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20050302 芽吹きの前

もう春になるのだな、と朝夕に思う。

ほんの少し前までは17時にもなれば外は藍に染まっていたのに
気づくと何日前からだろうか。

17時を過ぎても彼は誰時とは言えぬ程に視界が明るい。

朝、目を覚ましカーテンを開けても眩しい陽光が目を射抜く事はない筈だったのに
今では曇りの日の空すら眩しく感じるこの目を開けていられない程に
明るく、また暖かくふくふくとした光が部屋に飛び込んでくる。

もう、春になる。

まだ衣替えには早いけれど、もう春が来る。

今年は家人と花の香を含んだ空気を味わいながら
手弁当でも持って何処かへ出かけたいものだ。

暦の上ではもう早春とは言えないけれど、桜の時を共に味わう前に
梅の香、桃の香、木蓮の香を味わってみたいものだ。

春という一見穏やかに思えそうな時は実は慌しい。

芽吹きを目前に控えた時だからこそ、激しく脈打つ様子は木にも草にも見えない。

しかし、その静かに芽吹く時を待つ今だから、目には見えねども
耳には聞こえずとも何かが慌しく動いていると感じる。

恐らく、人もそうだろう。

芽吹きの時、流れをはっきりと感じるであろう新しい春が目の前に迫る時。

期待感と共に、足元がふと揺らぐような不安を抱える事も当然あろう。

春は目前である。

季節の移り変わりと時の流れから逸脱する事は恐らく誰にも出来ぬ事。

流れに飛び込むまでの辛抱だよ、と、私はある人に言いたい。

自分で思う程泳ぎが下手でもなく、自分で思う程ろう長けてはいない年若いその人に。

よく言われる。

落ち着いている、冷静、理性的、合理的、感情の起伏がない。


そういう時は「つまりアレでございますか。だいぶ枯れて老け込んでいると仰るか。」
と軽口めいた言葉を返し、相手を笑わせたり焦らせたりして話を流す。


確かに、対外的には冷静な方であろうし、理性的でもあろう。

また、不合理こそが不可欠であると思えない場面と関係においては
ひたすらに合理的に会話も物事も進め、処理していく側面がある事も否定しない。

感情の起伏云々については、余程腹を割った相手の前でなければ
無意識のうちに強力なリミッターが作動する性分なので
はいはいと愛想よく笑う事はあっても、ネガな部分は先ず見せる事がない。


そんな風だから、いつも変わらぬ調子で生きていると思われるようである。

なるほど、そう解釈して頂けるならば、こちらもいちいち内情を探られたり
腹の奥に手を突っ込ませろと迫られるのを毎度いなす手間も省けてよろしい。


が、当方も人間である。

生き物である以上は季節や時の移り変わりに合わせるように
気持ちも体調も移り変わり続けているというのが本当の所である。


実は現在、異常にテンションが低い状態にある。

些細な事に神経を尖らせる事もあれば
普段は気にも留めない事が気にかかってしょうがない日もあるし
考えてどうこう出来る話じゃなく動いてなんぼ、の話だというのに
どうしたものだかねえ、と、椅子の上でただただ考える日もある。

こういう時、お日様がありがたくてしょうがない。

窓際で、ベランダで、洗濯物や布団と一緒に
風に晒され日に干さりながら目を閉じる時間が実にありがたい。

昨日友人と話した時にもそんな話をしていた。

お互いそれなりの経験と時を積み重ね、随分と落ち着いたものだね、と。

晴れた日の陽光がありがたく、また、私なぞは神仏の前に座して
手を合わせ経を読む時と禊ぎ大祓をあげる時がありがたいよ、と。

彼女も、わかるわかる。心が穏やかというか平和になるよね、と答えた。


きっと他の人が聞いたら『アンタ達はお年寄りか』って言うんだろうね、と二人で笑った。


彼女にしても私にしても、恐らく傍から見れば
安定した足場に立ち、心が乱れたり、不安に思う事があったり
なんて事は先ず起きない身の上であると思われがちだと思う。

しかし、仮に外からはそう見えても、外野には分からぬ事が
身の周りに、身の内に起こる事はそれなりにあるというものだ。


気にするだけムダだと頭じゃ分かってるのにね、と笑いながら
外から見るだけじゃ分からぬ事、当事者達にしか分からぬ事はやはりままあるのだな、と思った。

物欲はそう強くない方であるらしい。

全くないとは絶対に言えないが、どうしてもアレが欲しいから
と必死になって何かを買い求めたり、ローンを組んでみたりという事はしない。

もし、そういう性分であれば今ごろ着物まわりのローンを幾つも抱えていただろう。

うさちゃんとの会話じゃないが、『来る時は来る、来ない時は来ない』
『時が来るまで充電しつつ待つべし。果報は寝て待て、だ。』と
夏物がどうこう言いながらも繋がる縁を指に絡める時を待っている。

しかし、それは無欲である、という事ではない。

自分の中では欲があるからこそ、そうして静かに待っているのだと感じている。

獲物を狙う動物はジタバタ焦り、慌てる事はそうはない。

辛抱強く空腹を抑え、食欲を自分の生に繋げる原動力とし
捕食という行為に繋ぐように静かにじっと待ち、狙うものだと思う。

慌てふためき焦りながら追い掛け回せば獲物に逃げられ
それを繰り返せば自分の命を失う事もあると、彼等はよく知っているのだと思う。

そんな様子を見る時に思う。

欲があるのは当然の事。

生きる為の欲ならば尚の事存在するもの。

しかし、その欲を生産的な方向に進む原動力とするか
欲に翻弄され非生産的な方向へと転がっていく選択をしてしまうのか
恐らくそれによって欲の質と、欲の正否めいたものが決定づけられるのだろう、と。


私にも欲がある。

物欲ではないが、欲そのものは確かにある。

目に見える何か、手で触れる確信が欲しくて堪らぬ日もある。

その欲が主たる私を翻弄しようとする時もあるし
翻弄されそうになって足をばたつかせる事もある。

そういう時に必ず思い出せるようでありたい。

果報は寝て待て。

芽吹きの前にムダに消耗しちゃリターンが減るものよ、と自分に教えてやる事を。

どうせ新芽を出すのなら、盛大な花吹雪と強くしなやかな根と幹を持ち
何度でも新芽の後に目も眩むような花吹雪を散らしたいと思うからだ。

だから思うのだ。

私には物欲どころではない深い深い欲がある、と。

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