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書名: 『I AM THAT 私は在る  ニサルガダッタ・マハラジとの対話

書誌:
英訳者  モーリス・フリードマン
編集者  スダカール・S・ディクッシット
翻訳者  福間 巌
発行所  株式会社ナチュラルスピリット(2005年6月8日初版発行)
       http://www.naturalspirit.co.jp/
索引:
 ニサルガダッタ・マハラジ辞書(『私は在る』より)
引用:


気づき意識B

 私は無意識だということに気づいている。
 
 気づきは根本的なものだ。
 それは根元的状態であり、はじまりがなく、終わりもない。
 原因がなく、支えがなく、部分も、変化もない。
 意識は表層の反映と関連しており、二元的な状態だ。
 気づきなしに意識は在りえない。
 しかし深い眠りのように、意識がなくても気づきは存在しうる。
 気づきは絶対的だ。
 意識はつねに何かに属し、その内容との相関関係にある。
 意識は部分的であり、変化するもの。
 気づきは完全で、不変であり、静かで沈黙の内にある。
 そして、それはあらゆる経験の共通の母体なのだ。(p49-50)


意識気づきA

 そもそも意識を起こさせるのは気づきであるため、あらゆる意識の状態には
 気づきがある。
 それゆえ意識意識しているという意識そのものが、すでに気づきにおける
 動きなのだ。
 自分の意識の流れに興味を抱くこと自体が、あなたを気づきへと導く。
 それは何も新しい状態ではない。
 それが根元的な、生命そのものである基本的存在、そしてまた愛と喜びであ
 ることは直ちに認識されるだろう。(p50)


真我の実現無知

 真我の実現無知の反対にほかならない。
 この世界を実在と見なし、真我を非実在と見なすことが無知であり、悲しみ
 の原因だ。
 真我が唯一の実在であり、そのほかすべては一時的な、はかないものと知る
 ことが自由であり、平和と喜びなのだ。
 それはとてもシンプルだ。
 ものごとを、想像を通して見るのではなく、ただあるがままに見ることを学
 びなさい。
 すべてをあるがままに見るとき、あなたはあるがままの自分を見るだろう。
 それは鏡を磨くようなものだ。
 あなたにあるがままの世界を見せるその同じ鏡が、あなた自身の顔をも見せ
 るだろう。
 「私は在る」という想いが、鏡を磨く布なのだ。
 それを使いなさい。(p50)


悲しみの原因

 真我の実現は無知の反対にほかならない。
 この世界を実在と見なし、真我を非実在と見なすことが無知であり、悲しみ
 の原因だ。
 真我が唯一の実在であり、そのほかすべては一時的な、はかないものと知る
 ことが自由であり、平和と喜びなのだ。
 それはとてもシンプルだ。
 ものごとを、想像を通して見るのではなく、ただあるがままに見ることを学
 びなさい。
 すべてをあるがままに見るとき、あなたはあるがままの自分を見るだろう。
 それは鏡を磨くようなものだ。
 あなたにあるがままの世界を見せるその同じ鏡が、あなた自身の顔をも見せ
 るだろう。
 「私は在る」という想いが、鏡を磨く布なのだ。
 それを使いなさい。(p50)


唯一の実在@

 真我の実現は無知の反対にほかならない。
 この世界を実在と見なし、真我を非実在と見なすことが無知であり、悲しみ
 の原因だ。
 真我が唯一の実在であり、そのほかすべては一時的な、はかないものと知る
 ことが自由であり、平和と喜びなのだ。(p50)


鏡を磨く布

 この世界を実在と見なし、真我を非実在と見なすことが無知であり、悲しみ
 の原因だ。
 真我が唯一の実在であり、そのほかすべては一時的な、はかないものと知る
 ことが自由であり、平和と喜びなのだ。
 それはとてもシンプルだ。
 ものごとを、想像を通して見るのではなく、ただあるがままに見ることを学
 びなさい。
 すべてをあるがままに見るとき、あなたはあるがままの自分を見るだろう。
 それは鏡を磨くようなものだ。
 あなたにあるがままの世界を見せるその同じが、あなた自身の顔をも見せ
 るだろう。
 「私は在る」という想いが、鏡を磨く布なのだ。
 それを使いなさい。(p50)


無始無窮(むしむきゅう)

 快楽と苦痛による影響が消え、欲望と恐怖から自由になったのだ。
 私は満たされ、何も必要ではなくなった。
 純粋な覚醒の大海のなか、宇宙意識の表層で、世界という現象の無数の波が
 無始無窮(むしむきゅう)に立ち現れては消えゆくのを私は見たのだ。
 意識としては、それらはすべて私自身であり、出来事としては、それらはす
 べて私のものだ。
 ある神秘的な力がそれらを維持している。
 その力が真我、生命、神と呼ばれるものだ。(p51)


連続性不死

 連続性のなかに中断がなくても再誕生は可能だろうか?
 死がなければ再生もありえない。
 眠りにおける暗闇も、新鮮さと活力の回復をもたらす。
 死がなければ、私たちは永遠の老衰のなかに沈み込んでいることだろう。
 
 生と死がひとつの存在における二つの層として、互いに必須のものと見られ
 たとき、それが不死だ。
 はじまりのなかに終焉(しゅうえん)を見、終焉のなかに始まりを見ること
 が永遠を示唆している。
 不死連続性でないということは明白だ。
 変化というプロセスだけが続いていく。
 永遠に存在するものなど何もない。(p51)


不死@

 生と死がひとつの存在における二つの層として、互いに必須のものと見られ
 たとき、それが不死だ。
 はじまりのなかに終焉(しゅうえん)を見、終焉のなかにはじまりを見るこ
 とが永遠を示唆している。
 不死が連続性でないということは明白だ。
 変化というプロセスだけが続いていく。
 永遠に存在するものなど何もない。(p51)


永遠不死

 生と死がひとつの存在における二つの層として、互いに必須のものと見られ
 たとき、それが不死だ。
 はじまりのなかに終焉(しゅうえん)を見、終焉のなかに始まりを見ること
 が永遠を示唆している。
 不死が連続性でないということは明白だ。
 変化というプロセスだけが続いていく。
 永遠に存在するものなど何もない。(p51)


はじまり終焉

 生と死がひとつの存在における二つの層として、互いに必須のものと見られ
 たとき、それが不死だ。
 はじまりのなかに終焉(しゅうえん)を見、終焉のなかにはじまりを見ること
 が永遠を示唆している。
 不死が連続性でないということは明白だ。
 変化というプロセスだけが続いていく。
 永遠に存在するものなど何もない。(p51)


生理的機能

 私にとってそれは「私の身体」ではなく「ある身体」であって、「私のマイ
 ンド」ではなく「あるマインド」だ。
 マインドが身体の面倒を見る。
 私が干渉する必要はない。
 為(な)されるべきことは、通常の自然な方法で為される。
 
 生理的機能に関しては、あなたはまったく意識していないかもしれない。
 だが、思考や感情、欲望や恐れにいたっては、あなたは自己意識に鋭敏にな
 る。
 私にとっては、これらもまた全体として無意識の内にある。
 私はさほど意識もせずに人びとと話をし、まったく正しく適切に事を運んで
 いることを見いだすのだ。
 あたかも私は自発的にしかも的確に反応し、自動的にこの物質的な目覚めの
 生を生きているかのようだ。(p52)


素朴な庶民

 私の運命は素朴な庶民として、わずかばかりの教育を受けた質素な商人とな
 るよう生まれることだった。
 私の人生は、ごくありふれた欲望や恐れをもった平凡なものだった。
 私の師への信頼と、彼の言葉への服従を通して、私は真の実在を悟ったのだ。
 そして人間の性癖に関しては、その運命が尽き果てるまではそれ自身が面倒
 を見るのに任せておいたのだ。
 ときには古い習慣から、感情的あるいは心理的な反応も起こるが、それらは
 直ちに気づかれ、捨て去られる。
 結局は、人として在るという重荷があるかぎり、その性癖や習慣にさらされ
 るものだ。(p52)


古い習慣から

 私の運命は素朴な庶民として、わずかばかりの教育を受けた質素な商人とな
 るよう生まれることだった。
 私の人生は、ごくありふれた欲望や恐れをもった平凡なものだった。
 私の師への信頼と、彼の言葉への服従を通して、私は真の実在を悟ったのだ。
 そして人間の性癖に関しては、その運命が尽き果てるまではそれ自身が面倒
 を見るのに任せておいたのだ。
 ときには古い習慣から、感情的あるいは心理的な反応も起こるが、それらは
 直ちに気づかれ、捨て去られる。
 結局は、人として在るという重荷があるかぎり、その性癖や習慣にさらされ
 るものだ。(p52)


死んでいる

 私はすでに死んでいる。
 
 私は二重に死んでいる。
 身体だけではなく、マインドもまた死んでいる(p52)


意識の境界下

 途方もなく複雑な働きが頭脳と身体のなかでつねに行われているが、あなた
 はそれを意識しているだろうか?
 いいや、まったくしていない。
 それでも外部から見れば、すべては知性的に、目的をもって行われているよ
 うに見える。
 人の生全体は、その大部分が意識の境界下に沈んでいながらも、分別をもち、
 スムーズに流れているということを認めるがいい。(p53)


正常とは

 正常とは何だろう?
 欲望と恐怖に取りつかれ、争いと闘いに明け暮れ、無意味で喜びもないあな
 たの生が正常だというのだろうか?
 身体を過敏に意識することが正常だろうか?
 健康な身体、健康なマインドは、その所有者にはほとんど気づかれずにいる
 ものだ。
 苦痛や苦しみを通して、それらは注意と洞察を呼び起こす。
 同じことを生活全体に拡張させればいいのだ。
 人は何が起ころうと、それを気づきの焦点に合わせなくても、正しく機能し、
 充分うまく対応できるものなのだ。
 自己抑制が自然と身につけば、気づきは存在と行為のより深い層に焦点を移
 行する。(p53)


苦しみを通して

 健康な身体、健康なマインドは、その所有者にはほとんど気づかれずにいる
 ものだ。
 苦痛や苦しみを通して、それらは注意と洞察を呼び起こす。
 同じことを生活全体に拡張させればいいのだ。
 人は何が起ころうと、それを気づきの焦点に合わせなくても、正しく機能し、
 充分うまく対応できるものなのだ。
 自己抑制が自然と身につけば、気づきは存在と行為のより深い層に焦点を移
 行する。(p53)


秩序ある生

 繰り返され、習慣づけられたものが自動化されることに、何の害があるだろ
 う?
 どちらにしてもそれは自動的なのだ。
 だが、それが混沌とし、苦痛と苦悩の原因となったとき、注意を呼び起こす。
 清らかな、秩序ある生を送ることの目的全体は、悲しみを背負い、混沌状態
 の奴隷となることから解き放たれるためにあるのだ。(p53)


個人は実在の影

 人格とは単なる実在の反映にすぎない。
 反映がその源に自然と一致するのは当然のことではないだろうか?
 個人にはそれ自身の意図が必要だろうか?
 実在の表現である生が導くだろう。
 ひとたび個人は単に実在の影にすぎず、実在そのものではないと認識したな
 らば、あなたはいら立つことも、心配することもやめるだろう。
 あなたは内面から導かれることに同意し、そして生は未知への旅立ちとなる
 のだ。(p53)


焦点の問題

 (世界が存在しないという覚者の主張をどう理解すればいいか、というなら)
 すべては焦点の問題だ。
 あなたの焦点は世界に当てられており、私の焦点は実在に当てられている。
 世界は昼間の月のようなものだ。
 太陽が照れば、月はほとんど目に映らない。
 あるいは、あなたがどのようにものを食べるか見てみなさい。
 口のなかに食べ物がある間はそれを意識しているが、ひとたび飲みこんでし
 まえばもはや関心をもたない。
 消化されるまでマインドにとどめていたら、厄介なことになるだろう。
 マインドは普通停止しているべきであり、絶え間ない活動は病的状態なのだ。
 私が知っているのは、宇宙はひとりでに、それ自体で動いているということ
 だ。
 それ以外に何をする必要があるだろう?(p54)


世界は昼間の月

 (世界が存在しないという覚者の主張をどう理解すればいいか、というなら)
 すべては焦点の問題だ。
 あなたの焦点は世界に当てられており、私の焦点は実在に当てられている。
 世界は昼間の月のようなものだ。
 太陽が照れば、はほとんど目に映らない。
 あるいは、あなたがどのようにものを食べるか見てみなさい。
 口のなかに食べ物がある間はそれを意識しているが、ひとたび飲みこんでし
 まえばもはや関心をもたない。
 消化されるまでマインドにとどめていたら、厄介なことになるだろう。
 マインドは普通停止しているべきであり、絶え間ない活動は病的状態なのだ。
 私が知っているのは、宇宙はひとりでに、それ自体で動いているということ
 だ。
 それ以外に何をする必要があるだろう?(p54)


意識していない

 たいていの人は身体を意識していない。
 彼らは感覚や感情や思考を意識しているが、それらでさえ、ひとたび執着を
 離れれば意識の中心から去り、自発的に、努力なく起こる。(p54)


意識の中心

 (意識の中心には何があるのか、というなら)
 それは名前も形も与えることのできないものだ。
 なぜなら、それは何の特質ももたず、意識を超えたものだからだ。
 意識のなかにありながら、意識を超えた点とも言える。
 紙のなかにあるひとつの穴が、紙のなかにありながらしかも紙に属さないよ
 うに、至高の状態は意識の中心そのものでありながら、しかも意識を超越し
 ている。
 それはマインドのなかの開かれた穴から光が氾濫(はんらん)しているよう
 なものだ。
 その開かれた穴は、光とさえ呼ぶこともできない。
 それはただ開かれたるものなのだ。(p54)


意識を超えた点

 (意識の中心には何があるのか、というなら)
 それは名前も形も与えることのできないものだ。
 なぜなら、それは何の特質ももたず、意識を超えたものだからだ。
 意識のなかにありながら、意識を超えた点とも言える。
 紙のなかにあるひとつの穴が、紙のなかにありながらしかも紙に属さないよ
 うに、至高の状態は意識の中心そのものでありながら、しかも意識を超越し
 ている。
 それはマインドのなかの開かれた穴から光が氾濫(はんらん)しているよう
 なものだ。
 その開かれた穴は、光とさえ呼ぶこともできない。
 それはただ開かれたるものなのだ。(p54)


開かれたるもの

 紙のなかにあるひとつの穴が、紙のなかにありながらしかも紙に属さないよ
 うに、至高の状態は意識の中心そのものでありながら、しかも意識を超越し
 ている。
 それはマインドのなかの開かれた穴から光が氾濫(はんらん)しているよう
 なものだ。
 その開かれた穴は、光とさえ呼ぶこともできない。
 それはただ開かれたるものなのだ。(p54)


不在

 (意識の中心であるその開かれたるものこそ、空、不在なのか、というなら)
 そのとおりだ。
 マインドの観点からすれば、それは気づきの光が精神的空間に入っていくた
 めに開かれたものだ。
 光そのものとしては、個体の、岩石のように濃密な、均質で不変であり、名
 前や形といった精神的パターンから自由な、純粋な気づきの塊(かたまり)
 とでも言うほかないだろう。(p54-55)


気づきの光

 (意識の中心であるその開かれたるものこそ、空、不在なのか、というなら)
 そのとおりだ。
 マインドの観点からすれば、それは気づきの光が精神的空間に入っていくた
 めに開かれたものだ。
 そのものとしては、個体の、岩石のように濃密な、均質で不変であり、名
 前や形といった精神的パターンから自由な、純粋な気づきの塊(かたまり)
 とでも言うほかないだろう。(p54-55)


気づきの塊(かたまり)

 (意識の中心であるその開かれたるものこそ、空、不在なのか、というなら)
 そのとおりだ。
 マインドの観点からすれば、それは気づきの光が精神的空間に入っていくた
 めに開かれたものだ。
 光そのものとしては、個体の、岩石のように濃密な、均質で不変であり、名
 前や形といった精神的パターンから自由な、純粋な気づきの塊(かたまり)
 とでも言うほかないだろう。(p54-55)


存在を与える

 至高なるものがマインドに存在を与える。
 マインドが身体に存在を与えるのだ。(p55)


長寿の技

 たとえば、長寿の技をマスターし、寿齢千歳を超えた尊ぶべきヨーガの導師
 が、私のもとにその技を教えにきたとしよう。
 私は彼の偉業を讃えて、誠実に敬うだろう。
 だが、私が彼に言えることといえば、「長生きがいったい何になるというの
 か?」ということだけだ。
 私は時を超えて在る。
 どれほど寿命が長くなろうと、それはほんの一瞬の夢にすぎないのだ。(p55)


時を超えて在る

 たとえば、長寿の技をマスターし、寿齢千歳を超えた尊ぶべきヨーガの導師
 が、私のもとにその技を教えにきたとしよう。
 私は彼の偉業を讃えて、誠実に敬うだろう。
 だが、私が彼に言えることといえば、「長生きがいったい何になるというの
 か?」ということだけだ。
 私は時を超えて在る。
 どれほど寿命が長くなろうと、それはほんの一瞬の夢にすぎないのだ。
 同じように、私はあらゆる属性をも超越している。(p55)


属性を超越して

 私は時を超えて在る。
 どれほど寿命が長くなろうと、それはほんの一瞬の夢にすぎないのだ。
 同じように、私はあらゆる属性を超越している。
 それらは私のなかで、現れては消えていく。
 しかし、それが私を言い表すことはできない。
 宇宙は特質やそれらの相違を基底とした名前と形であり、私はその彼方に在
 る。
 世界は私が在るゆえに存在する。
 だが、私は世界ではない。(p55)


私の光のなかで

 私はそ(世界)の潜在的可能性でも、実現性でも、現実でもない。
 私の光のなかで、世界は太陽光線のなかを舞うほこりのように現れては去っ
 ていく。
 光はその微少片を照らすだろうが、それに依存することはない。
 またそれを創造もしない。
 それを知っているとさえ言えないのだ。(p55)


意識しているか

 (覚者は質問者の質問や自分の答えを意識しているか、というなら)
 実際には、私は聞いても答えてもいない。
 出来事の世界のなかで、質問が起こり、答えが起こる。
 何も私には起こらない。
 すべてはただ起こるのだ。(p55)


出来事の世界

 (覚者は質問者の質問や自分の答えを意識しているのか、というなら)
 実際には、私は聞いても答えてもいない。
 出来事の世界のなかで、質問が起こり、答えが起こる。
 何も私には起こらない。
 すべてはただ起こるのだ。(p55)


観照者とは

 (覚者とは観照者なのか、というなら)
 観照者とはどういう意味だろうか?
 ただの知識にすぎない。
 雨が降り、そして今、雨はやんだ。
 私は濡れないままだ。
 雨が降ったのは知っている。
 だが、私は影響されない。
 ただ、雨を観照しただけだ。(p55)


意識のエーテル

 意識がそのなかで起こる宇宙意識は、意識のエーテルと呼ばれる。
 意識の対象物すべてが宇宙を構成している。
 それら両方を支え、そして超えて在るのが至高の状態、完全な静寂と沈黙の
 状態だ。
 誰であれ、そこに行けば消え去る。
 言葉やマインドで到達することはできない。
 あなたはそれを神、パラブラフマンあるいは至高の実在と名づけるかもしれ
 ない。
 しかし、それらはマインドによって与えられた名前だ。
 それは、名前も内容もなく、努力もなくして自然な状態、存在も非存在も超
 えたものだ。(p56)


至高の状態A

 意識がそのなかで起こる宇宙意識は、意識のエーテルと呼ばれる。
 意識の対象物すべてが宇宙を構成している。
 それら両方を支え、そして超えて在るのが至高の状態、完全な静寂と沈黙の
 状態だ。
 誰であれ、そこに行けば消え去る。
 言葉やマインドで到達することはできない。
 あなたはそれを神、パラブラフマンあるいは至高の実在と名づけるかもしれ
 ない。
 しかし、それらはマインドによって与えられた名前だ。
 それは、名前も内容もなく、努力もなくして自然な状態、存在も非存在も超
 えたものだ。(p56)


パラブラフマン

 意識がそのなかで起こる宇宙意識は、意識のエーテルと呼ばれる。
 意識の対象物すべてが宇宙を構成している。
 それら両方を支え、そして超えて在るのが至高の状態、完全な静寂と沈黙の
 状態だ。
 誰であれ、そこに行けば消え去る。
 言葉やマインドで到達することはできない。
 あなたはそれを神、パラブラフマンあるいは至高の実在と名づけるかもしれ
 ない。
 しかし、それらはマインドによって与えられた名前だ。
 それは、名前も内容もなく、努力もなくして自然な状態、存在も非存在も超
 えたものだ。(p56)


宇宙・意識・至高なるもの

 宇宙がマインドの身体であるように、意識至高なるものの身体だ。
 至高なるもの意識しないが、それが意識を発現させるのだ。(p56)


至高の状態B

 至高の状態は分割不可能で、完全にひとつであり、ひと塊の実在なのだ。
 それを知るためのただひとつの方法は、それになること、それとして在るこ
 とだ。
 マインドはそれに到達できない。
 それを知覚するために感覚器官は必要ない。
 それを知るためにマインドは必要ないのだ。(p56)


ひと塊(かたまり)の実在

 至高の状態は分割不可能で、完全にひとつであり、ひと塊の実在なのだ。
 それを知るためのただひとつの方法は、それになること、それとして在るこ
 とだ。
 マインドはそれに到達できない。
 それを知覚するために感覚器官は必要ない。
 それを知るためにマインドは必要ないのだ。(p56)


世界

 (世界を動かしているのか、というなら)
 世界を動かしてはいない。
 
 (では誰がそれをしているのか、というなら)
 誰もしてはいない。
 すべてはひとりでに起こるのだ。
 あなたが質問をし、あなたが答えを供給している。
 そして質問するとき、あなたは答えを知っている。
 すべては意識のなかの戯(たわむ)れなのだ。
 すべての分割は幻想だ。
 あなたが知ることのできるのは偽物だけだ。
 真我に、あなた自身がならなければならないのだ。(p56)


誰もしてはいない

 (神が世界を動かしているのか、というなら)
 神は世界を動かしてはいない。
 
 (では誰がそれをしているのか、というなら)
 誰もしてはいない。
 すべてはひとりでに起こるのだ。
 あなたが質問をし、あなたが答えを供給している。
 そして質問するとき、あなたは答えを知っている。
 すべては意識のなかの戯(たわむ)れなのだ。
 すべての分割は幻想だ。
 あなたが知ることのできるのは偽物だけだ。
 真我に、あなた自身がならなければならないのだ。(p56)


意識のなかの戯(たわむ)

 (神が世界を動かしているのか、というなら)
 神は世界を動かしてはいない。
 
 (では誰がそれをしているのか、というなら)
 誰もしてはいない。
 すべてはひとりでに起こるのだ。
 あなたが質問をし、あなたが答えを供給している。
 そして質問するとき、あなたは答えを知っている。
 すべては意識のなかの戯れなのだ。
 すべての分割は幻想だ。
 あなたが知ることのできるのは偽物だけだ。
 真我に、あなた自身がならなければならないのだ。(p56)


分割は幻想

 (神が世界を動かしているのか、というなら)
 神は世界を動かしてはいない。
 
 (では誰がそれをしているのか、というなら)
 誰もしてはいない。
 すべてはひとりでに起こるのだ。
 あなたが質問をし、あなたが答えを供給している。
 そして質問するとき、あなたは答えを知っている。
 すべては意識のなかの戯(たわむ)れなのだ。
 すべての分割は幻想だ。
 あなたが知ることのできるのは偽物だけだ。
 真我に、あなた自身がならなければならないのだ。(p56)


二つのもの

 二つのものがある。
 個人と観照者つまり観察者だ。
 それらをひとつとして見て、それを超えたとき、あなたは至高の状態にある。
 それは知覚不可能だ。
 なぜなら、それが知覚を可能にするものだからだ。
 それは存在と非存在を超越している。
 それは鏡でも鏡のなかのイメージでもない。
 時を超えた実在、信じがたいほど堅固で、確固たるもの、それがそれである。(p56-57)


時を超えた実在

 二つのものがある。
 個人と観照者つまり観察者だ。
 それらをひとつとして見て、それを超えたとき、あなたは至高の状態にある。
 それは知覚不可能だ。
 なぜなら、それが知覚を可能にするものだからだ。
 それは存在と非存在を超越している。
 それは鏡でも鏡のなかのイメージでもない。
 時を超えた実在、信じがたいほど堅固で、確固たるもの、それがそれである。(p56-57)


普遍的観照者

 (ジニャーニは観照者なのか、それとも至高なるものか、というなら)
 もちろん至高なるものだ。
 だが、彼は普遍的観照者でもある。(p57)


個人アイデンティティ

 (ジニャーニは個人としても在るのか、というなら)
 あなたが自分自身を個人だと信じるならば、至る所に個人を見る。
 実際には、個人というものは存在しない。
 あるのは記憶と習慣の脈絡だけだ。
 真我を実現した瞬間、個人は消え去る。
 アイデンティティは残る。
 だが、アイデンティティ個人ではない。
 それは実在そのもののなかに本来備わっている。
 個人はそれ自身のなかに存在をもっていない。
 それは観照者のマインドに映った「私は在る」という感覚であり、また、存
 在のひとつの様式なのだ。(p57)


アイデンティティ個人

 (ジニャーニは個人としても在るのか、というなら)
 あなたが自分自身を個人だと信じるならば、至る所に個人を見る。
 実際には、個人というものは存在しない。
 あるのは記憶と習慣の脈絡だけだ。
 真我を実現した瞬間、個人は消え去る。
 アイデンティティは残る。
 だが、アイデンティティ個人ではない。
 それは実在そのもののなかに本来備わっている。
 個人はそれ自身のなかに存在をもっていない。
 それは観照者のマインドに映った「私は在る」という感覚であり、また、存
 在のひとつの様式なのだ。(p57)


私の経験では

 (至高なるものは意識しているのか、というなら)
 私の経験では、それは意識してもいず、無意識でもない。(p57)


プラジニャー

 それ(プラジニャー)は生命そのものの非―自意識的知識だ。
 
 エネルギーがはじめに現れる。
 すべてはエネルギーが形を取ったものだからだ。
 意識は目覚めの状態においてもっとも差異が認められる。
 夢見においてはより少ない。
 眠りにおいてはさらに少ない。
 第四の状態では均質だ。
 それを超えると、表現不可能な、単一の実在、それがジニャーニの生きる世
 界なのだ。(p57)


エネルギー意識

 それ(プラジニャー)は生命そのものの非―自意識的知識だ。
 
 エネルギーがはじめに現れる。
 すべてはエネルギーが形を取ったものだからだ。
 意識は目覚めの状態においてもっとも差異が認められる。
 夢見においてはより少ない。
 眠りにおいてはさらに少ない。
 第四の状態では均質だ。
 それを超えると、表現不可能な、単一の実在、それがジニャーニの生きる世
 界なのだ。(p57)


第四の状態

 それ(プラジニャー)は生命そのものの非―自意識的知識だ。
 
 エネルギーがはじめに現れる。
 すべてはエネルギーが形を取ったものだからだ。
 意識は目覚めの状態においてもっとも差異が認められる。
 夢見においてはより少ない。
 眠りにおいてはさらに少ない。
 第四の状態では均質だ。
 それを超えると、表現不可能な、単一の実在、それがジニャーニの生きる世
 界なのだ。(p57)


ジニャーニの生きる世界

 それ(プラジニャー)は生命そのものの非―自意識的知識だ。
 
 エネルギーがはじめに現れる。
 すべてはエネルギーが形を取ったものだからだ。
 意識は目覚めの状態においてもっとも差異が認められる。
 夢見においてはより少ない。
 眠りにおいてはさらに少ない。
 第四の状態では均質だ。
 それを超えると、表現不可能な、単一の実在、それがジニャーニの生きる
 世界なのだ。(p57)


生命の力とは

 (生命の力とは何なのか、というなら)
 それは意識だ。
 すべては意識なのだ。
 
 (意識の源泉は何か、というなら)
 意識そのものがすべての源なのだ。(p57)


意識の源泉

 (意識の源泉は何か、というなら)
 意識そのものがすべての源なのだ。(p57)


意識生命A

 (意識なしに生命はありうるか、というなら)
 いいや。
 生命なしには意識もありえない。
 それらはひとつだ。
 しかし実際には、究極なるものだけが存在する。
 それ以外は名前と形があるだけだ。
 あなたが名前と形のあるものだけが存在するという考えにしがみつくかぎり、
 至高なるものは、あなたにとって非存在のものとしてしか映らないだろう。
 名前と形は実態のない空虚な殻(から)にすぎず、実在は名前も形もない純
 粋な生命のエネルギーと意識の光だと理解したとき、あなたは実在の深い静
 寂に浸り、平和の内に在ることだろう。(p57-58)


存在非存在

 (意識なしに生命はありうるか、というなら)
 いいや。
 生命なしには意識もありえない。
 それらはひとつだ。
 しかし実際には、究極なるものだけが存在する。
 それ以外は名前と形があるだけだ。
 あなたが名前と形のあるものだけが存在するという考えにしがみつくかぎり、
 至高なるものは、あなたにとって非存在のものとしてしか映らないだろう。
 名前と形は実態のない空虚な殻(から)にすぎず、実在は名前も形もない純
 粋な生命のエネルギーと意識の光だと理解したとき、あなたは実在の深い静
 寂に浸り、平和の内に在ることだろう。(p57-58)


名前と形B

 (意識なしに生命はありうるか、というなら)
 いいや。
 生命なしには意識もありえない。
 それらはひとつだ。
 しかし実際には、究極なるものだけが存在する。
 それ以外は名前と形があるだけだ。
 あなたが名前と形のあるものだけが存在するという考えにしがみつくかぎり、
 至高なるものは、あなたにとって非存在のものとしてしか映らないだろう。
 名前と形は実態のない空虚な殻(から)にすぎず、実在は名前もない純
 粋な生命のエネルギーと意識の光だと理解したとき、あなたは実在の深い静
 寂に浸り、平和の内に在ることだろう。(p57-58)


空虚な殻(から)

 (意識なしに生命はありうるか、というなら)
 いいや。
 生命なしには意識もありえない。
 それらはひとつだ。
 しかし実際には、究極なるものだけが存在する。
 それ以外は名前と形があるだけだ。
 あなたが名前と形のあるものだけが存在するという考えにしがみつくかぎり、
 至高なるものは、あなたにとって非存在のものとしてしか映らないだろう。
 名前と形は実態のない空虚な殻(から)にすぎず、実在は名前も形もない純
 粋な生命のエネルギーと意識の光だと理解したとき、あなたは実在の深い静
 寂に浸り、平和の内に在ることだろう。(p57-58)


ニューヨークの天気

 (もし時間と空間がただの幻想で、覚者がそれを超えているというのなら、
  今のニューヨークの天気を言ってみてほしい、というなら)
 どうして私にそれが言えよう?
 そういったことには特別な訓練が必要だ。
 そうでなければ、ニューヨークに行くがいい。
 私が時間と空間を超越していることは確かかも知れないが、ある一定の時間
 と空間において、思いのままに自分の所在を選定することはできない。
 興味もなければ特別なヨーガのトレーニングをする理由もない。
 ニューヨークという名前を今耳にしたが、私にとってはただの言葉にすぎな
 い。
 原子のひとつひとつがこの宇宙と同じほど複雑な宇宙かもしれない。
 そのすべてを私が知らねばならないかね?
 確かにできる、もし訓練するならば。(p58)


超越している

 (もし時間と空間がただの幻想で、覚者がそれを超えているというのなら、
  今のニューヨークの天気を言ってみてほしい、というなら)
 どうして私にそれが言えよう?
 そういったことには特別な訓練が必要だ。
 そうでなければ、ニューヨークに行くがいい。
 私が時間と空間を超越していることは確かかも知れないが、ある一定の時間
 と空間において、思いのままに自分の所在を選定することはできない。
 興味もなければ特別なヨーガのトレーニングをする理由もない。
 ニューヨークという名前を今耳にしたが、私にとってはただの言葉にすぎな
 い。
 原子のひとつひとつがこの宇宙と同じほど複雑な宇宙かもしれない。
 そのすべてを私が知らねばならないかね?
 確かにできる、もし訓練するならば。(p58)


状態ではない

 世界とマインドはともに存在の状態だ。
 至高なるものとは、ある状態ではない。
 それはすべての状態に遍在しているが、何かほかの状態ではない。
 至高なるものはまったく原因がなく、独立し、それ自身において完成してい
 る。
 時間も空間も、マインドも物質も超越したものなのだ。(p58)


痕跡も残さない

 (何をもって至高なるものを認識するのか、というなら)
 それが何の痕跡も残さないということが要点なのだ。
 何によっても認識することはできない。
 あらゆるしるしや手がかりの探求をあきらめることによって、直接に見られ
 なければならない。
 すべての名前と形が放棄されたとき、実在が残る。
 あなたがそれを探す必要はない。
 複数制と多様性はただのマインドの戯れだ。
 実在はひとつだ。(p58)


複数性と多様性

 (何をもって至高なるものを認識するのか、というなら)
 それが何の痕跡(こんせき)も残さないということが要点なのだ。
 何によっても認識することはできない。
 あらゆるしるしや手がかりの探求をあきらめることによって、直接に見られ
 なければならない。
 すべての名前と形が放棄されたとき、実在が残る。
 あなたがそれを探す必要はない。
 複数性と多様性はただのマインドの戯れだ。
 実在はひとつだ。(p58)


マインドの戯れ

 (何をもって至高なるものを認識するのか、というなら)
 それが何の痕跡(こんせき)も残さないということが要点なのだ。
 何によっても認識することはできない。
 あらゆるしるしや手がかりの探求をあきらめることによって、直接に見られ
 なければならない。
 すべての名前と形が放棄されたとき、実在が残る。
 あなたがそれを探す必要はない。
 複数性と多様性はただのマインドの戯れだ。
 実在はひとつだ。(p58)


それは在る

 (実在が何の証拠も残さないのなら、それについて話すことさえできない、
  というなら)
 それは在る。
 それを否定することはできない。
 それは深遠な、神秘を超えた神秘なのだ。
 だが、それは在る。
 それ以外のすべてはただ起こるだけだ。(p58)


神秘を超えた神秘

 (実在が何の証拠も残さないのなら、それについて話すことさえできない、
  というなら)
 それは在る。
 それを否定することはできない。
 それは深遠な、神秘を超えた神秘なのだ。
 だが、それは在る。
 それ以外のすべてはただ起こるだけだ。(p58)


未知も既知も

 (実在は未知なるものなのか、というなら)
 未知も既知もともに超えている。
 しかし、私なら未知よりも既知と呼ぶだろう。
 なぜなら、いつであれ何かが知られたとき、知られたものは実在だからだ。(p58)


知られたものは

 (実在は未知なるものなのか、というなら)
 未知も既知もともに超えている。
 しかし、私なら未知よりも既知と呼ぶだろう。
 なぜなら、いつであれ何かが知られたとき、知られたものは実在だからだ。(p58)


状態と条件は

 (沈黙は実在の特質なのか、というなら)
 それもまたマインドのものだ。
 すべての状態と条件はマインドに属する。(p58)


サマーディとは

 (サマーディとは何かと、いうなら)
 意識を使わないことがサマーディだ。
 ただマインドに触れないのだ。
 身体からもマインドからも何も求めないことだ。(p58)


意識を使わない

 (サマーディとは何かと、いうなら)
 意識を使わないことがサマーディだ。
 ただマインドに触れないのだ。
 身体からもマインドからも何も求めないことだ。(p58)


世界原因

 至高の見地から見れば、世界原因はない。
 
 すべては原因なくして起こる。
 世界には何の原因もない。(p59)


答えを無理強い

 ひとたびあなたが時間と空間のなかに因果関係に支配された世界をつくり出
 せば、すべてに原因を探そうとし、そして見つけだすことになるのはまぬが
 れない。
 あなたが質問を設定し、答えを無理強いするのだ。(p60)


なぜ原因を拒絶するのか

 (ものごとの存在を認めておいて、なぜ原因を拒絶するのか、というなら)
 あなたが、映画のスクリーンに映しだされた画像が光以外の何ものでもない
 と知っているように、私は意識のみを見て、すべては意識だと知っているの
 だ。(p60)


光はまったく動かない

 (の運動には原因がある、というなら)
 その光はまったく動かない。
 あなたもよく知っているように、フィルムのなかの色彩とを遮る一連の動
 きは幻想なのだ。
 動いているのはフィルムであり、それがマインドなのだ。(p60)


あるがままB

 もちろん、すべては相互に連結しあっている。
 そしてそれゆえ、すべてに無数の原因が在る。
 宇宙全体がもっとも微少な存在に貢献している。
 あるものはあるがままだ。
 なぜなら世界はあるがままだからだ。
 わかるかね、あなたは金の装飾品を扱っている。
 そして私は金そのものを扱っている。
 二つの異なった装飾品の間には何の因果関係もない。
 あなたがある装飾品をふたたび溶解して別のものをつくるとき、その二つの
 間には何の因果関係もない。
 共通の要因は金だ。
 だが金が原因だとは言えない。
 それを原因と呼べないのは、それ自体では何の原因にもならないからだ。
 装飾品が持つ特定の名前と形のように、それはマインドのなかで、「私は在
 る」として映しだされる。
 それにもかかわらず、すべてはただの金にすぎない。
 同様に、実在はすべてを可能にする。
 それでも、あるものをその名前と形としてつくり出す無は、実在からやって
 くるのだ。(p60)


金の装飾品

 もちろん、すべては相互に連結しあっている。
 そしてそれゆえ、すべてに無数の原因が在る。
 宇宙全体がもっとも微少な存在に貢献している。
 あるものはあるがままだ。
 なぜなら世界はあるがままだからだ。
 わかるかね、あなたは金の装飾品を扱っている。
 そして私はそのものを扱っている。
 二つの異なった装飾品の間には何の因果関係もない。
 あなたがある装飾品をふたたび溶解して別のものをつくるとき、その二つの
 間には何の因果関係もない。
 共通の要因はだ。
 だがが原因だとは言えない。
 それを原因と呼べないのは、それ自体では何の原因にもならないからだ。
 装飾品が持つ特定の名前と形のように、それはマインドのなかで、「私は在
 る」として映しだされる。
 それにもかかわらず、すべてはただのにすぎない。
 同様に、実在はすべてを可能にする。
 それでも、あるものをその名前と形としてつくり出す無は、実在からやって
 くるのだ。(p60)


原因の何が問題

 しかし、なぜそんなに因果関係について心配するのかね?
 原因の何が問題なのか?
 ものごととは、それ自身はかない一過性のものなのだ。
 来るものは拒まず、去るものは追わず――なぜものごとを捕まえてその原因
 について尋ねまわるのだろうか?(p60)


光だけがあり

 光だけがあり、光がすべてなのだ。
 そのほかすべてはによってできた画像にすぎない。
 画像はのなかに、は画像のなかにある。
 生と死、自己と非自己。
 これらすべての概念を捨て去りなさい。
 それらは何の役にも立たない。(p61)


目覚めの状態A

 これらすべての問題は、目覚めの状態のなかで起こる。
 それがその本性なのだ。
 だが、あなたはつねにその状態にいるわけではない。
 いやおうなくあなたは目覚めの状態に現れ、いやおうなくそこから消え去る。
 そんな状態のなかでいったい何ができるというのだろう?
 因果関係が目覚めの状態のなかで現れるからといって、それがどう因果関係
 の有無を知る助けになるのだろうか?
 
 マインドが静かに、完全に沈黙したとき、目覚めの状態は消え去る。(p61)


出来事の源

 出来事に影響を与えるのに、原因を知る必要はない。
 あなたがあらゆる出来事の源であり終焉(しゅうえん)ではないだろうか?
 それをそのものでコントロールするがいい。(p63)


罪と禍(わざわい)

 あなたは混乱しているのだ。
 なぜなら、あなたのなかに世界があるのではなく、世界のなかにあなたがい
 ると信じているからだ。
 誰が初めに現れるのだろう?
 あなたか、あなたの親だろうか?
 あなたは自分がある時、ある場所で生まれ、父と母、名前と形をもっている
 と想像している、それがあなたの罪と禍(わざわい)なのだ。
 もちろん、あなたが働きかければ世界を変えることができる。
 ぜひとも働きなさい。
 誰があなたを止めているのかね?
 私は思いとどまらせてはいない。
 原因があろうとなかろうと、あなたがつくった世界だ。
 あなたはそれを変えることができる。(p63)


想像されたもの

 (原因のない世界は完全にコントロールを超えている、というなら)
 その反対に、あなたがその根源であり土台である世界を変える力は、完全に
 あなたの力のなかにあるのだ。
 想像されたものはいつでも溶解し、つくり変えることができる。
 もしあなたが本当に望むならば、すべては望むように起こる。(p63)


世界の不幸

 世界の不幸はそれと関わるなかで、あなたがあなた自身の欲望と恐れからつ
 くり出してきたのだ。
 すべてはあなたが真我の存在を忘れてしまったためだ。
 スクリーン上の画像に現実性を与えた上で、あなたはそれらの人々を愛し、
 彼らのために苦しみ、彼らへの救いを求める。
 そうではない。
 あなたはまず、あなた自身からはじめなければならないのだ。
 ほかに道はない。(p62)


創造的気づき

 ただの現れにすぎない幻を実在と見なすことは悲しむべき罪であり、すべて
 の災いの原因だ。
 あなたはすべてに遍在する、永遠で無限の創造的気づき――意識なのだ。
 それ以外のすべてはかぎられた時と場所のなかに在る。
 何が本来のあなたなのか、忘れてはならない。
 その合間に心ゆくまで働きなさい。
 仕事と知識は手に手をとって進むべきだ。(p63)


あなたB

 あなたのことを知っていると思うのかね?
 世界のことさえ彼は知らないのだ。(p63)


世界は偶然の産物

 もしあなたとあなたの神がともに無力ならば、そのことが、世界は偶然の産
 物だということを暗示しているのではないだろうか?
 そして、もしそうならば、唯一あなたにできることはそれを超えていくこと
 だ。(p63)


解脱

 身体の表現がかぎられているならば、そうあればいい。
 しかし、解脱とは自分に押しつけてきた誤った自己の観念から自由になるこ
 となのだ。
 それはいかに輝かしいものであっても、特定の体験のなかに含まれるような
 ものではない。(p68)


体験時間

 すべての体験時間の限界内にある。
 何であれ、はじまりあるものは終焉(しゅうえん)を迎える。(p68)


人はいつも自由

 人はいつも自由なのだ。
 あなたは意識しており、また自由に意識できる。
 誰もそれをあなたから奪い取ることはできない。(p68)


見る向き

 体験から体験者へと見る向きを変えなさい。
 そしてあなたができるたったひとつの真の表明、「私は在る」の完全な意味、
 その重要性を悟るがいい。(p68)


存在の感覚A

 ここでは、「どのように」ということはない。
 ただマインドのなかに「私は在る」という感覚を保ち、あなたのマインドと
 その感覚がひとつになるまで、そのなかに没入しなさい。
 繰り返し試みることによって、あなたはそれへの愛情と留意の正しいバラン
 スをつかむだろう。
 そして、マインドは「私は在る」という思考―感覚のなかに、揺らぐことな
 く確立するようになるだろう。
 何であれ、あなたが考え、話し、行うにも、この不変で愛情深い存在の感覚
 は、つねにマインドの背景として消えることなく残るだろう。(p68)


普通特別

 私はそれを普通と呼ぶ。
 努力なく、幸せに、行動し、知り、在ることのどこが間違っているだろうか?
 なぜ身体の即座の崩壊を期待するような、そんな特別なことを考えるのだろ
 う。
 身体に死が訪れることの何が間違っているのだろうか?
 身体に対する態度を正し、忘れてしまいなさい。
 甘やかさず、苦しめず、ほとんどの時間、意識的留意の境界下においておけ
 ばいいのだ。(p68)


切望の状態

 取り戻したいと願うから、それを得ることができないのだ。
 切望の状態がすべてのより深い体験を妨げる。
 何を欲しているかを正確に知っているマインドには、価値あることなど何ひ
 とつ起こらない。
 マインドが求め描いているようなものに、たいした価値のあるものなどない
 からだ。(p69)


無欲

 最上のものを求めなさい。
 最高の幸福、もっとも偉大な自由を。
 無欲が最大の至福なのだ。(p69)


最大の至福

 最上のものを求めなさい。
 最高の幸福、もっとも偉大な自由を。
 無欲が最大の至福なのだ。(p69)


知識を蓄える

 生活の糧(かて)を得るには、ある特殊な知識が必要だ。
 一般的な知識が思考の発展を促すことは間違いない。
 だが、もしあなたが知識を蓄えることで人生を送るならば、あなたは自分の
 まわりに壁を築くだけだろう。
 マインドを超えるために飾りたてられたマインドは必要ない。(p69)


マインドの彼方A

 (マインドの彼方に何を見いだすのか、というなら)
 存在の智慧(ちえ)と愛の直接体験だ。(p70)


スタート地点

 (どうすればマインドを超えていけるのか、というなら)
 スタート地点は数多くあるが、それらはすべて同じゴールに導く。
 あなたは行為の結果を放棄しながら、私利私欲のない仕事からはじめるかも
 しれない。
 そしてマインドを放棄し、最後にはすべての欲望を放棄するかもしれない。
 ここでは、放棄が作用する要因だ。
 あるいは、あなたは欲することも、考えることも、為すこともすべて気にと
 めず、「私は在る」という思考と感情の内にとどまり、マインドのなかで確
 固として「私は在る」に焦点を合わせるかもしれない。
 あらゆる類の体験があなたに訪れるだろう。
 「私は在る」だけが永遠に変わらず、知覚できるものすべては一時的なはか
 ないものだという知識のなかに、揺らぐことなく在りなさい。(p70)


職務に励みなさい

 (全人生を修行には費やせない、自分には義務と仕事がある、というなら)
 もちろん職務に励みなさい。
 感情的に巻き込まれず、有益で、苦しみをともなわない仕事は、あなたを因
 果的に束縛しない。
 あなたはいくつもの分野に従事し、途方もない熱情とともに仕事をしながら
 も、内面ではその影響を受けずに、すべてを映しだす鏡のように自由で静か
 なマインドを保つかもしれない。(p70)


内なる師A

 (内側を見るとき、そこには感覚や知覚、思考や感情、欲望や恐れ、記憶や
  期待の雲が見えるばかりで、ほかには何も見えない、というなら)
 それらすべて、そしてまた無も見ているそれが内なる師なのだ。
 彼だけが存在する。
 それ以外はみな、ただの現れにすぎない。
 彼があなたの真我(スワルーパ)、自由への確信と希望なのだ。
 彼を見いだし、しっかりとつかんで離してはならない。
 そうすればあなたは救われ、安全だろう。(p71)


観照者@

 あなたは観照者を知っている、なぜならあなたが観照者だからだ。
 観照者を目の前に見る必要はない。
 ここでもまた、在ることが知ることなのだ。(p71)


自己知識は何の役に

 (自己知識は何の役に立つのか、というなら)
 それは何があなたではないか、ということの理解を助け、誤った考えや欲望
 や行為からあなたを自由にするのだ。(p71)


至福不幸

 あなた自身を知ることを助けるものが正しく、それを妨げるものは間違いだ。
 真我を知ることは至福であり、それを忘れることが不幸なのだ。(p71)


観照者意識

 (観照者意識が真我なのか、というなら)
 観照者意識はマインドのなかの実在の反映だ。
 実在はその彼方にある。
 観照者とは、それを超えて彼方へと通り抜けていくための扉なのだ。(p71-72)


瞑想の目的

 (瞑想の目的とは何か、というなら)
 偽りを偽りと見ることが瞑想だ。
 それは絶えず続いていかなければならない。(p72)


私自身のこと

 (どれが真我の実現への一番の近道か教えてほしい、というなら)
 どれが近くどれが遠いということはないが、ある人はより真剣であり、ある
 人はそれに劣る。
 あなたに私自身のことを話そう。
 私は単純素朴な人間だったが、グル(師)を信頼し、彼が私にするようにと
 言ったことをしたのだ。
 彼は私に「私は在る」という感覚に集中するようにと言い、私はそうした。
 彼が、私は考えうる、知覚しうるすべてを超えたものだと言い、私は信じた
 のだ。
 私は彼に、私のハートと魂、許されるかぎりのすべての空き時間(家族を支
 えるための仕事があったため)とすべての注意を捧げた。
 真剣な修練と信頼の結果、私は三年のうちに真我(スワルーパ)を実現した
 のだ。
 あなたに合う道を選ぶがいい。
 真剣さが進歩の度合いを決定する鍵だ。(p72)


努力の終わり

 「私は在る」という気づきの中に揺らぐことなく確立しなさい。
 これがはじまりであり、またすべての努力の終わりだ。(p72)


個人宇宙

 (個人宇宙は、どちらが実在でどちらが想像なのかというなら)
 そのどちらも実在ではない。(p76)


依存実在

 私が知っていることは、何であれ依存するものは実在でないということだけ
 だ。
 実在は真に独立している。
 個人の存在は世界に依存している。
 そしてそれは世界によって制限され、定義されている。
 それゆえ、それは実在ではありえない。(p78)


実在の基準

 何であれ依存するものは実在ではない。
 実在は真に独立している。
 個人の存在は世界に依存している。
 そしてそれは世界によって制限され、定義されている。
 それゆえ、それは実在ではありえない。(p78)


自己イメージ

 (私は私が自分自身として知っているものだ、というなら)
 あなたが自分自身だと考えているものがあなただ、などと言うことはできな
 い!
 あなた自身に関するあなたの考えは日々、そして一瞬一瞬変わっている。
 あなたの自己イメージはもっとも変化しやすいものだ。
 それはまったく傷つきやすいものであり、あなたのそばを通りすぎる人たち
 に左右されている。
 愛するものと死別し、職を失い、屈辱を受ける。
 そしてあなたがあなたの個性と呼ぶ自己イメージは深く変化するのだ。(p78-79)


個性

 (私は私が自分自身として知っているものだ、というなら)
 あなたが自分自身だと考えているものがあなただ、などと言うことはできな
 い!
 あなた自身に関するあなたの考えは日々、そして一瞬一瞬変わっている。
 あなたの自己イメージはもっとも変化しやすいものだ。
 それはまったく傷つきやすいものであり、あなたのそばを通りすぎる人たち
 に左右されている。
 愛するものと死別し、職を失い、屈辱を受ける。
 そしてあなたがあなたの個性と呼ぶ自己イメージは深く変化するのだ。(p78-79)


何ではないか

 あなたが何なのかを知るためには、まず、あなたが何ではないかを調べなけ
 ればならない。
 そしてあなたが何ではないかを知るためには、「私は在る」という基本的な
 事実にそぐわないものをすべて拒絶し、あなた自身を注意深く観察しなけれ
 ばならない。
 私はある時、ある場所で、両親のもとに生まれ、今私は某で、どこそこに住
 み、誰それと結婚し、誰それの父親で、どこそこに雇われ等々……といった
 概念は、「私は在る」という感覚のなかに本来ないものだ。
 「私はあれやこれだ」というのが私たちの通常の態度だ。
 忍耐強く堅固に、「あれ」や「これ」から「私は在る」を分離しなさい。
 そして「あれ」や「これ」として在るのではなく、ただ在るということがど
 ういった意味をもつのか感じ取ってみなさい。
 私たちの習慣のすべてがそれに逆らう。
 それらと闘うことはときには長く、困難な仕事だ。
 だが、明確な理解は大きな助けとなる。
 マインドのレベルでは、あなたは否定的な言語でしか言い表わすことができ
 ないということをより明確に理解するほど、探求はより早く終焉を迎える。
 そして、あなたは無限の実在を実現するのだ。(p79)


ただ在るということ

 あなたが何なのかを知るためには、まず、あなたが何ではないかを調べなけ
 ればならない。
 そしてあなたが何ではないかを知るためには、「私は在る」という基本的な
 事実にそぐわないものをすべて拒絶し、あなた自身を注意深く観察しなけれ
 ばならない。
 私はある時、ある場所で、両親のもとに生まれ、今私は某で、どこそこに住
 み、誰それと結婚し、誰それの父親で、どこそこに雇われ等々……といった
 概念は、「私は在る」という感覚のなかに本来ないものだ。
 「私はあれやこれだ」というのが私たちの通常の態度だ。
 忍耐強く堅固に、「あれ」や「これ」から「私は在る」を分離しなさい。
 そして「あれ」や「これ」として在るのではなく、ただ在るということがど
 ういった意味をもつのか感じ取ってみなさい。
 私たちの習慣のすべてがそれに逆らう。
 それらと闘うことはときには長く、困難な仕事だ。
 だが、明確な理解は大きな助けとなる。
 マインドのレベルでは、あなたは否定的な言語でしか言い表わすことができ
 ないということをより明確に理解するほど、探求はより早く終焉を迎える。
 そして、あなたは無限の実在を実現するのだ。(p79)


否定的な言語でしか

 私はある時、ある場所で、両親のもとに生まれ、今私は某で、どこそこに住
 み、誰それと結婚し、誰それの父親で、どこそこに雇われ等々……といった
 概念は、「私は在る」という感覚のなかに本来ないものだ。
 「私はあれやこれだ」というのが私たちの通常の態度だ。
 忍耐強く堅固に、「あれ」や「これ」から「私は在る」を分離しなさい。
 そして「あれ」や「これ」として在るのではなく、ただ在るということがど
 ういった意味をもつのか感じ取ってみなさい。
 私たちの習慣のすべてがそれに逆らう。
 それらと闘うことはときには長く、困難な仕事だ。
 だが、明確な理解は大きな助けとなる。
 マインドのレベルでは、あなたは否定的な言語でしか言い表わすことができ
 ないということをより明確に理解するほど、探求はより早く終焉を迎える。
 そして、あなたは無限の実在を実現するのだ。(p79)


暗室太陽

 それは暗室に入っていくようなものだ。
 あなたには何も見えない。
 あなたは触れるかもしれないが、色彩も輪郭も、何も見えない。
 そこでが開き、部屋は光で溢れ、満たされ、色彩と形態が現れだす。
 光を与えたのはだ。
 だがが光の源なのではない。
 太陽が源なのだ。
 同じように、物質は暗室のようなものだ。
 意識がだ。
 感覚と知覚によって物質はあふれだす。
 そして物質と光の両方の源である至高なるものが太陽なのだ。
 窓は開いているかも、閉じているかもしれない。
 太陽はいつも輝いている。
 太陽は部屋に完全な変化をもたらしたが、太陽は変化しない。
 しかし、これらすべても小さな「私は在る」にとっては大きな意味を持たな
 い。
 「私は在る」なしには何も存在できないからだ。
 すべての知識は「私は在る」に関わる。
 この「私は在る」についての誤った考えが束縛へと導き、正しい考えは自由
 と幸福をもたらすのだ。(p81)


実存(イクジスタンス) と 存在(ビーイング)

 実存することとは、あるもの、ある感情、ある想い、ある概念といった何か
 として在ることを意味している。
 すべての実存(イクジスタンス)はある特定のものだ。
 すべての存在(ビーイング)はほかのあらゆる存在を互いに受け入れるとい
 う意味で、存在だけが普遍的なものと言える。
 実存は対立するが、存在に対立はありえない。
 実存とは何かになること、生まれ、死に、また生まれるという変化を意味す
 る。
 一方、存在には平和と静寂があるのだ。(p81-82)


世界を投影する

 世界を投影するマインドが、それ自身のやり方で色づけするのだ。
 あなたがある人に出会うとき、彼は見知らぬ人だ。
 彼と結婚すれば、彼はあなた自身のものとなる。
 喧嘩をすれば、彼はあなたの敵になる。
 彼があなたにとって何であるかを決定するのは、あなたのマインドの姿勢に
 よるのだ。(p82)


投影するマインド

 世界を投影するマインドが、それ自身のやり方で色づけするのだ。
 あなたがある人に出会うとき、彼は見知らぬ人だ。
 彼と結婚すれば、彼はあなた自身のものとなる。
 喧嘩をすれば、彼はあなたの敵になる。
 彼があなたにとって何であるかを決定するのは、あなたのマインドの姿勢に
 よるのだ。(p82)


主観的幻想

 主観的であるかぎり、それは幻想だ。
 実在は客観性の内にある。(p82)


主観的客観的

 すべては主観的だ。
 しかし、実在は客観的だ。
 
 それは記憶や期待、欲望や恐れ、好き嫌いといった選択に依存しない。
 すべてはあるがままとして見られるのだ。(p82)


実在は客観的

 すべては主観的だ。
 しかし、実在は客観的だ。
 
 それは記憶や期待、欲望や恐れ、好き嫌いといった選択に依存しない。
 すべてはあるがままとして見られるのだ。(p82)


何を言おうと

 あなたが何を言おうと、それは真実でもあり偽りでもある。
 マインドを超えたところに言葉が届くことはできないのだ。(p83)


個人主体

 個人はけっして主体ではありえない。
 あなたは個人を見ることはできるが、あなたは個人ではない。
 あなたはつねに至高なるものであり、その至高なるものが、ある与えられた
 時間と空間において観照者として現れたのだ。
 その観照者が至高なるものの純粋な覚醒と、個人の多様な意識の間に橋を渡
 すのだ。(p83)


至高なるもの@

 個人はけっして主体ではありえない。
 あなたは個人を見ることはできるが、あなたは個人ではない。
 あなたはつねに至高なるものであり、その至高なるものが、ある与えられた
 時間と空間において観照者として現れたのだ。
 その観照者が至高なるものの純粋な覚醒と、個人の多様な意識の間に橋を渡
 すのだ。(p83)


多様な性癖(サンスカーラ)

 彼ら(個人のなかの多様な性癖)はまったく反駁しあっているのだ。
 彼らをただの思考と感情の習慣、記憶と衝動として、あるがままに見なさい。(p83)


サンスカーラ(多様な性癖)

 彼ら(個人のなかのサンスカーラ)はまったく反駁しあっているのだ。
 彼らをただの思考と感情の習慣、記憶と衝動として、あるがままに見なさい。(p83)


自己同一視

 (自分のなかに異なる個人がいて闘っている、というなら)
 なぜなら、あなたは彼らと自分自身を自己同一視するからだ。
 ひとたび、何であれあなたの前に現れたものは自分自身ではありえず、「私
 は在る」と言うことはできないと認識すれば、あなたはすべての「個人」た
 ちと彼らの要求から自由になる。
 「私は在る」という感覚はあなた自身のものだ。
 それを手放すことはできない。
 しかし、あなたはそれを「私は若い、私は裕福だ」というように何にでも分
 け与えることができる。
 ただ、そのような自己同一化は明らかに偽りであり、束縛となる原因なのだ。(p83)


意識の源

 意識の源は、意識のなかの対象物ではありえない。
 を知るということは、として在るということだ。
 あなたが個人ではなく純粋で静かなる観照者であり、恐れのない気づきが真
 の存在だと悟ったとき、あなたは実在となる。
 それがであり、無尽蔵の可能性だ。(p84)


源を知る

 意識のは、意識のなかの対象物ではありえない。
 源を知るということは、として在るということだ。
 あなたが個人ではなく純粋で静かなる観照者であり、恐れのない気づきが真
 の存在だと悟ったとき、あなたは実在となる。
 それがであり、無尽蔵の可能性だ。(p84)


真の存在

 意識の源は、意識のなかの対象物ではありえない。
 源を知るということは、源として在るということだ。
 あなたが個人ではなく純粋で静かなる観照者であり、恐れのない気づきが真
 の存在だと悟ったとき、あなたは実在となる。
 それが源であり、無尽蔵の可能性だ。(p84)


無尽蔵の可能性

 意識の源は、意識のなかの対象物ではありえない。
 源を知るということは、源として在るということだ。
 あなたが個人ではなく純粋で静かなる観照者であり、恐れのない気づきが真
 の存在だと悟ったとき、あなたは実在となる。
 それが源であり、無尽蔵の可能性だ。(p84)


見る目はひとつ

 (源はたくさんあるのか、それともひとつなのかというなら)
 それはあなたがそれをどの側から、どう見るかによる。
 世界のなかの対象物はたくさんあるが、それを見る目はひとつだ。
 高次のものは低次のものにとってつねにひとつとして現れ、高次のものにと
 って低次のものは多数として現れる。(p84)


対象物見る目

 世界のなかの対象物はたくさんあるが、それを見る目はひとつだ。
 高次のものは低次のものにとってつねにひとつとして現れ、高次のものにと
 って低次のものは多数として現れる。(p84)


高次低次

 世界のなかの対象物はたくさんあるが、それを見る目はひとつだ。
 高次のものは低次のものにとってつねにひとつとして現れ、高次のものにと
 って低次のものは多数として現れる。(p84)


形や名前

 (形や名前はみな同じひとつの神のものなのか、というなら)
 これもまた、あなたがどう見るかにかかってくる。
 言語上のレベルでは、すべてが相対的だ。
 絶対性は体験されるものであって、討論すべきことではない。(p84)


絶対性

 言語上のレベルでは、すべてが相対的だ。
 絶対性は体験されるものであって、討論すべきことではない。
 
 それは対象物として認識したり、記憶のなかに蓄えられたりするものではな
 い。
 それは現在のなかに、むしろ感覚的なものとしてある。
 それは「何であるか」というより、「どう在るか」に近い。
 それは質のなか、価値のなかにあり、すべての源としてすべてのなかに存在
 しているのだ。
 
 それは意識に誕生を与えるのだ。
 それ以外のすべては意識のなかにある。(p84)


客観的宇宙

 客観的宇宙(マハーダカーシュ)は不変の運動を続け、無数の形態を投影し
 ては溶解している。
 いつであれ形態に生気(プラーナ)が吹き込まれたとき、物質のなかで気づ
 きの反映によって意識(チェタナ)が現れる。(p84)


至高なるものA

 何が、どうやってそれ(至高なるもの)に影響を与えられるというのだろう?
 水源が川の気まぐれな流れの影響を受けることはない。
 また金属が宝飾品の形によって影響を受けることもない。
 光源がスクリーン上の画像によって影響を受けるだろうか?
 至高なるものはすべてを可能にする。
 それだけだ。(p85)


原因結果@

 原因を探しだすことは、ただのマインドの気晴らしにすぎない。
 原因結果という二元性は存在しない。
 すべてはそれ自身の原因なのだ。(p85)


意識のなかでは

 私に言えることは、意識がすべてを包括しているということだけだ。
 意識のなかではすべてが可能だ。
 もし望むならば、あなたの世界のなかで原因を持つこともできるだろう。
 別の人は、神の意志というひとつの原因に満足かもしれない。
 根本的な原因はひとつ、「私は在る」だ。(p85)


根本的な原因

 私に言えることは、意識がすべてを包括しているということだけだ。
 意識のなかではすべてが可能だ。
 もし望むならば、あなたの世界のなかで原因を持つこともできるだろう。
 別の人は、神の意志というひとつの原因に満足かもしれない。
 根本的な原因はひとつ、「私は在る」だ。(p85)


既知未知

 自己の視点から見れば、世界は既知であり、至高なるものは未知だ。
 未知既知に誕生を与え、しかも未知としてとどまる。
 既知は無限だが、未知は無限大の無限だ。
 光線がほこりの微少片にさえぎられないかぎり目に見えないように、至高な
 るものもすべてを既知にしながら、それ自身は未知としてとどまるのだ。(p85)


至高なるものB

 自己の視点から見れば、世界は既知であり、至高なるものは未知だ。
 未知は既知に誕生を与え、しかも未知としてとどまる。
 既知は無限だが、未知は無限大の無限だ。
 光線がほこりの微少片にさえぎられないかぎり目に見えないように、至高な
 るものもすべてを既知にしながら、それ自身は未知としてとどまるのだ。(p85)


無限大の無限

 自己の視点から見れば、世界は既知であり、至高なるものは未知だ。
 未知は既知に誕生を与え、しかも未知としてとどまる。
 既知は無限だが、未知は無限大の無限だ。
 光線がほこりの微少片にさえぎられないかぎり目に見えないように、至高な
 るものもすべてを既知にしながら、それ自身は未知としてとどまるのだ。(p85)


未知として

 自己の視点から見れば、世界は既知であり、至高なるものは未知だ。
 未知は既知に誕生を与え、しかも未知としてとどまる。
 既知は無限だが、未知は無限大の無限だ。
 光線がほこりの微少片にさえぎられないかぎり目に見えないように、至高な
 るものもすべてを既知にしながら、それ自身は未知としてとどまるのだ。(p85)


ほこりの微少片

 自己の視点から見れば、世界は既知であり、至高なるものは未知だ。
 未知は既知に誕生を与え、しかも未知としてとどまる。
 既知は無限だが、未知は無限大の無限だ。
 光線がほこりの微少片にさえぎられないかぎり目に見えないように、至高な
 るものもすべてを既知にしながら、それ自身は未知としてとどまるのだ。(p85)


アクセス不可能

 (未知はアクセス不可能なのか、というなら)
 いいや。
 至高なるものはもっとも到達しやすいものだ。
 なぜなら、それはあなたの存在そのものだからだ。
 考えることを止め、至高なるもの以外を求めないこと、それで充分だ。(p85)


至高なるものC

 至高なるものはもっとも到達しやすいものだ。
 なぜなら、それはあなたの存在そのものだからだ。
 考えることを止め、至高なるもの以外を求めないこと、それで充分だ。(p85)


至高なるものC

 至高なるものはもっとも到達しやすいものだ。
 なぜなら、それはあなたの存在そのものだからだ。
 考えることを止め、至高なるもの以外を求めないこと、それで充分だ。(p85)


何も求めない

 (もし至高なるものさえも、何も求めないとしたら)
 それでは、あなたは死んだも同然だ。
 あるいはあなたが至高なるものなのだ。(p85)


真我欲望

 (欲している者は誰か、個人なのか、あるいは真我なのか、というなら)
 真我だ。
 神聖なもの、あるいは神聖でないもの、すべての欲望真我からやってくる。
 それらはすべ「私は在る」という感覚に依存しているのだ。(p85)


欲望の形や質

 すべての欲望は幸福を目ざしいている。
 欲望の形や質は精神(アンタカラナ)に依存する。
 不活発性(タマス)が優勢なら、そこには逸脱が見られるだろう。
 エネルギー(ラジャス)があると熱情が生じ、透明性(サットヴァ)がある
 ところには、その欲望の動機の背後に善意と慈悲、幸福であることよりも幸
 福になってほしいという衝動が見られる。
 だが、至高なるものはすべてを超えている。
 さらに、その無限の浸透性ゆえに、あらゆる適切な望みは満たされるのだ。(p86)


破壊する欲望

 主体、または対象を破壊する欲望、あるいは満たされた後でも消え去らない
 欲望は自己矛盾しており、満たされることはない。
 動機が愛と善意と慈悲によって生まれた欲望だけが、主体にも対象にも有益
 であり、充分満たされるのだ。(p86)


欲望自己矛盾

 主体、または対象を破壊する欲望、あるいは満たされた後でも消え去らない
 欲望自己矛盾しており、満たされることはない。
 動機が愛と善意と慈悲によって生まれた欲望だけが、主体にも対象にも有益
 であり、充分満たされるのだ。(p86)


欲望苦痛

 (すべての欲望は同じく苦痛をともなう、というなら)
 それらは同じではない。
 苦痛もまた同じものではない。
 熱情は苦痛だ。
 慈悲に苦痛はありえない。
 全宇宙が慈悲から生まれた欲望を満たそうと努力しているのだ。(p86)


慈悲苦痛

 熱情は苦痛だ。
 慈悲苦痛はありえない。
 全宇宙が慈悲から生まれた欲望を満たそうと努力しているのだ。(p86)


未知

 すべての源はすべてをもっている。
 源からあふれだすものは何であれ、すでにそこに種子の形として存在してい
 るのだ。
 そしてひとつの種子は無数の種子の究極的なものであり、それが経験を含み、
 数かぎりない森林を約束しているように、未知もそうであったこと、そうあ
 りえたこと、そうなるだろうこと、そうありうるだろうことのすべてを含ん
 でいる。
 何かに成るという可能性の全領域は完全に開かれ、到達可能であり、過去と
 未来が永遠の現在のなかに共存しているのだ。(p86)


可能性の全領域

 すべての源はすべてをもっている。
 源からあふれだすものは何であれ、すでにそこに種子の形として存在してい
 るのだ。
 そしてひとつの種子は無数の種子の究極的なものであり、それが経験を含み、
 数かぎりない森林を約束しているように、未知もそうであったこと、そうあ
 りえたこと、そうなるだろうこと、そうありうるだろうことのすべてを含ん
 でいる。
 何かに成るという可能性の全領域は完全に開かれ、到達可能であり、過去と
 未来が永遠の現在のなかに共存しているのだ。(p86)


至高なる未知

 (わたしが至高なる未知のなかに生きているのか、というなら)
 それ以外、どこに住むことができるだろうか?
 
 どんな欲望もわたしのマインドの中に湧いてはこないのだ。(p86)


無意識B

 (わたしが無意識なのか、というなら)
 もちろんそうではない。
 わたしは完全に意識している。
 だが、欲望も恐れもマインドのなかに入ってこないため、そこには完全な静
 寂が在る。(p86)


完全な静寂

 わたしは完全に意識している。
 だが、欲望も恐れもマインドのなかに入ってこないため、そこには完全な静
 寂が在る。(p86)


静寂を知る者

 (静寂を知る者は誰か、というなら)
 静寂がそれ自身を知っている。
 それは熱情や欲望が静まったときの、沈黙したマインドの静寂なのだ。(p86)


欲望からの自由

 欲望とはマインドのなかの波にすぎない。
 それを見たとき、あなたは波だと知る。
 欲望は数あるもののなかのひとつにすぎない。
 私にそれを満たそうという衝動は起きない。
 それに対して何もする必要はない。
 欲望からの自由とは、それを満たさなければという強迫観念が不在だという
 ことだ。(p87)


心配の根本原因

 (そもそも、なぜ欲望は湧いてくるのか、というなら)
 なぜなら、あなたは生まれてきて、もしあなたが身体の面倒を見なければ死
 んでしまうだろうと想像するからだ。
 身体をもつ存在の欲望が心配の根本原因だ。(p87)


非自己と直面

 自己がそれ自身を知るためにはそれと反対のもの、非自己と直面しなければ
 ならない。
 欲望は体験へと導く。
 体験は識別、無執着、自己知識――解放へと導く。
 そして解放とはいったい何だろうか?
 それはあなたが生と死を超越したものだと知ることだ。
 あなたが誰なのかを忘れ、自分が死を免れることのできない創造物だと想像
 することで、あなたは悪夢から目覚めなければならないという困難を自分に
 負わせてきた。
 
 探求もまた、あなたの目を覚ます。
 苦しみを待つまでもない。
 幸福への探求のほうがずっといい。
 なぜなら、マインドが平和と調和のなかにあるからだ。(p87)


解放とは@

 自己がそれ自身を知るためにはそれと反対のもの、非自己と直面しなければ
 ならない。
 欲望は体験へと導く。
 体験は識別、無執着、自己知識――解放へと導く。
 そして解放とはいったい何だろうか?
 それはあなたが生と死を超越したものだと知ることだ。
 あなたが誰なのかを忘れ、自分が死を免れることのできない創造物だと想像
 することで、あなたは悪夢から目覚めなければならないという困難を自分に
 負わせてきた。
 
 探求もまた、あなたの目を覚ます。
 苦しみを待つまでもない。
 幸福への探求のほうがずっといい。
 なぜなら、マインドが平和と調和のなかにあるからだ。(p87)


悪夢から目覚め

 自己がそれ自身を知るためにはそれと反対のもの、非自己と直面しなければ
 ならない。
 欲望は体験へと導く。
 体験は識別、無執着、自己知識――解放へと導く。
 そして解放とはいったい何だろうか?
 それはあなたが生と死を超越したものだと知ることだ。
 あなたが誰なのかを忘れ、自分が死を免れることのできない創造物だと想像
 することで、あなたは悪夢から目覚めなければならないという困難を自分に
 負わせてきた。
 
 探求もまた、あなたの目を覚ます。
 苦しみを待つまでもない。
 幸福への探求のほうがずっといい。
 なぜなら、マインドが平和と調和のなかにあるからだ。(p87)


究極の体験者

 (究極の体験者とは誰か、というなら)
 もちろん、真我だ。(p87)


至高なるものD

 (至高なるものを超える何かが存在するのか、というなら)
 真我以外に存在するものはない。
 すべてはひとつであり、すべては「私は在る」のなかに含まれる。
 目覚めと夢見の状態において、それは個人だ。
 深い眠りとトゥリーヤ(第四の状態)のなかで、それは真我だ。
 トゥリーヤの醒(さ)めた忘我の彼方に、至高の大いなる静寂の平和がある。
 だが、本質的にはすべてはひとつであり、現れと関わりをもっている。
 無知のなかで「見る者」は「見られるもの」となり、智慧(ちえ)のなかで
 は「見ること」になる。
 
 だが、なぜ至高なるものにこだわるのか?
 知る者を知りなさい。
 そうすればすべては知られるだろう。(p87)


真我個人

 真我以外に存在するものはない。
 すべてはひとつであり、すべては「私は在る」のなかに含まれる。
 目覚めと夢見の状態において、それは個人だ。
 深い眠りとトゥリーヤ(第四の状態)のなかで、それは真我だ。
 トゥリーヤの醒(さ)めた忘我の彼方に、至高の大いなる静寂の平和がある。
 だが、本質的にはすべてはひとつであり、現れと関わりをもっている。
 無知のなかで「見る者」は「見られるもの」となり、智慧(ちえ)のなかで
 は「見ること」になる。(p87)


無知智慧

 真我以外に存在するものはない。
 すべてはひとつであり、すべては「私は在る」のなかに含まれる。
 目覚めと夢見の状態において、それは個人だ。
 深い眠りとトゥリーヤ(第四の状態)のなかで、それは真我だ。
 トゥリーヤの醒(さ)めた忘我の彼方に、至高の大いなる静寂の平和がある。
 だが、本質的にはすべてはひとつであり、現れと関わりをもっている。
 無知のなかで「見る者」は「見られるもの」となり、智慧(ちえ)のなかで
 は「見ること」になる。(p87)


真理はシンプル

 真理はシンプルであり、誰にでも開かれている。
 なぜそれを複雑にしてしまうのだろう?
 真理は愛(いと)しく、愛すべきものだ。
 それはすべてを含み、すべてを受け入れ、すべてを浄める。
 偽りこそが困難で、苦難の源なのだ。
 それはつねに欲し、期待し、要求する。
 偽りであるために空虚で、つねに確認と再確認を探している。
 それは探求を恐れ、そして避けている。
 それはたとえ弱くはかないものでも、何であれ、支えとなるものと自己同一
 化する。
 何であれ得ると失い、さらに求める。
 
 それゆえ、意識を信頼してはならない。
 何ひとつあなたが見、感じ、考えられることはそのとおりではないのだ。
 罪や徳、長所や欠点でさえ、現れたとおりではない。
 通常、善と悪は社会の慣例と習慣の問題であって、どう言葉で表されるかに
 したがって、避けられたり、歓迎されたりするものだ。(p88)


偽りこそが困難

 真理はシンプルであり、誰にでも開かれている。
 なぜそれを複雑にしてしまうのだろう?
 真理は愛(いと)しく、愛すべきものだ。
 それはすべてを含み、すべてを受け入れ、すべてを浄める。
 偽りこそが困難で、苦難の源なのだ。
 それはつねに欲し、期待し、要求する。
 偽りであるために空虚で、つねに確認と再確認を探している。
 それは探求を恐れ、そして避けている。
 それはたとえ弱くはかないものでも、何であれ、支えとなるものと自己同一
 化する。
 何であれ得ると失い、さらに求める。
 
 それゆえ、意識を信頼してはならない。
 何ひとつあなたが見、感じ、考えられることはそのとおりではないのだ。
 罪や徳、長所や欠点でさえ、現れたとおりではない。
 通常、善と悪は社会の慣例と習慣の問題であって、どう言葉で表されるかに
 したがって、避けられたり、歓迎されたりするものだ。(p88)


支えとなるもの

 真理はシンプルであり、誰にでも開かれている。
 なぜそれを複雑にしてしまうのだろう?
 真理は愛(いと)しく、愛すべきものだ。
 それはすべてを含み、すべてを受け入れ、すべてを浄める。
 偽りこそが困難で、苦難の源なのだ。
 それはつねに欲し、期待し、要求する。
 偽りであるために空虚で、つねに確認と再確認を探している。
 それは探求を恐れ、そして避けている。
 それはたとえ弱くはかないものでも、何であれ、支えとなるものと自己同一
 化する。
 何であれ得ると失い、さらに求める。
 
 それゆえ、意識を信頼してはならない。
 何ひとつあなたが見、感じ、考えられることはそのとおりではないのだ。
 罪や徳、長所や欠点でさえ、現れたとおりではない。
 通常、善と悪は社会の慣例と習慣の問題であって、どう言葉で表されるかに
 したがって、避けられたり、歓迎されたりするものだ。(p88)


意識を信頼してはならない

 真理はシンプルであり、誰にでも開かれている。
 なぜそれを複雑にしてしまうのだろう?
 真理は愛(いと)しく、愛すべきものだ。
 それはすべてを含み、すべてを受け入れ、すべてを浄める。
 偽りこそが困難で、苦難の源なのだ。
 それはつねに欲し、期待し、要求する。
 偽りであるために空虚で、つねに確認と再確認を探している。
 それは探求を恐れ、そして避けている。
 それはたとえ弱くはかないものでも、何であれ、支えとなるものと自己同一
 化する。
 何であれ得ると失い、さらに求める。
 
 それゆえ、意識を信頼してはならない。
 何ひとつあなたが見、感じ、考えられることはそのとおりではないのだ。
 罪や徳、長所や欠点でさえ、現れたとおりではない。
 通常、善と悪は社会の慣例と習慣の問題であって、どう言葉で表されるかに
 したがって、避けられたり、歓迎されたりするものだ。(p88)


欲望

 (悪い欲望や良い欲望、高次や低次の欲望というものはないのか、というなら)
 すべての欲望は悪い。
 だが、あるものはほかのものよりさらに悪い。
 欲望を追求してみなさい、かならず災難にであうだろう。(p88)


良い欲望

 (悪い欲望良い欲望、高次や低次の欲望というものはないのか、というなら)
 すべての欲望は悪い。
 だが、あるものはほかのものよりさらに悪い。
 欲望を追求してみなさい、かならず災難にであうだろう。(p88)


欲望を追求して

 (悪い欲望や良い欲望、高次や低次の欲望というものはないのか、というなら)
 すべての欲望は悪い。
 だが、あるものはほかのものよりさらに悪い。
 欲望を追求してみなさい、かならず災難にであうだろう。(p88)


欲望から自由な状態

 (欲望から自由になりたいという欲望も悪いのか、というなら)
 なぜ望むのだろうか?
 欲望から自由な状態を望んでも、自由にはなれないだろう。
 何もあなたを自由にすることはできない。
 なぜなら、あなたはすでに自由だからだ。
 欲望のない明晰性(めいせきせい)であなた自身を見なさい。
 それだけだ。(p88)


時間とは

 (自己を知るには時間がかかる、というなら)
 どうして時間があなたを助けられるだろう?
 時間とは瞬間の連続だ。
 それぞれの瞬間は無から現れ、無へと消えていき、ふたたび現れることはな
 い。
 そんなはかないものの上に、どうして何かを築くことができるだろう?(p88)


個人以外の何で

 (自分は個人以外の何でありうるのか、というなら)
 見つけだしなさい。
 たとえ私があなたに、あなたは観照者、静かに見守る人だと言ったところで、
 あなた自身が自己の存在への道を見いださないかぎり、それは何の意味もも
 たないだろう。 
 
 (どのようにして自己の存在への道を見いだしたらよいか、というなら)
 「私は誰か?」以外のすべての質問を放棄しなさい。
 最終的にあなたが確信できる唯一の事実とは、あなたは在るということだけ
 だ。
 「私は在る」は確かだ。
 「私はこれだ」は確かでない。
 真実のあなたとは何なのか。
 それを見いだすために努めなさい。(p89)


なぜ神は私をこのように

 (なぜ神は私をこのように造られたのか、というなら)
 どのについてあなたは話しているのだろうか?
 とは何なのか?
 質問することを可能にしているその光そのものがではないだろうか?
 「私は在る」そのものがなのだ。
 探求そのものがだ。
 探求を通して、あなたは身体でもマインドでもなく、あなたのなかの自己へ
 の愛が生きるものすべての自己への愛だということを発見する。
 その二つはひとつなのだ。
 あなたのなかの意識と私のなかの意識は二つのように見えるが、実際はひと
 つだ。
 統合を見いだしなさい。
 それが愛なのだ。(p89)


神とは何なのか?

 (なぜは私をこのように造られたのか、というなら)
 どのについてあなたは話しているのだろうか?
 神とは何なのか?
 質問することを可能にしているその光そのものがではないだろうか?
 「私は在る」そのものがなのだ。
 探求そのものがだ。
 探求を通して、あなたは身体でもマインドでもなく、あなたのなかの自己へ
 の愛が生きるものすべての自己への愛だということを発見する。
 その二つはひとつなのだ。
 あなたのなかの意識と私のなかの意識は二つのように見えるが、実際はひと
 つだ。
 統合を見いだしなさい。
 それが愛なのだ。(p89)


どうすればその愛を

 (どうすればその愛を見いだせるのでしょうか、というなら)
 今、あなたがするものは何だろうか?
 「私は在る」だ。
 あなたのハートとマインドをそれに捧げなさい。
 ほかに何も考えずに。
 これが努力なく自然になったとき、最高の状態となる。
 そのなかでは、そのものがする者であり、またされる者なのだ。(p89)


自己愛

 (誰もが生きること、存在することを望んでいる。それは自己愛ではないの
  か、というなら)
 すべての欲望は、自我のなかにその源をもっている。
 問題は、正しい欲望を選択することにある。
 
 (何が正しく何が間違っているかの基準は社会によって異なる、というなら)
 すべての伝統的基準を捨て去りなさい。
 それらは偽善者たちに任せておくがいい。
 欲望と恐れと誤った概念からあなたを解き放つものだけが正しいのだ。
 あなたが罪や徳に煩(わずら)わされている間は、安心が訪れることはない
 だろう。(p89-90)


伝統的基準

 (何が正しく何が間違っているかの基準は社会によって異なる、というなら)
 すべての伝統的基準を捨て去りなさい。
 それらは偽善者たちに任せておくがいい。
 欲望と恐れと誤った概念からあなたを解き放つものだけが正しいのだ。
 あなたが罪や徳に煩(わずら)わされている間は、安心が訪れることはない
 だろう。(p90)


罪や徳A

 (何が正しく何が間違っているかの基準は社会によって異なる、というなら)
 すべての伝統的基準を捨て去りなさい。
 それらは偽善者たちに任せておくがいい。
 欲望と恐れと誤った概念からあなたを解き放つものだけが正しいのだ。
 あなたが罪や徳に煩(わずら)わされている間は、安心が訪れることはない
 だろう。(p90)


罪や徳B

 (絶対的や絶対的といったものがあるのか、というなら)
 罪や徳は個人にしかあてはまらない。
 深き人や高き人なしに、罪や徳があるだろうか?
 絶対の次元に個人の存在はない。
 純粋な覚醒の大洋は、高くも深くもない。
 はつねに相対的なものだ。(p90)


罪のすべて

 (や徳を超えたことを何によって知るのか、というなら)
 すべての欲望と恐れから、そして自分が個人であるという考えそのものから
 自由になることによってだ。
 「私は罪人だ」、「私は罪人ではない」といった考えをいだくこと自体が
 なのだ。
 自分自身をある特定のものと自己同一化することが罪のすべてだ。
 非人格が真実であり、人格は現れては消えていくものだ。
 「私は在る」は非個人の存在だ。
 「私はこれだ」が個人だ。
 個人は相対的なものであり、純粋な存在は根本的なものだ。(p90)


個人であること

 (個人であることをやめなさい、とはどういう意味か、というなら)
 私は在ることをやめなさいとは言ってはいない。
 それは不可能だ。
 私は、あなたが生まれ、両親をもち、この身体であり、いつか死が訪れ……
 といった想像をするのはやめなさいと言っているだけだ。
 試してみなさい。
 はじめて見なさい。
 それはあなたの思うほど困難ではないのだ。(p90)


真の徳

 真の徳は神の本性(スワルーパ)だ。
 真のあなたがあなたのなのだ。
 だが、罪の反対である、あなたの言うは恐れから生まれた服従でしかない。(p91)


罪なものとする

 (何が行為を罪なものとするのか、というなら)
 何であれ、あなたがよりよい知識に反してするならばそれはだ。
 
 (知識は記憶に依存している、というなら)
 自己を覚えていることが徳であり、自己を忘れることが罪だ。(p91)


魂と物質の心理的な連結部

 自己を覚えていることが徳であり、自己を忘れることが罪だ。
 つまり、それは魂と物質の心理的な連結部だ。
 この連結部を精神(アンタカラナ)と呼んでもいいだろう。
 この精神が未熟で、未発達であり、まったく原始的ならば、それは粗雑な幻
 想に支配される。
 それが広さと繊細さにおいて成長すれば、純粋な物質と純粋な魂との完璧な
 連結部となり、物質に意味を与え、魂に表現を与える。(p91)


精神(アンタカラナ)

 自己を覚えていることが徳であり、自己を忘れることが罪だ。
 つまり、それは魂と物質の心理的な連結部だ。
 この連結部を精神(アンタカラナ)と呼んでもいいだろう。
 この精神が未熟で、未発達であり、まったく原始的ならば、それは粗雑な幻
 想に支配される。
 それが広さと繊細さにおいて成長すれば、純粋な物質と純粋な魂との完璧な
 連結部となり、物質に意味を与え、魂に表現を与える。(p91)


アンタカラナ@

 自己を覚えていることが徳であり、自己を忘れることが罪だ。
 つまり、それは魂と物質の心理的な連結部だ。
 この連結部を精神(アンタカラナ)と呼んでもいいだろう。
 この精神が未熟で、未発達であり、まったく原始的ならば、それは粗雑な幻
 想に支配される。
 それが広さと繊細さにおいて成長すれば、純粋な物質と純粋な魂との完璧な
 連結部となり、物質に意味を与え、魂に表現を与える。(p91)


愛の智慧

 物質的世界(マハーダカーシュ)と霊的世界(パラマカーシュ)がある。
 その間に宇宙的マインド(チダカーシュ)と宇宙のハート(プレマカーシュ)
 と呼ばれるものがある。
 その二つをひとつにするのは愛の智慧なのだ。(p91)


罪を犯す

 (誰が罪と徳の区別をつけるのか、というなら)
 身体をもつ者が、身体とともに罪を犯し、マインドをもつ者がマインドとと
 もに罪を犯すのだ。(p92)


太陽とともに

 地球とともに動いている人にとって、昼と夜を体験することはまぬがれよう
 がない。
 太陽とともにとどまる人は暗闇を知らない。
 私の世界はあなたの世界とは異なるのだ。
 私が見るには、あなたがたすべては舞台の上で演じているのだ。
 あなたが行ったり来たりしていることには何の実在性もない。
 そしてあなたの問題はまったくの空想だ!(p92)


舞台の上で演じ

 地球とともに動いている人にとって、昼と夜を体験することはまぬがれよう
 がない。
 太陽とともにとどまる人は暗闇を知らない。
 私の世界はあなたの世界とは異なるのだ。
 私が見るには、あなたがたすべては舞台の上で演じているのだ。
 あなたが行ったり来たりしていることには何の実在性もない。
 そしてあなたの問題はまったくの空想だ!(p92)


夢のような状態に

 (私たちの悪夢を、あなたはどうすることもできないのか、というなら)
 私はしている。
 私はあなたの夢のような状態に入り込んで、あなたに言っている。
 「あなた自身や他者を傷つけるのはやめなさい。
  苦しむのはやめなさい。
  目覚めなさい!」
 と。(p92)


夢に疑問をもちはじめ

 (なぜ私たちは目覚めないのか、というなら)
 あなたは目覚めるだろう。
 私は挫(くじ)けさせられない。
 時間はかかるだろうが。
 あなたが自分の夢に疑問をもちはじめたとき、覚醒は間近なのだ。(p92)


どしゃ降り

 あなたたちは皆、どしゃ降りでずぶぬれになったが、私の世界ではいつも晴
 天だ。
 夜も昼もなければ、暑さも寒さもない。
 何の悩みも後悔もつきまとわない。
 私のマインドには思考がない。
 そのためにあくせく働かなければならない欲望など何もないからだ。
 
 あなたの世界ははかなく変化しつづける。
 私の世界は完全で不変のものだ。
 あなたはあなたの世界で何が気に入っているのかを私に言うことができる。
 注意と興味をもって私は聞こう。
 だが、私はあなたの世界が存在せず、あなたは夢を見ているのだということ
 を、一瞬でさえ忘れることはないのだ。(p97)


私の世界A

 私の世界には同一視できるような特徴はない。
 それについては何も言えない。
 私が私の世界だ。
 私の世界は私自身なのだ。
 それは完全で完璧だ。
 あらゆる印象はかき消され、あらゆる体験はぬぐい去られる。
 私は何も必要ない。
 自分自身でさえも。
 なぜなら自分自身を失うことはできないからだ。(p97)


何も必要ない@

 私の世界には同一視できるような特徴はない。
 それについては何も言えない。
 私が私の世界だ。
 私の世界は私自身なのだ。
 それは完全で完璧だ。
 あらゆる印象はかき消され、あらゆる体験はぬぐい去られる。
 私は何も必要ない。
 自分自身でさえも。
 なぜなら自分自身を失うことはできないからだ。(p98)


概念や区別

 それらすべての概念や区別は、あなたの世界の中に存在する。
 私の世界にはそういったものは存在しない。
 私の世界は単一のとてもシンプルなものだ。
 
 何であれ、あなたの世界のなかで起こったことは、そこでだけ有効であり、
 反応を呼び起こす。
 私の世界では何も起こらない。(p98)


あなたの世界@

 それらすべての概念や区別は、あなたの世界の中に存在する。
 私の世界にはそういったものは存在しない。
 私の世界は単一のとてもシンプルなものだ。
 
 何であれ、あなたの世界のなかで起こったことは、そこでだけ有効であり、
 反応を呼び起こす。
 私の世界では何も起こらない。(p98)


私には届かない

 しかし、あなたの言葉は私には届かない。
 あなたの世界では語られないものは存在をもたない。
 私の世界では言葉とその内容が存在をもたないのだ。
 あなたの世界では何もとどまらない。
 私の世界では何も変わらない。
 私の世界は真実だ。
 あなたの世界は夢でできているのだ。(p98)


永遠の沈黙

 会話はあなたの世界のなかにある。
 私の世界には永遠の沈黙がある。
 私の沈黙は歌い、私の虚空は満たされ、何ひとつ欠けていない。
 そこにあなたがいないかぎり、あなたに私の世界を知ることはできない。(p98)


自分の存在@

 来ることや去ることは、私にとっては何の意味もない。
 それらもまた、ただの言葉だ。
 私は在る。
 私がどこから来て、どこへ行こうというのだろうか?
 
 何も得るものはない。
 あなたはあなたのものではないものを後にし、あなたがけっして失わなかっ
 たもの、自分の存在を見いだすのだ。(p99)


識別無執着@

 あなたの世界を、想像を通してではなく、あるがままに見なさい。
 識別することが無執着をもたらす。
 無執着は正しい行為を確実にし、正しい行為はあなたの真の存在に内なる橋
 を築くだろう。
 行為は真剣さのあかしだ。
 言われたとおりに勤めて誠実に行うなら、すべての障害は消え去るだろう。(p99)


何と無駄な!

 あなたの世界では、私はもっとも惨(みじ)めだろう。
 目を覚まし、食べ、話し、また眠る。
 何と無駄なことか!
 
 生きること、死ぬこと。
 何と無意味な言葉だろう!
 あなたが生きている私を見るとき、私は死んでいる。
 あなたが私は死んでいると思うとき、私は生きている。
 何とあなたは混乱していることか!(p99)


困難

 困難は身体的、感情的、あるいは精神的なものかもしれない。
 だがそれらはつねに個人的なものだ。(p99)
好み:(-||-)

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