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書名: 『I AM THAT 私は在る  ニサルガダッタ・マハラジとの対話

書誌:
英訳者  モーリス・フリードマン
編集者  スダカール・S・ディクッシット
翻訳者  福間 巌
発行所  株式会社ナチュラルスピリット(2005年6月8日初版発行)
       http://www.naturalspirit.co.jp/
索引:
 ニサルガダッタ・マハラジ辞書(『私は在る』より)
引用:


背景

 何かが現れる前に、それに対する誰かがそこにいなければならない。
 すべての出現と消滅は、何か変わることのない背景に対する変化を前提とし
 ている。(p23)


不変の背景

 何かが現れる前に、それに対する誰かがそこにいなければならない。
 すべての出現と消滅は、何か変わることのない背景に対する変化を前提とし
 ている。(p23)


すべての問題

 あなたが抱えているすべての問題は、あなたの身体の問題――食事、衣服、
 家、友人、名前、名声、安全、生存だということがわからないだろうか?
 これらの問題すべては、あなたが単なる身体ではないと悟った瞬間に消え去
 るのだ。(p23)


存在の感覚

 「私は在る」という感覚のなかに深く入っていきなさい。
 そうすればあなたは見いだすだろう。
 忘れ去ってしまったものを見つけだすにはどうするだろう?
 思い起こすまでマインドにとどめておくのだ。
 「私は在る」という存在の感覚が最初に現れる。
 それがどこからやってくるのか、自分に尋ねなさい。
 あるいは、それをただ静かに見守りなさい。
 「私は在る」という感覚のなかにマインドが動じることなく定まったとき、
 表現不可能な、しかし体験可能なひとつの境地へとあなたは入っていく。
 何度も何度も試みることだ。
 そうすれば、「私は在る」という感覚は、つねにあなたとともにある。
 あなたが身体、感情、思考、観念、所有物などをそれに付随させてきただけ
 だ。
 こういった自己同化は、あらゆる誤解を招く。
 そのため、あなたは本当の自分ではないものを自分自身と見誤ってきたのだ。(p24)


付随させてきた

 「私は在る」という感覚のなかにマインドが動じることなく定まったとき、
 表現不可能な、しかし体験可能なひとつの境地へとあなたは入っていく。
 何度も何度も試みることだ。
 そうすれば、「私は在る」という感覚は、つねにあなたとともにある。
 あなたが身体、感情、思考、観念、所有物などをそれに付随させてきただけ
 だ。
 こういった自己同化は、あらゆる誤解を招く。
 そのため、あなたは本当の自分ではないものを自分自身と見誤ってきたのだ。(p24)


自己知識@

 あなたが何ではないか、ということを知ればそれでいい。
 あなたが何なのかを知る必要はない。
 なぜなら知識とは既知なるもの、知覚されるもの、あるいは観念としてしか
 表せないため、自己知識といったものはありえないからだ。
 それゆえ、あなたが何なのかということは、完全な否定においてしか表せな
 い。
 あなたに言えることは、「私はこれではなく、あれでもない」ということだ
 けだ。
 意図をもって「これこそが私だ」ということはできない。
 それはまったく意味をなさない。
 あれやこれ、と指し示すことができるものは、あなたではありえない。
 何かほかのものだとさえ言えない。
 あなたは知覚や想像を超えた何かだ。
 それにも関わらず、あなたなしでは想像も知覚もありえない。
 あなたはハートの感じること、マインドの考えること、身体の為すことを観
 察する。
 そのこと自体が、あなたはあなたが観察するものではないということを示唆
 しているのだ。
 あなたなしで知覚や体験が可能だろうか?
 体験とはかならず何かに帰属するものだ。
 誰かが、これは私の体験だと言明するのだ。
 体験者なくして体験はありえない。
 体験者が体験にその実在性を与えるのだ。
 あなたが体験できないもの、それに何の価値があるというのだろう?(p24)


体験体験者@

 あなたは知覚や想像を超えた何かだ。
 それにも関わらず、あなたなしでは想像も知覚もありえない。
 あなたはハートの感じること、マインドの考えること、身体の為すことを観
 察する。
 そのこと自体が、あなたはあなたが観察するものではないということを示唆
 しているのだ。
 あなたなしで知覚や体験が可能だろうか?
 体験とはかならず何かに帰属するものだ。
 誰かが、これは私の体験だと言明するのだ。
 体験者なくして体験はありえない。
 体験者体験にその実在性を与えるのだ。
 あなたが体験できないもの、それに何の価値があるというのだろう?(p24)


体験体験者@

 あなたは知覚や想像を超えた何かだ。
 それにも関わらず、あなたなしでは想像も知覚もありえない。
 あなたはハートの感じること、マインドの考えること、身体の為すことを観
 察する。
 そのこと自体が、あなたはあなたが観察するものではないということを示唆
 しているのだ。
 あなたなしで知覚や体験が可能だろうか?
 体験とはかならず何かに帰属するものだ。
 誰かが、これは私の体験だと言明するのだ。
 体験者なくして体験はありえない。
 体験者体験にその実在性を与えるのだ。
 あなたが体験できないもの、それに何の価値があるというのだろう?(p24)


体験体験者A

 明らかに、体験されたすべてのことは体験だ。
 そして、すべての体験のなかに体験者が現れる。
 記憶が連続するという幻想を与えるのだ。
 実際には、各体験にそれぞれの体験者がいる。
 そして、同一であるという感覚は、すべての体験者体験との関係の根底に
 おいて共通の要因があるためだ。
 同一性と連続性は同じものではない。
 ちょうどそれぞれの花がそれ自身の色をもっていながら、そのすべての色は
 同じ光源をもとにしているように、数々の体験者も記憶においては別々であ
 りながら、本質においては同一の分割不可能な気づきのなかに現れる。
 この本質こそが根源、基盤、そして時空を超えたすべての体験の「可能性」
 なのだ。(p24-25)


大いなる愛

 それ(体験の「可能性」)を得る必要はない。
 なぜなら、あなたがそれなのだ。
 あなたがそれに機会を与えれば、それがあなたを得るだろう。
 非実在のものへの執着を解き放ちなさい。
 そうすれば、実在はそれ自身へと即座に速やかに入りこんでいくだろう。
 自分自身の存在をあれやこれや想像するのをやめることだ。
 そうすれば、あなたがすべてのハートであり、源泉であるという認識は明ら
 かになるだろう。
 それとともに選択でも、偏愛でも、執着でもない、すべてのものを愛すべき、
 そして愛する価値あるものへと変容させるひとつの力、大いなる愛が現れる。(p25)


全体あなた

 全世界という概念も、あなたの私的な世界の一部ではないだろうか?
 宇宙はあなたのところにやってきて、あなたは宇宙の一部だと言いはしない。
 全体あなたをその一部として含んでいるという考えをつくり上げたのは、
 あなたではないだろうか?
 実際に、たとえどんなに想像と期待で飾りたてていても、あなたが知ってい
 るのはあなたの私的な世界にすぎないのだ。(p44)


記憶の反応

 知覚、想像、期待、不安、幻想はすべて記憶に基づくものだ。
 それらの間にはほとんど境界線さえなく、互いに溶け込んでいる。
 すべては記憶の反応なのだ。(p44)


私の世界@

 私の世界はあなたの世界と同様だ。
 は、の知覚する世界であなたと同じように見、聞き、感じ、考え、話し、
 行動する。
 だがあなたにとってはそれがすべてで、にとっては、それはほとんど無に
 等しい。
 世界自身の一部であると知っているため、あなたが食べた食事に注意を
 払わない以上に、もそれに留意しないのだ。
 用意されてから食べる間、食べ物はあなたから分離して在り、あなたはそれ
 に留意する。
 ひとたび飲みこめば、それに対してはまったく無意識になる。
 世界を食べてしまったのだ。
 だからそれについて考える必要はもはやないのだ。(p45)


三つの精神状態

 私にとっても同じことだ。
 しかし、そこには違いがあるように見える。
 各々の状態のなかで、あなたはほかの二つの状態を忘れているが、私にとっ
 ては目覚め、夢見、眠りの三つの精神状態を含み、しかも超越したひとつの
 存在状態があるだけだ。(p49)


想像の反映

 世界とは私の想像の反映にすぎない。
 何であれ見たいと思うものを、私は見ることができる。
 だが、なぜ創造、進化、破壊というパターンを編みだす必要があるだろうか?
 私にはそれらは必要ない。
 世界は私のなかにあり、世界は私自身なのだ。
 私はそれを恐れることもなければ、それをひとつの固定させた心理的画像に
 閉じこめたいなどという望みもない。(p49)


気づき意識B

 私は無意識だということに気づいている。
 
 気づきは根本的なものだ。
 それは根元的状態であり、はじまりがなく、終わりもない。
 原因がなく、支えがなく、部分も、変化もない。
 意識は表層の反映と関連しており、二元的な状態だ。
 気づきなしに意識は在りえない。
 しかし深い眠りのように、意識がなくても気づきは存在しうる。
 気づきは絶対的だ。
 意識はつねに何かに属し、その内容との相関関係にある。
 意識は部分的であり、変化するもの。
 気づきは完全で、不変であり、静かで沈黙の内にある。
 そして、それはあらゆる経験の共通の母体なのだ。(p49-50)


意識気づきA

 そもそも意識を起こさせるのは気づきであるため、あらゆる意識の状態には
 気づきがある。
 それゆえ意識意識しているという意識そのものが、すでに気づきにおける
 動きなのだ。
 自分の意識の流れに興味を抱くこと自体が、あなたを気づきへと導く。
 それは何も新しい状態ではない。
 それが根元的な、生命そのものである基本的存在、そしてまた愛と喜びであ
 ることは直ちに認識されるだろう。(p50)


真我の実現B

 真我の実現は無知の反対にほかならない。
 この世界を実在と見なし、真我を非実在と見なすことが無知であり、悲しみ
 の原因だ。
 真我が唯一の実在であり、そのほかすべては一時的な、はかないものと知る
 ことが自由であり、平和と喜びなのだ。
 それはとてもシンプルだ。
 ものごとを、想像を通して見るのではなく、ただあるがままに見ることを学
 びなさい。
 すべてをあるがままに見るとき、あなたはあるがままの自分を見るだろう。
 それは鏡を磨くようなものだ。
 あなたにあるがままの世界を見せるその同じ鏡が、あなた自身の顔をも見せ
 るだろう。
 「私は在る」という想いが、鏡を磨く布なのだ。
 それを使いなさい。(p50)


悲しみの原因

 真我の実現は無知の反対にほかならない。
 この世界を実在と見なし、真我を非実在と見なすことが無知であり、悲しみ
 の原因だ。
 真我が唯一の実在であり、そのほかすべては一時的な、はかないものと知る
 ことが自由であり、平和と喜びなのだ。
 それはとてもシンプルだ。
 ものごとを、想像を通して見るのではなく、ただあるがままに見ることを学
 びなさい。
 すべてをあるがままに見るとき、あなたはあるがままの自分を見るだろう。
 それは鏡を磨くようなものだ。
 あなたにあるがままの世界を見せるその同じ鏡が、あなた自身の顔をも見せ
 るだろう。
 「私は在る」という想いが、鏡を磨く布なのだ。
 それを使いなさい。(p50)


唯一の実在

 真我の実現は無知の反対にほかならない。
 この世界を実在と見なし、真我を非実在と見なすことが無知であり、悲しみ
 の原因だ。
 真我が唯一の実在であり、そのほかすべては一時的な、はかないものと知る
 ことが自由であり、平和と喜びなのだ。(p50)


鏡を磨く布

 この世界を実在と見なし、真我を非実在と見なすことが無知であり、悲しみ
 の原因だ。
 真我が唯一の実在であり、そのほかすべては一時的な、はかないものと知る
 ことが自由であり、平和と喜びなのだ。
 それはとてもシンプルだ。
 ものごとを、想像を通して見るのではなく、ただあるがままに見ることを学
 びなさい。
 すべてをあるがままに見るとき、あなたはあるがままの自分を見るだろう。
 それは鏡を磨くようなものだ。
 あなたにあるがままの世界を見せるその同じが、あなた自身の顔をも見せ
 るだろう。
 「私は在る」という想いが、鏡を磨く布なのだ。
 それを使いなさい。(p50)


無始無窮(むしむきゅう)

 快楽と苦痛による影響が消え、欲望と恐怖から自由になったのだ。
 私は満たされ、何も必要ではなくなった。
 純粋な覚醒の大海のなか、宇宙意識の表層で、世界という現象の無数の波が
 無始無窮(むしむきゅう)に立ち現れては消えゆくのを私は見たのだ。
 意識としては、それらはすべて私自身であり、出来事としては、それらはす
 べて私のものだ。
 ある神秘的な力がそれらを維持している。
 その力が真我、生命、神と呼ばれるものだ。(p51)


不死連続性

 連続性のなかに中断がなくても再誕生は可能だろうか?
 死がなければ再生もありえない。
 眠りにおける暗闇も、新鮮さと活力の回復をもたらす。
 死がなければ、私たちは永遠の老衰のなかに沈み込んでいることだろう。
 
 生と死がひとつの存在における二つの層として、互いに必須のものと見られ
 たとき、それが不死だ。
 はじまりのなかに終焉(しゅうえん)を見、終焉のなかに始まりを見ること
 が永遠を示唆している。
 不死連続性でないということは明白だ。
 変化というプロセスだけが続いていく。
 永遠に存在するものなど何もない。(p51)


永遠不死

 生と死がひとつの存在における二つの層として、互いに必須のものと見られ
 たとき、それが不死だ。
 はじまりのなかに終焉(しゅうえん)を見、終焉のなかに始まりを見ること
 が永遠を示唆している。
 不死が連続性でないということは明白だ。
 変化というプロセスだけが続いていく。
 永遠に存在するものなど何もない。(p51)


生理的機能

 私にとってそれは「私の身体」ではなく「ある身体」であって、「私のマイ
 ンド」ではなく「あるマインド」だ。
 マインドが身体の面倒を見る。
 私が干渉する必要はない。
 為(な)されるべきことは、通常の自然な方法で為される。
 
 生理的機能に関しては、あなたはまったく意識していないかもしれない。
 だが、思考や感情、欲望や恐れにいたっては、あなたは自己意識に鋭敏にな
 る。
 私にとっては、これらもまた全体として無意識の内にある。
 私はさほど意識もせずに人びとと話をし、まったく正しく適切に事を運んで
 いることを見いだすのだ。
 あたかも私は自発的にしかも的確に反応し、自動的にこの物質的な目覚めの
 生を生きているかのようだ。(p52)


素朴な庶民

 私の運命は素朴な庶民として、わずかばかりの教育を受けた質素な商人とな
 るよう生まれることだった。
 私の人生は、ごくありふれた欲望や恐れをもった平凡なものだった。
 私の師への信頼と、彼の言葉への服従を通して、私は真の実在を悟ったのだ。
 そして人間の性癖に関しては、その運命が尽き果てるまではそれ自身が面倒
 を見るのに任せておいたのだ。
 ときには古い習慣から、感情的あるいは心理的な反応も起こるが、それらは
 直ちに気づかれ、捨て去られる。
 結局は、人として在るという重荷があるかぎり、その性癖や習慣にさらされ
 るものだ。(p52)


古い習慣から

 私の運命は素朴な庶民として、わずかばかりの教育を受けた質素な商人とな
 るよう生まれることだった。
 私の人生は、ごくありふれた欲望や恐れをもった平凡なものだった。
 私の師への信頼と、彼の言葉への服従を通して、私は真の実在を悟ったのだ。
 そして人間の性癖に関しては、その運命が尽き果てるまではそれ自身が面倒
 を見るのに任せておいたのだ。
 ときには古い習慣から、感情的あるいは心理的な反応も起こるが、それらは
 直ちに気づかれ、捨て去られる。
 結局は、人として在るという重荷があるかぎり、その性癖や習慣にさらされ
 るものだ。(p52)


死んでいる

 私はすでに死んでいる。
 
 私は二重に死んでいる。
 身体だけではなく、マインドもまた死んでいる(p52)


意識の境界下

 途方もなく複雑な働きが頭脳と身体のなかでつねに行われているが、あなた
 はそれを意識しているだろうか?
 いいや、まったくしていない。
 それでも外部から見れば、すべては知性的に、目的をもって行われているよ
 うに見える。
 人の生全体は、その大部分が意識の境界下に沈んでいながらも、分別をもち、
 スムーズに流れているということを認めるがいい。(p53)


正常とは

 正常とは何だろう?
 欲望と恐怖に取りつかれ、争いと闘いに明け暮れ、無意味で喜びもないあな
 たの生が正常だというのだろうか?
 身体を過敏に意識することが正常だろうか?
 健康な身体、健康なマインドは、その所有者にはほとんど気づかれずにいる
 ものだ。
 苦痛や苦しみを通して、それらは注意と洞察を呼び起こす。
 同じことを生活全体に拡張させればいいのだ。
 人は何が起ころうと、それを気づきの焦点に合わせなくても、正しく機能し、
 充分うまく対応できるものなのだ。
 自己抑制が自然と身につけば、気づきは存在と行為のより深い層に焦点を移
 行する。(p53)


秩序ある生

 繰り返され、習慣づけられたものが自動化されることに、何の害があるだろ
 う?
 どちらにしてもそれは自動的なのだ。
 だが、それが混沌とし、苦痛と苦悩の原因となったとき、注意を呼び起こす。
 清らかな、秩序ある生を送ることの目的全体は、悲しみを背負い、混沌状態
 の奴隷となることから解き放たれるためにあるのだ。(p53)


個人は実在の影

 人格とは単なる実在の反映にすぎない。
 反映がその源に自然と一致するのは当然のことではないだろうか?
 個人にはそれ自身の意図が必要だろうか?
 実在の表現である生が導くだろう。
 ひとたび個人は単に実在の影にすぎず、実在そのものではないと認識したな
 らば、あなたはいら立つことも、心配することもやめるだろう。
 あなたは内面から導かれることに同意し、そして生は未知への旅立ちとなる
 のだ。(p53)


実在の基準

 何であれ依存するものは実在ではない。
 実在は真に独立している。
 個人の存在は世界に依存している。
 そしてそれは世界によって制限され、定義されている。
 それゆえ、それは実在ではありえない。(p78)


正しい間違い

 一般的には、苦しみを生じさせることが間違いで、苦しみを取り除くことが
 正しい。
 身体とマインドには限界があり、それゆえ傷つきやすい。
 それらが保護を必要とすることが恐れを生みだすのだ。
 それらと自己同一化するかぎり、あなたが苦しむのは避けられない。(p??)


サマーディ

 意識を使わないことがサマーディだ。
 ただマインドに触れないのだ。
 身体からもマインドからも何も求めないことだ。(p58)


世界の不幸

 世界の不幸はそれと関わるなかで、あなたがあなた自身の欲望と恐れからつ
 くり出してきたのだ。
 すべてはあなたが真我の存在を忘れてしまったためだ。
 スクリーン上の画像に現実性を与えた上で、あなたはそれらの人々を愛し、
 彼らのために苦しみ、彼らへの救いを求める。
 そうではない。
 あなたはまず、あなた自身からはじめなければならないのだ。
 ほかに道はない。(p62)


暗室太陽

 それは暗室に入っていくようなものだ。
 あなたには何も見えない。
 あなたは触れるかもしれないが、色彩も輪郭も、何も見えない。
 そこでが開き、部屋は光で溢れ、満たされ、色彩と形態が現れだす。
 光を与えたのはだ。
 だがが光の源なのではない。
 太陽が源なのだ。
 同じように、物質は暗室のようなものだ。
 意識がだ。
 感覚と知覚によって物質はあふれだす。
 そして物質と光の両方の源である至高なるものが太陽なのだ。
 窓は開いているかも、閉じているかもしれない。
 太陽はいつも輝いている。
 太陽は部屋に完全な変化をもたらしたが、太陽は変化しない。
 しかし、これらすべても小さな「私は在る」にとっては大きな意味を持たな
 い。
 「私は在る」なしには何も存在できないからだ。
 すべての知識は「私は在る」に関わる。
 この「私は在る」についての誤った考えが束縛へと導き、正しい考えは自由
 と幸福をもたらすのだ。(p81)


実存(イクジスタンス) と 存在(ビーイング)

 実存することとは、あるもの、ある感情、ある想い、ある概念といった何か
 として在ることを意味している。
 すべての実存(イクジスタンス)はある特定のものだ。
 すべての存在(ビーイング)はほかのあらゆる存在を互いに受け入れるとい
 う意味で、存在だけが普遍的なものと言える。
 実存は対立するが、存在に対立はありえない。
 実存とは何かになること、生まれ、死に、また生まれるという変化を意味す
 る。
 一方、存在には平和と静寂があるのだ。(p81)


どしゃ降り

 あなたたちは皆、どしゃ降りでずぶぬれになったが、私の世界ではいつも晴
 天だ。
 夜も昼もなければ、暑さも寒さもない。
 何の悩みも後悔もつきまとわない。
 私のマインドには思考がない。
 そのためにあくせく働かなければならない欲望など何もないからだ。
 
 あなたの世界ははかなく変化しつづける。
 私の世界は完全で不変のものだ。
 あなたはあなたの世界で何が気に入っているのかを私に言うことができる。
 注意と興味をもって私は聞こう。
 だが、私はあなたの世界が存在せず、あなたは夢を見ているのだということ
 を、一瞬でさえ忘れることはないのだ。(p97)


私の世界A

 私の世界には同一視できるような特徴はない。
 それについては何も言えない。
 私が私の世界だ。
 私の世界は私自身なのだ。
 それは完全で完璧だ。
 あらゆる印象はかき消され、あらゆる体験はぬぐい去られる。
 私は何も必要ない。
 自分自身でさえも。
 なぜなら自分自身を失うことはできないからだ。(p97)


何も必要ない

 私の世界には同一視できるような特徴はない。
 それについては何も言えない。
 私が私の世界だ。
 私の世界は私自身なのだ。
 それは完全で完璧だ。
 あらゆる印象はかき消され、あらゆる体験はぬぐい去られる。
 私は何も必要ない。
 自分自身でさえも。
 なぜなら自分自身を失うことはできないからだ。(p98)


概念や区別

 それらすべての概念や区別は、あなたの世界の中に存在する。
 私の世界にはそういったものは存在しない。
 私の世界は単一のとてもシンプルなものだ。
 
 何であれ、あなたの世界のなかで起こったことは、そこでだけ有効であり、
 反応を呼び起こす。
 私の世界では何も起こらない。(p98)


あなたの世界

 それらすべての概念や区別は、あなたの世界の中に存在する。
 私の世界にはそういったものは存在しない。
 私の世界は単一のとてもシンプルなものだ。
 
 何であれ、あなたの世界のなかで起こったことは、そこでだけ有効であり、
 反応を呼び起こす。
 私の世界では何も起こらない。(p98)


私には届かない

 しかし、あなたの言葉は私には届かない。
 あなたの世界では語られないものは存在をもたない。
 私の世界では言葉とその内容が存在をもたないのだ。
 あなたの世界では何もとどまらない。
 私の世界では何も変わらない。
 私の世界は真実だ。
 あなたの世界は夢でできているのだ。(p98)


永遠の沈黙

 会話はあなたの世界のなかにある。
 私の世界には永遠の沈黙がある。
 私の沈黙は歌い、私の虚空は満たされ、何ひとつ欠けていない。
 そこにあなたがいないかぎり、あなたに私の世界を知ることはできない。(p98)


自分の存在

 来ることや去ることは、私にとっては何の意味もない。
 それらもまた、ただの言葉だ。
 私は在る。
 私がどこから来て、どこへ行こうというのだろうか?
 
 何も得るものはない。
 あなたはあなたのものではないものを後にし、あなたがけっして失わなかっ
 たもの、自分の存在を見いだすのだ。(p99)


識別無執着

 あなたの世界を、想像を通してではなく、あるがままに見なさい。
 識別することが無執着をもたらす。
 無執着は正しい行為を確実にし、正しい行為はあなたの真の存在に内なる橋
 を築くだろう。
 行為は真剣さのあかしだ。
 言われたとおりに勤めて誠実に行うなら、すべての障害は消え去るだろう。(p99)


何と無駄な!

 あなたの世界では、私はもっとも惨(みじ)めだろう。
 目を覚まし、食べ、話し、また眠る。
 何と無駄なことか!
 
 生きること、死ぬこと。
 何と無意味な言葉だろう!
 あなたが生きている私を見るとき、私は死んでいる。
 あなたが私は死んでいると思うとき、私は生きている。
 何とあなたは混乱していることか!(p99)


困難

 困難は身体的、感情的、あるいは精神的なものかもしれない。
 だがそれらはつねに個人的なものだ。(p99)


大規模な災難

 困難は身体的、感情的、あるいは精神的なものかもしれない。
 だがそれらはつねに個人的なものだ。
 大規模な災難は無数の個人的運命の合計であり、解決するまで時間がかかる。
 だが、死はけっして災難ではない。(p100)


至福への欲望

 私の体験ではすべてが至福だ。
 しかし、至福への欲望は苦痛を生みだす。
 それゆえ、至福が苦痛の種子となる。
 この苦痛の宇宙全体は欲望から生まれたのだ。
 喜びへの欲望をあきらめなさい。
 そうすれば、あなたは苦痛が何かさえ知らずにすむだろう。(p100)


苦痛の宇宙

 この苦痛の宇宙全体は欲望から生まれたのだ。
 喜びへの欲望をあきらめなさい。
 そうすれば、あなたは苦痛が何かさえ知らずにすむだろう。(p100)


喜びのために

 (喜びが苦痛の種子となるのは)なぜなら、喜びのためにあなたは多くの
 罪を犯しているからだ。
 罪の結果は苦しみと死なのだ。(p101)


過ち

 あなたが生まれたということを信じていることに、あなたの過ちがある。
 あなたはけっして生まれなかったし、けっして死ぬことはない。
 だが、あなたがある特定の日と場所で生まれ、この特定の身体をあなた自身
 のものと信じているところに過ちがあるのだ。(p101)


世界を救いたい

 なぜあなたは自分自身の面倒を見る前に、世界について心配するのだろう?
 あなたは世界を救いたい、違うかね?
 あなた自身を救う前に世界が救えるだろうか?
 そして救われるとはどういう意味だろうか?
 何から救われるのか?
 幻想からだ。
 救済とは、ものごとをあるがままに見ることだ。
 私には、本当に自分自身が誰とも何とも関係しているとは思えない。
 自分自身とさえも関係していない。
 その自分自身が何であろうとも。
 私は定義されることのないまま永遠にとどまる。
 私は内側に、そして彼方に存在する――親密で、しかも到達不可能なものな
 のだ。(p101)


救われる

 なぜあなたは自分自身の面倒を見る前に、世界について心配するのだろう?
 あなたは世界を救いたい、違うかね?
 あなた自身を救う前に世界が救えるだろうか?
 そして救われるとはどういう意味だろうか?
 何から救われるのか?
 幻想からだ。
 救済とは、ものごとをあるがままに見ることだ。
 私には、本当に自分自身が誰とも何とも関係しているとは思えない。
 自分自身とさえも関係していない。
 その自分自身が何であろうとも。
 私は定義されることのないまま永遠にとどまる。
 私は内側に、そして彼方に存在する――親密で、しかも到達不可能なものな
 のだ。(p101)


救済

 なぜあなたは自分自身の面倒を見る前に、世界について心配するのだろう?
 あなたは世界を救いたい、違うかね?
 あなた自身を救う前に世界が救えるだろうか?
 そして救われるとはどういう意味だろうか?
 何から救われるのか?
 幻想からだ。
 救済とは、ものごとをあるがままに見ることだ。(p101)


関係

 私には、本当に自分自身が誰とも何とも関係しているとは思えない。
 自分自身とさえも関係していない。
 その自分自身が何であろうとも。
 私は定義されることのないまま永遠にとどまる。
 私は内側に、そして彼方に存在する――親密で、しかも到達不可能なものな
 のだ。(p101)


絶対の真理

 (ここに到達したのは)私のグル(師)を信頼することによってだ。
 彼は私に、「あなただけが存在する」と言った。
 そして私は疑わなかったのだ。
 私はただ、あるときそれが絶対の真理だと悟るまで頭を悩ませていただけだ。(p102)


頭を悩ませて

 (ここに到達したのは)私のグル(師)を信頼することによってだ。
 彼は私に、「あなただけが存在する」と言った。
 そして私は疑わなかったのだ。
 私はただ、あるときそれが絶対の真理だと悟るまで頭を悩ませていただけだ。(p102)


真我の実現@

 (確信したのは)真我の実現によってだ。
 私は意識であり、絶対的に幸福だと見いだしたのだ。
 ただ、私は存在―意識―至福が身体と身体の世界に属すると考えていたのが
 間違いだったのだ。(p102)


間違い@

 (確信したのは)真我の実現によってだ。
 私は意識であり、絶対的に幸福だと見いだしたのだ。
 ただ、私は存在―意識―至福が身体と身体の世界に属すると考えていたのが
 間違いだったのだ。(p102)


完全に疑う

 だが私のグルも、私にすべてを完全に疑うよう教えたのだ。
 彼は言った、「あなたの自己を除いたすべての存在を否定しなさい」と。
 欲望を通してあなたは快楽と苦痛の世界をつくり出したのだ。(p102)


快楽の本性

 快楽の本性自体がかぎられた、はかないものなのだ。
 苦痛から欲望が生まれ、苦痛のなかで欲望を満たそうとする。
 そしてそれは欲求不満と絶望のなかで終わるのだ。
 苦痛は快楽の背景であり、快楽の追求はすべて苦痛のなかに生まれ、苦痛の
 なかに終わるのだ。(p102)


快楽苦痛

 快楽の本性自体がかぎられた、はかないものなのだ。
 苦痛から欲望が生まれ、苦痛のなかで欲望を満たそうとする。
 そしてそれは欲求不満と絶望のなかで終わるのだ。
 苦痛快楽の背景であり、快楽の追求はすべて苦痛のなかに生まれ、苦痛の
 なかに終わるのだ。(p102)


快楽の追求

 快楽の本性自体がかぎられた、はかないものなのだ。
 苦痛から欲望が生まれ、苦痛のなかで欲望を満たそうとする。
 そしてそれは欲求不満と絶望のなかで終わるのだ。
 苦痛は快楽の背景であり、快楽の追求はすべて苦痛のなかに生まれ、苦痛の
 なかに終わるのだ。(p102)


ただ起こる

 見てみなさい。
 あらゆる類のことがこの部屋で起こっている。
 私がそれを起こるようにしたのだろうか?
 それはただ起こるのだ。
 あなたにとっても同じだ。
 運命がそれ自身を展開し、不可避の出来事を現実にするのだ。
 あなたに出来事の行方を変えることはできない。
 だが、あなたの態度は変えられる。
 そして本当に重要なのは態度にあって、単なる出来事にはない。(p102-103)


不可避の出来事

 あらゆる類のことがこの部屋で起こっている。
 私がそれを起こるようにしたのだろうか?
 それはただ起こるのだ。
 あなたにとっても同じだ。
 運命がそれ自身を展開し、不可避の出来事を現実にするのだ。
 あなたに出来事の行方を変えることはできない。
 だが、あなたの態度は変えられる。
 そして本当に重要なのは態度にあって、単なる出来事にはない。
 世界は欲望と恐れの住処(すみか)だ。
 そこにマインドの平和を見つけだすことはできない。
 平和のためには、あなたは世界を超えて行かねばならない。
 世界の根本原因は自己愛である。
 そのために私たちは快楽を探し求め、苦しみを避ける。
 自己愛を真我への愛に変えなさい。
 すると画面は変わってくる。
 創造の神ブラフマーはすべての欲望の総計だ。
 世界はそれらを満たすための道具なのだ。
 魂たちは何であれ彼らの望んだ喜びをつかみ、涙で支払う。
 そして時間がすべての勘定書を決算する。
 バランスの法則が究極の支配をするのだ。(p102-103)


マインドの平和

 あなたに出来事の行方を変えることはできない。
 だが、あなたの態度は変えられる。
 そして本当に重要なのは態度にあって、単なる出来事にはない。
 世界は欲望と恐れの住処(すみか)だ。
 そこにマインドの平和を見つけだすことはできない。
 平和のためには、あなたは世界を超えて行かねばならない。
 世界の根本原因は自己愛である。
 そのために私たちは快楽を探し求め、苦しみを避ける。
 自己愛を真我への愛に変えなさい。
 すると画面は変わってくる。
 創造の神ブラフマーはすべての欲望の総計だ。
 世界はそれらを満たすための道具なのだ。
 魂たちは何であれ彼らの望んだ喜びをつかみ、涙で支払う。
 そして時間がすべての勘定書を決算する。
 バランスの法則が究極の支配をするのだ。(p102-103)


世界の根本原因

 世界の根本原因は自己愛である。
 そのために私たちは快楽を探し求め、苦しみを避ける。
 自己愛を真我への愛に変えなさい。
 すると画面は変わってくる。
 創造の神ブラフマーはすべての欲望の総計だ。
 世界はそれらを満たすための道具なのだ。
 魂たちは何であれ彼らの望んだ喜びをつかみ、涙で支払う。
 そして時間がすべての勘定書を決算する。
 バランスの法則が究極の支配をするのだ。(p103)


自己愛

 世界の根本原因は自己愛である。
 そのために私たちは快楽を探し求め、苦しみを避ける。
 自己愛を真我への愛に変えなさい。
 すると画面は変わってくる。
 創造の神ブラフマーはすべての欲望の総計だ。
 世界はそれらを満たすための道具なのだ。
 魂たちは何であれ彼らの望んだ喜びをつかみ、涙で支払う。
 そして時間がすべての勘定書を決算する。
 バランスの法則が究極の支配をするのだ。(p103)


真我への愛

 世界の根本原因は自己愛である。
 そのために私たちは快楽を探し求め、苦しみを避ける。
 自己愛を真我への愛に変えなさい。
 すると画面は変わってくる。
 創造の神ブラフマーはすべての欲望の総計だ。
 世界はそれらを満たすための道具なのだ。
 魂たちは何であれ彼らの望んだ喜びをつかみ、涙で支払う。
 そして時間がすべての勘定書を決算する。
 バランスの法則が究極の支配をするのだ。(p103)


創造の神ブラフマー

 創造の神ブラフマーはすべての欲望の総計だ。
 世界はそれらを満たすための道具なのだ。
 魂たちは何であれ彼らの望んだ喜びをつかみ、涙で支払う。
 そして時間がすべての勘定書を決算する。
 バランスの法則が究極の支配をするのだ。(p103)


バランスの法則

 世界は欲望と恐れの住処(すみか)だ。
 そこにマインドの平和を見つけだすことはできない。
 平和のためには、あなたは世界を超えて行かねばならない。
 世界の根本原因は自己愛である。
 そのために私たちは快楽を探し求め、苦しみを避ける。
 自己愛を真我への愛に変えなさい。
 すると画面は変わってくる。
 創造の神ブラフマーはすべての欲望の総計だ。
 世界はそれらを満たすための道具なのだ。
 魂たちは何であれ彼らの望んだ喜びをつかみ、涙で支払う。
 そして時間がすべての勘定書を決算する。
 バランスの法則が究極の支配をするのだ。(p102-103)


行き過ぎの破壊

 (時と段階によっては欲望も正しいというのは)ある意味では、まったく正
 しい。
 しかし、あなたが充分蓄え、築きはじめるべき日が来る。
 そのとき選別し、不要なものを捨てること(ヴィヴェーカ―ヴァイラーギャ)
 が絶対に必要となる。
 すべてを詳細に調べ、不必要なものは無常にも破壊されなければならないの
 だ。
 私を信じてほしい。
 行き過ぎの破壊はありえない。
 実際には、価値あるものなどないからだ。
 熱烈に冷静でありなさい。
 ただそれだけだ。(p103)


マインドの本性

 私のいる無(パラマカーシュ)の境界には、いかなる言葉も思考も届かない。
 マインドにとって、そこはまったくの闇と沈黙だ。
 そこに意識が攪拌しはじめ、マインドが目覚めだし(チダカーシュ)、世界
 を投影し(マハーダカーシュ)、記憶と想像を構築しはじめる。
 ひとたび世界が存在のなかに現れたならば、あなたの言ったとおりとなるだ
 ろう。
 目標を定め、それに向かって闘い、方法と未知を探し、ヴィジョンとエネル
 ギー、そして勇気を示す、それがマインドの本性なのだ。(p104)


無(パラマカーシュ)の境界

 私のいる無(パラマカーシュ)の境界には、いかなる言葉も思考も届かない。
 マインドにとって、そこはまったくの闇と沈黙だ。
 そこに意識が攪拌しはじめ、マインドが目覚めだし(チダカーシュ)、世界
 を投影し(マハーダカーシュ)、記憶と想像を構築しはじめる。(p104)


私の居場所

 目標を定め、それに向かって闘い、方法と未知を探し、ヴィジョンとエネル
 ギー、そして勇気を示す、それがマインドの本性なのだ。
 それは神聖な質であって、私はそれらを否定してはいない。
 しかし、何の相違もなく、何も存在せず、それをつくり出したマインドもな
 いというのが私の立場だ。
 そこが私の居場所なのだ。
 何が起ころうと私には影響を与えない。
 ものごとがものごとに働きかける。
 ただそれだけだ。
 記憶と期待から自由なため、私はいつも新鮮で、無垢で、トータルだ。
 マインドはたいへんな働き者(マハーカルタ)で、休息が必要だ。
 何も必要ない私には、何の恐れもない。
 誰を恐れるというのだろう?
 そこには分離などない。
 私たちは分離し、孤立した自己ではない。
 ただ個人と非個人がひとつである真我、至高の実在があるだけだ。(p104)


助ける

 あなたが助けたい人々もまた、欲望を満たすために、それぞれの世界のなか
 にいる。
 彼らの欲望を通して以外、彼らを助けることはできない。
 あなたには、彼らが正しい欲望をもつように教えることができるだけだ。
 そうすれば彼らは現状を超え、快楽と苦痛の住処(すみか)である欲望の世
 界を創造し、再創造しようという衝動から自由になれるかもしれない。(p104-105)


欲望の本性

 欲望の本性とは、それを満たすためにマインドが世界をつくり出すよう促す
 ことだ。
 小さな欲望さえ、長い行動の連鎖を生みだすのだ。
 強い欲望ならばどうだろう?
 欲望は宇宙をも生みだす。
 その力は奇跡的なものだ。
 小さなマッチ棒が巨大な森林に火をつけることができるように、欲望も現象
 の現れに火をつける。
 創造の目的自体が欲望を満たすことなのだ。
 欲望は高尚なものかも、卑しいものかもしれない。
 空間(アーカーシュ)は中立的なものだ
 人はそれを何でも好きなように満たすことができる。
 何を望むのか、人はとても注意しなければならない。(p105)


創造の目的

 創造の目的自体が欲望を満たすことなのだ。
 欲望は高尚なものかも、卑しいものかもしれない。
 空間(アーカーシュ)は中立的なものだ
 人はそれを何でも好きなように満たすことができる。
 何を望むのか、人はとても注意しなければならない。(p105)


ジニャーニ

 はすべてを為すものであり、ジニャーニは無為の人だ。
 自身が「私がすべてを為す」と言いはしない。
 にとっては、ものごとはそれ自体の本性にしたがって起こるのだ。
 ジニャーニにとっては、すべてがによって為される。
 彼はと自然との間に何の違いも見ない。
 ジニャーニもともに、彼ら自身が変動の中の不動の中心であり、移り変
 わるものの永遠の観照者であることを知っている。
 その中心は空なる点であり、観照者は純粋な気づきの点だ。
 彼らは、彼ら自身が無であることを知っている。
 それゆえ、彼らに抵抗できるものは何ひとつないのだ。(p105-106)


すべて

 無としてあることで、すべてなのだ。
 すべてであり、すべてのものだ。
 の身体が、動かそうと考えるだけで動くように、が思うだけでものごと
 は起こる。
 言っておくが、は何もするわけではない。
 ただものごとが起こるのを見るだけだ。(p106)


恐れない

 世界であるゆえに、私は世界を恐れない。
 すべてとしてありながら、何を恐れるというのだろう?
 水は水を恐れず、火は火を恐れない。
 私は恐れない、なぜなら私は無であり、恐れや危険を体験しようがないからだ。
 私には名前も形もない。
 名前と形に固執することが恐れを生むのだ。
 私には執着がない。
 私は無だ。
 そして無は無を恐れない。
 反対に、すべてが無を恐れている。
 なぜなら、何かが無に触れたとき、それは無となるからだ。
 底なしの井戸のように、何であれそこに落ちたものは消え去るのだ。(p106)


世界

 がすべてであり、すべてはなのだ。
 世界であるゆえに、世界を恐れない。
 すべてとしてありながら、何を恐れるというのだろう?
 水は水を恐れず、火は火を恐れない。(p106)




 は恐れない、なぜならであり、恐れや危険を体験しようがないから
 だ。
 には名前も形もない。
 名前と形に固執することが恐れを生むのだ。
 には執着がない。
 だ。
 そしてを恐れない。
 反対に、すべてがを恐れている。
 なぜなら、何かがに触れたとき、それはとなるからだ。
 底なしの井戸のように、何であれそこに落ちたものは消え去るのだ。(p106)


名前@

 私には名前もない。
 名前と形に固執することが恐れを生むのだ。
 私には執着がない。
 私は無だ。
 そして無は無を恐れない。
 反対に、すべてが無を恐れている。
 なぜなら、何かが無に触れたとき、それは無となるからだ。
 底なしの井戸のように、何であれそこに落ちたものは消え去るのだ。(p106)




 私はだ。
 そしてを恐れない。
 反対に、すべてがを恐れている。
 なぜなら、何かがに触れたとき、それはとなるからだ。
 底なしの井戸のように、何であれそこに落ちたものは消え去るのだ。(p106)




 私はだ。
 そしてを恐れない。
 反対に、すべてがを恐れている。
 なぜなら、何かがに触れたとき、それはとなるからだ。
 底なしの井戸のように、何であれそこに落ちたものは消え去るのだ。(p106)


毎日何百万人も

 なぜあなたはひとりが死ぬことに苦悩し、毎日何百万人もの人が死んでいく
 ことは気にもかけないのだろうか?
 宇宙全体が毎瞬、内破し、爆発しているのだ。
 それらのために私が泣かなければならないのかね?
 私にとってたったひとつ明白なことは、存在するすべて、生きるもの、動く
 ものすべては、意識のなかにその存在をもつということだ。
 そして、私は意識のなかに、そしてその彼方に在る。
 私は観照者としてはそのなかに在り、実在としてはその彼方に在るのだ。(p110)


彼方に在る

 なぜあなたはひとりが死ぬことに苦悩し、毎日何百万人もの人が死んでいく
 ことは気にもかけないのだろうか?
 宇宙全体が毎瞬、内破し、爆発しているのだ。
 それらのために私が泣かなければならないのかね?
 私にとってたったひとつ明白なことは、存在するすべて、生きるもの、動く
 ものすべては、意識のなかにその存在をもつということだ。
 そして、私は意識のなかに、そしてその彼方に在る。
 私は観照者としてはそのなかに在り、実在としてはその彼方に在るのだ。(p110)


私はあわてない

 私はあわてない。
 ただ必要なことをするだけだ。
 未来について心配したりはしない。
 あらゆる状況への適切な反応、それが私の本質だ。
 何をするべきかと立ち止まって考えたりはしない。
 ただ行動し、先に進むだけだ。
 結果は私に影響を与えない。
 それが良いか悪いかさえ私は気にもしない。
 それらが何であれ、あるがままだ。
 もしふたたびそれが起こるならば、私は新たな姿勢でそれに取りかかる、あ
 るいは新たな姿勢で取りかかるということが、私に起こる。
 私が何をしようと、そこにはいかなる目的感覚もない。
 ものごとは起こるように起こるのだ。
 私がそれらを起こらせるからではなく、私が在るゆえにそれらは起こるのだ。
 実際には、けっして何も起こらない。
 マインドに落ち着きのないとき、それはシヴァを舞い踊らせる。*
 波に揺らぐ湖の水が月を踊らせるように。
 それらはすべて誤った概念による現れにすぎない。
 
 * 訳注 シヴァを舞い踊らせる
     シバ神は南インド、タミル・ナードゥ州のチダンパラムでナータラ
     ージャ神として現れ、宇宙の創造と破壊の舞を舞ったという神話が
     ある。(p110)


波に揺らぐ湖

 私が何をしようと、そこにはいかなる目的感覚もない。
 ものごとは起こるように起こるのだ。
 私がそれらを起こらせるからではなく、私が在るゆえにそれらは起こるのだ。
 実際には、けっして何も起こらない。
 マインドに落ち着きのないとき、それはシヴァを舞い踊らせる。*
 波に揺らぐ湖の水が月を踊らせるように。
 それらはすべて誤った概念による現れにすぎない。
 
 * 訳注 シヴァを舞い踊らせる
     シバ神は南インド、タミル・ナードゥ州のチダンパラムでナータラ
     ージャ神として現れ、宇宙の創造と破壊の舞を舞ったという神話が
     ある。(p110)


誤った概念

 私が何をしようと、そこにはいかなる目的感覚もない。
 ものごとは起こるように起こるのだ。
 私がそれらを起こらせるからではなく、私が在るゆえにそれらは起こるのだ。
 実際には、けっして何も起こらない。
 マインドに落ち着きのないとき、それはシヴァを舞い踊らせる。*
 波に揺らぐ湖の水が月を踊らせるように。
 それらはすべて誤った概念による現れにすぎない。
 
 * 訳注 シヴァを舞い踊らせる
     シバ神は南インド、タミル・ナードゥ州のチダンパラムでナータラ
     ージャ神として現れ、宇宙の創造と破壊の舞を舞ったという神話が
     ある。(p110)


自己を忘れる

 自己を忘れることは、自己を知ることのなかに本来備わっているものなのだ。
 意識と無意識はひとつの生における二つの側面であり、それらは共存してい
 る。
 世界を知ることで、あなたは自己を忘れ、自己を知ることで、あなたは世界
 を忘れるのだ。
 結局のところ、世界とは何だろう?
 記憶の集合だ。
 ひとつのことを固守しなさい。
 それが大切なことだ。
 「私は在る」をつかみ取りなさい。
 そしてほかのすべてを手放しなさい。
 これがサーダナ(修練)である。
 真我実現のなかには、覚えることもなければ、忘れるものもない。
 すべては知られたものだ。
 思い出すことなど何もない。(p111)


意識と無意識

 自己を忘れることは、自己を知ることのなかに本来備わっているものなのだ。
 意識と無意識はひとつの生における二つの側面であり、それらは共存してい
 る。
 世界を知ることで、あなたは自己を忘れ、自己を知ることで、あなたは世界
 を忘れるのだ。
 結局のところ、世界とは何だろう?
 記憶の集合だ。
 ひとつのことを固守しなさい。
 それが大切なことだ。
 「私は在る」をつかみ取りなさい。
 そしてほかのすべてを手放しなさい。
 これがサーダナ(修練)である。
 真我実現のなかには、覚えることもなければ、忘れるものもない。
 すべては知られたものだ。
 思い出すことなど何もない。(p111)


世界自己

 世界を知ることで、あなたは自己を忘れ、自己を知ることで、あなたは世界
 を忘れるのだ。
 結局のところ、世界とは何だろう?
 記憶の集合だ。
 ひとつのことを固守しなさい。
 それが大切なことだ。
 「私は在る」をつかみ取りなさい。
 そしてほかのすべてを手放しなさい。
 これがサーダナ(修練)である。
 真我実現のなかには、覚えることもなければ、忘れるものもない。
 すべては知られたものだ。
 思い出すことなど何もない。(p111)


世界とは何?

 世界を知ることで、あなたは自己を忘れ、自己を知ることで、あなたは世界
 を忘れるのだ。
 結局のところ、世界とは何だろう
 記憶の集合だ。
 ひとつのことを固守しなさい。
 それが大切なことだ。
 「私は在る」をつかみ取りなさい。
 そしてほかのすべてを手放しなさい。
 これがサーダナ(修練)である。
 真我実現のなかには、覚えることもなければ、忘れるものもない。
 すべては知られたものだ。
 思い出すことなど何もない。(p111)


これがサーダナ

 世界を知ることで、あなたは自己を忘れ、自己を知ることで、あなたは世界
 を忘れるのだ。
 結局のところ、世界とは何だろう?
 記憶の集合だ。
 ひとつのことを固守しなさい。
 それが大切なことだ。
 「私は在る」をつかみ取りなさい。
 そしてほかのすべてを手放しなさい。
 これがサーダナ(修練)である。
 真我実現のなかには、覚えることもなければ、忘れるものもない。
 すべては知られたものだ。
 思い出すことなど何もない。(p111)


自己忘却実在

 (自己忘却の)原因はない。
 なぜなら忘却などないからだ。
 精神状態はひとつの状態から別の状態へと継続していく。
 それぞれが以前の状態を消し去っていくのだ。
 自己想起はひとつの精神状態であり、自己忘却は別の精神状態だ。
 それらは夜と昼のように、交互に入れ替わる。
 実在はその両方の彼方に在るのだ。(p111-112)


覚える忘れる

 (自分自身を忘れることは)自分自身をずっと覚えていることと同じように
 悲惨だ。
 忘れることと忘れないことの彼方に、あるひとつの状態がある。
 それが自然な状態だ。
 覚えること、忘れること、どちらも思考と言葉に拘束されたマインドの状態
 なのだ。
 生まれるという考えを例にとって見よう。
 私は生まれたと言われた。
 私は覚えていない。
 私は死ぬだろうと言われた。
 私はそれを予期しない。
 私は忘れてしまった、あるいは想像力に欠けているのだとあなたは言うかも
 知れない。
 しかし、私にはけっして起きなかったことや、明らかに不可能なことを期待
 することはできない。
 身体は生まれ、身体は死ぬ。
 だが、それが私にとって何だというのだろう?
 身体は意識のなかで来ては去っていく。
 そして意識はその根底を私のなかに置いている。
 生命は私であり、マインドと身体は私のものだ。(p112)


自然な状態@

 (自分自身を忘れることは)自分自身をずっと覚えていることと同じように
 悲惨だ。
 忘れることと忘れないことの彼方に、あるひとつの状態がある。
 それが自然な状態だ。
 覚えること、忘れること、どちらも思考と言葉に拘束されたマインドの状態
 なのだ。
 生まれるという考えを例にとって見よう。
 私は生まれたと言われた。
 私は覚えていない。
 私は死ぬだろうと言われた。
 私はそれを予期しない。
 私は忘れてしまった、あるいは想像力に欠けているのだとあなたは言うかも
 知れない。
 しかし、私にはけっして起きなかったことや、明らかに不可能なことを期待
 することはできない。
 身体は生まれ、身体は死ぬ。
 だが、それが私にとって何だというのだろう?
 身体は意識のなかで来ては去っていく。
 そして意識はその根底を私のなかに置いている。
 生命は私であり、マインドと身体は私のものだ。(p112)


「私は在る」B

 この「私は在る」もまた幻想の一部分なのだ。
 
 実在は証明することも、反証することもできない。
 マインドの範疇(はんちゅう)では不可能であり、マインドを超えればその
 必要もない。
 実在のなかでは、「実在とは何か?」という疑問は起こらない。
 顕現(サグナ)と非顕現(ニルグナ)は別のものではないのだ。(p112)


顕現非顕現A

 実在は証明することも、反証することもできない。
 マインドの範疇(はんちゅう)では不可能であり、マインドを超えればその
 必要もない。
 実在のなかでは、「実在とは何か?」という疑問は起こらない。
 顕現(サグナ)と非顕現(ニルグナ)は別のものではないのだ。(p112)


実在

 はすべてであり、自身としてはすべてが実在だ。
 を離れては何も実在ではない。(p112-113)


世界あなた@

 あなたは考え違いしているのだ。
 世界あなたなしでは何の存在ももってはいない。
 あらゆる瞬間において、それはあなたの反映にすぎない。
 あなたが創造し、破壊するのだ。(p113)


個人的宇宙

 あなたの個人的宇宙は、それ自体では存在しないのだ。
 それはただ単に実在のかぎられた歪(ゆが)んだ見方だ。
 改善が必要なのは宇宙ではなく、あなたの見方なのだ。(p113)


演技の質

 それ(宇宙)は世界というドラマが演じられているステージだ。
 重要なのは演技の質だけだ。
 何を役者が語り、演じるかではなく、どのように彼らが語り、それを演じる
 かが重要なのだ。(p113)


遊戯

 遊戯の何が悪いのだろう?
 あなたが未完成であるかぎり、目的を持たざるをえない。
 それまでは完全、完成が目的だ。
 しかし、内面と外面を統合して自分のなかで完全になれば、そのときあなた
 は宇宙を楽しむのだ。
 そのために働くことはしない。
 統合されていないものにとって、あなたはたいへんな努力とともに働くよう
 に見えるかもしれない。
 しかし、それは幻想なのだ。
 スポーツマンは途方もない努力をするように見える。
 だが、彼らの動機はすべて、ぶこととそれを誇示することなのだ。(p113)


未完成目的

 遊戯の何が悪いのだろう?
 あなたが未完成であるかぎり、目的を持たざるをえない。
 それまでは完全、完成が目的だ。
 しかし、内面と外面を統合して自分のなかで完全になれば、そのときあなた
 は宇宙を楽しむのだ。
 そのために働くことはしない。
 統合されていないものにとって、あなたはたいへんな努力とともに働くよう
 に見えるかもしれない。
 しかし、それは幻想なのだ。
 スポーツマンは途方もない努力をするように見える。
 だが、彼らの動機はすべて、遊ぶこととそれを誇示することなのだ。(p113)


宇宙を楽しむ

 遊戯の何が悪いのだろう?
 あなたが未完成であるかぎり、目的を持たざるをえない。
 それまでは完全、完成が目的だ。
 しかし、内面と外面を統合して自分のなかで完全になれば、そのときあなた
 は宇宙を楽しむのだ。
 そのために働くことはしない。
 統合されていないものにとって、あなたはたいへんな努力とともに働くよう
 に見えるかもしれない。
 しかし、それは幻想なのだ。
 スポーツマンは途方もない努力をするように見える。
 だが、彼らの動機はすべて、遊ぶこととそれを誇示することなのだ。(p113)




 なぜ目的を持ち出すのだろうか?
 目的は活動、変化、未完成を暗示する。
 を目標にしているのではない。
 何であれ、彼の行うことがなのだ。
 あなたは花がしくあろうと試みていると言うだろうか?
 その本質自体がしいのだ。
 同じように、も完成を目指して努力しているのではなく、は完成そのも
 のなのだ。(p114)


美の本質

 何が美しいのだろう?
 何であれ美しいと感じるのは、至福に満ちて知覚されたときだ。
 至福が美の本質なのだ。(p114)


意識的に至福

 自分の存在に完全に気づいていなさい。
 そうすれば、あなたは意識的に至福のなかにある。
 あなたがマインドを自己から引き離し、あなたではないものにマインドをと
 どめるために幸福の感覚を失うのだ。(p114)


幸福の感覚

 自分の存在に完全に気づいていなさい。
 そうすれば、あなたは意識的に至福のなかにある。
 あなたがマインドを自己から引き離し、あなたではないものにマインドをと
 どめるために幸福の感覚を失うのだ。(p114)


真の幸福@

 働き、闘いとらねばならないような幸福に何の価値があるのかね?
 真の幸福は自発的で自然なものだ。(p114)


見つけだすもの

 喜びと苦痛は交互に入れ替わるものだ。
 幸福は揺らぐことがない。
 あなたが探し求め、見つけだすものは本物ではない。
 けっして失ったことのないもの、譲渡できないものを見いだしなさい。(p115)


実在体験@

 あなたは実在体験のレベルまで引き下げているのだ。
 どうして実在体験に依存できるというのだろう?
 実在体験の根底(アーダール)そのものなのだ。
 実在体験の本質のなかにではなく、体験の事実のなかにある。
 体験は、つまりマインドの状態なのだ。
 一方、在ることは明らかにマインドの状態ではない。(p124)


至福世界

 存在の静かな状態が至福なのだ。
 乱された状態が世界として現れる。
 非二元性のなかには至福がある。
 二元性のなかには体験がある。
 来ては去っていくのは苦痛と快楽の二元性の世界だ。
 至福とは知られるものではない。
 人はつねに至福なのだ。
 しかし、けっして至福に満ちているのではない。
 至福とはひとつの属性ではないのだ。(p124)


非二元性二元性

 非二元性のなかには至福がある。
 二元性のなかには体験がある。
 来ては去っていくのは苦痛と快楽の二元性の体験だ。
 至福とは知られるものではない。
 人はつねに至福なのだ。
 しかし、けっして至福に満ちているのではない。
 至福とはひとつの属性ではないのだ。(p124)


とは

 区別と分離の感覚が不在なときをと呼ぶがいい。(p128)


慈悲

 愛は苦痛の原因となる。
 そのとき、あなたはそれを慈悲と呼ぶのだ。(p128)


幸福不幸

 内側と外側の調和が幸福だ。
 一方、外側との自己同一化が不幸の原因となる。(p128)


苦しみの原因

 かぎりあるもの(ヴィヤクティートヴァ)との自己同一化だ。
 感覚のようなものは、いくら強烈であっても苦しみの原因にはならない。
 マインドが誤った観念にうろたえて、「私はこれだ、私はあれだ」と考える
 ことにふけるようになる。
 それが失うことを恐れ、得ることを熱望し、挫折したとき苦しむのだ。(p128)


偽物の神々

 あなたはずっと奇妙な、有害で偽物の神々に仕えてきたために、あなた自身
 を破壊してきたのだ。
 まったく利己的になるがいい。
 あなた自身によかれと願いなさい。
 あなたにとって良いことをしなさい。
 あなたと幸福の間に立ちはだかるものすべてを破壊しなさい。
 すべてで在りなさい。
 幸福でありなさい。
 楽しくありなさい。
 幸福よりも偉大なものはない。(p129)


苦しみ欲望

 すべての苦しみ欲望から生まれる。
 真の愛はけっして挫折しない。
 どうして統合の感覚が挫折をもたらすことができるだろうか?
 表現のための欲望は挫折しうる。
 そのような欲望はマインドのものだ。
 精神的なものすべてにとって、挫折は避けられない。(p129)


真の愛挫折

 すべての苦しみは欲望から生まれる。
 真の愛はけっして挫折しない。
 どうして統合の感覚が挫折をもたらすことができるだろうか?
 表現のための欲望は挫折しうる。
 そのような欲望はマインドのものだ。
 精神的なものすべてにとって、挫折は避けられない。(p129)


セックス

 は存在の状態だ。
 セックスはエネルギーだ。
 は賢く、セックスは盲目だ。
 ひとたびセックスの本質が理解されたならば、混乱や葛藤はなくなるだ
 ろう。(p130)




 なしにはすべてがだ。
 生命自体、がなければ有害となる。(p130)


恐れ

 あなたが恐れないとき、あなたはそのものなのだ。(p130)


愚かさの終焉(しゅうえん)

 (愚かさの終焉は)人においては――もちろんやってくる。
 いかなる瞬間にでも。
 人類においては――周知のように――長い年月の末にやってくる。
 創造においては――けっしてありえない。
 なぜなら、創造自体が無知の根本だからだ。
 物質自体が無知だ。
 知ろうとしないこと、そして知らないということを知ろうとしないこと、そ
 れがかぎりない苦しみの原因なのだ。(p134)


創造無知

 (愚かさの終焉は)人においては――もちろんやってくる。
 いかなる瞬間にでも。
 人類においては――周知のように――長い年月の末にやってくる。
 創造においては――けっしてありえない。
 なぜなら、創造自体が無知の根本だからだ。
 物質自体が無知だ。
 知ろうとしないこと、そして知らないということを知ろうとしないこと、そ
 れがかぎりない苦しみの原因なのだ。(p134)


物質無知

 (愚かさの終焉は)人においては――もちろんやってくる。
 いかなる瞬間にでも。
 人類においては――周知のように――長い年月の末にやってくる。
 創造においては――けっしてありえない。
 なぜなら、創造自体が無知の根本だからだ。
 物質自体が無知だ。
 知ろうとしないこと、そして知らないということを知ろうとしないこと、そ
 れがかぎりない苦しみの原因なのだ。(p134)


夢からの出口

 (夢からの)出口の必要はないのだ!
 出口もまたの一部分だということがわからないのだろうか?
 あなたがするべきことは、として見ることなのだ。
 
 どこであろうと、それが導くところ、それはだ。
 を超えていこうとする考えそのものが幻想なのだ。
 なぜどこかへ行かなければならないのか?
 あなたはただ世界というを見ているのだ、ということを悟りなさい。
 そして、出口を探すのはやめなさい。
 があなたの問題なのではない。
 問題は、あなたがのなかのある部分が好きで、別の部分が嫌いだというこ
 とだ。
 すべてを愛すがいい。
 あるいは何も愛さないことだ。
 そして不平を言うのはやめなさい。
 あなたがとして見たとき、為(な)すべきことはすべて為し終えたの
 だ。(p135)


夢の起源

 (夢が起こる理由の)すべては観念の戯(たわむれ)れだ。
 観念化から自由になった状態(ニルヴィカルパ・サマーディ)のなかでは、
 何も知覚されはしない。
 その根本となる観念が「私は在る」だ。
 それが純粋意識の状態を打ち破る。
 すると無数の感覚、知覚、感情、観念がその後に続いていく。
 それらの全体性が神であり、その世界なのだ。
 「私は在る」は観照者として残る。
 しかし、すべては神の意志で起こるのだ。
 
 (私の意志で、では?)
 
 またしても、あなたはあなた自身を神と観照者に分割した。
 それらはひとつなのだ。(p136)


根本となる観念

 (夢が起こる理由の)すべては観念の戯(たわむれ)れだ。
 観念化から自由になった状態(ニルヴィカルパ・サマーディ)のなかでは、
 何も知覚されはしない。
 その根本となる観念が「私は在る」だ。
 それが純粋意識の状態を打ち破る。
 すると無数の感覚、知覚、感情、観念がその後に続いていく。
 それらの全体性が神であり、その世界なのだ。
 「私は在る」は観照者として残る。
 しかし、すべては神の意志で起こるのだ。
 
 (私の意志で、では?)
 
 またしても、あなたはあなた自身を神と観照者に分割した。
 それらはひとつなのだ。(p136)


大金持ち

 私が大金持ちだとしたら、どんな違いをもたらすというのかね?
 私は私だ。
 ほかの何になれるというのだろう?
 私は貧しくもなく、金持ちでもない。
 私は私自身だ。(p140)


実際の体験

 私の実際の体験は何も違わない。
 違いは私の評価と態度にある。
 私もあなたと同じ世界を見ている。
 だが、同じように見てはいない。
 何も神秘的なことはないのだ。
 誰もが世界をその人自身の観念を通してみている。
 あなたが自分自身をこのようにあると考えるように、世界もあなたが考える
 ようにあるのだ。
 もし自分自身が世界から分離していると考えるならば、世界もあなたから分
 離して現れる。
 そしてあなたは欲望と恐れを体験するだろう。
 私は世界を私から分離したものとして見てはいない。
 だから望むものも恐れるものも、私にはないのだ。(p140-141)


評価と態度

 私の実際の体験は何も違わない。
 違いは私の評価と態度にある。
 私もあなたと同じ世界を見ている。
 だが、同じように見てはいない。
 何も神秘的なことはないのだ。
 誰もが世界をその人自身の観念を通してみている。
 あなたが自分自身をこのようにあると考えるように、世界もあなたが考える
 ようにあるのだ。
 もし自分自身が世界から分離していると考えるならば、世界もあなたから分
 離して現れる。
 そしてあなたは欲望と恐れを体験するだろう。
 私は世界を私から分離したものとして見てはいない。
 だから望むものも恐れるものも、私にはないのだ。(p140-141)


神秘的

 私の実際の体験は何も違わない。
 違いは私の評価と態度にある。
 私もあなたと同じ世界を見ている。
 だが、同じように見てはいない。
 何も神秘的なことはないのだ。
 誰もが世界をその人自身の観念を通してみている。
 あなたが自分自身をこのようにあると考えるように、世界もあなたが考える
 ようにあるのだ。
 もし自分自身が世界から分離していると考えるならば、世界もあなたから分
 離して現れる。
 そしてあなたは欲望と恐れを体験するだろう。
 私は世界を私から分離したものとして見てはいない。
 だから望むものも恐れるものも、私にはないのだ。(p140-141)


違いマインド

 私が私自身を私だと知っていること以外、私と他者の間にはどんな違いも絶
 対にない。
 私はすべてだ。
 私は確実にそれを知り、あなたは知らないのだ。
 
 違いマインドのなかにだけある。
 それも一時的なものだ。
 私もあなたのようだった。
 あなたも私のようになる。(p141)


多様性

 多様性はあなたのなかだけにある。
 あなた自身をあるがままに見なさい。
 そうすれば、あなたは世界をひと塊(かたまり)の実在、分割不可能な、描
 写不可能なものとしてあるがままに見るだろう。
 あなた自身の創造的力が画像をその上に投影したのだ。
 あなたの質問はみな、その画像に関係するものだ。(p141)


宇宙

 それらはみな一時的なものだ。
 私は永遠について語っている。
 神と宇宙は来ては去っていく。
 アヴァターラ(神の化身)たちは終わりなき継続性のなかでつぎつぎと現れ、
 最終的に私たちは源に帰っていく。
 私はすべてのと彼らの宇宙、過去、現在、そして未来の時間を超えた源に
 ついてのみ語っているのだ。(p141)


創造の根底

 すべての創造の根底には欲望がある。
 欲望と想像が互いを促進し、増強しあう。
 第四の状態(トゥリーヤ)は純粋な観照、無執着の気づきであり、醒めた、
 世界のない状態だ。
 それは空間のように、何であれそれが包括しているものに影響されない。
 身体的、精神的苦痛はそれに達しない。
 それらは外側の「底」にあり、一方、観照はつねに「ここ」にあるのだ。(p142)


主観客観

 主観客観もともに変化し、はかないものなのだ。
 それらには何の実在性もない。
 無常なるもののなかに永遠なるものを見いだしなさい。
 それはあらゆる体験のなかにある、ひとつの不変の要因だ。(p142)


妥協

 自己知識には明晰(めいせき)性と真剣さの両方が必要なのだ。
 あなたにはどんなに小さなことでも、日々の生活のなかで理解したことを誠
 実に適用することで成熟していくハートとマインドが必要となる。
 ヨーガには妥協といったものは存在しない。
 もしあなたが罪を犯したいのなら、全身全霊で、こそこそせずに罪を犯しな
 さい。
 誠実な聖者にとって徳がそうであるように、罪もまた誠実な罪人には良き戒
 (いまし)めとなる。
 その二つが混ざり合った状態がもっとも悲惨なのだ。
 妥協ほど効果的にあなたを妨げるものはほかにない。
 なぜなら、それは真剣さの欠如を表し、真剣さなしには何も為しえないから
 だ。(p142)


真剣さの欠如

 ヨーガには妥協といったものは存在しない。
 もしあなたが罪を犯したいのなら、全身全霊で、こそこそせずに罪を犯しな
 さい。
 誠実な聖者にとって徳がそうであるように、罪もまた誠実な罪人には良き戒
 (いまし)めとなる。
 その二つが混ざり合った状態がもっとも悲惨なのだ。
 妥協ほど効果的にあなたを妨げるものはほかにない。
 なぜなら、それは真剣さの欠如を表し、真剣さなしには何も為しえないから
 だ。(p142)


あなたマインド

 あなたは正直でも、不正直でもない。
 精神状態に名前を与えることは、あなたの容認、または否認を表すことくら
 いしか役に立たないからだ。
 問題はあなたのものではない。
 それはただあなたマインドの問題なのだ。
 あなたあなたマインドから分離することからはじめなさい。
 あなたマインドではなく、その問題もあなたのものではないと思い起こす
 ように堅く決心しなさい。(p143)


即座の結果

 熟考し、驚き、道を見いだすことを熱望しなさい。
 あなた自身を意識し、マインドを見守り、充分な注意を払いなさい。
 即座の結果を求めてはならない。
 あなたが気づく範囲内では、どんな結果もないかもしれない。
 知らぬ間に、あなたの精神状態は変化を遂げ、より慈愛の感情と行為の純粋
 さが見られるようになるだろう。
 それらを目的とする必要はない。
 あなたはそれらの変化を観照するだけだろう。
 なぜなら、現在のあなたは不注意の結果であり、あなたの変化は気づきの結
 果だからだ。(p143)


サットヴァ(しもべ)

 現在のあなたは不注意の結果であり、あなたの変化は気づきの結果だ。
 
 今まではあなたの人生は暗く(タマス)、落ち着かない(ラジャス)ものだ
 った。
 注意力、油断のなさ、気づき、明晰性、元気、活力はみな真の本性(サット
 ヴァ)とひとつであること、統合の現れなのだ。
 タマスとラジャスを中和し、調和させることはサットヴァの本質なのだ。
 サットヴァは自己の誠実な(しもべ)であり、つねに注意深く、従順だ。(p143)


自己の誠実な僕(しもべ)

 今まではあなたの人生は暗く(タマス)、落ち着かない(ラジャス)ものだ
 った。
 注意力、油断のなさ、気づき、明晰性、元気、活力はみな真の本性(サット
 ヴァ)とひとつであること、統合の現れなのだ。
 タマスとラジャスを中和し、調和させることはサットヴァの本質なのだ。
 サットヴァは自己の誠実な僕(しもべ)であり、つねに注意深く、従順だ。(p143)


注意

 注意を過小評価してはならない。
 それは関心であり、なのだ。
 知るため、行うため、発見するため、あるいは創造するためには、それにハ
 ートを捧げなければならない。
 それが注意力を意味する。
 あらゆる祝福はそこから流れだすのだ。
 
 分割されない注意を、あなたの人生のなかのもっとも重要なもの、あなた自
 身に与えなさい。
 あなたの個人的な宇宙の中心があなたなのだ。
 中心を知らずに何を知ることができるだろう?(p143-144)


鏡の反映

 鏡の反映にしか自分の顔を見ることができないように、あなたは汚れのない
 純粋な意識のに映るあなたのイメージしか知ることはできないのだ。
 
 (汚れのない鏡を得るのは)言うまでもなく、汚れを取り除くことによってだ。
 汚れを見て、それを取り除きなさい。
 古来の教えは完全に有効だ。(p144)


自分の顔

 鏡の反映にしか自分の顔を見ることができないように、あなたは汚れのない
 純粋な意識の鏡に映るあなたのイメージしか知ることはできないのだ。
 
 (汚れのない鏡を得るのは)言うまでもなく、汚れを取り除くことによってだ。
 汚れを見て、それを取り除きなさい。
 古来の教えは完全に有効だ。(p144)


完全な鏡

 完全な鏡の本性とは、あなたには見ることはできないということだ。
 何であれあなたが見ることができるものは、汚れであらざるをえない。
 それに背を向け、捨て去りなさい。(p144)


ジニャーニにとって

 彼(ジニャーニ=賢者)は生と死を超えている。
 私たちが避けることができない生まれ、そして死ぬということは、彼にとっ
 ては不動のなかの動、不変のなかの変化、永遠のなかの終焉(しゅうえん)
 という表現として見なされる。
 ジニャーニにとっては何も生まれず、何も死なず、何も続かず、何も変わら
 ない。
 すべては時を超えて、あるがままだということが明らかなのだ。(p151)


知識ジニャーニ

 知識は現れては消える。
 意識は存在のなかに立ち現れ、存在から立ち去る。
 それは日々起こる出来事であり、観察されることだ。
 私たちはみな、ときどき意識的であり、ときどきそうではない。
 私たちが意識のないとき、それは暗黒、または空白として現れる。
 だが、ジニャーニは彼自身が意識的でも無意識的でもなく、ただ純粋に気づ
 いていて、マインドの三つの状態*とその内容の観照者だと知っているのだ。
 
   ( *訳注 「マインドの三つの状態」:目覚め、夢見、眠りの状態。)(p151)


智慧非実在

 ジニャーニにとっては、はじまりも終わりもない。
 塩が水に溶けるように、すべては純粋な存在のなかに溶けていく。
 智慧とは永遠に非実在を否定していくことだ。
 非実在を見ることが智慧なのだ。
 その彼方には表現不可能なものがある。(p151)


意識のはじまり

 意識のはじまりに関して語ることはできない。
 時間とはじまりという観念は意識のなかに在るのだ。
 何であっても、そのはじまりに関して語るには、そこから外に足を踏みださ
 なければならない。
 そしてひとたび外に出れば、そのようなものはけっして存在していなかった
 ことがわかる。
 ただ実在だけが在り、そのなかにそれ自身として独立した存在を持つものは
 ない。
 波が海から分離することができないように、生きるものすべても存在に根づ
 いているのだ。(p151)


偽りの質問

 偽りの質問には答えられない。
 それはただ偽りとして見られるだけだ。(p152)


一時的な状態

 あなたの質問のどこが実在なのだろうか?
 それはマインドの状態だ。
 どんなマインドの状態も、マインドと同様実在ではありえない。
 マインドは実在だろうか?
 それはそれぞれが一時的な状態の集まりにすぎない。
 一時的状態の連続をどうして実在として考えられるだろうか?(p152)


未調査という糸

 「身体―精神」の存在という幻想がそこにあるのは、ただ、よく調査しなか
 ったからだ。
 未調査という糸にすべてのマインドの状態は連なっている。
 それは暗室の暗闇のようなものだ。
 一見、それはそこにあるように見える。
 だが、ひとたび扉が開かれたら、暗闇はどこへ行くだろうか?
 どこへも行きはしない。
 なぜなら、それはそこにはなかったのだ。
 すべてのマインドの状態、すべての名前と形のある存在は、未探求と未調査、
 想像と軽信のなかにその根を下ろしている。
 「私は在る」と言うことは正しいが、「私はこれだ、私はあれだ」と言うこ
 とは、探求せず、確かめずにいたこと、精神的弱さ、無関心の現れだ。(p152)


暗室の暗闇

 「身体―精神」の存在という幻想がそこにあるのは、ただ、よく調査しなか
 ったからだ。
 未調査という糸にすべてのマインドの状態は連なっている。
 それは暗室の暗闇のようなものだ。
 一見、それはそこにあるように見える。
 だが、ひとたび扉が開かれたら、暗闇はどこへ行くだろうか?
 どこへも行きはしない。
 なぜなら、それはそこにはなかったのだ。
 すべてのマインドの状態、すべての名前と形のある存在は、未探求と未調査、
 想像と軽信のなかにその根を下ろしている。
 「私は在る」と言うことは正しいが、「私はこれだ、私はあれだ」と言うこ
 とは、探求せず、確かめずにいたこと、精神的弱さ、無関心の現れだ。(p152)


真我を忘れる

 真我を忘れることが暗闇なのだ。
 真我ではないものごとのなかに没頭するとき、私たちは真我を忘れてしまう。
 それは不自然なことではない。
 しかし、なぜ過剰な執着のために真我を忘れることがあろうか?
 体験者と体験の両方の源である真我をけっして忘れないことのなかに智慧が
 あるのだ。(p152)


真我智慧

 真我を忘れることが暗闇なのだ。
 真我ではないものごとのなかに没頭するとき、私たちは真我を忘れてしまう。
 それは不自然なことではない。
 しかし、なぜ過剰な執着のために真我を忘れることがあろうか?
 体験者と体験の両方の源である真我をけっして忘れないことのなかに智慧が
 あるのだ。(p153)


サーダナ(修練)

 サーダナ(修練)は自己の純粋な存在を強いて思い起こさせることにある。
 何か特定の存在としてではなく、特定の存在の総計としてでもない。
 宇宙を構成する、すべての特定のものの全体としてでもない。
 すべてはマインドのなかに存在する。
 この身体でさえ莫大な数の知覚感覚の統合でしかなく、そのそれぞれもまた
 心理的状態にすぎないのだ。
 もしあなたが「私は身体だ」と言うなら、見せてみなさい。
 
 あなたがそれを想うときにだけあるのだ。
 マインドも身体も断続的状態だ。
 つかの間の記憶の総計が、存在しているという幻想をつくり出す。
 はかなきもののなかで何が永遠なのか、非実在のなかの実在を調べなさい。
 それがサーダナだ。(p153)


身体という観念

 あらゆる方法で自分自身を考えてみなさい。
 ただ、身体という観念をもちこんではならない。
 そこにはただ感覚、知覚、記憶、そして観念の流れがあるだけだ。
 身体とは抽象的観念であって、多様性のなかに統合を見いだそうとする私た
 ちの傾向にすぎず、それは何も間違ったものではない。(p153)


光のきらめき

 私にとっては、私はなく、人もなく、与えるということもない。
 すべてはマインドのなかの光のきらめきにすぎない。
 私は永遠の平和と沈黙だ。
 そのなかには何も現れない。
 なぜなら、現れるものはすべて消え去るからだ。
 誰も助けを求めず、誰も助けを差しだしてはいない。
 誰も救われてはいない。
 それらはすべて意識のなかの現れにすぎないのだ。(p155)


意識のなかの泡

 純粋なマインドはものごとをあるがままに意識のなかの泡としてみる。
 そのは現れては消え、それ自体実在を持たずにふたたび現れる。
 それらに何の特定の原因を帰することもできない。
 それぞれがすべての原因であり、すべてに影響を与えているからだ。
 それぞれのが身体であり、それらすべての身体は私のものだ。(p155)


創造力

 私から離れた力というものはない。
 それは私のなかに本来固有のものなのだ。
 創造力とも言えよう。
 ひと塊(かたまり)の金から多くの装飾品をつくり出すことができ、それぞ
 れがみな金として残る。
 同様に、私が何の役で現れ、どんな演技をしようとも、私は私として残る。
 「私は在る」は不動で、揺るがず、依存しない。
 あなたが宇宙、自然と呼ぶものは私の自発的創造性だ。
 何であれ、起こることは起こる。
 だが、すべては喜びのなかに終わるのだ。(p155)


自由

 人びとはを恐れている。
 彼らがを知らないからだ。
 ジニャーニは以前にすでにんでいる。
 彼は何も恐れるようなことはないと知っているのだ。
 あなたが真我を知る瞬間、何も恐れるものはなくなる。
 自由と力を与える。
 世界から自由となるためには、世界に対してななければならない。
 そうすれば宇宙はあなた自身のものとなる。
 それはあなたの身体、表現とその道具となる。
 絶対的な自由としてある幸福は、どんな描写をも超えている。
 その反対に、自由を恐れている人はぬことができない。(p156-157)


世界自由

 世界から自由となるためには、世界に対してななければならない。
 そうすれば宇宙はあなた自身のものとなる。
 それはあなたの身体、表現とその道具となる。
 絶対的な自由としてある幸福は、どんな描写をも超えている。
 その反対に、自由を恐れている人はぬことができない。(p156-157)


絶対的な自由

 あなたが真我を知る瞬間、何も恐れるものはなくなる。
 死は自由と力を与える。
 世界から自由となるためには、世界に対して死ななければならない。
 そうすれば宇宙はあなた自身のものとなる。
 それはあなたの身体、表現とその道具となる。
 絶対的な自由としてある幸福は、どんな描写をも超えている。
 その反対に、自由を恐れている人は死ぬことができない。(p156-157)


執着無執着

 執着は束縛であり、無執着が自由だ。
 切望することは奴隷となることだ。(p157)


束縛自由奴隷

 執着は束縛であり、無執着が自由だ。
 切望することは奴隷となることだ。(p157)


世界助け

 概して世界助けを必要としない。(p157)


過ち不幸

 人は過ちを犯して不幸となる。
 それが気づき、ジニャーニの意識が入ったとき、それは正される。
 それが彼の本性なのだ。(p157)


ひとりでに起こる@

 私の視点から見れば、すべてはひとりでに起こる。
 まったく自発的に。
 だが、人はある動機のために、目的に向かって働いていると想像する。
 彼はつねに見返りを考えて、そのために闘うのだ。(p157)


動機目的

 私の視点から見れば、すべてはひとりでに起こる。
 まったく自発的に。
 だが、人はある動機のために、目的に向かって働いていると想像する。
 彼はつねに見返りを考えて、そのために闘うのだ。(p157)


世界への興味

 存在の法則によって源へと戻る道を見いだしたとき、彼はすべてを放棄する。
 なぜなら、世界への興味はもはやなくなっているからだ。
 彼は何も欲しない。
 他者からも、彼自身からも。
 彼はすべてに対して死に、すべてとなる。
 何も望まず、何もしない。
 これが真の創造だ!
 自分のハートのなかで宇宙が現れては消え去るのを見ることは驚きだ。(p157)


真の創造

 存在の法則によって源へと戻る道を見いだしたとき、彼はすべてを放棄する。
 なぜなら、世界への興味はもはやなくなっているからだ。
 彼は何も欲しない。
 他者からも、彼自身からも。
 彼はすべてに対して死に、すべてとなる。
 何も望まず、何もしない。
 これが真の創造だ!
 自分のハートのなかで宇宙が現れては消え去るのを見ることは驚きだ。(p157)


今死ぬ

 努力が必要となるときは、努力が現れるだろう。
 努力を要しないことが本質的となったときは、それが現れるだろう。
 あなたが生を推し進める必要はない。
 ただそれとともに流れなさい。
 そして現在の瞬間の仕事に完全に自分を捧げなさい。
 それが現在において、今死ぬということだ。
 なぜなら生きることは、死ぬことだからだ。
 死なしに生はありえない。(p157-158)


生きる死ぬ

 あなたが生を推し進める必要はない。
 ただそれとともに流れなさい。
 そして現在の瞬間の仕事に完全に自分を捧げなさい。
 それが現在において、今死ぬということだ。
 なぜなら生きることは、死ぬことだからだ。
 死なしに生はありえない。(p157-158)


世界自分

 要点をつかみなさい。
 世界自分はひとつであり、完全なのだということを。
 誤りはあなたの姿勢にあり、そこに再調整の必要があるのだ。(p158)


必然的な成長

 要点をつかみなさい。
 世界と自分はひとつであり、完全なのだということを。
 誤りはあなたの姿勢にあり、そこに再調整の必要があるのだ。
 
 この再調整の過程があなたの言うサーダナだ。
 怠惰に終わりを告げ、明晰性と慈愛のためにすべてのエネルギーを使って道
 を整えることで、あなたはそこにたどり着く。
 しかし実際には、それらはすべて必然的な成長の兆候なのだ。
 恐れてはならない。
 抵抗してはならない。
 先延ばしにしてはならない。
 あなたのままでありなさい。
 恐れることは何もない。
 信頼し、試みなさい。
 誠実に試みなさい。
 あなたの真我に、あなたの人生を形づくる機会を与えなさい。
 けっして後悔しないだろう。(p158)


苦痛の終焉(しゅうえん)

 苦痛の終焉は快楽のなかにはない。
 あなたが自分を苦痛も快楽も超えたものだと、超然として屈することなく気
 づくとき、幸福を追求することはやみ、結果として悲しみも消え去る。
 なぜなら、苦痛は快楽のあとを追い、快楽は容赦なく苦痛に終わるからだ。(p164)


自由@

 私は自由だ、と言うとき、私はただ事実を告げているだけなのだ。
 もしあなたが大人なら、あなたは幼児であることから自由だ。
 私はすべての自己同一から自由なのだ。
 何であれあなたが見、聞き、考えるもの、それは私ではない。
 私は知覚の対象、あるいは観念としての存在から自由なのだ。(p170)


誕生

 繰り返そう。
 私は今までも、現在も、これからも身体ではない。
 私にとってはこれが事実なのだ。
 私もまた、生まれてきたという幻想のもとにいた。
 だが私のグルが、誕生はただの観念だということを私に見せてくれたの
 だ。
 誕生は「私は身体だ」というただの観念であり、は「私は身体を失った」
 という観念なのだ。
 今、私が身体でないと知ったとき、身体がそこのあろうと、なかろうと、い
 ったいどんな違いがあるというのだろうか?
 「身体―精神」は部屋のようなものだ。
 それはそこにある。
 しかし、いつもそこに住む必要はないのだ。(p170)


不安@

 なぜそんなにあなたは不安なのだろうか?
 なぜなら、あなたは自分が身体だと考えているからだ。
 あなたはそれが不滅であってほしい。
 適切な修練によって、かなりの時間人生を延ばすことはできる。
 だが、究極的にそれが何になるというのか?(p170)


あなた証明

 あなたあなたを含むすべての証明なのだということを、まず悟るべきだ。
 あなたの存在を証明できるものは何もないのだ。
 なぜなら、他者の存在もあなたによって確認されなければならないからだ。
 あなたは完全に、あなた自身によって在るのだということを覚えておきなさい。
 あなたはどこからも来なかったし、どこへも行かない。
 あなたは時間を超えた存在、そして気づきなのだ。(p178)


隙間

 これがあなた自身であるという考えを放棄しなさい。
 そうすれば隙間はなくなるだろう。
 自分自身を分離していると考えることで、あなたは隙間をつくり出したのだ。
 隙間を埋める必要はない。
 ただ、隙間をつくらないことだ。
 すべてはあなたであり、あなたのものなのだ。
 そこにはほかに誰もいない。
 これが事実なのだ。(p178)


洗脳ヨーガ

 問題はあなた自身についてあなたが持っている考えなのだ。
 なぜなら、それがあなたを妨げているからだ。
 それを捨て去りなさい。
 
 あなたは洗脳と呼び、私は轍を平らにするためのヨーガと呼ぶ。
 何度も同じ思考を思いめぐらすように強(し)いられてはならない。
 進みなさい。
 
 子どもみたいなことを言ってはならない。
 苦しむより変えることのほうが易しいのだ。
 幼稚さから脱却しなさい。
 それだけだ。(p178)


用意成熟

 すべてはつねに起こっている。
 だが、あなたはそれに用意ができていなければならない。
 用意のできていることが成熟なのだ。
 あなたが真理を見ないのは、マインドに用意ができていないからだ。(p179)


用意恐れ

 用意ができていないのは、恐れているからだ。
 あなたはあなたが何であるかを恐れている。
 全体性があなたの目的地だ。
 だがあなたは自己のアイデンティティを失うのが恐い。
 これが幼稚さだ。(p179)


用意

 用意ができていないのは、恐れているからだ。
 あなたはあなたが何であるかを恐れている。
 全体性があなたの目的地だ。
 だがあなたは自己のアイデンティティを失うのが恐い。
 これが幼稚さだ。
 あなたは欲望と恐れ、意見と観念というおもちゃにしがみついているのだ。
 すべてをあきらめ、真実がそれ自身を主張できるよう用意をしなさい。
 この自己主張は、「私は在る」という言葉にもっともよく表されている。
 それ以外何も存在をもってはいないのだ。
 これに関しては、あなたは絶対の確信をもてるはずだ。(p179)


目的地@

 用意ができていないのは、恐れているからだ。
 あなたはあなたが何であるかを恐れている。
 全体性があなたの目的地だ。
 だがあなたは自己のアイデンティティを失うのが恐い。(p179)


自己のアイデンティティ

 あなたはあなたが何であるかを恐れている。
 全体性があなたの目的地だ。
 だがあなたは自己のアイデンティティを失うのが恐い。(p179)


幼稚さ

 あなたはあなたが何であるかを恐れている。
 全体性があなたの目的地だ。
 だがあなたは自己のアイデンティティを失うのが恐い。
 これが幼稚さだ。(p179)


おもちゃ

 あなたは欲望と恐れ、意見と観念というおもちゃにしがみついている。
 すべてをあきらめ、真実がそれ自身を主張できるよう用意をしなさい。
 この自己主張は、「私は在る」という言葉にもっともよく表されている。
 それ以外何も存在をもってはいないのだ。
 これに関しては、あなたは絶対の確信をもてるはずだ。(p179)


絶対の確信

 あなたは欲望と恐れ、意見と観念というおもちゃにしがみついている。
 すべてをあきらめ、真実がそれ自身を主張できるよう用意をしなさい。
 この自己主張は、「私は在る」という言葉にもっともよく表されている。
 それ以外何も存在をもってはいないのだ。
 これに関しては、あなたは絶対の確信をもてるはずだ。(p179)


不動

 だが、あなたのマインドが動いている。
 現在のなかで、あなたはであり不動でもある。
 あなたはあなた自身をと見て、不動を見落としたのだ。
 マインドを裏表にひっくり返しなさい。
 を無視しなさい。
 そうすれば、あなたはあなた自身を常在で不変の実在、言語を絶する、しか
 し岩のように確固たるものとして見いだすだろう。(p179)


動を無視しなさい

 だが、あなたのマインドが動いている。
 現在のなかで、あなたは動であり不動でもある。
 あなたはあなた自身を動と見て、不動を見落としたのだ。
 マインドを裏表にひっくり返しなさい。
 動を無視しなさい。
 そうすれば、あなたはあなた自身を常在で不変の実在、言語を絶する、しか
 し岩のように確固たるものとして見いだすだろう。(p179)


不変の実在

 (あなた自身を常在で不変の実在である岩のようなものと気づかないのは)
 あなたがそれに気づかないという考えに固執しているからだ。
 その考えを捨て去りなさい。(p179)


壁の両側

 待ちなさい。
 あなたは同時に壁の両側にいることを望んでいる。
 それはできる。
 だが、を取り去らなければならないのだ。
 あるいはとその両側はひとつの単一の空間であり、そこに「ここ」と「そ
 こ」という観念は適応しないということを自覚しなさい。(p180)


あなた苦痛

 苦痛以前にあなたは存在し、苦痛が去った後もあなたは残る。
 はかないのは苦痛であり、あなたではない。(p180)


客観意識

 存在は意識に浸透し、そして超越する。
 客観意識は純粋な意識の一部分であり、それを超えることはないのだ。(p181)


「私は在る」C

 観照者だけが出来事を記録する。
 マインドの停止状態では、「私は在る」という感覚さえも消え去る。
 マインドなしに「私は在る」はないのだ。(p181)