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20040601

その日

彼女は『ズルイよ』と零れない涙で胸と喉を塞がれて

あんなに鬱陶しそうにした癖に
あんなに苛立ってみせた癖に
あんなに邪魔にしてた癖に
今更ズルイよと苦しそうに笑った。


ワタシの事ではないから
ワタシは見てるしか出来ないと知ってるから
肯定も否定もしないでただ静かに聞いて。


彼女の幸福論はワタシの裏側にあるようなもの。

彼の幸福論をワタシは知らない。


だけど少しズルイよねと
声に出さずに喉の奥で呟いた。




そして電話が鳴って
メールが届いて
お腹の中で命を育てる友人と話して。

幸せそうな笑い声と
その向こうにある彼女のパートナーの温かい視線を感じ
深い呼吸で私も笑った。

哲学なんてものじゃないが
彼女と私の「ある真実」はよく似てて
甘ったれて、欲しがって
ないモノねだりで泣き喚くのが女の能じゃないよとまた笑った。




ケンカ相手の不在で猫が寂しがって甘く鳴いて
ここにいるよ、とタイムラグ有りで声をかける。

四六時中猫だけを見てはいられないから
ワタシの視線は猫だけを捉えている訳じゃない。

けれど耳は、皮膚は猫の方も向いていて
四六時中の抱っこも
四六時中の優しい声もあげられないけど
あの子様子をちゃんと捉えている。


寂しがりのあの子にはそれは分からないのかもしれないけど
だけどワタシはあの子の様子を逃さないよう耳と肌を欹てている。

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20040602

昨夜のメール

は幸福で

冗談めかしても

笑ってみせていても

冗談じゃないと知ってるから幸福で

感謝と幸福感を込めて返信。


私も冗談めかしてみるけど
笑いながら言うけれど

私だって誉める時は常に本気。


だから尚の事昨夜のメールは幸福。

『晴れるって言ってたんだけど』


「濡れたっていいじゃない」

『傘がないの』

「傘がなければ濡れて歩けば済むじゃない」

『でも』

「でも?」

『傘がないと歩けないじゃない』

「傘がなくたって歩けるじゃない」

『濡れちゃいけないの』

「濡れたっていいじゃない」

『傘がないといけないの』

「傘がなくても生きられるよ」




あれがなくちゃ、これがなくちゃ

ああでなくちゃ、こうでなくちゃ

その為に何をしたのか知りはしないけど

我慢という脅迫を盾に、開き直りという逃げをを盾に
チョウダイヨと泣いて喚いても

私はアナタの王子様じゃないから何も何もあげられない。


アナタはお姫様じゃないからアナタの王子様は多分この世にいない。


エゴイストでマゾヒスト。

ヒューマニストのふりをして感情論で逃げた。

虚勢に敵愾心。


脳の中だけで生きていくならそれもまたよし。


だけど

脳の外に出ようとしないのなら

きっとずっとずっと孤独だと思い込んだまま。


だからその人はあの人に電話なんかしないんだろう。

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20040624

本当に何事もない年など

一生ないだろうと昨年12月の日記に書いた。


その通りであるとしみじみ思う。

悪い事は起きていない。

しかし、思い知らなければならない事を
または覚悟を新たにせねばならない事を
私に再確認させる出来事や


恐らく、試練だとか、越えるべき壁だとか
そう呼ばれる類の事や
正直、全く思いがけなかった事
いや、青天の霹靂としか言い様のない事が起きていたりする。


安楽椅子の上にいるような気分では当然ないが
気力の量が以前より格段に多いのか
体力も以前の1.5倍にはなっているからか
倒れこむ事なく、自分の面倒を見忘れる事もなく日々を生きている。


このような有難い『自分を試される出来事』が起きる度
なんだかんだ言いつつも心の中で手を合わせる。


自分の小ささ、自分の拙さを思い知らせてくれる出来事が
学ぶべき事や進むべき部分が多々あると教えられる出来事が
私を慢心させず、弛緩させない事が本当に有難い。


慢心すれば、ずっとこのままでいいやと思ってしまえば
私は多分ただの肉と骨で出来た木偶でしかない。


自分を省みるチャンスを投げるようになってしまえば
失うものが多いどころかがらんどうの肉の塊にしかなれない。


安楽椅子の上に居ない今に心から感謝する。


つまりこれも幸福の一部だって事。

そんな

安楽椅子の上に居ない時期だからこそだろうか

ある時期を以前より踏み込んで振り返る事が出来た。


いや
個人的な経験から思うに
安楽椅子の上に居ない時期にこういった変化を誰に指摘されずとも
冷静に観察し、実感出来るのは
着実に歩を進めている事の現われである。


一度クリアしたと思った事にしろ
ああ、もうこれで大丈夫だと思った事にしろ
やりつけずに来てしまった事というのは
何度も反復して目の前にやってくる。


波の様に繰返して打ち寄せる。

復習する為に、とでも言うように
現段階の自分を試されるかのように繰返して打ち寄せる。

そして回を重ねる毎にその波が徐々に徐々に小さくなるのだ。

いや、波が小さくなるばかりではないのかもしれない。

時には、かつてとてつもなく大きく見えた波が
簡単に自分を沖へと攫った波が
小さく、ほんの少し身体を揺らす程度に感じる事もある。


つまり気づかぬうちに少しずつ自分が大きくなっているという事なのだろう。


この件を振り返るのには結構な勇気が要ったものだ。

実際にはそんな事はないのだが
当時味わった凶暴で大きくて
抗いようのない波にまた攫われそうな恐怖感が残っていたのだ。


今でも振り返ると波に揺られる。

けれど沖まで攫われる事はない。

ほんの少し波が強い日の遠浅の海に居るような感じだ。


お陰で見落としにも
忘れかけていた事にも
当時は思いもしなかった事にも
また当時から理解し、実感していた事にも
改めて気づく事が出来た。


安楽椅子から降りている時間も悪くないじゃないかと
こんな瞬間には必ず思う。

雨の一日だった

肌寒さと蒸し暑さが同居する日。

全ての呼吸器官を塞ぐ湿度に満ちた空気は思いのほか軽く
目に見えない水の粒の代わりに夏草の匂いが鼻腔を満たした。

ただ歩く。

思考は排除してただ歩く。

だからだろうか。
10数年ぶりに大きなカタツムリを見つけた。

出来ない理由と

やらない為の言い訳の境界線は案外曖昧だ。

けれど、それは損得勘定抜きに自分を観察する存在からは
明確過ぎる程明確に見えてしまう時がある。


出来ない理由は本来非常に明確だと思う。
なにせ『やろうと思っても出来ない
(または今やるのは得策ではない、今やると後に支障を来す)のだから。


やらない為の言い訳は
周囲からの批難を避ける為でもあろう。

同時に、失敗した時の自分への失望を味わわない為でもあるかもしれない。

また、見たくない現実や事実から逃げ続けたいが故の行動かもしれない。

やりつけていない事をやれば転ぶのは当たり前だ。
思うまま以上に事が運ぶ事など実に稀なのも当然だ。

最初から上手くやれるなんていうのは
余程素晴しいタイミングで事を始めたか
もしくは知らぬ間に経験値を得ていたか
サポーターや自分自身の状態がベターを超えてベストな状態であるか
という場合くらいなのじゃないかと思う。


自分への失望大いに結構。
挫折も大いに結構。
転んで痛くて泣くのも大いに結構。
という調子で進んで来たからか
私自身がやらない為の言い訳をしてしまった場合
先ず気づいて『違うんじゃない?』と即座にツッコむのは私自身だ。


私にはお得な性質がある。

それは、失敗も挫折も転んだ経験も全て踏み台よ
転んでもタダじゃ起きない、という何故か揺るがない思いと

出来ないならば出来るまでやり続ければそれでいい。
投げれば、止めれば一生出来ないままで泣くのは私だ。
という、これも何故か揺るがない思いがある。


この自分の内側に定着している思いは
実は決して生来のものではない。

完全、完璧主義と飽きっぽさや自分への甘やかしがあった頃は
それはそれは簡単に物事を投げ捨てていたものである。


この性質はここ数年の間に自分の内側に見出して育てたものだ。

安楽椅子に座りっぱなしの生活はもう何年も送っていない。

が、時々安楽椅子に身を委ねる日々だからこそ培う事が出来たものだと思う。


三年寝太郎は私には不要な考えなのかもしれない。

奔放だの破天荒だのと言われつつも
案外内情、いや、実情は
石の上にも三年、と地道なものだったりするのだ。

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