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九月になったのに。なんだこの蒸し暑さは。昨晩は故中島らもの「ガダラの豚」を読んだ。こんな分厚い本(それもページあたり二段組み)は日にちを分けて読めばいいものを、例によって、アホなまでに集中力だけはある私は一気に読み通してしまい、今日はエネルギー枯渇気味。内容はアフリカの呪術を基本とするホラーだが、おもしろいと言えばおもしろかったけど、格段素晴らしいとは言い難い本。なにかの文学賞を取ったんだが、どこを評価したんだろう。まあらもさんは本格的な文学者のノリではないから、フィクションにはあまりいいものがないんだけど、人間として好きな人だった。2ちゃんで遊んでいて、らもさんが絡んできたこともあったな。「薄暗い裏町を馴らしてこぎれいにするのは止めてくれ」と言うようなことを言われた。「本物ですか?ファンですぅ」と振ったら、「ど、どうもぉ」と逃げられてしまったが(笑)、たわいもない絡みとはいえ、ちょっとした思い出。らもさんの冥福を祈ります。・・・少し泣けてきた。
の仕事というか、三次元CADの説明(講師)をしてくれとの話がきている。明日、営業や特需、生産等、各部の代表(つまり部長)を集めるので来いとのこと。「特需」というのは、会社が年度計画を立てて生産を推し進めているので、会長やその他が新しい製品のアイディア閃いても、会社をすぐさま思うように動かせないので、製品アイディアを即座に反映すべく設立した部門。準備のために資料作りに追われているが、営業用プレゼンテーション向けに、いわゆるモデリングデータに「レンダリング」かけて、実写のようにするのが楽しい。撮影のためのライティング(バーチャルリアリティ上だけど)は奥が深い。不思議な気もするが、家具メーカーなんだからガンガンそういうのは取り入れてるんじゃないのかと思うのだが、どうもそうではないらしい。まあ、「サラリーマン根性」ということなんだろう。ほどほどに仕事ができれば良くて、なんだかややこしそうなものは避けて通りたいみたいな。それもあるし、日常の業務に追われて、新しいことをやる暇もないということかも知れない。もしかすると、今のような変化の激しい時代はヘタに安定した会社勤めてルーティン・ワークをしているよりも、バイトとかいって、自分の時間を作り、最新の情報に触れながら「やりたいこと」をやっていたほうが後々ずっと展望が開けるような時代なんじゃないだろうか。うぬ、ここまで書いて「モデリングって本当に俺がやりたいことなのかなあ?」と余計な疑問が湧いてきたが(笑)、まあ好きじゃなきゃやってられないかなとか言い訳をしてみる。あ、ひさしぶりにスーツ着るのか。息苦しいなあ・・・。
さて、前章までは昨日に書いたぶん。つまり、いま書いているのは説明会を終えた帰りだ。説明会のほうはうまくいった。今日はもうすることないので、いつもの仕事場(高級なCADが置いてある開放施設)のほうへ寄り、新しい受注が入っているのかを確認。ものになるかはわからないが二件入ってた。この仕事場のほうはまだネットがナロウバンドなので、すぐそばの満画喫茶に寄り、mixiだのメールチェック等。受け付けの娘が気合の入ったゴスロリ(ゴシック・ロリータという、まあパンク系の最新型ファッションがあるのだ)で、長身のちょっとキュートな子。まあ多分妄想だとは思うが、以下、もしかするとそういうこともあるだろうなあ、というような話を続けてみる。その開放施設を利用するときや、ブローカーと会うときは「世間なんじゃどうでもよろしい」ということで、アンチ・ファッション(というかただのドシャメシャなカッコ・笑)なお洋服を着ているのだが、当然、町いくおばさんや開放施設の受付の女の子たちには白い目で見られている。全然OK。もっと俺を白い目で見てくれっ!(・・・)。ところが、この満画喫茶の受け付けのゴスロリの娘は、さのよふな私にはいつも必要以上に良くしてくれている。誘えばOKが出そうな雰囲気だ。があっ!、なんということだ。今日は大切なお得意さんのところへ行った帰りということで、スーツを着ていったのだが、いきなり、そのゴスロリの娘の態度が冷たい。「?」と一瞬悩んだが、これはつまり、ドシャメシャなアンチ・ファッションが「反体制的」でカッコよく彼女の目に映り(・・・俺も自分で何言ってるんだろうとは思いますけどね・笑)、今日始めて僕のスーツ姿をみて、「コイツも体制の一員だったのか」というような幻滅感があったのではないだろうか。がっかりさせてごめんよお。また、逆にその近所のコンビニ店員のつまんねえドブスは、いつもは白い目なのに、スーツ着てる今日は妙に愛想が良くなってやがる。ほとんど毎日あっているような「同じ人間の俺」だと分かっているのに、これはあまりいい気分ではない(まあ愛想良くされてんのに腹が立つ俺の性格も問題だけどさ〜)。記憶に定かではないが、このパターン、繰り返し味わっているような気がしないでもない。あ、あとさ〜、三次元モデリングって目を酷使するから、目が疲れて、いわゆる「遠い目」になっちゃってて、そんなつもりはないのに、「おまえアホだろ?」というような目つきになっちゃうんだよな。仕事で長い付き合いになった人は「ああ、目が疲れてるのね」とマットーに判断してくれるけど、そのへんの事情を知らない人には不愉快な思いをさせている場合も多々あると思います。ごめんなさい(またはファックユー)。
音楽ソフトをさわっている。フリーや体験版のシンセサイザーをいろいろと験していたが、「ここ、こうしたいんだけどな」という痒いところに手が届かないので、「SynthEdit」というモジュラー方式、つまり、音を発する仕組み自体がオープンソース同様になっているフリーのシンセサイザーソフトに手を出してしまう(じ、時間がなくなっていくぅ・・・)。ついこのまえまでは、仕事用にモデリングだのレンダリングだの、CGソフト関係のフリーソフト(たいていがLinux版から始まっているのね)を一度に色々手を出して、肩や首の異常な懲りおよび目の疲れで具合悪くなっていた。ちょっとキツすぎたのでひさしぶりに瞑想したらいわゆる「スブド」に突入、一時間ほど座たままで上半身がクネクネと「勝手」に動く。このあとはぐっすり眠れたなあ。と、とにかく、こういう似たようなソフトは一度に「ひとつ」だけを触っていかないとごっちゃになって気がヘンになりそうだ。が、だんだんと分かってくることもある。要するに、オープンソースなソフトウェアは「こうしたい」ということが可能な範囲にチラホラ観えてくるのに対し、クローズドなそれはまったく手を付けることができず(まあプラグイン(SDK)という開発キットはあるけれど)、なんだか不愉快なシロモノだということ。まあプログラムの「プ」ぐらいしか分からない私が文句を言ってもあまり関係なさそうだが(笑)、少なくとも、「頑張ればできる」のと「まったくできない」のでは大違いだ。ところで、SynthEditで検索にきてくれた皆さん、そのソフトシンセで、ADSRのところをヴェロシティで時間をコントロールするのはどうしたらいいのですか?強く打鍵すると、デュケイの時間が短くなるようなさ。
瞑想に集中していると、ある種の「息苦しさ」が他者との関係で起こるパターンがある。傲慢な意見に聞こえるだろうし、またはほんとに傲慢なのかも知れないが、こちらが抜け出ているフリーなスペースを相手が理解できず、大抵の人間がそうである「狭められた世界観」の枠にこちらが合わせなくてはならない。まあなんとなくではあるけれど、相手のほうにしてみれば、「なんだか、こいつは俺の知らないところを手中にしているようで不愉快だ」という感じはあるかも知れない。あれ?前章のオープンソースがどうとかいうのと似ているぞ?反対の場だけど。なんだろうこれ。まあ、いまはそういうことを日記に書いておくと誰かの役に立つ時期なのかな。とりあえず、稲垣足穂が言うところの「詩は歴史に足して垂直に立つ」、これを中島らも氏が、詩のところを恋愛に置き換えて言っていたが、まあこれが、「+12」の意識状態だと私は置いている。和尚の言い方なら「彼方なるものを一瞥する」ということでもあろうし、僕の言い方なら「あれ?時間が止まってんぞ?」という感覚でもあり、和尚いわく「それは、音楽、詩、恋愛でも起こりえる」というあの「状態」だ。なんだかんだ言っても、それはアシッドによっても多々もたらされていたのは「事実」だろうと思っている(だからといって、LSDを薦めるつもりは毛頭ないが)。ラーズの「There She Goes」、一連のプライマル「Screamadelica」時代や、バーズ、その他、いわゆるサイケデリックサウンドに「在る」あの感覚。もちろん、アシッドの後遺症として、ラーズのリーダー、リー・メイヤーズは虚空のあらぬところを見つめ「僕は君で君は僕なんだ」と、インタビュアーをおろおろさせた(またはアシッドにハマるミュージシャンってみんなこれ言い出すのよねと呆れさせた)発言、なんかどっかで何回も聞いたような(笑)。まあいわゆる神秘的体験を宇宙的合一感とも言い換える言い方をときどき見るけれど、ウィルヘルム・ライヒはそれを「夜空を見上げて、星々の煌きを目にしたとき、宇宙の壮厳さに胸を打たれるような状態」とも言っていて、もちろん、これはSetu氏が望遠鏡で月の出を見て「ぅううををおおおぉっ!!!!」と感激しているのとおそらくは同じ状態。キース・リチャードいわく「ユニヴァーサルなフィーリングっつーやつかな、エヘヘ」というのもそれかも知れないが、余計なお世話だが、WHOこと、世界保健機構の「健康」の定義に、ユニヴァーサルなフィーリングを感じ取れること、っつーのを付け加えるのもありかも。ユニヴァーサルなポリティックスというのはまだ近代では始まっていないみたいだが、とりあえず、インディアンや未開人らが、長期に渡って平和な時代を持ちえたのは、そのユニヴァーサルなポリティックスを隠された叡智として中心においていたからではないか?という視点を切り開いたのが構造主義思想。ああそうそう、レヴィ・ストロースは瞑想している人間を本来の人間だという発言をしていましたよ?どの本だっけな。駄文を重ねていくが、「NGO」ってノンガヴァーメントオーガナイゼイションの略なら、「UPO」、つまり、ユニヴァーサルポリティックスオーガナイゼイションという方向もありなんじゃないの?。そういえば、ユニヴァーサル・デザインというのは意訳すると、「老人や身体障害者向けのデザイン」ということだけど、例によって話をデカくするが、この「ユニヴァーサル」な方向へと開かれているとファシズム(とくに優生論あたり)に陥らない匂いがあると思フ今日このごろです。ちょっとここでシンクロニシティが起きるかテストしてみよう。次回のウォーターボーイズのアルバムの中にユニヴァーサル(Universal)という単語が曲の題に使われるに千点っ!。
エアロスミスのファーストアルバムは音がチープだと言われているが
ロックの「サウンド」としてみるとカッコいい音質だと思う。ほとんど「無加工」なのが効いているようにも思うが、別に自然な無加工食品のほうが栄養がいいとかいう話をしたいのではなく、世間一般の「評価」ではこのアルバムは安っぽくて未完成な駄目なアルバムだとされているのはちょっと違うぞ?と言ってみたい。まあこのあとがどんどん凄くなってくるんだけどさ。ギタリストはジョー・ペリーという、これまた技術的にはたいしたことがないとされているのだが、エラく鋭角的なギターを弾くセンスのあるギタリストなのである。もうひとりのブラッド・ウィットフォードというギタリストが丁寧に「練習してます」系な完成されてはいるが無難でスリルにかけるギターなので、よりいっそうジョーの破天荒な天然さがひきたつ。このアルバムとほぼ同時期に録音され、後年発売されたライブに、ジェイムス・ブラウンの「マザー・ポップコーン」という16ビートのファンク曲をエアロスミスがカヴァーした曲があるが、ここでのジョーのギターはエリック・クラプトンもここまでできなかったぞ?と舌を巻くほど優れたアドリブを展開している。まあとなにかく、この1stはエアロ貧乏時代ということで、ニューヨークの裏通りのようなうら寂しい感じもあるのだが、そこがまた、雰囲気があってよろしい。本国アメリカでの評価に「ローリングストーンズの惨めな野郎版」とかいうのがあって笑えたが、黙れホワイトニガー!
ヤードバーズはこれまた、ストーンズやゼム、アニマルズ等のアメリカ黒人音楽、R&Bをまじめに追求していた路線とはちょっと(いや、かなり)ずれた、ヘンテコなバンドだった。このヘンテコさはジョン・ボーナムという巨人(技術的にも音量的にも個性においてもすべてが凄すぎるという意味)ドラマーを迎えてよりいっそうパワーアップされ、レッド・ツェッペリンという、唯一無比なバンドになったのだが、まあとにかく、ここにあるのは、アメリカの黒人音楽にもとづいてはいるがほとんど誤解にまでなってるぐらいの拡大解釈という方向がある。まあ各プレーヤーの技量の幅も広いバンドで、ステージでは二度と同じ演奏をしないと言われているほど、その場その場での、各メンバーのインタープレイが聞きどころで、もちろん、ジャズアーティストほどの完成されたテクニックには欠けるが、スタンダードな音楽として完成されてしまった現代ジャズにはない型やぶりな「なにか」がある。まあニューヨークのアンダーグラウンドジャズシーンをちょっと前、TVでみたが、これは凄かった。ポーランド人とかオランダ人やノルウェー人のような非アメリカ人がほとんどで一人だけ本場の黒人という組み合わせが多いのだが、ここは凄いことになっていた。まあそれも含めての話だけど、MIDIの規格のもとにDTM、いわゆるコンピューター音楽が隆盛していて、一部をのぞき、邦楽はいかにもそれで作りこみました、というような音楽的には「正確無比」な演奏が増えてるが、あたりまえだが、こんなんはおもしろくもなんともない。ジャズのほうを引用できればベストだが、話の流れじょう、ツェッペリンのインタープレイのお話を続けよう。要するに、リアルタイムでジミー・ペイジらメンバー4人が顔を突き合わせて、曲の構造はおおきくは決まっているが、即興演奏の余地も十分に残された演奏(ライブ)での、なんというか、個人が他の個人らとのその場その場での瞬間的な無意識的情報交換が行われている状態、互いに触媒となるような科学反応のような要素が非常にスリリングで面白く聞ける。レコード、つまりスタディオでの音楽作りもほとんどそれでやってたらしく、楽器奏者らのインタープレイの応酬のなかで歌うリードヴォーカリストのロバート・プラントは「俺、あいつらの演奏に歌のせてるだけだもん」とかイジけたりしている(笑)。ああ、エアロスミスもライブアルバムは全部傑作だなあ。まあ要するに、DTMなどと机上でちまちま音楽作ったって、その他者との触媒反応がないのでどこかで聞いたようなありきたりの一人脳内完結音楽が溢れている世の中だ。良くなるわけがねえ。そういや、例の天才的ギターソロですけど(えっと私が弾いたんですけど、、、なにか言いたいことはないですか?ご遠慮なくつこみどうぞ。特に批判歓迎します。)、筋のいい連中によく言われるのが、「これでドラムとかベース、キーボードも自由自在にイっちゃった演奏ができる人がいて、インタープレイができれば、めっちゃ凄いことになりそうじゃん?」とは良く言われるのよねえ。どこかにいないかしら。技術的にみていくと、(日本では)フュージョンの連中がさすがにテクニカルだが、わたしにはピンとこない。もっと言うと「最低」なセンスの連中ばかりで、相手する気は全然ない。なんだあのTスクウェアとかいうバンドは。(といきなり名指しで批判して音楽業界を敵に回して見るテスト)。まあとにかく、ツェッペリンは「他に似たバンドがない」というところでもダントツにつきぬけていたなあ。あまり指摘されないことだけど、ケルト音楽の感覚も大きいバンドなのよね。
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海月みどり [服装で相手の態度が違う、ってのは今の生活に入ってから、 存分に味わってきました。 「割烹着&もんぺ&長靴」。明ら..]