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やれ。
そのプロセスが起きると、そして、時間が切れ始めると(記憶のない時間帯が出来始めると)他の人の世話が必要になるし、場合によっては、専門家の助けも必要になる。 そのプロセスの「気違いが表に出てしまった」側面から見ると、世話をする人たち(友人が望ましい)は「まとも」なのだけども、別の言い方をすると「気違いをまだ内に秘めている人たち」でもある。多くの場合「気違いを中にもう持っていない人たち」ではない。なにはともあれこの社会で線が切れずに仕組みの中でやってゆける人たち。 ある意味「気違いをまだ内に秘めている」部分でお互いにしんどくなる部分がある。これをしんどくならずに、やってゆける方法というのはないものだろうか? 例えば、私はその人がプロセスの間、しんどくならずに付き合える。しんどくなるどころか、元気になりながら付き合える。もし、そこに何か秘訣があるのならば、それを見てみたい。 一つのポイントは「おかしくなっている」事にある。一つの間違いは、その人はいつでも「おかしい」わけではないこと。 必要なのは、本当に「おかしくなっている」時にケアーが必要な事で、そうではないときは、それほどケアーは必要はない。 お互いの立場で見てみよう。
だから、一つはお互いに「おかしくも何ともない」時間帯を知っておくこと。 また、「おかしい時」とは先に言った「記憶の切れている時間帯」。そのときは「気違いが表に出ている」ので、そのケアーが必要。ケアーとは一つ、誰も(何も)物理的に傷つかない事。 また、「気違いが表に出ている」期間は、だんだんと減ってい来るはず。一つは「たまっていたゴミが消化されつくされる」。 その長さと、出方は、全く人それぞれだと思う。 ただ、プロセスが起きている間は「抑圧」がないので、「新しいゴミをため込む」事は起きていない。たまっていたゴミがあるに過ぎない。たまっていたゴミの圧力は段段と少くなってゆくし、出て来なくなってゆく。 また、「時間が切れている期間」があり、また、どのようなことを自分がしているかを、その人自信が知ることで、本人が自分のケアーをし始める。 だから、「まともになりなさい。こんな風にしなさい」と言うのは役に立たないけ。けれども…すごくシンプルな事「こんなことをさっきしていたけど、自分で知っている?」は、すごく役に立つ。 そして、お互いに「時間が切れなくなる事を一緒に待つ」ことに、専念しましょう。 そして、時間が切れていない時間帯は、ただ気楽に過ごしましょう。 時間の切れていないときには、このプロセスのポジティブな面が出ている。本人もそれを楽しむし、もし出来たら世話をしている人たちも、一緒に楽しんでほしい。 時間さえ切れていなければ、おかしく見えても、それは単なる「コンテキスト(立場?)」の違いで、まともだと思って構わない。
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プロセスを通じて、創造的になってゆく。絵を描いたり、詩を創ったり、歌を創ったり、それまでよりも、ずっと自然に(ある意味子供のように)いろいろな創作をする。 これはお互いに楽しめる事柄なので、楽しむ。世話をしている人たちも、「教えてもらうつもり」で接すると良い。 「おかしい人がやっている事は、何でもおかしい」的な接し方は、かえって逆効果だしケアーする側も疲れる。お互いに。 もし、「教えてもらう。分かち合ってもらう」ような接し方をする事が出来れば、それは、お互いにとって楽しい、充実した時間を持つ事になるでしょう。
言ってみれば、「時間が切れていなければ」その人は、私達、普通の人たちよりずっと健康だと思っても良い。 また、「だいじょうぶな時」でも、その人はとても、いろいろな側面で「敏感」になっている。 私達が気づきもしない事に、邪魔されたり振り回されたりする。 五感はともかく、六感も強くなる。だから、「何かに邪魔されている」のなら、その原因をなくすように、お互いに協力する。例えば、それはただ単に、水が切れてからからに乾いている鉢植えの木だったりもする。 |
ある日、突然、気が狂ったかのようになって、「水!」と叫び始めた。このプラントに水が欲しい!と暴れ始める…よく見れば、鉢の土が乾燥しきって、ひび割れている。水を渡すと、水を木肌に染み込ませるように丁寧に時間をかけてプラントに水を与え始めた。 |
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