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それは侭ある。
単にその段階では理解出来ていない理屈やら
苦手とするネタについては一朝一夕に理解しました
とはとてもじゃないが言えないし
分からないではないが、じゃあ本当に自分がそれを理解しているか
というと、そうは言い切れないだろうと思える事だってあるし
理屈や筋道は頭で理解出来てもしっかり腑に落ちた、未消化感がない
と思えていない事については「はい」とは言えない。
何が真の理解であるのか、何をもって真の理解とするのかという基準を
私自身はまだ持ち合わせてはいない。
ただ、落すに相応しい場所にストンと何かが落ちる感覚というのは知っている。
まぁ、妥当な落しどころのような物が恐らくあって
そこに上手い事何かがはまり、いい塩梅に収まるとでも言おうか。
せめて、そんなような感覚にでもならないと
『うん、分かった』と断言する事は出来ない性分なのだろう。
『分かるか』と問われても必ず『はい』とは言えぬ事はまだある。
それは、他者の心、気持ちである。
先ず心ありきを濫用しての話は好きではないので
それを盾にされた場合は理解も何もあったものじゃないな、というのが本音で
己が肉と骨と皮、そして心、気持ち等の目に見えるものと見えない物の両方で出来ている
つまり、どちらが欠けても己は己として存在し得ないという事を
すっかり忘れて振りかざされる話に常に臨める程の慈悲の心は
少なくとも今の私の中には非常に小さな面積しか占めていない。
ただ、それでも、そう訴える他者の気持ちを理解したくないとは思わない。
理解というもの自体が何処か掴み所のないものだと思えてしょうがないけれども
それでも『理解されている』『理解している』という感覚が生きる上で
必要であろうという事は経験上感じているので理解するべく聞き、考える。
いや、ただ考えるだけでなく、想像する部分も非常に大きい。
自分の経験から想像するに難くない事から、なかなか想像し切れぬ事まで
様々あるけれど、それでも想像する事なくしては理解めいた物の入り口にも辿り着けない。
理解とは想像力である。
と思う事がある。
割とよく聞く言葉に『ちょっと考えてくれればわかるじゃない』というのがある。
例えば、お風呂あがりに次に使う人の事を考えて抜け毛は取るとか
家庭の仕事を一手に引き受ける人に外の用事まで片っ端から頼んでは
相手が疲れてしまうだろうから自分で済ませられる用事は自分で、とか
その程度の想像力が無ければ理解と思しき物には辿り着けないように思う。
よく、思いやりがないから理解出来ないのだ、なんて話を聞く。
それが間違っているとは思わない。
他者を思いやる気持ちを持つ事は理解云々以外についても必要不可欠だろうと思う。
が、思いやりという言葉も濫用すると危険な物だと思うからだろうか
思いやり、優しさを持つ事はいちいち語る事のない大前提である、として
そういった物を持つよう努めながら想像力を惜しまない
という事が理解云々に臨む時に必要な姿勢なのじゃないか、と最近思う。