2002|09|10|11|12|
2003|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2004|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2005|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2006|01|02|03|04|05|06|07|10|11|12|
2007|03|12|
2008|04|07|
選択の責任は常に当事者、または当事者達にある。
結果を導き出す責任があるとしたら
それも常に当事者、当事者達にあるものだ。
何かを直視出来ない時、直視出来ずにいる何かを抱えている時
その責任という現実は非常に重く厳しいものであるかもしれない。
仮に流されてそうなったかのように思える事があったとしても
それは『流される事を選択した』という事に過ぎないとも言えよう。
だから、選択というものを知らぬ年頃や
選択能力がない時代の事を別にしたとしても
常に私自身、意識しようがしまいが、選択し続けてきたのだ。
それが正しかったのか、間違っていたのかは分からない。
後悔はあるようでもあり、ないようでもある。
ただ、導き出されるひとつひとつの結果は皆リンクしており
幾つもの結果から導き出されたであろう今を
間違っているとも、後悔しているとも少しも思ってはいない。
何故ならば、私は常に幸福になって行き続ける為の選択しかしなかったからだ。
勿論、何物の力も借りずに空を飛ぶだとか
空気がなくとも普通に生活するだとか
時間を巻き戻してみせるだとかいうような
自然の摂理に反する事以外ならば、の話である。
しかし、何かをどうにかしようとすればする程
他者に苦を味わわせる事や、雁字搦めに縛り付ける事になり
その事によって己も必要以上に苦しむような事があるとしたら
それは私個人にとっては『不可能な事』となる。
逆に、苦が苦でないと思えるのであれば、それは『可能な事』となる。
この基準は自分の中にずっとあり続ける気がする。
以前も此処に書いたが、苦労は買ってでもしろ、なんてのは
なんとも馬鹿馬鹿しい話だと今も変わらず思っている。
単なる苦労は、苦でしかない。
一切皆苦なんて言われる人の生の中に
単なる苦を増やす事がよいとは少しも思えない。
何かを生み出し、先に進む為の努力も
その過程で味わう少々の痛みも私にとっちゃ苦ではないのだ。
苦ではない。
何があろうと、それは単なる苦にはなり得ない。
そういう確信がない限り、私は選択しないのだ。