その日の朝、起きてみると昨日までの体のだるさは嘘のように軽やかな感じがした。逆にいつもよりクリアな感じさえした。寝ぼけ眼に冷たい朝の風が心地よかった。どういうわけか私の何かの幕開けには序章のような出来事があって、昨日までの激しい吐き気やだるさは、まるで小さなパンチャカルマのようにも感じた。
ドクターの診断は朝の7時か8時頃からで、すごく人が並んでいると聞いていたので、少し早めに家を出ることにした。ドクターの診察室は私の住むコレガオンパークからリキシャで2,30分というところ。6時に起きてすぐに家を出た。
今の時期、まだ朝日は7時ころにならないと登らない。家を出て階段を下りる途中、マハがこれじゃぁ寒いなぁといって、1回家に帰って上着を取って来た。この時間は微妙な時間、リキシャもつかまるかわからないし、つかまったところでえらく高い値段を吹っかけられることもある。その時はそのままバイクで行くしかない。。。とマハは思ったらしい。
まず、リキシャがつかまりそうなところまでバイクで出た。幸いリキシャがいる。「デガンジンワリまでいくらだ?」と聞いたら、予想通りえらく高い値段を言ってきた。早朝割り増しだから仕方ないとは言え、すぐにマハは断った。そしてドクターの診察室まで向かいだした。
マハはバイクであまり遠出をするのが好きではない。。。そのあまりにも瞬時に断ったのに私は少し驚いた。
15分ほど走っただろうか、その間ずっと無言だったマハが「え〜と、どっちだったかな?」。。。(知っているのだとばかり思っていたのに。。。)
二手に分かれた道を勘に任せて走ったが、マハ、何か違う感じがしたらしく、道端の人に「JMロードはどこ?」と聞くと二手の逆の方だったことを教えてくれた。幸い大して走らないうちだったので何のこともなくコースに戻ったものの、その先もあいまいな記憶。マハも何年も前のことだったのと、診察室は少々わかりづらいところにあるらしいのだ。何もわからない私は、ただただマハの記憶に頼るばかりだ。
すると突然「ん?あそこかな?」吸い込まれるように薄暗い小道に入った。「やっぱり違うかなぁ」とつぶやきつつ、そのつぶやきにはさほどせっぱ詰まった感じがない。普段は人並み以上に言葉を発するマハなのに、なぜか今日は口数が少ないし穏やかだ。あんな不思議な出会いの延長のこと、ここはマハに任せておこう。。。
バイクが相変わらず吸い込まれるようにバイクを滑らせると「なんかここのような気がする」とバイクを止めた。暗闇の中で車を洗うウォッチマンがいる、「ここはサダナンダ先生に診察室?」「ちがうよ」。。。あらら、絶対ここのような気がしていたのに違うって。。。引き返そうかとバイクの向きを変えていると、さっきのウォッチマンが近寄ってきた。「ドクターの家だよ」「サダナンダ?」「いや、ちがう」「ワゴリのドクター?」「そうだよ」。ここでマハはようやく確信をもったようだ。「うん、ここだ!」
待合室に一番に入ったのは私たちだった。早めに出ていたので6時40分頃にはついていたのだろうか?
マハ「いや〜、すんなり来たね〜。絶対リキシャで来たら、道に迷ってなかなかたどりつけないと思ったんだよ。迷って迷って結局高く吹っかけられたらたまらんから、流れに任せて来ちゃったら、こんなにすんなり。。。何か階段を下りる時まだ決めてもないのに、バイクは寒いからなぁって思ったんだよ。」
私から見たら彼の行動は考えてされてることのように見えていたけれど、彼は何も考えずに直感のままここまで来ていたらしい。やはりこのドクターサダナンダとの間に起こることは、何かすべてシンクロニシティを感じずにはいられないのだ。。。
10分ほど後から続々と人が増えてきた、ようやく朝日も登りだし、あたりが明るくなりだしていた。
ドクターサダナンダ本人がドアのところで迎えてくれて診察室に入った。ドクターはそんなに大きくもなく白髪混じりな感じ。でも、お肌や、何か感じるエネルギーはとてもはりがあり、ものすごく静かなエネルギーに中に若々しい火が感じられるような気がした。そして少しも俗っぽさみたいなものを感じなかった。フレンドリーでもなく、冷たい感じもなく、それには威厳みたいなものを感じた。
診察室に入ると先生はすぐに私の左手の脈をとった。アーユルヴェーダでは自分で脈を見る場合、男性は右手の脈を、女性は左手の脈を診る。脈を診る腕の親指側から、人差し指・中指・薬指を同時に脈に当てる。このとき、どの指に最初に脈を感じるか、人差し指に感じたら、ヴァータが優勢、同じように、中指ならピッタ、薬指ならカパが優勢だということになるのだそうだ。ヴァータの脈の質感はくねくねと移動するヘビ、ピッタの脈はピョンピョン飛び跳ねるカエル、カパの脈はなめらかでしなやかな白鳥にそれぞれ例えられていることが多い。ただ、この脈をいかにうまくそして正確に診れるかというのがアーユルヴェーダドクターの腕なのだ。
ドクターは1分ほど、何度か指の位置を変えて頭をうなだれ目をつぶり、指先にすべての感覚を集めているようだった。すると、ふと頭を上げて、今この場に戻ってきたように(今までどこにいらしたの?まさか私の血液に乗って体内をご一周ですか?)深呼吸をして、ゆっくり語りだした。
「君は小さいときに強く頭を打ったことがあるね」「!?。。。はい、コンクリートに直に脳天から落ちたことがあります」これは本当で、小さいときから何かにつけて頭をぶつけることが多かった。子供の頃の話には、必ずといっていいほどちなみ話として頭をうった話が出てくるものだ。。。しかしいきなりの言葉がそんな質問で少々面食らい気味の私に続けてドクターサダナンダは淡々と続ける。
「そのときのショックでカラダとブレイン(脳)のつながりが弱くなっている。心臓と脳をつなぐ神経がだめになってしまった。君はそのことですっごくストレスを感じやすくなってしまった。本当はカラダはすごく丈夫で元気なんだよ。でもそのつながりがうまくいかないために、カラダが弱ってきてしまった。ストレスに過剰に反応しやすいことから、エネルギーを全部そちらに吸い取られて、カラダにエネルギーをうまく運んで上げられない。だから、君はどちらかといえば体は本当に健康なんだが、精神がものすごく疲れているようだね。」
詳しい通訳をマハにしてもらったところ、頭を強く打って神経をだめにしてしまったけれど、ぎりぎりのところで普通に生活できる程度の精神を維持できていてよかったね。。。というようなニュアンスだったようだ。(涙)
そしてさらに、「今のカラダの不調は2,3年前くらいから始まってるね」「!!」またしても驚き!!ドクターサダナンダ!そこまで言ったらサイキックだよ!脈診は過去ログも見れるわけ?体に刻まれたいろんなことがそんな3本の指で診れてしまうのね。。。「その通りです。」私は会社勤めの最後1,2年はほぼ毎月病院に通っていた。なんかしらの不調があって、いつも何か薬を飲んでいた。
「このカラダの不調はね、10年から12年前の間に起こったショックな出来事が、そのままトラウマとなって積み重なって出てきているものだよ。そのせいで恐怖がある。夜眠るときにそれはやってくる。何か思い当たる?」「夜なんだか怖いのはわかります、よく眠れなくなりますし、そのときの感情ははっきり意識してなかったけど、恐怖のように思います。でも。。。10年前の出来事は今はすぐには。。。」「いいよ、あとでゆっくり。。。」と、さほどその内容が重要ではないような感じで言った。
私は記憶力はいい方だけど自分の過去の記憶についてはどこかねじが弱いところがある。中学校や小学校の時の出来事などは、友人にいわれれば思いだせるけど、自分の中で思い出すことはほとんどない。自分の奥深くにしまってあるようだ。10年くらい前、高校か卒業してからくらいのころか。。。あとで思い出してみよう。。。
「だから、君のカラダは元気だよ。何か問題がある?」
「はい、左の下腹から骨盤の上辺りが常につったような痛みがあります。」そういうとベッドに横になるように言われ、ポイントを確認した。ドクターは「腎臓のポイントだね、そこから膀胱。これは慢性膀胱炎だね。これもすべてストレスからくる感情的問題。。。君は短気でしょ?」「。。。最近」自分自身ではそんなことはないと思うのだけれど、最近の精神的悪循環ははたから見れば短気?と聞けば「絶対!!」と答えられるのは間違いなかった。ドクターは私の手を思いっきり握ってみなさいといったので、握ってみると「ほら、手に熱がこもっているね」といった。
でも私の中では短気?熱?でも、それはピッタの質?という思いが横切った。
ヴァータ(vata)、ピッタ(pitta)、カッパ(kapha)と呼ばれるトリ・ドーシャ、アーユルヴェーダではそれぞれ私たちの心と体を動かす原動力となっていると考えられている。ヴァータとは風にたとえられ、活動・運動を生み出す機能、その力の性質は「軽と動」。ピッタは火に例えられ、消化や代謝を支配し、その力の性質は「熱と鋭」。カッパは水にたとえられ、細胞や身体の構造を制御し、その力の性質は「重と安定」となる。この3つのエネルギーがバランスして初めて、正常に生命機能が営まれると考えられている。
そのことから考えると消化・代謝機能の炎症。。。火=ピッタ?とも推測がつく。私は自分の体系や今までの性格からしてカッパだとばかり思っていた。しかし、ドクターに言われたここ2,3年の体調のことを、精神的ストレスと重ねてみれば、現在の自分はピッタが過剰になっていてもおかしくはないということに立ち戻った。
半年くらい前から人並み以上に多かった髪の毛が抜け出し、フケに悩んだ時期も1ヶ月ほどあった。。。。う〜ん、でもこのだるさやむくみ。。。重苦しさはカッパだと思うのだけれど。。。
「ドクター、私はカッパ?ピッタ?」
ドクターは鼻で笑うような顔で「プラクリティ (Prakriti=体質)」といった。私たちがいわゆる体質といったものはトリ・ドーシャの割合で決まるのだけど、アーユルヴェーダで体質という場合には、身体的・生理的な特徴だけではなく、精神的・心理的な特性や反応も含む。ドーシャは、心と体とを同時に動かす深いレベルで働く力をさすもののため「そんなに簡単なものではないよ(複雑という意味でもなく、もっと一人一人であるというような。。。)」みたいな感覚で言われた言葉だと受け取っている。。。
アーユルヴェーダの本当の名医は、数万種類にものぼる脈の組み合わせの段階を判断できるという。
ドクターの診断は決して学問として学んだ知識ではなく、単なるタイプわけでもなく、本当にその人個人のすべての生活、精神、肉体などのすみずみにわたって微妙なバランスを診きって断言してくれる、まさに信頼できる診断だった。これは生命の科学、そして私の中にその生命があることを本当に実感させてもらったような感じがした。その生命を本当に注意深く自分自身で観察して、その生命を自分のものとして生きていこうと思うのだった。
そして、ドクターが言った「プラクリティ」は「あなたの中にはすべてがあるよ」「そのままで完璧だよ」という励ましでもあったと今は思う。