| イマーノ | エコロジー | エディプス主体 | シンクロニシティ | スピリチュアル | フェミニズム | ボディワーク | ロック | 歌 | 瞑想
という歌詞が「A Pagan Place」にある。もちろん、これはインディアンの化粧のことを歌っているのだが、発売当時、1986年ごろだったかな?この歌詞を見て、ここだけ違和感があった。「なんでまたインディアンなんて未開民族のことが出てくるのだろう?」と。今でこそ、ネイティブ・アメリカンの世界観がどれほど優れたものだったかさまざまな本や体験(!)から吸収し、尊敬しているが、とにかく、当時の自分にはインディアンなど過去の未開民族、悪い意味での土人としか捉えていなく、少々まごつくような歌詞ではあった。
普通に生きてて、ネイティヴ・スピリットに触れるような機会が少なかったような人たちにとっては、今だインディアンなど、考えるに値しない、野蛮な土人としか考えられてないだろうな、という見当がつく。「われわれのほうが進んだ文化人なのだ」とでも言うように。まあ繰り返すが、アメリカ合衆国のアイディアというか憲法起草者、ベンジャミン・フランクリンがインディアンのイロコイ連邦から盗みとった「united」の理念は、同じく繰り返すが、インディアンらの持つ文化の基層にある、「祭りのときに頭角を表して、歌い踊ることによって、祭りにあるムード(アストラル照射性?)をもたらしうるような才能を持った人物を、実質的には女性たちが評価し、政治ごとを司ることを「許可」するというシステムがあり、これがあるがゆえにイロコイ連邦は「成功」していたのだと思っている。つまりアメリカの「united」はそれらが欠落しているわけで、表面上のことを掠めとっても成功するわけがないのは当然だろう。
という言い方を、まあ、このWeblogをお世話してくれている和尚ファンのMR,Sutuまわりでは良く聞く。と同時に、前章で書いているようなお祭り次元についても和尚は「フェスティヴ・デメンション」そのままお祭り次元だが、が、近代社会では喪失しているのが大きな問題だと指摘している。禿同。まあとにかく、後から書くので、「話を合わせているだけじゃないの?」という批判に耐える証拠は挙げれらないが、まあ話を早くすると、ビースティー・ボーイズがデビューした時の代表曲「俺たちはパーティを開く権利のために戦うぜ!」という曲を聴いたとき、私の中に湧き上がったイメージは「ああ!こいつらいきなりブッダ・フィールド現出させちゃったよ」という感激があり、えらくイケてる連中が出てきたなと嬉しかったのだが、当時(今でもか)、その曲とブッダ・フィールドの感覚を結びつけて語っているのは読んだことないのでこうして書いてみる。まあこれからが今書いてもなんだか後付けみたいになるのであんまり面白くないのだが、実は周知の通り、現在、このニューヨークの甘ったれた中産階級のガキどもがブチ切れ気味に(笑)、撒き散らしていたブッダ・フィールドの延長上、彼らビースティー・ボーイズは必然的にチベット解放運動の指導者、経済援助等、として活動をするようになるという結実をもたらしている。
というイメージはなんだか地味で落ち着いたもの、という先入観が、あまりそういうことに興味ない人にはあるのかも知れないけど、ほんとうはそのような、なんというかアストラル照射性に満ちたフェスティヴ・ディメンションをもたらすものとして、まあちょっとしょぼい説明にはなるが、日本語でいうところの「おてんとうさま」とでもいうのか、なにか日が照ってる感じ、じゃ物足りないな、なんかこの世ならざる「光」に満ちてきてポカポカと暖かくてみんな理由もなく晴れ晴れとした嬉しくなってしまうようなお祭り感覚がある状態が「ブッダ・フィールド」なのだと思う。まあ繰り返すが、RCサクセションのコンサート評で良く言われる「なんか霊的なオーラに満ちていて凄い」というのもそれだと思うが、そういうのをちゃんと現代思想とかでマナ板の上に乗せて解釈できないもんすかね。まあ、一部、ヨーロッパの民俗学あたりでは中世の農民たちの季節ごとの収穫や婚姻のお祝いなんかでみんな踊っていたのを産業革命がなきものにしてしまったというような視点は提出されてはいるが。今手元にないので詳しく書けないが、この農民たちのお祝いごとを当時の「王制」の側は抑圧にかかっていたとも読んだな。とりあえず、権力をかさにきた奴らは民衆がお祭り気分になって歌い踊ることを「抑圧」したがるのは常態だが、「いい気になろうぜ、俺たちだけでも」と秀逸なレトリックでうっちゃったイマーノ・ビッグボスマンセー!!!
と、書いてみる。まあ実際に、スケボーやっていると警察官が止めにくるのは日本の常識だし、TVCMなんかでは調子にのったスケボー少年が警察官に追われ、逃げ切って親指をつきだして「グッ」とキメるようなのもよくあるが、ここではスケボーしているほうがカッコいいものと解釈されている。それはそれでいい。俺もスケボーやりたいとか思うほうではあるからして。だがしかし、平均的日本人像はスケボーをなんだか治安悪くなっているような気になって敵視しているような感覚があるはずで、この心情の出どころを批判してみたい。まあここにあるのは、「自己決定権」の強度の問題なのだ。まあ単純に踊るのではなくても、同じようにスケートボードは重力とのバランスの神経系やずっと前にも書いたように、特異に太ももの筋肉を使うことが人間の根源的な生命力(脳幹)を復活させるわけで、この脳幹が発達した状態を極端な言い方をすれば「狼男」状態とも言えるので、みずからの自立性を、みずからの責任というか決定権を持つ強度が高まっているとも言える。つまり、権力側にとっては都合の悪い人間として自立的になってしまうというか、自己決定権をある程度、権力によりかからせたままにしておいたほうが権力がわにとってはコントロールしやすいわけで、まあそういった構造があるがゆえに、警察官は今日も(笑)スケボー少年たちに文句つけるわけだ。さて、それはともかくとして、問題になるのは別に警察官でもない普通人にもスケボー少年たちをこころよく思わない心性にある。繰り返しなのでハブくが、ここにもエディプス主体がどれほど近代において、無意識的な権力装置として、人々のこころを蝕んでいるのかがよくわかるパターンなのではないだろうか。
さて、椅子を頭まで支えるものに買い換えたときに自覚したが、一応食いぶちを稼ぐべくコンピューターワーカーということで、ディスプレイやマウス、キーボード等の「質」もいいのに買い換えていって、疲れにくい環境にしようとしてた。まず、マウスをロジクールのMX1000というレーザー方式の、まあマウスの中でも「ハイエンド」のソレを購入して快適に使っていた。とっさのために買った安物マウスは精度が悪く、即ゴミ箱行きで、仕事していたが、題にあるようにこの一番「高い」マウスが故障する。購入したばかりだから保証期間内で無償修理だが、少なくみても2、3日はかかるわけで、明日締め切りの仕事に間に合わない。心の叫びとしては「っざけんな〜〜〜っ!!!」といった気分で、とりあえず、安物の中でもちょっと値段の張る普通のマウスを勝ってきたが、この買い物にいく時間があれば仕事終わってるがな・・・。バカ〜。
スマトラ沖津波でサミーラの手記が凄くリアルで面白かった。特に印象に残るのはこれから海へ遊びに出ようかなという前に、ヨーガをしていたということ。いや、別にプニタマという人とは知り合いでもないのだが、まあとにかく、手記を読んでもらえれば分かるように、一瞬にして、部屋が浸水して、あっというまに頭が天井近くまで持ち上がり、とっさの行動力で、空いてるドアのすきまから即座の判断力を発揮して逃げおおせたということである。前回の日記にも書いたように、これが脳幹が発達した状態の本能的に生存することを瞬間的に選択する「強度」を感じた。まあサミーラのお母さんいわく「あの人は生命力強そうよねえ」という感じ、これが「脳幹」が発達した人に纏わりつく「雰囲気」でもあり、別にヨーガは特異にフトモモ鍛錬へとは集中するようなボディ・ワークではないが、それでも、身体全般へと働きかけるのは、ほとんど脳幹を鍛えることになるわけで、そういったエクササイズをしていなかったら、パニくって助からなかった可能性だってあったかも知れない。
スマトラ沖津波で惨い目に遭わされている人たちを救助すべく集まってきている。これはちょっとおもしろいことになってきたな。アメリカ軍のインタビュー読んでも、「最高にやりがいがあるよ、みんな満面の笑顔で助けに出発するんだ」という。もちろん、もう一方ではイラクでの兵隊たちの間では「なんか納得いかねえ」と不満がでてきているわけで、軍隊内部でのなんというか、士気の高まりはスマトラ沖救出のほうがずっと「ハイ」になることは想像に難くない。被害者たちには少し申し訳ないが、これはなんかのターニング・ポイントのようにも思える。
が軍隊に参加するまでほぼホームレスだったのはあまり知られてないので書いておくが、ホームレスの人たちの「後がない」ギリギリの絶望感と、社会の底辺がなんとか乗りあがろうとする場合の(アメリカのでパターンとして)軍隊に入隊して、たとえば大学への門戸を開いていたりする(まあこれは名目上で、実質的には一部のエリートだけにしか開かれてないらしいが)、まあとにかく、ジミ・ヘンドリックスの音を聞くたびに思うのだが、ジミの強靭な音は、軍隊で肉体的に「鍛えた」部分も大きいと思う。それとホームレス時代の社会への見方(おそらくボブ・ディランに入れ込んでいたのはこの頃からだっただろう)や、軍隊へ入ることによる「死の恐怖」を覚悟することへの反応。ジミヘンファンはご存知だろうけど、ちょっと情けないくらいに(笑)、ジミヘンはイカれた黒人というパブリック・イメージとは違った、なんというか繊細でシャイなパーソナリティの持ち主で、まあ芸術家的な繊細さとホームレス時代の社会への疑問と軍隊で培われたハードな肉体的鍛錬の三つが結実して、ジミ・ヘンドリックスの表現が可能となった要素も大きいと思う。あと、どうも納得がいかないのだが、ジミ・ヘンドリックスは「歌詞」もすばらしいのだが、あまりそれは語られないというか、日本語盤でても対訳ほとんどついてないのはどういうことなんでしょうね。
さてと。オーストラリア原住民アボリジーヌのドリームタイムやインディアンらの神話的宇宙論、ケルトの幻視と現実の間に境界がなかったこと等、まあ共通してあるのは、近代理性が編成している(!)このらちもあかないマテリアル(物質的)ワールドと、まさしく「夢」そのものとの弁証法的関係であり、彼ら野蛮人(もちろん誉め言葉ね)においては一次的に従うべきものは「夢」であり、現実はそこから派生する出来事として捉えられているということは少しでもその世界(まあ、文化人類学までいかなくても、ネイティヴピープルについての関心は近年、高まってきているから)を知る人には分かってることだろう。うう、例によって推敲しないで書き飛ばすので、あちこち脱線するが、とりあえず、「夢みてんじゃないよ」といったふうに、近代においてはそれ(夢)は「悪い」こととされている側面も多々あるわけで、・・・というか、フィンドホーンに現れるという「植物の精霊」(も含めてチャネリングとかシンクロニシティとか)とはなにか?ということを思想哲学物理学方面から考察して、さふひふ「存在」の正当性を訴えてみたい。まあ安手のトンデモ本なんかでさも分かったふうに量子論を引用するのはよくあるが、目もあてられない。そういうんじゃないってば。これってクリスタル・ストーンとかが、オカルト物販扱いされるのとも良く似てるな。そういうんじゃないのもちゃんとあるのに・・・。
という数学的な考え方がある。近年の量子力学が解明した「存在」は確率の波でしか記述できない、という量子論に基づく世界を説明するのに使う高等数学であり、まあ古典的なニュートン物理学での定まった量の計測において、「定まった」ものが確率論的に決定される場合の計算のために使われる。たとえば、ボールを投げるとすれば、古典的なニュートン物理学では、速度と角度という二次元の座標でそのベクトルを表現できるが、量子力学では、ボールの存在というかふるまいは確率の波として捉えるから、二次元どころではなく、「無数の次元」が必要になる。ちょっと脱線するが、似たような話で、少し前、SynthEditで、f分の1をどうやって組み込むかというときに悩んだ、二次元上で直線(一定)状に記述されるパルスとそのまわりをランダムになおかつ一定の値に収束するようにまとわりつく霧状のf分の1状態での、例えば、「星雲」がそうである、中心に向かうにしたがって「濃く」なってくる霧状のものを考えてもらえれば、数学的に記述する場合、確率論が含まれると無数の次元を考える必要があるというのはなんとなく分かってもらえるだろう。もちろん、俺もなんとなく分かっていると思い込んで書いてるのだが(爆)、それはともかくとして、とりあえず、ヒルベルト空間とは、次元数が無限の空間のことであり、ヒルベルト空間の数学的記述に複素数が使われるのは、確率の波をとらえる情報の波は、いわば赤道である実数と、北極、南極軸である虚数との二つの「座標軸」の関係のなかではかることができるからなのである。なんのこっちゃ。複素数に虚数が含まれているのは高校で習ったでしょ?忘れる?・・・orz.
さて、このブラ=ケット記号とは、もともとそのままブラケット、日本語でいう「」←これ、つまり「括弧」のことで、括弧内で、<A|B>というように表わす数の関係の記述法。この場合、AがブラでBがケットとしてブラ=ケット記号として記述される。この括弧のなかの右側、つまりケットにおかれたBは事物のある状態、可能性としての状態を表わす。ケット(B)じたいは加算が可能だが、乗算をするのにはブラ、Aを要求する、つまり、状態の確率変化をあらわす。なにが「つまり」じゃゴラーという気持ちは分かる(笑)。少し考えれば分かると思うんだけど・・・。まあ気をとりなおして、とりあえず、この数式内部においてはケットじたいはベクトル量(方向を持った量)として単純に記述できるが、乗算による積は無限次元の内積だから、いわゆるスカラー積(方向をもたない量の積)になる。例えばこの<A|B>の読み方はBブラ=ケットAと読むのだが、これはすべて確率過程だから「もしBならばA」とも読める。そしてここが重要なポイントだが、この式が記述する全体を「確率振幅」と言い、そこに作動している関数が有名な「波動関数」なわけだ。簡単に波動関数の説明をすると、量子力学の基礎となる関数のことで、素粒子の状態変化、挙動などが、波動関数によって「波」として表現、把握することが可能となったのだ。
確率振幅の全体は「複素共役」(コンプレックス・コンジュゲイト)と呼ばれるものによって計算される。複素共役とは、AもBも実数部と虚数部からなっているものに対して、Bが負になっているもの、つまり虚数が負になっているもので、<A|B>*とあらわす。虚数部が負になっていると、逆の逆は真であるから、確率振幅は必ず正の実数になる。量子化の規則によって、いわば逆の逆はその全体の逆と等しくなる。つまり<A|B>=<B|A>*となる。言葉でいいあらわすと確率的に起こる原因Bとその結果Aは、その逆、つまり原因Aとその結果Bと複素共役によって等しくなる(!)。あることが起こって結果ができるのは我々が当たり前だと信じ込んでいる古典的な因果律だが、この等式の衝撃は、結果が先にあってそれから原因が起こることが等しいものとして記述されるところにある。この二つの「反対」の時間の向きが等しいということは過去と未来が等しいということになり、この式<A|B>=<B|A>*の右辺と左辺は、今瞬間の時を鏡としてどちらが実像でどちらが虚像であるかを決定することができない。これはつまり、客観的な実在においての時間の流れは決定論には置かれておらず、ただ単に我々の「(近代理性による)認識」が時間の流れを過去から未来へと不可逆的なものとして捉えているだけにしかすぎないということを意味する。いやほんと。
過去は未来であり、未来は過去であるとして古典的因果律の解体がもたらされただけではなく、最初のほうに書いた無限次元のヒルベルト空間が、すなわち我々の住む世界であるということを証明したのだが、これがつまりパラレルワールドセオリーのブレイクスルーを切り開き、少し前までは、いわゆるコペンハーゲン学派らによって、そのセオリーは微視論的な量子世界でしか通用しなく、われわれが住む日常世界はそれであるはずはないという二元論が言われてきたが、近年の物理学者らの大半はそれがわれわれの日常を貫く普遍的なものであるという認識になってきている。ソースを忘れたが、この説(というか引用している本)が書かれた当時、1989年当時、数パーセントしか賛成派はいなかったのだが、最近では7、8割方の物理学者がそれを認めてきている。
ことを簡単に説明しておこう。ハードウェアとしての脳は実に複雑な位相空間になっており、ソフトウェアとしても、複雑な網状組織の神経線維が非線形に発火することによって、同時にさまざまなイメージをみることができる。と同時にそれらのイメージ群どうしじたいもまた複雑な位相空間におかれ、相互に影響を及ぼしている。これの一例としては、いわゆる「マンダラ」の絵が挙げられるだろう。すなわち、脳の活動の大半を占めるイメージ的、感性的活動の働きはヒルベルト空間とほぼ同様と見ても差し支えないのだが、言語活動だけは一次的で線形に働く。ひとつの言語記号がえらばれ、その意味に集中すると、他の言語的意味は排除される。多義的な自然言語(つまり感性も含めた意味の膨らみを持つ言語感覚)の意味世界から、記号と対する意味を一義的に、いいかえれば一対一対応で選択している。これは逆に言えば、「詩」というものを考えてみれば、その詩における言語活動は記号に対する意味を「多義」的に「伺わせる」ように、つまり一義的には取り扱わず、暗喩や比喩を使うわけで、そのことが「詩」の、普段我々が使う言語体系とは違ったある種のイメージ喚起力をもたらしているわけで、これもまた我々の脳はヒルベルト空間におかれていることを証明しているとも言えるだろう。または「詩」とは対極的にある「機械翻訳」を考えてみれば分かると思うが、ヒルベルト空間が無限次元に開かれたイメージ群(脳にとってはね)であるからして、他の言語が導く一義的な言葉を双対的に適切な訳をするのにはヒルベルト空間をプログラミングする必要があるわけで、無限にプログラムしなくてはならなくなる(笑)。そのことが翻訳ソフトがいつまでたってもろくな翻訳できない根本的な理由で、これもまた逆に脳の在り方とヒルベルト空間が同質のものであることを裏づける証拠になると言い切ってしまへ。
さて、パラレルワールドセオリー、多重世界論においても、我々は「今、ここ」に決定づけられて存在している。そのことが初期量子論においてパラレルワールドセオリーへの反感(笑)をもたらしていたわけであるが、いきなり単純な話にしてもなんだが、「決定」されるという状態は「解」が出された状態であり、ごくシンプルにすると、多重世界において、他の世界が今自分がいるところと「交差」する、いわば動力学的に介入することによって決定されるということを意味する。ただし、時間の性質上、その「決定」はその瞬間でしかなく、無限に開かれた(まあ正確には重ね合わされた)決定されうる世界が存在するわけで、正直書いてる俺ももうキツくなってきたが(笑)、とりあえず結論を出しちゃうと、動力学的に交差する超決定論において人間の「意図」は驚くべきことに、その交差する「位置」を選択することが可能なのである。このことの意味は、現実の在りようの責任の大半はその人間の自己決定権(の強度)にあることを意味し、えっと、もうちょっとていねいに書いたほうがいいんだが、もうお腹すいてきたのでイージーに書いちゃうけど、ナショナリズムや共産主義等の近代的イデオロギーの問題は、しつこく書いているように、本来はヒルベルト空間に開かれた我々の物理的存在、または(脳の)認識のほんとうの在り方を「狭める」ようにしか働かないというところにある。さてと、ここまで、ヒン難しい(笑)話ばっかりだったが、とりあえず、脳の活動の大半がヒルベルト空間に開かれた無限次元に在るということを頭に入れておいて、以下、アウシュビッツ収容所捕虜の体験者、V・E・フランクルの「夜と霧」みすず書房より。
「なあ君、もしわれわれの女房が今われわれを見たとしたら! 多分彼女の収容所はもっといいだろう。彼女が今われわれの状態を少しも知らないといいんだが。」
すると私の前には私の妻の面影が立ったのであった。そしてそれから、われわれが何キロメートルも雪の中をわたったり、凍った場所を滑ったり、何度も互いに支えあったり、転んだり、ひっくり返ったりしながら、よろめき進んでいる間、もはや何の言葉も語られなかった。しかしわれわれはその時各々が、自分たちの妻のことを考えているのを知っていた。時々私は空を見上げた。そこでは星の光が薄れて暗い雪の後ろから朝焼けが始まっていた。そして私の精神は、それが以前の正常な生活では決して知らなかった驚くべき生き生きとした想像の中でつくり上げた面影によって満たされていたのである。私は妻と語った。私は彼女が答えるのを聞き、彼女が微笑するのを見る。わたしは彼女の励まし、勇気づける眼差しを見るーーそしてたとえそこにいなくてもーー彼女の眼差しは、今や昇りつつある太陽よりももっと私を照らすのであった。その時の私の身をふるわし私を貫いた考えは、多くの思想家が叡智の極みとしてその生涯から生み出し、多くの詩人たちがそれについて語ったあの真理を、生まれて始めてつくづくと味わったということであった。すなわち愛は結局人間の実存が高く翔り得る最後のものであり、最高のものであるという真理である。私は今や、人間の詩と思想とそしてーー信仰とが表現すべき究極の極みであるものの意味を把握したのであった。愛による、そして愛の中の被造物の救いーーこれである。たとえもはやこの地上に何も残っていなくても、人間はーー瞬間でもあれーー愛する人間の像に心の底深く身を捧げることによって浄福になり得るのだということが私にも判ったのである。収容所という、考え得る限りの最も悲惨な外的状態、また自らを形成するための何の活動もできず、ただできることと言えば、この上ないその苦悩に耐えることだけであるような状態ーーこのような状態においても人間は愛する眼差しの中に、彼が自分の中にもっている愛する人間の精神的な像を想像して、自らを充たすことができるのである。天使は無限の栄光を絶えず愛しつつ観て浄福である、と言われていることの意味を私は生まれて始めて理解し得たのであった。
私の前で一人の仲間が倒れ、その後から進んでいた者達も従って転んだ。看視兵がすぐ飛んできて彼等をなぐりかかった。数分間、私の想像の生活は中断された。しかし、直ちにまた私の心は高く飛翔した。そしてこの世の囚人の境涯から彼岸へと再び逃れ、またもや愛するものとの対話を始めた。私は問い、彼女は答えた。「止まれ!」われわれは作業所に到着した。「総員、道具を取れ!鶴嘴とシャベルだ!」みんなは、少しでも手頃な使いよいシャベルや鶴嘴をうまく手に入れるために、暗い部屋の中に殺到した。「早くしないのか!この豚犬ども。」間もなく各人は壕の中の昨日の場所に立った。凍った地面は鶴嘴の先で砕け花火が散った。頭はぼんやりとし、仲間達も語らなかった。しかし私の精神はなお愛する者の面影によりかかっていた。まだ私はそれと語り、それは私と語った。その時私は或ることに気がついた。すなわち私は妻がまだ生きているかどうか知らないのだ!そして私は次のことを知り、学んだのである。すなわち愛は、一人の人間の身体的存在とはどんなに関係薄く、愛する人間の精神的存在(哲学者の呼ぶ So-sein ーー本質)とどんなに深く関係しているかということである。彼女がここにいるということ、彼女が生存しているかということは、もはや問題ではないのである。愛する人間がまだ生きているかどうかということを私は知らなかったし、また知ることができなかった。(全収容所生活において、手紙を書くことも受け取ることもできなかった。そして事実妻はこの時すでに殺されていた。)しかしこの瞬間にはどうでもよいことであった。愛する人間が生きているかどうかーーということを私は今や全く知る必要がなかった。そのことは私の愛の想い、精神的な像を愛しつつみつめることを一向に妨げなかった。もし私が当時、私の妻がすでに死んでいることを知っていたとしても、私はそれにかまわず今と全く同様に、この愛する直視に心から身を捧げ得たであろう。そしてこの精神的な対話は今と全く同じように力強く、かつ満足させるものであったであろう。この瞬間、私は「我を汝の心の上に印の如く置けーーそは愛は死のごとく強ければなり」(雅歌八章ノ六)という真理を知ったのであった。
が売れているのがなんとなく気にいらなかったのだが、なんでなのか昨日の日記書いてて分かった。「イメージ」というのが基本的には視覚的情報であり、まあありていに言えば、DVDレコーダーで録画するものをただ受身で見ているだけだと、人々の自発的なイメージ形成力が弱められてしまうという部分で嫌な感じがしていたらしい。と、同時に、なんで高校野球の甲子園の土(に代表されるようななんらかの情念の類い)がピンとこないのかも分かった。つまり、繰り返すが13、14才頃のフロイド瞑想時代はまさにヒルベルト空間状に自由に広がるイマジネーションの世界を漂っていたわけで、甲子園の土というような、疑縮された情念世界が、こちらのより拡大された認識からすると不自然に「狭い」ものに見えるのかも知れない。別に自分をシド・バレットと同一視するわけじゃないが、もしシドが高校球児で、試合に負けて甲子園の土を泣きながらかき集めてたら「違和感」あるでしょ?。コーユー奴がそんなことするわけないじゃん。
・・・、ロビン・ヒッチコックがいたな。「現実にはない」世界を疑縮させて不思議なリアリティを伴ったイマジネイティヴな音楽を作る人。ちょっとそのへんの歌詞を書いておこう。うう、ちょっとヤバいな。今引用してみようと思ったのは「Sudden Town」という曲の歌詞なんだけど、それ読んでみたら、自分の周りの「現実」よりもリアルな(もっと言えば真実性のより強い)感覚世界に思える。やはりロビンは多次元世界の少しズレたところにいるお人じゃ。ちょっと問いかけておきたいが、甲子園のなにがしは現実の世界で、ロビンの表現はイマジネーションなのだが、ヒルベルト空間において疑縮されて立ち現れるモノ、コトであるというレベルにおいては等価だが、このイマジネーション世界のほうが、よりいっそう、リアルで親密な世界に感じる。このへんが近代の問題を解くカギなのだが、それは後ほど。ではアルバム「Next Door Land」(題がそのままだな・笑。日本盤出てます)から、「突然に現れた町」を。
Sudden Town
イェイ!それはただの思いがけない町
イェイ 今突然現れたただの町
鉄道の駅からのびたアーチが
目的地へと連れていってくれる
イェイ それはただの思いがけない町
レールが遠近法の彼方から光る
オララララララ♪
高架線の工事にしか使われない柱が
裸で佇んでいる
錆びた鋲がいっぱいに刺さった
ぼんやりとした天体の上ではぜる月
イェイ それはただの思いがけない町
冷たい地平線がだんだん落ちていく
最後の夕日が煙突を照らす
イェイ それはただの思いがけない町
天国がきっと力を送ってくれる
きみが束の間の傷心で自分を傷つけていたら
イェイ それはただの思いがけない町
アーチウェイ通りの店に寄ってごらん
打ち解けない君に誰かがキスしてくれるよ
イェイ それはただの思いがけない町
大昔の方向に夢を探している
永遠の男でいっぱいの小さな家々
イェイ それはただの思いがけない町
レストランで荷物を拾って
足を引きずって孤独な鍵穴に向かおう
イェイ それはただの思いがけない町
灯を手に歩いていこう
どうせだれも話しかけちゃくれない
きみがどうやって来たのかも知らない
そして人食い鬼がやって来る
そうそう、人食い鬼がやって来るよ
シャララララララと歌いながら
シャラララララララララ♪
イェイ それはただの思いがけない町
このように、ロビンは「アッチ」の世界の住人なわけだが、ぎりぎり踏みとどまって、我々にも分かる「世界観」を提出してくれている。ありがたや〜。いいかえれば、ロビン・ヒッチコックやシド・バレットらはヒルベルト空間に、普通人よりも開かれた認識があるがゆえにそういう表現が可能となるわけで、逆に言えば、彼らのような特殊な例を除き、近代人はある種の限界(条件)づけられたヒルベルト空間しか認識していないのかも知れない。さて、まあその通りだとして、ロビンらが「開かれた」ヒルベルト空間にトんじゃってるとすると、そのトんじゃったヒルベルト空間から近代全体を客観的に「俯瞰」しているとも言えるわけで、おそらくロビンはウィルヘルム・ライヒ等知ることなく、近代人が社会的に振舞う場合の無意識的に身体をこわばらている自己保身的態度を次のように「硬い」と表現している。曲は同アルバムより、「無防備な愛」を。
_ Unprocted Love
きみはダイアモンドと同じくらい硬い
切断材に使えるよ
工業の最先端で
君はそのくらい硬い
傷つきやすい人にはだれもなりたくない
だれもが恐ろしい人になりたがっている
ガード下のあのあの豚のように
反キリストと同じ桶から水を飲んでいる
きみはそのくらい硬い
きみはそのくらい硬い
僕に無防備な愛をおくれよ
サッカー場の赤ちゃんみたいな
手袋のなかの魚みたいな
僕に無防備な愛をおくれよ
僕に無防備な愛をおくれよ
秋の中の夏みたいな
高く跳ねた鮭みたいな
僕に無防備な愛をおくれよ
ママママ・ママママ・ママママ・ママママ・マ・マ・マ
きみはダイアモンドと同じくらい硬い
2005年1月17日付けの「赤旗」。一面に阪神・淡路大震災10年と載せて、「人助け 今度は私が」とデカくぶちぬき、「共産党に入ったよ 亡き妻に報告」とこれまたデカい文字で。吐き気がしてくる。なんだこいつら、火事場泥棒みてえな連中だな。よりにもよって、人の不幸をテメーらのお仲間に引き入れるためのネタにするのか。まあかなり前にも、赤旗日曜版で、エコロジー的な考えかたは天皇を神とみなすような考え方に結びつくので危険だとかヌかしやがっていらっしゃりやがります。あ、いやまあ、それはなんか言いたいことは分からなくもない。俺自身、なんでエコロジーがリアルで切実に感じられるのか「理性」ではさっぱり理由がみつからなくて悶々としてたから、客観的な科学的資料とかで問題意識を持ったのではなく、単に「直感」でそう思えて、その理由が分からなかったからな。まあそこにあるのはある種の「神秘的直観」だとは思うから、神秘(または未知なるもの)を理論化しえない共産主義がそれを拒否するのは分からなくもない。があ、ほんじゃまあ、あれか、チベットが中国に侵攻されたように、例えば日本とイギリスが共産革命されたぶんにはフィンドホーン取り壊しにされるのか?どうなんでえ!・・・書いてて思うが、フィンドホーンの話まで持っていくとちょっとアレかしらね?。まあとにかく、そのダッサ〜いセンスが支持率がいつまでたっても上がらない理由だというのに気づいて欲しいよ。少なくとも、他の党より全然ましなのは確かなんだから、そこんとこどうにかしようよ。
確か発祥はサンフランシスコまわりからだったと思うが、いわゆるペイガニズム運動と呼ばれる「魔女復興運動」というものが起きている。もちろん、このペイガニズム運動の基本的な理念は、ケルト復興運動とも重なり、実は、先鋭的なフェミニズム運動とも関連してきているらしい。まあ内実は具体的にはどのようなものであるかは確認していないのだが、とくに興味深く思えるのは、そのペイガニズム運動の特徴として「アナーキーなまでの寛容さ」を互いの人間関係に持っているということである。要するに、ちょっと前、書いた「ヒルベルト空間に開かれた」というような要素をそのままオープンにしうる状況を置いているわけで、そのことを取っても、これがナショナリズムや共産主義等の近代的イデオロギーとは根本的に「質」が異なるムーヴメントだということは確認できるだろう。まあそうはいっても、例えば冬至の日なんかに魔女っぽい格好(男性はドゥルイド僧、つまりケルトのお坊さんの格好)で山の中に集まって、なんか儀式してたりとか、?な部分もなくはないのだが、まあとにかく、人間関係が「アナーキーなまでの寛容さ」を持ったムーブメント、ペイガニズム運動というのがあるという報告でした。なおここでは山の中の儀式については?なままではあるが、そういうものは外部から見てないで実際に参加してみると、分かることがあるのでそのことの良し悪しについては判断を保留しておいたほうがいいと思う。こう書いておかないと少し頭の足りない人たちが集まって魔法ごっこしてるとか思われちゃうからな。
とりとめなく饒舌
やっぱ4時間はいくらなんでも短いので、論文執筆や読書はその中に入れないことにしよう。つまり純粋な語学学習のみ。 (無理かも)
ところでベーシックインカム(市民賃金)の実験がスウェーデンで行なわれているのを知り、驚く。これは生活クラブにいたとき横田さんが関心を持っていて、私もとても関心を持っていたのだ。
小沢修司さんは、月8万円を、すべての人にと言っているそうだからちょうど私の奨学金と同額である。
働かないで生存できる社会になってこんな堕落していたら、実験は失敗になるな。
でも、誰でも仕事はあった方がいいと思うのだ。社会保障が機能しても、ただ生きるだけ、なんて難しい。誰かと一緒に何かをしていないと、豊かな人生とはいえない。換金システムとして考えなければ、さまざまな構想が広がるような気がするのだが、意外に人間の発想は貧困かもしれない・・・。金儲けだと思って発想する方が驀進力になるとしたら、悲しいのだが・・・。意外にそうかもしれない。
束縛が何もない自由って言うのは難しいな。コンテキスト、てもんの中には、規制や束縛も含まれるのだろうな。
それにしても女性差別に呻吟していたときは、読んだり書くことなしに生きられない、みたいに思っていたが、今のようなぬるま湯状況だと、しょうがないな勉強するか、いやだな・・になっちゃうのだなあ。そういうものかもしれん。もともと勉強嫌いだったよ私は。運動のための理論武装だったんだと思うわ。かといってプロの活動家になるほど実践性がないというか、無能って言うか、理屈っぽすぎると言うか。世界を構造的に理解したい欲求がすごくあるから、結構ただのアリバイ的実践を軽蔑したりしちゃうんだよな。建前と本音の矛盾が許せなかったりして適応不全になる。だからろくな活動家にもなれなかったわ・・・。
でも真理への追求心ていう集中力にも、探求力にも構築力にも欠けるから研究者としてはろくな世界把握もできないだろうとも思う。
大学院とか行くことに何の権威もなかったら、どのくらいの人が進学するかね。論文を書くことを換金するシステムにすごく違和感がある。まあベーシックインカムで1年長らえる機会と思えばいいか。
それにしてもミースをちゃんと読んで改めて魔女裁判ってすごいのね。サドの人は研究したらいいと思うわ・・。あまりに惨くて、読めないよ。それに魔女狩りって儲かったらしいわ。あらゆる人が魔女狩りにまつわる仕事をつくり、名声を勝ち取る機会にし、金銭的恩恵にあずかった。特に男性の専門家ね。ミースは近代化を、女性の持っていた自立性の破壊としての魔女狩り過程に見る。そこで近代技術の自然への蹂躙が規制緩和し、富の蓄積と、男性専門家の確立が行なわれた。暗黒の中世の現象じゃなくて、近代化のための過渡。血塗られた近代。
「魔女狩り」で儲かったり、名誉を手に入れたり、て、イラク戦争も同じだが、所詮他の人間の血で、豊かになった社会にこうして生きてるとしたら、無為に過ごすことは、そのサイクルに加担しないよりまし選択とも言えるが、惨い蓄積のおこぼれで近代文明に存在してる限り、全然免罪されないな。
ああいう暴力が女性に何世紀にも渡って行なわれてきたなら戦時性暴力も、強姦も、あるのは当たり前のような気がしてくる・・・。
家族、て言うものの歴史の浅さにも驚きました。(今頃)
日本でも昔は長男だけが結婚して(財産相続のため)、後の有象無象は適当に通ったり、生まれたら女の一族で育てたりと言うのは聞いていたけど、1868年にドイツでは無産階層の婚姻の禁止が廃止されたというから、それまで誰でも家族を作ってたわけじゃないのね。私達は驚くほどの神話の中に生きているのね。魔女狩り前は女性たちはみんな避妊や中絶の民間療法を身に付けていて、人口を抑制していたからむかしは人口爆発なんてなかったのだ。人口問題はもともと貧困や教育の問題じゃない。日本のイエ制度も江戸時代前にはないから、伝統じゃなくて、近代化政策。全く迷信に囲まれてるといってもいいくらい。進化論を教えないキリスト教原理主義のアメリカ人の無知蒙昧を笑えないわ。
結婚って結局、女性資源の分配よね。
女が自分で稼げる手段なんていろいろあるし、そうでなきゃどうやって人類が継続できただろう。男がしてたとかいう狩猟なんてギャンブルだから、女性たちの採集や農業が男を食わせてたのだ。だいたい、一夫多妻も、女をつかって稼ぐためだったわけだからずっと女が男を養って来たわけだ。もともと賃労働は最初は女子どもがやってたわけだし、男が保護の下に追い散らして中心を占拠した。
魔女狩りのようなすさまじいことをやらない限りたくましく生きてきた女たちは男に馴致されなかったってことなのだろうか。18、19世紀男女平等は原始的で遅れた人種のしるしだったそうだから、女を働かせるなんて、男の恥、て言うのはそういう伝統ですね。実際女が働くと、競争相手が増えて男の職場を侵食することになるので、男全体の利害を損なうから、恥とはあながち不合理な物言いでもない。完全雇用は女性の主婦化による数字合わせ(日本ではね)。
男が女を食わせる時代はもうおわちゃったけどホントに短かかったなあ。それが効率よかったのね。女を奴隷にして自分が奴隷頭になってさらに体制に従順、ていうのが日本的な資本主義的家父長制。会社中心主義。内部告発もできなくて(NHK職員は偉い!組合は闘ってほしい)会社と一緒に自滅。リストラ自殺に過労自殺。産業廃棄物の処理−老後の世話も見なくて良くて、政府は内心歓迎しているのか放置。
物事を知るとは、なんとタフな精神を要求されることだろう。でも無知でいることは退屈すぎるし、罪が深すぎる。
物事を探求する人たちを不思議に思うのは、このタフさをどうやって保持しているかである。論文換金システム、などに安住することができている不思議である。
その範囲で満足できる事象なのだろうか・・。別に社会改良家になれ、とは言わぬまでも・・・。自らがそのシステムの中で優遇されてることに気持ち悪さを感じない不思議である。ラジカルに指摘すればするほど、ステイタスが高くなるこの矛盾。
この世界に住む誰もがつけている現実との妥協をしているだけなのかもしれないが。
ミースが大学職を辞して活動家になっているのは全く自然なことであるが、これまたさまざまな能力の要求されることである。
普通の人は、平凡な仕事をしながら(しかしその中に世界構造的な矛盾は数限りなくあるのだが)、考えたことを行動に移して生きていく、と言うのが望ましいのだなあ。神は細部に宿るから、世界把握は、身近な現場の中でのよりよき社会に向けての小さな歩数を進めるときにこそ生きるものであり、それ自身を鑑賞したり堪能したりするものではない(してもいいけど)。
そうやって生きてきたつもりで、こういう転落なんだけど・・・。その歩数を進めるときに、あるべき社会ばかりを見すぎて、その過程を楽しむ人生がなかったからだろうか。
でも矛盾の中で楽しむことが享受できるのだろうか。
より強い苦痛こそがその推進力になるのだから。
ていうか、現在なお魔女狩りされてる人との共有感だったなあ。私は自己と世界の獲得のための、飢餓感のある運動でなければ、認められなかったわ。
自らの血であがなうような・・・・
今の生活に満足しているけど、社会正義や、余暇の充実のために運動している、ていう人への違和感、すごくあったもんなア。
職業活動家も、違和感があった。自らの生存意義のために社会矛盾を利用している気がすごくしたから。
(なんだってそんな事大主義だったんだろう?フェミニストは、家族やセクシュアリティなど人間の根源的存在基盤を問わざるをえないからしょうがなかったのかな)。
先が見えないな・・・。そういう飢餓感から解放されて、コンテキストから切り剥がされて、漂う先が見えないのだ・・・。
長い休暇、なのだろうか・・・。
とりとめがないなあ。この漂流感、自分でもよく把握できない。去来する怒りや、思いをどう求心させていくのか見えない。現場がないってことだよな・・・。
いやとりあえず4時間勉強は未知への挑戦だ(今頃?半年遅いよ〜)。
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21:07 ジョナー | 削除
いやあ、すごくおもしろい。その調子で書きたいほうだいしてください。参考になります。
2005年01月17日
19:55 裕美
あ、ありがとうございます。適当に茶々を入れていただくとまた弾みがつくかと思います。ソクラテス(だったか?)じゃないですが、学問は助産術だと思っていて、それで学校行く意味があると思っているんですが、何かろくでもない助産夫しかいなく宿した子どもは仮死状態ばかり、っていう感じなんで、別に学校ていらんていうか。ホルマリン漬けがたまらないように、黒魔術で生き返らせなきゃなりません。魔法学校はないかなあ。リブの人が魔女コンサート、なんてやってましたけど昔、魔女ってそういう意味あったのねえ。
2005年01月17日
20:20 ジョナー | 削除
ははは、これも皮肉が利いてて笑えるなあ。裕美さんてユーモアのセンス冴えてますね。ところで、この日記から引用して自分のほうの日記で展開して書きたいのがあるんですけどOKでしょうか?引用元をちゃんと明記したほうがいいのか、不明にしておいたほうがいいかお知らせください。
ミースってマリア・ミースですよね。まだ未読です。読んでみたくなりました。
2005年01月17日
20:47 裕美
全然OKです。ありがとうございます。思いもかけない出会いもあるかもしれない(?)んで引用先を明示していただこうかな。私も読ませていただきます。あの不思議な雰囲気の日記ですよね。
私のこの日記の種本は、「国際分業と女性」マリア・ミース著 奥田暁子訳 日本経済評論社刊(1997年)です。ぜひ熟読をお勧めします。この原題は「家父長制と国際的規模の蓄積」です。またミースの翻訳はこのほかに、「世界システムと女性」ミース、ヴェールホフ、トムゼン共著 古田睦美ほか訳藤原書店があります。
またサブシステンス・パースペクティブというグローバリゼーションとポストモダンフェミニズムについて論じた本が現在関係者の中で翻訳中ですが、近年発刊されますでしょう(希望)。
このミースのお仲間のヴェールホフというのが過激で(ホントに魔女みたいな風貌でかっこいいよ)、イリッチのジェンダー論は多く彼女のアイディアに負っているのですが(フェミニズムを脱色したうえで、ですが)最近新しい訳(ドイツ語から)が出来たようで好評です。それはまた紹介しましょう(私も読んでないんです)。
そろそろ学校に行きます。2時半までしか受付がやってないんで(ホントに仕事時間短いよ〜いいなあ)。魔法学校ならぬビジネススクールですが・・・。
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