1996|11|
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インドのカルカッタに、かつてラーマクリシュナが生きていた。友人が、カルカッタによって、そのラーマクリシュナ・ファンデーションに寄って来た。そこで、彼の本と、音楽テープを数本買ってきて、聞かせてくれた。一聞(一見と違います。一回聞いたところ)、どこにでもありそうな、昔のインド曲に聴こえた・・・んだけど、聞いているうちに、なんだか、とってもリラックスして、僕はそのまま、うとうとと眠ってしまった。そのあとの、何と爽快なこと。すると、友人が、たった数枚だけあるラーマクリシュナの写真を見せてくれた。一見、お百姓さん!って感じだけど、すごーっくパワーがあるやら、なんともいえない感じがその写真から生々しく伝わってきた。
ラーマクリシュナは、日本でいうと、江戸末期から、明治初頭の人物。最初は、キチガイ同然の状態だったという。
友人曰く、「やはり、インドは素晴らしいと思う。ラーマクリシュナのようなキチガイが、守られて、そして、ついに聖者になってしまえるのだから・・・日本だったら、精神病院にぶち込まれて、それでおしまいだろう・・・」
インドには、ぱっと見、わからない世界が、底辺に流れている。先日も、インドは、懐が広いというような話をしていたけど、それは、たとえ、インドで、どんなあり方をしていても、誰も文句も言わないってことなんだ。ゴアに、ヒッピーが集って、何もしないで、毎日のようにチャラス(マリファナ)をすいつづけていても、誰も何も文句はいわない。近年、そんなゴアにテクノ集団がやってきて、かなり派手なことをやったので、インド当局ともめたが、さもなければ、誰も何も言わないで、放任してくれる寛容な社会だ。その底辺には、「人生は、探求のプロセスであり、神を見つけるための途上では、人にいろいろなものごとが起こりうる」というような、暗黙の了解があるのだと言う。仮に、誰かが、日本でいう精神病のような症状になったとしても、インドでは、人に危害を加えるのでなければ、ちゃんと保護される。現代インドでは、それもすたれつつあるかに見えるが、一昔まえまでは、気が狂うことは、許されたという。いや、許されるどころか、場合によっては、かのラーマクリシュナのように、手厚く保護され、面倒を見られたんだ。
ラーマクリシュナも面倒を見てもらった一人。いまでは聖者だが、初期はキチガイ。ただ、ヴェダンダなどの経典にも書かれているらしいが、人が神聖な道をたどる過程において、キチガイ的な現象を通過するのは裂けて通れないのだ。そのことが、伝統的にインドでは受け入れられ、理解されてきた。
キチガイすら、守られ、面倒をみてきたインドでは、ほとんどのことは許される。この世は、探求のためにあり、人の過程には、さまざまな状態が起こるのだと考えている・・・
そのことを、現代では、はっきりとは見ることはできないが、インド人の心理の寛容さ、懐の大きさは、こういう伝統的な理解から来ているに違いないと思う。
こんな話もある。インドでは、スックという言葉がある。これは「キチガイ」という意味なのだそうだ。ただし、日本語のキチガイのもつニュアンスとはまったく違う。スックにはとてもよいニュアンスがあるのだ。スックの別の意味は、幸せ。つまり、キチガイは途方もなく幸せにしていられるということ。昔、インドの村には、必ず一人や二人のスックがいたという。スックは村人により大切に面倒を見られたという。もし、村人が辛い思いをしたり、心配事があると、スックのところに行くのだという。スックのところでは、人は、自分の心配事がいかにばかばかしいかを理解し、再び幸せな気分になって、生活に戻れるのだという、そんな、無用の用として、インドでは、スックは大切にされたのだと。