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・・・、んなもんないわと平気で俺は言える。というか、まあ戦争反対コミュでのナショナリストの多さにちょっとあきれ、どうでもいいと無視していた小林よしの×の「戦争論」が古本で売ってたので購入、斜め読み。なにこれ?。漫画というのはカリカチュアするから話が軽くなる&極論になるのはいたしかたないにしろ、こんな粗雑な(ついでに言えばヘタクソな)漫画で影響受けた若い連中が大勢いたのにウンザリ。まあモーニング娘(例えがもう古いかな)があいかわらず売れている我が国の文化的状況だ。ついでに言えば昔から腹が立つが、幸福の科学もあいかわらずベストセラーリストにいつも乗ってる。なんつーか、日本人って細やかな情緒があるところがいいところだと思ってはいるんだけど、こういう(芸術的)文化側面はほとんど壊滅状態でヘラヘラ笑うしかない。なんとかなんないかこの豚どもの国。そういや、「戦争論」での戦争肯定論に、「物語」として、それに殉じた崇高な精神とか言ってるけど、幸福の科学も武道館で行われたバカボンのお話も「物語」として語ってて、信者が感動して泣いてたりする。夜中だし、眠剤飲んじゃったので例によってラリりながら書き飛ばすが、「物語」っつーのは「妄想」だっつーの。まあそのへんをアーサー・ケストラーが「機械の中の幽霊」や「ホロン革命」等で、ポール・マクリーンの脳の構造説(三脳説)を引用して、人類の妄想的傾向として批判し、ケストラーは薬物を開発して人間がでっちあげる「妄想」としての物語性をその薬物で抹消できないものかとまで批判しているのだが。まあ俺は音楽が趣味というか世界観に伴っている変人ではあるから、音楽という芸術表現にある、物語性を拒否するようなところ、うまく言えないが、妄想ではなく、感性と理性を直接的に橋渡しになっているところにシビれているのであって、「物語」性という、いくらでも誤魔化しの利く冗長な安いメロドラマにはさっぱりノレないタイプ。まあ優れた物語(文学作品)は神話的ではあってそういうのはズシンと感動したりもしたが、とりあえず、戦争論は安すぎるだろう。小林よ×のりがバカなのは仕方ないが、それを(センセーショナルなものとして大衆受けを狙い)利用して金もうけしようとした幻冬舎の性根が気にいらないなあ。言いたいほうだい主義で言い切っちゃうが(幻冬舎で本を出したりしてたこともある)尾崎ユタかが死んだのは俺は幻冬舎にも一因あると思っているんだが。
というのは愛国心だが、それも俺はどうどうと愛国心なんか全然ねえよと言える。モーニング娘(略)。まあちょっとわからなくもないところはある。東欧の街並みなんかで何百年も持っているようなレンガづくりの家とか長い歴史の積み重ねで美的なバランスの取れた美しい町並みとか見ると、こういうところに生まれていたら愛国心あったりするかも、とか思う。日本の町並みって惨いしなあ。外国いって外国人が自国の文化に誇りを持つのを感じて、日本人にはそれがないのがダメだとか思ってナショナリズムに目覚めるというタイプも多いが、それもどうだかなあと思う。劣等感の裏返しでナショナリズムに目覚められても困るよ。まあ実はこのわが国でのマットーな(つまり歴史性の積み重ねのある)ナショナリズムの不可能性は、逆に言えば、ナショナリズムを超えたイディを世界にもたらしうる新しい環境だったりもするかも知れないと思うが、脳天気すぎるかな。まあそれをやってのけたのはイマーノビッグボスの卓越した言語感覚なんだが、そのへんちゃんと説明している文にはまだお目にかかってないなあ。そのうち丁寧に書きます。とりあえず、日本に生まれ、ものごころついた時にはロックに夢中になってて、英米でのヒットチャートに優れた楽曲が並んでいた頃、わが国の暗澹たるダサすぎる流行音楽を聞いてガッカリして、「日本ってこういう英米の優れたセンスってないのな」と日本人文化的にはまったくダメ論にはまっていましたが、イマーノビッグボスがすべてをひっくり返して、「日本人でもここまでできるんだ」と誇りを感じたのはナショナリズムなんですかね。違うんだけどね。どう違うかはまた後で。ちょっと今浮かんでいるモノいいは徹底した「個」は欺瞞に満ちた「公」を完膚なきまでにブッとばすところにあるといったところとか。例。反核の替え歌「Love me tender」でキヨシローが歌った「(核に汚染されてない)牛乳を飲みてえ♪」と歌うセンスとかさ。
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ケエストラーさんって読もうと思いつつ実は読んだこと無いのでした.そんなこと言ってたんだw
さんきゅ
Quesoさんおっはー(徹夜明けラリ)、mixiでの戦争反対コミュではお世話になります。こちらの方です。
http://mixi.jp/show_friend.pl?id=32807
4月17日の日記が秀逸なのでmixiの外からも見ていただけるようにここにコピペします。
>歴史と云う言葉
先月読み終えた,Alain Finkielkrautの「20世紀は人類の役に立ったのか---大量殺戮と人間性」(原題: L'Humanit\:e Perdue: Essai sur le XX^`{e) si\`ecle)は非常に示唆に富む本だった.この本を読んで考えたことの一つが,歴史と云う言葉の持つ意味.
Finkielkrautは言う
20世紀は,人間についての近代的観念のふたつの要素,人間の尊厳と歴史観の対立の舞台であったことを認めなければならないし,この闘いは人間の尊厳に対する歴史観の流血の勝利に終わったということを認めなければならない
つまり,「人間個人の尊厳」よりも(あるいは個人の尊厳に対立する)人類あるいは国家などの全体主義の生存の存在論的優位性を宣言する「進歩の観念」,これこそが「歴史」であると云うこと.歴史と云う言葉は,全体主義のシステムの中で何度も都合のいい言葉として用いられ,目指すべき目標としての歴史の軸での進歩が標榜され,個人の犠牲が強いられて来たし,今も国家と云うシステム中では同様のことが行なわれている.
我々は,歴史と云う言葉と,史実あるいは過去の事実と云う言葉とを,気を付けて区別する必要がある.
僕は,自分の子供には史実の検討を一緒に行い,自分の家族の過去を教え,彼個人の歴史像を作る手伝いをしたいと思う.歴史と云う言葉が帰すべき主体が,彼個人になる様にしてあげることが重要かと思う.