエディプス主体が、いわゆる心理の内部にあることではなく、世界を認識する神経論レベル、その神経回路が作り出す社会制度や実際に作られたモノ、等にまで影響を及ぼしているということを証明しつつあるのだ。スゲエよ。すみません、このへんはのちほどより分かりやすく書き直します。とりあえず、今回書きたかったのは、「普遍的」であると思われている近代的理性が実際はエディプス主体によって知らずのうちに「変調」されているところは予想外に大きいということでした。次回はそのことを「具体的」に例をあげて書きます。

_ どんどん話がズレたが(・・・)

えっと、とにかくですね、「成長」にはエネルギーが必要であり。ヨーガや瞑想(呼吸法含む)、気巧法がまず行うのは、「無駄なエネルギーを使わない」心身構造を打ち立て(これは例えば、ネガティヴな想念エネルギーで自分を消耗させるようなことをより少なくさせる等)、なおかつ、呼吸法や体操類で、全身に「気」が行きわたらせて、エネルギーの活性化を行い、また、そのエネルギーを自らの「成長」に有効に使えるようにするというところからスタートというわけです。そしてここが大切なポイントだと思いますが、「創造」することと「成長」することが同じことに「観える」地平に出られればしめたものです。これはつまり、「創造」するためにはそれまで創造を阻んできた「殻」を打ち砕くということでもあり、このことがつまり、常識を無視する傾向の強い(笑)自己実現型パーソナリティが、同時に殻(つまり常識)にとらわれずに創造的であるということになるわけですね。あ、今、思い出したが、その「成長すること=創造すること」説を、当時の私は「慢性的インスピレーション閃き状態」と呼んでいた。うーん、とりあえず、その頃の「実感」がうっすらとしか思い出せないのだが、こういう時は「言葉」にして記憶してあると便利ですね。そういや、当時言いふらしていた物言いに「生命肯定的な精神」というのがあったが、これも実感が薄れてる。どうりでそれを聞いた友人たちがキョトンとしてたわけだ。その「状態」に入った覚えがないとそれがほんとうにはいったいなんのことなのか掴めないっつーのはあるかも。

本日のツッコミ(全4件) [ツッコミを入れる]

Before...

ジョナー [オッケー、手にあまったらあまらさんとこに回すわあ。。。 ・・・・ってなんの話やねん? ]

セトゥ [ウォターボーイの曲をネットから拾って来て始めて聞いてみました。Whole of the moon。ボウィさんみたいで..]

ジョナー [ネットから拾った?、・・・ゆ、許さん(笑)。これは身銭を切って買うべきでしょう。送りつけましょうか?(笑)。ああ、あ..]


2004-06-16 「This Is The Sea」販売促進委員会広報 [長年日記]

_ [ロック]ウォーターボーイズの最高傑作

This is The Seaがもう一枚ぶんのボーナストラックを付けてデラックス・エディションバージョンとして、日本盤、再発売されている。結局、最新作「Universal Hall(もちろん、このタイトルはフィンドホーンにあるホールの名)」はユッタリとした静謐な空気が流れてくるいいアルバムなのに、「地味」すぎて日本発売が見送られてしまったが、まあとにかく、こちらは思いっきり大げさな、ほぼ全部が名曲揃いの素晴らしいアルバム。個人的にはこのアルバムが最初に出た時期、一連のシンクロニシティやエコフェミ思想への開眼等、それまでの実存主義的暗黒時代から抜け出す「ターンオン」な時期にハマり、まったくもってその「大げさ」さが違和感なく聞けて素晴らしかったが、なんというか、まさに聞くべき時に聞いたという感触があり、この世は人が思うほど物質的(ニヒリズム)ではないと確信するに至るような思いとともにある。このデラックス・エディションでは解説者が男性になって、最初に日本発売された時の女性音楽評論家が書いた素敵なレビューがみつかりづらくなっているので、ここに無断で引用しておく。なお、今回の男性の解説では、マイク・スコットは大学で哲学と文学を専攻していたというが分かった。なーるほど。どうりで詩が素晴らしいわけだ。販促のため(笑)、ボーナストラックから一曲、歌詞を載せちゃいましょう。清涼な詩情あふるる曲です。なお、この「This Is The Sea」アルバムが発売された当時はマイク・スコットはフィンドホーンに参画する前だったのだが、そのフィンドホーンにてエコロジカル・フェミニズムが大きなテーマとして取り上げられていたのはついこのあいだのことだった。要するに間にフィンドホーンがまだなかったころ、私はこれらに同質のことを感じたのだが、この勘は当たったのだ。偉いな自分(笑)。

_ []ビヴァリー・ペン

冬空の下
大きな屋敷の屋根で眠る少女
豪華な毛皮を身にまとい
瞳には輝く星
この生き物の名前は何なのか?
彼女はいつ、どこで生きていたのか?
彼女は誰だったのだろう?
何故ピーター・レイクはビヴァリー・ペンを愛したか?

白く冷たい朝4時
水が熱を持った彼女の肌にしたたり落ちると
彼女は息を吹き返し
ハリケーンがやってくる
この生き物が見る夢の彼方から
馬に乗った盗賊が駆け降りてくる時
それは夜明け、それは12月
そしてピーター・レイクはビヴァリー・ペンを愛した

それは一日中嵐が強かった日
空をカラスが埋め尽くしていた日
彼女の愛らしい魂が天に召される時
彼女は心を閉じ、そして上がっていった
この生き物の魂はどこへ行ったのだろう?
もう一度聞かせておくれ
襟巻の話を、歌の話を、宇宙の命の話を
何故ピーター・レイクはビヴァリー・ペンを愛したのか?

凍てついた湖に飛び込み
百人の男たちに火を放ってみせよう
もし僕がたった一度でも
彼がビヴァリー・ペンを愛したように
誰かを愛することができるなら

The Water Boys アルバム「This Is The Sea」デラックス・バージョンより 対訳・宮地ひろみ


マイク・スコットという青年には、どこかしら「孤高の人」というイメージがある。清い、言いかえれば、ある種、神聖な空気が、彼をつつみこんでいる気がしてならない。マイク・スコットーザ・ウォーターボーイズの音楽の中に、冒しがたい聖域があるのは、彼がそうした”孤高の精神”を貫いているからだと思う。

真摯な情熱と信念、ごまかしや媚びを寄せつけない精癖さ、売らんがための音楽ではなく、そうしたビジネスとは、一番遠くかけ離れたところに、彼の音楽はある。「歌う」ことへの純粋な喜びが、彼を「音楽」へと駆り立てる。そして、そのピュアな情熱・精神が、聴く者を感動させるのだ。

「音楽は神からの贈り物だ」と、マイク・スコットは言う。「(音楽)は尊敬の気持ちを持って、思慮のある使い方をするべきだ。それができない人間は、音楽を創るべきではない。生命を大切にしない人間は生きるべきではないのと同様に」と。

気骨にあふれた言葉 −彼にとっての「音楽」は、心の一番奥の部分に、深くかかわっているものなのだ。もしかしたら、彼のこうしたひたむきさは、時代遅れと言われるかも知れない。 だけど、彼のような硬質の精神の持ち主に、私はたまらなく惹かれてしまう。

硬骨漢 −マイク・スコットには、そんな形容こそが、一番ふさわしい。身長172〜3センチというから、決して大きなほうではないけれど、スキニーな身体からあふれ出る気迫は、並々ならぬものがあると思う。そしてあの瞳。あの大きな美しい瞳こそ、マイク・スコットそのものなのだ。

初めて見たマイク・スコットの写真は、青年というよりは、少年と言ったほうが似つかわしいほどに、どこか頼りな気だった。にもかかわらず、その端正な顔の真ん中にあったふたつの瞳、−一点のくもりも、かすかな邪念も宿ならない澄みきった美しい瞳は、彼が強靭な意志の持ち主であることを、はっきりと語っていた。凛として、激しさと静けさを同時にたたえた瞳 −これが、ロック・シーンという荒涼とした原野で、流浪の疾走を続ける孤高の青年、マイク・スコットの瞳なのだ。

一年4ヶ月振りに、ザ・ウォーターボーイズのニュー・アルバム「自由への航海/This is the Sea」が届いた。今年の初頭から準備を始め、3月から7月までの4ヶ月間を費やしてイギリスでレコーディングされたこのアルバムは、彼らにとって3作目(日本では前作「異教徒の大地」/A Pagan Place」に続き二枚目)にあたる。

「This is The Sea」 ーこの美しいアルバム・タイトルが、」まず私の心をとらえた。ザ・ウォーターボーイズと”水”というイメージは、切っても切り離されないが、”Sea"という言葉から連想される激しさ、やさしさ、計り知れない深い奥行きを、このアルバムもまた、持っている。タイトル通り、このアルバムは、まさに、「海」なのである。

”ドント・バング・ザ・ドラム”から”ディス・イズ・ザ・シー”まで、一枚を通してじっと聴いていると、刻一刻と表情を変える海を見ているような気になってくるのは、決してそのタイトルのせいばかりではなく、実際にこのアルバムが、海と同様の様々な表情、−激しさとおだやかさ、悲しみと怒り、すべてを包みこむ大きさーを持っているせいだと思う。

くり返し聴くうちに、このアルバムは、すっかり私の内面に入りこんでしまった。マイク・スコットが歌う「歌」は、ある時は私を奮いたたせ、ある時は胸を熱くし、涙させる。心を揺り動かして、心のひだの内側に入りこんで、静かに、そして深く、私を感動させた。

彼の声、そしてサウンドは、ストレートにハートに飛びこんでくる。嘘のない声だ。そして何より、マイク・スコットの書く詩に、すっかり心奪われてしまった。ザ・ウォーターボーイズの歌には「詩」がある。歌詞と呼ぶには、あまりにも美しく、文学的だ。けれど、決して夢物語りに終わることなく、詩そのものが生命を持っている。この詩に目を通し、彼の歌を聴いて、何も感じない人がいるなんて、到底私には信じられない。

「僕はひとりの人間として、人々が何をしているか、何を考えているかに関心がある。それを歌にしているだけだ。バカバカしくて意味のない歌詞は、絶対に書きたくない。中身のある有益なことだけ書いていきたいんだ」

彼が綴る言葉のひとつひとつが、歌になると突然息吹だし、脈打ち、輝き始める。本当に素晴らしいと思う。マイク・スコットはミュージシャンであると同時に、無限の可能性を秘めた詩人なのだ。このアルバムを聴きながら、あらためて彼のそうした才能に、素直に驚かされてしまった。

「自分の納得のいかないアルバムを500万枚売るより、たとえ500枚しか売れなくても本当に自分の好きなものを創りたい」というマイク・スコット。彼には、いつまでもこうした信念を貫いてほしい。なぜなら、こうした”こだわり”と”誇り”こそ、今、最も求められているものだと思うからだ。正直な音楽、真摯な音楽 −そういう音楽にこそ、私達は心を動かされる。安易なお手軽音楽は、もう欲しくない。ザ・ウォーターボーイズが高らかに歌いあげた9曲が、素直に私を感動させたのは、彼のスピリットが、嘘いつわりのないもの、そして彼の音楽が、そのスピリットの中から生まれでてきたものであるからだと思う。

本物だけが生き残る。そして、ザ・ウォーターボーイズの”本物のスピリット”は、人々の心をとらえていかないわけがないと思う。

人生について、マイク・スコットはこんなふうに語っている。

「人生というものは、水の流れのようだと思う。常に流れ、動き、決して逆戻りしたりしない。やがて、川は、もうひとつの川と一緒になり、海へ注ぎこむ。そして、海は世界中へ広がっていく。ーだから僕は、水が好きなんだ」

マイク・スコットの人生観は、そのままこのアルバムに映し出されている。川がいつか海へ流れこんでいくように、ザ・ウォーターボーイズの音楽も、人々の心へとしみ入っていく。彼らの音楽が、七つの海へと流れていく日もそう遠くないはずだ。今「自由への航海/This Is The Sea」を聴きながら、瞳の中に海をたたえた青年、マイク・スコットの未来に、確かなものを感じている。

_ 塚越みどり    「This Is The Sea」 1st Editionから 

本日のツッコミ(全3件) [ツッコミを入れる]

安里玉懐 [やっほーまじわたしウオーターボーイズだいすきです。いつもみていますー。いろんなてんかいがあって楽しいし。あははーいつ..]

jonah [いやあのその・・・。ごめんね。ここで取り上げているのはイギリスのロックバンドのほうなの。君が言ってるのはTVとか映画..]

jonah [あれ?そういうことじゃなくて、この日記いつも見てくれているということかな?それだったらサンキュー!!!]


2004-06-28 私は反核主義者ですが、なにか? [長年日記]

_ Coccoって歌ウマ

スキニーではあるけれど、決して美人ではない(いや十分美人だけどさ)Coccoという沖縄出身の歌手がいる(というかなかば引退してるので「た」というべきか)。失礼だが、いかんせんずば抜けた「曲」に恵まれず、音楽シーンに影響を与えるとまではいかなかったが、それでも、彼女の「存在感」は際立ったものがあった。いつだったか、もう昔の話だが、彼女がデヴューして、夜遅くにTVの音楽番組に出演したのを見たとき、「目が釘づけ」になる感じで、彼女の動きの「質」が素晴らしくナチュラルな野性動物系なのに惚れますたっ!。インタビュアー(女性)やまわりのスタッフらが、いかにも都市に染まったリテラシー(共有された情報時空間)範囲でのありきたりな動きかたしかしないので、より一層彼女の野性的な「動きや反応の質」が際立っていた。・・・のだが、一部(とくに2ちゃんあたり)なんかでは、それが誤解され、知的障害者扱いする奴までいる始末。ハハハ、人間観の狭いやつもいるもんだな。まあそれもあるし、あと、これはなんでだかいまだにワケがわからないのだが、Coccoには神さまがついているように思えたことがある。実は歌い手に神さまがついているように見えたのは彼女が二回目で、一回目は神奈川県市民会館で行なわれたRCのライブだった。曲は「Love Me Tender」、もちろん、RCバージョンで反核をテーマにした替え歌(笑)だったのだが、「ラブミーテンダー♪」を「何言ってんだ〜♪」と、なんの違和感もなく、リアリティのある反核(原子力発電等)の歌にしてしまい、なおかつ、当事ご子息「タッペイちゃん」が生まれたばかりのキヨシロー父親が真剣に歌いこんだときのそこらじゅうに発散されたあの凄まじいばかりの「義なるもの=アストラル照射感」に満ちたオーラ!!!。まじに神さまが降りてきたとしか思えんかったす。まあ私はRCフリークであるから、そこにあった神さま性はこうしてスラスラと説明できるが、いまだにCoccoにも感じたそれはワカんないんだよな。なんだろう?あれは。良くわからないままに書くけど、「沖縄レイテ戦」まわりに関係しているようなことかも知れないし、メジャー当時、主になっていた楽曲のテーマ性「不安定な女性心理」とも絡まっているようなことかも知れない。とりあえず、皇太子が「雅子の気持ちをもっと考えてあげやがれテメーラ」と文句言ってたのには賛成(笑)。

_ ああこれはまだ書いてないな

「朝まで生TV]という番組がある。そのときそのときの大きなテーマを討論(というか怒鳴りあいというか)する番組なのだが、とにかく、その番組で「原子力発電、是か非か」というテーマがあった。当然、反対派と賛成派に「分かたれ」話が進むのだが、話の内容は誰にでもわかるような「展開」なのでどうでもいいとして、と、とにかく、そのときの「反対派」と「賛成派」が、「別種類」の人間性に明確に分かたれていたのが興味深かったのだ。賛成派に女性は一人しかいなく、後は髪の毛7,3分けのドブネズミスーツ族が大半で、逆に賛成派には老若男女取り混ぜて、個性的な人たちばっかりだったのだ。賛成派の(たった一人の)女性の意見も「原子力発電に可能性を見て貢献してきた人たちの仕事を無駄なことにしてしまうのか?」という意見で、全然「議題」とはズレた(が女性らしいきめこまやかな思いやりに満ちた)意見で、同じ賛成派であるドブネズミ族らとは毛色が違ったが、と、とにかくさ、ここにあるのは、世間に「合わせて」きた人たちと、自分自身を見出して個性化してきた人たちの「差」で、ではなぜ、自分を見出して個性化してきた人たちが「一様」に原子力発電に反対しているのか、ということを論理化していく作業が必要でしょう。「合わせた」人たちはエディプス主体に憑かれているのに対し、個性化されたほうはよりエディプス主体から開放されているという見方もできる。ああ、もしかすると、「アストラル照射(感覚)」をさえぎっているものがエディプス主体だとも言えるかも知れないな。昨日、ひさしぶりにダイアン・フォーチュンの代表的著作、「神秘のカバラー」読んだけど、ほとんど「アストラル」的なるものを取り戻すことがテーマになっているのに気づいた(というか後書きにそう書いてあった)。ヒツこいですけど、マイク・スコットもダイアン・フォーチュンのファンです。前にも書いたと思うけど、フランス現代思想(つまり構造主義以降)と、ニューエイジ思想が似てくるというのはそういうことだと思っている。追補しておくと、かって、青木ヤヨヒらエコフェミと論争をはったラディカル・フェミニズムの上野千鶴子は、その後、フェミニズムとエコロジーが切り離して考えられないと分かったらしい。上野教授の公開講義でも聞きにいこうかなあ。いや、やっぱり「バケツ持って教室の外に立ってなさいっ!」と怒られそうだからやめとこう(マジに・笑)。


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