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2008|04|
長期間抱え込んだ恐怖感、酷い不安感が胸の内にあれば
それらを喚起するような事が起ころうが起こるまいが辛いのである。
私は欲が深いのか。
それともただただ我侭なのか。
不平不満が多いのか。
己の欲求のままに要求しているだけなのか。
それが噴出さないようにと慎重に、すり足で忍び足で歩くものの
私が不器用なのか、それとも噴出させない事自体がナンセンスなのか
せっかく慎重に足音を忍ばせてそうっと歩いていたのに、
と思う事が思いの外多くてやるせない。
誰の声も誰の目もない時。
それをなんとか葬る事は出来まいか、と悪足掻きをしてみる。
ジクジクと胸が痛み、喉には膨張する石が詰まる。
悪足掻きはもう止せ、と兎は言う。
多分、兎の言う事の方が正しいのだ。
正否は別にしても現実的なのかもしれない。
それでも、己の内でのみ起きた事である、と思いたい性分であるから
止せ、と言われた事が頭にあるというのに悪足掻きを続ける。
せめて、悪足掻きだけでもせねば、と。
しかしながら、悪足掻きをせねば、他者に負荷をかける事もあろう。
自分の内のみで起きた事と判断している事象については
他者の手を借りる、または負荷をかける可能性があるのにサポートを受ける
という行為は困った事に未だ私の中では禁忌とされているらしい。
ましてや自分から口にするのはまるで音をあげているようで
そして唯恥を晒しているようで言いようのない惨めさもある。
だから、兎の『もう止せ』という制止の声を聞いても
キョロキョロと辺りを見回してはとてつもなく重い重石はなかろうかと捜すのである。
そうして右往左往するしかないのだけれど
右往左往すればする程喉に詰まった石は膨張し呼吸も鼓動も不自然なものになる。
浅い浅い溜息は延々と続いている。
さて、光明は何処に。
とちょっと前に書いたものの、何故かこの頃は全然見かけない。
よくよく考えてみると、浴衣姿の娘さんやお坊ちゃんを見かけた日は
お祭りとか縁日とかがある辺りだったような。
なぁんだ。
やっぱり浴衣は特別な日に着るって感覚の人が多いのねぇ。
自分が着物を着るようになってからは人の着姿を見るのが楽しみなのだけれど
和服を着る人が増えるのはせいぜい浴衣の時期位だから期待していたというのに。
そんな訳でちょいとガッカリしているのであるが
まぁ、自分が好きな物を好きに着られる楽しみはそれで消える訳じゃあないので
ちょくちょくイベント事には無関係に浴衣を着ている。
昨日も、早い時間にお風呂を済ませて後はゆっくり本でも読もうか
と思っていたのだが、急に散歩がしたくなったので
そろそろ一度水を通そうと思っていた浴衣を着て散歩に出かけた。
仕立て上がったばかりの、まだ水を通していない浴衣は
パリッとシャキッとしていてなかなか身体に添わないのだけれど
そういう、まるで『まだ懐いてくれていない動物』のような様子も楽しいもので
その浴衣、その生地の特性を掴んで、それに合った腰紐の位置やら
裾線の高さやらを探っていく時の気持ちは
『まだ懐いてくれていない動物と仲良くなるべく観察試行錯誤をする』
といった感じで自分のもとにやってきた浴衣への愛着が深まるものでもある。
そして、(この場合は自宅で洗える天然素材の長着)自分の手で
丁寧に水を通してやった着物は、その度に自分の身体にしっくりと馴染んでいき
どんどん自分の皮膚との距離感がいい塩梅になっていくのだけれども
この過程もまた非常に楽しいものである。
さっきの例えを使うなら『愛情と手間を惜しまず注ぐ程に懐いてくれる』と言ってもいいだろう。
まぁ、そう感じる性分だからメンテナンスに多額の費用を注がず
手間隙をかける普段着物暮らしなんてのが苦にならないのであろう。
それにしても、最近の日本の家屋は着物を着る人間の洗濯にまでも優しくない。
着物が着衣の主役であった昔は、浴衣や木綿、ウール、麻、綿麻位は
自宅で洗うのが当たり前だったのだろうから
やはり洗った長着を干すのに丁度いい場所を確保出来るようにしていたのだろう。
うちの祖母にしても自宅で長着を洗うと縁側の下の直射日光が当たらない場所に
物干し竿を吊るして、それを袖に通して皺になり難いように綺麗に伸ばして干していた。
けれども、今時縁側があって、長着の裾がつかない高さに物干し竿が吊るせて
そこは直射日光が当たらなくて、干した長着の色あせを心配し過ぎなくていい
なんて贅沢な(当家比)家屋はなかなかないのである。
なので、この頃は幼少期に祖父母と両親と暮らした平屋建ての日本家屋が恋しく思える事がある。
瓦葺の屋根にしっくいの壁と塀。
背の低い木々を植えて陰を作った細い道を入ると小さいけれど緑と花が溢れた庭。
庇を長めに伸ばした縁側に座ると木々の間を通った風が鼻を擽る。
磨きこまれた柱に板張りの廊下。
襖と障子に区切られた四つの畳敷きの部屋は全て落ち着くのにいい塩梅の日の入り具合。
夕日の色がたっぷり流れ込んで来る高い位置に窓をつけたお風呂。
湯船は木製で時々きゅっとへりを握ってしまうような肌触りの良さがある。
昔は土間だった所を改造した台所は少々足元が冷えるけれど
広くて天井が高くて、勝手口がある、ホッとするような日本のお台所。
あと何十年か先でいい。
またあんな家で毎日を丁寧に大事に暮らしてみたい。
ただ、その時には私が幼い頃に暮らした家には無かった
『着物と帯専用部屋』を作らなきゃならないだろうけれど。
あの子が亡くなって一年が経つ事になる。
生き物が立てる音というのは何故こんなにも愛しいのだろうか。
生きているからこそ立てる、けれど、何時もは音として意識せぬ音。
寝息。
寝返りをうつ音。
そして世に言う『気配』というもの。
それらは、安心と幸福感を毎日少しずつ確かに与えてくれる。
生き物が眠る姿はどうしてあんなにも無垢で愛しいのだろうか。
私の携帯の中にある、あの子の眠る姿もそうだ。
あの子だけではない。
ハムスターも、兎も。
犬も、インコも。
亀も金魚も。
アザラシも。
愛しいなぁ、可愛いなぁ、と何度見ても思わせる。
それは、とても幸福な事だ。
愛しい、可愛いと思う存在が生きて其処に居る証拠なのだから。
生き物が立てる音と言えぬ程であろう音は
何を意識するでもないその表情と様子は
幸福と安心を産み続け、傍に居る者を癒し、守るのだろう。