☆EYE OF THE CHILD





こんな体験はありませんか?



電車のなかでうつらうつら眠ってしまい、はっと驚いて目が覚めてみたら、自分が降りるべき駅を過ごしてしまった!
そう思いこんで焦ったことはありませんか?
でも、こんな体験をする人は少ないでしょうか?
電車のなかではっと目を覚ましたら、自分がどこの駅に向かっていたのかを忘れてしまってパニックしてしまう。
私はいったいどこへ向かっていたのかしら?
そもそもいったい何のためにこの電車に乗っていたのかしら?
電車に乗っていることの理由がわからなくなって、気が動転し、意味もなく怖くなってしまった。

そんな体験をしたことのある人はいないでしょうか?

イギリスのある有名な作家が彼の自叙伝のなかで、電車に纏わる興味深い話しをしていました。

彼はよく電車に乗っていろいろな町へ向かうことが多くて、
その日もいつものように、電車の一等コンパートメントに乗っていました。
車掌が改札でやってくると、彼ははっと驚いたのでした。
彼の額から冷や汗がにじみ出てきました。
というのは、彼は切符をズボンのポケットにしまっておいたと思っていたのに、それが見当たりません。
幸い、車掌は彼が有名な作家だということを知っていて、
「まぁまぁ、ごゆっくりとお探しください」
と言ったのですが、彼は上着のポケットやら、鞄のなかを血眼になって探し始めました。
それを見かねた車掌が、
「まぁまぁ、そんなに焦らないでくださいよ。切符なんてなんとかなるものですから…」
そう言うと、彼はこう答えました。
「切符はどうでもいいだって?冗談じゃない!切符がなければ、私はいったいどこで降りたらよいのか、わからないじゃないか!」

行き先がわからないことは、とても怖い体験です。

行き先がわからなければ、いま電車に乗っているということ自体の意味がわからなくなってしまいます。
意味がわからないということほど、怖い体験はないでしょう。
私にとって、駅の話しというのは、人生についての話しに思えてなりません。
あれやこれやと忙しくしていて、はっと我に返ってみると
「ここでいったい何をしているのだろう?」
「これにはいったいどういう意味や目的があるのだろう?」
そんな疑問がやってきて、でも頭のなかには答えらしきものが見当たらない。
それでどうしていいのかわからなくなってしまう…。

昔から「生きる」ということの意味が語られてきました。
人がどこからやっきて、どこへ行くのか、何が目的で、そこにはどういう意味があるのかについて、宗教や哲学、人生論など、たくさんの本も出ています。
生きる過程のなかで、人はそれぞれにそれなりの生きる意味というのを見つけます。
あるいはそれと反対に、意味はないと、だから、無意味な生を生きるのは、これはとても無意味だから、さっさと自殺をしなさいと、自殺のすすめる本を書いた哲学者が遠いギリシャの時代にもいました。
そのすすめに従って大勢の若者が自殺をしましたが、
不思議なことに、その哲学者は80歳の天命をまっとうしました。

ある弟子が老年の彼に
「あなたは、すべては無意味だから、そんな生を生きるくらいなら、さっさと自殺してしまいなさいと、みなに自殺を勧めています。ではなぜ、あなた自身は自殺しないのですか?」
と聞きました。それに答えて、彼は、
「もし私が死んだら、いったい誰が、みんなに自殺をすすめてあげるんだ!私はみんなのために、意味もない人生を生きているんだぞ」
と叱りつけたといいます。
その哲学者の言う通り、確かに人生には意味はないかもしれないが、少なくとも彼には生きる意味はあったことになりますね。
人生には意味はないと説くことや、ほかの人々を自殺させるという…。

こう考えてみると、人生というのはとても興味深い現象です。
人が生きる意味、
人生の目的はいったい何なのか?
そういう問いにははっきりとした答えを与えることがはできないかもしれないが…、
あのギリシャの哲学者が言うように、仮に無意味なものだとしても、
彼自身には生きる意味があったことからすると、
これは生きる意味というものは、自分で適当に見つけるしかない、
自殺論者の哲学者だって、自殺をせずに天寿をまっとうできた…。

さて、あなたはどうでしょうか?

自分が生きる意味を見出せていますか?

この哲学者のように詭弁的な生きる意味だとしても、
それがどういう理由づけだとしても
少なくとも私が生きているのにはこういう……意味があると言えますか?

ひょっとして私は○○教に入信していて、○○の神様を信じていますから、と答える方もおられるかもしれません。

私も一度、宗教に入信したことがあります。
宗教を信じている間ははとても楽でした。
何より、そこには神様がいましたから…。

神様がいて私たち人間がいて…
私たちはその神様の分身であり、死後の世界、霊界あり、その霊界には地獄もあり、天国もある。
人はそれぞれの行いによって、天国へも地獄へも行く。
人それぞれには天命というもの、天から授けられた使命があり、
その定めに従っていくことがこの世の目的なのである…。

宗教は、明確な人生観、世界観、宇宙観を提供してくれました。
宗教を信じているあいだは、とても楽に、安心して生きることができました。
たった一年足らずの体験でしたが…
生きる意味もあり、
自分がどこからきたのか、どこへ向かっているのか、についての明確な答えがありました。
だから、とても安心していられました。
でも、一年ほどしたら止めてしまいました。
なぜか急に信じられなくなってしまって…。

宗教というのは、まず最初に「信じる」ということから始めなくてはなりません。
信じなければ宗教は成り立ちません。
私の体験では、「信じる」という、その一点だけが、宗教の最初にして最後のより所になっています。
それはとても単純な理由で、いまのところ誰にも神の存在を科学的に証明することができないからです。

私にとって、宗教の体験はイソップ童話に出てくる裸の王様のような話しでした。
ずる賢い家来に、すばらしい衣装を身に纏っていると信じ込まされた王様が、町を歩いている。
通りすがる人々も、
「まぁ、なんてすばらしい衣装なんでしょう」
と感嘆の声をあげる。
最初は半信半疑だった王様や家来たちも、やがてはそれが本当にすばらしい衣装に思え始めてくる。
ただ、一人の子どもが
「王様は裸ですよ」
と言うことで、この童話は急展開するのです。
子どもには信じるという、信じなさいというようなことはまったく通用しません。
始めは半信半疑だった神様も、ほかの人が大勢信じているし、こんな奇跡があったとか、夢に現れたとか…
いろいろと聞かされているうちに、神様って本当にいるんだわと本気になって、
それで信じ始めたわけなのだけど、
ある日、急にぱっと目が覚めたような気がした瞬間に、
すべて作り話しだわと気づいてしまいました。

人生の途上で、何度となくやってくる疑問…
「私はいったいここで何のために何をしているのだろう?」という問い。
その答えを見つけた!手にした!私はこういう意味をみつけた!
そう思った途端に、
その意味がまるでうなぎの手づかみのようにスルスルと抜けていく。
不思議なものです。
そのとき、誰かがあなたの傍らにやってきて、
これが人生の目的で意味ですよと言ったら、
ほら、こんなに大勢の人が信じているのだからと言ったら、
どうしますか?
その答えを聞いてみたい。
本当の意味を知りたい。
この内側の乾きを癒したい。
そう考えたとしても不思議はありませんね。

こんな話しを聞きました。
ある男が森のなかで道を見失いさ迷いあるいているうちに、あたりはもう真っ暗になってしまいました。
それでも森から抜け出そうと、必死に歩きつづけたのですが、極度の緊張と疲労で彼はいまにも倒れそうになっていました。
疲労と空腹、それに何より耐えられなかったのは喉の渇きでした。

「喉が渇いた!」

とそのとき、彼はキラリと光るものを見ました。
よく見ると、それは紛れもない水の輝きでした。
夜空に上る月の明かりに照らされて水がキラキラと光っていました。
「幻覚でも見ているのだろうか?」
よく見ると、それはまぎれもなく器に入っている水でした。
彼はすぐさまその器を手に取ると一気にその水を飲み干しました。
そしてそのまま、その場へぱたりと倒れんで、深い眠りに落ちていきました。

翌朝、太陽の光に照らされて、彼は目を覚し、いぶかしげな面持ちで注意深く回りを見渡しました。
すると、ひとつの頭蓋骨が彼のすぐ前に転がっていました。
その瞬間、彼は昨夜のできごとを思い出して愕然としたのです。
なにかの器だと思っていたのは人の髑髏(どくろ)だったのか!
俺が飲んだのは髑髏に溜まった水だったのか!

なんだかとても怖い話しですが、
この短じかな逸話が人の人生の状態を言い当てているような気がします。
意味を見つけたいという渇き…いったん渇きはじめると、
人は髑髏の水ですら飲み干してしまうのです。

インドを旅行したことがある人はご存知だと思いますが、インドには実に種種多様な神々がおられます。
ヒンドゥー教では、
像の頭を持ったガネーシャ神や、サルの姿のハヌマン神など大勢の人々に慕われている神様もいますが、それだけでなく、それぞれの人がそれぞれにプライベートな神様を崇拝しています。
もちろん、一人の神様だけを拝みなさいという決まりもありません。
だから、神様の数は億をはるかに超えているに違いありません。
別に、宣教師のススメで信心を始めてみるというようなことではなく、自ら率先して、自分の神を作り上げる…ばかりか、自分の神様はすばらしい、と主張しはじめ、自らの神の信望者を増やそうとしたりする。
インドではインド独立の父として慕われてきたマハトマ・ガンジーもいまではポピュラーな神様です。
ガンジーの信望者の家を訪れると、もはや神に祭り上げられたガンジーの写真に花輪がかけられ、お香が焚かれている。
かと思えば、道端の石ですらあっという間に信仰の対象になる。
こんな話しを聞いたことがあります。
昔、イギリスがインドを支配したとき、まずイギリスは鉄道を敷設する作業を始めました。
岩を砕いて山を切り崩し、鉄道の道をさえぎる岩は傍らに退けられ、そうしてこの広大なデカン高原を走破する鉄道が完成しました。
そのとき、イギリス人のある技術者は面白い光景をよく見かけたと報告しています。
邪魔になって脇に避けられた岩に、村人がやってきて花を添え始めたり、赤く色を塗ったりして、拝み始めたと。
村人たちは思い思いにそれぞれの岩を崇拝したり、あるいは、ほかの村人が崇拝しはじめた岩を一緒になって崇拝し始めた…。
同じ岩が、それを見るものによってまったく違ったものに見えていた。
技術者にとっては道を遮るやっかいな邪魔ものであるはずの岩が、別のものたちにとってはかけがえのない崇拝の対象だった。

イソップに出てくる子どもがこの光景をみたら、いったいなんと言ったでしょう?








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