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20020907 ご挨拶みたいなもの

とあるご縁があって・・・・・

ここで日記と申しますか
気が向いた時に書きたい事を書かせて頂く事になりました『leela』と申します。

って、お知り合いの方はこのHN知らないから
『おのれ、いつの間にそんな事始めやがったか』
と、ツッコミたいところでしょう。

いや、だって、イチイチ全てのHNを皆に開示してないからさ。
許してね♪

で、冒頭に『とあるご縁があって』と書いたのだけれど
まさしく縁は異なものって感じのご縁で
(多分ここにも書く事になるだろうけども)
最近気に入って愛用しているインディアン・ハーブに
深く関わってらっしゃる方から『日記サイトやってみませんか』
とお誘いを頂いて、散々迷ったんだけれども
(だって、スーパー素人手打ちで作ってる自分のHPもまだ出来てないし)
ま、やってみてもいいんじゃないかと思える事はやってみなきゃ損よねえ
って事で書かせて頂く事にしたわけです。

で、先程も書いた『leela』ってHNの由来をお話しておこう。

『leela』ってのは、インドの言葉で『遊び』を指す言葉だそうだ。

親しい方はご存知だろうけれど、私は昨年春から一年ばかり調子を崩して
心身共に結構ヤられちゃってたわけだ。
心がヤられれば遊びと言う名の自分の中の空間も狭まり
いつの間にか遊びそのものを見失ってしまっていた。

日々ただただ必死。
目的意識は強かったけれど、必死のあまり、その目的しか見えない。
遊びと言う名の自分の中の何かも、空間も、遊びという名の喜びも
遠く彼方に消え去ってしまったんじゃないかという状況だった。

これは大変にマズイ。

人生楽ありゃ苦もあるさ、ではなく
人生苦だって楽にしてやるわい、という私の主義がどこかに飛んでってる。

私の人生の三大要素は『美味しい、楽しい、気持ちいい』でなければ
どーにもこーにも気が済まない。

で、遊びを取り戻すという遊びを始める事にした。
ついでに、この日記モドキもその一環。

自分の身体で遊ぶ。
自分のいる空間を遊ぶ。
自分が現在手にしている状況を遊ぶ。

なので、ここで書いてみないかと声をかけて下さった方に教えて頂いた
『leela』という言葉をそのまま使わせて頂く事にしたわけです。

その『leela』という言葉に導かれつつ
遊びを探す遊びの経過をここにぽつぽつと書き綴っていく事になるでしょう。

日々思う事、感じる事を書かせて頂きます。
だからね、すっごく個人的な所感を書いてるだけで
人様に意見しようとか、喧嘩売ろうなんて気はさらさらないから
そこらへんご理解頂いた上で、気が向いた時にでも
覗いて頂ければ幸いでございます。

とゆー事で皆様今後ともよろしくほったらかしといてね♪

追伸

あのね・・・

まだこの日記の使い方イマイチ理解してないから

粗相があったらごめんなさい(先に謝っとこう)。


20020908 泥のように

久々に

泥のように、泥よりも生温く熟睡。
色々と『やりたいこと』(やらなきゃならない事ではなくってね)が沢山あるっていうのに
これだけ眠ってしまうなんて、時間がもったいないと言えない事もないなと思う。

けれど、私は時々休息を忘れてしまうから、きっとこれくらいで丁度いい。
最愛の人にも古い友人にも『あんたは頑張りすぎ』と何度も突っ込まれてるからね。


久々に二日連続インド風ご飯。
精製されてない小麦粉とか、お塩とか、色んなもの入れてないスパイスとかって
なんでこんなに美味しくて、身体が楽になるんだろね。

洗濯物を取り入れていたら残暑を通り越した猛暑の空気の中に秋の気配を感じた。
うるうると回りながら輪郭を滲ませる夕日が、ほんの少し前よりも早くやってきている。
あと少しすればシカカイ色の夕闇が見られる時が来る。
自分が生まれた季節に近いその空の色が少し恋しい。

たかが人、されど人って事で

インド人じゃあないのか、というツッコミを頂きましたが
とりあえず、行きつけのレストランの北インド出身のおじさんが作る
インドご飯は大変に好きです。毎日通っても飽きなかったくらいです(笑)。
残念ながらお財布が泣き出したので毎日通いつめるのは断念しましたが^^;。

個人的には『何人か』よりも
『私は所詮人間である(卑下する意味じゃなくてね)。』
と考えておりますので、とりあえず人の身に生まれたからには
人であり続けられれば、と思っております。

私は自称怠け者で、しかしながら親しい人には『いんや、違う。』
と言い切られてるので怠け者かどうかは定かではありませんが
したい事、楽しい事、何かに行き着く為にクリアしたい事を
自分の中でゴーサインが出れば、なんでもやりましょ、という感じです。
大抵の事は違う視点から見れば必ず喜びや楽しみになっていく
と、お気楽に考えているせいでしょうか。
でも、いつかインドに行く事があったら怠け者を満喫したいと思っております(笑)。


20020909 だから

好きだから

『〜〜してあげたい』じゃなくって
好きかどうかなんて事もすっ飛ばして
ただ、誰かにこうしたい、これを差し出したい
そう思ってしてるだけの事だから
そこに理屈なんていらないのさ。

私はしたい事しか出来ないのです。

『〜〜だから』なんて私が使ってもただの言い訳。
本当に伝えたいのは理由や理屈じゃなく
思いや情そのものなんだからさ。

つまりね

『あんまし色々考えてないから説明は無理』

って事なのでした♪

疲れてる

と聞けば、そりゃあ疲れを抜く為に!と何かしたくなる。
疲れてると聞かなくても、疲れてやしないかと気にはする。
元気でないと聞けば、元気になる方法はなかろうかと探す。
元気だと聞いても元気じゃなくならないようにと何かしたくなる。

『あなたのため』『私のため』そんなお題目はいらない。

ただ、大事で大好きだから、そうさせてよ。

そう思ってるだけ。

返したいから、あげたいから、それもいらない。
ただそうしたいだけ。
そして、それを素直に受け取ってくれる人に感謝。

空のインディゴが深くなった。

マンゴー色の猫の爪の月がかかる

幸福な季節がもうすぐやってくる。


20020910 日常だけどただの日常じゃなくて

自分で作るインド風ご飯なんて

所詮なんちゃってだから簡単に出来ちゃう。

そして簡単で美味しいっていうのもいつもの事。

だけどね
それを美味しいって感じる瞬間って
ただ美味しいってだけじゃなく
その美味しさを誰かと分かち合いたい
そう思う瞬間って日常だけどただの日常じゃない。

日常の中に当たり前のようにある幸福な瞬間。

いい匂いの風が吹いて
その風の中に未来を感じて
心がうずうずする。

それはね
独り占めにしたい未来じゃないから心がうずうずする。

当たり前のように電話がなって
その向こうにいるのが
『美味しさ』も『未来』も『喜び』も『楽しさ』も
分かち合いたいと思える大事な存在だから
ただの電話も、他愛のないおしゃべりも
かけがえのない日常。

誰かがいるから

『〜〜出来る』という言葉をある人からよく聞く。
他のある人は言う。
『〜〜がいなきゃ〜〜出来ない、って事でしょ。
その人がいなくたって、自分一人でやってけるようでなきゃいけないじゃない。』

私はどっちが正しくて、どっちが本当かなんて知らない。
だけど、少しだけ言えるとしたら
そこにはちょっとした誤解があるんじゃないかという事。

きっとね、少しだけ言葉が抜けてるの。
『〜〜がいるから〜〜出来る』の中に
きっと、ある説明が入ってない。

きっとね、その誰かがいなくたって
出来る事は沢山あって
楽しめる事も沢山あるんだけれど
その誰かがいてくれるからこそ
もっと自由にもっと楽しく何かが出来るって言いたいんじゃないかと思う。

誰かがいてくれるから、一人でいる時よりももっとずっと幸せ。

これって単なる依存じゃないと思う。


20020911 『考える事』

『考えすぎちゃうんだよね』

と、とある友人が呟く。

私だって時には考えすぎちゃいますよ。
しかも、人様からそう指摘されたりする。
とゆーか、そもそも『考えすぎ』と『考えすぎない』の境界線ってどこなんでしょう。

多分だけれど、少しだけ言葉を端折ってしまうんだろうね。
本当は考えるという事に『ここまで』なんて基準はない。
気が済むまで考えるのは決して悪い事じゃない。

だけど、今考えあぐねても仕方のない事や
ネガティブな視点のみから見続けていても
先へと繋がらない事はあると思う。

そんなネガなラビリンスに迷い込んだ姿を見た時に
他者は『考えすぎだよ』という言葉で表現するんじゃないだろうか。

考えるのはね、きっとムダじゃない。
だけど、今考えても仕方のない事は考えなくてもいいんじゃないだろうか。
今考えてもしょうがない事は考えられる時に
一人で考えても身勝手になってしまう事であれば
一緒に考えてくれる人がいる時に考えたっていいと思う。

だからね、『考えすぎるのは自分の悪いとこだ』なんて言って
自分を追い詰めなくてもいいかもしれないよ♪>某友人

最近

あんまり色々と考えない。

別に『こうしなきゃ』と決めたわけでも意識してるわけでもないけど
楽しい事やしたい事、欲しいものや求めてるもの
そんなものについて思いを巡らせては『にや♪』としてるだけだ。

『考えなくちゃ』『○×しなくちゃ』とやっていた私もいたが
そういう実体を持たない『must』によって
自分で自分を縛る私を見かねた人が『考えすぎ』と言ってくれたのだと思う。

気づくの遅くてごめんね。

今は楽しい事ばかりを思う。
したい事ばかりを思う。
例え多くの時間と労力を費やさなきゃ話になんないね、って事でも
楽しんで思いを巡らせている。

だからもう、あんなふうに心配しないでね。
これからは一緒に楽しい事考えて、楽しい事して
喜びを膨らませていく気でいるから。

本日の贅沢

は、届いたばかりのインディアン・ハーブだ。
日本では白檀と呼ばれる香木をただ粉にしたものが
実は香水なんかよりもずっと素晴しい香りだなんて
知らないままでいてもおかしくはなかった。

白檀の粉、薔薇の花びらの粉
火を入れずに絞られた胡麻のオイル。

それは人の手と心と力と知恵によって作られたもの。
作らせてくれるのは素材を提供してくれた自然。

下手な加工をされない食事程実は贅沢だ。
下手な加工をしない為には、どうしても、それなりの手間も時間も知恵も必要となる。
新鮮な食材があっても扱い方を知らず、手間を惜しめば生ゴミになりかねない。

命を食し、命を使う。
これって食だけには限定されない贅沢だ。

誰とはなく(ってわけでもないけど)心から感謝。


20020912 そういうのとも違うのよ

忙しそうだね

と、最近よく言われる。

通じやすくする為と説明のしづらさもあって
『う〜ん、まあそうね』と笑いながら答えている。

けれど、実は忙しい訳ではない。
慌しさを感じてる訳でもないし、『ああ、忙しい(溜息)』などと思ってる訳でもない。

やりたい事が沢山あって『一日が48時間だと嬉しいなあ』と思う日はあるけどね。

ぱたぱたと動く私を忙しそうだと思い
『邪魔をしてはいけないから』『自分が時間とらせたら休めないだろうから』
と思いやりから遠慮してくれる人がいるけれど
そうやって遠慮されちゃう方が私には迷惑な話だ(乱暴な言い方だけどね)。

私は大切な人と共有する時間がとれない程に忙しくなんかない。

大切な人とクロスする事を忘れるほど私の心は失われてもいないし
荒れてもいないんだよ。

プレゼント

が届いた。

贈り物の箱に詰まっているのは
ただの物だけじゃない。

送り主が暮らす場所の空気。

送り主が纏う空気。

送り主が向けてくれる思い。

そして、送り主がその心を込めてくれたもの。

本当はもっともっと色んなものが詰まってるのかもね。
もし、そうだとしたら、いつかその『もっともっと』も必ず
感じて、触れて、抱きしめたいと思う。

だって、この世にひとつしかないものばかりが詰まってるはずだから。

月が

淡いジャスワンドに染まった。

兎は花びらを食むのだろうか。

月に住むと言われるのは赤く染まった目の兎なのだろうか。

二日月は鋭すぎて
三日月は狭すぎて

だから今日の兎は土中にいたのかもしれない。


20020913 好きな事と嫌いな事

話すのはね

好きだよ。

聞くのだって好きだよ。

問われた事に100%答えられるかどうかは分からないけど

誰かが私に問うてくれた事に答えるのは好きだよ。

だけどね
知らない事は知らないとしか言えない。

分からない事は分からないとしか言えない。

憶測でものを言う事は出来ない。

事実ではない、人を傷つける情報は覚えていたくない。

そこは譲れないよ。

だってそれは私の好きな事じゃないから。

ありがとう

うん、分かってるよ。

忙しいってほどじゃなくても
時間が十分に足りてるって訳じゃない事も分かってるつもりだよ。

たった一言であっても
薄っぺらな社交辞令じゃない事も知ってるよ。

私が何かしたい事をあなたにする度に
喜んでくれる事も
微笑んでくれる事も
私に何か返そうなんて思ってくれる事も
分かってるつもりだよ。

『ありがとう』は、ちゃんと受け取りました。
そして、私こそありがとうって言いたいっていう事を
分かってくれてると思う。

分かってるよ。

Say no more.


20020914 お客人ご到着

休日だけど

早起き。

お客人を迎えに行く。

今日はいつもより美味しいご飯を作ろう。

お客人ってば

お土産持ってきてくれました。

80'SのコンピレーションCDを自分で作ってきてくれました。

しかも6枚もあります。

お客人と私はほぼ同世代で
当時私が好きだった曲も沢山入ってます。

6枚も頂いて非常に嬉しいです。

お客人は喜ぶ私に『6枚も作った理由』を教えてくれました。

お客人:『あのね、CD-Rってさ、すっごく容量大きいじゃん』

私:『うんうん』

お客人:『700MBとか入っちゃうじゃん』

私:『うんうん』

お客人:『だからね、最初集めた分が500MBくらいだったからさ』

私:『うんうん』

お客人:『まだいっぱい入るなあって思ってもっと集めたのね』

私:『うんうん』

お客人:『でも、それってさ』

私:『うん』

お客人:『MP3の状態での話であってさ、普通にCD焼こうと思ったら
何分、とかで計算しなきゃいけないかったんだよねえ』

こういう人が私のHTMLの師匠だという事が非常に嬉しいです(ほんとよ)。

今日の美味しいものは

涼しくなってきたので『お鍋』でした。

お鍋はいいです。
お出汁とって、材料切って、煮るだけです。

あんまり簡単なので
お客人が作ってくれました。

大変美味しく楽しく頂いたのですが
ホステス役として、弟子としては
後で師匠にバックドロップで失神させられそうで
一瞬美味しいお鍋の味を忘れてしまいそうになりました。


20020915 今日の好い事

今日の好い事

其の一:9ボールの面白さから大嫌いだった物理に少々興味を覚える。
面白い事をもっと面白くする為であれば
大嫌いだった事も楽しめるのかもしれない。
楽しみを増やす事も私の楽しみであると改めて思う。

其の二:楽して美味しいものを食べる喜びを再確認する。
昨夜お師匠が作ってくれたお鍋のお出汁が残っており
その中に残りの具と、冷凍うどんを放り込んだだけで美味しいものが出来上がった。
たまには人様にお任せして、何かしてもらう事もいいものである。

其の三:お師匠’Sハニーのお陰で
日頃はそうそう見られないお師匠の姿を目にする。
愛しいと思う相手といる時
人はとても自然に、とてつもなくいい表情を見せる。

本日も、お師匠&お師匠’Sハニーに心から感謝。


20020916 お客人のお帰り

天気予報じゃ

今日は曇りだと言っていた筈だったのに
起きてみれば車のタイヤが水を切って走っていた。

滝のような雨の中をドライブ。
水瓶の水も随分と減ってきていたところの恵みの雨。

お師匠とお師匠’Sハニーと手をふって別れる。
帰り着くまでの40分間でゆっくりとギアを入れ替えて日常へと帰る。

帰り着いて間もなく知人からの電話。
『カスピ海ヨーグルトの種貰ったから分けてあげる』
いつもの調子といつもの声が日常に帰る私の背を押す。

祭りの後のような寂しさはない。
また会いましょう。
お師匠&お師匠’Sハニーに心から感謝。


20020917 どこに留まるか

人のせいにするのも

自分のせいにして自己完結して相手の気持ち確かめずに
自分勝手にOK出しちゃうのも私は嫌いである。

喜びを邪魔するものだけを見るのも嫌いである。

どうせ私に話しかけてくれるんならさ
ネガな部分に執着する為でなく
ネガをポジにしちゃうってのに乗っかってよ。

そしたら、色んな事が遊びになるかもよ?

地上の兎も

月の兎も

土中の兎も

いつだって私に幸福を運んでくれる。


20020918 本日のアタリ

チャパティの生地

に、育ったカスピ海ヨーグルトを混ぜてみた。
レシピに載っていない事でもやってみると美味しくなる事がある。
『〜〜でなければ』なんていらないね。

遠く東に

暮らす友人から久しぶりにメールが届いた。
多分もう半年以上話をしていないけど
なんとなく感じていたとおり走り回ってるらしい。
彼は私より年をかさねていて、だからって訳じゃないけど
私の知らない事を沢山知ってて、私の知らない色んな思いを経験している人だ。

楽しんでね。
負の要素も陽に変えちゃうくらい楽しんでね。

いつかあなたの奏でる音を聞かせてください。
いつか顔を見て生の言葉を交わしましょう。
お師匠や、他の仲良しさん連れてきっと会いに行くから。

怒る事

も、ごくたまにはあるのよ。
日頃あまり声を荒げる事も、不機嫌に振舞う事もないから
結構相手はびっくりしたり、不安になったりするみたいだけど。

私の怒りは憎悪じゃあない。

私の怒りは否定でも拒否でもない。

ごくごくたまには怒っちゃうけど、怒るのは好きじゃない。

だけどね、怒りって感情も自然なものだから悪いとも思ってない。

怒った後のフォローは大事だけどね。

チャパティとはなんぞや

という疑問符が投じられたので書いときます。
まあ、そりゃあ、インドご飯好きでなければあんまり聞かないかもしんないね<チャパティ

えーとね、チャパティはインドのパンです。
私が調べた限りではナンと違って発酵させないし、使う粉も精製したものではなく
小麦のふすまとか入ったまんまの俗に言う『全粒粉』なのね。
つまり栄養価も高いし、食物繊維が多くてお腹にたまるので
ダイエットとか健康志向の強い人には向いてるんじゃないでしょうか。

私が知ってるレシピだと、全粒粉、お塩、お水をこねこねして、ちっと寝かせてから
1〜2ミリの厚さになるように丸く伸ばして油をひいてないフライパンで
美味しい焦げ目がついて、風船みたく膨らむまで焼いたら完成。
こいつはスグレモノで、インドご飯だけじゃなく、洋風のものを挟んで食べても美味しいです。

それと、聞かれる前に書いとくけど
私が知るレシピではチャパティの生地にヨーグルトは入れません(笑)。
カスピ海ヨーグルト入れるのは私が勝手に思いつきでやった事なので
正しいレシピだと思って真似して失敗して苦情言ってきても知りません(笑)。
ついでに、カスピ海ヨーグルト入れたら生地が扱いやすくなりました。
それでもって、しっとり感がごくごくわずかにUP。
味には特に影響はないです。
以上説明でしたm(__)m

正しい事知りたかったらネットで調べて下さい(笑)。


20020919 移行

月は既に

夏の顔ではないようだ。
秋の月の方が眩しいのは何故だろう。

兎の耳

に良く似た真っ直ぐで柔らかそうな雲を見た。

今日も兎は元気でいるのだろうか。

たかがヨーグルトされどヨーグルト

とは以前から思っていたんだけどね。
元からヨーグルト好きだし、毎日食べてるし。

だけど、自分の手でヨーグルトを作るようになると尚の事そう思う。
ただ牛乳に種菌入れて一定時間室温で放置すれば出来上がる。
けどね、牛乳と種の割合だとか、牛乳の温度だとか
気温と放置時間の兼ね合いだとか、ほんとにちょっとした事なんだけど
ヨーグルトの育ち具合にしっかり影響する。

そんな変化を見るにつけ『ヨーグルトってば生きてるのねえ』などと思う。
まさしく生き物を育ててる感じ。
しかも、食べる為に生き物育ててるって事よね。

命を食べて生きる以上は、食べる為の命を育てるって経験も悪くないよな気がする。

人に期待してないの?

などと問われて『むむむ』と考える。
考えた事あんまりないのよね、というのが本音ではあるけど
問われた以上は考えてお答えするのが筋(だと思う)。

『期待ってなんだろね』

と聞き返したくなったけど、怒られそうなのでやめておく。

個人的には『期待』する事よりも『希望』する事ばかりだ。
『こうだったらいいなあ』って。
『期待』は出し方によっちゃ人を押しつぶしもするし
自分勝手な期待、相手が望む事に全く反する期待もしたくない。

私は大好きな人がそこにいて生きてるって事で
ある意味『期待』に応えてもらっちゃってるから、あんまり色々考えないのかもしれない。

ついでに『期待』から『信頼』に移行しちゃってると尚更ね。

だって、相手の人間性と可能性を信じちゃってると
期待なんかしなくったって必ず応えてくれるって思えちゃうから。

とある友人が

夫婦揃って日記をつけ始めたという。

彼女は『いい事だと思う』と言う。
『何故?』と問うと『色々振り返って反省したりとか出来る』と答えてくれた。

なるほど。
そういう使い方もありますね。
日頃あまり反省という事を考えてない身には新鮮な話だった。

個人的には日記と反省を繋げて考えた事はない。
昔、とある友人が言ってくれた。

整然とした形にならないものであっても
自分の思いをなんらかの形で残しておくのは大事だ。と。

なにがどのよーになって、こーだから大事
なんて、説明はなかったし、私にも説明する気はないが
ああ、そうだよなあ、と思ったからこそ
ここでごちゃごちゃと書き綴ってたりするのかもしれない。

瞬間は文字通り瞬く間に過ぎ去って行く。
記憶というものに形を変える事はあっても
肉体の目に見える形で残る事は多くはない。

その過ぎ去って行く瞬間の中に確かにいた自分の姿と
自分の足跡を残す事は、なんらかの足場を作る事に繋がる気がする。

私には反省材料の日記よりも、こんなお気楽な日記の方が似合ってる。


20020920 今夜の月はパパイヤ

ヨーグルトのね

ご飯って牛乳なわけです。

人間がご飯食べるのと同じように
ヨーグルトの菌も牛乳やオリゴ糖を食べる訳だけど
やはり人間と同じく悪い物食べたら弱ったりします。

なんでこんな事を書いてるかというと
牛乳の選択が悪かったようでヨーグルトがへそを曲げたから。

急遽ヨーグルトの機嫌を取る為に別の牛乳を購入したんだけど
ヨーグルトが『気に食わない』と言った牛乳もまだまだ残ってる。

明日は休日。
食べ物を粗末にしない為にも
ヨーグルトに嫌われた牛乳でパニールでも作ろう。

明後日のご飯はパニールカレーだ。

兎が

私のお尻を

ぽふん

と優しく蹴った。

兎の足はお守りだとも言うから

きっと明日もいい日になるのだろう。

優しい兎が

パパイヤの月を齧りますように。


20020921 教育的指導

休日は

お昼まで寝てても誰にも叱られない。

ので、ゆっくり寝かせて頂きましょうと丑三つ時にベッドに入った。

この頃は朝日も柔らかくて
カーテンを射抜くような光で目を覚ます事もない。

と思っておもいっきり油断してました。

午前九時にワルツ・フォー・デビーが鳴るのです。

メールの着信音なのです。

お休みの人が多いはずの土曜日です。殆どの友人はまだまだ寝てる筈なのです。

スライムになった気持ちでベッドから這い出て見るとお師匠様からのメールです。

『ただいま出勤中』

えーと、どういう事だろう。

とりあえずお電話してみると
『おはよう』
『おはよございます』
『寝てた?』
『寝てた(汗)』
『そっか』
『だって休みだもん(汗)』
『あー、そっかそっか。じゃ寝て。ゆっくりしてねえ♪』

師匠はお仕事。

弟子はしっかり休み。

これってもしかして

『師匠が働いてるってのにいつまでも寝てんじゃねえぞ。
せっかくの休みなんだから、ちったあ精進しやがれ(怒)!』って事でしょうか。

師匠は怠惰な弟子の根性を叩き直そうとお思いなのでしょうか。

確かに弟子としてあるまじき態度ですよね。

師匠が働いてる時に惰眠を貪るのは誉められた事じゃないですよね。

でもね

弟子は修行が足りないので二度寝しても罪悪感感じないんですよ。

師匠の教育的指導はムダに終わったのです。

とっても気持ちよくゆっくり眠りました。

起きぬけのオレンジジュースも美味しく頂きました。

猫と一緒にひなたぼっこもしました。

予定通りパニールも作りました。

本を読んでころころ転げてました。

大変のんびりした休日らしい休日を過ごしました。

そういうわけですが後で折檻しないでね♪>師匠

少しだけ

夏に戻ったような濡れた空気。

そこにどれだけ文句を言おうと

部屋にこもってエアコンの風に埋もれようと

やっぱり自然には勝てないんだと思ってホッとする。

まるで心底愛しい人の背中を見てるみたいだ。

大きな背中にも自然にも敵わない瞬間があるって暖かいものだ。

楽しみ

が一つ増えた。

大事な人にハーブを送ろう。

任せてくれるって言われるなんて

信頼してくれてるって事だもの。

何か

『してあげたい』なんて思ってません。

してあげるって言えるほど
何かをきっちりやってのけられるわけじゃないから。

『これ美味しいの』って差し出すのは、ただそうしたいから。

『これいいんだよ』って差し出すのは欲しがってたものを覚えてるから。

だから迷惑じゃないんだったらしたい事沢山させてね。

私もあなたのしたい事拒まないから。


20020922 本日の所感

シリル・アビディは

マウスピース咥えると
クリスチャン・スレーターに似ている。

そこに向かっていくボブ・サップは

『悪い子はいねぇかぁ!』

と子供を追い回す『ナマハゲ』に見えた。

そりゃKOになるわな。

子供はナマハゲにとっつかまって泣くものと相場が決まってるんだから。
(所感になってない)

ベルナルド復活。

一部のグレきっていたヨーグルト菌も完全復活。

うちのヨーグルト菌は大変底力のあるよい菌である(手前味噌)。

何も考えないでいるって

取り組んですらいないようで不安だとある女の子が言った。

なるほどね。
確かにそんなふうにも考えられるよね。

だけど、考えられる状態を生み出す為に考えない時間を持つとしたら
それは取り組んでいないって事にはならない気がする。

いっぱいいっぱいになって
考える、何かするって事を無理にしてばかりじゃあ
心身の体力は消耗するばかりになる場合もあるように思う。

待つという行為には案外勇気が必要だ。

何も変わっていないように思い込んでしまうと焦りも生まれやすいだろう。

けれど、目に見えて何かが変わったと感じられないからって
放り出す事も、投げ出す事も、そして自分を追い立てる事も
必ず全ての事において必要だってわけじゃあないだろうと思う。

気楽に気長に。

ネガな先入観に支配されて焦ってもポジは生まれづらいから。

目に見える事より感じる事を信じる時も必要かもしれないから。

諦めるのはこの世が終わってからでいい。


20020923 いただきもの

朝から

母上がヨーグルトの存在を忘れて窓を開け放していたようで
私がお昼過ぎに起きだしてヨーグルトとご対面した時には
ヨーグルトが少しぐったりして泣きが入っていた。

にゃんこはお風呂が嫌だと必死に抵抗していた。
洗うのは汚れた部分だけであるが。

休日の目覚め直後に『よっしゃ。なんとかしましょ。』な課題を頂けて嬉しいのである。

一日が

100時間くらいあるといいのにねってくらい

やりたい事と、それに付随するやる事がある人からメールが届いた。

殺人的とも言えるスケジュールの中
その人は『この状況だからこそ新たな創意工夫を見出せた』と言う。

そして、その先にある新たな希望を誠実に綴る。

多忙な中にメールを送りつけた私に愚痴る事もなく
『ありがとう』と気負いなんぞなく言ってのけてくれた。

凹まない彼を凄いと思っているわけでも
強い人だと思っているわけでもない。

ただ、苦境と言われてもおかしくはない状況の中で
苦境を喜びへと昇華させる姿勢は私がとても好むものだというだけだ。

その姿をうかがわせてくれるメールも今日の大事な頂き物。

物も

人も事象も視点の数だけ顔を持つと思うのは常日頃からである。

今日はたまたま客観的視点から
私を見てくれる人の『意見』ではなく『思い』と
感じた事を聞く機会があった。

私は彼ではない。
また、彼は私ではない。
私ではない彼から見た私は私から見た私と全く同じにはなりえない。

自分から見た自分だけが真の自分なのか。
他人が語る自分は常に偽の自分で表層的なものでしかないのか。
そして多面的な生き物である人間の真の姿はひとつだけなのだろうか。

私は万人に共通の答えは知らない。

ただ、私の知らない私の顔を他者を通して見る事が出来るというのは
非常に面白く、また創造的な事だと思う。

面白みと、創造へと繋がる何かを頂いた。
これも今日の大事な頂き物。


20020924 晴天

目が覚めて

カーテンを開けたら心臓をきゅっと掴んでくるような
真っ青な秋晴れの空が広がっていた。

そういえば、一昨年の秋に
兎と電話越しに同じ秋晴れの空を見た。

不機嫌なにゃんこ

理由は昨日洗われたから。

元来猫は入浴なぞしない。
本当なら地肌まで水に濡れるという事は彼らの体温を奪う事になり
それは野生、または『野良』と呼ばれる生活をしていれば
体温低下による病気や体力の低下を呼ぶ事がある。

つまりは死に繋がる。

飼い猫と呼ばれる立場にいても彼の野生は失われてはいないから
ただ、お尻だけを洗ったというだけでも不機嫌になるのは当然の事だ。

不機嫌になるという事ではっきりと分かるはずだが猫にも感情がある。
人間と共通の言語を持たない生き物だというだけで
喜怒哀楽に関しては人といくらも変わらない。

『怒』を全身で表す彼が『喜』で満ちるようにと
美味しいものを食べさせる事にした。

その美味しいものとは彼が『愛されている』と実感出来るものを差し出す事。

いつもなら自分だけの為に使う時間を
彼と遊ぶ時間や彼の頭やあごや背中を撫でる時間にした。

そうしているうちに彼は眠ってしまった。
あんなに不機嫌だったはずなのに
まるで笑っているかのように目を細めて眠っている。

彼の寝顔を見ながら改めて思う。

生き物は命だけじゃなく
命と同じく生きているものの中にある『情』を食べて生きているのだな、と。

愛しい存在の心が明日はもっと晴れていますように。


20020925 ライン

あなたと私はこういう関係よね

って好意的なスタンスで言われる事がある。

うん、ありがたいです。
悪意でなく好意をもって接してくれてるのだから。

だけど、『こういう関係』の『こういう』の中身って
ある程度の共通認識や共有するものがないと、ちとキツイ。

いや、キツイというより困っちゃう事がある。

私は基本的に人を求めている事を自覚しているし
他者というものなしに生きられるほど大したもんではないという事も自覚している。
だから、人を見る事や、人と話す事、人と触れ合う事なしに
相手を拒んでシャットアウトするのは好まない。
だって、そういう過程を踏むまでは
相手との関係はゼロに限りなく近い状態だし
相手への認識も認知もゼロに近い状態だと思うから。

これは自分の基本的なスタンスとしてある意味動かしがたい部分。

けれど、同時に『思考』ではなく『嗜好と本能と情』の部分で
意図せず何かを判断する自分もいる。

どんなにいい人でも、どんなに好意的に接してくれる人でも
自分の中で『YES』という声が聞こえない限り
ある一線から先の扉は私自身が開こうとしても開けない。

そしてそういう部分があるからか
『冷たい』『何考えてるか分からない』と評される事がある。
恐らく、そんなふうに言われるのは相手が望む形や望む言葉を打ち出さなかったり
相手が望んだり想像したりしている私を見せる事が出来ないから
という部分が大きいのだろうと思う。

開き直るわけじゃないけど、私は自分のスタンスを『悪い』とは思わない。
同時に、『絶対的に正しい』とも思わない。
人を傷つけかねない『冷たい』『何考えてるかわかんない』という私への発言も
相手の気持ちなわけだから、自分が言われてる分にはかまわない。

望む時間で望む結果が得られたらいいな
というのは人間関係に限らず人というものが割と望む事だとは思う。
もちろん、望んだとおりに物事が進んでいけば嬉しい。

だけど、過程や経過を無視して結果だけ得られるものとは思えない。
また、思うようにいかないという事などままあるけれど、それが悪い事だとは思わない。
そして、思い通りの反応をしてくれないからと怒られても困るのである。
相手の速度と自分の速度が同じでなければ許せないとばかりに振舞われても
私は自分の心に嘘を吐いてしまう訳にはいかない。

双方向性の情と愛情をもって私を困らせてくれる
可愛い人が相手ならば決して一線など引かないけれど
そうでない方が相手である場合ははっきりと『不動ではないライン』を引かせてもらっている。

心ならずも求めてしまい、そして相手も手を差し伸べてくれる
という関係だと思えない限りは私の一番奥の扉は私にだって開けない。

突き放されているようだ、冷たい、と不評を買う場合もあるけど
これって、優しくはないかもしれないけど、不自然ではないと思うんだけどな(笑)。

境界線は

常に曖昧だ。

同じラインを境界線と認識するのか
それとも異なるラインを境界線と認識するのか。

ただ望まれる限り
望む限り

笑ってくれる限り
手招きをしてくれる限り

最愛の人に冷たく白いラインを突きつける事だけはしない。

それは相手の笑顔と手招きと望みだけでなく
相手の心をも置き去りにする事にもなるのだから。

分かってるよ

私が特定の人にしか使わない言葉。

そして同時に決して鵜呑みにしない事が多い言葉。

『分かってる』と心の底から思い込みでなく思える事は
哀しいかな私の場合はそう多くはない。

そして、『分かってるよ』と言った後に『分かったつもりでしかなかった』
という事になれば相手が心に傷を負う場合もある。

だから『分かってるよ』とはなかなか言えないし
『分かってるよ』と言われても『そっか』と笑い返すだけという事が増えてしまう。
信じているとか、いないとかそういう事からではなくね。

時々心からの『分かってるよ』を聞ける時がある。
私のシニカルな部分も相手への情も
全てひっくるめて『いいよ。分かってるよ。』
と胸の奥から流れ出るような優しい声で囁いてくれる人もいる。

快心の一撃。

文句のつけようのないクリティカルヒットだ。

そんな『分かってるよ』を聞く度に思う。

誰かへの『分かってるよ』はいつでもクリティカルヒットであるように、と。


20020926 個人的見解

ツッコミについて気にしてる人が多少いるようなので

あえてここに書かせて頂こうと思う事があります。

ここは私の遊び場で色々と好き勝手に文字を言葉を綴らせて頂いている場所です。
綴られている事は全て、あくまで『個人的見解』であって
他者に何かを強要する意図もなければ共感を求めるものでもありません。
同時に悪意を込めたものも一切綴られてはいません。
そして、私の物言いは見る人によっては小難しく感じられるとも言われますが
何かを格好つけて高尚に見せようなどという意図もさらさらありません。
まあ、そんな事思う人は滅多にいないはずですが(笑)。

それでですね、親しい方には特に申し上げたいんです。

ツッコミについてなのだけれど
私自身が先に述べたようなスタンスだから
というわけじゃあございませんが
誹謗中傷や、人様に自分の意見を強要、強制するような事
または、人様や私に喧嘩売るような事や、悪意を込めた事や
無責任甚だしい事、人様のご迷惑になる事でなければ
ツッコミたいと思った時には、長かろうと、脈絡のない話だろうとお好きにつっこんで下さい。

ここは上記で述べたような事さえしなければ自由でいいと思っています。
他者の思想や心に触れる『遊び場』だと捉えて頂ける部分もあっていいと思っています。
知らない人が既につっこんでるからとか
横レスになっちゃうからとか、そういうの気にしないでいいんですよ。

分かった人はあんまり気にせずに書きたいと思った時に書き込んで下さいな。
(もちろん『書かなきゃいけない』じゃないよ。『書きたい時は』だからね♪)

兎の笑い声は

今日も胸に体温を送り届けてくれた。

いつかヒヨコ草より美味しいものわけっこして食べよう。

考えなくていいよ

そんな事しなくていい

自分の事はいいから

愛情故にそう言ってくれる人もいる

だけどね考えさせてよ

したいようにさせて

『あなたのためです』なんて大義名分なんか皆無

楽しいから考えるし思う

嬉しいからしたいようにする

ご存知のとおり私はそういう奴だから

だから心配しないで

考え込んでる訳じゃなく

楽しんで喜んで嬉しがってるだけなんだから


20020927 24hours

大事な人からの連絡は

どんなに疲れている時であっても
どんなに忙しい時であっても
どんなに眠たい時であっても
原動力や清涼剤になる事はあるが
負担になる事は決してない。

あなただけは24時間連絡受け付けるよ。

そう思って、そう言える相手がいて
そう思って、そう言ってくれる人がいるって
私はなんて凄い贅沢と幸福を手にしてるんだろうと
いつもいつも思う。

意識せずとも

常に感じる事が出来るものがある。

それは肉眼で見る事が出来るものであったり
ただ感覚的に『ある』と確信出来るものだったり。

そういうものについて問われる事があるけれど
私はいつもそこに明確な答えを返す事が出来ない。

何故だろうと思っていたのだけれど
それは多分、常にそこにあると感じ、確信する事が日常だからだ。

私が過剰に言葉を重ねようとする時や
ただ笑顔と短い返事で返す時はそういう部分に言及された時だと思ってね。

何も言いたくないってわけじゃないのよ(笑)。


20020928 完璧なマニュアル

最近

男女問わず結構多くの方から聞かれる事がある。

『どうしたら肌の状態を良く出来るの?』
『どうしたら髪の状態を良く出来るの?』
『どうしたら薬に頼らずに健康状態を改善出来るの?』
『いい状態を維持するにはどうしたらいいの?』

こういった事を聞かれるのは別に私が
『(人間離れした)特別に綺麗な髪と肌』を持っているからではないし
『一切の病気等をした事無く恐ろしく元気な奴だから』というわけではない。

一旦、身体のあちこちが傷んでしまって、それを回復させたからだと思う。

回復させる為に私がした事は決して難しい事ではない。
逆にシンプルな事ばかりを『続けた』だけである。
だから単に『私が自分の身体で試した事』についてはいくらもお話出来るし
使用したものの『基本的な使い方』と
『私が使用した場合に起きた事と対策』についてもいくらもお話出来る。

けれど『万人に対して完璧なマニュアル』は持っていない。

即効性があり、継続の必要がなく、一切のトラブルがない方法も知らない。

私がやったのは無関心になりがちで
ついついいい加減になりがちな生活の根本を見直す事である。
単に身体の一部だけを外側からのアプローチのみでどうにかしたわけではない。

自分自身の生活を根本から見直す事をすると
どうしたって色々と変えていかなきゃならない事が出てくる。
そこで大した手間がかからなくても
今までとは違う事をする、というだけで、それが『手間』に思えたりもする。

『何かを変えるのはいや』『即効性がなくちゃいや』
『自分にぴったりな方法を教えて』『全てお膳立てして』
というような事をぶつけられる事があるが
はっきり言ってそれは私にはお答え出来ない事である。

自分で自分の心身と生活に関心を持ち根本から改善するという事は
本人が自分自身のオーソリティになるくらいの気持ちが必要だと思う。
変化や新しい事を厭わずに自分自身と相談しながら模索していく根気も必要だと思う。

私が提供出来るのはあくまで『私の経験による情報だけ』なのだ。

もちろん、私が相手の体質や生活にある程度詳しければ
自分の経験や人様から頂いた知識に基づいて
『有効であると思われる事』くらいはお話出来るのだけれど
完璧なマニュアルを求める方に対して
完璧なマニュアルの存在自体を信じていない私は何もお話出来ない。
身体なんてものはその時々によってどうにでも変化してしまうと思う。
完璧なマニュアルの存在を探すよりも
臨機応変に自分の状態を見極めて何かを施す方が建設的だと思うから
完璧なマニュアル作成のお手伝いだって出来ない。
自分が自分で面倒を見なきゃならない部分まで
私が手を出して、どうにかする事は出来ない。

自分自身に対して何かを実行し、継続するのは常に自分自身だと思うから。


20020929 入口

入口は

常にそこにある。

そして多分無数にある。

全ての入口に気づこうとは思わない。

必要な入口や求めている入口には
アンテナを張り巡らせている限り必ず気づくはずだ。

入口を誰かが指し示してくれる事もある。
『世の中にはこんな入口もあるんだよ』
という一言がなくても指し示してくれる事もある。

それが入口であると気づく事が出来た時
指し示してくれた人がドアを開けてくれるのか。

私はそんな事は望まない。

ドアの開け方が分からなくて試行錯誤した挙句
ドアの開け方のヒントをくれる事はあるかもしれない。

上手く手が動かない時に
身体を休める事の必要性を教えてくれる事もあるかもしれない。
怯えてドアに手を伸ばせない時に
ドアノブを見なさいと教えてくれる事もあるかもしれない。

けれど、実際にドアを開けてその先へと進むのは
やはり自分自身なのだと思う。

入口から先は無限の可能性を秘めている。

ドアを開けて自分で足を踏み入れるかどうか。

それはきっと、可能性を可能性のままで終わらせず
可能性を自分が望む現実へと変えていく事だ。

笑い声を聞くと

ホッとするし嬉しくなる。

ただ笑ってくれてるだけで
何かを話してくれているだけで
花が開くように温もりが広がる。

だけど笑ってくれない時でも
ただそこに生きててくれる事が
とてもとても嬉しい。

兎のしっぽは

小さくてふかふかで

座ってしまうとよく分からないほど

小さくてふかふかで

可愛いしっぽが見たくて

可愛い尻尾をつつきたくなって

尻尾を見せて

とお願いしたくなる事があるけれど

尻尾が見えても見えなくても

そこにいるのはいつもの愛すべき兎

尻尾が見えなくても大切な兎


20020930

感情が

波立つ時がある。

波の動きや高さに名前をつけると
『淋しさ』や『嬉しさ』や『哀しさ』や『喜び』になるのかもしれない。

波は時に高く大きくうねる。
そして、いとも容易く心を飲み込んでしまう時がある。

どうにも気の小さい私は
かつては随分と波に抗った。

波を恐れ、飲まれた先に待つのは小さな死のみだと思い込んでいた。

淋しさの波は身動き出来ない程の孤独感と向き合う機会をくれる。
嬉しさの波は見過ごしている幸福を教えてくれる。
哀しさの波は自分が感じた痛みと向き合う機会をくれる。
喜びの波は自分を不要にコントロールしようとする意図を吹き飛ばしてくれる。

甘えたくなる時、心細くなる時
私の前にやってくる波の名前は『不安』である事が多い。
不安という名前の波はとてもとても苦手で
泣く事も忘れて飲まれないようにと必死で砂を掴むばかりだった。

不安という名の波は何故起こるのか。
不安と恐怖は何故いたちごっこをするのだろうか。

それは未知のものを恐れる気持ちがあるからかもしれない。
確信できないという事が恐怖と不安のいたちごっこの理由なのかもしれない。

不安の波が教えてくれるのは
私の目の前に『未知』知らないもの、今は知り得ないものがある
という事のように思う。

そして、確信出来ないものはそこにないもので
未来永劫存在しないものなのだという思い込みを
強く強く否定してくれるように思う。
同時に『知らないものはそこにないもので否定すべきもの』ではなく
『確信できないものは存在していないもの』でもないという事を教えてもくれる。

今でも不安を抱く日はある。
そして、不安という名の波と顔を合わせた時にはいつも思う。

自身の中に多くの未知を秘めた人が
『いつだって連絡してきていいんだよ』
そう何度も言ってくれた声を思い出せる。

ああ
怖がらなくていいんだ。
扉はいつだって開かれている。
鍵などかかった事はただの一度もない。

波は私に幸福をもたらした。