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20041201

やっぱり今年もうっかり忘れてしまった。

感謝だけは忘れずに居たのだけれど。

うさちゃんと話している最中に

『ちょっと待った!もう一日じゃん!』

と言われても「11月30日の次は12月1日じゃん。」

くらいにしか思わず

『おめでとう』

と言われて一瞬考えて「あ!あぁ!そっか!ありがとう。」

とお返事する始末。


目出度く33回目の誕生日を迎えたというのに。

ぞろ目で喜数二つ並んでなんだか縁起が良さげだと言うのに。


ただ、今年もまた親しい人達に、関わって下さる方々に
支えられ、学ぶ機会を頂戴しながら33回目の誕生日に漕ぎ着けた
という事はちゃんと覚えている。


親しくして下さる方々に

なんらかの関わりを持って下さる方々に

改めてお礼申し上げます。

ありがとう。

また一年、無事に過ごせました。

来年の今日の日までまた一年間よろしく。

自分の誕生日がにゃんこの四十九日とは。

目出度いんだか、目出度くないんだかよく分からない巡りあわせだ。

うさちゃんは言う。
いい事で悲しい事を相殺しようとしてくれたんじゃない?と。

私はそうじゃないと思う。

だって、そこまで私に気を遣う子じゃなかったから。

目出度いんだか目出度くないんだかは分からないが
四十九日である今日はある意味区切りであるわけだし
四十九日も33歳の誕生日も一度しかないのだから、と
あの子が生前凄く食べたがっていたもののひとつであるお寿司をとった。

四十九日という事もあって母もこちらに来ていたので
遺骨一匹分と大人二人で食卓を囲んだ。

一緒に食卓を囲みたがっていたあの子にはこれでいいのじゃないかと思う。


遺骨を食卓に移動させようと骨袋を抱いた時、生前のあの子の匂いを感じた。

少し甘くて、お日様の匂いが混じった子猫っぽい匂い。

天気のいい日、ガラス越しじゃない日向に感じる温もり。


私は本当にあの子が好きで好きで、可愛くて可愛くてならないのだな、と
幻のようなあの子の匂いを感じて思う。


きっと、こんな誕生日は今年以外にはないだろう。


20041209

先日、友人と話していた時の事。

友人(♂)は、実に男気のある人なのであるが
同時に大変なさびしんぼでもある。

時期が時期でもあるので、クリスマスや年末年始の過ごし方が話題になったのだが
今年の彼は、厳密には独りきりではないようであるけれど
心境的には独りで過ごす事になっているそうだ。

私の場合、クリスマスや年末年始にひとり
というのは特に珍しい事でもなく、特に淋しいと思う事でもないのだけれど。

年末年始については、父方の祖母の存命中は
毎年自宅の大掃除と祖母宅の大掃除、父方の身内全家族分の御節作り
とバタバタ動き回っていたし、祖母が亡くなった後は
祖母の味が好きな父の要望で、現在只一人『祖母の御節の味を再現できる人間』
として、うちの分だけではあるけれども御節作り。

また、父と母は自分達二人が暮らす家の大掃除をするので
本宅である筈の我が家の大掃除を数日かけて一人で済ませてきた。

そんなふうなので、クリスマスイブ辺りには買出しやら
大掃除前の不用品処分、整理でバタバタしてきた。

まぁ、上記のような過ごし方だから、とまでは言わないし
元々の私自身の性質もあって、淋しがる暇など皆無であった。

正直、イベントなぞ一切入れずにのんびり一人で寝正月
というのは年末の忙しさを癒す為にはかなり嬉しいものでもあるし。


しかしながら、今度のクリスマスと年末年始は淋しいというより
寒さが骨身に沁みる予感がしてならなかった。

理由は、勿論あの子の不在である。

ただ一度を除いて、年末年始は毎年あの子と一緒であった。

大掃除の最中、一息吐こうという時にはあの子の柔らかい毛皮があり
御節の準備の為に台所に立ちっぱなしの数日間にも
足元で柔らかく鳴いたり転がったりするあの子が居た。


年始には毎年『若水』を汲む。

その年、一番最初に汲んだ水を『若水』と呼び
その水で沸かした風呂に入ったり、その水を飲んだりすれば
その年一年間は無病息災である、という話を何かの本で読んで以来続けている事だ。

流石に、真冬の早朝に猫をお風呂にいれるのは風邪が怖くて出来なかったが
元旦のあの子の朝食時に出す水は若水であった。

今度は、それを一緒に飲む事は出来ないのである。


淋しいが、現実だ。

また、淋しいが嘆いてはいない。

あの子の居ない生活は少しずつ、しかし着々と出来ていっている。

けれど、骨の内や胸の内が、まだスカスカとしていて
どうにも心許ない瞬間もないとは言えない今
安心出来る人と場所とでクリスマスと年末年始を過ごす事にした。

今は、あまり無理と意地は張り通したくないのだ。

イベント事にあまり頓着しない、と以前ここでも書いた。

本気ではないが、仏教徒だからクリスマスを祝わずともいい、とも。

が、実際は違うのだ。

特にパーティーだなんだをしないのは事実だ。

いいホテルにいいお部屋をとって、クリスマスディナーをとって
シャンパンを啜りつつスウィートなクリスマスを過ごす
なんて事をしないのも事実である。

が、クリスマスそのものを祝わないわけではない。

キリスト教信者ではないし、近所に教会がある訳でもないので
ミサに出るわけではないし、家族でひっそりと祈り、祝う、という事はしない。

一人でこっそり祝うのである。

と言っても、一人でシャンパンやご馳走を平らげる訳ではない。


あくまで私個人の勝手な印象なのであるが
クリスマスというのは、人の心に『天使』が降りて来る日である。

張りつめた気持ちも一時的に和らぐ事もあるだろうし
塞ぎこむ気持ちがほんの少しでも華やぐ日であるかもしれない。

和らいだり華やいだりした気持ちから
いつもよりほんの少し優しさを持てる日であるかもしれない。

私個人にとっては、自分を省みつつ、自分の外側に思いを馳せる事を
促してくれる天使が降りてきてくれる日だ。

私は只人なので、何かと足りない。

傲慢な所もあろうし、感謝が足りない所も多々あるだろう。

また、所詮人なので我が身が一番可愛いという所もあろうし
基本的に自分の為に生きる(己の頭上の蝿すらおえぬ事もある身なので)
というスタンスであるから、思いやりが足りない事も多々ある筈だ。

なので、そんな我が身を省みつつ、ほんの少しではあるけれども
自分の外側に気と目をやり、出来る事をしつつクリスマスを祝う。

出来れば皆が幸福である方がいい。

出来れば皆が苦しんでいない方がいい。

出来れば無為な争いなどない方がいい。

だから少しだけ多めに募金なぞをしたりしつつ、ただ祈る。

こういった事を考え、小さくとも行動に移す機会を与えてくれた
キリストというお方の生誕の日を感謝を込めて静かに祝う。

今年のクリスマスも出来るだけ皆が温かく、幸福に、平和に過ごせますように。

毎年同じ内容の祈りで、天上のお方も聞き飽きておいでかもしれないが
恐らく今年のクリスマスもそんな事を胸の奥で呟きながら静かに過ごす事になるだろう。

何故、淋しいんだろう、と聞かれた事があった。

もしも、淋しさに理由があるとしても、その理由も経緯も人それぞれで
相手の話をよくよく聞いて私なりに思う所を話すしかなかったし
聞いたとて、相手も全てを話しきれる、表現しきれる訳でもないし
私自身も聞いた事から全てを理解する事も出来ない。

だから、ただ話を聞き、思う所を話し、また聞いては思う所を話す
という位の『会話』しか出来なかったと記憶している。

よって、彼らや彼女等が求めていたであろう『回答』は出せていない。

出せなくて当然ではあるのだけれども。


ただ、最近思った事がある。

淋しいと感じる時、それは『共有する誰か』が居ない時なのじゃないか、という事だ。

同時に、上記の事から『誰かと何かを共有する喜びを知る人』が
『誰かと何かを共有する喜びを得られないと感じる時』や
『誰かと何かを共有する喜びを得たいと思っている人』が
『誰かと何かを共有する喜びを得られないままで居る』
という時にも『淋しい』という感覚に陥るのじゃないか、と。

勿論、これは淋しさを喚起させるもののひとつでしかないから
結局は何度も色んな人に問われた淋しさの理由の回答ではないのだが。


上記の事に思い至った理由は、やはりあの子の死であると思う。

何かと多くの事を共有してきた。

生活そのものを共有してきたのだから当然なのだけれど。

持ちつ持たれつ。

共依存ではなく、相互依存。

あの子と過ごした日々を思うとそんな言葉が浮かぶ。

癒着も非建設的な共依存もなく、ただ互いの存在がある事で幸福。

なんだかんだ言いつつも見返りを求めてどうこうする訳でもなく
注いだものに笑ったり喜んだりし合う事で幸福。

何をしてくれるから、何をしてあげるから好き、必要、ではないから
愛情が相手の行動に振り回される事なく自分の内に、相手との間に在る。

私にとって、これは『他者と何かを共有する喜び』を
しっかりと自分に学ばせ、感じさせる日々だった。

だからだろう。

その存在を亡くして、『淋しい』と感じるのは。

自分が淋しがっているのだな、と静かに自分を見ていられる今が嫌いではない。

感情や五感が生きているのだな、と静かに感じられる事は多分大事な事だ。


自分も誰かの不在を淋しく思う所があるのだな
という発見めいたものに直面するのは不愉快でも退屈でもないのだから。


未だ、他者に問われた『全ての問いに通ずる回答』には至らない。

恐らく一生、そんなパーフェクトな回答には至らないだろう。

ただ、その欠片かもしれない何かに出会っている事だけをここに記しておこうと思う。