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と、我が国の現首相は言った。
個人的には『その言い方じゃ色々と端折り過ぎだろ』と思っている。
改革、という言葉を便利に使っただけの話だ。
改革、なんて大げさな言い方をしない方が、恐らく一般庶民には伝わるんじゃなかろうか。
古い習慣や思考を一旦チャラにして、新しい何かを作り上げる
という行為が庶民の間でも当たり前に行われているとしたら
それを表現する際によく使われるのは『変化』という言葉だと思う。
今まで自分が何の疑いもなく信じてきた考え方や在り方
それまで手をつける事の必要性すら感じなかった自分の内側にあるもの。
それらを『創造』『生産』という方向に繋げる為に変えていく事は
それなりの痛みなり、慣れぬが故の勝手の悪さなりを感じるものだ。
ただ、日常を暮らし、変わらぬ毎日を送っているように見える誰かも
ここでつらつらと文字を言葉を綴っている私も
何時だって変化に伴う何らかの痛みなり、なんなりと隣り合わせに生きている。
ただ不慣れだから、勝手が違うから、というだけではない。
戸惑いや困惑。
それが自分自身に向けられるからでもあろう。
違う言い方をするなら、自分の変化に自分がついて行けない瞬間があるから、とでも言おうか。
変わり行く自分を冷静に、そして客観的に、同時に少々多目の楽観性を持ち
見続けていられる時ばかりならば、どうという事もないのだろうが
自分自身の変化が予想だにしないものだったり、余りに急速なものだったりすると
ちょっとしたきっかけで冷静さも客観性も楽観性も見失う事がある。
何かを見失う心細さ、急速な変化に着いて行けない自分への不安。
それらは時に痛みを呼ぶ。
忘れたくないからだ。
また、自覚を深めたいからだ。
記憶力はいい方だけれど、心に関する事は忘れてしまう事がある。
あれもこれも、とやっているうちに、日々を当たり前のように暮らすうちに
心に関する事を忘れ、時に自分が忘れている事すら気づかず
人が人を責め、人が人を傷つけ、自分が自分を責め、自分で自分を抱きしめられなくなる事がある。
人間はなにかにつけ忘却の生き物だ。
苦界と呼ばれるこの世を生きる為に授けられるか得るかしたスキルが忘却だ。
だから、忘れる事そのものはおかしくもないし、悪い事でもない。
しかし、忘れる事によって生き易くなる事ならば幾らも忘れたいが
忘れる事によって生き辛くなるような事は出来る限り忘れずにいたいし
万が一忘れたならば、何が何でも思い出したいと思う。
それは他者には見えない物である。
同時に、忘れるという言葉に言い換えられてはいるが
何処かにしまわれたり、中々出せない所に収められたりするものである。
記憶が消滅する、という事は基本的に有り得ないのだと聞いた事がある。
失った、消え去ったように思えても自分の中の何処かに収納されているのだ、と。
古い古いアルバムがあったとしよう。
そのアルバムは頻繁に見る必要はないものだとしよう。
そういう物をしまう時。
頻繁に使用する物をしまう場所にはしまわない筈だ。
機能性、合理性を考えて、
よく使う物は出し入れし易い場所にしまうのが収納の基本である。
脳の中も恐らくそうだ。
しかし、滅多に使わない筈の物や、もう奥の方にしまっておく方がいいものでも
何故か毎日使うデスクの引き出しに入っていたり、
服のポケットに入れっぱなしにしていたり
という事があるのと同じように、
記憶も、その事象とそれに纏わる感情の整理が出来ていないと
一番具合がいいように収納する為の最初の作業である「分類」すら出来ず
とりあえず一番手近な所に入れてしまったり、ヘンに目に付く所に置きっ放しにしてしまったりもするのかもしれない。
そうしている間も私は思う。
結局は意思の力である、と。
最終的にどうありたいか、どう生きたいかは自分が決めるのだ。
せっかちな部分が顔を出して、その意思を挫こうとする時がある。
そんな時、自分がある事を忘れているのだと今は思う。
忘れているのは『過程である』という事だ。
生きるという事は過程の連続の中を進むという事だと思う。
急ごうとする時、焦る時、自分の中の気づきもせず忘れ去って置き去りにした疲労に出会った時
そういう時にはよく『過程である』という事を心が忘れがちになる。
得手じゃない事に関する反復は疲れもするし、早く終わらせたくもある。
しかし、それすらも『過程である』という事を忘れず、自分の意思を維持し、
それを信じていれば苦ではなく『学び』という発見と喜びに満ちたものである。
これも忘れそうになる事がある。
だから今日、こうしてただ綴るのだ。
自分の為に。